文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.274

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)10月19日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.274

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/28 10/5 10/19 10/26 11/9 11/16 11/23 11/30 12/7 12/14 1/18 1/25

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究&志賀直哉

 

10・19下原ゼミ

 

熊谷元一研究 18回熊谷元一写真賞コンクール展

 

 

入賞・入選作品展 昼神・新宿の2会場で

阿智村では稲刈りも終わり、秋の色が日増しに濃くなってまいりました。関東の保存会員の皆様もつつがなくお過ごしのことと存じます。

さて、今年で熊谷元一写真賞コンクールも第18回をかぞえ、「親子」のテーマで募集したところ、全国から955点もの作品の応募があり、9月29日に新宿・市ヶ谷で5人の審査員により審査を行った結果、27点の入賞作品が決まりました。

入賞・入選作品展は今まで昼神の熊谷元一写真童画館で行ってまいりましたが、今年は、昼神と新宿の2会場で展示することになりました。

熊谷元一写真保存会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1展示会場 : 熊谷元一写真童画館アートギャラリー(無料)

長野県下伊那郡阿智村智里331-1 ℡2065-43-4422

 

10月28日(水)~平成28年1月25日(月)9時~5時

(火曜日・年末年始休館。但し、11月3日は開館)

 

2展示会場 : ヒルトピア アートスクエア(無料)

東京都新宿区西新宿6-6-2 ヒルトン東京地下1階

℡03-3343-5252 新宿西口京王デパート前より、ヒルトン東京

行シャトルバス運行

 

10月28日(水)~11月3日(火)午前10時~午後7時

(10月28日は午後1時~。11月3日は午後4時迄)

※11月3日午後1時から展示会場で表彰式を行います。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

熊谷元一研究  第1、第2展示会場案内図

 

 

―――――――――――――――――― 3 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.274

 

下記の写真 熊谷元一撮影 昭和32年

 

1028日(水)~113日(火)新宿ヒルトピアアートスクエア

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274―――――――― 4 ―――――――――――――

 

社会観察 また、国会議員が揃って靖国神社を参拝した。18日、岩城法相と髙市総務相が靖国神社に参拝した。例に寄って中国と韓国は反発の論評を

発表した。なぜ、国会議員は、参拝したがるのか。選挙が近くなったせいか。

 

■靖国参拝問題■

この問題は、1985年中曽根首相のとき合祀参拝を公式拝行事としたため外交問題となるようになった。それ以降、毎年8月15日が近づくと賛否の騒ぎになっていた。が、小泉政権になってからは、参拝を公約したため通年の問題となり、中国、韓国の反感をいっそう買うようになった。自分ちの墓参り、歴史事で人からとやかく言われたくない。いや、過去の侵略戦争に気遣うべきだ。以来、喧々諤々ではある。

この問題、ゼミでもときどき話し合っている。過去には「参拝はかまわないのでは」という人が多かった。が、揃っての参拝行動については、「やめた方がよい」が多かった。ちなみに、過去の朝日新聞の電話世論調査は、「やめた方がよい」52%、「続けた方がよい」は36%だった。が、尖閣問題が深刻になってきている近年は、どうか。

今、この問題は、日本のアジア外交のトップにあることからとりあげた。

まず基本的なことからはじめてみたい。はじめに豆知識として「靖国神社とは何か」を靖国神社HPで調べてみた。以下の通りである。

■靖国神社(正確には靖國)=国家を安泰にする、の意味。(大辞林)

明治2年(1869)6月29日 明治天皇の命により「東京招魂社」として建立される。

戊辰戦争(1868)の明治政府軍の戦没者を祭るために。

明治12年(1879)「東京招魂社」を「靖国神社」と改称。

昭和34年(1959)最初のA級戦犯合祀。

昭和53年(1978)東条英機ら14人のA級戦犯を合祀。

靖国神社には、平成16年10月17日現在、246万6532柱の御霊が祀られている。

日本の国のために死んだ軍人・軍属・それに準ずる文官、民間、学徒である。内訳は以下。

・戊辰戦争7751柱 ・西南の役6971柱 ・日清戦争1万3619柱 台湾出兵1130柱

・義和団事変1256柱 ・日露戦争8万8429柱 ・第一次世界大戦4850柱 済南事変185

・満州事変1万7176柱 ・日中戦争19万1250柱 ・大東亜戦争213万3915柱

 

