文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.258

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)1月19日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.258

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 12/15 12/22 1/19 1/26

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

熊谷元一研究のススメ

 

1・19下原ゼミ

 

 

1.本日のゼミ → ゼミ誌について NHK番組DVD観賞

 

謹賀新年・2015

 

ゼミⅢのゼミ誌『懐古』が完成

 

祝 ゼミ誌刊行

 

ゼミⅢのゼミ誌『懐古』が完成しました。新年と併せておめでとうございます。

山椒は小粒でも――。頁数は少ないですが、読みやすい印象深い構成になっています。加えて、熊谷元一について、もっと知りたい、自分の子ども時代が懐かしくなった。そんな気持ちを喚起させます。これからの研究に期待をもたせる一冊です。本誌内容は以下です。

 

・ゼミ誌『懐古』に寄せて…下原

【回想録】岩波写真文庫『一年生』

・「熊谷元一」とは誰か…下原

・「小学校入学」…南海、齋藤、嶋津

・「担任の先生」…南海、齋藤、嶋津

・「授業について」…南海、嶋津、齋藤

・「喧嘩について」…南海、齋藤、嶋津

・「遊びについて」…南海、齋藤、嶋津

【観察録】テキスト志賀直哉作品

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青春回顧創作ルポ 「書くこと」の習慣化  推敲中

 

アプサラの微笑

下原敏彦

 

我が家の居間の壁に一枚の表装絵が掛かっている。クメールの踊り子アプサラの拓本絵である。一九六八年頃であったか、いまは亡きK先生夫妻がアンコールワットに旅した折り、土産にいただいた拓本絵である。先生と奥様は、その絵を二枚、買ってこられた。私が知り合いの建具師に表装を依頼し一枚は、鵠沼の先生宅の応接間に、もう一枚は我が家の居間に飾られることになった。

その後の内戦でアンコールワットの多くの像が破壊された。拓本されたアプサラ像は無事だったろうか。うちつづいた内戦の間、先生宅で我が家でアプサラを見るたびにその安否が気遣われたものだ。そうして、平和がおとずれた今日、アンコールワット修復作業の報に喜びながらも、こんどは、鵠沼の先生宅の応接間にあったもう一枚のアプサラのことが気になってならない。あの額のアプサラは、いまどこにいるのだろうか。その行方は知れぬが、探し出してみたい気もするのである。

アンコール王朝の盛衰はもとより、先生ご夫妻の身に起きた悲劇を。クメールの移りをみてきた彼女。あの日、先生宅でなにがあったのか。彼女だけが知っている。そう思えてならないのである。

 

あの年の9月15日午後四時ごろ。羽田空港は国際線、国内線入り乱れての離発着する飛行機でラッシュのさなかにあった。そのなかにジャンボ機のあいだをぬうようにして一機のセスナ機がダッチロール状態で滑走路にたどりつこうとしていた。青ざめる管制官。空港に鳴り響く緊急警報。走り出す消防車。が、セスナ機は無事におりた。かけつけた緊急隊員たちが目にしたものは、顔面血みどろになって操縦席にうずくまっていた操縦士と、同じように血だらけになっていた同乗者だった。傷だらけの二人は、助かったという思いからか、ぼう然自失の体で座っていた。セスナ機の機内でなにがあったのか。病院で語られた出来事は驚くべきことだった。捜査員に話したのは

「前より予約のあった老夫婦を乗せた。伊豆半島沖で突如、老夫婦が襲ってきた。武器はカミソリだった。激しく抵抗すると、老夫婦は自分でドアを開け、九月の海に飛び降りていった。」というものだった。

密室の、それも空の上で起きた事件ということもあって、事件は大々的に取り扱われた。そして、その特殊性に加え、老夫婦の身元が判明するに至り、事件はよりセンセーショナルに報じられた。マスメディアのかっこうの材料となった。テレビ、週刊誌でセンセーショナルに報じられたが、結局は商売に行き詰まった貿易商夫婦の無理心中事件として終わった。

