文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.263

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)5月18日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.263

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

5・18下原ゼミ

 

 

5月18日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.熊谷元一研究について  熊谷作品(写真一年生))感想、他

長野朝日放送、ゼミⅡ授業(16:20~17:50)、撮影取材

abnステーション長野県(月~金 午後6時15分~55分放送番組)

放送予定日5月21日(木)

 

企画意図(長野朝日放送)

 

近く刊行される熊谷元一写真集『黒板絵は残った』に焦点を当てて放送します。「黒板絵―」は、長野県阿智村出身の写真家・熊谷元一(くまがいもといち)さんが小学校教師時代に、子どもたちが教室の黒板に絵を描いた様子を切り取った写真等で構成されています。戦後間もない時期に、教師の聖域たる黒板を開放した意義や写真集を出版する狙いについて話をききます。

 

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描いた ! 写した ! 楽しんだ !

 

いま、甦る62年前の黒板絵

 

黒板絵写真展は、日芸アートギャラリー

 

6月2日(火)~ 6月16日(火)

 

『黒板絵は残った』著者紹介

 

熊谷元一(1909-2010)

長野県生まれ。生涯一小学校教師として勤める傍ら写真家・動画家として活躍。主な著書に『會地村』(1938 朝日新聞社)、岩波写真文庫『かいこの村』(1953)、『一年生』(1955)、『日本の写真家17 熊谷元一』(1997 岩波書店)、『写しつづけて60年』(2003熊谷元一写真動画館)、『二ほんのかきのき』(1968 福音館)、など多数。

 

下原敏彦(1947-)

長野県生まれ。昭和28年に会地小学校入学。担任が熊谷元一であった。現在、日藝文芸学科非常勤講師。2013年からゼミ雑誌「熊谷元一研究」を刊行する。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」を主宰。主な著書に『伊那谷少年記』『ドストエフスキーを読みながら』『ドストエフスキーを読みつづけて』『山脈はるかに』などがある。

 

購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。

 

連絡先電話番号は03-5966-3850です。

FAX 03-5966-3855 E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp

 

先生、最後の宿題、終わりました !

 

2001年に刊行した写真集『五十歳になった一年生』、2010年に作った『還暦になった一年生』、いずれも恩師の宿題だった。その例で『黒板絵は残った』は恩師からの最後の宿題といえる。が、生前にお見せできなかったことが悔やまれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊谷元一写真集『黒板絵は残った』について

 

美術評論家芥川先生、一押しの黒板絵「てんぐの怪獣」

『黒板絵は残った』には、とりあえず熊谷先生から預かったうち現像されたもの数十点を掲載した。先にそれらを見られた美術評論家で日芸講師でもある芥川先生が、特に印象的だったと絶賛する一つは「てんぐの怪獣」だった。この黒板絵は、奇しくも熊谷元一が、会えば必ず口にして褒めた下原の落書き絵だった。(としひこ)

「この絵はおもしろい ! だれも描けない」熊谷先生の、この言葉が人生の励ましとなった。自信となった。(下原)   1955年4月9日に描いた下原の黒板絵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【黒板絵】

 

今日ではどうか知らないが昔、黒板は教師の聖域だった。侵さざる場所であった。しかし、子どもたちは、教師の目を盗んで黒板に落書きした。限られた僅かな時間、子どもたちは、拾ったチビたチョークで頭に思い浮かんだことを夢中で描いた。そして、始業のベルが鳴るとあわててきれいさっぱり消し去った。

黒板絵は、はかない命である。見つかれば叱られ、ときには悪戯の動かぬ証拠としてさらされた。黒板絵は、存在してはいけない作品だった。だが、62年前、昭和28年(1953)4月、ある山村の小学校教師は、入学したばかりの一年生に向かっていった。

「みなさん、休み時間、黒板に描きたいものを自由に描いていいですよ」

黒板開放宣言だった。が、教室はしんとしていた。子どもたちは理解できなかったのだ。しばらくしてだれかが

「せんせい、ほんとうにいいのですか。こくばんにかいて ? 」と恐る恐るきいた。

「いいですよ。なんでも好きなものをかいてください」

担任の男先生は、はっきりといった。

子どもたちは、ワーと歓声をあげた。そしてつぎの休み時間から、一斉に描きはじめた。

終戦から7年と半年、日本はまだ貧しかった。紙も鉛筆も貴重なものだった。黒板は、思いきり落書きできる無限の画用紙となった。休み時間、黒板に向かう子どもたち。男先生はその背中をやさしく見守った。そして、描かれた落書き絵をカメラに収めて、永遠のものとした。黒板絵観察記録は、3年間つづけられた。

