文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.264

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)5月25日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.264

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

5・25下原ゼミ

 

 

5月25日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.5・18DVD観賞 2.テキスト読み 熊谷元一研究について

5・21長野朝日放送、黒板絵&熊谷元一研究を放映、話題に

abnステーション長野県(月~金 午後6時15分~55分放送番組)

5月21日(木)夕方6時15分から長野朝日放送は、abnステーション「戦後70年特集」番組において、近く刊行予定の『黒板絵は残った』についてを放映した。

下原ゼミは熊谷元一研究をすすめているが、黒板絵はその研究の一環。

インタビューでは、D文学研究会の清水正教授が黒板絵について、下原が熊谷の教育信念につい語った。日芸所沢校舎が映された。

ゼミⅡに集まった大半の学生が熊谷元一を知らなかった。代表作「一年生」を見なが ら感想や自分の一年生の頃を話しあった。同じ世代なのにそれぞれ違った一年生体験談だった。司会進行は「熊谷元一研究 2号」編集委員の大島君。(正面右)

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ドキュメント「黒板絵」ニュース制作

 

5月13日(水)長野県昼神温泉郷

 

10:00   「熊谷元一写真童画記念館」長野朝日放送着。

28会(『一年生』)記念館でミニ同級会。その様子を取材撮影。

原佐代子さんにインタビュー

 

14:30    取材撮影、完了。

 

5月18日(月)日芸所沢校舎

 

14:00   航空公園駅発のバス

 

14:15   所沢校舎着 長野朝日放送の小林氏(報道制作局報道部副部長)とカメラマンも車で同時着。(長野から約3時間との話)

 

14:30   小林氏、清水教授にインタビュー。黒板絵出版の意義、熊谷の教育について。

 

15:00   ゼミ2教室にて下原にインタビュー。黒板絵はなぜ描かれたか。『黒板絵は残った』を出版する理由。

 

16:20   ゼミⅡ授業、12名(山下ゼミ、清水ゼミ、窪田ゼミの皆さんも)

熊谷元一研究の紹介。全員が一年生の思い出を話す。

授業風景の撮影は、あまり無し。

 

長野朝日、他教室に移り黒板絵を撮影開始する。

 

17:20   ゼミⅡ授業 終了。

 

18:30   長野朝日、黒板絵撮影完了。

 

18:50   解散。

 

18:55   所沢校舎発のバス

 

2015年5月21日 木曜日 長野朝日abnステーション18:35~45

「黒板絵について放映」好評だった。

5月23日(土)DVD(5・21報道番組abnステーション)届く。

阿智第一小学校(会地小学校)→清水教授の黒板絵評→熊谷元一写真館と28会→

下原の熊谷の教師像→黒板絵

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518ゼミ

1953年時代と2003年時代の子ども時代

 

いまから62年前、1953年の一年生の様子は。配布したコピー写真集『一年生』を見ながら参加者各自の小学校時代を話し合った。

10余年前の記憶は新しかった。よい思い出がある人、辛い思い出を蘇らせてしまった人、さまざまだったが、懐かしさに5次限目20分オーバーした。

半世紀も離れていても一年生時代の思い出は変わらない。そんな感想を持った。

 

絵・熊谷元一

黒板の落書きの話は、なかった。

学級崩壊の体験者が2,3人いた。

担任を記憶している人が少なかった。

外国(香港)で過ごした人1名。

給食のパンがまずかった記憶。

すぐにキレる先生に悩まされた。

信毎女先生をいじめた。

オバサン先生が怖かった。

 

 

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熊谷元一研究に新資料!!

 

岩波書店、桑原涼氏から提供 写真雑誌『アサヒカメラ』における座談会1941年

 

熊谷元一は土門拳と新進若手写真家として出席、自分の写真信念を述べる。この年の12月8日、日本は真珠湾攻撃をして、世界に宣戦布告した。

 

 

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熊谷元一研究  写真雑誌『アサヒカメラ』座談会 1941年

 

『アサヒカメラ』は、1941年という風雲急を告げる時代に「日本精神と写真の行くべき道」と題した座談会を開いた。司会は、本誌の松野志気雄氏。

出席者は、写真家・福原信三氏、小説家・中河興一氏、歌人・土岐善鷹氏

この著名な3人に加え、若手の写真家2名が出席した。

1人は、文化振興会の嘱託、写真家の土門拳氏(31)もう一人は、拓務省(大東亜省)嘱託で満州写真班の熊谷元一(31)だった。

土門拳(どもんけん、1909年(明治42年)10月25日 – 1990年(平成2年)9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家である。

1941年、日米英開戦近し、八紘一宇をめざし一億総玉砕をも恐れぬ日本。こんな時代の写真は、どうあるべきか。それぞれの気持ちがわかる。座談会である。このとき熊谷31歳。拓務省に勤めて3年目、写真で生活できるようになっていたが、この時代における写真撮影をどう考えていたか。熊谷元一研究には、貴重な資料である。座談会から、熊谷の話のか所を拾ってみた。(若手なので発言は少ないが、写真をはじめた動機と目的を話している)

 

松野 こちらの熊谷君は、昭和13年に朝日新聞社から『會地村』という本を出しました。これは會地村をいろいろな角度から撮って纏めた本で、最近、翻訳されてドイツへも行きました。それまで全然無名の熊谷君のこの作品が非常な反響を呼んで、有馬(農林大臣)さんなどは非常に推奨されて、ぜひ會いたいということで、私が熊谷君を連れていっていろいろお話をしたこともあります。写真家としては無名であるかも知れませんが「土」に対する非常にシッカリした考え方をもっておられて、しかも『會地村』に使った写真は、全部パーレットの単玉でもって撮られた。夜の写真でもなんでもみんなパーレットの単玉で撮られたのです。

