文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.273

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)10月5日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.273

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/28 10/5 10/19 10/26 11/9 11/16 11/23 11/30 12/7 12/14 1/18 1/25

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究&志賀直哉

 

10・5下原ゼミ

 

熊谷元一研究 18回熊谷元一写真賞コンクール審査会終わる

 

9月29日(火)新宿区ホテルグランドヒル市ヶ谷にて審査

 

全国応募作品数955点から 元一写真大賞決まる!

 

他、阿智村賞・信濃毎日新聞賞・JAみなみ新聞賞など

 

審査員 ・増田今雄(長野県写真連盟監事)   ・須藤功(民俗写真家)

・毛利英俊(信濃毎日新聞社写真部長) ・佐々木賢実(熊谷元一写真保存会)

・飯沢耕太郎(写真評論家、日藝講師)

9月29日(火)新宿にあるホテルグランドヒル市ヶ谷で、第18回熊谷元一写真賞コンクールの最終審査会が開かれた。全国から応募があった写真作品は955点。そのうち9月25日、地元阿智村で開かれた第一次審査通過500枚が審査対象となった。

都道府県別応募状況

 

全国応募955点の主な内訳は、以下の通り。

()は作品数

・長野県139人(366)・北海道6人(18)

・青森1人(2)・岩手6人(27)・秋田5人(14)

・茨城3人(6)・東京13人(36)・神奈川16人

・静岡24人(77)・愛知11人(31)・岐阜8人

・資が2人・三重5人(22)・大阪5人(12)

・京都6人(17)・岡山7人(28)・山口7人(18)

・高知4人(17)・宮崎1人・熊本3人(4)

 

 

 

第17回審査会風景(指差しは飯沢氏)

 

表彰式 西新宿ヒルトピアアートスクエア 午後1時~

第19回募集テーマ「祝う」? 2016年のテーマ

 

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熊谷元一研究  ゼミ合宿で見学した「満蒙開拓平和記念館」は熊谷元一研究をすすめる上で謎解かねばならない最重要課題の一つ。

 

「熊谷元一と満州」について

 

熊谷元一と満州は、熊谷が拓務省(大東亜省)に勤務した6年間に過ぎないが、満州が熊谷に与えた影響は大きい。その後の人生を左右するものだった、と想像する。研究のスタートは、そこからはじまった。

熊谷と満州の関わりは、深い。自伝『三足のわらじ』によると以下のようである。

 

1939年(昭和14年)30歳 6月拓務省(大東亜省)嘱託として採用され故郷「会地村」から上京する。東京の池袋に下宿する。8月、写真班として満蒙開拓青少年義勇軍撮影のため満州に行く。1カ月の撮影取材。

1941年(昭和16年)32歳 10月 満州へ出張。

1943年(昭和18年)34歳 満州へ出張。

1945年(昭和20年)36歳 4月13日空襲にあい、満州関係のネガを焼失する。6月大東亜省を退職し、故郷の会地村に帰る。

 

満州とは何か

熊谷元一と満州について知る前に、「満州とは何か」についてHP検索してみた。

満洲国建国以前に女真族(後の満洲民族)の建てた王朝として、後金(後の)がある。1912年の清朝滅亡後は中華民国が清朝領土の継承を主張したが、外満洲アイグン条約及び北京条約ロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順大連旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、ポーツマス条約により日本租借地となっていた。内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、日露戦争以前にはロシア軍鉄道附属地を中心に展開し、日露戦争後は長春寛城子)以北の北満洲にロシア軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本軍南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。日本やロシア(及び継承国のソ連)は自国の満洲権益に関して清朝や中華民国と条約や協定を結んでおり、満洲の主権が清朝及び継承国の中華民国にある事は承認ないし黙認していた。また日本は1922年支那ニ関スル九国条約第一条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥実効支配下に置かれていた。1928年12月29日に奉天軍閥が国民政府に帰順(易幟)した事により、実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。

1931年9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月1日の満洲国建国に至った。元首満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。

 

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満州国皇帝・愛新覚羅溥儀について知るには映画

「ラストエンペラー」がわかり易い。

『ラストエンペラー』は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。

映画監督ベルナルド・ベルトルッチ

満洲国は建国にあたって自らを満洲民族漢民族蒙古民族からなる「満洲人満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和王道楽土を掲げた。

