文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.289

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2016年(平成28年)5月30日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.289

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/11 4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/11

熊谷元一研究&志賀直哉

 

2016年読書と創作の旅

 

ゼミⅡ観察・・・・連絡(ゼミ合宿の日取り)

 

課題報告・・・・・「書くこと」浦上さん提出分の感想 課題1、2

 

テキスト読み・・・熊谷元一研究DVD「教え子たちの歳月」他

 

 

5・9下原ゼミ

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年、読書と創作の旅

 

5・23ゼミⅡ

 

提出課題感想 「ふるさと」他 鈴木優作さん

 

ウイリアム・サローヤンの

『空中ブランコに乗った大胆な若者』

 

テキスト志賀直哉車内観察作品

『網走まで』『夫婦』

 

 

【5・30ゼミ】    熊谷元一研究 映像で読むドキュメント

 

本日は、熊谷元一研究の一環としてNHK制作のドキュメンタリー番組を観賞します。

NHKドキュメンタリー番組「教え子たちの歳月」1996年(平成8年)

11月24日《にっぽん点描》)で放映。全国から大きな反響がありました。

 

16年後

NHKBSプレミアムアーカイブスで再放送

2012(平成24年)12月18日(火)午前9時から放映されました。

ゲスト・石坂浩二さん(俳優)

 

課題6.感想を書いてください。「教え子たちの歳月」を見て

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.289 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

課題1.報告

 

テーマ1.「さくら」

 

浦上透子      気持ち悪かったときも…

 

満開の桜を見ていると小さいものがびっしり集まっていて気持ち悪いと思った時がある。

 

□そんな感覚もあるんですね。そういえば、さくらは狂人、鬼といった不気味、不穏も予感されます。たしか坂口安吾の作品にもそんなのがあったような気がします。

 

テーマ2.「ふるさと」

 

浦上透子      住めばみやこ

 

私は、小学校4年生まで東京の三鷹に住んでいました。5年生から神奈川の藤野に引っ越し、もう15年近くたちます。中学生くらいの時は、なんでこんな田舎に引っ越してしまったのか、と東京に戻りたくなったりしましたが15年も住んでいると、ふるさとと云うと藤野だと思うようになりました。

私の住んでいる町は、山があり、あまり美しくない湖があり、きれいな川があり、畑があります。――とはいえ、のどかな田園風景というわけではなく、歩道のない県道を中心に、家、山、がけがあり、一番近くのコンビニまで徒歩40分、バスは1時間に1本。ダンプが通り、たまに暴走族が通り、公園はない、公立高校もない、映画館もマクドナルドもない、そういう場所です。それで私はそこがけっこう気に入っています。

 

□たとえどんなに山奥だったりしても、風光明媚でなかったりしても、スラム街のようなところだったりしても、生まれ育ったところは懐かしいものです。ふるさとって不思議ですね。

 

テーマ3.「改憲、護憲 二つの違った投書を読んで」

 

浦上透子        盲目的に支持するのも…

 

私は、愛国心はあるけど、国のプライドや国家なんてものは、かなりどうでもいい…。ただ盲目的に安保法反対派を支持するのも何か違う気がします。

 

□平和のためには武器は必要。この世は矛盾だらけですね。

―――――――――――――――――― 3 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.289

 

課題2.報告

 

テーマ1. 自分観察「なんでもない一日」

 

浦上透子

 

10時過ぎに起きてテレビを見ながらアイスを食べる。

昼、ソーメンを食べる。縁側で弟のマンガを読む。昼寝をする。かき氷を食べる。

夕方、アロハシャツを作る。

晩ご飯のあと映画を見る。2本見る。1時くらいに明日、学校に行きたくないないと思いながら寝る。はじめに戻る。

 

 

課題4.報告

 

テーマ1.テキスト観察「菜の花と小娘」

 

浦上透子        気味の悪さが才能なのか

 

21歳の成人男性が書いたとは思えないくらいファンシーな話だと思いたいのですが、そう考えると随分気味が悪い。

その気味の悪さが志賀直哉の才能なのかなと思いました。

 

