文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.278

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)11月30日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.278

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/28 10/5 10/19 10/26 11/9 11/16 11/23 11/30 12/7 12/14 1/18 1/25

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究&志賀直哉

 

11・30下原ゼミ

 

熊谷元一研究 11・23ゼミ休講 下原、長野の黒板絵写真展協力のため

 

下原は、23日、長野県の昼神温泉郷にある「熊谷元一写真童画記念館」に出向し、同館で開催する黒板絵写真展準備に協力した。そのため所沢ゼミは休講とした。

 

黒板絵情報  あの黒板絵写真展が、熊谷元一の故郷で

 

黒板絵写真展開催期間  44作品が展示(数点が江古田で未展示の作品)

(長野県下伊那郡阿智村 ℡0265-43-4422 会場・熊谷元一写真童画館アートギャラリー)

 

2015年11月25日(水)~ 2016年3月7日(月)

 

地元マスメディアが注目

 

今回も、マスメディアが注目、地元テレビ局、地方新聞各社が、初日、取材に訪れた。

 

☆  テレビ長野朝日放送 11月25日(水)午後6時15分ニュースで放映

 

☆  中日新聞・東京新聞 11月25日(水)取材 (26日~29日頃掲載)

 

☆  南信州新聞 11月25日(水)取材 (26日~29日頃掲載)

 

☆  信濃毎日新聞 11月26日(木)取材(26日~29日頃掲載)

 

熊谷元一写真賞コンクール展 長野県下伊那郡阿智村智里331-1 ℡0265-43-4422 会 場・熊谷元一写真童画館アートギャラリー(無料)

10月28日(水)~平成28年1月25日(月)

 

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ゼミ誌情報 ◎ゼミ誌『 熊谷元一研究 No.2 』入稿 11月20日

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時代観察・1968年 2015年、世界は、テロと懐疑に揺れている

 

先日、知人の写真家から、47年前の以下の写真が送られてきた。整理していたらでてきたという。20歳のときアジアを旅していたとき船上で撮られた写真で懐かしかった。

 

ルポ・アジアの空の下で① (47年前の青春)本文は2004年に書かれたもの

 

フランス定期貨客船「ラオス号」の船上にて のんびり昼寝

 

いまでは外国に行くことは、珍しいことではなくなった。先日も学校に向かうバスの中で女子学生たちが、夏休みにまるで近場の観光地に行ってきたように外国の話をしていた。もっとも私の世代でも忘年会などで学生時代の仲間と会うと、ごく日常的に海外に行ってきた話がでる。東南アジアや中国、アメリカを仕事のため毎月のように往来している友もいる。皆が農獣医学部の拓植学科(現、国際地域開発学科)出身だからそんな話題が多いのは当然かも知れない。が、それにしても今日、本当に外国に出掛けることは、特別なことではなくなった。

しかし、四十七年前は、まだ外国は遠い地だった。夢と冒険に満ちた未知の土地でもあった。一九六五年、大学一年の夏、横浜埠頭から南米のブラジルに移住する先輩夫妻を見送ったとき、自分もいつかはと、ひそかに心躍らしたものだ。「美しき花を植えよう海の外」が、担任教授の掲げた学科のスローガンだった。

外国に行くチャンスは早くきた。二年の夏、大学の関係機関が北米の農業実習生を募った。一年間農場で季節労働者として働けば、実習単位が習得でき、なおかつ一週間ごとに日当がもらえ、一ヶ月十万円にはなるという。当時の大卒給料は三万円前後。アメリカはまさに夢の国だった。申し込んだのはI君(現国際地域開発学科教員)と、ブラジル移住を希望して他薬科大学から転入してきたA君、それに私の三名だった。米国行きを祈願して農場実習した八ヶ岳原村合宿では、受験者組としてマラソン大会に参加した。英会話の授業も真面目に受けた。そして、試験の日を迎えた。当時はなんと下半身まで

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みせての身体検査だった。診察は、荒っぽい医師と中年看護婦。恥ずかしかったことと少し痛い思いをしたことを覚えている。

