文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.280

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2015年(平成27年)12月14日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.280

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/28 10/5 10/19 10/26 11/9 11/16 11/23 11/30 12/7 12/14 1/18 1/25

2015年読書と創作の旅

 

熊谷元一研究&志賀直哉

 

12・14下原ゼミ

 

本日ゼミ 3ゼミ合同発表会に参加(清水ゼミ・山下ゼミ・下原ゼミ)

 

後期前半最終日にあたる12月14日(月)のゼミは、恒例の3ゼミ合同発表会です。参加ゼミは、清水ゼミ・山下ゼミ・下原ゼミ。この合同発表会では、2015年各ゼミのまとめ、成果などを報告します。

本日の報告予定は次の通りです。

 

・清水ゼミ・・・・ドストエフスキー研究のまとめ報告

2015・12・4 ゼミ誌『罪と罰No.27 』刊行

文芸研究Ⅲ『どすとえふすきいまんだら』刊行11・4

※ドストエフスキー研究の一環として担任教授の清水先生は、2015年10月31日、『清水正・ドストエフスキー論全集8 「白痴」の世界』を刊行している。「美しい人間の愛と破綻の裸像」が明らかに。

 

・山下ゼミ・・・・宮沢賢治研究の寸劇発表&他

ゼミ誌『宮沢賢治研究』刊行

※宮沢賢治研究では、山下教授が宮沢賢治生誕120年を記念して2015年11月10日に『マンガで読み解く 宮沢賢治の童話事典』をマンガ・中村美公共著で刊行している。

・下原ゼミ・・・・志賀直哉作『范の犯罪』脚本化しての裁判寸劇公演

ゼミ誌『熊谷元一研究 No.2 』

下原ゼミは【観察】の視点から志賀直哉の観察作品読みと写真家熊谷元一研究をすすめてきたが、今回の発表では、『范の犯罪』裁判再現を寸劇公演する。(脚本・大島 再現・蓮子、中野、大島)

※熊谷元一研究では、担任講師の下原が2015年6月に熊谷元一写真展「黒板絵」を日藝アートギャラリーで開催。熊谷元一・下原共著で写真集『黒板絵は残った』(2015・5・30)を刊行した。

なお、ゼミ合宿として8月、熊谷元一の故郷、長野県阿智村を訪

ね昼神温泉郷にある「熊谷元一写真童画館」を見学した。他、最近注目されている「満蒙開拓平和記念館」見学も。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.280 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

志賀直哉 事件観察作品

 

12・14 3ゼミ合同発表会

 

下原ゼミ 「サーカスナイフ投げ妻殺人事件裁判の再現寸劇公演」

 

あるサーカス団で演目・スローインク・ナイフ(人を立たせてナイフを投げる)のナイフ投げ実演中に、的役の女性団員が死んだ。ナイフ投げ曲芸師が投げたナイフが頸部に刺さっての即死だった。目撃者は、観客・団員多数。が、女役者とナイフ投げ曲芸師が夫婦で、不仲だったことから、事故か故意かわからなくなった。果たして真相は…裁判を再現する。

 

演題・范の犯罪

 

はじめに ―――― 中野貴久

 

ナレーション ――― 大島賢生

 

裁判長 ――― 蓮子あゆみ
范(被告) ――― 中野貴久

 

団長(証人) ――― 大島賢生

 

刑事(証人) ――― 大島賢生

 

ピエロ(証人) ――― 大島賢生

 

傍聴人(裁判員) ――― 観客

 

【裁判員裁判】以下HPから

裁判員制度は、日本に約1億人いる衆議院議員選挙有権者市民)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。

裁判員制度が適用される事件地方裁判所で行われる刑事裁判第一審)のうち殺人罪傷害致死罪強盗致死傷罪現住建造物等放火罪身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。例外として、「裁判員やその親族に危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」は裁判官のみで審理・裁判する(法3条)。被告人に拒否権はない。

もしかして、いつかあなたも裁判員に・・・・

―――――――――――――――――― 3 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.280

裁判は、原則として裁判員6名、裁判官3名の合議体で行われ、被告人が事実関係を争わない事件については、裁判員4名、裁判官1名で審理することが可能な制度となっている(法2条2項、3項)。

裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。裁判員は、証人や被告人に質問することができる。有罪判決をするために必要な要件が満たされていると判断するには、合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない[* 2]。以上の条件が満たされない場合は、評決が成立しない。有罪(犯罪事実が存在する)との評決が成立しない場合、「犯罪の証明がない」(刑事訴訟法336条)として、無罪の判決をすることになるとされる(法曹時報60巻3号93頁)[* 3]

なお、連続殺人事件のように多数の事件があって、審理に時間を要する長期裁判が考えられる場合においては複数の合議体を設けて、特定の事件について犯罪が成立するかどうか審理する合議体(複数の場合もあり)と、これらの合議体における結果および自らが担当した事件に対する犯罪の成否の結果に基づいて有罪と認められる場合には量刑を決定する合議体を設けて審理する方式も導入される予定である(部分判決制度)。

裁判員制度導入によって国民の量刑感覚が反映されるなどの効果が期待されるといわれている一方

  • 国民に参加が強制される(拒否権がない)
  • 志願制ではないため、有権者全員に参加する機会が得られない
  • 国民の量刑感覚に従えば量刑がいわゆる量刑相場を超えて拡散する
  • 公判前整理手続によって争点や証拠が予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と同様に徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなる

といった問題点が指摘されている。裁判員の負担を軽減するため、事実認定と量刑判断を分離すべきという意見もある。

裁判員制度(さいばんいんせいど)とは、特定の刑事裁判において、有権者(市民)から事件ごとに選ばれた裁判員裁判官とともに審理に参加する日本の司法・裁判制度をいう。

制度設計にあたっては、1999年7月27日から2001年7月26日までの間、内閣に設置された司法制度改革審議会によってその骨子[1]、次いで意見書[2]がまとめられた。

この意見書にもとづき、小泉純一郎内閣司法制度改革推進本部法案裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(通称:裁判員法)[* 1]」を国会に提出し、2004年(平成16年)5月21日成立。裁判員制度は同法により規定され、一部の規定を除いてその5年後の2009年(平成21年)5月21日に施行され、同年8月3日東京地方裁判所で最初の公判が行われた。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.280―――――――― 4 ――――――――――――――

 

課題報告   志賀直哉『正義派』を読む

 

正義派という題について

 

中野貴久

 

一読すると、その正義派という題は、意味をなしていないが、三人の工夫たちの思いと考えると、この題は治まってくるように思える。過失であると証言すれば会社をクビになる。事故であるとすれば、あの母子の思いは報われない。この板挟みに耐えられずに突っ伏して流す涙、そこに、なんとなしに正義という意味が込められているように思える。

しかし、この事件、事故として扱える要素がいくつかある。路面に下り傾斜がついていること、救助網が落ちてこなかったこと等、事故として処理するには十分な証拠がある。それでもなお、そこに殺したという事実だけみればこれは、過失とすることができる。それをしようとした工夫たちにこの正義派という題は付けられたのかも知れない。

 

□短編だが、様々な今日的問題を潜めている。事故を目撃した工夫の気持ちとその変化。事故に対する会社の対応と下工作。

 

今日の問題観察 安倍政権になって、現実化している問題

 

☆ 憲法改正について (現行憲法を何度でも読んで考えてみましょう)

 

【現行憲法】前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、じこくのことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

現憲法の第二章【戦争の放棄】

第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ

る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを

放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国

の交戦権は、これを認めない。

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連載ルポ 47年前の青春

 

  フランス定期貨客船「ラオス号」の船上にて

 

アジアの旅②「我が青春のプノンペン」

 

前号まで

1968年、この年の初め、多額な使途不明金に端を発した日大紛争は夏の終わりに、ま

すます熱く燃えようとしていた。私は柔道着一つを持って友人のA君と横浜から外国に旅

だった。タイ国バンコックで学科の松崎教授から紹介された人物に会う。が、タイ国地

の開拓をすすめられ逃げ出す。もう一人、紹介されていた人物がいた。私たちは、懲りずにその人物に会うことにした。その人物がいるのは隣国カンボジアだった。

当時、鎖国政策をとっているカンボジアに入るには飛行機に乗るしかなかった。私たちは、なけ無しの金をはたいてエアーフランス機に搭乗した。(「ゼミ通信78」迄)

