文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.261

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)4月27日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.261

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

4・27下原ゼミ

 

 

4月27日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.2015年の旅無事祈願で写真、連絡(ゼミ合宿など)

 

2.「読むこと」「書くこと」 熊谷元一研究について

熊谷元一研究の一環、『黒板絵が残った』が新聞記事に!!

 

下原ゼミは、一昨年から「熊谷元一研究」をすすめている。本年度は、前回4・20ゼミからゼミ誌『熊谷元一研究2号』の刊行に向けて動き出している。同研究の一環として現在写真集『黒板絵は残った』の編纂をすすめているが、先日の25日、「黒板絵」のことが新聞にとりあげられた。これにより黒板絵写真集の刊行が注目されそうである。

なお、『黒板絵は残った』の熊谷元一写真展は、江古田校舎アートギャラリーで6月2日から16日まで開催される。写真集の刊行は5月末までに。下原ゼミ協力。

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2015年4月25日(土)読売新聞 「時の余白に」 編集委員 芥川喜好

 

無心という時間があった

 

「無心の自分に会えたということですね」下原敏彦(本文から)

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4・20ゼミ報告

 

4・20ゼミの参加者は以下の皆さんでした。(黒字は確定4・20現在)

 

蓮子あゆみ(はすこ あゆみ)さん 「書くこと」の習慣化を身につけます。

 

大島賢生(おおしま けんせい)さん テーマに魅力を感じました。

 

中野資久(なかの もとひさ)さん  協力します。

 

須川藍加(すがわ あいか)さん   雑誌、作りたいです。

 

ゼミ誌編集委員選出 編集長・蓮子あゆみさん

副編集長・大島賢生さん

編集委員・中野資久さん

編集委員・須川藍加さん

 

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4・20初日ゼミは、4名の参加者(うち1名は考慮中)

初日ゼミは、3名参加でスタートした。遅刻1名で総勢4名となった。が、1名考慮中でなお流動的。3名ゼミの可能性も残った。昨年度につづき少数精鋭のゼミとなりそうだ。

熊谷元一という知名度の低い人物の研究を掲げたことが受講者減の要因となっているかも。

何事も先陣は厳しいものである。が、これからの日本の教育にとって、熊谷元一研究は、必ず役立つはず。それを信じてすすめて行きたい。

 

ゼミ授業開始

 

「読むこと」としてはじめに読書の方法として、嘉納治五郎の「青年訓」から「精読と多読」についてを音読した。つづいて志賀直哉の処女作「菜の花と小娘」を読んだ。この日の司会進行は、大島さん。「書くこと」は、課題1~3、熊谷元一研究を時間内に。

 

嘉納治五郎とは何か

 

ゼミ初日、読むことの最初に嘉納治五郎の《青年修養訓》の中の「精読と多読」を読んだ。が、肝心なことが抜けていた。嘉納治五郎とは誰か?全員がまったく誰か知らなかった。以下は嘉納治五郎(1860~1938)の功績である。

 

  1. 日本の学校教育の充実 課外活動の導入や留学生の受け入れ。ローマ字教育の推進。

 

  1. 柔道による人間教育 柔術を柔道に近代化。「精力善用」「自他共栄」の理念を提唱。

 

  1. 留学生の受け入れ 私塾「宏文学院」をつくって中国の留学生を受け入れた。魯迅他

 

  1. IOC委員、1909年にアジアで初の国際オリンピック委員に。

 

  1. 日本の体育スポーツの充実。近代スポーツの導入

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420提出課題報告 書くことの習慣化を目ざして

 

課題1. 読書について

 

ゼミスタートは、100年以上も前の明治の文で難解だったが嘉納治五郎の「精読と多読」で読書の方法について読んだ。2015年を一緒に旅する人たちは、日頃どんな本を読んでいるのか、読んできたのか。毎年、ゼミはじめに書いてもらっている。

 

大島賢生

 

アメリカの若手女流作家にエイミー・ベンダーという人がいるのですが、彼女の短編小説の象徴的だけれど情景的な文章が気に入っています。

最近は著名人の対談をまとめた本を読むことにしていますが、表面のさわりだけの浅い理解をしないようにしたいです。

 

須川藍加

 

愛読書 江國香織著『号泣する準備はできていた』島本理生著『週末は彼女たちのもの』

 

蓮子あゆみ

 

