文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.76

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)4月 23日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.76
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 
     6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
4・23下原ゼミ
4月 23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」に先立って(同行者自己紹介)
 2. ゼミ雑誌編集委員を決める
 
3. テキスト『網走まで』読み・初読 (初読、中読、完読)
   関連作読みとして処女作三部作の読みも『菜の花と小娘』『或る朝』
 
1.「2007年、読書と創作の旅」に先立って
 
 本日から授業に入ります。が、出発に際して、この一年、共に旅する仲間を知っておきましょう。自己PRしてください。出身地や趣味などなんでも結構です。
 1689年(元禄2年)3月27日芭蕉(46歳)は奥羽・北陸地方への旅にでた。日数150日、旅程600里(1里=3・9㌔)の大旅行である。「月日は百代の過客にして、」ではじまり、9月6日伊勢の遷宮に詣でるために美濃の大垣から舟に乗るまでの『奥の細道』はあまりにも有名である。が、本書は正確な紀行文ではない。実際の旅行程や時間は、必ずしも事実ではない。そこに名作の所以がある。テキスト志賀直哉作品と通底するものがある
※松尾芭蕉(松尾忠右衛門宗房1644-1694)・『奥の細道』1702年(元禄15年)版行。
         2.ゼミ雑誌編集委員を決める
 この旅の目的は、読むこと書くことの習慣化ですが、真は成果としてゼミ雑誌を刊行することにあります。全員が協力しあってつくりましよう!
 しかし、何事もまとめ役は必要不可欠です。自薦、他薦でかまいません。ゼミ雑誌の編集委員を2名、選出してください。雑誌編集と印刷会社の交渉にあたります。実務としては、以下のことがあります。校正は、皆で。
6月上旬 → ゼミ誌ガイダンス
9月末~11月 → ゼミ誌原稿集め 印刷会社決めと交渉 編集作業 見積書提出 入稿
12月14日 ゼミ雑誌提出期限 厳守してください!
         3.テキスト初読み&周辺読み
  テキストは、再々読します。初読と、再読、再々読とには感想に違いがあるか。そのへんに注意しながら読み込みましょう。周辺読みとして『菜の花と小娘』。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.76 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 
車窓雑記
二つの凶悪事件観察
 