ここに紹介するのは、その一部である。小学校低学年は、子どもが幼児から少年少女に変わる重要な時期といえる。その時期に何の指導も制約もなく自由に描かれた絵。そこに、芽生えはじめた子どもの想像力を感じることができる。いつの時代にも変わらぬ普遍性をみることができる。記録された黒板絵は、学校教育の域を超えた成長の成果。人間成長の貴重な足跡といえる。                     (『黒板絵は残った』より)

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5・18下原ゼミ プログラム

 

皆さんこんにちわ。前回、熊谷元一という写真家を知ってもらうためにNHKの追悼番組のDVD観賞と、併せて代表作品のコピーを配布しました。今日は、その感想を聞きたいと思いますが、その前に、はじめての人もいるようなので、前回、説明できなかったところを補足します。

 

  1.  2015年度の下原ゼミについて

 

下原ゼミは、昨年度から「熊谷元一研究」をはじめました。ゼミ誌も創刊号として第1号を刊行しました。特集として「熊谷元一とは何か」で、熊谷のマスメディア評を掲載しました。熊谷元一研究の意義と目的は、序文に寄せています。(温故知新)

本年度も引き続き「熊谷元一研究」をすすめます。

 

  1.  熊谷元一研究のテキスト

 

写真家・童画家・教師としての熊谷の真骨頂は、ひたすら観察です。

 

そのことを踏まえて熊谷元一研究は、主に以下のテキストを読みながらすすめます。

 

・ドストエフスキー作品    マラソン朗読会の実施(ゼミ合宿)

・嘉納治五郎の青年修養訓   読書のススメ、名著の選び方

・志賀直哉の作品       事実とフィクションの間

 

この3者に共通することは、観察です。

 

ドストエフスキー 人間の心を観察して   → 物語として表現(長編名作など)

嘉納治五郎    旧いものを観察して   → 新しいものに改良(教育、柔道)

志賀直哉     日常の出来事を観察して → 作品に変える(観察作品)

 

  1.  2015年度ゼミ誌について

 

ことしのゼミ誌は、『熊谷元一研究 2号』を発刊します。特集は「熊谷元一と一年生」

編集委員は、蓮子さん、大島君、中野君の3名です。

 

  1.  熊谷の、主な著作と写真

 

今日は、ゼミ誌作成準備の1歩ということで、編集委員は、みなさんから感想を聞いて、それをゼミ誌2号のたたきにしてください。が、その前に、年代別に記録された熊谷の著作と写真の一覧を検索しコピーしました。熊谷の業績を知るために、目を通してください。

 

  1.  『一年生』をみて思ったこと、感じたこと 黒板絵についてのこと

 

熊谷は、101歳の生涯で、たくさんの作品があります。そのなかで、『一年生』は代表作です。が、写真界、教育界にとってもこの作品は、金字塔です。「黒板絵」は、「一年生」の一環ですが、なぜかあまり注目されませんでした。

一年生のころ、どんな落書きをしたか、おもいだせますか。

 

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5・11ゼミ報告

 

前回、5月11日ゼミは、山下ゼミの協力で、熊谷元一研究。18日ゼミについて話す。

 

  1.  DVD観賞と、岩波写真文庫『一年生 ある小学校教師の記録』コピー配布

 

  1.  DVDと『一年生』感想、熊谷写真etc

 

  1.  課題提出(4~6 熊谷元一研究)

 

課題4. 『網走まで』感想    大島賢生

 

読後思ったのは、「自分」が、最後母子と分かれるまで親切な振る舞いをみせながらも「他人」であり続けたことでした。

乗り物という箱じたいが移動するその車内において、そこで出逢う人々は、言ってしまえば袖が触れる縁でしかない。「他人」となって観察したとき、擁護や同情は行き過ぎたものとなり、自分の足元の地面と相手の立っている地面とは、どこかで繋がるようで繋がらない。そのような静かな視点で描かれているのを感じました。

 

□そうですね。車内は不思議な空間ですね。乗ってしまえば全く他人でも、一蓮托生。生死を共にします。そんな重大な場所だが…小説の神様は逃さない。

 

課題5. 車中で見たこと、考えたこと   大島賢生

 