中国など周辺国が問題にしているのは、この中に、14人のA急戦犯が入っていることもある。A級戦犯とは、東京裁判で判決が決まった人たちのことで、東条英機、広田弘毅はじめ7人が絞首刑になった。このA級戦犯はじめ極東アジアで裁判にかけられた軍人軍属も合祀しようという運動が1956年ごろからはじまり、1978年10月17日に国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀されることが決まった。

しかし、翌年79年4月19日にマスメディアの知るところとなり、以後、宗教問題としても論争されるようになった。(靖国神社HPより)

現在、分祀案もでている。

 

【靖国問題について】

 

○ 靖国神社に行ったことがあるか →  ある   ない

○ 靖国問題に興味あるか → ある  あまりない  まったくない

○ 靖国神社ついて知っているか → ほとんど知らない  知っている

○ 参拝について → 公人は反対  自由私

○ 分祀について → A級戦犯、東京裁判をもう少し知る必要がある  かまわない

参拝賛否は現在の問題だが、問題行為は半世紀以上も前である。

―――――――――――――――――― 5 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.274

 

志賀直哉の車内観察作品 1945年10月16日夜8時頃の山手線外回り車内

 

解説 この作品「下原ゼミ通信」編集室では、このように読みました。感想あったら寄せてください。

 

『灰色の月』を読む

 

はじめに

この作品は、僅か6、7枚の分量なのに、中長編にも匹敵するものを感じる。千枚の告発文にも勝るものがある。その夜、乗り合わせた車内観察。一見なんでもない風景。そこになにを感じるか。浅瀬のようで、限りなく深い作品。

作者志賀直哉の車内観察は、僅か数行の人物描写でも、常に時代を超えている。人間の愚かさ、無力さを描いている。それ故にこの作品は、というよりこの作者の車中文学全般は、一時代の一電車車内を映しながらも普遍でありつづけるのである。

『灰色の月』は、一見、なんの変哲もない車内エッセイである。だが、ここには現在、日本が抱える様々な問題が潜んでいる。日本の為政者は目まぐるしく変わっている。靖国神社参拝問題は、戦争責任は棚上げされたままだ。最近では、こともあろうに、あの戦争は正しかったのだ、という人も現れている。大国を相手に堂々やりあった、がその理由らしい。本当にそうか。この作品は、今の日本人に訴えている。

なお、本文は小話48年発行の岩波書店『志賀直哉全集』を『下原ゼミ通信』編集室で現代読みにしたもの

 

灰色の月

 

表題に凝る作家と、頓着しない作家がいる。志賀直哉は、それなりに拘泥した作家のようである。例えば処女作の一つ「花ちゃん」は『菜の花と小娘』になった。『暗夜行路』も『和解』も簡潔だが、葛藤の深さを感じる。この作品も、草稿ノートには、「白いつき、白い月、しろいつき、しろいつき」という書入れがあったという。『灰色の月』に決まるまで、あれこれ模索したに違いない。が、つけてしまえばぴったりする。それが名作である。

灰色・・・はっきりしない、うっとおしい色である。そんな月が、都会の夜を照らしている。地上はほとんど真っ暗いに違いない。狼男かドラキュラでもでそうな不気味さがある。作品をよく表した題名といえる。それでは、作品を検証・考察していきます。

 

東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。

 