□他の生物を擬人化して書いたもの、最近では『カエルの国』という寓話小説があります。話題性はありますが、文学的には、はるかに及ばないのでは、と思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【世界名作読み】5・23読むことの一環として先に紹介した世界名作を読んだ。

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.289 ―――――――― 4 ―――――――――――――

 

テキスト読み 5・23ゼミは、『菜の花』につづいて『網走まで』を読んだ。

 

『網走まで』について(2016・5・30)

 

「下原ゼミ通信」編集室

1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』あとがきで、作者志賀直哉は、『網走まで』についてこのように話している。(全集文を編集室が現代表記に)

 

【細川書店版「網走まで」あとがき】「帝國文学」没書顛末記 抜粋

発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。

 明治三十九年に、二十四で学習院を卒業し、東京帝国大学に入り、そのよく翌年くらいにこの短編を書いた。その頃、大学内に「帝國文学」という雑誌があって、それに載せてもらうつもりで、その会員になったが、幾月経っても載らず、ついに何の音沙汰もなく、没書になった。

 「帝國文学」の原稿用紙というのが、今思えばまことに変なもので、紙を縦に使って、一枚がそのまま、雑誌の一頁になるように出来ていた。編輯には便利なので「白樺」をはじめた時、真似して作ってみたが、使いにくく、すぐやめてしまった。十七八行、五十字詰くらいで、今の四百字詰の原稿用紙に比べると倍ほどの字数になる。従って一コマが小さく、とくに上下がつまっていて、大変書きにくかった。その上、ロール半紙で、表面がつるつるしているし、それに毛筆で書くのだから、私のような悪筆の者には非常に厄介なことだった。清書だけでも人にしてもらえばよかったものを自分で書いて送ったから、編集者はそのきたない原稿を恐らく読まずに、そのまま屑籠に投げこんでしまったのだろうと思う。今はそれを当然のことだと思うが、当時は一寸不快に感じ、会費を一度払っただけで脱会してしまった。明治四十三年に「白樺」を創刊したとき、私はその第一号にこの短編を載せた。二年ほど前から回覧雑誌を出していたから、作品は他にも三つ四つできていたが、創刊号にこれを選んだのは、没書になった故に、わざと出したように思う。

 小宮豊隆君が新聞か雑誌かでほめてくれた。月評を書くのでいろいろなものを読んだが、この小説へきてようやくほっとしたというようなことが書いてあった。ほめたといってもその程度の賛辞であったが、私はそれをうれしく思った。個人的には未だ小宮君を知らぬ頃のことだ。・・・・・・・・・。(岩波『志賀直哉全集』)

 

『網走まで』には大きな謎がいくつかある。作品を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治43年(1910年)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証としては、まず題名の「網走」から考えてみたい。

―――――――――――――――――― 5 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.289

 

インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。

 

例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)

また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。

  • 1872年(明治5年)3月北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
  • 1875年(明治8年)漢字をあてて、網走村となる。
  • 1890年(明治23年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
  • 1891年(明治24年)集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
  • 1902年(明治35年)網走郡網走村北見町勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。

明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。(屯田兵として利用する)。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。

「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」

なんとも乱暴が話だが、国策、富国強兵の一環として、この計画はすすめられた。

そして、明治12年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治23年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って

「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。

この作品はどう読んでも網走駅までの印象は強い。「網走まで」は駅までではない。そう言われても、では「なぜ」と問いたくなる。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 

『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。直哉がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に8月14日と明記されている。志賀直哉25歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、

 

「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」

 

と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.289 ―――――――― 6 ―――――――――――――

 

生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。

もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」とゴロがよい。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。

しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。

しかし、41年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、それほど深い思い込みでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 

「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。

同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的

作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わって完全なやくざ映画である。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人で日本刀を片手に、多勢の悪いヤクザが待つ敵陣に乗り込んでいく。その背中に、高倉健自身が歌う発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。

とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわ

く。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく警視庁の機動隊や国家権力、そして大企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地で

―――――――――――――――――― 7 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.289

 

