文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.265

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)6月1日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.265

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

6・1下原ゼミ

 

 

6月1日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.熊谷元一研究(新資料・写真展) 2.テキスト読み(「網走」間連)

 

熊谷元一写真集『黒板絵は残った』(D文学研究刊)

 

5月30日刊行成る!!

 

下原ゼミは、2013年に研究対象として「写真家・童画家・教師熊谷元一」を立ち上げた。手始めに「熊谷元一とは何か」をテーマに資料集めをすすめてきた。

その成果として、2014年度ゼミ雑誌で『熊谷元一研究 創刊号』を発行した。これによりマスメディアにおける熊谷元一評価が明らかになった。

この研究と併せてすすめてきたものがある。黒板絵の写真集編纂作業だった。「一年生」と同時期に撮った黒板の落書き絵むの写真出、年度末の出版をを目標に編纂作業をすすめてきた。が、諸般の事情で遅れていた。

 

 

 

 

 

黒板絵・写真展開催

 

62(火)16(火)日芸アートギャラリー AM1000~PM1800

 

写真集・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。

 

連絡先電話番号は03-5966-3850です。

FAX 03-5966-3855 E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp

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下原ゼミ

 

5・25ゼミ = DVD観賞

 

長野朝日放送5・21放映のDVD「黒板絵は残った」を観る。

日本テレビ制作(2002)「オンボロ道場再建」DVD

 

6.1ゼミ = 連絡・名作読み・テキスト読み・感想

 

連絡 → ゼミ合宿(軽井沢)の有無について 行えば「マラソン朗読」

 

施設使用申込み期限 → 6月1日(月) ~ 6月9日(火)17:00

校外授業の有無について 目的 ゼミ誌熊谷元一研究Ⅱ(作成のため)

 

企画 現地を見る。熊谷元一写真童画館、満蒙開拓平和記念館、古典文学の里

 

提出期限 → 1カ月前 ?

 

熊谷元一研究 新資料・横浜図書館(大学院・山添さん検索)

 

1953年、小学校教師の熊谷元一は、一年生を担任することになった。これをチャンスとみて熊谷は、東組と西組の子どもたちを写真に撮った。教室で、校庭で、通学路で。一年生の一年間の学校における全てをカメラに納めた。1955年、その写真は岩波写真文庫の1冊となった。その写真集は、写真界のみならず教育界にも衝撃を与えた。

そうして、半世紀以上過ぎたいま現在も輝きつづけている。 熊谷は、どんなふうにして、子どもたちを撮ったのか。1955年10月に発行された『図書』のなかで明かしている。

子供たちと暮らして

熊谷元一

 

「一年生」の写真をとりはじめたころは、子供たちが意識して表情を変えたり、わざとらしい動作をするのではないかと思ったのですが、案外そういうことはありませんでした。というのは最初の1、2回は、写真はどういうふうにできたか、とか、とれたかというようなことをききましたが、あとで見せてやるよ、というと、もうそれで満足して、写真はとるもので、見るものではなく、まして自分にくれるものではないと思いこんでしまったので、他の人たちのように写真をとられるという気持ちがなかったのが大変よかったのだと思います。だんだん私も気楽になり、子どもの鼻先きにカメラをつき出しても、はじめちょっと気にするだけで態度が変わらぬ

 

 

のでうまくゆきます。カメラわしじゅう首にかけて授業をしておりました。

「一年生」の中に出てる掃除の場面、ああいうことが偶々あるのかと人に聞かれますが、

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あんなことはしょっちゅうあります。おとなの世界とちがって、子供たちには仕事と遊びの区別がついていない。掃除の途中でふざけだす。目に余ることは叱りますが或る程度のことはしらん顔してやらしていました。相撲をしたり、喧嘩をしたり、雑巾をほうりあげたり、あまり行儀が悪いのであの本には出しませんでしたが、股をひろげて、トンネルだぞ!といって幾人もが雑巾で床をふきながらくぐっていったり、机を動かすにしても吊って運べばい