東京駅は、大正3年12月30日アムステルダム中央駅をモデルにルネッサンス様式赤レンガ駅舎として開業された。原敬首相暗殺や浜口幸雄狙撃など、大きな政治的事件は起きたが、建築的にはいたって頑丈で、大正12年のときに起きた関東大震災でも被害はなかった。それなのに「屋根のなくなった歩廊」、とはどういったことか。疑問は、冒頭のこの光景からはじまる。なぜ、屋根がないのだろうか。日付も説明もないから、読者にはわからない。が、その疑問は、すぐに明らかになる。ちなみに「上野まわり、品川まわり」とあるが、山手線が現在の環状運転になったのは大正14年のことである。と、するとこの物語はそれ以降の話ということになる。「着て来た一重外套」から、季節は初秋とわかる。屋根のなくて見通しのよいホームからは何が見えるか。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274 ―――――――― 6 ―――――――――――――

 

 

薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。

日本橋側の焼跡」で、読者は、ようやく情景を思い描くことができる。都心の「焼跡」といえば、東京大空襲しかない。B29の爆撃で焼け野原と化した東京。文面の印象から静けさを感じるから、既に戦争は終わっているようだ。8月15日に終戦。山手電車も普通に走り出したのなら、10月初旬の頃だろうか。この時の乗客は、どんなだったか。

 

遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、

つぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。

 

ここには東京駅から有楽町までの車内の乗客観察が描かれている。当時の(終戦直後の)夜八時半頃の山の手電車の、乗車状況がどうだったかは知らない。しかし、「車内はそれ程

混んでいず」とあるから7、8割の乗客があったかも。観察では、右隣の「もんぺ姿の女

のほかに「少年工」のことが書かれている。「連続的なのが不気味に感じられた」とあるから七、八分入りの車内で少年は目立った存在だったのだろう。が、ホームに着くたびに乗客は入れ替わる。志賀直哉(この作品では、主人公を志賀直哉本人とみるべきである。続々創作余談で「あの通りの経験をした」と語っている)は「車中の人々」を、どう描いたのだろう。みてみよう。山手電車は、有楽町、新橋と停車していく。

 

有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、

「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。

「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。

「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。

 若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、

「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。

 

乗客はリックサックを背負った人が多くなった。有楽町、新橋から混んできたというから、新橋あたりに市場があったのだろうか。しかし、時間を考えると戦後の闇市を想像する。話は逸れるが、闇市で思い出すのは、昭和40年前後に流行ったヤクザ映画の一つである。当時、高倉健、鶴田浩二の任侠ものが全盛時代ではあったが、それとは違う、戦後のドサクサを描いた、闇市ヤクザ路線も流行っていた。安藤昇という大学出のインテリヤクザが、足を洗い映画監督になってつくったもので闇市がリアリティあった。殺伐とした時代だが、主人公の観察は「一頃とは人の気持も大分変わってきた」と、戦争、終戦で埃のようにまいあ

―――――――――――――――――― 7 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.274

 

がっていた世の中が、漸く治まってきたと見ている。観察は、乗客の表層面から、会話や一人ひとりの感情や思考へと移っていく。

浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。

「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかったが、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。

男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。

笑った仲間も少し変に思ったらしく、

「病気かな」

「酔ってるんじゃないのか」

こんなことを云っていたが、一人が、

「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。

山手電車は、浜松町、田町、品川と過ぎていく。車内は益々混んできた。乗客も入れ替わったが、あの少年工は、まだ乗っていた。「依然身体を大きくゆすっていた」ところから、

他の乗客たちも注目する。奇妙な動作。主人公からは見えなかったが「少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。」会社員たちは笑い、車内の雰囲気は快活になった。しかし、新橋から乗っている25、6の若者は、少年工をずっと観察していたので、なにかがわかったようだ。いまでこそ、若者は血色のいい丸顔であるが、戦時中は、この少年工と同じだったことがわかる。「そうじゃないらしいよ」その意味は、皆にもすぐわかった。ここから主人公は、この少年をじっくり観察することになる。

 

地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさしの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供らしく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。

 