満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀

満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[1]。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツイタリアタイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国[要検証 ノート]の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた[2]アメリカイギリスフランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の1945年康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソ連軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国の支配下へと戻った。その後は国共内戦を経て中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国および中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満」「偽満洲国」と表記する[3]。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。

時代に翻弄された熊谷の青春[

1910年 大逆事件 韓国併合。

1923年 14歳 関東大震災 翌年 治安維持法。

1931年 22歳 満州事変 代用教員しながら漫画を描く。武井武雄に認められる。

1932年 23歳 関東軍、満州国宣言 5・15事件で犬養毅首相暗殺。

1933年 24歳 国際連盟脱退 赤化事件で教師退職。

1936年 27歳 2・26事件 カメラで村を写し始める。

1937年 28歳 日中戦争『アサヒカメラ』に写真評が載る。38年『會地村』朝日新聞社

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1939年 30歳 拓務省の嘱託となり上京。満蒙開拓青少年義勇軍撮影の仕事で満州に。

1941年 32歳 大東亜戦争12月8日、日本真珠湾攻撃 大東亜省の仕事で満州出張。

アサヒカメラ座談会「日本精神と写真の行くべき道」に土門拳と出席。

1945年 36歳 6月大東亜省を退職して郷里へ。7月召集、広島、長崎原爆投下。

8・15終戦 熊本の部隊で迎える。

1946年 37歳 日本国憲法発布 軍務召集解除で国民学校教師に戻る。

1953年 44歳 実践教育をはじめる。小学一年生を担任、一年生を写真に撮る。

 

熊谷元一研究

 

夏目漱石と満州

 

時代は、前になるが、文豪、夏目漱石は、満州をどのようにみていたか。2013年に発見された「韓満所感」には、このように書いている。

韓満所感(上)」の記事で、伊藤博文の暗殺事件に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公が哈爾浜で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」[2]などとした上で「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想などが綴られている。

また、11月6日付け「韓満所感(下)」の記事では、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」などと書いており[3][4]、当時の漱石の「アジア観[5]」などが記されている。

批評

この一連の記事に対し、比較文学者の平川祐弘東京大学名誉教授は、「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳上田敏のような政治的叡智(えいち)は示していない。正直に「余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た」「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつた

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と思つた」と書いている。「まあ」に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ。」と評している。[6][7]

また、作家黒川創は、「漱石は政治家運動家のような民衆の代弁者ではなく、ぐずぐずした個人の自由や生活を守ったまま、距離をおいて国家に向き合った。当時の日本人は現代の尖閣諸島問題に対するのとは違い、伊藤博文暗殺事件に過敏に反応するのではなく、何となくやり過ごそうとしていたような印象を受ける」と評している。

 

 

熊谷元一は、1939年拓務省嘱託として満州に渡り、満蒙開拓青少年義勇軍の写真を撮り歩く1941年、1943年にも出張で満州各地を写真に撮る。

 

日本は、なぜ満州国をつくったのか。石川達三の『蒼氓』(そうぼう)を読む。この作品は、太宰などの大物流行作家を押しのけて、栄えある第一回芥川賞となった。

 

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志賀直哉 自分観察 志賀直哉の作品は、しっかりした観察から成っている。自分観察から創作に。

 

私の夏休み

齋藤真由香

 

二ヶ月という長い夏休みの計画は、夏休みのはじまる前に立てていた。九月に旅行をしたり、卒論に集中して引きこもるべく、八月のうちに目一杯アルバイトやインターンに励もうと、週5でぎっちり働く予定をたてた。毎日の勤務はつらかったが、九月まで我慢すれば…………の一心で、歯を食い縛って頑張った。しかし何とも残酷なことに、私の楽しい九月の予定は、肺炎のために泡となってしまった。

前兆は八月の末頃からあった。どうにも身体がだるく、熱っぽいような気がしていたのだ。ただの風邪だろうとたかをくくって、放っておいたのがまずかったらしい。インターンの連勤を終えた週末に、気が緩んだのか、39.7分の高熱を出して、緊急外来にかかることとなってしまった。