 旅立ち前の車窓に、いきなり恐ろしい大事件の連続である。海の向こうでは23歳の学生が大学内で32人もの人を射殺し、日本では59歳の暴力団組員が、市長を銃殺した。一人の若者による大量殺戮と人類の平和のシンボルとなる都市での暗殺。「爆弾テロ157人死亡 バグダッド」(4月19日 朝日)こんなニュースもあったが、二つの事件は自由と平和の国で起きただけに、衝撃度は大きかった。連日、新聞・テレビで事件の実態や経緯を報道している。が、詳細が明らかになればなるほど、悔いと疑問が広がる事件である。
 この二つの事件がより恐ろしく闇が深いのは、二人の犯人が、唐突に、激昂にかられて、また全くの偶然からこの事件を引き起こしたのではないところにある。彼らは確固たる信念をもって計画し凶悪な犯罪を実行した。そこに戦慄し「なぜ」という恐怖をおぼえる。
 バージニア工科大学の射殺犯は、学校内ではかなり問題視された学生だったらしい。女性へのストーカー行為や寮への放火騒ぎなどが地元警察に連絡されている。このとき事情聴取した警察は、事件への発展より彼の自殺を心配したという。そのことからか一時的に州内の医療施設に収容された。が、彼は再び学校に戻ってきた。(23歳で大学4年生というのはそのあたりの事情か)。しかし大学では、誰とも付き合わず会話もなかったという。8歳で米国に来た子供を1・5世というらしい。が、そこに要因があったかどうかは不明である。「孤独を好む人物」彼を知る学生や大学当局は、彼からそんな印象を受けていた、との証言がある。授業はどうだったのか。英語学部の担当の教授は、早い時期に彼の異常性を察知していた。課題の創作があまりに残虐で変質的だったらしい。13歳の少年と継父の確執を描いた戯曲は、呪いの言葉やチェーンソーを使った殺人場面がでてくる内容とか。驚いた教授は、学校当局に連絡すると共に心理カウンセリングを受けるよう指導したという。家族には連絡しなかったのだろうか。後日、姉の証言からは異常性はなかったとのことだが・・・。
 事件は、周囲が怪しむ最中に起きたようだ。彼は、寮内で二人を射殺した後、犯行声明をマスコミに送り、2時間後、各教室内で30人を殺害し自殺した。
 長崎の犯人は、何年にもわたって市役所から金銭を狙ったが、果たせず暴挙にでた。米の乱射学生と比較すると、まったく別な事件のように思える。が、その実、二つの事件の本質は、同じとみる。米国の乱射犯は、無口、孤立が特徴。長崎の市長射殺犯は、暴力団体に所属し暴言と脅しで執拗に他者との関係を作ろうとしていた。無口と饒舌、性格的に全く違っている。が、逆もまた真なりである。両者は同じタイプの人間なのだ。
 同類ということは、いままで判明した動機が証明している。学生は「おまえたちのせいでこうなった」「堕落している」。組員は「市の対応に不満があった」「バカにされた」どちらも他者への恨みである。極端な自己中心的被害者妄想人間だった。何年か前、大阪の小学校に乱入して8人もの児童を殺害した犯人も同様の人間だった。
 この極端な自己中心的被害妄想人間とは何か。英雄主義に挫折した人間、ということか。「モーゼのように」「市長をやる」犯行前の彼らの言動に誇大妄想癖をみる。昭和40年渋谷乱射事件、永山則夫ピストル連続4人射殺事件、三島事件、オウム事件など、筆者が知る限り、日本でもこうした誇大妄想癖人間が繰り返し大事件をおこしている。1865年1月ロシアのモスクワである殺人事件が起きた。二人の老婆が斧で惨殺され金銀製品が奪われたのだ。犯人は27歳の店員だった。金欲しさの犯行。いわゆる一つの強盗殺人である。が、この事件を人類の問題に転換した作家がいた。犯人を23歳の学生とし、犯行動機をナポレオンになるためとした。人間を一人殺したら殺人犯だが百人殺せば英雄になれる。人間の心の奥底に潜む危険な考え。この闇を照射し、警鐘を鳴らした作品がそれである。故にドストエフスキーの『罪と罰』は、人間の心からそれが消えぬ限り読み継がれていくのである。
                                     編集室
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2007年、読書と創作の旅・テキスト観察
テキスト読みについて
  
 本日からテキストの車中作品読みに入ります。まず『網走まで』からですが、その前に周辺読みとして処女作三部作の一つ『菜の花と小娘』を読んでから初読、再読します。
 なお、『志賀直哉全集』岩波書店を編集室にて全文現代よみに変換してあります。
菜の花と小娘
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
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移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。
 この作品は、明治39年(1906)4月2日、作者が千葉県鹿野山にて執筆した草稿「花ちゃん」を我孫子時代に改題、改稿し、大正9年(1920)1月1日発行の『金の船』に掲載。
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2007年、読書と創作の旅
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
 
連載2   学生と読む志賀直哉の車中作品(元原稿に加筆)
土壌館・編集室
『網走まで』を読む

 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
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 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
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作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところとだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大などなどいろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。
        次回につづく
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.76――――――――8 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・表現
『少年王者』とは何か①
一 よみがえった少年王者
 
