文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.298

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2016年(平成28年)10月17日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.298

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/26 10/3 10/17 10/26 10/31 11/7 11/14 11/21 11/28 12/5 12/12 2017年 1/16 1/23

 

熊谷元一研究&テキスト作品(志賀直哉他)

 

2016年読書と創作の旅

 

10・17下原ゼミ

 

  1.  熊谷元一写真賞コンクール ゼミ誌ガイダンス報告
  1.  ゼミ誌について → 原稿提出、大まかな作成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊谷元一研究 第19回熊谷元一写真賞コンクール最終審査会観察

 

2016年9月28日(水)午後1時30分、グランドヒル市ヶ谷「翡翠の間」

 

「大賞は、これでしょう!!」

テーマ「祝う」の大賞他各賞が選出された。併せて阿智村賞も決まった。

※  審査委員は、信濃毎日新聞社写真部、南信州新聞社写真班、郷土写真家、フリー写真家阿智村元村長の各氏。写真中央は、写真評論家で日芸講師の飯沢耕太郎氏

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熊谷元一写真童画館(阿智村)は、9月28日(水)、東京・新宿にある市ヶ谷ホテルで、第19回熊谷元一写真賞コンクール最終選考会を開催した。審査員は、日藝講師の飯沢先生、フォトグラファーの杉本恭子さんはじめ、信濃毎日新聞社写真部、南信州新聞社写真班、写真家、熊谷元一写真童画館職員。大賞、阿智村賞など各賞が決まった。

 

☆20回のテーマ「遊ぶ」と自由「阿智村」に決定、2017年8月末まで。

 

応募要項は「熊谷元一写真童画館」ホームページ参照

 

 

第19回写真賞コンクール最終選考会打ち上げで、熊谷元一の資料をみる28会(「一年生」)

2016.9.28撮影:須藤功カメラマン

 

ゼミ誌作成について    10・5のゼミガイダンス

 

参加者報告  浦上  鈴木

 

これまでの計画

 

10月中旬(17 日) → 原稿提出・整理編集作業開始

 

10月下旬( ) 校正作業

 

11月中旬 → 印刷会社へ

 

12月9日(金)納品

 

ゼミ雑誌の納品は、2016年12月9日(金)です。

 

 

 

 

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ゼミ誌 訂正、追記、

 

目 次

Ⅰ 熊谷元一研究 

 

〈熊谷元一とは何か〉 三足のわらじ ・略歴(著作) ・作品展 ・最近発見の新資料報告(黒板絵) ・マスメディアは、その活動をどう報じたか

 

Ⅱ 特集【熊谷元一と写真】

 

〈写真家・熊谷元一〉 ・はじめてのカメラ  ・国策のカメラマン  ・アマチュアカメラマンとして生きた生涯「永遠の一年生」

・写真感想

・浦上透子(有)   ・須川藍加(有)  ・鈴木優作(有)

・下原敏彦(岩波写真文庫『農村の婦人』「被写体になった村人と私たち」)

 

Ⅲ ゼミ課題報告 書くことの習慣化を目指して

 

【社会観察】

 

・浦上透子(有)   ・須川藍加(有)  ・鈴木優作(有)

 

【自分観察】

 

・浦上透子(有)   ・須川藍加(有)  ・鈴木優作(有)

 

【テキスト観察】

 

・浦上透子 (有) ・須川藍加  (有)  ・鈴木優作  (有)

 

Ⅳ 創作・エッセイ

 

・浦上透子 「 有 」

 

・須川藍加 「 無 」

 

・鈴木優作 「 有 」

 

・下原敏彦 「計根別まで」 ある青春の思い出

 

あとがき

 

浦上透子、鈴木優作

 

 

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・マスメディアは、その活動をどう報じたか

 

逝去を報じた新聞記事

 

〈写真家・熊谷元一〉 ・はじめてのカメラ  ・国策のカメラマン  ・アマチュアカメラマンとして生きた生涯

 

はじめてのカメラ → かかしを撮るエピソード

 

