文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.285

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2016年(平成28年)4月25日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.285

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/11 4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/11

熊谷元一研究

 

4・25下原ゼミ

 

希望カード提出の皆さん

 

4月18日迄の希望カード提出者は、以下の皆さんでした。

 

□浦上透子(うらがみ とうこ)さん □鈴木優作(すずき ゆうさく)さん

□須川藍加(すがわ あいか)さん

 

18日ゼミ参加は、浦上透子さん。ゼミ授業は、熊谷元一研究の一環としてDVD鑑賞、創作作品の音読などを実施しました。課題1.「ふるさと」「二つの新聞投書感想」

 

ゼミの進め方

 

下原ゼミは「読むこと」「書くこと」の習慣化を目標とします。「読むこと」では主に志賀直哉作品を中心に読みます。併せて、写真家熊谷元一の写真童画作品も鑑賞します。

テキスト=岩波書店刊『志賀直哉全集』(昭和48年-49年)、世界名作『にんじん』等

『伊那谷少年記』、岩波写真文庫『一年生』

 

読むことの日常化について 主に志賀直哉の観察作品を読む

 

今年も、読書を日常化するために、主に志賀直哉作品を読んでゆきます。車内観察作品、生き物観察などです。他に観察を主題とした作品もとりあげます。

※志賀直哉作品について、旧仮名づかいは新仮名づかいに、旧字体は新字体に改めたもの。

 

書くことの実践化について 見たこと、感じたことをすぐに文章にしてみる

 

書くことなど何もない、という人もいますが、そんな人には、朝起きてからの自分の行動を書く事をススメます。その日の天気、朝のニュース、電車は通常だったか。何時に、何をしたか。特別なことでなくても、毎日、同じことでも、書きつづけてみると、毎日が微妙に違ってみえます。はじめは、面倒に感じますが、そのうち、書かないと、何か物足らない。そう思うようになったらしめたものです。書く習慣がついてきたのです。そのうち書かずにはいられなくなります。継続は、必ず力になります。

 

熊谷元一研究  岩波写真文庫『一年生』の鑑賞と感想

 

 

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ゼミの大局的な目的 個人の完成について

 

このゼミの実際の目的は、先に述べたように「読むこと」「書くこと」の日常化、習慣化にあります。が、大学生活全般からみると、目指すものは他にもあります。

それは、専門の学識もあるが、大局的には、「個人の完成」に他なりません。個人の完成がなければ、社会でいかに権力を得ようが、富・名声を得ようが、真に人生の成功者とはいえません。古今東西歴史に名を刻む英雄・独裁者たちは、その例である。近くはシリアのアサド大統領しかり、ポルポトしかり、遠くはナポレオンしかり、である。彼らは、権力、名声、富、すべてを手にいれたが、国を混乱させ、人々を犠牲にした。

では個人の完成とは何か。どうすれば個人を完成させることができるのか。そのことについて言汲した人がいる。明治初年の混乱期にあって日本における教育制度の確立に尽力した嘉納治五郎(柔道の創始者としてよく知られている人1860-1938)です。この人は、「個人の完成」について、このように述べている。

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「いったい人というものは何かと問われれば、遠い祖先からこの世に生まれてきて周囲の影響と他人の力とで成長し、ある時期から後は自己の力もこれに加わって発達してきたもの」で「個人の完成とは、現在その個人が棲息している社会において可能なる肉体及び精神の最も発達したる状態と、その力によって獲得し得る最も大なる有形無形の力である」

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つまるところ人間の完成には、環境もあるが、その人自身の努力と勉学への意志が大きい。そのように説いているのです。自分の努力と、学ぶ意志を併せて実施できるのはゼミ授業です。それ故に、ゼミ授業は、重要です。特に3年目は、大学にも慣れ環境的に集中できる年です。この一年、自身を磨き、個人の完成に近づけるよう期待します。

ちなみに完成された個人とは、他者から信用され、頼りにされ尊敬される人間です。生きとし生けるもの一人一人に幸福を与え、人類全体を平和に導ける者です。

 