 2007年2月21日(水)午後9時30分頃、テレビのNHKハイビジョンで「私が子供だったころ」という番組を放映していた。これは断続的に著名人の子供の頃の思い出話を放映する番組で、この日は、赤テントで名高い演劇人唐十郎さんの子供時代だった。構成は唐さんが思いでを語る場面と劇団員が演ずる唐さんの子供時代で、オムニバス風にまとめてあった。セットは唐さんが生まれ育った上野の近くの下町にあった自宅と通り。その町内には、なぜかオカマの下宿人が多いようだった。語りから唐さんの芝居の原点は、どうやらそのへんにあるらしいと思った。そのオカマのほかになつかしく思う思い出があった。それは、公園や街中で公演する紙芝居だった。唐さんが少年だった時代、つまり昭和22年頃、筆者はその年に生まれたので、その頃どんな紙芝居が流行っていたかは知らない。「黄金バット」はよく知られているが、唐さんがなつかしんだのは、違うらしい。テレビ画面はこんなシーンを映していた。唐さんを演ず少年が寝ていると、外から拍子木の音と一緒にこんな呼び込み声が聞こえる。
「少年王者がはじまるよ!少年王者だよ」
とたん少年は、ひょっこり起きて脱兎のごとく外に飛び出していく。
道路では、弁士の男が飴を売りながら紙芝居をはじめたところだ。
 暗黒大陸といわれたアフリカも、多くの探検家の苦心によって・・・
読み口上とともに紙芝居の絵がアップされた。
 奇妙な岩山と断崖の下に広がる密林。色塗り
が、やや雑であるが、見慣れた風景である。それ
もそのはず、その紙芝居絵は、昨年から下原ゼ
ミで、授業の一環としてはじめた手作り紙芝居
絵であった。もっとも手作り紙芝居といえば聞
こえはよいが、その実、昭和52年に発行された
豪華復刻版からの拡大コピー絵を画用紙に貼り
付け、筆者の家内がお絵かきのように色づけした
だけのものである。そのシーンは、ものの10秒
もたたぬうちに変わった。これがテレビというも
の何夜も費やした労力も一瞬である。
 だがしかし、それは少年王者が蘇った瞬間でも
あった。60年の歳月を得て、真吾少年は、その
勇姿をみせたのだ。たとえ一瞬にしろ、少年王者
の復活は満足に値する出来事だった。
 だが、ここで疑問が残る。なぜ、そんな教材に
作った俄かづくりの粗末なものが使われたのか。他に
ちゃんとした紙芝居はなかったのか・・・?
二 少年王者今何処
 ことし平成19年の正月明け、たしか1月11日だった。昼過ぎに自宅で今年最初のゼミの
準備をしていると電話が鳴った。昼間、かかってくる電話は大方、セールスである。保険や
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.76
マンションの売り込み、布団畳替えならまだましである。近ごろ「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」らしき電話がかかるようになってきた。お年寄りが多い団地である。狙われているようだ。1階の掲示板には、注意を促す自治会紙が貼られていた。先日も、電話口にでると、いきなり「オレだけど」という。いつもの息子の口調と思った。声質も似ていた。が、何かが違う。で、「いまどこだ?」とたずねた。声主は一瞬、口ごもって
「千葉にいる」と答えた。ますます不審に思って
「なぜ千葉か?」とたずねた。が、それには答えず
「大学の先輩から電話がかかってくることになっている」という。かかってきたら「要件を聞いておいてくれ」という頼みだ。
「おかしいな、息子は、いま家にいるが」そうとぼけると、とたん切れた。
 後で推理するに、たぶんその先輩と名乗る輩がすぐに電話してきて「金を貸してあるから返してくれ」とでもいうのだろう。そんなわけで電話には注意している。
 受話器をとると、いきなり筆者の名前をたずねた。反射的にやはりそうか、と思った。ちかごろ詐欺電話は手が込んでいて名前、住所などはすっかり調べ上げているケースも少なくないという。完全に怪しみながらも「そうだが・・・」と頷くと、声の主は、自分の会社の名前らしきものを名乗った。南米にある川の名だった。いわゆる横文字、ますます怪しい。そのまま切ろうとした。そのときである。
「『少年王者』を・・・」そんな質問が聞こえた。私は、受話器を耳に戻した。
「インターネットで見たのですが、『少年王者』の紙芝居をやっていらっしゃいますか」声の主は、はっきりと聞いた。
 ゼミの授業の内容は、「土壌館創作道場」のHPに掲載している。昨年、9月から表現力をつけるために『少年王者』の紙芝居をはじめた。かつて大ベストセラーだった作品。だが、いまは誰一人知るものはいない。悲しきサブカルチャーの運命である。
