文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.262

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)5月11日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.262

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

5・11下原ゼミ

 

 

5月11日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.熊谷元一研究 18日ゼミのリハーサル 台本校正しながら

 

描いた ! 写した ! 楽しんだ !

 

いま、甦る62年前の黒板絵、近日中に刊行

 

黒板絵写真展は、日芸アートギャラリーで

 

6月2日(火)~ 6月16日(火)

 

18日(月)長野朝日放送、ゼミⅡ授業風景、撮影取材

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.262 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

『黒板絵は残った』著者紹介

 

熊谷元一(1909-2010)

長野県生まれ。生涯一小学校教師として勤める傍ら写真家・動画家として活躍。主な著書に『會地村』(1938 朝日新聞社)、岩波写真文庫『かいこの村』(1953)、『一年生』(1955)、『日本の写真家17 熊谷元一』(1997 岩波書店)、『写しつづけて60年』(2003熊谷元一写真動画館)、『二本のかきのき』(1968 福音館)、など多数。

 

下原敏彦(1947-)

長野県生まれ。昭和28年に会地小学校入学。担任が熊谷元一であった。現在、日藝文芸学科非常勤講師。2013年からゼミ雑誌「熊谷元一研究」を刊行する。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」を主宰。主な著書に『伊那谷少年記』『ドストエフスキーを読みながら』『ドストエフスキーを読みつづけて』『山脈はるかに』などがある。

 

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E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美術評論家芥川先生、一押しの黒板絵「てんぐの怪獣」

 

 

「この絵はおもしろい ! だれも描けない」熊谷先生の、この言葉が人生の励ましとなった。自信となった。(下原)

 

 

 

 

 

 

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日芸図書館長 清水正教授 『黒板絵は残った』を読む

 

熊谷元一の衝撃 「自主と創造」の教育実践

熊谷元一は戦後の小学校教師のすばらしい教育実践を、黒板絵の写真だけで鮮やかに伝える。熊谷は教師の聖域であった黒板を小学一年生に開放し、自由にのびのびと落書き絵を描かせた。熊谷元一の写真作品は岩波写真文庫などでも紹介され各界に衝撃を与えたが、今回初めて伝説的な黒板絵がまとまった形で刊行されることになった。編纂者は熊谷の教え子であった下原敏彦氏である。101歳で亡くなった師の遺志を継いで下原氏は、現在「自主と創造」の日芸文芸学科で教鞭をとっている。子供たちが無心で描いた黒板絵は見る者に無垢の感動を与える。子供たちがカメラをまったく意識していないことが、いかに熊谷が卓越した教師であったかを証している。熊谷の教育実践は受験勉強などという教育現場とは無縁な創造的で自在な時空を作り出している。

私は中学三年の時に「私が望む教師論」を書いて理科担当の教諭に渡した。その教諭は四時限目の授業後、いつもわたしが投げかける諸問題に熱心に耳を傾け、昼食をとることができなかった。彼は私が高校受験した日に交通事故でなくなった。   私は教育に関しては子供の頃から強い関心を抱き、中学時代は斉藤喜博の「私の教師論」「教室の演出」などを読んでいた。斉藤喜博は当時、島小の校長で、彼の教育実践は熱心な教師たちに多大な影響を与えていた。授業参観者は全国から集まった。島小の子供たちを撮影した写真集もあったが、そこに映し出された子供たちの顔はまさに躍動していた。

教育現場で教育に携わる者たちの責任は重い。団塊世代の連中は、いやおうもなく受験競争の波に呑まれ、教師たちの大半もまたその波に乗った。中学時代、わたしは受験勉強などいっさいしなかった。勉強はしなかったが、「中央公論」「文芸春秋」は読んでいた。日記がわりにテーマを決めて論文も書いた。教育問題に多大な関心を抱いていたので、斉藤喜博の本は興味深く読んだ。「教室の演出」という言葉にショックさえ覚えた。

教育、特に幼少年期にどのような教育を受けたかで、その人の運命が決まる。熊谷元一という教師の教育実践は、これから詳細に情熱的に検証されなければならない。人間は自由な存在であり、独創的に生きなければならない。黒板絵は熊谷元一の教育実践の核の部分を形成している。教師の側からのいっさいの指示のないところで、子供たちは黒板絵を描いた。子供たちの自主にまかせること、そこに独自の想像が働き、創造へと結びついていく。