読むことについて 読書は、自分で読むしかありませんが…

なぜ読書のススメか

たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。昨今、ニュースになったスポーツ選手の不祥事が、それを教えてくれています。

では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは「読書する」ことをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、下原ゼミではそう理解しています。「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。

では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。

日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声、権力を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、真にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。

しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちは私欲・不正にまみれています。「健全な精神」を持たない我欲だらけの人間。そうした人たちは、おそらく

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学生時代に健全な精神を育てる努力をしなかった。つまり読書をしなかった。そのようにみてとれます。

大学生活は、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、いつでもできます。食事と同じと思えばいいのです。

どうして、そんなに読書が大切なのか。楽しい学生時代に…そんな反論もあるでしょう。青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに光り輝いているからです。大人になってから感銘を受ける本もありますが、若いときとはどこか違います。なにごとにも旬があるのです。

しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。が、良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。それについて、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎は、自著「青年修養訓」のなかで説いています。

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嘉納治五郎(1860-1938) : 柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、野球、ボート、ジョギングなど今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。夏目漱石の『坊っちゃん』は、作者が自分と彼をモデルにした。そんな想像もできます。1909年にアジア人初のIOC委員として第12回東京オリンピック招致に奔走した。

ちなみに下原ゼミでテキストにしている志賀直哉とも深い繋がりがあります。志賀直哉は、柔道では、嘉納治五郎の孫弟子にあたります。

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読書は、どのようにしたらよいか。いまさら、と思いますが、なにごとも初心忘るべからず。と、いうことで、まずは、この嘉納治五郎の著書『教育編』にある「青年修養訓」を読んでもらいます。この修養訓は、明治43年(1910年)12月30日に同文館から出版されました。いまから106年も前の文章です。読みずらいカ所は多々ありますが、読書の極意に変わりありません。しっかり読んで、読書の方法を身につけてください。

ちなみに、この年1910年は、暗い重苦しい年でした。大逆事件が起きています。日本が狂信的軍国主義国家に突入した年です。昔の人はよく読書したと聞きますが、当時の為政者は、この修養訓を正く理解し得なかった。そのように思えてなりません。

 

大逆事件 明治天皇の暗殺計画とのでっちあげ容疑で幸徳秋水ら社会主義者24名が逮捕、12名が死刑、12名が無期懲役となった。森鴎外、石川啄木、永井荷風らに衝撃を与えた。

 

15 精読と多読

『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)

精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚

だ怪訝に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(吾妻鏡)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。

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またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはークスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠らないようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。

 

と、このように読書の必要性を説く。が、どんな本を読むかは、このように述べている。

 

読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値が

あるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。

 

どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。

さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。

 

次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。

 

つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、というこ

とである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。

 

世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。

 

鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。

 

理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。

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 そのためには・・・・・

 

さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会

得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(宋のテイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。

 

書物を理解するには、繰り返し読むことが重要。精読まずは精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。

 

 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事に

はこのような美風も今日ではさほど行われないようである。

 

ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為

されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。

 

しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。

 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもない。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これ

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を他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。

  またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ 一番大事なところ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。

 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄毒(らんどくもうどく)となるに至ってその幣が極まるのである。

 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹(つつし)んで遠ざくべき悪癖である。

 

以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれの性癖もある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。が、文学の手本なら志賀直哉である。

このような理由から下原ゼミは、志賀直哉をテキストにした。

 

志賀直哉(1883-1971)

 

テキストの志賀直哉作品は、主に車内観察作品を読んでいきますが、『菜の花と小娘』は、処女作でもあり、かつ歩きながらの観察作品ということで、毎年、ゼミでは、この作品から読んでゆきます。たった数枚の物語のなかに風景と心情と創作を織り交ぜた観察作品です。  いまではどうか知りませんが、1950年代は教科書定番の小説でした。(『清衛と瓢箪』『小僧の神様』と並んで。)日本文学のなかでは名作です。

 

志賀直哉、『菜の花と小娘』までの主な年譜

 