国策カメラマン → 拓務省(大東亜省)の嘱託カメラマンとして満州を撮る。

 

戦後 → アマチュアカメラマンとして生きる。

 

ゼミ誌掲載作品自由 創作 概要

計根別まで

 

下原敏彦

 

大学の学バスから降りた学生たちが、それぞれの学科棟に向かって歩いていく。繁れる青葉の下を行く女子学生のカラフルな服装が、余計にざわめきを感じさせる。夏休み前の大学は、なんとなく落ち着かない。ゼミの学生たちにきいてみた。

「ことしの夏は、どうするんですか」

「海外旅行」「バイト」「実家に帰省します」学生たちの過ごし方はさまざまだ。ほとんどが予想されたものだ。私は、授業に入った。テキストにしている志賀直哉の『網走まで』を音読させた。

「この作品はエッセイのように思えますね…」

私は、謎かけるように言って学生たちをみた。

短い沈黙のあと

「――そうでは、ないのですか」

女子学生が、聞いた。

「そうした母子を見かけたのは事実らしいですが、まったくの創作と書いています」

私は、そう解説して作者が記している『網走まで』の創作余談を読み上げた。

「或時東北線を1人で帰って来る列車の中で前に乗り合わしていた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである。と書いてあります」

そして、この作品について「これは当時帝國大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿したが、没書されました」と解説した。そうして、その原因について、作者は、原稿の字がきたない為であつたかも知れない。と解釈しています」と、つけ加えた。そうして

「果たしてそうでしょうか。それが真の原因でしょうか」と、疑問を投げかけた。

字がきたない、そんな表層的なことで、帝國文学の編集者は、没にしたのでしょうか。ゼミ学生たちは、訝しげに私を見上げた。沈黙したままだった。

「なぜ、網走にしたのか。そのへんから考えてみましょう」私は、言って学生たちを見まわした。「当時、網走には、鉄道が通ってなかった。北見が終点でした」

ふたたび女学生は小さく手をあげて聞いた。

「先生、志賀直哉は、特別に網走と何かがあったのですか」

「六八歳のとき、一人でリック一つ背負って北海道に行ったそうです。が、網走までは行かなかったということです。――では、なぜ網走としたのか…残りの時間で、作者は、なぜ題名を網走にしたのか、その理由を書いてください。理由はいくつでもかまいません」

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私は、言って原稿用紙を配ると、窓際の空いた席に座って窓外を仰ぎ見た。繁れる銀杏の若葉の間に初夏の青空がまるでサファイアを散りばめたように、きらきら光っていた。私は、見るともなしにぼんやりながめながら、テキストのことを思った。

作者、志賀直哉は、六八歳のとき、一人で北海道に行った。年譜には各地を二週間ほど旅したとある。やはり、北海道にと特別な思いがあったのかも知れませんね。が、網走には行かなかった――とすると彼の地に特別な思いはなかったのか。では北海道を旅したのは何か。作家は、何も記してない。いまとなっては、謎である。

いつか北海道に行ってみたい。私にもその思いはある。それも計根別まで、行ってみたい、という明確な目的がある。だが、それを願望しながらも五十年が過ぎてしまった。五十年といえば、半世紀だ。私は、時の流れの速さに、あらためて驚きながら、いつしか夢の世界に漕ぎだしていた。

見あげると頭上いっぱいに青空がひろがっていた。北海道の空だ。私は計根別の駅に降り立ったところだった。本当に北海道にきたのだ。私は、これが夢でないことを確かめるるように両足で根釧原野の大地を踏みしめた。本当に北海道にきたのだ。うれしさがこみあげてきた。