 

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今日の教育現場は上からの指導という名の指示が多すぎる。指示や命令ばかりがはびこる現場からは魂を震わすような創造は生まれない。子供たちに向き合う時間よりも、書類作成に時間がとられている教師が多いようではだめなのである

黒板絵は、それ自体が教育のあるべき姿を見せている。熊谷元一の凄さは、黒板絵を描かせたばかりでなく、それを写真撮影して残しておいたことである。子供たちに自主・創造の場を与えることのできた教師・熊谷元一は同時にその目撃者であり記録者でもあった。そのことで六十年前の教育実践の場が鮮やかに蘇ったのである。編集・校正の作業を通してつくづくこの本の重みがひしひしと伝わってきた。熊谷の「写真」と「教育」は今後、真摯に検証し、研究しなければならないだろう。熊谷が写真撮影した黒板絵は教育界に衝撃を与えるだろう。戦後まもない信州の山村の小学校で自主・創造の教育実践が展開されていた。

教育の現場に自由人熊谷元一が現れた。子供たちは黒板だけ解放されたのではない。熊谷は子供たちの心を開放し、自由に想像宇宙にはばたかせた。教育者は創造者としての自在な精神を備えていなければ、子供たちとヴィヴィドな関係をつくりあげることはできない。熊谷の心は大空のように子供たちに開かれている。熊谷を前にした子供たちに緊張はない。自由にのびのびと自らの精神世界に遊ぶことのできる教師熊谷のうち懐に抱かれた子供たち。その子供の一人が編纂者となって熊谷の遺作「黒板絵」を世に問う。

熊谷元一は教師であり、写真家であり、自由人である。彼が写真として残して膨大な数の黒板絵は多くのひとに感動と衝撃を与えることになるだろう。六十年前の教室の光景が鮮やかに蘇る。熊谷が残した写真は寡黙であるが、対話的に接すれば豊饒な言葉が次々に湧き出てくる。わたしは熊谷の残した黒板絵に、子供たちの心のざわめきが聴こえる。子供たちは解放された黒板に向かって空を飛び、地にもぐり、自分なりのおとぎ話を作り上げる。精神は解放され、自在に飛翔する。そのあるがままの姿を写真家熊谷はとり続けた。教室で熊谷は写真を撮っているにもかかわらず、そこにカメラを構えた熊谷の姿はない。見事なほどに自分の存在を教室から消している。教室の空気に溶け込むことのできる忍者先生・熊谷の見事な教育術。

信州の山村で実践された自由教育の一つの成果が黒板絵であった。一人の教師の持つ力の偉大さに感嘆せずにはいられない。教育はまず人である。熊谷元一という一人の教師が子供たちを無垢な創造者へと変身させた。施設の充実などを第一義に考える者は、教室を想像・創造時空へと変えることはできない。子供たちが描く黒板絵を無心で面白がっている熊谷元一がいる。ただそれだけで教室は開放的な自由な時空へと化す。教師の人格、性格、指導理念が何の衒いもなく自然に発揮されているのが熊谷教室の現場である。

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熊谷元一にまとまった教師論や教育論があるのかどうかは知らない。しかし黒板絵の写真の数々を目にしただけでも、熊谷の教育に関する思想と情熱と優しさは生々しく伝わってくる。子供を誰よりも愛している母親は、学者や教師の書いた本を読まなくても、最良の教師になることができる。溺愛や放任はだめだが、愛と情熱と分別が備わっていれば、子供はすくすくと育つ。

子供を溺愛したり、強制したり、過度の期待を寄せたりすることはよくない。ラスコーリニコフの殺人事件は母親プリヘーリヤの溺愛と過度の期待に原因している。熊谷の子供たちに対する距離の取り方は抜群である。このことは彼が写真家としていつもカメラを手放さなかったことと密接な関係がある。彼は見る教師であると同時に撮る写真家でもあった。熊谷は撮るための距離をいつも念頭に置いて子供たちと接している。ここにはべとついた関係は成立しようがない。熊谷は優しい目を持っているが、厳しいカメラの眼で子供たちと接している。

