文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.268

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)6月22日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.268

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究

 

6・22下原ゼミ

 

 

6月8日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2

 

1.6・8課題報告  2.課題報告   3.テキスト読み  4.課題

 

ゼミ合宿、ゼミⅡ、Ⅳ合同 南信州「熊谷元一写真童画館」への旅か

阿智村を撮り続けてきた熊谷元一氏の写真を展示しています。
昭和20年代の写真などがあり、農村の記録としても貴重なものとなっています。
「農村記録写真の村宣言」の村・阿智村にある熊谷元一写真童画館は、郷土を70年にわたって写真で記録し続け、また伊那谷のなつかしい生活を童画で描き続けた熊谷元一の作品を保存、展示しています。さらに館では熊谷の農村生活記録写真を5万枚、データベース化しています。
熊谷元一の記録写真や童画を通して自分たちの子どもの頃にタイムスリップしたり、なつかしい日本の原風景にふれることができるでしょう。思い出の玉手箱、熊谷元一写真童画館にぜひ一度、おこしください。

 

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6・22ゼミ

  1. ゼミ連絡(ゼミ合宿など)

 

  1. 課題報告 6・8ゼミのもの。(6・15に発表されたものもある)

 

課題1・なぜ「網走」か   課題2・車内と自分観察  課題3・振込詐欺について

 

  1. テキスト読み 読むことの習慣化

 

  1. 課題、→ テキスト感想 自分か車内観察 9条について

 

 

 

 

課題報告6・15

 

◯課題1.日本国憲法、改憲か護憲か。

 

なし崩してきになるかも

蓮子あゆみ

 

私は変えなくていいと思います。国民に定着しているし、ひとつ変えてしまったら、じゃあこれも変えよう…と、きりがなくなって将来的に今の憲法とは全く違うものになってしまいそう。憲法は今のまま変えずに、何か新しく付け足せば良いと思う。
◯課題2.車内観察

 

ヒールのおばさま

蓮子あゆみ

 

朝10時すぎの電車に乗った。比較的空いている電車内、今日は各駅停車。

乗った駅から二つ目の停留所で、お高そうな香水をつけているらしいおばさまが乗車してきた。

ベージュのジャケット、黒とベージュの柄物のスカートに高いヒールの靴を履いている。うちのお母さんよりも少しおばさまといったところだろうか。とてもしっかりとした足取りでカツカツと大きい音を鳴らしながら私の目の前に座った。ふらつくことも無く歩いているから、きっとこの人は毎日のように高いヒールの靴を履いているんだろうな。私はいつもスニーカーとかローファーばかり履いていて、このおばさまのように女性的な格好をしないから、何となく悔しいと思った。露出が多いというわけではなくても、女性がヒールのある靴を履いていると美しさとかセクシーさが増す気がする。

おばさまが乗車してきて一駅も経たないくらいに、おばさまはハイブランドの大きめのバッグをごそごそと漁りはじめた。どうしたんだろう、とちらちら見る。少しして、バッグの中から簡単ケータイが出てきた。若い人にも負けないくらい高いヒールの靴を履いているおばさまが、簡単ケータイをぽちぽちと弄る姿にギャップを感じて、少しだけ笑ってしまった。
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◯課題3.三四郎感想

 

『網走』より想像しやすかった

蓮子あゆみ

 

9ページ目の11行目の『女のほうでは、この帽子を無論ただのきたない帽子と思っている。』という一文が気になりました。三四郎の考えたことや見たことをそのまま書いたものの中に、この一文だけ女の人の視点で書かれた文が混じっていたので。

女の人の特徴がしっかりと書いてあったので、網走までの時より想像しやすかったです。同じ車内観察でも、網走までと比べてこちらはあまり悲しいような不安な気持ちになることなく読めました。

6・8課題発表

 

課題1.なぜ『網走まで』か 作者は、なぜ母子の目的地を網走にしたのか。

 

 

創作性を強調するために

 

蓮子あゆみ

青森、函館にするとあまりにも現実的すぎて、創作というより単なるエッセイと思われると思ったのではないでしょうか。あくまでこれは創作なのだという作者の主張。

当時、行くことが困難だった「網走」という場所にすることでフィクションであることを表現しているのでは。

この作品を暇なときに何度か読み返しているのですが、いつも思うことがちがっていておもしろいです。また、定期的に読み返してみます。

 