十日前、あの日がすべてのはじまりだった。あの日、私は、夏休みのバイト探しに、下落合にある学生援護センターに行った。センター内は、既に多勢の学生たちがいて、皆それぞ掲示板に貼られた求人ビラとにらめっこをしていた。配達、製本、皿洗い、清掃、たいてい一日八時~五時で八百円前後だった。求人が少なければ、選んでいる余裕などないが、まだ夏休み前ということで、ビラの方が多かった。が、それでもセンター内は、苦学生六割、旅行資金づくりのお気楽学生四割でごった返していた。私は、むろん苦学生だが、海外無銭旅行の資金作りもあった。五十円でも多い求人広告を探していた。なかなか気に入ったバイト見つからなかった。疲れてきたので、ビラから目を離して回りを眺めた。一番奥まったところの求人広告板がないところに、何人かの学生が集まっていた。壁に一枚だけ求人ビラは貼ってあるようだ。が、周囲の学生は、熱心に見ている様子はなかった。何のバイトだろう…私は好奇心から見にいった。

壁に貼ってあったのは、所定の求人票ではなく、ワラ半紙に手書きで書かれたものだった。そこには、こんな求人募集文句が書かれていた。

 

この夏

北海道で働いてみませんか。

仕事 酪農の手伝い。期間五十日

三食宿泊付きで五百円。

交通費全額負担

 

北海道酪農農業協同組合

 

北海道は行ったことがない。往復の切符代もでて三食宿泊付きで五百円、つまり五十日間で手づかずで二万五千円がもらえる。悪くないと思った。

さっそく受付に行って、申し出た。

「北海道ですか!?」中年の男性事務員は、驚いた顔で私をみた。

「もう、いっぱいですか」

「いやいや、大歓迎です。大歓迎――」

そう言いながらも職員は、書類箱に何かを探しはじめた。

奥歯にものがはさまったような言い方に私は、ちょつぴり不安を感じた。そのときは〆切が終わってしまっている。そんな心配だった。

「ああ、これだこれだ」職員は、ひとりごちながらプリント紙をとりだすと言った。「説明会があるんですよ。北海道は、よかった、明後日です」

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「説明会!?!」

「そうなんですよ。遠いですからね。しっかり聞いてから決めてください」

職員の言い方は、相変わらずなにかを含んだようだった。

「はあ」

私は、狐につままれたような気持ちで援護会を後にした。

都会の雑踏、四畳半の下宿。中部地方にある郷里への帰省。そうしたものから解放される喜びのようなものがあった。援護会の小さな窓口は、冒険がはじまる別世界への窓口のように思えた。明後日が待ち遠しかった。

午後三時、説明会が援護会の小会議室ではじまった。十三名の男子大学生が集まった。坊主頭の体育系もいればモシャモシャ頭にヒゲ面もいる。が、さすがに牧場ということで流行りのアイビー族はいなかった。

 

説明は、懇切丁寧だった。が、バイト仕事の内容は厳しいものがあった。一戸一戸の家にひとりずつ入って家族のひとたちと同じように働く。その家のひとたちが朝五時に起きれば五時から、六時なら六時、夕がたも同じ。朝起きて、夜寝る迄、要するにその家の人たちと生活を共にする。もちろん泊るのは、その農家。つまり労働時間は、決まりがない。そこまで聞いて二人の学生が、手をあげすごすごと出て行った。

「いいんです、いいんです。勇気がありますよ。いま決断されるということは。北海道、すばらしいところです。広い大地、広がる青空。だれだって行ってみたいと思います。ですが、牧場の仕事はきついんです。こんなはずじゃなかった。みんな思うんです。しかし、向うに行ってから途中で帰ってしまうと、農家の人たち困るんです。農作業が予定通りすすまないと死活問題ですからね。それだけ当てにしているんです。だから、いまの時点で判断してもらうと助かるんです。去年は、三人いました。一人の学生さんは着いた翌朝、五時に起きられなくて、トラックターのエンジンをかけたら、嫌がらせされたと訴えて、そのまま荷物まとめて帰ってしまったんです。あとの二人は、牛舎の掃除に耐えきれなくて、泣く泣く帰ってしまわれた。牧場の仕事というと、なにか爽やかなかっこいいようにおもわれるんですが、大変な重労働です。しっかり覚悟していかないともちません」