熊谷の写真は、彼の教師・教育観と密接につながっている。優しいが厳しい。強く抱きしめることもできるが、その手はきびしく突き放すこともできる。子供たちのさまざまな姿態の瞬間を切り取る写真家熊谷に甘い妥協はない。教育の現場に要請されているのは自身に対する厳しさである。この〈厳しさ〉の優しさに包まれて会地小学校の子供たちは自在に想像力を飛翔させた。熊谷元一が撮った子供たちの黒板絵を見て、大人は在りし日の自分の姿を甦らせるであろう。今、はたして何人のものが、自らの夢を織りなす黒板に向かっているだろうか。

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熊谷元一著『思い出の駒場』(1994郷土出版)

 

写真・童画の他に 熊谷が観察した子ども時代

 

今甦る大正時代の山村の風習・文化・生活

写真・童画だけではなかった

熊谷の観察眼

 

熊谷元一は、写真家・童画家として知られている。が、生活の観察者でもあった。自らの子ども時代を冷徹に見つめた『思い出の駒場』がそれを証明している。

 

月刊ミニ郷土誌『郷土誌巡礼』に掲載したのもの

 

昭和47年(1972)、長岳寺住職山本慈昭(69)は『郷土誌巡礼』1号を発行した。本誌に熊谷は昭和52年(1977)から参加、268号(1994)まで出身地駒場の思い出を書きつづった。17年間で250話になった。『思い出の駒場』は、その話をまとめたもの。

熊谷は、写真や童画の他に、自分の身の回りの出来事、体験をしっかり観察して、残していたのだ。

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4・27ゼミ報告 ゼミ2日目

 

ゼミメンバー決定

 

4・27ゼミの参加者は以下の皆さんです。

 

蓮子あゆみさん 大島賢生さん 中野資久さん

 

ゼミ誌担当・蓮子あゆみさん ゼミ誌は全員で協力し合ってつくりましょう。

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この日のゼミ

 

  1.  ゼミ誌ガイダンスの説明。写真撮影(3人揃ったとき、もう一度撮る)
  2.  課題(1~3)報告 大島 蓮子
  3. 『菜の花と小娘』についての作者の心情。
  4.  サローヤンについての解説
  5.  (社会観察)沖縄基地問題について話す
  6.  「読むこと」としてテキスト『網走まで』の音読2名
  7.  「書くこと」として平成20年度埼玉県高校入試国語問題のテスト、中野君提出

 

☆  課題4~6までの提出は、時間がなくて持ち帰り。

 

メールにて提出

 

○課題4.『網走まで』感想 蓮子あゆみ

菜の花と少女の時よりハッキリと、情景を思い浮かべることが出来ました。見たままを書くのではなく、その中に自分のふと考えたことや思ったことを交えて書いていたからなのでしょうか。

 

□この作品は、エッセイのようにもみえるが、まったくの創作とのこと。

 

○課題5.「車内観察」電車の中で見たこと、考えたこと 蓮子あゆみ

 

電車の中にいると、どこに視線をやったらいいのか分からなくていつもキョロキョロしてしまう。みんないつもどこを向いているんだろう。これを書いている今、なるべく怪しまれない程度に車内を見渡すと、スマートフォンを夢中になりながら触っているため下を向いている人ばかりだ。スマートフォンさえ見ておけば、どこを向いたらいいのかなんて疑問は浮かんではこないものなのか。どこを向いたらいいのかという私の頭を悩ませて困らせている疑問を見つけることができた分、少しだけ人より得をしたのかもしれないと思った。でもなんだか複雑な気分。

急行の時、各停の時、乗り込んだ電車によって流れる景色の早さが違う。私は各停の時の景色の方が好き。今日の電車は急行だけれど。

 

□電車の車内は、時代のなかで変化している。読書からマンガに、ゲームにと移り変っている。

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○課題6.『網走まで』の母子の運命を簡単に書く 蓮子あゆみ

 

夫を捨てて網走という不便な土地まで逃げてきた母子は、生活面では苦労しながらも気持ち的には幸せに暮らす。

 

□当時、網走は最果ての地。鉄道も北見までしか通じてなかった。そんな土地に彼女はなぜ?

