文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.255

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)12月8日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.255

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 12/15 12/22 1/30 1/21

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

熊谷元一研究のススメ

 

12・8下原ゼミ

 

1.本日のゼミ → ゼミ誌について DVD観賞

後期前半ゼミ   冬休み前までのゼミ日程

 

12月8日、15日、22日

 

後期前半ゼミは、本日を入れてあと3日です。最終日は、振り替えの22日(月)です。

 

ゼミ雑誌『熊谷元一研究 創刊号』作成進行は…

 

ゼミ誌の入稿は、目下未定となっている。進行状況は、本日、判明か。

 

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12月6日(土)湯島天神(参集殿)にて「伊勢神宮と御遷宮」祭を聴く

講師は、岡山県護国神社宮司・奥西道浩氏(昨年まで伊勢神宮に禰宜として40年間奉職)。氏は、昨年、式年遷宮の造営責任者を務めたことから、今回、「日本を知る会」第68回特別勉強会に招かれ、20年に一度の御遷宮事業の裏話などを話された。また、多くの職人によって神殿が作られていく様子を映像で紹介された。左の写真は、豊受大神宮とようけだいじんぐう(下宮)

 

 

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熊谷元一研究    震災後の学校教育の手本として

 

戦後が終わり震災後がはじまった。新しい国づくりのための課題は多々ある。なかでも学校教育は、重要課題といえる。今日の国難を招いたのは、戦後教育の結果にあったと思うからである。66年前、軍国教育に代わって民主主義教育がはじまった。だれもが輝かしい未来を信じた。が、戦後の復旧・復興の喧騒のなかで、民主主義教育は、成果主義教育へと変貌した。成果主義教育がたどりついた最終点は原子力発電だった。経済と利便だけを求めた千年王国の支柱。だが、3月11日、福島第一原発事故で神話は脆くも崩れ去った。

原子爆弾を二個も落とされた国が、なぜ原子力に頼る国になってしまったのか。警鐘する教育も教師もいなかった。民主主義教育は、有名無実だった。それは今日においても、変わることがない。渇望されたゆとり教育の惨敗。理想の学校教育は、ただ塾教育の草刈り場となっただけだった。

今、震災後の教育を考えるとき、私は、ある小学校教師のことを思い出す。道標なき民主主義教育の創草期、その教師は、創意工夫の手作り教育で孤軍奮闘した。独善的で偏見を恐れぬ挑戦は、ときには批判され嘲笑された。

だがいま、戦後教育の失敗を教訓とするなら、その教師の手作り教育を顧みたい。そこに、本当のほんとうの教育があったような、そんな気がするからである。

昨秋、101歳で亡くなった写真家・童画家の熊谷元一氏は、生涯一教師だった。画家になることを夢見て生まれ故郷の教壇に立った。投稿の童画が入選したことで童画家としての道がひらけようとした。が、昭和8年、誘われて参加した会合が「教員赤化事件」として挙げられ、教職を追われた。しかし熊谷には、運があった。偶然手にしたカメラから写真の才能をのばした。昭和13年朝日新聞出版の『会地村』は高い評価を得た。熊谷は国の写真班嘱託となり満州にわたり満蒙開拓青少年義勇軍撮影の仕事についた。終戦時、36歳の熊谷の前には、二つの道があった。童画家と写真家の人生である。

しかし、熊谷が戦後の人生に選んだのは教職だった。復興する東京に背を向け故郷の山村に帰って小学校の教壇に立った。なぜ熊谷は、幼いころからの夢、絵の道に進まなかったのか。新しい時代の職業カメラマンにならなかったのか。語ることはなかった。

教師としての熊谷の活躍はめざましかった。得意の童画とカメラを駆使し、学校教育や村の記録に貢献した。反射幻燈や人形芝居作り、『農村の婦人』『一年生』などがそれである。

私は、昭和28年山村の小学校に入学した。担任は熊谷だった。故にその手作り教育を体験することができた。熊谷は、学校教育の常識を次々と打ち破り、自分流教育を実践した。授業中の写真撮影をはじめ、教師の聖域だった黒板の解放。空き教室のプラネタリウムづくりなどなどである。いずれも現在においても考えられない自由教育だった。