 山川惣治作・画『少年王者』は、筆者も夢中で読んだ、血わき肉おどった冒険劇画小説だった。が、いまは時代の中に埋もれてしまって、その影も聞かない。芥川賞と並ぶ直木賞は日本人なら大方の人は知っている。が、作家直木三十五の作品となると、ほとんどの人は知らないと思う。『南国太平記』がどんなに面白かったとしても、現在、読んでいる人はどれだけいようか。いつも、疑問に思うのだが、これはなぜかと思う。
 人間はいつの世でも変わらない。とすれば、たとえ過去の作品だったとしても、現在の若者たちにだって面白いはずではないか。なかには時代とともに朽ちるものもあろうが、そうでない作品もあるはず。そんな考えから山川惣治の『少年王者』をとりあげることにした。
 昨今、イジメ、自殺、暗いニュースばかりつづく子供の世界である。『少年王者』の復活が一条の光になれば。そんな思いもあった。といっても、『少年王者』は6話からなる挿絵本である。テキストのように朗読しあっても面白味はない。もしかして紙芝居なら面白かろう。そんな思いつきから手作りした。1話だけでも162シーン画面ある長編紙芝居だ。舞台は、紙芝居用の木箱が市販で売っている。が、1万円を越すしろものだ。書店にて購入はしたが、『イソップ童話』か『日本昔話』用で、とても160枚もの画用紙を入れることはできない。そんなわけで100円ショップで木工品を買って作った。2000円ぐらいでできた。
 まず最初に土壌館下原道場の子供たちに見せた。低学年には無理だったようだ。途中で遊びだした。が、高学年にはかなり面白かったようだ。1時間以上あったが熱心に見入っていた。終わると「早くつづきをみたい」とせがまれた。
 昨年暮れ、冬休み前の最後のゼミは、清水ゼミ、デザイン学科と合同授業だった。清水ゼミは宮沢賢治作品の感想報告、デザイン学科は絵本づくりの展示だったが、下原ゼミでは、皆で『少年王者』を公演した。時間がなく途中までしかできなかった。が、終わったあと、物語のつづきが気になると、聞きにきた学生が何人かいた。いまの学生たちにも、面白いのだ。そんな感想をもてた。『少年王者』は1947年、昭和22年暮れに刊行されたものである。
         次回につづく
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.76――――――――10 ―――――――――――――――――
岩波写真文庫『一年生』を読む
 この写真文庫の表紙裏に、本写真集について、このような説明がある。「定価600円 1955年3月25日第1刷発行 1988年2月18日復刻ワイド版第1刷発行。」
 本稿は、復刻ワイド版第1刷『一年生』を観察しながらの感想である。
表紙 入学式に向かう母親と新一年生たち
 タイトルは『一年生』、裏表紙には「入学の日」とある。これからわかることは、白い名札を胸に、ランドセルを背負い、左手に上履き袋を持った子供たちは、新一年生。また、背後から来る着物姿の女性たちは、入学式に出席する子供たちの母親とみる。前・裏表紙合わせて五人写っているが、全員が着物に羽織姿。白足袋に下駄か草履である。子供たちは男の子は帽子、女の子はおかっぱ。この容姿から時代が推測できそうである。広い場所は、道路ではなさそうである。おそらく校庭か。影が右に長くのびているのは、朝日を背に入ってきたところだ。遠く背後にうすく山々がみえる。山村の小学校のようだ。
 副題が「――ある小学教師の記録――」とあるから、この写真は、この小学校の教師が撮影したものと判断できる。つまり小学一年生を撮影した写真集なのだ。1955の数字は何か。1955年(昭和30年)のことか。とすると、この写真集の被写体は、昭和30年の子供たちか。ここで疑問が起こる。表紙裏にこの写真集は1955年3月に発行とある。だとすれば、前年の昭和29年、と考えられるが、ざっとみたところ最後の頁は「二年生へ」となっている。このことから前年ではないこともわかる。入学から一年間、子供たちを撮影し出版する。物理的、時間的に推察すれば、最短ならば被写体は前々年の1953年、つまり昭和28年に小学校に入学した子供たちということになる。証明する日付はないが、確かである。
 では1953年、昭和28年は、どんな年か。第二次世界大戦が終わって8年、世界と日本は、まだ混沌のなかにありながらも、ようやく彼方に希望の光をみていた。1月、アメリカでは第34代大統領にアイゼンハワーが就任、3月ソ連のスターリン首相死去。世界は何かがかわろうとしていた。日本では3月国会でバカやロー解散があった。
 民主主義教育にふさわしい教育基本法は昭和22年に公布・施行された。ということは、この写真集に登場する一年生は、まさに民主主義教育の落とし児といえる。
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冊子観察
 