・1883年(明治16年)宮城県石巻で生まれる。父親は銀行員、前年に兄は早世

・1885年(明治18年)両親と上京、東京麹町の祖父の家に住む。

・1900年(明治33年)17歳 内村鑑三を訪ね門下生となる。

・1901年(明治34年)18歳 足尾銅山鉱毒事件で父と衝突、不和がはじまる。

・1904年(明治37年)21歳 小説家を志す。5月「菜の花と小娘」を書く。

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菜の花と小娘

志賀直哉

 

或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。

やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。

ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。

「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。

「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。

小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。

小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、

「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。

「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。

「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、

「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」

と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。

小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。

路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、

「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。

しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。

「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、

「このまま流れて行くのよ」と言いました。

菜の花は不安そうに首を振りました。そして、

「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。

「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、

「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。

菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。

どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、

移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。

菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。

「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想

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に、

「心配しなくてもいいのよ」と答えました。

菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。

間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。

「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。

「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。

「それで、いいのよ」小娘は言いました。

「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、

「いいのよ」と笑って取り合いません。

が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も

急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。

少しきたところで、

「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。

「何でもないのよ」

と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。

麓の村が見えてきました。小娘は、

「もうすぐよ」と声をかけました。

「そう」と、後ろで菜の花が答えました。

しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。

チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、

「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。

「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。

「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。

「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。

小娘は大きな声をして笑いました。

「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。

小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。

そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。

おわり

 

この作品は、作者23歳のとき明治39年(1906年)に書いた草稿「花ちゃん」を改稿。雑誌『金の船』第2巻第1号にて大正9年(1920)に37歳のとき発表。いまから109年も前の作品ですが、文章的にはどうでしょうか。

明治37年(1904)5月5日の日記に

「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」とある。

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テキスト情報 志賀直哉に関係する新しい資料。4月5日の朝日・読売新聞

 

 

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熊谷元一研究 9月までの連載分をゼミ誌に掲載します。連載1.

 

創作ルポ 熊谷元一

 

一、待ちぼうけ

2016年4月15日、日本大学藝術学部江古田校舎。新学期がはじまった大学は、まだどこか落ち着かないざわめきがあった。そんな中で文芸棟5階にあるゼミ3教室だけがひっそり閑としていた。受講生を待つ私の他は、誰もいなかった。学生が12人も入いればいっぱいになる小教室がやけに広くみえた。4次元目の始業のベルが鳴ってから既に30分は過ぎていた。私は、ちらとドアをみてから壁の時計に目をやり、つぎに携帯の時間を見た――さっきからこの動作を繰り返していた。時は過ぎるばかりだ。

隣りのゼミ教室から賑やかな話し声が聞こえてくる。昨年までのゼミを思い出した。定員の12名が過ぎたら困る。毎年、そんな心配が常だった。それが、ことしは、閑古鳥が鳴いている。湖水の底のように静まりかっているのだ。

もしかして誰も来ないのではないか――そんな不安が胸の中にじりじりとひろがりはじめていた。理由は、わかっていた。先日のガイダンスで、ことしからゼミの研究テーマとして熊谷元一研究をはじめると宣言したからだ。

「クマガイトイチですか」見学に集まった学生たちは、一瞬戸惑った顔で、つぶやき、そして黙り込んだ。

「そうです、写真家で童画家ですが、まったく無名です」言ってから私は、あわてて言いなおした。「いえ、無名とはいえません。写真界では有名な人です」

だが、遅かった。大半の女子学生は、次のゼミ見学にと立ち去っていった。悪いと思ってか残った男子学生も、しばらく居ずらそうに座っていたが、そのうち、申し訳なさそうにぺこりと頭をさげてひとり二人と背中をみせた。次々と去っていく見学者。これもかれも、研究対象者があまりにも未知な人、無名の人だった故にといえる。

だが、私は、まだ希望を持っていた。たしかに無名かも知れない。写真家といっても、頭にアマチュアがつく。童画においても、プロとは言い難い。クマガイは小学校教師をやりながら写真や童画の仕事していたからである。が、ガイダンスの後、スマホやネットで検索すれば、私がゼミで掲げた熊谷元一がどんな人物かわかるはず。彼の業績を知れば、その作品に興味がわいてくるに違いない。