言葉やわらかだが、そのあとも職員は、さんざん脅した。が、席を立つ学生はいなかった。バイト先は、稚内、釧路があげられた。稚内は遠いという印象から手をあげなかった。が、三名の希望があった。あとの八名は釧路になった。その場で往復の切符をわたされた。行き先をみると「計根別」とあった。地図で見ると根釧原野のど真ん中にある駅だった。夢がひろがった。実家には帰省できないことを伝え、大学にも届けた。戦前は拓務省にいて満蒙開拓に関係していたという主任教授は、大いに喜んでくれ実習授業の四単位を約束してくれた。個人的バイトで、単位がとれる。いま思えばいきな計らいをしてくれた。北海道見物ができ、単位がもらえる私には一石三鳥の好バイトだった。このときは、酪農作業の手伝いの厳しさを知る由もなかった。

 

一週間後、夏休みがはじまったと同時に私たちは北海道へ出発した。上野から夜行列車、総勢十一人、いろんな大学の学生がいたが、目的が一つということで、すぐに打ち解けた。現地に着く迄の同行の旅。ほとんどがモサ連中で気がよかった。三人ばかり学ランに高下駄という威勢のよいのもいた。駅弁を食べ終わると宴会になった。「北帰行」や「さすらい」「東京流れ者」など、モサ連中は、自分のおはこを披露した。皆、なかなかのノド達者、藝達者だった。寝台列車の窓から見える東北の夜は、ほとんど真っ暗闇の世界だった。列車は若者たちの一期一会を乗せて一路、青森に向かった。朝、青森駅に着くと、休む間もなく連絡船に乗り函館に向かった。函館に着くと、五稜郭も見物せず、こんどは札幌行きの列車に乗車した。列車は、密林のような林のなかを走っていく。車窓に大きなふきの葉っぱがこすれた。なにか未開の土地に入り込んで行くような気がした。

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熊谷元一研究 満州国、開拓団入居一覧

 

 

突然視界がひらけ町に入った。札幌についたのだ。皆で時計台まで歩いていってラーメンを食べた。そのあと、別れを惜しんでそれぞれの目的駅に散って行った。計根別までは、五名となった。もう一夜、普通列車に揺られるのだ。深夜、倶知安という駅でうどんを食べた。七月末なのに、ひどく寒かった。そのぶん熱いうどんがおいしかった。

オンボロ列車の旅は、釧路、中標津を経て、ようやく目的地、計根別駅に着いた。昼過ぎだった。上野をでてまる二日だった。駅舎をでると、一面の青空が広がっていた。十一人いた学生は、私を入れて五人に減っていた。短い旅だったが気の合った彼らとは、東京で再会を誓って別れた。だが、彼らとはあの日以来会っていない。五十年の歳月があっという間に過ぎてしまった。

「学生さん、各農家まで送ります。乗用車じゃないですまんですが荷台に乗ってくれるだか」人のよさそうな農協の職員は、皆が載るとトラックを発車させた。

このときになって、私は、手伝うことになる酪農農家のことが気になった。どんな家族だ

 

ろう。子どもはいるだろうか。草原の一本道をトラックはひたすら走る。

「原沢さんは、五人家族です。お姉ちゃんは中学生、小学生の妹と弟がいるかな」運転の農協職員は、説明しながら、なんども大変な仕事ですからを繰り返した。

切れ切れの話を総合すると私が入ることになった酪農農家は、開拓十三年目の農家で、四十歳代夫婦と子供三人の家庭だった。原沢英四郎、とき一家。子ども 道子中学二年、咲子小五、健一小三

朝五時起きる。搾乳、放牧 朝食、牛の掃除、ビートまびき、小学校三年の健一君が、いつまでもじっとみつめているのが気になった。

「じろじろみるんじゃないよ。おにいちゃんかえっちゃうよ」

ときに、よく叱られていた。

あとでわかったことだが、一点を見つめる性癖だった。それ以外は普通の子どもたちだった。が、北海道の子はよく働く。それが印象的だった。

朝五時に目が覚めた。新聞配達のバイトもやっていたことがあるので早起きには自信あった。

が、旅の疲れもあって起きたのは六時だった。母家の中には誰もいなかった。あわてて外に出ると、

 