「――さん、――さあん」

階下から大家の女将さんが呼んでいる声がする。のぞくと深刻顔で

「とっちゃんと呼ばれる人、うちにいますかねえ」と聞いてから言った。「二三日前から℡がかかってきてるけど、わかんなくて」

「とっちゃん、ですか。ぼくかも」

「えっ、――さんだったの。ああよかった。いたずらかもと思ってた」

女将は、ほっとしたように胸をなぜおろしてから、こんどは不安げに恐ろしげに

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「警察とかなんとか言ってましたが・・・」

ああ、あのことで。とっさに私は察して

「わかりました」とうなずいた。

が、女将は、納得するものでない。心配そうな怪しむような、それでいて是非、知りたいといった複雑な顔で立っている。しかたなく私は

「知り合いが、事件というか事故で亡くなったんで、それで話を聞きにくるんじゃないんですか」と説明した。

女将さんは、まだなにか聞きたそうであったが、私が部屋を片づけ始めたのであきらめて下りていった。

一時間後、二人の刑事が私の六畳間にやってきた。一人は三十前後、もう一人は五十前後といったところか。名刺に羽田警察外事課とあった。

「いや、羽田からきたものですから、お待たせして申し訳ない」

年上の刑事は詫びた。が、私はなぜか二人は立川にいて、すぐちかくにある立川警察か、どこからか電話をかけてきたように思った。

若い刑事は、同じくらいの年齢で興味をもったのか、部屋を眺め回して

「ここ一部屋ですか」ときいたあと、ものめずらしそうに部屋のなかをながめまわしていた。壁際に本が積んであるだけで、他に何もない。不思議に思ったのだろう。「お仕事はなにを」

「いまのところはなにも」

私は答えた。いまでいうフリーターの私は防水工事の仕事で、塗装職人の親方について東北地方をまわっていて、岩手から帰ったばかりだった。シンナーのにおいが体にしみついていて、若い刑事は、それを怪しんだのかも知れなかった。

「しかし、そうですか」まだなにか質問したそうな若い刑事を遮って年上の刑事が

「田所さんのことについて、ききたいんですが」といった。

「無理心中だったんでしょ。新聞にはそう書いてありました」

「まあ、それはそれですから・・・」年輩の刑事は曖昧に言った。

「原因、わかったんですか」

「いや、関係者全員の調書をとってから結論をだそうと思いましてね。こうして回っているわけですよ」

「関係者全員ですか。ぼくなんか、関係者のなかに入りませんよ」

「それは、わたしどもがきめることですから」

若い刑事は気色ばんだ。

「なんでもいいんです。知っていることを全部話してください。」

年輩の刑事がおだやかな口調でいった。

私は言葉に窮した。田所先生について、知っていることをなんでも話せといわれても、私が、知っているのは、ときどき先生宅を訪問したとき垣間見る先生の日常生活の断片ぐらいでしかなかった。そのなかに事件を解明できる糸口があるというのだろうか。私は田所先生ご夫妻について、なにを知っていたのだろう。かっての会話を思い出し散らばった記憶の切れ切れを集めてみた。

田所先生は、上州のある城下町で明治43年に生まれた。家は代々、その藩の城代家老の家柄であった。東大時代に書いた論文「金融論」が評価されて、経済学者として出発。満州国の経済顧問として活躍。辻正信大将に意見して怒鳴られたエピソードも聞いた。関東軍を南下させるのに苦言を呈したというのだ。

「満州の同胞はどうなるんです。ソ連は攻めてきますよ。」

「馬鹿者!ロスケなんぞ放っておけ」の一喝だった。

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「結局は、満州はあんな悲惨なことになって。おどろくは、その辻が、代議士となって復活したことだ。」先生は過去の話になるといまいましそうにはき捨てていた。