 

『會地村』の出来るまで

 

松野 さっき愛情がなければならないというお話がでましたが、前に申し上げたように、熊谷君は、恐らく郷土に対する愛であれだけの写真を撮られたと思うのです。

   そこで、あれを撮られた動機とか、いろいろな苦心談などを伺っておくのも、一派名写真家のために参考になるのではないかと思いますから、一つそのお話をして下さい。

熊谷 あれを撮った動機といいますと、自分は村にズッと永く住んで居ったけれども、村のためになるようなこと、村のお役に立つような仕事なんか、全然していない。何か一つ自分に出来る仕事で村のためになること或いは村の記念になるようなことをしたい。かういうことを以前から考えていたんです。初めは写真なんていうことを全然考えずに、文章とか統計で村史を作ろうと思って、いろいろ文献を漁ったりしたんですけれども、一ト月ぐらいやったら、どうにも仕事が多くて、それに自分の性格に合わないために、とうとう駄目になっちゃったんです。

   そんなことをしている時に、村に写真機屋が出来たので、僕は写真を撮ろう、みんながやるんだから、僕だって撮れぬことはないと思って、その材料屋へ行ったんです。そうして、素人でも撮り損ないのない一番ラクに撮れる機械はないか、僕は初めからうまい写真を撮らぬでもいい、多少ボケて居ってもいい、なるべくラクに撮れるのを世話してくれといったら、そんならパーレットがいいでしょうということで世話してくれたんです。

それでいろいろ撮ってみると、自分で思ったよりハッキリ写ったんで、これは、ま

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えに作ろうと考えた村史を写真でやったら面白いんじゃあないかと思って、それからコツコツ始めたんです。初めに村史を作ろうと思った時に、文章と統計はどんなふうに集めるというプランを、郷土史の調査法というような本で見て立てていましたから、それに従って文章を写真に置き換へてやったわけなんです。

とにかく自分の村のことですから、一切の行事が全部チャンと頭にあるわけでずい

ぶん都合がよかったと思います。同じ写真を撮るにしても、旅の人なんかだと、着い

た日に天気具合がわるければ無理をしたり或いは永く逗留しなきゃあならないんですが、自分は天気の一番いい条件の時に撮れるし、同じ人を写すにしても、見た目

にいくらかでも美しいと思われるような場所と時を選んでやれたんです。

動機は、そういうただ村のためになるような仕事をしたいということから始まった

んで、なにも朝日新聞社から本を出していただくというような、そんな大それた考えじゃあなかったんです。村に一冊、自分に一冊、自分で引きのばした写真帖を作ってみたい、そんな考えだったんです。

 

大学院の山添さん提供 横浜図書館で検索

 

大学院生、横浜市立図書館で発見!!

 

1955年発行の『図書 10月号』

岩波写真文庫『一年生』の撮影者熊谷元一氏は「毎日写真賞」受賞のため上京

されたので、その機会にいろいろお話を伺った。(編集部)

 

 

「子どもたちと暮らして」と題して、一年生』撮影時の様子や出来事を教師と写真家の眼差しで見つめている。熊谷の撮影手法と信念がわかる第一級の熊谷元一研究資料。熊谷は、いかなる心持で写真を撮ったか。写真に対してどんな考えがあったか。次号に掲載

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読むことの習慣化を目ざして  熊谷元一と同時代の米国作家の処女作

 

熊谷が生まれた村を写真に撮っていた頃、遠く離れたニューヨークの下町を彷徨う1人の若者がいた。

熊谷元一が生まれた年、1909年は太宰治が生れた年として覚えやすいが、1年前の1908年にサローヤンが誕生している。

 

□世界名作読み 「読むこと」ではテキストの他に世界名作にも挑戦します。

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

 

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。

「商業主義は芸術を披護する資格がない」がその理由。『わがこころ高原に』など。

彼のいわゆる一世に名をとどろかせた処女作『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』という短編小説は、舞台はサンフランシスコであるが、ニューヨークでのそのころの貧乏ぶりがよく反映している。これはアメリカの不況時代における、職のない、従って食のない文学青年が、無益に仕事を求める話である。

この短編小説が評判になり、

「飛行する…に乗った大胆な若者」という言い方が流行り言葉として使われた。

 

作品は、次のようなものがある。

【ハヤカワNV文庫】に収録

『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。

【新潮文庫】サローヤン短編集

『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。

【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』

『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。

 

サローヤンはロースト・ジェネレーションと言われる時代。ヘミングウェイ(1899)、スタィンベック(1902)と同じ世代の作家だが、作風がまったく違っている。

★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。

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なぜ「網走」か、『網走まで』の謎

 

『網走まで』は一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。完全な創作だという。作者志賀直哉は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。

そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいた。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、かなりに高かったのではと想像する。

しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・。「網走」は、作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。無名だが、どうしても「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。

しかし、41年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。だが、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込みもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それとも地図の上でサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→ 参加2名 後1名 課題報告  入試問題実施  『網走まで』

5月11日(月)→ 予定 課題報告、18日ゼミについて DVD観賞と感想

5月18日(月)→ 長野朝日放送取材撮影 ゼミ参加12名

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

下原ゼミⅡ課題(「書くこと」の習慣化を目指す) 名前

 

 

  1. テキスト問題 なぜ「網走まで」としたか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 自分観察・自分が住んでいる街について(文章で現す)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 社会観察・「日本国憲法(9条)について」どう思うか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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