最近、落語について学んでみたいと思って、とりあえず落語家さんのCDをきいています。書物も読んでみようと探しているので、今週週末あたりには、落語さんの本を読み始めると思います。

 

課題2. テキスト読み 志賀直哉作『菜の花と小娘』感想

作者の志賀直哉は、少年の頃、よく千葉県の鹿野山に登ったという。現在のマザー牧場だが、春には菜の花で有名だ。当時も咲き乱れていたのかも知れない。色あざやかな明るい黄色い絨毯。多感な時期に母を失くした少年の心にはどう見えたのか。

SFでも、時代でも名作には、作者の気持ちが色濃く入っています。

 

大島賢生

 

象徴的な(何かのテーマを具体化して語る)ような小説を、よく読んできたので、このお話は新鮮に感じました。寺岡シュウジや高畑勲などの作品は、具体化をつきつめたような、言ってしまえば固い表現が多いですが、この作品には副詞に表現の重点が置かれているようで素の自然な文章のやわらかさを感じました。

 

須川藍加

 

小娘が菜の花に、気負わせないようにわざと素っ気なくするところがとても愛らしかった。

 

蓮子あゆみ

 

この小娘は、ずいぶんと大人びているなという印象を持ちました。私なら「心配しなくていいのよ」なんて言えないんです。

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課題3. 社会観察「沖縄米軍基地問題」

 

70年前、日本は戦争に負けた。1868年の明治維新以来、日本は富国強兵策をとり1873年、徴兵令を制定し、そのあと戦争に明け暮れてきた。ロシアと戦い、朝鮮を併合し、中国に攻め入り、満州国をつくった。そうして、1941年こともあろうに世界を相手に大戦争をはじめた。その結果、多くの若者の命が失われた。原子爆弾をニ度までも落とされた。そして、沖縄を占領された。1971年6月沖縄返還協定が調印され、翌年1972年5月、沖縄は、祖国復帰をはたした。だが、米軍基地は、もとのままだった。

 

蓮子あゆみ

 

移設しなくてもいいと思う。米軍も良いことだけ、悪いことだけ、ではないと思う。ニュースでは、悪い面しか見ないような気もするし、そういうことしか報道してない気もしますが、、それで、米軍を知ってる気になってはいけないように思えます。とはいえ私も、ニュースでしか沖縄の問題を知ることがないので、調べなくてはと思いますが…。

 

須川藍加

 

沖縄の方には、ほんとうにほんとうに申し訳ないけれどアメリカの圧力によって政府は強引に話を進めてしまうと思うから諦めるしかないと思う。

 

大島賢生

 

 戦争責任として沖縄県に米軍基地があるのは仕方のないことであると考えます。ただし、米軍の行動は、方針には「素人はただ従っていればいい」とでも云うような悪い面での玄人っぽさを感じます。爆音の問題や危険があることの説明に加えて、今後の戦争を未然に防ぐことについての説明も要るだろうと思える。

 

【沖縄問題解決方法とリスク】

  1. 米軍と政府の意見に従う。辺野古に移設。リスク、屈辱感が残りつづける。
  2. 日米安保条約をやめてとにかく、沖縄からでていってもらう。完全独立国になる。リスク、戦前の軍国国家に戻る恐れ。現在もややその傾向にある。
  3. ベトナムのように戦う。ゲリラ戦をやるリスク、ベトナム戦争は1965年~75年まで10年つづいた。100万人以上死んだ。そのあとの難民も100万人は海に消えたといわれる。ベトコンと北ベトナムは、アメリカに勝利した。が、いま、アメリカ社会を目ざしているような国家になっている。アメリカ型格差社会になっているという。フランス軍、アメリカ軍と戦った、あの戦いは何だったのか…。
  4. デモなどで反対運動しながら世界が平和になるまで待つ。中国、北朝鮮、最近は韓国まで心配だが、憲法九条を守って、あくまで無手勝流で行く。

 

熊谷元一研究 小学一年生のときのこと覚えていますか。12年前になるが…

 

大島賢生  → 一週間全てが習いごと事で埋まっていたこと。

 

蓮子あゆみ → あまり記憶にないです。入学式の時に、おたふくかぜにかかって、1週間くらい休んでいました。いざドキドキ初登校したら、もう輪ができていて悲しかったです。

須川藍加  → あまり覚えていません。

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「菜の花と小娘」について

 