破れ、つぎはぎだらけの工員服。よごれた細い首。甘えるように頬ずりする子供らしい顔。一見、無邪気な光景描写である。しかし、読者は、凍りつく。少年の子供のような仕草は何を意味するのか。この世の全てを放棄した姿。恐れを知らぬ幼児の表情。それとも写真で見たホロコーストの順番を待つ人々の顔か。上野の山ではこのときもバタバタ飢え死んでいる。

 

「オイ」前に立っていた大きな男が少年工の肩に手をかけ、「何処まで行くんだ」と訊いた。少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、

「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。

「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」

乗客は、少年の運命を知っている。なんとかしたい。男が聞いたのもその表れだろう。しかし、少年には、もはやどうでもよいことだった。こんな日本に誰がした。そんな怒りや絶望も、もはやない。乗客にできることは、電車の方向を教えることだけだった。

 

少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、そ

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

 

の時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を

全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、

少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。(一貫=3・75k)

 

私は、なぜ少年を突返したのか。死神がついている。無意識にそれをみたのかも知れない。このときの私は、体重が13貫余りというから50㌔に満たないわけだ。少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。とあるから、少年は栄養失調を過ぎた体だったのだろう。この少年にたいして何をしてやれるのか。作者には『小僧の神様』になれる余裕も体力も気力もなかった。このときの気持を作者志賀は【続々創作余談】でこう述べている。

「あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮に自家へ連れて来ても、自家のものだけでも足らない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかっている時で、どうする事も出来なかった。まつたくひどい時代だった。」

 

「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、

「渋谷から乗った」と云った。誰か、

「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。

少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、

「どうでも、かまはねえや」と云った。

少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。

 

どうやら少年工は、山手線に乗ったままぐるぐる回っているようだ。乗客たちは、おせっかいに、むろん悪気はないのだろうが騒ぎだした。少年も皆が自分の行き先に注目していることがわかった。山手線を一回りしようが何周しようが、少年にとってどうでもよいことだった。少年は、現世とは、もはや完全に縁を切った世界にいる。他者は、どうすることもできない。ヘミングウェイの短編に『殺し屋』というのがある。不況とギャングが横行するアメリカの暗黒時代の話だ。主人公のニックが働くレストランに二人の殺し屋がやってきた。時間まで待って殺す相手が来ないとわかると帰って行った。ニックは、知らせに走った。だが、狙われている「オール・アンダーソンは、きちんと服を着たままベッドに横になっていた」そうして逃げようともせず、他人事のように「どうしょうもねえんだ」と言うばかりであった。死ぬことを、殺されることを受け入れた人間の前にニックは、なす術もない。このときの作者も同じ気持であったのかも知れない。

 

 近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。昭和二十年十月十六日の事である。

(『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)

 

「暗澹たる気持」志賀直哉は、この「暗澹」、アンタンという言葉をこの時代、何度か使っている。が、おそらくこの言葉が最初に口にでたのは、あの日ではなかったか、と推測する。

昭和8年2月25日(土)の日記にこう書いている。

<MEMO 小林多喜二2月20日に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。ふと彼等の意図ものになるべしという気する>

 

―――――――――――――――――― 9 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.274

 

このとき志賀直哉が抱いたアンタンは、国民を戦争へと駆り立てていった為政者たちへの怒りと憎しみ、それを阻止できなかった悔やみと後ろめたさ。今日、靖国神社は戦犯合祀の問題でゆれている。死ねば、誰しもが英霊か。否、時の為政者は、死してなおその罪を償わなければならない。それが為政者の使命であり、義務である、と編集室は思う。

 

小林多喜二と志賀直哉

 

日本経済が傾いて久しいが、悪くなりはじめの頃、小林多喜二の『蟹工船』が評判になったことがある。ワーキングプア、若者たちの貧困などから注目されるようになったようだ。小林多喜二の作品は、現実社会を的確に捉え、反映しているのかも知れない。