いものを、机の下へ首をつっこんで、亀が動くようにしてやる。こんなことをさしておくと怪我をするという心配のあること以外はそのままにしておいて、注意しなければならぬことはあとで、ああいうことはよくないことだと指摘し、子供たちに納得させました。

 

 

「一年生」の中に、外をゆく宣伝カーを、教室の中からのびあがって見たり、あくびをしたりしている場面がありますが、あれは教師として恥ずかしい写真です。あくびが出るまで同じ授業を続けるのは、教育技術として拙劣だということになるのです。しかし実はどこまでやったらこうなるのか見たいという気持ちも手伝っていました。

私が一年生の受け持ちになったのは3回ですが、一年生は、家庭から学校へそのまま来たのですからはじめは、ばらばらです。一カ月たち、二カ月たつうちにだんだん集団生活に慣れてくるわけです。教師として面白い反面、こわいものです。他の学年だったら、先任の先生のやり方がああだったからという逃げ口上もいえますが、一年生の場合は、子供を見られるということは自分も見られるのと同じことです。

或る写真雑誌の編集長の話ですが、カメラマン志望の青年が来て使ってくれという。君はいつカメラの勉強をしたのかと質問するとたいてい学校にいっているうちにやったというそうです。親のすねをかじって、写真機をふりまわして、さて学校を卒業してそれが商売になるなどと考えるのは甘いねとやると、いやそれはこういう考えだとくってかかる勇気があれば少し見どころがある。しかしたいがいの人は学校にいる間、ろくに学問もしないでカメラをもてあそび、対象をどういうふうにみて、その中から何を掴み出さなければならないかという、一番大切な問題に対する心構えを勉強していない。それでは立派な写真はとれないのではないかと思う。編集長のその話は大変面白いと思いました。私も若い頃からカメラを持っております。しかし今まで何十年と写しているのに、どんなにほめられた批評にでも、必ずというほど、しかし技術は拙い、という言葉がいつもついているのです。

技術はまずくてもいい、と思っているわけではありませんが、私は対象を掴むことが第一で、それによって、まずさを補っていきたいといつも思っているわけです。「農村の婦人」の場合も、資料を集めたり、ここはカメラでとれる、ここは文章でなければわからないなどと考えて、出来るだけ本当の姿を伝えようとしました。「一年生」の場合でもうまくうつそうと考えずに、いちねんせいとはどういうものだろうか、自分は何年も教師をしていながら、案外うっかり見過ごすこともあることを知っていますから、出来るだけ克明にうつして、一年生の特性を見出そうとつとめました。うつしはじめてからは、またちがった目で見ることができるようになったのは有意義だったと考えます。密着を拡大鏡で見ると、この子どもは

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こういうことをしている。日頃の行動と思い合わせて、よく子供の性質がわかることがある。たとえば子供が喧嘩をしているところを撮ったのをみますと、ふつうだったら喧嘩をしてい

る常の二人にしか気がつかないのに、写真では、他の子供たちがどういう表情をし、どういう態度をしているかがはっきりわかります。

「一年生」が出てから、各方面からさまざまの反響がありましたが、不愉快なものは一つもありませんでした。面白かったのは、或る校長が、校長先生の話をきいてあくびをしている写真をみて、もう3分以上話をするのはやめるといったことです。いたずらをしたり、ふざけたりしている写真のことでも、教育者としてこんな写真をうつしてよろしくないなどという人はなくて、かえって、涙が出た、みているうちに眼があつくなるなどといわれました。

私はこれからも田舎で教師をしながらこつこつ勉強していきたいと考えております。今は郷里の開拓地の様子をぼつぼつうつしています。開拓地というのは、満州などにいって帰って来たが、以前にもう家屋も土地も手放して無一物の人たちが、村で今まで耕していなかった高い山、或いは山の奥の方に入って開墾をやっているところです。そういう記録をとっておくのも大切ではないかと思ってはじめました。ひじょうに辺鄙なところでやっているのでなかなか時間がかかります。

地方にじっくりと腰をすえ、日本の社会の姿をちゃんと摑まえるいわゆるアマチュアカメラマンが沢山出来るとよいと思います。

 