熊谷は、退職したとき、ようやく自分の夢だった絵を描くために上京した。亡くなるまでの44年間の東京生活は、写真と童画を描くためだけに専念した。故に訃報記事の紹介は童画家・写真家だった。熊谷は生前、自分の人生を三足のわらじを履いた人生に例えていた。が、教育者としての熊谷は希薄だった。村人も絵描きとしての印象が強い。

昨年暮れ、私は、熊谷の教師時代の遺品を目にした。一年生のときに子供たちが描いた絵や『こどもかけろよ ひのてるほうに』と題した文集。教室での子供たち一人一人の動きを一年間追った動線表や黒板絵の写真など自由教育の数々。そこに真の教育者魂をみた。

私は、はじめて熊谷がなぜ教師を選んだのか、わかった気がした。私の村は、満蒙開拓青少年義勇軍に多くの若者を送りだした村である。満蒙孤児来日に奔走した山本慈昭さん(1902-1990)もこの村の住職である。熊谷は、満州で開拓団の写真を撮った。が、被写体の現実に愕然とした。そして思ったに違いない。国民を救うのは、国策でも開拓精神でもな

い。教育にこそ未来があると。その信念が与えられた民主主義教育を活用したのだ。                   (「下原ゼミ通信」編集室)

 

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熊谷元一と一年生の写真

私は昭和28年に村の小学校に入学した。担任は熊谷先生だった。先生は一年間、私たちを写真に撮った。教室、校庭、廊下、通学路、家庭、等々。小学一年生の学校での一年間の生活すべてを記録した。

教育現場においての撮影。今日はむろんだが、当時も容易ではなかったはず。不可能を可能にしたのは、ひとえに子供たちと村人との深い信頼関係があってのことである。それだけに1955年刊行の岩波写真文庫『一年生』は、教育・写真界において金字塔といっても過言ではない。日本の貴重な宝である。

故に私たちは、写真集や写真展にたびたび登場し注目された。2001年『なつかしの一年生』(河出書房新社)。2007年『一年生』の復刻版などなど。2000年江戸東京博物館で開催された「近くて懐かしい昭和展」で一年生は、力道山や美空ひばりといった戦後のヒーローたちと並んで展示され人気を博した。昭和展は、その後も各地で紹介され今年2010年は山形県酒田市美術館でも開かれて好評だった。私たちは、日本一有名な一年生といえる。

そんなことで、よく「熊谷先生は、一日中カメラを手にしていたのですか」とか「撮られるのは慣れたでしょう」と聞かれたりする。熊谷先生は、常に写真機を携え四六時中シャッターチャンスを狙っていた。そのように想像するらしい。だが、私には、先生がカメラを持っていた記憶も、教室で誰かを撮っていた光景も思い浮かばない。貧しい時代でカメラは珍しかったはずなのに、なぜかカメラマンとしての先生は、抜け落ちている。先生は、いつどうやって写真を撮っていたのか。一年生の写真を見るたび、ときどき不思議に思ったりした。最近になってその謎が、少しずつわかってきた。

百歳になられてからか先生は、写真を撮ったときのことを不意に話されるようになったからである。いたずらっこが秘密をばらすように、「あれはなあ、こうやって撮ったんな」と、まるで昨日のことのように明かされた。それまで素人考えで、無闇やたらにシャッターを押していたのでは、そのように思っていたので恥ずかしかった。先生は、一枚の写真を撮るのに、計画し下見をし、アングルを決め、そうして、チャンスを待った。『一年生』に遠足の写真がある。先生は、前の日にコースを歩いて撮影場所を探したといった。教室では、手の届くところにカメラを置いておいて、これはと思ったとき、さっと撮影したという。被写体も、全員を公平に撮るよう心がけていたとのこと。それなのに、よく写された子もいる。そういった子は、たいてい勉強や運動が苦手なおとなしい子だったりした。私もその一人だった。

今春、先生宅を訪ねたとき、いつも疑問に思っていた写真のことをお聞きした。「せんせい、おしっこ」と題されている私と先生が写っている写真のことだ。だれが撮ったのか知りたかった。が、雑談しているうちに話が逸れてしまった。101歳を祝って開いたクラス会では、忘れてしまった。こんどお会いしたときでいいかと思った。が、永遠の謎となってしまった。

しかし、いまはそれでよかったと思っている。一年生の写真をみるたびに先生との対話がつづく、そのような気がするからだ。一年生の写真は、私にとって担任だった熊谷先生からの終生の宿題。そのように思えるのである。