 

○熊谷元一研究、子供のころ夢中だったこと

 

ピアノ      蓮子あゆみ

 

保育園に通っていた頃、友達が習っていたピアノを私も習いたくて、毎日のように保育園のピアノを人の真似っこをして弾いていた。そして帰り道、車の中でいつも同じ話を母にしたことを覚えている。

お母さん、ねぇ、いいやろ?友達みんなピアノ習っちょって、ねこふんじゃったが弾けるとよ。自分が弾けるからって、私に「えー、弾けないと?」って嫌味言ってくるとよ。なんで私はピアノ習っちゃダメやと?

母の答えは覚えていない。ボシカテイだから仕方ない、を理解できるようになってから、自然とピアノのことを話題に出すことも無くなった。

今日まで私がピアノを習うことは無く、今でもねこふんじゃったは弾けない。

 

 

社会観察 朝日新聞社のアンケートから 自分の考えは…後日、報告

 

◆憲法全体をみて、いまの憲法を改正する必要があると思うか。必要はないと思うか。

改正する必要がある ( )

改正する必要がない ( )

・必要があるに○した人に、それはどうしてですか。

自分たちの手で新しい憲法をつくりたいから ( )

第九条に問題があるから         ( )

新しい権利や制度を盛り込むべきだから       ( )

・必要がないに○した人に、それはどうしてですか。

国民に定着し、改正するほどの問題ではないから( )

第九条が変えられる恐れがあるから      ( )

自由と権利の保障に役立っているから     ( )

 

◆憲法第九条「戦争を放棄し、戦力を持たない」について

変える方がよい     ( )

変えない方がよい    ( )

・変える方がよいに○した人に、どのように変えたらよいか。

いまある自衛隊の存在を書き込むにとどめる  ( )

自衛隊を他国のような軍隊と定める      ( )

 

◆今後の自衛隊の海外活動について あなたの考えはどれに一番近いか。

海外での活動は一切認めない   ( )

武力行使しなければ、認める   ( )

必要なら武力行使も認める    ( )

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5・11ゼミ(18日の対策)

 

読むこと 「熊谷元一研究」として

読売新聞コラム【時の余白】「皆さんは私の目標でした」(2013)

「無心という時間があった」(2015)

 

書くこと  課題 次の「ゼミ通信」に掲載して発表します。

 

課題7. 『一年生』感想  思い出に残ることや、教育はあったか

 

課題8. 車内観察

 

 

 

 

ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→ 参加2名 後1名 課題報告  入試問題実施  『網走まで』

5月11日(月)→ 予定 課題報告、18日ゼミについて DVD観賞と

熊谷元一研究の授業リハーサル

【課題提出記録】

 

大島 4本    蓮子 8本    中野 1本 (持ち帰り)

 

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

 

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ 2015・5・11    名前

 

課題7. 『一年生』みての感想  思い出に残ることや、教育はあったか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題8. 車内観察

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題9. ある日の私 自分観察(ある日の日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米国と日本の歴史関係の発端

普天間を辺野古をどうするか。なぜ、沖縄に米軍基地があるのか。その前に、米国と日本の関係を知らなくては、はじまらない。何事も発端がある。両国の関係は、1853年ペリーが艦隊をひきつれて浦賀にあらわれたときからはじまる。徳川時代300年も鎖国していた日本は、米国の圧倒的軍事力の前に日米修好通商条約を結ぶ。この条約は、在留外国人への裁判権のない(治外法権)や関税主主権のない、いわゆる不平等条約である。ちなみに、下記がその「日米修好通商条約」の一部です。

 

第三条 下田箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。

神奈川、長崎、新潟、兵庫 (期限略)

神奈川港を開く後六ヶ月にして下田港は鎖(とざ)すべし。…双方の国人品物を売買

する事総て障りなく其の払い方などについては日本役人これに立会はず。

第四条 総て国地に輸入輸出の品々別冊の通日本役所へ運上を納むべし。

第六条 日本人に対し法を犯せる亜米利加人は亜米利加コンシュル裁断所にて吟味の上亜

米利加の法度を以って罰すべし、亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は日本役人

糺の上日本の法度を以って罰すべし。

上記の条約から88年後、日本は富国強兵政策で軍事国家となっていた。が、米国と比較すると、まだ子供にも満たない成長だった。しかし、欧米列強のモノマネでアジアにおいては、絶大な権力を持つまでになっていた。大東亜共栄圏。理想ばかりが先走りした誇大妄想は、もはや後戻りできないところまできていた。1941年12月8日。なんと、日本は、巨大国家アメリカに戦いを挑んだ。武力、経済、科学、どれをみても日本の数倍は勝る大国に。しかも正義は彼ら連合国にありなのだ。これより前、1938年に、シンガポールで封切られた映画「風と共に去りぬ」を見た海軍士官たちは、撮影技術の高さ、スケールの大きさに驚いた。こんな映画をつくる国との戦争はあり得ないと思ったそうだ。無謀な戦争は、すぐに勝敗がみえてきた。ミッドウェー、インパール作戦、相次ぐ敗退。