※この新資料は、大学院生の山添さんが横浜図書館で検索提供した。

※前号の新資料1941年座談会は、岩波書店の桑原さんが提供。

 

テキスト考察 処女作

 

『菜の花と小娘』と擬人化作品

 

想像力を養う目的で、擬人化創作に挑戦してもらっています。志賀直哉は、この作品『菜の花と小娘』をアンデルセン張りに書いたと記していますが、この作品には、そのときの直哉の心情が大きく反映されています。この作品は、色をイメージすれば、菜の花からで当然ですが、黄色です。黄色は、賑やかな明るい、そんな印象をうけますが、反面、なぜか孤独や寂しいものも感じます。書いたころの作者はどんなだったでしょう。(『全集』年譜)

・1895年母銀病死、亨年33歳 作者12歳のとき。以後、祖母を母として育つ。

・1901年足尾銅山事件で、現地見学を父に反対され、これが不和の発端。18歳

・1902年父親が現・総武線鉄道の支配人になり、その縁で鹿野山(マザー牧場のある山)に行くようになる。現在、菜の花の名所だが、当時もそうだと推測される。19歳

・1904年21歳、アンデルセン張りの作文「菜の花」を書く。

・1906年23歳、「菜の花」を改稿「花ちゃん」この作品は『菜の花と小娘』に近い。

島崎藤村の『破壊』を読む。

・1907年24歳、家の女中Cを思うようになると日記に記す。このことで父、祖母、義母と争う。早くに母親を亡くした二十歳前後の多感な青春期。生活に困らないお金持ちの家に育った作者だが、お金だけでは、どうにもできない多くの矛盾と向き合うことになる。

社会的には、足尾銅山事件。立派な父は、なぜ現地見学を反対するのか。やさしい義母、可愛がってくれる祖母、いつも正しいことを言う父。なぜ、女中に恋してはいけないのか。人間を差別するのか。菜の花が咲き乱れる鹿野山の山頂で一人『破壊』を読みながら考えたに違いない。このときの志賀直哉は、主人公、瀬川丑松と同年齢。

『菜の花と小娘』が、日本文学名作の一編としていまなお普遍なのは、そうした作者の孤独や矛盾を土壌としているからではないだろうか。

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テキスト考察

『網走まで』について

 

テキストは、これまで『菜の花』と『網走まで』を読んだ。『菜の花と小娘』と(これから読む『或る朝』)は、志賀直哉の初期三部作品。三作とも短い作品だが、『網走』は長編を感じせる話でもある。

しかし、読み過ごせば、ただのエッセイ、そんなふうにも読みとれなくもない。どんなベストセラーも話題本も、ああ面白かった。感動した。そんな絶賛はあっても、たいていは忘却の彼方に去っていく。が、この作品は、文学を志すものにとって時代を超えて文学の土壌となり得ている。そのわけはこの作品には、想像と創造を生むだす何かがあるからではないかと思っている。

車中で同席した母子は、どこから来て、着いた先でどんな生活を送るのか。主人公にも読者にも、それを考えさせる。そこに、この作家が小説の神様と呼ばれる所以がある。

横道だが、『2001年宇宙の旅』の人気もそこにある。宇宙船デスカバリー号のボーマン船長の命はどこから来たのか。そしてどこに向かっているのか。想像と空想の挑戦。こちらは、人類の謎、人間の謎と大きいが、『網走』にも、それがいえる。

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳

 

なぜ「網走」か、『網走まで』とは何か

 

この作品は一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全な創作だという。作者志賀直哉は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。

そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。

しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。

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しかし、四十一年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、

作者の深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

題名は、この作品の最初の謎である。が、その前にもう一つ、大きな謎がある。作者は、この作品について【創作余談』で、にこのように記している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

或時、東北線を一人で帰って来る列車の中で前に乗り合わしていた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである。これは当時帝國大学に籍を置いていた関係から「帝国文学」に投稿したが、没書された。原稿の字がきたない為であったかも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