□小説の神様と呼ばれる人、そうかも知れませんね。

 

 

読者に委ねたのかも・・・

 

中野資久

 

志賀直哉は、「網走まで」を、ある母子と電車で乗り合わせ、そこからの想像で書いたと語っている。そうなんだろう。彼は、淡々と母子の想像を膨らまし、母子を途中下車させた。ならば「途中下車」と題してもよさそうだが、そうはしなかった。きっと志賀直哉は読者に委ねたのかもしれない。結末を読者に委ねたのかもしれない。

 

□読者に委ねる作品。新しい感想です。

 

 

 

 

 

 

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未開の広野は森羅万象の広がり

 

大島賢生

 

「網走まで」が着想された当時、20世紀の初頭では、北海道の開拓は未だ進みきってはいない。旅の行き先をその未開の広野に置くことは、人の一生の時間的広まりを感じさせるとともに、生命、時流、万物の行き着く先へのロマンめいたものを思わせる。宮澤賢治の『銀河鉄道』に近い観点があるのではなかろうか。

 

□未開の「網走」は、万物の行き着く先、は面白いですね。『暗夜行路』彷彿。

 

 

課題2.車内観察Or自分観察 常に何かを観察する習慣をつける。

 

自分観察・朝と夕の目覚め

 

中野資久

 

先日、眠りから覚めて、ふと、時計を見ると5時になっていた。慌てて飛び起きて顔も洗わずに家を飛び出した。駅まで走り、電車に駆け込み、ひと息ついて電車の到着時刻を調べると、同時に落研のけいこに送れる旨を会長に伝えた。電車は6時15分に着くらしい。

確実に6時のけいこは間に合わない。時間通りに着くことを諦めた私は同期にけいこの

教室を聞いた。「知らない」と返信がくる。「けいこはあるのか?」と私。「ある」と同期。「ふざけてる」と思って、そこから返信せず、大学の最寄に着いて、改めて同期に連絡

「今日は、けいこあるんだよね」

「あるよ」

「何時 ?」

「12時間後」

と来た時にははたと携帯の時計を見た。6:15.

そうか、だから酔いつぶれた男が電車に乗っていたのか。

 

 

ある日の車内観察・女子生徒の仲たがい

 

大島賢生

 

高校二年のある時、僕のクラスの女子生徒数名が、たぶん些細なことで、仲たがいをしていたらしい。偶然、彼女たちとは、帰宅の方向が同じで、一緒のバスに乗り合わせた。

5人掛けの最後部座席に数人、中ほどやや前部の吊り皮のところに1人。どうも、そういう仲たがいの仕方らしかった。

僕は「後ろの友だちのところへ、どうして行かないの」と声をかけそうになって、直前で空気を察して止めた。

けれども確か、再び仲良しに戻っていたようだ。

 

□バス観察

 

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課題2.社会観察・「なぜ振込詐欺はなくならないのか」

 

道徳をあげる危険性

 

大島賢生

 

詐欺等、こういった問題で、結果めいて出てくる単語が「道徳」であるが、それこそが、人間を開き直らせ、自ら考える動機を失わせているように感じる。

 

□そうですね。対策をかえてみる必要がありそうです。

 

 

振込詐欺は親子の情の証

 

中野資久

 

この世に親が子を思う心が亡くならない限り、振込詐欺がなくなることはない。違う視点でこのことを見ると、現代にまだ、親子の情というものがあると確認できる。振込詐欺が亡くなるということは、親が子を思う心が何なったということになるかもしれない。

 

□たしかに、視点を変えれば、そうかも知れません。人間社会の根幹の悪用。それだけに許せませんね。

 

さびしさと、頼られて嬉しい気持ち

 

蓮子あゆみ

 

大人になるとみんな自立して親も戸を離れることが多いと思うのですが、そうなった時って、結構さびしいと思うんです。親も子どもも。

私は、まだ親になった事がないないので、父や母の気持ちはよく分からないのですが、小どもとしては迷惑をあまりかけたくない、心配をそせたくないからと連絡をあまりしなくなることがあります。親は、さびしい心配だからもっと頼りなさいと言ってきます。このことから考えるに、子供が自立して、家族を持って、あまり頼られなくなったご老人(お年寄り)などの詐欺の被害が多いのは、久しぶりに子供に頼られて嬉しい、というのと、久しぶりに連絡してきてくれて嬉しいから、ではないでしょうか。