昨年の大晦日、日付が変わり、ちょうど信念を迎える時間に電車に乗っていました。座席は結構うまっていましたが、車内は、みんな昨年や未来の事を考えているのだろうか、当たり前か、しかし、心中は様々なんだろうなと感傷的になりました。

 

□大晦日とあるので、初詣にでかけたのでしょうか。どこに、がわかるといいですね。

 

課題6. 『網走まで』の母子の運命を簡単に書く

 

生まれに大きな苦労は無かったであろう娘が、野心的な夫を得た。けれどもその家業への望みが空回るにつれ、支えようとする妻の傍らで、彼の快活さはだんだん失われていった。

二人に生まれた子は、おぼろげながらそのような父母を見ており、理解はしておらずとも、察していそうである。

車内でちまちまと母を困らせる行動は、後に時期の早い自立へ繋がりそうに思える。

 

□明治時代の北海道、遠いところと思われていた。そんなところに、なぜ母子が。

 

熊谷元一研究 子どものころ夢中だったこと

 

テレビばかりみていました。

 

□62年前に描かれた『黒板絵は残った』をみると、いろいろな動物や怪獣がいる。当時は、テレビがなかった。情報は、たぶん電柱に貼られた芝居か映画の広告だった。

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テキスト読み ポイント「創作性」・「観察」・「疑問点」

 

志賀直哉とは何か。この作家を知るためには、いろいろな方法があります。下原ゼミでは、主に車中作品を考察してみます。最初は、処女作の『菜の花と小娘』、そして『網走まで』を読んでもらいました。が、網走は一読だけでは解明不十分なので、再読してください。

 

テキスト研究 ―――――――――――――――――――――――

 

テキスト『網走まで』について

 

4・27ゼミでテキスト『網走まで』を読んだ。この作品は『菜の花と小娘』(『或る朝』)と並ぶ初期三部作品の一つ。いずれも短い作品だが、『網走』は、なんとなく長編を感じせる話でもある。

しかし、読み過ごせば、ただのエッセイ、そんなふうにも読みとれなくもない。どんなベストセラーも話題本も、ああ面白かった。感動した。そんな絶賛はあっても、たいていは忘却の彼方に去っていく。が、この作品は、文学を志すものにとって時代を超えてテキスト(文学の土壌)となり得ている。なぜか、観察と想像、そして創造があるからではないかと思っている。

車中で同席した母子は、どこから来て、着いた先でどんな生活を送るのか。主人公にも読者にも、それを考えさせる。そこに、この作家が小説の神様と呼ばれる所以がある。

横道だが、『2001年宇宙の旅』の人気もそこにある。宇宙船デスカバリー号のボーマン船長の命はどこから来たのか。そして彼はどこに向かっているのか。想像と空想を駆使しての挑戦。こちらは、人類の謎、人間の謎と大きいが、『網走』にも、それがいえる。

この作品を検証・考察する前に、作者のそれまでの環境、生活はどんなだったか。作品に至るまでの年譜をみておくのも重要である。

 

志賀直哉年譜(『網走まで』の)履歴

 

1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県

に生まれる。(ナオハル)

1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。

1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。

1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。

1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。

1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。

1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。

1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。

1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。

1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。

1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。

1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。

1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。

1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。

 

家は裕福だったが、愛情的には不幸だった。12歳のとき母・銀死ぬ。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳

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なぜ「網走」か、『網走まで』とは何か

 

この作品は一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全な創作だという。作者志賀直哉は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。

そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。

しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。

しかし、四十一年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

この作品の最初の謎である。

 

社会観察 米軍基地問題  米国と日本の歴史関係の発端

 

普天間を辺野古をどうするか。なぜ、本土や沖縄に米軍基地があるのか。その前に、米国と日本の関係を知らなくては、はじまらない。何事も発端がある。両国の関係は、1853年ペリーが艦隊をひきつれて浦賀にあらわれたときからはじまる。徳川時代300年も鎖国していた日本は、米国の圧倒的軍事力の前に日米修好通商条約を結ぶ。この条約は、在留外国人への裁判権のない(治外法権)や関税主主権のない、いわゆる不平等条約である。ちなみに、下記がその「日米修好通商条約」の一部です。

 

第三条 下田箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。

神奈川、長崎、新潟、兵庫 (期限略)