田所良一は戦後四十何歳で故郷S市の市立S経済大学の学長に就任した。史上最年少の学長として話題を呼んだ。身長百五十五センチ、体重八十キロ。ウエストはゆうに一メートルを越す文字通りの短くの体であった。が、禿げあがった人の二倍はありそうな大きな顔、眼鏡の奥から発する鋭い眼光は、身体以上にみせていた。達磨大師を連想させた。葉巻が好きで常にくわえていたところから、葉巻ダルマの異名をとっていた。彼は学長としての手腕を発揮した。いろんな改革をおこなった。その結果、一地方の新規大学は名実ともに誇れる大学となった。経済ならここに学べ。全国から大勢の学生たちが第一目標に掲げるまでになった。

学長室の窓から、だんだら坂を上ってくる数人の男たちがみえた。あつらえの背広を着た恰幅の良い紳士ばかりだ。このまちの有力者たちである。

田所は、葉巻の煙りをくねらせながら、一行を見下ろすともなく眺めていた。もう腹は決まっていた。さきほど押しかけてきた学生運動の代表者らと面会したばかりだった。この大学もご多分に漏れず、全国に広がりつつある大学紛争の火種がくすぶりはじめていたのである。

「なんだね、きみたち。」

異形と、鋭い眼光に押されて学生たちは、一瞬たじろいだが、持参の直訴状をつきつけ

「ぼくらは断固闘います。このまえの回答を」

以前提出されたいくつかの「学園民主化のための要求」。そのなかに最重要課題として即刻、この春から改定を迫る項目があった。

市在住学生の推薦枠の即刻廃止である。市立とはいえ卑しくも公立大学である。この地の人間だからと優遇するのは、教育の公正さにはなはだかける。受験生を平等にみろという学生たちの訴えは最もなことだ。しかし、大学側に立てばのめない提訴である。学長就任の折りにもそのことは、自分も了承した。おかしなことはおかしい。そう提訴し、一歩もゆずらぬ学生たちの真剣な眼差しに、はるか昔、関東軍の無策を批判した若き自分と重なったのである。

「学長、市長と市議会議員の皆様がおみえです。」

秘書の塚本女史が困り顔で伝えにきた。

「わかった。いまいく。」

応接室には市長、市議会議長をはじめ、このまちの有力者、お歴々が、厳しい顔で待ち構えていた。田所が入っていくと、私立高校の経営者でもあり、政界の大物代議士の後援会長でもある金満家が、まっさきに怒鳴った。

「学長、どういうことですか。推薦枠の廃止とは」

「市立ですから市在住の生徒を優先に合格させるのは当然じゃないですか」

「ここまでに大学を高めた手腕は認めるが、市在住の子弟を入学させる。それくらいの郷土愛があってもいい。」

田所は葉巻の煙りをゆらしながら黙していた。紳士然とした輩がそれぞれの意見批判を言い終えたとき、その大きな顔をゆっくり動かし、彼ら一人一人を射るように眺めてから言った。

「皆さんは、この大学を私に任せるとき何といいました」田所はゆっくりと、言った。「いい大学にして欲しい。たしかそんな要望だった。市長さん、そうですよね」

「はい、たしかに」

「だから廃止するんですよ。」

「学生に味方するのか。」

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「馬鹿者!学校をよくするのに、味方もヘチマもあるものか」

怒鳴り声は、窓ガラスを揺らせた。

気迫に押されて、反撃するものはなかった。彼らはすごすごと引き上げていった。

「議会にかけますから」が議長の最後の抵抗だった。

しんとした応接間で一人椅子に背をもたせ葉巻を吸っていた。

「大丈夫でしょうか」

「なにが」

「皆様、すっかりおびえて」

「ふん、自分のことしか考えない連中だ」

「どうなるんです」

「うーん」居れないだろうことはわかった。廃止の権限は自分にある。

田所は学生たちの要求をのんだ。そのことにたいして市の有力者たちは公然と嫌がらせをはじめた。怪文書がとんだ。意に介さなかったが、結局は、大学を辞さなければならなくなった。そして、先祖伝来の地からも。田所は家屋を処分し、東京中野のマンション住まいをはじめた。喜んだのは夫人の君子だった。君子は東大時代、タイピストとして研究室に臨時に働きにきていたところを見初め、強引に求婚した。当時、彼には料亭の女将をしている愛人がいたが、別れることが承諾の条件だった。