結果はI君一人が合格。私とA君は次回に見送られた。落胆したが、その後、茨城県内原にある青年海外協力センターで同級生のY君、T君らと大型特殊免許を習得した。夢は平和部隊、いまでいう海外技術協力隊に入ることにかわった。こちらは月五万円の給料だが発展途上国なので、数倍の値打ちがあるという。が、応募資格を得るまでには、まだ遠かった。目下の目標はなにもなかった。柔道の稽古と臨時職員となっていた新聞社の地下で新聞梱包作業のアルバイトに明け暮れる日々だった。

同級生たちは次々、外国に旅立って行った。北米だけではなく南米にも行けるようになった。最後の移民船は出ていったが、ブラジルはまだ新天地だった。が、私はなぜか迷っていた。そんななか親友のY君がインドネシアに空手指導員として渡ることになった。羽田空港で盛大に壮行会が開かれ、日大節に送られY君は、はるか南の島に発っていった。

おりしも日大闘争がはじまろうとしていた。巷では西川一三の『西域潜行八年』や小日向白朗の『馬賊戦記』がベストセラーとなっていた。前年、遠く南米で革命の英雄ゲバラが散った。中東紛争、バングラディッシュ独立、ベトナム戦争激化。世界は、七○年という新しい時代の前で騒然としていた。そんな時代のなかで私の気持ちは、米国農場実習行き再挑戦からアジア・ヨーロッパへの無銭旅行に変わっていた。

そのころA君もブラジル行きから、すっかり心が離れていて一緒に日本脱出をしようということになった。その計画がどうして学科主任の松崎雄二郎先生の知るところとなったのか、忘れてしまったが、先生から自宅に遊びにくるように誘われた。先生の家は西武池袋線の東大泉にあった。私とA君は昼過ぎ訪ねた。先生はお一人で暮らしておられた。ご家族は、どこかにいるとのことだった。先生は大学では中国語を教えられていた。私はインドネシア語を専攻していたので、先生の授業は受けたことはなかったが、このころベトナム問題を専門にしておられたので、いつかお話を聞こうと思っていた。前々年、つまり六十六年に作家の開高健が『饒舌な思想』を刊行した。この書のなかで作家は『文藝春秋』に掲載された福田恆存の「アメリカを孤立させるな」というベトナム問題の論文について激しく批判していた。論戦の標的として、作家は福田氏が松崎教授のべトナム旅行の体験談を基盤にしているところを大いに問題にしていた。そのあたりを抜粋するとこうである。

「松崎氏がヴェトナム学のどんな経験ゆたかな大家であるかということについては何も書いてない。/氏が松崎氏の体験談についてはまるで幼稚園児のようにあどけない全肯定している」

と云った具合である。要は学者(松崎教授)が一日二日、歩き回って何がわかる。そんなものを根拠にした論文はナンセンスだと述べているのである。今でいえば、イラクにちょっと行って、さも事情通のように話すジャーナリストがいる。松崎教授もそうだというらしい。むろん、私は先生がインドシナについてどれほど詳しいか知る由もない。が、先生は戦前はずっと大陸におられたというから、開高健の指摘は的外れだろうと思っていた。論戦は、こうである。日本の知識人が「ベトコン」を和平交渉の当事者として認めろ。といっているのに対して、福田氏は、松崎教授の体験談をもとに、「それは事実認識の誤りだということにほかならない」と斬っているのである。先生の意見は、和平交渉するならベトコンより北ベトナム政府だという。現在の拉致問題に置き換えていえば、会議などいくらやっても無駄。金正日、本人とではなければ意味がない、ということか。(はっきりした答えがでるのは、いつも日朝首脳会談だけであることをみれば、頷ける)

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この夜、遅くまで先生はベトナムの話をされた。当時、私は写真家岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』を愛読していて、アメリカのアジア侵略に大いに憤慨していた。しかし、

この頃の私は「読書と創作」とは無縁であった。まったくの勉強不足と知識の足らなさから、この人気作家と人気翻訳家の論争は、正直言ってよくわからなかった。後になって思うと福田氏の論が大局的には正しかったのではないかとみる。その証拠にサイゴン陥落後、表舞台に立ったのは北の正規軍だった。伝え知るところによるとベトコンの勇者たちは、南北統一後、結局のところ地方に追いやられという。あの世界最強を誇る米特殊部隊グリーンベレーを恐れさせ、打ち破ったベトコンも政治的にはまったく無力であったわけである。