「下原ゼミ通信」下原

 

 

 

 

 

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絵・熊谷元一

 

 2011年5月28日 阿智村公民館で行われた「熊谷元一先生を偲ぶ会」

第2部での口演の全記録です。

 

台本 熊谷元一先生の思い出

 

昭和28年度、会地小学校入学「28」会

 

口演・戸塚美代子  演出・原 佐代子  台本・下原 敏彦

 

持ち時間=五分  構成=映像を使っての口演(戸塚、原) 映像写真の指導(下原)

 

開始 挨拶と紹介

 

こんにちは

 

私たちは、1953年に会地小学校に入学しました。

昭和28年なので、卒業後は「28会」、あるいは「熊谷元一と28会」

の名称で、記念文集や同級会などの活動をつづけています。

本日は、この「28会」を代表して、わたくし戸塚美代子と原佐代子、下原敏彦で、熊谷先生の思い出を、お話しようと思います。

 

ちなみに、わたくし戸塚は駒場の上町出身で、東京に住んでいます。下原は曽山出身で、千葉県に住んでいます。原佐代子は、駒場の上町出身で、昼神に住み、現在、熊谷元一写真・児童館に務めております。

 

私たちは、運のいい教え子です。

熊谷先生は、ご自分の人生を三足のわらじをはいた人生

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そんなふうに、たとえられていました。

写真家として、童画家として。そして教師としての人生です。

 

私たちは、1年生のときにその三足すべての恩恵を受けることができました。

 

☆はじめに、写真家としての先生の思い出です

 

昭和28年という、まだカメラが珍しかった時代に、沢山の写真を撮っていただきました。それらは写真集として、出版もされました。

 

代表する写真集は、この岩波写真文庫『一年生』です。

 

こちらです  岩波写真文庫『一年生』

 

 

写真1 『一年生』の表紙

 

わたしたちの思い出が、いっぱいつまっている写真集

です。東京はじめ全国各地で開催された「近くて懐かしい

写真展」では、あの力道山や美空ひばりと並んで紹介され

ていました。現在、東京都美術写真館で代表作が展示され

人気を呼んでいます。これは『一年生』の思い出を象徴する写真です。

 

写真2 コッペパンをかじる   

 

当時、駒場の栄町にいた久保田君博敏君です。現在岐阜県に住んでいます。

うしろの牧島くんもパンをたべているので、給食があったのかと思われていま

すが、この日、二人ともたまたまパンだったそうです。

 

熊谷先生は、教室でたくさん写真を撮りました。でも、いついつシャッターをきら

れたのか・・・まったく記憶にありません。

 

写真3 授業中の風景 1 ~ 3枚

 

いまでは、ビデオやケイタイの普及で、だれもが簡単に撮影できます。しかし、教育現場での撮影は不可能です。それだけに、どれも貴重な思い出です。

 

写真文庫『一年生』は、28年に入学した一年生60名一人一人の思い出のアルバムです。熊谷先生が写真家だったことに感謝しています。

 

 

☆つぎに二足目のわらじ、童画家としての先生の 思い出です。

 

先生からは、絵を描く楽しみを教えていただきました。

先生は、はじめに黒板を解放してくださいました。学校の黒板といえば、教師の聖域です。イタズラ描きしたら怒られるのは当然、と思っていました。

ところが、ある日、熊谷先生は突然、

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「みなさん、黒板に自由になにか描いてもいいぞ」といわれました。

 

わたしたちは、信じられない気持でした。が、本当でした。わたしたちは、恐るおそる、教壇にあがって黒板に絵を描きはじめました。

これですね

 

写真4 黒板に絵を描く子供たち 

 

休み時間や昼休み、放課後、少しの時間でも描きました。ふしぎなことに

黒板のとりあいはなかったですね。

黒板絵は、授業がはじまれば、消されてしまう、はかない命です。

が、熊谷先生は、カメラで撮ることによって

永遠の作品にしてくださいました。

 

写真5 黒板絵 

 

1 ~ 3 枚 なかには独創的な、傑作もあります。

毎日、自由に黒板に絵を描いたおかげで、わたしたちは絵が好きになりました。上手にもなりました。その証明として、こちらがあります。

みんなで作った動物園の版画です。

 

写真6 動物園の版画 

 