勝手にそのような確信をもって待ちつづけた。たとえ、今日、1人も来なかったとしても、明日はくる。明日がだめなら…。私は悔いる代わりに童謡を口ずさんだ

待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日、せっせと野良かせぎーーー

私は、童謡を口ずさみながら、これから大学で研究していこうとする熊谷元一のことを思った。熊谷は、本当に無名なのか。いや、決してそうとはいえない。彼は、写真界において一度ならずも二度までも脚光を浴びたことがあるのだ。

二、またふたたびの脚光

1955年(昭和30年)この年の秋、日本の写真界に、衝撃的なニュースが走った。誰も予想しなかった出来事が起きたのだ。

この年の夏にプロアマ限らずすべての写真作品を対象にした写真賞・第一回毎日写真賞が開かれた。まだカメラが珍しかった時代だが、多勢の応募者があった。昨今、エンブレム問題もあり応募作の選考基準が問われているが、この第一回毎日写真賞の選考経過はこのようであった。(昭和30年8月30日 毎日新聞掲載)黒字は新聞記事

 

―――――――――――――――――― 11 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.285

 

(応募期間は)「まず29日4月1日から30年3月31日までに新聞、雑誌、その他刊行物、展覧会を通じて発表された写真作品について、文化人、写真評論家、職業写真家、全国アマチュア写真団体に対して推薦アンケートを求め、その回答を基礎に本社委員会において82点(黒白63点、カラ―7点、組写真12点)を候補作品として選出した。」

これらの作品は、東京では、この年の7月29日~8月10日まで銀座松屋において「第一回毎日写真賞候補作品展」として一般公開された。はじめての写真賞だけに、世間の関心が高かった。名のある多くの写真家が作品を寄せていた。

たとえば、彼らのような人たちである。

土門拳の「室生川―室生寺より」、木村伊兵衛の「外遊作品全般」「秋田」「イタリアのスラム街」、林忠彦の「ある画家の生活」、瀬田千作の「小淵沢所見」などなど錚々たるメンバーだった。

次号につづく

 

名作紹介 世界名作選の紹介 1作目

 

 ここでは、編集室が独善で選ぶ世界名作本を紹介します。

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

 

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。

「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など

作品は、次のようなものがある。

【ハヤカワNV文庫】に収録

『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。

【新潮文庫】サローヤン短編集

『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。

【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』

『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。

 

サローヤンはロースト・ジェネレーションと言われる時代。ヘミングウェイ(1899)、スタィンベック(1902)と同じ世代の作家だが、作風がまったく違っている。

★ サローヤンを読むと、自分も何か書いてみようと創作意欲がでます。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.285 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

ゼミ合宿について 実施の場合 学科事務に申込み書類提出

 

ゼミ誌について 『熊谷元一研究 No.3』の発行

 

1.4月18日(月)編集委員 浦上透子さん  鈴木優作さん

 

2.5月17日(火)文芸棟 教室1 ゼミ雑誌作成ガイダンス出席2名

 

ゼミ雑誌の納品は、2016年12月9日(金)です。

 

ゼミⅡ日誌 □4月11日ガイダンス6名

□4月18日 参加浦上透子さん 音読「恩師の告白」

 

・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・

 

課題2. テーマ「さくら」についてのエッセイ、創作

「なんでもない自分の一日」自分の身の回りで起きたこと

 

(課題1.「二つの新聞投書の感想」、自分の「ふるさと」ルポ

 

 

19回熊谷元一写真賞コンクール募集

 

2016年のテーマは「阿智村」・「祝う」です。

 

テーマ「阿智村」は、阿智村に来て、阿智村を撮ってください。風景、行事何でも可。

テーマ「祝う」は、どんな祝い事でも。「祝い事」ならなんでも。

 

締め切りは、2016年8月末 選考会は同年9月末東京で最終選考会 授賞式11月

―――――――――――――――――― 編集室 ――――――――――――――――

 

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原ゼミ編通信・編集室

メール:toshihiko@shimohara.net 携帯 090-2764-6052 ℡047-475-1582 下原

名前

 

課題2. テーマ日誌

 

「なんでもない一日」      名前

 

 

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