私もじいちゃん、ばあちゃん、親に連絡してみようかなあ。

 

□話すことがない、は常套句ですが、声だけでいいのです。

 

 

 

 

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『網走まで』を考える

 

下原敏彦

 

小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。

かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。

そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。

小説『網走まで』は、僅か二十枚足らずの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。なお、枚数が限られているので本誌に掲載するのは第一章「網走をめぐる謎」のみとします。

この稿が下原ゼミ「2015年、読書と創作の旅」の成果の一つとなれば幸いである。

『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者は、なぜ題名にしたのだろう。旅の目的地にしたのだろう。はじめにそのへんから考えてみたい。

インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところだという。明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。

「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」

なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。

そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その印象がそれほど浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかった。そんな、地名をなぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように・・・。

のっけから大きな謎である。もう少し考察してみることにする。

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『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を人りで帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。さすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。青森という地名の由来は諸説あるが、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的には知られていたわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ青森ではなく、網走なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問が浮かぶ。函館なら、よく知られてもいるし、ある歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三が戦死した土地。明治新政府と北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。当時も一般的知名度はかなり高かったのではと想像する。しかし、明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名も全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても「網走」としなければならない何かが・・・・。

しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、『網走』という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画辺りからだろう。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。

同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』のような一種文芸的作品を彷彿させた映画だったが、第二作目からガラッとやくざ映画に転向。総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを、救うため最後の最後に、たった一人でドスを片手に敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。

 

どうせ おいらの行き先は 網走番外地

 

とたん、満席、立ち見で立錐の余地もないほど入った映画館の場内から一斉に拍手がわいた。

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なにやら、今ふりかえれば異様な光景である。が、当時の若者、全共闘世代にとって網走は畏怖しながらも憧れの土地であった。

で、当然といえば当然だが、1960~70年代、網走は、刑務所のある町。そんな印象が強くあった。そして、その刑務所も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の極悪人の行くところ。そんな印象だった。この町に志賀直哉の時代は、どんなイメージがあったか知るよしもない。が、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。アメリカ映画で『縛り首の木』というのがあったが、無法者の金鉱の町の話だった。網走も同様、とんでもない未開のなかの未開の町。ろくな人間はいかない土地。作者のそんな思いを感じることができる。

志賀直哉の処女作品『網走まで』には、大きな謎が二つあるとして、前述では、その一つの謎、題名にこだわった。即ち、なぜ「網走」かである。当時、東北以北は、未開の地であったはずである。それを、まだ鉄道も敷かれていない、「なだれのある」熊と無宿人の土地。そんな未開のなかの未開の土地を題名にする必要があったのか。それとも網走に強い思い入れがあったのか。当時の現状から推測してみたが、これといって思い当たるものはなかった。

では、やはり作者が、サイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げだが、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。(書いている最中に、郵便配達が二度ベルを鳴らした。それで『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』そんなタイトルをつけたという米国作家の逸話話を聞いたことがある。が)志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。いずれも、その土地に作者が関係している。関係していると思われる。

この網走だけが、なんの関連も思い浮かばないのである。なぜか。そこで、まったくの想像だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関連するのではないだろうかと考えた。毒には毒を、謎には謎をもって制す、というわけである。

それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、この作品『網走まで』が、応募先の編集部で没にされたという事実である。前号でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それより、まともな編集者であったなら、たとえ一行でも輝ける文をみつければ、たとえミミズがのたくっていようがなんとかして解読を試みようとするはず。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかった。見る目をもつ者がいなかった。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、と思いたい。なんでもないエッセイのような車中作品。だが、この作品は、ただならぬものを秘めている。まず、そのことに気づくはずである。私としては、決して『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったわけではない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。

では、なぜ、彼らは『小説網走まで』を、没にしたのか。させたのか。顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。彼

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らが絶賛し、また現代においても、充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。俄かには信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。

では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。

 

  1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
  2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
  3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
  4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)

 

没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。

『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに小説『網

走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。

それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの

があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。

余談だが、先般、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を稀に見る名作と踏んだ。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。

では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。

「どちら迄おいでですか」と訊いた。

「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」

「何の国になってますかしら?」

「北見だとか申しました」

「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」

「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」

ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪

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なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深

 

い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治二三年前身の「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人がおくられてから、既に十八年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。