 

【1968年時代観察】2008年に書いたものです。

 

日本では、昨年から今年にかけて拉致事件が大きな問題となっている。「行方不明の留学生が北朝鮮にいた」このニュースをはじめて聞いたとき、背筋が寒くなる思いがした。と、いうのも海外渡航でパスポートをとりに行ったとき、係官からしつこいほどに注意されたのは、パレスチナの難民キャンプに行かないこと。それにヨーロッパ、とくにスペインやイタリアあたりでむやみに書類にサインしないこと。この二点だった。難民キャンプを見た若者は同情して赤軍派に入ってしまう。また、アルバイトと言われてうっかりサインしてしまうと、それは外人部隊の勧誘で、いったん契約すると破棄することができないというのだ。二万円という薄給で二年間も砂漠の中で酷使されるらしい。ご丁寧にサハラ砂漠の駐屯地で月を見ながら泣いている二人の日本人青年の新聞記事を見させられた。(ちなみに、この頃の平和部隊、つまり海外技術協力隊の給料がたしか五万円といっていたから、場合によっては命まで張るのに極端に安いといえる)このころ誰も北朝鮮に行くなとは言わなかった。1960年からはじまった帰還事業によって、人権と自由のない国とわかりはじめていたにもかかわらず、である。いま振りかえって思えば、政治家もマスコミ、知識人も、こぞって「北朝鮮はすばらしい国」と、言っていたような気がする。

現に、実習か授業でサボった南の友人が担当教師から「いま北の人たちは、一生懸命に国づくりをやっているのに(きみはなんだね)」と説教されているのを見たことがある。アメリカがたいした理由もなく毎日ハノイに爆弾を落としていた。南の村では平然と虐殺を繰り返していた。おそらくそんなこともあってマスメディアは金日成英雄伝説を支持したのかも知れない。今、アメリカのイラク攻撃で世界は揺れている。そのせいか韓国では金正日支持の若者が多いという。なんとなくあの頃の状況と似ているような・・そんな気がする。

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.280 ―――――――― 6 ―――――――――――――

 

いま拉致事件に戦慄するのは、もし、あのとき旅の途中で「平壌に行ってみませんか」と声をかけられたら自分も十中八九ついて行ったかも知れない、そう思うからである。当時、拓植では「海外事情」という授業があったにもかかわらず、実際の、現実の世界情勢は何一つ教えてくれなったように思う。北朝鮮はベールに包まれた夢の国だったのである。笑えぬ現実である・・・。

滅びの都

 

カンボジアの名前が日本でよく知られるようになったのは、ポル・ポト政府による国民の大量虐殺と1993年春にUNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)のもとに行われた総選挙のときである。自衛隊、国連ボランティア、文民警察官など大勢の日本人が行った。二人の日本人青年も死んで、毎日のようにテレビのレポーターが取材し、茶の間に流れていた。その後、めったにこの国のニュースは聞かない。フランスの植民地、独裁、軍事政権、恐怖政

治、そしてまだ問題はあるが一応選挙による民主政治。ニュースのないのはよい証拠。なんとか落ちついたようだ。同級生の中には、この国の観光事業を手がけている人もいる。

1968年、その頃のカンボジアはどんな国だったか。私も青木君もあまり知らなかった。カボチャの語源の国、アンコールワットという遺跡がある国、シアヌーク殿下と呼ばれる王様が独裁専制政治を行っている国。一般知識として、それぐらいだった。

バンコックからわずか一時間足らずの旅。降り立った空港(といえるものかどうか)は、管制塔らしき小さな建物が一つあるだけの赤茶けた土のグランドだった。バンコックとはえらい違いに驚いた。あとでそこはポーチェントムという所と知ったが、そのときはてっきり首都プノンペンと思っていたので戸惑った。なにしろ周囲は潅木の原野、空港もどきのグランドの他は何もないのである。制服を着た人に聞いてみたが日本語はむろん英語も通じなかった。なんとかプノンペンのことを聞く。バスを教えてくれた。