この版画は、版画コンクールで日本一になりました。

わたしたちにとって、本当にいい思い出となりました。

これも熊谷先生が、童画家だったからです。ありがとうございました。

 

☆最後は、三足目の教師としての先生の思い出です

 

熊谷先生の教育は、観察教育だったように思います。教室の外にでて、自分の目で見、耳で聞き、手でさわっておぼえる。当時は、わかりませんでしたが、いま思うと、そんな自由教育を目指していたのではないかと思います。

 

写真7 郊外学習

 

こちらは、学校の裏山に行ったときの写真です。

 

春の山での写真

 

女の先生は西組の原房子先生です。

郊外学習は、いつも東組西組いっしょでした。

 

郵便局で電話をかける写真 

 

郵便局に電話をかけに行きました。このころ電話のある家は、

少なかったので、はじめての人が多かったです。

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写真8 室内の遊び

 

教室で、電車ごっこ、線路ごっこをしています。休み時間に遊んでいるのではありません。授業の一環として「ごっこ遊び」をやっているのです。

熊谷先生の教育は、これまでの学校教育の型を破る、自由な発想の教育でした。

写真9 けんかやいじめの写真  

 

ときどき、けんかやイジメがありました。

しかし、熊谷先生は、とめようとしませんでした。

熊谷先生は、いつのまにかカメラを手にしているのです。

そうするとふしぎとけんかやイジメは、おさまったんです。

 

写真10 そうじの写真 

 

熊谷先生の教育は、なんでも面白いぞ、と思うことでした。その気持ちがあったので、おそうじの思い出も、楽しい思い出となっています。

 

写真ⅠⅠ 熊谷先生の笑顔

 

どんなにつらくても笑顔を忘れないこと。そんなことを教えてくれている先生の笑顔です。この笑顔こそ、なによりの教育でした。

先生、楽しい教育をありがとうございました。

 

写真12 28会の写真、(昨年の28会)

 

写真で、童画で、教育で。熊谷先生は、わたしたちに、本当にすばらしい思い出を残してくださいました。

 

それら思い出のなかで、一番の思い出は、この28会の同級会です。

 

昨年まで、東京で開くときは、必ず顔を出してくださいました。

この写真が、熊谷先生とわたしたちの最後の思い出です。

 

今日、夕方、昼神で同級会があるのですが、「おれは、まだ元気だ」と笑って出席されるような気がしております。

熊谷先生との思い出は、つきませんが、おわりとします。

ありがとうございました。

 

ニュース  2014・12・7 読売新聞 くらし / 家庭

 

日曜の朝に 満蒙開拓団の悲劇 語り継ぐ

 

この12月14日、東京で完成試写会が行われ、目下各地で上映されている、映画

「望郷の鐘」についての記事。

 

山田火砂子監督 内藤剛志主演 現代ぷろだくしょん

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下原ゼミⅡ日誌

 

ゼミ生=村田、西尾、岩澤、関、渡辺

 

□ 9月22日 参加、村田君 『地下室の手記』「ぼた雪」について

□ 9月29日 参加、村田君 『にんじん』家族観察、ゼミ誌について

□10月 6日 台風18号直撃で休講。振り替えは12月22日(月)

□10月20日 『黒板絵は残った』編纂

□10月27日 村田君から電話連絡(風邪) 西尾さんは不通、

□11月10日 電話・村田君、事務室報告「熊谷元一研究」を預ける

□11月17日 電話・村田君、ゼミ誌相談。

□11月18日 池袋の店でゼミ誌編集打ち合わせ。村田君。

□11月24日 事務室から電話、村田君、入稿予定。28日に設定。

□12月 1日 DVD観賞

□12月 8日

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掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日  2014年12月13日(土)

時 間  午後2時 ~ 5時

会 場  池袋・東京芸術劇場小会議室7

作 品  『罪と罰』

 

ドストエーフスキイに興未ある人、歓迎です。作品を読んでいても、まだ読んでなくても可。一緒に全作品を読んでいくのが目的です。現在5サイクル目

 

・・・・・・・・・・・・・・「下原ゼミ通信」編集室・・・・・・・・・・・・

 

投稿、受け付けます。創作、エッセイ、評論など可。枚数が多いときは、連載になる場合があります。下記のメールアドレスにお願いします。

 

土壌館編集室 TEL:047-475-1582 09027646052メール: toshihiko@shimohara.net

 

下原と熊谷元一

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