完璧なまでのプロレタリア作家・小林多喜二と、貴族趣味作家と揶揄される志賀直哉。両作家は、対極にあると見える。が、両者は、お互いを理解し、尊敬しあっていた。多喜二(29)は、昭和8年(1933)2月20日東京築地署で特高警察により拷問死させられた。歴史に「たら、ねば」はないが、もし戦後まで生き、『灰色の月』を読んだら、どんな感想をもっただろうか。おそらく、すぐに直哉の家に駆けつけ、「はじめて文学の真髄がわかりました」と熱く文学談議するに違いない。両雄相識る。志賀直哉は、昭和43年、『小林多喜二全集』の推薦を書くにあたり、こんな文を寄せている。

 

人柄については真面目で、立派な人だと思う。あんなふうに死んだのはそんなことがなければ今でも生きていて、自由に仕事が出来たのにと思うと非常に残念な気がする。

 

志賀直哉の悔しさが滲む一文である。『灰色の月』を一番読んでもらいたかった人間、それは小林多喜二だった。編集室はそのように想像している。

昭和6年(1931)11月、小林多喜二(28)は、奈良に住む志賀直哉(48)を訪ねた。我孫子時代から度々手紙をやりとりしていた。二人は一晩、旧知の友のように親しく語り明かした。

なぜ、ガチガチの新進気鋭プロレタリア作家、小林は、優雅な貴族的作家の志賀直哉を訪ねたのか。度々、手紙をだしていたのか。親友のように語り明かしたのか。おそらくプロレタリア作家という衣の奥に、真の文学の炎が燃えていた。それが向かわせた。社会の現状を憂い嘆いて糾弾する。それも文学。だが、本当の文学は違う。多喜二には、そのことが薄々わかっていたに違いない。『網走まで』は、文字通り網走、でないことがわかっていたのだ。美しき明治の奥に潜む暗部。日本という列車は、その闇に向かって走っている。網走を過ぎれば次は奉天。列車は満州鉄道の壮大な大陸をひた走る。満蒙開拓団の夢を乗せて。

しかし、その先には、想像もつかない終着駅が待っていた。ヒロシマ、ナガサキという駅が。多喜二は読み解いたからこそ、玉座の直哉を訪ねたのだ。20歳も年下の文学革命青年。だが、直哉は彼の中に本物の文学の炎を見た。だからこそ惜しんで、やさしく諭した。早く、その衣を脱ぎなさい、と。しかし、時は待ってはくれない。多喜二は、その姿がわからないほどに叩かれ殴られ虐殺された。「小説を書いただけで殺された」多喜二の母の嘆きに直哉は悔やみの手紙をしたためるしかなかった。夏目漱石『三四郎』の同席者は、日本は「滅びるね」と言った。『網走まで』から37年。灰色の月の下の東京は文字通り廃墟の都と化していた。そして、走る山の手電車の車両のなかでは、乗客の少年が飢えて死のうとしている。こんな国に誰がした。『灰色の月』から志賀直哉の静かな怒りが聞こえてくる。文学は表層ではない。多喜二にそう諭したはず。が、直哉の怒りは次第に大きくなった。稚拙、とち狂った。直哉は、そんな嘲笑をよそに「銅像」を発表した。まるで多喜二や嘉納治五郎師範に手向けるように。(編集室)

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274 ―――――――― 10 ―――――――――――――

 

参考資料

2009年5月21日(平成20年)から裁判員制度が施行された。これにより同年7月以降から実際に一般市民が裁判に参加することになった。6年が過ぎた現在の状況は、いろいろと問題はでてきたが、裁判意識は浸透している。厳罰化が進んでいるという見方もある。