もあったのだ。

で、当然といえば当然だが、そんなわけで1960年末~70年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく死刑囚の仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。

『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたの

か。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。

子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところだった。

余談だが、1965年、昭和40年、今から51年前だが、私は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためだった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕

事、途中で逃げ出す学生が多いから、と覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)に組み込まれた。住み込み三食つきにバイト代500円、それに単位修得。一石三鳥になる。(当時、バイト日給600~800円が相場)で、躊躇なく決めた。

信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れがあった。7月の前期終了日、主任教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。釧路が一番多く数名、あとは稚内や網走、他、知らぬ土地だった。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名。地図でみると根釧原野の中ほどにある。釧路から近い、とわかった。が、どんなところかは、想像もつかなかった。

とにかく行けばわかるさ、で、友人たちと上野から「青森行き」夜行列車に乗った。大学一年18歳の夏だった、「計根別まで」の旅。記憶では、翌朝早く、青森駅に到着、青函連絡船で函館。そこから札幌までが、長かった。札幌で時計台を見に行きラーメンを食べた。再び列車で釧路に向う。深夜、倶知安という駅に着いた。寒いので、うどんを食べた。計根別に着いたのは昼過ぎ。上野を出てから二日かかった。農協の職員と、酪農家の家の人が待っていて、学生は、各農家一軒に一人ひとり振り分けられた。私が働くことになったのは、開拓13年目の酪農農家だった。小学生の子供が三人いる五人家族だった。トラックから下りたところは根釧原野の真っ只中。西武劇の丸太小屋を思わせる、家と20頭ほどのホルスタイン牛がいる牛舎がぽつねんとあるだけだった。夕焼けに染まっていく空が異常に広く感じられ、なにか心細さを感じたことを覚えている。まだ、北海道は遠かった。

昭和40年でも、こうだから、明治の時代には、どれだけ大変だったか、見当もつかない。その意味から、母子三人の網走行は矛盾が大き過ぎる。東大文学編集部が没にした理由はそのへんにあるような気がする。作者は、母子の旅をより困難な旅に印象づけるために未開地の網走とした。若き日の小説の神様の勇み足といえる。が、今日、網走に何の違和感もない。

 

【北海道の思い出】北海道には、学生時代、牧場の夏季アルバイトに行った。根釧原野の真ん中にあった開拓農家。朝5時起床して十数頭いる乳牛の餌やりと糞掃除、そのあと搾乳。7時過ぎ朝食。ごはんに牛乳をかけたりバターを乗せて食べた。8時からホップかにんじんの魔引きとジャガイモ掘り。午後は牧草集めとサイロ積み。夕方は馬で近くの川から風呂の水運び。とにかく大変だった。が、いまは懐かしい思い出だ。

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.289―――――――― 8 ―――――――――――――

 

掲示板

 

公演情報  あうるすぽっと 豊島区立舞台芸術交流センター(東池袋)

 

夏の夜の夢  ミュージカルフォンテーヌ

 

2016年 6月10日(金)~14日(火)

 

前売6000円  当日6300  03-5823-1055

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

読書会お知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

 

月 日 6月18日(土)       時 間 2時00分~4時45分

会 場 東京芸術劇場小5会議室    作 品 『白痴』4回目

 

課題6について

 

テーマ1.「車内観察」(乗客観察、時代、時期)

テーマ2. .DVD感想『教え子たちの歳月』を見ての感想

 

ゼミⅡ日誌

 

□4月11日ガイダンス6名 DVD NHK長野放送「熊谷元一追悼番組」

□4月18日 参加浦上透子さん 音読「恩師の告白」ゼミ合宿について 満州国について

□4月25日 参加鈴木優作さん 音読「恩師の告白」満州・子ども時代の遊びについて

□5月9日 浦上さん、鈴木さん参加、「個人の完成」「多読と精読」『菜の花と小娘』読む。

高橋さんに写真撮ってもらう。

□5月16日 浦上さん 鈴木さん参加 DVD「オンボロ道場再建」観賞。

□5月23日 浦上さん、鈴木さん参加(須川さん課題配布)サローヤン『空中ぶらんこ』

『網走まで』『夫婦』の読み

 