この作品は、アンデルセンを真似てちょっとした空想をメルヘンチックにつづった小品です。作者・志賀直哉が21歳~25歳の頃、なんども書き直して完成させたものです。なんでもない話なのに、なぜか気になるところが名作の所以です。

作品に作者の心情が反映されているからだと思います。菜の花ですから明るい黄色をイメージします。しかし、音読してみると、なぜか孤独や寂しいものも感じます。書いたころの作者の暮らしを年譜からみてみましょう。(『全集』年譜)

・1883年宮城県に生まれる。江戸時代までは相馬中村藩2百石、いわゆるお金持の家。

・1895年母銀病死、亨年33歳 作者12歳のとき。以後、祖母を母として育つ。

・1901年足尾銅山事件で、現地見学を父に反対され、これが不和の発端。18歳

・1902年父親が現・総武線鉄道の支配人になり、その縁で鹿野山(マザー牧場のある山)に遊びに行くようになる。菜の花は、この地で見たものと思う。書きはじめる。初恋も…

 

□のどかな光景、親しい人間同士の会話、そんな印象を得ます。うららかな春のある日、鹿野山に一人で遊びに行った志賀直哉は、山の斜面一面に咲き乱れる黄色い花畑を見て、この作品の構想を思い深べながらなにを思ったでしょう。11年前、明治28年、直哉12歳のときに亡くなった母、銀のことを思い出した。母と、ここに来て一緒にこの風景を見ることができたら、そんな叶わぬ願望が過ぎったかも・・・。

そんなふうに想像するとこの作品が、何かしら悲しくも美しいものに思われます。菜の花と小娘の対話も、無理がない気がします。もしかして母親に送った作品だったのかも。

ともあれ、この作品は作文「菜の花」→「花ちゃん」→小説「菜の花と小娘」のプロセスで完成したことになっています。が、解説では、判定しがたい、とも書かれている。

 

志賀直哉と菜の花と小娘

菜の花が人間のように会話する。この擬人法は、目新しいものではない。旧くはイソップ物語から使われてきた手法である。こうした擬人小説のほかに志賀直哉は、輪廻転生の話も書いている。仲のよい夫婦がいた。死んだあと、何に生まれ変わるかわからないが、必ずここに来て会いましょう、と誓う。やがて夫婦は死ぬ。どちらかだったか忘れたが、夫婦はニワトリとキツネに生まれ変わった。約束を思い出してその場に行く。が・・・残酷な結末である。もしかして志賀直哉は死後の世界を信じていた、あるいは信じようとしていたのかも知れない。その感覚が、作品の端々に感じる。なぜ、志賀直哉はそんな考えを持ったのか。

3月31日に一人で鹿野山に遊びに行った志賀直哉は、4月11日頃まで山の上から谷底一面に花咲く菜の花を眺めて過した。鹿野山は、今日マザー牧場として有名である。子豚のレース、菜の花畑は観光の目玉となっている。が、当時も菜の花はすばらしかったようだ。

谷間の菜の花畑を眺めながら、春の陽光のなかで直哉が読んでいたのは、最近刊行されたばかりの島崎藤村の『破壊』であった。前年、父直温は総武鉄道株式会社の取締役に就任している。経済的に恵まれ7月に学習院高等科を卒業、9月には東京帝国大学英文科に入学する直哉は、明治維新まで、士農工商という階級社会の中にも入れなかったエタと呼ばれる人たちのことをどれほど知っていただろうか。彼らは、士農工商が廃止された明治になってもその差別のなかで生きていたのだ。主人公の瀬川丑松は24歳。奇しくも直哉と、一つしか違わない歳である。『破壊』は直哉にどんな影響を与えただろうか。

志賀直哉が、なぜ小説を書きつづけて行こうと決心したのか。これまで多くの評論家や読者は、貴族趣味の一点に終始してきた。が、『菜の花と小娘』を再読して編集室は、このように思った。春の鹿野山で直哉は、菜の花に母、銀を重ね、瀬川丑松の人生に同情した。そうして、決心した。自分は「人類の幸せのために小説を書いて行くのだ」と。

 

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読むことの習慣化を目ざして

 

□世界名作読み 「読むこと」ではテキストの他に世界名作にも挑戦します。

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。

「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など

作品は、次のようなものがある。

【ハヤカワNV文庫】に収録

『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。

【新潮文庫】サローヤン短編集

『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。

【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』

『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。

 