先生の話を聞いているとき、一人の訪問者があった。先生と同年輩の人だった。大学関係者にも会社勤めの人にも見えなかった。この人物を先生は

「むかし満州で馬賊をやってたんだ」と、紹介した。

痩せた気弱そうな人で、そのときは、とてもそんな(満州の大地を騎馬で疾走していたような)ふうにみえなかった。が、あとになって想うと、気弱に見えた感じは、むしろ不気味な静けさだったような印象に思えた。

先生と友人はなつかしそうに満州時代の話をされていた。先生が満州でどんなお仕事をされていたのか、知る由もないが、二人の話は、まるでつい昨日の出来事のようにはずんでいた。会話のなかで、いまでも記憶に残っているのは先生が

「彼が頭にナイフが突き刺さったまま歩いてきたときは驚いたよ」

と、説明された、その友人の武勇伝である。

友人は先生に指差され、そのときの頭の傷をみせてくれた。私たちは、ただ驚くばかりであった。すっかり夜も更けて終電近くなった。先生は不眠症というので、私とA君はおいとますることにした。たしか、その友人も一緒に出たように思う。が、すぐに夜の闇に消え去った。駅までの道のり、馬賊の話を聞きたかった私は残念に思ったものである。その後、ふたたび東大泉の先生宅を訪問することはなかった。先生とも、その夜が最後だった。(暫くして先生は、金沢大学に移られ、かの地で亡くなられたと聞く。いま、毎週所沢校舎に行くためにこの駅を通りすぎる。気がつくとあの夜のことを思い出したりする。)

帰り際、先生はご自分の名刺を二枚とりだし

「もし、バンコックとプノンペンに行くようだったら訪ねてみなさい」

と、言われて紹介状がわりに名刺裏に走り書きしてくださった。

バンコックがF・某という人物で、プノンペンは市立T経済大学元学長のT・Sという人物だった。紹介文は「私の生徒です」といった簡単なものだった。

このときは、その名刺が、それほど重要なものとも、役に立つとものとも思えなかった。だが、結果的に、その名刺は、私たちの旅の目的を大きく変える重要なものとなった。日大闘争の火の手が、あちこちの学部であがっていた。しかし、私の頭には、日本脱出の計画しかなかった。地下鉄東西線の「高田馬場」ホームで、偶然、Mとであった。半年前まで皇居前にある新聞社の地下でバイトを一緒にやっていた。早大の空手部にいるということで、柔道部にいた私とは気があってよく話した。「これから集りがあるんだ、行かないか日大の連中もいるぜ」彼はなつかしそうに誘った。が、私の心は外国の旅に向いていた。「じゃあ、帰ったら」私たちは互いに手をあげて別れた。それがMを見た最後となった。二年後、彼は狂った中年作家の犠牲になった。生きていたら今も元気で還暦を迎えていたに違いない。政治家になりたいと言っていたから、国会にいたかも。そう思うと悔しいかぎりである。

 

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1968年、この年の夏の終り、九月の青い空の下。私とA君は横浜の通称メリケン波止場から旅立った。ドラが鳴り響くなか船はゆっくりと岸壁を離れた。テープが次々切れていくなか私の心は、はじめての未知への旅に躍っていた。どしゃぶりの雨のなか

神田三崎町界隈で日大生デモ隊と警察隊が激しくぶつかりあっていた。が、そのころ私は舳先に立って真っ青な空と海を眺めていた。乗船したのは一万三千トンのフランス定期貨客船「ラオス号」。懐には、終点マルセーユまでの往復船切符と、わずかばかりのお金。当時は十万円までが持ち出し可能だったが、私の所持金はその十分の一。船にいるあいだは三食昼寝つきだが、そのあとはどうするのか、見当つかなかった。しかし、何の心配も不安もなかった。私の背中は夢と冒険に溢れていた。

まるで油を流したようなどろんとした南シナ海を船は、ひたすら西に向かっていた。イルカや海ヘビが並んで泳いでいた。甲板には、ヒッピーから自転車世界一周を目指す若者、写真家志望の青年、インド美術を学びに行く留学生、お茶の水女子大の「東アジア探検隊」の面々などなどいろんな国の若者がごちゃまぜになって寝転び思い思いに時を過ごしていた。私は、日本で柔道を学びスイスに帰るという青年と柔道をしたりして時間を過ごした。将棋が得意なA君はトッポジージョとあだ名したチェス好きのイスラエル人と終日、チェスで対戦していた。いま振りかえると、私の人生の中で今でも黄金石のように輝いているのは、あのときの船上での日々だったように思う。