―――――――――――――――――― 編集室 ――――――――――――――――

 

〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原ゼミ編通信・編集室

メール:toshihiko@shimohara.net 携帯 090-2764-6052 ℡047-475-1582 下原

19回熊谷元一写真賞コンクール募集 2016年のテーマは「阿智村」・「祝う」です。

 

テーマ「阿智村」は、阿智村に来て、阿智村を撮ってください。風景、行事何でも可。

テーマ「祝う」は、どんな祝い事でも。「祝い事」ならなんでも。

 

締め切りは、2016年8月末 選考会は同年9月末東京で最終選考会 授賞式11月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊谷元一研究 連載2. 加筆と校正しながら完成させる

 

創作ルポ 熊谷元一

前回の概略

 

写真家熊谷元一は、私が小学校一年の時の担任の先生だった。私は、大学のゼミで熊谷を研究対象に掲げた。が、とたんゼミ希望者は途絶えた。熊谷が無名の人物だったからだ。誰も来ない教室で私は、熊谷の101歳の人生に想いを馳せた。

熊谷元一は、本当に無名だったのか。

 

二、またふたたびの脚光

1955年(昭和30年)この年の秋、日本の写真界に、衝撃的なニュースが走った。戦後初の大きな写真賞コンクールにおいて誰も予想しなかった出来事が起きた。

この年の夏にプロアマ限らずすべての写真作品を対象にした写真賞・第一回毎日写真賞が開かれた。まだカメラが珍しかった時代だが、多勢の応募者があった。昨今、東京オリンピックのエンブレムの選考過程が不明で問題になった。が、当時の選考経過は、公開形式をとったことで多くの目と専門家の厳しい評眼があった。

しかし、写真界では、既に受賞者の顔ぶれは予想がついていた。応募者のなかに土門拳、林忠彦、木村伊兵衛といった第一線の写真家たちの名前があったからだ。彼らの応募作品は、群を抜いていた。当然ながら、話題は受賞者するのは彼らのなかの誰か――ということに絞られていた。水準高い出来レースでもあったのだ。

ところがふたをあけて誰もが驚いた。名だたる候補者を押えて見事栄えある一等賞に輝いたのは、信州の山村の名もなき小学校教師だった。熊谷元一の作品『一年生』が満場一致で決まった。

くまがいもといち(熊谷元一)とは、誰?!はじめて聞く名前にマスメディアは、騒然とした。このときの選考経過について、当時、主催の毎日新聞が詳細に記事にしている。(昭和30年8月30日 毎日新聞掲載記事抜粋)黒字は新聞記事

 

(選考は)「まず29日4月1日から30年3月31日までに新聞、雑誌、その他刊行物、展覧会を通じて発表された写真作品について、文化人、写真評論家、職業写真家、全国アマチュア写真団体に対して推薦アンケートを求め、その回答を基礎に本社委員会において82点(黒白63点、カラ―7点、組写真12点)を候補作品として選出した。

これを東京では、7月29日~8月10日まで、銀座松屋における「第一回毎日写真賞候補作品展」で一般に公開すると同時に、45人の選考委員会から投票を求め、また大阪においては、今回は準備不足のため、公開展覧会を行わなかったが、本社内で非公開展示を行って、在関西6人の選考委員から投票を求めた。この東西51人の選考委員の投票も集計した結果、熊谷元一の『一年生――ある小学校教師の記録』、土門拳の「室生川―室生寺より」「おしんこ細工」、中山八郎の「ひまわり」、木村伊兵衛の「外遊作品全般」「秋田」「イタリアのスラム街」「曽根崎心中」、林忠彦の「ある画家の生活」、瀬田千作の「小淵沢所見」、大宮晴夫の「待ちぼうけ」、橋本保治の「日本の顔新しき悲劇」緑川洋一の「夜の潮流」樋口進の「カメラ・日本の旅」の14点が最終選考に残され、これらについて本社委員会による最終選考を行い、「一年生」および「ある画家の生活」が最有力として話題になったが、結局「一年生」が技術的な優劣を超えて、じっくりと対象と取り組んで、地方の小学校一年生と生活と性格、その成長をとらえていること、自分の日常生活の中にテーマを求め、一年間絶えない努力を続けたこと、写真がだれにでもとれ、またアマチュアカメラマンのあり方を教えたこと、などが認められて受賞と決定した」