それからは、あれよあれよと病院をたらい回しにされ、様々な検査を受け、マイコプラズマ肺炎だろうと診断を受けた。入院寸前の容態だったが、病院の空きがないこともあり、自宅療養を命じられた。もちろん計画していた旅行はパーだ。

それから二週間ばかり軟禁生活を送ったが、これがどうしようもなくつらかった。薬の効いているあいだしか、眠れないのである。高熱にうなされながら、眠ることもできず、読書やらの暇潰しに励む気力もない。ましてや卒論なんて、できる筈もない。物もろくに食べられず、水分を取るのがやっと。体力もすっかり落ちてしまって、病院へ通うまでのほんの少しの徒歩で息切れをしてしまう有り様だった。

ようやく自由に外へ出歩けるとなった頃には、夏休みは終わっていた。二週間ぶりに乗る電車で、どこに遊びに行くでもなく、授業のために学校へ向かっているとき、どうしようもなく切ないきもちになった。

 

50年前の夏休みを思い出して創作作品をつくる。48年前 1965年→1967年にする

 

草稿1回 計根別まで(20~50枚)

下原敏彦

あらすじ

夏休み明け、大学バスの車内、学生たちの会話、海外旅行、バイトなど各人各様な夏休みの話。私は思い出す。忘れない夏休み。いつの日か、北海道の計根別まで行きたいと思う。しかし、実行することなく過ぎてしまった40年の歳月。

1967年、チェ・ゲバラが死んだ年、ベトナム戦争は、火がついたばかりだった。あの年の夏のはじめ。バイト探しに下落合にある学生援護協会に行った。壁に貼られてあった一枚の募集ビラ「北海道の大地で汗を流してみませんか」住み込み三食付き500円。交通費や全額支給。目的なかった大学生活にぽっと明かりがついた。私は、申し込む。

説明会があった。牧場の仕事は辛く厳しい話。昨年も半数が途中で逃げ出すか帰ってきた。70人ほどいた学生は、20人前後に。結局は16人になった。2ヶ月間。学校に話すと、満州帰りの教授は、「落語しなかったら単位あげます」と、笑った。結局は各大学の学生16名。夜行寝台列車で青森、連絡船、函館から札幌で分かれる。稚内組、釧路、網走、私たち7名は計根別駅で、各農家に配属される。私が働くことになった農家は、入植13年の酪農、夫婦、子供3人の家だった。中学生の長女、小学5年の次女、小学三年の長男。長男は、一点を見つづける性癖。いまでいう発達障害児。朝5時起き、夜7時までの酪農生活

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志賀直哉の車内観察作品を読む

 

この車内観察作品は、日本文学のなかでも名作といわれています。70年前の10月中旬の夜8時頃の山の手電車外回り線の車内観察です。時代は、戦争が終わって二カ月が過ぎたばかり。(8月15日玉音放送)

灰色の月

志賀直哉

 

東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。

薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。

遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、入口の方へ真横を向いて腰かけていた。その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、

「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。

「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。

「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。

若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、

「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。

浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。

「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかった

が、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内

には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。

男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。

笑った仲間も少し変に思ったらしく、

「病気かな」

「酔ってるんじゃないのか」

こんなことを云っていたが、一人が、

「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。

地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさ

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しの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供ら

しく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。

少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、

「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。

「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」

少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、その時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。

「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、

「渋谷から乗った」と云った。誰か、

「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。

少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、

「どうでも、かまはねえや」と云った。

少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。

近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。

昭和二十年十月十六日の事である。

(『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)

『灰色の月』は400字詰め原稿用紙にして僅か6、7枚の作品である。見方によれば、エッセイのような小説とも呼べない小話である。だがしかし、この作品は、数百枚の作品にも匹敵するものがある。時代の目撃者といえる。

たんに面白いだけの小説、感動もの。それらはどんなにベストセラーになっても時代の流れとともに消え去るだけ。『網走まで』や『灰色の月』は、何の変哲もない短編。だが、両作品とも文学の手本として、読み継がれている。

平成27年10月5日

 

 

『黒板絵は残った』(D文学研究会)|¥1800+税

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2015・10・5下原ゼミ課題

名前

 

 

「私の夏休み」(或る日の生活)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「車内観察」

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