バスは、かなり古びていて屋根にカゴやら袋やら荷物を山のように積み上げていた。満員だった。日本語がめずらしいとみえて、なにやら話しかけてくるのだが、さっぱりで笑顔で答えるしかなかった。少々心配になった。無け無しの金をはたいて来たが、松崎先生から紹介された人物。バンコックのときは容易に会えたが、ここで探すのは難しいかもしれない。それに会ったとして、どうするというのだ。別に用事も目的も相談事もあるわけではない。たんに旅の途中である。そもそも来る必要があったのか。たとえ会えたとしてもバンコックのときのように開拓でもすすめられたら・・・前途を予見するような突然の黒雲、ものすごい稲妻と激しい豪雨。悔いと不安が入り混じったプノンペン入りであった。

一口で表現するな、このときのプノンペンは写真や映画で見たパリの街角を彷彿させる美しい清楚な都だった。街に着いた時は、さきほどの豪雨がうそのように晴れて空一面の青空だった。白雨に洗われた街は、すがすがしささえ感じた。広い道路には花壇がありブーゲンビリアをはじめ色とりどりの花が咲き乱れていた。太い街路樹が涼しげに葉々を繁らせていた。象使いが、のんびりと象を歩かせていた。バスは市場が終点だった。昼近くだったが、賑やかで活気があった。50CCのオートバイがうるさく走りまわっていた。

私と青木君は市場の雑踏のなかで途方に暮れた。松崎先生から紹介された田川精一氏には、どうしたら会えるのか。住所も電話も知らないのである。日本大使館はあるだろうか。タクシー代わりに走っているシクロの運ちゃんに聞くと、よく知っているというそぶり「バンハイ、バンハイ」と笑って繰り返す。案内するとすすめるが、歩いて探すことにした。が、どのようにして探したか、今は記憶が定かではない。大使館に入ったときのことは、よく覚えている。黒い背広に蝶ネクタイをした小柄な中年の男が出てきた。彼は、にこりともせず私たちを頭のてっぺんから足のつま先まで眺めまわした。下駄ばきなのが、気にさわったのか顔をしかめた。(後で知ったが、彼は大使館で執事のような仕事をしている台湾の人だった)

「何しにきたんですか」と、彼はきいた。

「田川精一という人に会いたいんですけど。住所教えてください」

―――――――――――――――――― 7 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.280

 

私たちの答えと質問は、彼をひどく慌てさせた。

「ご親戚かなにかですか・・・」

「いえ、関係ありません。紹介されたので、ただ挨拶にきたのです」

「じゃあ、先生はまったくご存知ないんですね。ご存知ないんですね」

「はい」

「でも挨拶といっても、何か用事が・・・」

「なにもありません。ほんとうに、ただ寄っただけです」

彼は、ますます慌てた。

独り言で、「突然、来ても困る」

とかなんとかぶつぶつつぶやいていた。

「地図、描いてもらえれば、訪ねていきますから」青木君が

急かすと、あたふたした様子で「それはできません、できません」と言って、

「電話を入れてみますから」

と奥に消えた。が、すぐに出てきて

「行きましょう」と言う。

彼も一緒に行くというのだ。

なんと黒塗りの大使館の車で田川元学長の自宅まで送ってくれるという。

うまい話すぎて騙されている気分だった。もしかして、このまま、空港まで行って追い払われたりして。そんな疑いさえ抱いた。この時代、ヒッピーが世界各地に出没して顰蹙を買っていたが、同じように無銭旅行する「ほうぼう」と呼ばれる日本の若者も現地大使館では嫌われていた。いまや経済大国となろうとしている日本。その国の若者が放浪者のように、あっちこっちを徘徊するのは、みっともないというのだ。今の、若者たちの海外旅行とは、まったく違うものだった。車中、コマエ某氏(大使館の執事)は、なんとかして、私たちの目的を聞き出そうと、あれこれ聞いたりすすめたりした。元学長を訪ねるのは、何か魂胆があると睨んでいるのだ。