網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母親の母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。

恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。

だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。(第一章 完了)

 

三、なぜ「日光」か

 

宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)

 

冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。このころ華厳の滝は、

「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。

国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ずるだけだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品

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の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。

 

 

それでは『網走まで』とは、どんな物語か。すじらしいすじはないが簡単なあらすじは、およそこのようである。

夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いところなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわいそうだ。という思いの方が先に立った。「網走」という地名に、草稿では、熊がでる、ジミチではない連中が住むところ、という印象を持っている。

この幸薄い母子のために私は、何ができるのか。(全人類の幸福のために小説を書く)という私だが、できることはよれたハンカチを直してやることと、頼まれた葉書を出してやることぐらいだった。作者のやさしさが感じる作品。だが、作者の若さをも感じられる作品でもある。同情した。かわいそうに思った。だから葉書を見てもかまわない。そんな自己満足が垣間見える。(「同情するなら金をくれ」テレビドラマでこんなせりふがあった。人間社会の現実である。が、主人公はまだ知らない。まだ甘ちゃんなのだ)

「網走」の謎

 

この作品には、大きく言って二つの謎がある。一つは、題名の「網走」である。作者は、なぜ網走とつけたのか。なぜ青森でも、函館でも、札幌でも、旭川でもなくではな網走なのか。第一、当時(明治41年頃)は、北見が終着であったという。そもそも網走までは、鉄道が敷けていなかったのだ。網走まで行くには、列車を札幌から帯広、池田、北見まで乗り継ぎ、北見から徒歩で向かわなければならなかった。それも囚人が原野を切り開いて作った道を、である。雨で降ったらとても歩けたものではない。それに、ふつう「網走」といえば、後世の読者は網走駅を連想してしまうだろう。作者はのちに『創作余談』において、この作品は「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである」としている。そうだとすると、作者は東京に向かいながら全く反対の方向の、それも、まだ鉄道のいっていない網走を想起した。草稿に題名として「小説網走まで」、としていることから、すでにこの地名はゆるぎないものであったことが伺い知れる。青年志賀直哉は、母子の行き先を、なぜ網走としたのか。網走でならない必要性があったのか。作品を読みながら考えて行きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.268 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

ゼミⅡ旅日誌

 

4月13日(月) ガイダンス4名(男子2名、女子2名) 授業外1名(男子)

ゼミの目標 DVD(イブニングニュース)観賞。

4月20日(月) 参加3名、後1名。ゼミ誌編集・連絡委員決め。蓮子・大島に。

読むこと → 「精読と多読」『菜の花と小娘』の読み。

書くこと → 「読書について」「『菜の花』感想」「沖縄問題」「小1の記憶」

4月27日(月)→ 参加2名 後1名 課題報告  入試問題実施  『網走まで』

5月11日(月)→ 予定 課題報告、18日ゼミについて DVD観賞と感想

5月18日(月)→ 長野朝日放送取材撮影 ゼミ参加12名(山下ゼミ)

5月25日(月)→ 参加 蓮子、中野 長野朝日放送5・21放映DVD「黒板絵」、

日本テレビ制作(2002)「オンボロ道場再建」

6月1日(月)→ 江古田で会場準備 参加、大島、中野

6月8日(月)→ 参加 大島 中野 蓮子 ゼミについて 『網走まで』題名考。

読む、名作を知る、サローヤンの『空中ブランコ』

6月15日(月)→ 参加 茄子 課題報告 集団的自衛権について、石川達三『生きている兵』の読み

6月22日(土)→

 

 

掲示板

 

課題1.テキスト感想

 

課題2.自分観察

 

課題3. 車内観察

 

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会読書会

 

・2015年8月15日(土)時間、2時~4時45分

・東京芸術劇場(池袋)第7会議室

 

写真集『黒板絵は残った』は日藝江古田購買部マルゼンで

 

連絡先電話番号は03-5966-3850です。

FAX 03-5966-3855 E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp

 

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編集室 : 原稿、発表したい人は、「下原ゼミ通信」編集室まで

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 電話047-475-1582 携帯090-2764-6052

メールは toshihiko@shimohara.net

 

6・22下原ゼミⅡ課題(「書くこと」の習慣化) 名前

 

 

  1.  テキスト(『出来ごと』)感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 車内観察(ある日の電車の車内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3. 自分観察(ある日の日記)

 

 

 

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