「裁判院制度とは何か」を知りたい人はHPにあったWiKiPediaを以下に転載したので読んでください。

裁判員制度は、市民衆議院議員選挙有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。裁判員制度が適用される事件地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、殺人罪傷害致死罪強盗致死傷罪現住建造物等放火罪身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。例外として、「裁判員や親族に危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」は裁判官のみで審理・裁判する(法3条)。被告人に拒否権はない。裁判は、原則として裁判員6名、裁判官3名の合議体で行われ、被告人が事実関係を争わない事件については、裁判員4名、裁判官1名で審理することが可能な制度となっている(法2条2項、3項)。裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。裁判員は、証人や被告人に質問することができる。有罪判決をするために必要な要件が満たされていると判断するには、合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない(一部立証責任が被告人に転換されている要件が満たされていると判断するためには、無罪判決をするために合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない)。以上の条件が満たされない場合は、評決が成立しない(有罪か無罪かの評決が成立しない場合には、被告人の利益に無罪判決をせざるを得ないと法務省は主張しているが、法令解釈権を持つ裁判所の裁判例、判例はまだ出ていない)。なお、連続殺人事件のように多数の事件があって、審理に長期間を要すると考えられる事件においては、複数の合議体を設けて、特定の事件について犯罪が成立するかどうか審理する合議体(複数の場合もあり)と、これらの合議体における結果および自らが担当した事件に対する犯罪の成否の結果に基づいて有罪と認められる場合には量刑を決定する合議体を設けて審理する方式も導入される予定である(部分判決制度)。裁判員制度導入によって、国民の量刑感覚が反映されるなどの効果が期待されるといわれている一方、国民に参加が強制される、国民の量刑感覚に従えば量刑がいわゆる量刑相場を超えて拡散する、公判前整理手続によって争点や証拠が予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と同様に徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなるといった問題点が指摘されている。裁判員の負担を軽減するため、事実認定と量刑判断を分離すべきという意見もある。

最高裁によると、全国の裁判員裁判対象事件は2004年の3791件から減少傾向にある。都道府県別で昨年、対象事件が最も多かったのは①大阪306件、②東京255件、③千葉214件の順。最も少なかったのは福井県の7件。罪名別では、①強盗致死傷695件、②殺人556件、現在建造物など放火286件、強姦致死傷218現在と続いた。(新聞8・5)

選ばれる確率は4911人に1人(全国平均)

 

 

 

―――――――――――――――――― 11 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.274

 

練習課題   架空記録・広島女児誘拐監禁事件裁判

 

【事件の推移】

2012年9月4日、夜9時頃、広島市市内で塾を終えた小学6年の女児が母親の迎えを待っていた。被告(大学生2年)は、用意してきたナイフで脅し、前日買ったバックに正座の格好で押し込み、自分が宿泊するホテルに行こうとタクシーに乗った。が、タクシーの運転手が怪しみ、信号で停車したとき、通行人と協力して捕まえ110番した。

 

◇証人(タクシーの運転手)

 

「バックをトランクに入れたとき、柔らかく生温かかった。動物かと思ったが、なにか怪しいと思った。行き先はホテルだったが、途中の交番に寄ろうとした。信号で停車したとき後ろから声が聞こえた。被告が車を下りたので捕まえた。バックをあけると女の子が入っていて驚いた。客が逃げようとしたので、通行人と協力して捕まえて警察を呼んだ。」

 

◇被告 「刑務所に行きたかったから、この犯罪を起こしました。」

被告は、夏休みを利用して自動車の運転免許をとるため親戚のある広島にきていた。

 

例・架空広島女児誘拐監禁事件裁判 以前のゼミでは、こんな見方

 

裁判官

 

【検察】 「被告の行為は、幼い少女に一生の傷を負わせる行為である。ナイフや子供一人が入るバッグを所持していたことからも、計画性がうかがわれる。また、「女の子に興味があった」という供述からワイセツ目的も疑われる。」

「被告に、懲役8年を求刑します。」

 

 

【弁護人】計画性はなく精神的疲労があった。故に被告に責任能力はない。

 

◇弁護 「被告は、『刑務所に行きたい』と供述しており、尋常でない程の日常生活の疲れが見られる。犯行当日は、運転免許の仮免が合格した日でもあり、運転免許を取るという目的もある。今後の予定もあることから計画性は薄い。また、精神的疲労によって、犯行当日は責任能力がなかった。」無罪

 

裁判官 「裁判員の意見は」

 

【裁判員】きちんと更生させるべきだ。検察公訴を支持。責任能力はあった

 