「アンコールワットはすばらしいですよ」

「カンボジアからどこに」とか、しまいには「学生さんなら、日本に帰って授業に出なさいよ。学校はじまってるでしょ」といらぬ節介まで焼く始末だった。

要するに、突然に訪ねようとする田中精一という人は、彼にとっては、かなり偉い人か厄介な人で、それで、もしかして、知り合いだったら、と心配しているふうであった。

尋ね人の田川精一元学長の住まいは、プノンペン中央駅近くの高層建築が並ぶ、高級住宅街にあった。政府の外国要人の宿舎で5、6階のどっしりした白いビルだった。

「ここですが、先に私がちょっと」コマエ氏は、あたふた階段を上っていった。

「なんだ、あいつは」短気な青木君は、腹を立て始めた。「なにか面倒だな、このままラオスの方に行くか」そんなことも言い始めた。

私はめずらしいので周囲をながめた。隣りに議事堂があって、警護の兵士が銃を枕に昼寝してい。大通りの向こうに鉄道が走っていて、その向こうは、ただただひろい沼地が広がっていた。一ヶ月前、東大泉にある松崎先生のお宅をたずねなかったら、ここにいないのだ。そう思うとここに立っているのが不思議な気がした。

すぐに私たちは三階にある田川元学長の部屋に呼ばれた。そのときの様子は、いまでもはっきり覚えている。広い居間の中央に、元学長は竹網椅子に座っていた。肌着のうえから太鼓腹をバスタオルで巻いていた。顔が異常に大きかった。すっかり禿げあがった大きな額。丸い眼鏡の奥の細い眼。短躯であるが、精悍に見えた。全体的な印象は、まるで白ダルマが座っているような、そんな光景だった。

元学長は、葉巻をくねらせながら松崎先生の名刺をながめていた。が、不意に頷いて

「うん、思い出したぞ」と声をあげた。「東京で開かれたベトナム問題のシンポジュウムで椅子が隣りだった」

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.280 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

そのことは、松崎先生からお聞きしていたが、それ以後お付き合いがあったと思っていた。が、そうではないようだ。それほど深い知り合いでないことがわかって、私は冷や汗がでて

きた。バンコックの藤島氏は、拓友会にいたというから、大先輩ということで少しは繋がりがある。が、元学長は、日大とも拓植ともまったく関係のない人物だ。幸いのことに、田川氏は、それ以後、松崎先生のことには、まったく触れなかった。どんな質問をされたか、忘れてしまったが、私たちの旅が、まったくあてもないと知ると、愉快がって

「あきれた連中だ」と豪快に笑うばかりであった。

どこにいたのか二人の日本人の女性が椅子を二つ運んできた。そうして「どうぞ」とすすめたので、私たちは腰をおろした。一人は五十代、もう一人は四十代前後だった。驚いたのは大使館のコマエ氏だった。私たちを残して逃げるように帰っていった。

「昼飯は食ったか」田川元学長は、唐突に聞いた。私たちが空腹とわかると「おい、飯食わしてやれ」怒鳴って奥に消えた。あとは昼寝してから。秘書らしき女性がそう告げた。

私と青木君は、昼飯をご馳走してくれると聞いて感激。頭には昼飯意外なにもなかった。こうしてプノンペンでの一日がはじまった。

つづく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

黒板絵情報  あの黒板絵写真展が、熊谷元一の故郷で

 

黒板絵写真展開催期間  44作品が展示(数点が江古田で未展示の作品)

(長野県下伊那郡阿智村 ℡0265-43-4422 会場・熊谷元一写真童画館アートギャラリー)

 

2015年11月25日(水)~ 2016年3月7日(月)

 

交通・バス 新宿西口高速バス乗り場・飯田行き → 4時間 高速バス停「伊賀良」下車

バス停「伊賀良」・駒場行き、昼神温泉行き → 20分 → 駒場 → 昼神温泉郷

タクシー(りんごの里)→ 昼神温泉郷

 

ゼミ・文芸研究Ⅱ  後期後半の下原ゼミ

 

ゼミⅡ後期前半の記録

 