 

浪人の身となった田所。辻が東南アジアを目指したように皮肉にも彼もまたインドシナに向かわせた。世界の目がインドシナにあったからだ。南下するソ連。北爆を開始したアメリカ。戦火が広がるインドシナ。サイゴンに降り立った田所はおもった。民衆との離反を肌で感じたのだ。

「アメリカは勝てないな」と。同時に、南下する共産勢力を、かって満州で経験したソ連南下の恐怖を感じるのだった。隣国の国王シアヌーク殿下に興味を抱いた。このインドシナにあって中立を貫きアメリカに一歩もひけをとらない。

当時鎖国状態にあったカンボジアにはタイ、バンコックから空路で入るしかなかった。

経済学者の田所は経済企画庁長官ソンブンコンと会う。ソン・ブン・コンは将来を嘱望されたこの国の若きエリートだった。王室の血もひいている。フランスに留学。美人のフランス女性と結婚。

「この国に経済なんてものはありません」

シアヌーク殿下を独裁者として公然と批判した。

「平和ではないか」

「平和?!それがなんです」

「もし日本で、アメリカ人が主人で、中国人や韓国人が召使。日本人は、家もなく道路でねる人々だとしたら、あなたそれでも平和といえますか」

「このカンボジアが、まさにそうです。一握りの王室関係者が政治と称して国会を晩餐の場とし、中国人は店を経営し、ベトナム人がお金を勘定し、この国の国民は、いったいどこにいるとおもいます。よければ床そうじかシクロの運ちゃん。おおかたの国民は道路で寝起きしている。こんな国いいと思いますか。なにが立派な指導者ですか」

シアヌークにかみつき、怒鳴りつけられた長官を田所は若き日の自分に重ねるのだった。

ソ連国境に捨て置かれる同胞をどうする。

田所はソン・ブン・コンの経済顧問となる。

突然、現れ、大使館になんの相談もなしに、この国の最重要ポスト経済企画大臣になった田所に日本大使館は、大使をはじめ怪しんだ。

「彼は何者か」外務省に打診してもわからなかった。

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だが、その謎はすぐに判明した。大使が公務で帰国した折り、ある晩餐会があった。出席した大使に、ときの佐藤総理が近づいてきた。戦後歴代総理のなかでも群を抜く実力者。その彼がギョロ目を光らせて向かってくる。東南アジアの小国の大使のところに。力石は緊張した。佐藤栄作は、笑みを浮かべていきなり聞いた。

「田所君は、元気にしてますか」

突然のことで呆然となる大使に首相は訝しんで

「きみはカンボジアの大使ですよね」と、聞いた。

「は、はい」力石は、あわてて頷きながら、恐る恐るたずねた。

「田所氏とお知り合いですか」

「兄貴の親友だが、私も友人だよ、きみ」首相は、笑顔のなか一瞬鋭い眼光で言った。「佐藤がよろしくといっとったと伝えてください」

力石大使は大汗をかいた。兄貴、即ち岸信介前総理の盟友でもあるのだ。一刻も早くプノンペンにもどらねば、と思った。

プノンペンでの力の差は逆転した。特派員たちも、自然、大使館よりも田所のところに集るようになっていた。しかし、田所のことは依然として謎だった。彼はなぜプノンペンにいるのか。解けぬ謎だった。

その謎が解けたのは、カンボジアに無血クーデターが起きた後だった。元首シアヌーク殿下が外遊中に、謀反を起こし政権の座についたのは、米国陸軍士官学校帰りのロンノル将軍だった。長いこと鎖国状態にあったカンボジアは開国してクメール民主共和国となった。そして、アメリカと国交回復した。とたんアメリカ軍のカンボジア領内での爆撃がはじまった。米軍は、北ベトナムからカンボジアを経由してくる補給路に悩まされていたのだ。国交断絶状態では、爆撃はできなかったが、