◇裁判員 「幼い少女に傷を負わせた罪は重い。ワイセツ目的も疑われることから、きちんと更生させるべきだ。」

 

【裁判長の裁決】懲役5年、執行猶予3年

 

◇裁判官 「幼い少女に一生の傷を負わせた罪は重い。だが、大学生という若さであること、精神的に若干の異常があったことから、今後の更生に期待する。」

「よって、被告を懲役5年に処する。但し、3年間この刑の執行を猶予する。」

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.274 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

ゼミⅡ後期の記録

 

□  9月28日 参加 大島 夏休みの過ごし方、司馬遼太郎『燃えよ剣』談話。

□  10月 5日 参加 中野、蓮子、大島 志賀直哉『范の犯罪』、模擬裁判について

□  10月19日 模擬裁判稽古 ゼミ誌について

 

 

ゼミ雑誌『熊谷元一研究 No.2』について

 

これまでに予定されていること。

 

ゼミ誌掲載者 → 蓮子あゆみ 中野貴久 大島賢生 大野純弥 下原敏彦

 

印刷会社 → (株)新生社 代表・蜷川努

〒162-0053 新宿区原町2-38 ℡03-3353-7661 Fax03-3353-5879

E-maiL:ninagawa@shinsesha.co.jp

 

  1.   原稿〆切 → 10月  日 蓮子編集委員へ

 

ゼミ雑誌作成編集者 ayms314@yahoo.co.jp

 

ゼミ担当者メール toshihiko@shimohara.net  携帯090-2764-6052

 

◎原稿・課題「ゼミ合宿 南信州への旅」 創作「自由」

 

◎皆さんで協力してよいゼミ誌をつくりましょう!

 

※写真は、パソコン取り入れが不完全なら、実際の写真提出(下原)

 

  1.   編集作業 → 11月半ばまでに終わらせ印刷会社に入稿する。

冊数は、予算内で最多数(関係者に配布の為)

 

  1.  雑誌が完成したら、学科事務室に保存・展示用として5冊を提出し、印刷会社からの

【納品書・請求書】を、学科事務室に提出する。

 

  1.  ゼミ誌納品〆切 → 12月4日(金)迄  ※締切厳守です

 

 

熊谷元一写真賞コンクール展 第19回に挑戦を

 

下原在場日 ヒルトピアアートスクエア 東京・西新宿

 

10月29日(木)昼12時~夜19時

10月30日(金)朝10時~昼12時

 

号外 下原ゼミ通信 日本大学芸術学部文芸学科

 

18回熊谷元一写真賞コンクール展

 

 

入賞・入選作品展 昼神・新宿の2会場で

阿智村では稲刈りも終わり、秋の色が日増しに濃くなってまいりました。関東の保存会員の皆様もつつがなくお過ごしのことと存じます。

さて、今年で熊谷元一写真賞コンクールも第18回をかぞえ、「親子」のテーマで募集したところ、全国から955点もの作品の応募があり、9月29日に新宿・市ヶ谷で5人の審査員により審査を行った結果、27点の入賞作品が決まりました。

入賞・入選作品展は今まで昼神の熊谷元一写真童画館で行ってまいりましたが、今年は、昼神と新宿の2会場で展示することになりました。

熊谷元一写真保存会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1展示会場 : 熊谷元一写真童画館アートギャラリー(無料)

長野県下伊那郡阿智村智里331-1 ℡2065-43-4422

 

10月28日(水)~平成28年1月25日(月)9時~5時

(火曜日・年末年始休館。但し、11月3日は開館)

 

2展示会場 : ヒルトピア アートスクエア(無料)

東京都新宿区西新宿6-6-2 ヒルトン東京地下1階℡03-3343-5252

新宿西口京王デパート前より、ヒルトン東京行シャトルバス運行

 

10月28日(水)~11月3日(火)午前10時~午後7時

(10月28日は午後1時~。11月3日は午後4時迄)

※11月3日午後1時から展示会場で表彰式を行います。

 

※下原29日午後、30日午前

 

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