船はマニラ、香港を経由してバンコックに帰港した。下船した私たちは、船上で知り合った他大学の学生や一人旅の外国人、十数人でメナム川を観光した。そのあと、せっ松崎先生から紹介の名刺をいただいているという思いもあって、一応、紹介のその人物に会うことにした。いま考えればはじめての外国の街で住所も知らぬ人を訪ねることなど無茶であった。が、そのときは若さもあって簡単に考えていた。その人物に会うのに、たいして手間はかからなかった。どこでどう連絡したか忘れてしまったが、その人の居場所はすぐにわかった。そして、すぐに会えることにもなった。

松崎先生から訪ねてみたらと紹介されていたF氏は、日大OBで、いまはバンコックの日本人会の会長という肩書きをもつ五六十の人だった。私たちは、氏にレストランでカレーライスをご馳走になった。食事しながら氏はタイのことをいろいろ話された。覚えているのは、タイ人は経済発展させた日本人のことをすごいと思って揉み手はしているが、それは表面上で本心はエコノミックアニマルと軽蔑している。背広着て、長袖のワイシャツを着てネクタイと眼鏡して威張っている日本人を憎んでいるというのだ。氏の日本人批判は、思い当たるふしがあった。マニラで下船したときだった。同船の若者たち何人かと市内を見物しての帰り、あまりの暑さに夜だったこともあり、シャツを脱ぎ上半身裸になった。船では、同室のアメリカの若者たちは、室内にいるときは平気に全裸になっていたし、甲板でもショートパンツ一つで寝転んでいる。マニラ市内とはいえ、港のすぐ近くだったので、気にもしなかった。

ところが、タクシーの運ちゃんと屋台のおっちゃんたちがなにやら騒ぎだした。椰子の木の道路沿いにずらりと並んだ白衣を着た娼婦たちも手を振っている。さっぱりわからなかった。仲間内で、けんかでもはじめたのだろうと思っていたらポン引きのあんちゃんたちが、私たちを指差してわめきだした。呼びこみではなくあきらかに怒っているのだ。原因は私たちにあるらしかったが、皆なんのことかわからず戸惑った。が、すぐに言葉のわかる誰かが叫んだ。

「まずい。バカにするなって言ってるぞ」

「はだか、まずいんだ」

「何言ってんだ、あの外人だって」

誰かが、同じように裸で歩いている白人を指差した。

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が、私たちは、急いでシャツを着て船に逃げ帰った。この国の人にとって他の外国人はともかく、日本人が上半身裸で歩くのは我慢ならないようだ。それほど日本人は嫌われているということか。バンコックもそうらしい。

その日、F氏は用事があるというので別れた。なにか仕事を頼みたいようなことを言っていた。うまい話だったら、私とA君は、残って話しを聞くことにした。列車を乗り継げば、船にはシンガポールかボンベイあたりで乗船できるだろうと気楽に考え、二三日市内で過ごした。最初の夜は、木賃宿に泊まった。が、安心して眠れなかった。ドアをしょっちゅうノックされるのである。開けると中年の女性が立っている。金はないと言ってもなかなか信用しない。次ぎの日は公園にした。(以前、テレビの番組「電波少年」を見て、あんなふうだったと思い出したものだ)

二三日後、再びF氏と会った。やはりレストランだったと思う。氏は、はじめのうち日本の大学紛争のことなど話題にしていたが、しばらくしてタイで働いてみないかと言った。「旅行などしていても仕方がない」というのだ。

「若い時は、仕事をしろ」

私もA君も頷くほかなかった。たしかにその通りである。口をきいてもいいと言うので、一瞬その気になった。以前、週刊誌でエビを冷凍にして日本に送ったとかで大金持ちになった人の記事を読んだことがあった。A君も私もなにか大もうけができるのではないか、そんなセコイ考えを思い浮かべた。