1945年3月下旬、約55万のアメリカ軍は、怒涛のように沖縄攻略を開始した。日本の守備軍は僅か9万6000、3ヶ月に及ぶ戦いは、沖縄県民12万をこえる人たちの命を奪った。6月末守備隊は壊滅。沖縄本土はアメリカ軍の占領下に入った。そして、1960年「日米相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)に調印した。(先週、鳩山首相は沖縄入りし、勉強して基地が抑止力になることを知ったと会見したが、この条約を読み直したのか?)

第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することが許される。

 

その後、1972年沖縄は祖国復帰した。が、基地は残ったまま。条約もペリーのときの不平等条約と、たいして違わなかった(地位協定)。それどころか、日本を守る理由で散在していた県外基地も、沖縄に集結し、現在、日本にある米軍基地の7割が沖縄に集中している。

 

 

 

テキスト研究

テキスト『網走まで』について

 

同時期に新聞連載となった『三四郎』と日本の社会

 

前回、夏目漱石の『三四郎』の前半(車内観察個所)を読みました。大学に入る為に上京する学生が、同席した大人の男と女にいろいろと教えられる話。

『網走まで』は、日光に遊びに行く学生が、同席した母子に同情を寄せる話。

この両作品には、当時の社会のことが織り込まれていると感じ、このころ社会になにがあったのか。若き志賀直哉はなにを思っていたのか。

 

『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が25歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。

この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三

十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。

しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。

 

大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)

大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。

 

二月二十日 金曜日

 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。

 

これより20年も後、1927年(昭和2年)に「なんとなく不安」と芥川龍之介は自殺したが、志賀直哉が『網走まで』を書いた時代も、何やらきな臭さを感じる不穏な時代であった。優れた作家は、いつのときも敏感に時代を感じとり、作品に織り込む。漱石もまた、しかり。先週、読んだ『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、いろんな点で比較になり得る。

まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。

一方、『網走まで』の志賀直哉は、小説家には程遠い駆けだしの文学青年。まったく境遇の違った両者だが、両作品は遜色ない。両作品は、奇しくも日本の危うさを訴えている。

 

 

 

「・・・いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね・・・」 日本についても「滅びるね」と即答している。

 

ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。

1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。

『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。

6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。

7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。

9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に発表

 

なぜ、『三四郎』を持ち出したのか。この作品も出だしは車内観察からはじまる。子ども連れではないが、子持ちの女と同席する。『網走』は、同情と純情だが、『三四郎』は新聞小説だけに色っぽいところもある。直接的な時代批評もある。そして、主人公の目的地、東京での生活が長編で描かれている。

この作品が、単なる新聞小説で終わることなく、いまも読みつづけられているところはなぜか、『網走まで』を知るうえで、この作品の車内観察部分を読んでみることにする。

 

□テキスト読み 志賀直哉『網走まで』

 

『菜の花と小娘』『或る朝』『網走まで』は、志賀直哉の処女作三部作といわれています。

『菜の花』は童話、『或る朝』は日記風、そして『網走まで』は、エッセイのような作品です。三作とも作者の心象風景が現れた作品です。とくに『網走まで』は、観察と創作を織り交ぜた作品になっています。この手法は、後の志賀直哉作品に継承されていきます。また、この作品は、志賀直哉は決して私小説作家ではない。そのことを証明もしています。

そのへんを意識しながら読んでみましょう。

この作品は1910年(明治43年)に『白樺1号』で発表された。書いたのは明治41年

 

 

 

子どものころ夢中だったもの

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課題8.  「車内観察」電車の中で見たこと、考えたこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題9.『網走まで』の母子の運命を簡単に書く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊谷元一研究 子どものころ夢中だったこと

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