神奈川港を開く後六ヶ月にして下田港は鎖(とざ)すべし。…双方の国人品物を売買

する事総て障りなく其の払い方などについては日本役人これに立会はず。

第四条 総て国地に輸入輸出の品々別冊の通日本役所へ運上を納むべし。

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第六条 日本人に対し法を犯せる亜米利加人は亜米利加コンシュル裁断所にて吟味の上亜

米利加の法度を以って罰すべし、亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は日本役人

糺の上日本の法度を以って罰すべし。

上記の条約から88年後、日本は富国強兵政策で軍事国家となっていた。が、米国と比較すると、まだ子供にも満たない成長だった。しかし、欧米列強のモノマネでアジアにおいては、絶大な権力を持つまでになっていた。大東亜共栄圏。理想ばかりが先走りした誇大妄想は、もはや後戻りできないところまできていた。1941年12月8日。なんと、日本は、巨大国家アメリカに戦いを挑んだ。武力、経済、科学、どれをみても日本の数倍は勝る大国に。しかも正義は彼ら連合国にありなのだ。これより前、1938年に、シンガポールで封切られた映画「風と共に去りぬ」を見た海軍士官たちは、撮影技術の高さ、スケールの大きさに驚いた。こんな映画をつくる国との戦争はあり得ないと思った。無謀な戦争は、すぐに勝敗がみえてきた。ミッドウェー、インパール作戦、相次ぐ敗退。

1945年3月下旬、約55万のアメリカ軍は、怒涛のように沖縄攻略を開始した。日本の守備軍は僅か9万6000、3ヶ月に及ぶ戦いは、沖縄県民12万をこえる人たちの命を奪った。6月末守備隊は壊滅。沖縄本土はアメリカ軍の占領下に入った。そして、1960年「日米相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)に調印した。

第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することが許される。

 

その後、1972年沖縄は祖国復帰した。が、基地は残ったまま。条約もペリーのときの不平等条約と、たいして違わなかった(地位協定)。それどころか、日本を守る理由で散在していた県外基地も、沖縄に集結し、現在、日本にある米軍基地の7割が沖縄に集中している。

 

ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→ 参加2名 後1名 課題報告  入試問題実施  『網走まで』

5月11日(月)→ 予定 課題報告、18日ゼミについて DVD観賞と感想

5月18日

【課題提出記録】()熊谷研究

 

大島 7本(1)    蓮子 8本(1)    中野 1本 (持ち帰り)

 

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

 

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

 

 

 

下原ゼミⅡ 5・18課題   名前

 

 

テレビ取材をルポする。下原元一研究をゼミ誌に掲載。

 

1.5・18ルポ 全体の感想など(撮影者取材)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 『一年生』について、参加者の話(どんな意見・感想があったか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 「黒板絵」のことについての感想や意見

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『網走まで』と『三四郎』

 

『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が25歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。

この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三

十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。

しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。

 

大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)

 

 

 

大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。

 

二月二十日 金曜日

 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。

 

ここで唐突だが、明治の文豪夏目漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。

同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。文学一本に人生を絞ったのである。

ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。

1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。

『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。

6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。

7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。

9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に発表

 

なぜ、『三四郎』を持ち出したのか。この作品も出だしは車内観察からはじまる。子ども連れではないが、子持ちの女と同席する。『網走』は、同情と純情だが、『三四郎』は新聞小説だけに色っぽいところもある。直接的な時代批評もある。そして、主人公の目的地、東京での生活が長編で描かれている。

この作品が、単なる新聞小説で終わることなく、いまも読みつづけられているところはなぜか、『網走まで』を知るうえで、この作品の車内観察部分を読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なお、文面は100年前なので編集室で岩波書店『志賀直哉全集』から現代読みにして転載しました。以下

 

網走まで

 

宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。

それは8月もひどく暑い時分のことで、自分はとくに午後4時20分の汽車を選んで、とにかくその友の所まで行くことにした。汽車は青森行である。自分が上野へ着いた時には、もう大勢の人が改札口へ集っていた。自分もすぐその仲間へ入って立った。

鈴が鳴って、改札口が開かれた。人々は一度にどよめき立った。鋏の音が繁く聞こえ出す。改札口の手摺りへつかえた手荷物を口を歪めて引っぱる人や、本流からはみだして無理にまた、かえろうとする人や、それを入れまいとする人や、いつもの通りの混雑である。巡査がいやな眼つきで改札人のうしろから客の一人ひとりを見ている。このところを辛うじて出た人々はプラットホームを小走りに急いで、駅夫等の