山澤家の仕事

 

一日の仕事を日課表てきに書きだすとこのようになる。

朝五時起床、牛舎に行く。十六頭のホルスタインに乾燥した牧草を食べさせる。その間に

乳房を湯で洗い、そのあとミルキーという最新乳搾り機器で乳搾りする。乳搾りが終わると、全部の牛たちを放して牧場まで追いたてる。そのあと牛乳缶を国道まで馬に荷車つけて運ぶ。牛舎の掃除、牛糞を一輪車に乗せて、堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、暇なとき古い山に移動させる。朝食前の仕事、井戸の冷たい水で顔を洗う。母屋に戻ると七時を過ぎていた。

八月とはいえ朝は寒く薪ストーブに当たりながらの朝食。驚いたのは、家族皆、ごはんの上にバーターをのっけて食べていた。八時からは畑に出てビートのまびき、ジャガイモの収穫、それが終わると牧草刈りと行きつくひまがない。農協のトラック田―が刈って行った牧草を集める。乾燥餌は、、サイロ

食事 お昼 うどんか

 

午後の仕事、草かき

 

 

最初の一日は緊張していて、なにがなんだかわからなかったが、三日目には、もう、へとへとだった。一カ月と二十日が永遠につづきそうに思えた。とにかく、くたびれた。夕飯をすますと、一時も早くふとんに入って眠りたかった。はじめのうちは、風呂に入るのも億劫だった。さいわい原澤家は、、二日か三日、置きに風呂をたいた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。あおに荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運ぶのは子どもたちの仕事だったが、私も手伝った。

 

夜の時間 中学の数学がわからん

 

夏休み宿題

健一と咲子の小学生の問題、が、道子の中学二年生になると、英語は、辞書を片手になんと

 

 

かできたが、数学、代数、はときどき答えが違った。美智子は、途中から見切りをつけた。

有名大学のお兄ちゃんならよかった。

「この問題」

学校では勉強ができるという道子の眼は、試している

「えっ、数学」私は、厭な顔をして言った。

「できないの」

「うーん、苦手だから」

「わからないの」道子は顔に軽蔑の表情があった。

「うーん、苦手だからな」

私は笑ってごまかした。

「やりたくないもんだから」

「ちがうよ、ほんとにわからないんだ」

「なんだ、やっぱりできないんだ。もういいわ」道子は腹をたてると、」

「大学生のくせに」と捨て台詞を残して出ていった。

嫌になる。道子と顔をあわすのがなんとなく気づまりになった。

 

 

「道子、おまえの勉強のためにきたんじゃないからね。どうして、あんなこと言ったんだい。いま、気を悪くして帰られたら、困るじゃないか

件一と咲子は宿題帳をもってきた。見ているうちに眠くなった。

「まだ、終わってないよ」

それから道子との関係が悪くなった。声をかけることがなかった。気づまりだった。

 

が、あの出来ごとが二人の柵を取り払ってくれた。

 

トイレ事件

 

 

夜なか、にわかにおなかが痛くなり、トイレに起きた。トイレは、庭の隅にあった。掘立小屋のなかに掘った穴に二本の板をかけた簡単なものだった。夢中でとびこんで

トイレ壊れて落ちる。

いえに明りがついた。

「どうしました」

「トイレに落ちました。板が折れて」

「そりゃたいへんだ」

夜の川

 

帰り道

「おかあちゃん、むかし歌上手だったんだって。

「ここにきたら牛を負ったりするんで声がつぶれちゃった」

 

空には月が煌々と輝いていた。

「なにか、ここ砂漠みたい」

「そういえばね。草原なのに」

道子は、そう言って歌いだした。

 

月の砂漠を はるばると

旅のらくだが 行きました

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金と銀との 鞍置いて

二つならんで 行きました

 

夜のしじまに

 