 

土門拳、林忠彦、木村伊兵衛といった名だたる写真家を押えての受賞。マスメディアの驚きは想像できる。

まったく無名の人の作品が著名人たちの作品を出し抜いて受賞作となる。第一回毎日写真賞は、第一回芥川賞を彷彿させるものがある。横道にそれるが

昭和10年、自殺した芥川龍之介を記念して設立された第一回芥川賞は、波乱の幕開けだった。下馬評では、既に受賞者は決まっていた。東北地方出身で実家は大地主で政治家という帝国大生の新進作家が最有力候補にあがっていた。が落選した。

そのときの騒動をHPには、下記ように記している。

第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたがこれに対して太宰は強く憤り『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった(川端康成へ)。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。

『蒼氓』は石川達三氏の出世作である。昭和十年四月、同人雑誌『星座』に発表され、同年第一回芥川賞を獲得した。この時芥川賞の候補としては、石川氏の外に高見順・太宰治・外村繁等の諸氏が挙げられ、これによって数人の作家が眼白推しに文壇に登竜する機縁となった。当時の菊池寛の評言をここに引用して置こう。「芥川賞の石川君は先ず無難だと思っている。この頃の新進作家の題材が、結局自分自身の生活から得たような千篇一律のものであるに反し、一団の無知な移住民を描いてしかもそこに時代の影響を見せ、手法も堅実で、相当に力作であると思う」(話の屑籠) 芥川賞に選ばれたのは第一部『蒼氓』であって、ここでは1903年(昭和五年)、神戸の国立移民収容所に全国から集まってきたブラジル行きの移民たちの、船に乗るまでの八日間の生態が描かれている。 ─解説より─

 

受賞結果を聞いて太宰は「どこの馬の骨が」と毒ずいたそうだが、これまでの芥川賞受賞作品で『蒼氓』を超える作品は、まだない。

しかし、今日、太宰治の名は知っていても、石川達三を知る若者は少ない。太宰は読まれても『蒼氓』を読む人は少ない。それはなぜか、熊谷元一研究からは、逸れるが、その謎を考えてみた。もっとも、太宰と熊谷は、ともに1909年生まれということで同世代という共通項はある。二人の違いは、まず作品にある。石川は社会派、太宰は私小説ということか。『蒼氓』は、国家の絶望という大きなテーマだが、太宰の『盗賊』は個人の絶望。国家は、時代の波によって変動されるが、私事は普遍である。太宰が生き残れた要因は、まさにそこにある。そのように思えるのだ。

第一回芥川賞と、第一回毎日写真賞とは似て非なるものがあるが、そのデビューの衝撃度において、似たものがある。

しかし、決定的に違うのは、熊谷は、まったくの新人ではなかった、ということだ。かって脚光を浴び、現存の写真家たちと同じスタートラインに立っていたこともあった。

 

 

 

 

 

 

書くこと実践 加筆と校正しながら物語をススめる。

 

 

連載2 小説ドストエフスキイの人々

 

卒論にかえて 創作学科四年 葉口風子

 

登場人物

 

天野キン子・・・大学四年

夢井信吉・・・・甲府から来た会員

渋川教授・・・・大学教授

丸山  ・・・・会の事務局長

浜島  ・・・・会の会計係

石部・・・・・・印刷会社社長

小堀・・・・・・会誌の編集委員

 

第一章「そして誰も来なかった」

 

一、今日的名曲喫茶

 

二、ドジョウの会の役員たち

 

三、内輪もめ

 

四、それぞれの夢

 