原稿の字がきたなかった――作者は、そう謙遜しているが、果たして、それだけであったろうか。なぜ、採用されなかったのか。この謎も考えてみたい。

 

テキスト間連 テキストが書かれた時代、世の中にはどんな作品があったのか

 

『網走まで』と『三四郎』

 

『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が25歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。

この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三

十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。

しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。

 

大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)

大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。

 

二月二十日 金曜日

 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。

 

ここで唐突だが、明治の文豪夏目漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。

同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞

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して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。文学一本に人生を絞ったのである。

ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。

1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。

『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。

6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。

7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。

9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に発表

 

なぜ、『三四郎』を持ち出したのか。この作品も出だしは車内観察からはじまる。子ども連れではないが、子持ちの女と同席する。『網走』は、同情と純情だが、『三四郎』は新聞小説だけに色っぽいところもある。直接的な時代批評もある。そして、主人公の目的地、東京での生活が長編で描かれている。

この作品が、単なる新聞小説で終わることなく、いまも読みつづけられているところはなぜか、『網走まで』を知るうえで、この作品の車内観察部分を読んでみることにする。

 

 

読むことの習慣化  熊谷元一と同時代の米国作家の処女作

 

熊谷が生まれた村を写真に撮っていた頃、遠く離れたニューヨークの下町を彷徨う1人の文学青年がいた。アルメニア人の作家ウイリアム・サローヤンです。

熊谷元一が生まれた年、1909年は太宰治が生れた年として覚えやすいが、1年前の1908年にサローヤンが誕生している。

 

□テキスト外読み

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

夏目漱石『三四郎』の車中観察のところ。『網走まで』との比較。

 

社会観察

「振り込め詐欺はなぜなくならないのか」

 

地域で民生委員をやっている。集会でいつも警察が説明するのは、「引ったくり」「押し売り」そして「振り込め詐欺」の三つの犯罪についてである。防ぐのは、どうしたらいいか。「引ったくり」と「押し売りは」は、注意と1週間以内の返品という防止方法がある。が、目下、お手上げ状態なのは「振り込め詐欺」だという。このところ私の地域だけでも億単位の被害がでている。5億円。ぜったい自分は大丈夫と思う人ほど危ないとのこと。

人は、なぜ、振り込んでしまうのか。わざわざ持っていく人もいる。

 

 

 

 

 

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社会観察  朝日新聞社のアンケートから

 

◆憲法全体をみて、いまの憲法を改正する必要があると思うか。必要はないと思うか。

改正する必要がある ( )

改正する必要がない ( )

・必要があるに○した人に、それはどうしてですか。

自分たちの手で新しい憲法をつくりたいから ( )

第九条に問題があるから         ( )

新しい権利や制度を盛り込むべきだから       ( )

・必要がないに○した人に、それはどうしてですか。

国民に定着し、改正するほどの問題ではないから( )

第九条が変えられる恐れがあるから      ( )

自由と権利の保障に役立っているから     ( )

 

◆憲法第九条「戦争を放棄し、戦力を持たない」について

変える方がよい     ( )

変えない方がよい    ( )

・変える方がよいに○した人に、どのように変えたらよいか。

いまある自衛隊の存在を書き込むにとどめる  ( )

自衛隊を他国のような軍隊と定める      ( )

 

◆今後の自衛隊の海外活動について あなたの考えはどれに一番近いか。

海外での活動は一切認めない   ( )

武力行使しなければ、認める   ( )

必要なら武力行使も認める    ( )

 

 

 

ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→ 参加2名 後1名 課題報告  入試問題実施  『網走まで』

5月11日(月)→ 予定 課題報告、18日ゼミについて DVD観賞と感想

5月18日(月)→ 長野朝日放送取材撮影 ゼミ参加12名(山下ゼミ)

5月25日(月)→ 参加2名 長野朝日放送5・21放映DVD「黒板絵」、

日本テレビ制作(2002)「オンボロ道場再建」

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

 

6・1下原ゼミⅡ課題(「書くこと」の習慣化を目指す) 名前

 

 

  1. テキスト感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 車内観察(ある日の電車の車内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 普通の一日

 

 

 

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