しかし、紹介してくれるその場所がタイの奥地で、仕事も密林の開墾らしいと聞いて夢はシャボン玉のようにかき消えた。私は、柔道修業も兼ねた旅だったので、いまさらジャングル開墾に青春を費やしたくなかった。A君は南米移住をあきらめての旅である。なにもタイの奥地で開墾するぐらいならブラジルに行った方がまし、と思うのも当然である。私たちは、互いに顔を見合わせ無言で頷いた。そして

「待ってるよ」

と送るF氏の声を背中にそそくさと外にでた。

むろん、戻るつもりはなかった。松崎先生には申し訳ないと思ったが、F氏とはその後、会うことはなかった。ただ「なんだ日大の学生は」と思われたに違いない。最初から断わればよかった、と悔やんだ。しかし、ずっとあとになって、こんなふうにも思えた。日大OBのF氏は、多分、後輩の私たちのことを思って、開墾の話を持ち出したのかも。外国でふらふらしてないで、学校に戻れといいたくて。歳をとるにしたがって、この思いはより強くなった。だが、このときは推し測るべきもない。(私たちは、こりずにこのあとカンボジアに入ってからも日大の水泳部だった先輩にお世話になることになる。)

ラオス号はすでに出航していた。私たちは船のことは、かんたんにあきらめた。せっかく下りたので、あちこち回りたくなったのだ。それでクワランプール行きの列車でシンガポールまで行き、そこからインドネシアに渡って空手の師範をしているY君のところに寄ることにした。が、駅に向かいかけて足をとめた。松崎先生からもう一人の人物、元学長というT・S氏を紹介されていたことを思いだしたのである。

「どうせなら、会って行こうか」

私とA君は、なぜか、義理堅くそうしなければならないと思った。

しかし、そのT・S氏がいるのはタイ隣国のプノンペンだった。当時、カンボジアは独裁社会主義国で鎖国状態にあり旅行者が入るには空路しかなかった。私たちは、松崎先生との約束を果たすために無け無しの金をはたいてフランス機に搭乗した。わずか一時間足らずの空の旅。はじめての飛行機の旅だった。

懐は、ほとんど無一文に近かった。T氏を訪ねた後はどうするか。何も考えはなかった。

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ニュース  最後のナスターシャ 原節子さん死去(95)

 

黒澤明映画「白痴」にナスターシャ役(那須妙子)で出演した銀幕のトップスター原節子(本名会田昌江)さんが9月5日になくなっていたことが、11月25日にわかった。合掌  下・2015・11・26 読売新聞

 

 

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ゼミⅡ後期の記録

 

□  9月28日 参加 大島 夏休みの過ごし方、司馬遼太郎『燃えよ剣』談話。

□  10月 5日 参加 中野、蓮子、大島 志賀直哉『范の犯罪』、模擬裁判について

□  10月19日 参加 大島 模擬裁判とゼミ誌について

□        大島―ゼミ通信、メールでゼミ誌原稿の添付するが不備、着信せず。

□  10月26日 大島、蓮子、中野 テキスト『剃刀』を輪読 ゼミ誌報告

□  11月 9日 大島脚本半分読み合わせ、ロシア継子殺人未遂事件についての裁判

□  11月16日 台本読み合わせ 志賀直哉観察作品読み

 

ゼミ雑誌『熊谷元一研究 No.2』について

 

皆さんで協力してよいゼミ誌をつくりましょう!

印刷会社 → (株)新生社 代表・蜷川努

〒162-0053 新宿区原町2-38 ℡03-3353-7661 Fax03-3353-5879

E-maiL:ninagawa@shinsesha.co.jp

  1.   編集作業 → 11月半ばまでに終わらせ印刷会社に入稿する。

冊数は、予算内で最多数(関係者に配布の為)

  1.  雑誌が完成したら、学科事務室に保存・展示用として5冊を提出し、印刷会社からの

【納品書・請求書】を、学科事務室に提出する。

  1.  ゼミ誌納品〆切 → 12月4日(金)迄  ※締切厳守です

 

長野県阿智村60周年事業

 

19回熊谷元一写真賞コンクール募集テーマ決定!!

 

2016年のテーマは「阿智村」・「祝う」です。

 

□ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」のお知らせ

 

会 場 東京芸術劇場第7会議室 作品『白痴』第1回目

月 日 2015年12月5日(土)午後2時 ~ 4時45分

報告者 菅原純子

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