「ほう、たいした記憶ですな。そんなこと言いましたか。いい加減なこと言ってもらっちゃ困ります。しかし、百歩ゆずって、言ったとしても、たいして驚きませんよ。たとえ、そんな大法螺吹いたとしても当然じゃないですか。会の存亡をかけてなにかやろうとしてたときですからね。一か八か、望みはでっかくですよ。大ボラ結構じゃないですか。ハハハ」石部は、指摘された、自分の発言を吹き飛ばすかのように声だかに笑ってハゲあがった広い額を平手で軽く打ってから、人差し指を浜島に向けて逆襲する。「そういう話ならわたしだって覚えていますよ。浜さんあんただって、あのときは随分はしゃいでいたよ。『白痴』を撮った黒澤明監督に掛け合ってドストエフスキイの伝記映画を作るんだって相当の熱の入れようだったじゃないですか。われわれ、「ドジョウの会」が制作に加われば日本アカデミー賞だって夢じゃない、そんな途方もない妄想にとりつかれていたじゃないですか。そこにいくとわたしの工場のビル建設計画なんか可愛いもんです。渡さんのに比べたらささやかな夢ですよ。極めて、現実的な」

「なにが現実的ですか」浜島は顔を真っ赤にして言った。「妄想じやありませんよ。ボクは今でも思っていますよ。石部さん、あなたのように何部売れて儲かったらビルをつくろうなんて、そんな卑しい気持ちじやないんです。今回の創刊号で一段落ついたらドストエフスキイの愛読者を増やすために黒澤監督だけじゃあなしに世界中のドストエフスキイ監督に手紙を書いて協力を要請する計画だって小堀君とたてていたんだ。現に実行しようとしていたんだ。なあ小堀君」

 

 

「え、ええ、まあ、茶飲み話ですけど」

小堀は照れくさそうに小声で言って頷いた。顔が赤くなった。

「ほう、そりゃあまた結構なことだ。そんな壮大な、そんな遠大な計画をお二人でたてていたというわけですか。まことにすばらしい。わたしのビル建設計画なんか、みみっちいもんですな。吹けば飛ぶような夢だった。こりゃまた失礼しやした」

「まあ、いいじゃあないですか。どんな非現実的な夢だって。あのときは誰もが夢をもっていたわけです。だからこそ創刊号を刊行できたのです。そうホメ殺しするような言い方もないでしょう」

丸山は幹事らしく割って入る。

「ホメ殺し、なにもそんなつもりじゃありませんよ。本当にたいした計画だと感心したまでですよ」石部は鼻をならしてどっかと椅子に腰を下ろした。そして、腕組みをしてふんぞり返ると貧乏揺すりをはじめながら言った。「そういえば、丸山さん、事務局長だって、相当に張り切っていたじゃないですか。成功したあかつきには二十五周年記念を兼ねて新宿西口の高層ホテルで大々的に出版パーティを打ち上げるなんてほざいてたんだから。忘れたなんていわせませんよ」

「ああ、石部さん、よく覚えていらっしゃる。はいはい、否定しませんよ。確か、そのようなことを言ったように記憶しています。なにしろあのときは出航まえですからねえ。みなさんすっかり舞いあがっていたし。もしかして、これを契機に会の運命が明るい方に拓けていくんじゃないか。そんな希望というか期待がありました。『世界ドストエーフスキイ友好協会』設立へ向けて一歩前進。そんな思いがありましたからね。だから、事務局を預かるものとして盛大に記念行事をやりたいぐらいの挨拶はやりますよ。私としても、本当にそれが夢ですからねえ」丸山はダンゴ鼻を膨らませ些か興奮気味に言った。

「ほんとあのときは、皆さん張り切っていましたよね。聴衆こそいませんでしたが、ぼくなんか、あのプーシキン記念式典のドストエーフスキイの講演を思い浮かべました」小堀は懐かしげに、しかし感傷を含んだ声で言った。