□  9月28日 参加 大島 夏休みの過ごし方、司馬遼太郎の作品談話。

□  10月 5日 参加 中野、蓮子、大島 志賀直哉『范の犯罪』、模擬裁判について

□  10月19日 参加 大島 模擬裁判とゼミ誌について

□        大島―ゼミ通信、メールでゼミ誌原稿の添付するが不備、着信せず。

□  10月26日 大島、蓮子、中野 テキスト『剃刀』を輪読 ゼミ誌報告

□  11月 9日 大島脚本半分読み合わせ、ロシア継子殺人未遂事件についての裁判

□  11月16日 未完台本読み合わせ 志賀直哉観察作品読み

□  11月30日 全員参加 完成台本の読み合わせ 12・14に向けて

□  12月 7日 授業評価 『正義派』読み 3ゼミ合同発表会について

□  12月14日 3ゼミ合同発表会

長野県阿智村60周年事業

 

19回熊谷元一写真賞コンクール募集2016年のテーマは「阿智村」・「祝う」です。

 

志賀直哉 事件観察作品

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ

 

「サーカスナイフ投げ妻殺人事件裁判」の再現公演

 

あるサーカス団で演目・スローインク・ナイフ(人を立たせてナイフを投げる)のナイフ投げ実演中に、的役の女性団員が死んだ。ナイフ投げ曲芸師が投げたナイフが頸部に刺さっての即死だった。目撃者は、観客・団員多数。が、女役者とナイフ投げ曲芸師が夫婦で、不仲だったことから、事故か故意かわからなくなった。果たして真相は…裁判を再現する。

 

演題・范の犯罪

 

はじめに ―――― 中野貴久

 

ナレーション ――― 大島賢生

 

裁判長 ――― 蓮子あゆみ

 

范(被告) ――― 中野貴久

 

団長(証人) ――― 大島賢生

 

刑事(証人) ――― 大島賢生

 

ピエロ(証人) ――― 大島賢生

 

傍聴人(裁判員) ――― 観客

 

【裁判員裁判】

裁判員制度は、日本に約1億人いる衆議院議員選挙有権者市民)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。

裁判員制度が適用される事件地方裁判所で行われる刑事裁判第一審)のうち殺人罪傷害致死罪強盗致死傷罪現住建造物等放火罪身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。例外として、「裁判員やその親族に危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」は裁判官のみで審理・裁判する(法3条)。被告人に拒否権はない。

もしかして、いつかあなたも裁判員に・・・・

12・14 3ゼミ合同発表会

(清水ゼミ・山下ゼミ・下原ゼミ)

 

後期前半最終日にあたる12月14日(月)のゼミは、恒例の3ゼミ合同発表会です。参加ゼミは、清水ゼミ・山下ゼミ・下原ゼミ。この合同発表会では、2015年各ゼミのまとめ、成果などを報告します。

2015年各ゼミの研究、実績内容及び報告・発表は次の通りです。

 

・清水ゼミ・・・・ドストエフスキー研究

報告「ドストエフスキー研究」のまとめ

文芸研究Ⅰゼミ誌『罪と罰No.27 』刊行2015・12・4

文芸研究Ⅲ『どすとえふすきいまんだら』刊行11・4

※ドストエフスキー研究の一環として担任教授の清水先生は、2015年10月31日、『清水正・ドストエフスキー論全集8 「白痴」の世界』を刊行。「美しい人間の愛と破綻の裸像」が明らかに。

 

・山下ゼミ・・・・宮沢賢治研究

発表「宮沢賢治」の作品寸劇&他

ゼミ誌『宮沢賢治研究』刊行

※宮沢賢治研究では、山下教授が宮沢賢治生誕120年を記念して2015年11月10日に『マンガで読み解く 宮沢賢治の童話事典』をマンガ・中村美公共著で刊行している。

・下原ゼミ・・・・熊谷元一研究&志賀直哉

発表「志賀直哉作品『范の犯罪』」脚本化の裁判再現公演

ゼミ誌『熊谷元一研究 No.2 』

今回の発表では、『范の犯罪』裁判再現を寸劇公演する。(脚本・大島 出演=蓮子、中野、大島)

※熊谷元一研究では、2015年6月に熊谷元一写真展「黒板絵」を日藝アートギャラリーで開催。熊谷元一・下原共著で写真集『黒板絵は残った』(2015・5・30)を刊行した。

なお、ゼミ合宿として8月、熊谷元一の故郷、長野県阿智村を訪 ね昼神温泉郷にある「熊谷元一写真童画館」を見学した。他、最近注目されている「満蒙開拓平和記念館」を見学。

 

 

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