 

 

 

熊谷元一研究

【教育編】  熊谷元一の教師としての年譜

 

絵・熊谷元一

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1930年(昭和5年)21歳 長野県伊那谷智里村にある智里東小学校に代用教

として勤務。学校教育の第一歩。

 

この時代の熊谷の将来の夢は、「絵描き」だった。が、東京美術学校図案科に失敗

し、隣り村の智里東小学校に代用教員として勤めはじめる。勤めながら童画家・武井武雄の指導を受けて童画に目覚める。「コドモノクニ」へ投稿をつづける。

 

1932年(昭和7年)23歳 飯田市の市田小学校吉田部校に転勤。

 

1933年(昭和8年)24歳 2月赤化事件に巻き込まれ市田小学校退職

 

拓務省 後の大東亜省の嘱託。中国に渡り満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

1945年(昭和20年)36歳 6月大東亜省退職。故郷の会地村に帰る。

智里村智里東青年学校に勤務するも7月22日応召

10月敗戦で智里村智里東国民学校復帰、5年生担任。

 

このとき担任した5年生と後に『うちじゅうみんなカボチャいろ』(1991)

『一年生のとき戦争が始まった』(2005 農文協)を出版。

この時代の教師としての活動は、人形芝居を作り、児童や村人に見せた。

 

1949年(昭和24年)40歳 4月 会地村会地小学校に転勤。

 

自宅のある会地村の小学校に勤務してから、一時中断していた写真撮影をはじめる。被写体は村人。主に婦人、こども。

 

1953年(昭和28年)44歳 会地村会地小学校一年東組を担任。教室、学校での子どもたちの様子を一年間撮影する。版画指導も。

 

この年、読売版画コンクールで、一年生7人共作の「どうぶつえん」が日本一と

なる。黒板絵の撮影。一年~三年まで。

 

1955年(昭和30年)46歳 3月 岩波写真文庫『一年生』出版。9月『一年生』第一回毎日写真賞受賞。

 

10月NHK第一放送「明るい茶の間」で奥様と対談。伊那谷の開拓地の写真撮影。

 

1960年(昭和35年)51歳 伍和村伍和小学校へ転勤。

 

1966年(昭和41年)57歳 伍和村伍和小学校退職。

熊谷は、教師退職後、東京清瀬市に住まいを移す。本格的に夢だった絵を書くこと

に専念したい。

 

 

 

 

 

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掲示板

 

ドストエフスキー関連

 

東京ノーヴイ・レパートリーシアターからのお知らせ

 

東京両国シアターX JR両国駅徒歩5分 1000円

 

2015年の『白痴』公演

 

1月21日(水)18:30 ~   全席自由

 

4月16日(木)18:30 ~   全席自由

 

5月18日(月)18:30 ~   全席自由

 

6月 3日(木)18:30 ~   全席自由

 

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日  2015年2月21日(土)    時 間  午後2時 ~ 5時

会 場  池袋・東京芸術劇場小会議室  作 品  『罪と罰』2回目

 

月 日  2015年4月18日(土)    時 間  午後2時 ~ 5時

会 場  池袋・東京芸術劇場小会議室  作 品  『罪と罰』3回目

 

ドストエーフスキイに興未ある人、歓迎です。作品を読んでいても、まだ読んでなくても可。一緒に全作品を読んでいくのが目的です。現在5サイクル目

 

 

・・・・・・・・・・・・・・「下原ゼミ通信」編集室・・・・・・・・・・・・

 

投稿、受け付けます。創作、エッセイ、評論など可。枚数が多いときは、連載になる場合があります。下記のメールアドレスにお願いします。

 

土壌館編集室 TEL:047-475-1582 09027646052メール: toshihiko@shimohara.net

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