「先が空いてます、先が空いてます」と叫ぶのも聞かずに、われ先と手近な客車に入りたがる。自分は一番先の客車に乗るつもりで急いだ。

 

 

 

 

 

 

テキスト『網走まで』について

 

同時期に新聞連載となった『三四郎』と日本の社会

 

前回、夏目漱石の『三四郎』の前半(車内観察個所)を読みました。大学に入る為に上京する学生が、同席した大人の男と女にいろいろと教えられる話。

『網走まで』は、日光に遊びに行く学生が、同席した母子に同情を寄せる話。

この両作品には、当時の社会のことが織り込まれていると感じ、このころ社会になにがあったのか。若き志賀直哉はなにを思っていたのか。

 

『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が25歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。

この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三

十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。

しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。

 

大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)

大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。

 

二月二十日 金曜日

 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。

 

これより20年も後、1927年(昭和2年)に「なんとなく不安」と芥川龍之介は自殺したが、志賀直哉が『網走まで』を書いた時代も、何やらきな臭さを感じる不穏な時代であった。優れた作家は、いつのときも敏感に時代を感じとり、作品に織り込む。漱石もまた、しかり。先週、読んだ『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、いろんな点で比較になり得る。

まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。

一方、『網走まで』の志賀直哉は、小説家には程遠い駆けだしの文学青年。まったく境遇の違った両者だが、両作品は遜色ない。両作品は、奇しくも日本の危うさを訴えている。

「・・・いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね・・・」 日本についても「滅びるね」と即答している。

 

―――――――――――――――――― 7 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.263

 

ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。

1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。

『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。

6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。

7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。

9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に発表

 

なぜ、『三四郎』を持ち出したのか。この作品も出だしは車内観察からはじまる。子ども連れではないが、子持ちの女と同席する。『網走』は、同情と純情だが、『三四郎』は新聞小説だけに色っぽいところもある。直接的な時代批評もある。そして、主人公の目的地、東京での生活が長編で描かれている。

この作品が、単なる新聞小説で終わることなく、いまも読みつづけられているところはなぜか、『網走まで』を知るうえで、この作品の車内観察部分を読んでみることにする。

 

□テキスト読み 志賀直哉『網走まで』

 

『菜の花と小娘』『或る朝』『網走まで』は、志賀直哉の処女作三部作といわれています。

『菜の花』は童話、『或る朝』は日記風、そして『網走まで』は、エッセイのような作品です。三作とも作者の心象風景が現れた作品です。とくに『網走まで』は、観察と創作を織り交ぜた作品になっています。この手法は、後の志賀直哉作品に継承されていきます。また、この作品は、志賀直哉は決して私小説作家ではない。そのことを証明もしています。

そのへんを意識しながら読んでみましょう。

この作品は1910年(明治43年)に『白樺1号』で発表された。書いたのは明治41年

 

社会観察 朝日新聞社のアンケートから 自分の考えは…後日、報告

 

◆憲法全体をみて、いまの憲法を改正する必要があると思うか。必要はないと思うか。

改正する必要がある ( )

改正する必要がない ( )

・必要があるに○した人に、それはどうしてですか。

自分たちの手で新しい憲法をつくりたいから ( )

第九条に問題があるから         ( )

新しい権利や制度を盛り込むべきだから       ( )

・必要がないに○した人に、それはどうしてですか。

国民に定着し、改正するほどの問題ではないから( )

第九条が変えられる恐れがあるから      ( )

自由と権利の保障に役立っているから     ( )

 

◆憲法第九条「戦争を放棄し、戦力を持たない」について

変える方がよい     ( )

変えない方がよい    ( )

・変える方がよいに○した人に、どのように変えたらよいか。

いまある自衛隊の存在を書き込むにとどめる  ( )

自衛隊を他国のような軍隊と定める      ( )

 

◆今後の自衛隊の海外活動について あなたの考えはどれに一番近いか。

海外での活動は一切認めない   ( )

武力行使しなければ、認める   ( )

必要なら武力行使も認める    ( )

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.262 ―――――――― 8 ―――――――――――――――

 

5・11ゼミ(18日の対策)

 

読むこと 「熊谷元一研究」として

読売新聞コラム【時の余白】「皆さんは私の目標でした」(2013)

「無心という時間があった」(2015)

 

書くこと  課題 次の「ゼミ通信」に掲載して発表します。

 

課題7. 『一年生』感想  思い出に残ることや、教育はあったか

 

課題8. 車内観察

 

 

 

 

 

 

 

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