「お兄ちゃん、帰らないで」

「帰る」

「いやになって」

「逃げやせんよ」

「中学生の数学もわからん大学生」

「ごめんなさいそんなこと、気にしてないわ。きにしてない」

道子は、叫んで私の胸に飛び込んできた。

「やあ」「さて、こまったな、なにしようか」

私は、彼女から伝わってくる体温の温みと体の柔らかさに危険なものを感じた。とっさに、彼女から離れた。

「ばか、お兄ちゃんのばか」

 

 

「来年も、きっときてね」

「さんすうできなくたっていいんだって」

咲子がわらってからかう。

健一は、じっとみつめたまま、

「だあら、来年もぜったいきてくんろ」と、いった。

「くるよ、ぜったい」

私は、大声で言った。本当に来るぞ、ぜったいくるんだ。そのときは本気でそう思った。

「やくそくだよ」

咲子は、言ってふりかえって姉の姿を探す。

「おねえちゃんたちどこ」、

「柵なおしにいっとる。うるさいもんで」

牧場の柵がこわれていて、一頭、逃げ出し、昨日から、境界線の騒動になっていた。隣りの家、二キロは離れているのだが、から文句がきていたのだ。

「いいよ、いいよ、忙しいから」

「とうちゃんからも、よろしく」

サキは、かすれた声で

私は、トラックの荷台に乗った。トラックは走りだした。

咲子は、万歳して振った。健一は、立ちつくしたまま

草原のなかに立つ原澤家の丸木太小屋。つらい農作業や乳牛の世話からやっと開放されたという安堵感と、一カ月寝食をともにした家族と別れるさびしさがあった。トラックは、そんな感傷を跳ね飛ばすようにパウンドしながら国道に向かって走っていた。

遠ざかっていく

「あれ、ミチ坊た」

農協の運転手は、バックミラーをみると、声をあげた。

振り返ると、遠くの土手にそって馬が一頭駆けてくる。アオ号だった。

道子が乗っていた。

アオ号に乗って手をふる

 

トラックは、国道にでると右折した。一本道が、ずっと地平までつづいている。アクセルを

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.298―――――――― 8 ―――――――――――――

 

踏んだ。トラックはいきおいをました。

道子と青号は、国道の手前で止まった。

 

私は、別れの寂しさもあったが、ほっとした

手紙をもらった。

来年もいくからね。ハガキをだした。本当に行くつもりだった。

だが、翌年五月、フランスで起きた学生運動は、またたくまに世界を席巻した。当然、日本にも飛び火した。そして、たちまちのうちにと言う大学に燃え移り大学は火の海となった。私の大学も例外ではなかった。私は、デモに身を投じ、大学紛争が起こった。火の手は、たちまちに全国の大学にひろがり、下宿をかわるうちに、道子からの手紙も散逸した。外国放浪の旅にでた。横浜港からフランスの貨客船「ラオス」号で、マルセルユをめざした。外国でのさまざまな体験、帰国したあと、学校には、席はなかった。私は、日本のなかで、夢をもとめて放浪をくりかえした。そのあいだに原澤家のことも、子どもたちとの約束も、道子とのやくそくも、うすれていった。私が行かなくても、新しいバイト学生が行ったかも知れない。彼らも一夏の私のことなど忘れてしまったにちがいない。そう思いながらも、なぜか私はあ、もう一度黄色の野の花が咲く、あの草原の牧場に行ってみたい。そんなきもちがわいてくるのだ。五十年という歳月が流れたが、いまも昨日のことのように鮮やかに記憶にのこっている。

 

「先生、先生」

不意の声に私ははっとした。いつのまにか眠っていたのだ。

「書き終えました」

「そうか」

学生たちは次々立ちあがって課題要紙をおくとでていった。私は、窓外にひろがる梅雨明けの青空をみあげて、来年は、行ってみようと思った。計根別まで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10月2日(日)満蒙開拓平和記念館に関係する催しがあった。映画「望郷の鐘」の主演・内藤志さんは日藝出身者

 

 

 

 

 

 

熊谷元一研究 DVD NHKドキュメンタリー「ある山村の昭和史」

写真家・熊谷元一 中国残留孤児の帰国 昭和48年(1973)

 

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