「ああ、それなのに、それなのに、か」突然、浜島は歌いだすと大声でつぶやいた。「そして、悲しき、祭かな、か」

「ベストセラーどころか、このていたらくだ」

「しかし、何の批評もないとはねえ。まさか新聞にも批評家連にもまったく無視されるとは思ってもみなかったです」

「近ごろは、見る目のあるやつがいないんだ」石部は憤然として言った。

「まあ、売れる、売れないは仕方ないとしても、せめて記念行事だけでも敢行したかったですね。我々一人一人に違った夢があって、その夢でせっかくちゃんとした本をだしたのだから,お祝いぐらいはしたかったね」浜島は残念そうにため息をつくと愚痴った。「そもそも、その資金ぐりを創刊雑誌の売上から得た収入で、なんて考えたのが甘かった」

「わたしんとこのビル建設計画に、浜さんの伝記映画製作、それに丸山事務局長の出版記念パーティ計画・・・おつ、小堀君のを忘れてたよ。浜さんと映画協力の他にあただろう、えーと、なんだっけ」

「いいですよ。ぼくのは」

「それはないだろ、われわれのホラをさんざん披瀝させておいて。自分ばかり恰好つけようと思っても、そりゃだめだ」

「あっ、おもいだした」浜島が叫ぶ。「ビルだよ。ビル」

「ビル?なんや」

「ビル建設やで、でも、石部社長のビル建設計画とは、違いまっせ、コボちゃんのは日本ドストエーフスキイ会館の建設計画」

「おお、そうだった。何、わたしだって、自分の工場のことばっかり考えていったんじゃあない。当然、ビル家屋の中に、『ドジョウの会』事務局の部屋をつくることにしていた」

 

 

「ふん、ほんまですか。社長はすぐこれた゛。調子いいんだから」

「何です!」石部は目をむく。

「まあ、皆さんの夢はさておき、もしこの本がベストセラーにでもなっていたら今ごろは、すごいことになっていたでしょう。たぶん、ホテルの大広間は全会員の出席や各界のドストエーフスキイ関係者で大盛況間違いなしだったでしょう。なにせ二十五年前この「ドジョウの会」を発足させたときはすごかったですからねえ」丸山は華やかなりし当時を思い出して感慨深めになつかしむ。

「栄枯盛衰とはよくいったもの、いまでは、未だ来ぬ会員を待ってボーイが注文をとりにくるのを冷や冷やしている始末。まさにこれを喜劇といわずして何というですな。ついこのあいだまでは、何人かの会員の参加者があったのに・・・それが・・・」浜島、店内を見回しうそぶく。「国敗れて山河あり、はたまた、つわものどもが夢のあとか・・・」

「ふん、浜さん、夢の跡でも、山河でもあればいいですよ。あれば。何か残っていればいいですよ。それを元手に何かできますから。夢の跡なら、思い出話しになるし、山河なら観光地にもなるし、百姓だってできる。しかし、我々の場合、何も残っちやいない。何もない。いや違う。我々の場合、残っているのは借金の山だ。ゼロどころか大マイナスときている。これじゃあ、なにかはじめようにもどうにもならん。おまけに頼みの綱の会員も目下のところ一人も出席せずだ。この調子じゃあ本当に誰も来ませんよ。これ以上しくら待ったってしょうがない。そろそろ、今後を含め、どうするか話し合った方がいいんじゃあないですか。もうこれ以上タラネバの話しをして悔やんだってしょうがない」石部は落ち着きなく貧乏揺すりをはじめると、断固たる態度で言い放つ。「いったいどうするんです。いくらなんでも私んとこだけが尻拭いするのはごめんですからねえ。このままでいくと・・・」

「ええ、わかってますよ。そんなことがないようにと、こうして臨時会議を開いたんじゃないですか」浜島は苦虫をつぶして言うと丸山を見て苦笑いする。二人とも石部にその話しを持ち出されるのはうんざりといった顔だ。

 

 

 

課題6. 2016.5.30

 

テーマ1.車内観察(車内・車窓風景・出来事・車内で考えたこと)

 

 

 

名前

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

課題6. 2016・5・30 ゼミⅡ

 

テーマ2 熊谷元一研究DVD「教え子たちの歳月」感想

 

名前

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