サローヤンはロースト・ジェネレーションと言われる時代。ヘミングウェイ(1899)、スタィンベック(1902)と同じ世代の作家だが、作風がまったく違っている。

★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。

 

□テキスト読み 志賀直哉『網走まで』

 

『菜の花と小娘』『或る朝』『網走まで』は、志賀直哉の処女作三部作といわれています。

『菜の花』は童話、『或る朝』は日記風、そして『網走まで』は、エッセイのような作品です。三作とも作者の心象風景が現れた作品です。とくに『網走まで』は、観察と創作を織り交ぜた作品になっています。この手法は、後の志賀直哉作品に継承されていきます。また、この作品は、志賀直哉は決して私小説作家ではない。そのことを証明もしています。

そのへんを意識しながら読んでみましょう。

この作品は1910年(明治43年)に『白樺1号』で発表された。書いたのは明治41年

 

 

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熊谷元一研究       熊谷元一研究のすすめ方

 

4・27の研究  → 『子どものあそびうた』え・熊谷元一

 

熊谷の功績は、写真・教育の他に童画にもある。1909年に長野県の山村に誕生した熊谷元一は、当初、絵描きになることを夢みた。しかし、東京の美術学校試験に失敗したことから、そのころ注目されはじめた童画に目覚めた。童画を生みだした武井武雄(1894-1983)に師事し投稿を重ねる。1932年23再のとき投稿童画「ねぎぼうず」が入選、はじめて『コドモノクニ』5月号に掲載される。10月号にも掲載され寄稿家に推薦される。

以後、熊谷は、写真や教育と並行して風化していく山村の風習文化の伝承に力を注ぐ。

代表作『二ほんのかきのき』(1968 福音館)は、100万部のロングセラー。

 

熊谷が描く童画本

 

冊子

『子どものあそびうた』

 

絵本

『子ども世界の原風景』

 

 

 

 

『熊谷元一研究 No.2』 特集② 熊谷元一と「一年生」

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課題 「小学生の頃の私」

 

ランドセルと消しゴムの思い出

西尾 智音

新潟から東京へ越してきて、まだ間もない頃、私は小学校の入学式を迎えた。向かいに住む同い年の男の子に手を引かれて、少し黒みがかったワインレッドのランドセルを背負った私は学校へ向かう。当時は、学校までの道のりが長く感じた。

入学して一番最初に残念に思ったことは、ランドセルの表面に蛍光の黄色いカバーを取り付けなければならないことだった。周りのみんなと比べると少しくせのあるランドセルの色がお気に入りで、それが隠れてしまうことと、教室中のみんなが黄色いカバーを付けていて自分もみんなと同じでいることがすごく嫌だったのを覚えている。

ランドセルのお披露目は2年生になってからとあきらめて、それまでランドセルを汚さないように丁寧に使おうと決心したのだった。

もう一つ覚えていることは、となりの席の男の子に消しゴムをかしてあげたことだったこと。まだ一度も使っていない角のとがった消しゴムだったが、戻ってきたときには一つの角が少しまるくなっていた。私は、そのまるくなった角は避けて、残りの三つの角を均等に減らすように消しゴムを使い始めた。

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.261 ―――――――― 8 ―――――――――――――――

 

読むこと テキストの他には、「熊谷元一研究」として

読売新聞コラム【時の余白】「皆さんは私の目標でした」(2013)

「無心という時間があった」(2015)

 

書くこと  課題 次の「ゼミ通信」に掲載して発表します。

 

課題4. 「網走まで」テキストか『空中ブランコ』感想

 

課題5. 「車内観察」今日の車内の情景、記憶にあること、

 

課題6. 『網走まで』の母子の運命は・・・目的地に着いたあとどうなるのか。

 

熊谷元一研究  子どものころ夢中だったもの

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ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→

土壌館日誌 土壌館で4月26日(日)にあったこと

 

6年生女子1名、欠席。連絡なし(いつもはある)後の6名全員くる。社会人1名病欠。

思い通りにならないと泣く子1名。

 

【課題提出記録】

 

大島 4本  蓮子 4本  須川 4本  中野 持ち帰り

 

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

 

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ 2015・4・27    名前

 

課題4.  『網走まで』か『空中ブランコ』感想、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題5.  「車内観察」電車の中で見たこと、考えたこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題6.『網走まで』の母子の運命を簡単に書く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊谷元一研究 子どものころ夢中だったこと

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