雑誌紹介 この雑誌は「2004年、読書と創作の旅」にご一緒した何名かの皆さんが他の、
      有志の皆さんと大学生活の記念につくった冊子です。
『賢所Kashikodokoro』発行人・木佐貫功 編集人・飯塚みのり 木佐貫功
                              平田郁恵
発行人の言葉(編集後記から)
 ・・・・
 四年間の集成になればと思い、冊子を作ることを思い立った。そうなったかどうかはよくわからないけど、この冊子を手に十年後、皆で笑い合えればよいなと思う。
 ・・・・・・
目次
「彼の島への旅」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯塚みのり
「客」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横山真二郎
「夏の夢の終わりに」・・・・・・・・・・・・・・・・・金牧智広
「将軍 VS 300円」・・・・・・・・・・・・・・・・橘上
「背理」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御橋尭言
「恐ろしい秋」/「ハミングバード」・・・・・・・・・・木佐貫功
特別企画「奴らを高く吊るせ」
 頁をひろげ目次を見るとなつかしい名前がならんでいた。皆、四年前、「読書と創作の旅」で一緒に過した面々である。旅がはじまってすぐに彼らの一人から「賢所」の印刷物をもらった。発行はつづいていて、こんな冊子を出すまでになった。それを思うとうれしかった。
 学校を去る人、残る人、不明の人。3月25日のお別れ会で偶然あって消息を聞けば皆、様々である。が、この冊子のなかで、再会できたことを喜んでいる。
作品感想
 何作か読んだ。ゼミ誌『背中に人生を』に掲載していた作品を思いだした。皆、作風はあの頃のものと変わっていないようだ。書き手を彷彿する文章だった。が、物語の方向性において読者側にもう少し寄ったら、と思った。とにかくどんどん書くことである。
・飯塚みのりの「彼の島への旅」を読む
 短篇だが一読だけでは、この物語の全体を捉えることは難しい。だが、情景はくっきり思い浮かべることができる。よく晴れた秋の日の穏やかな海辺の光景。
「潮が満ち始めて三十分もすると、第五療養所は完全な島になる」第五療養所とは何か。はじめは医療施設かと思ったが、そうではないらしい「この地方で一番人が集る寺院だった」とある。人生の終着地、そんな印象を受ける作品でもある。どこかに宮沢賢治の香りがする不思議な作品になっている。はじめにも述べたが、童話ふうにまとめたほうが読者にはわかりやすいのではと思った。
・金牧智広「夏の夢の終わりに」
 この異次元と現在の作品も短篇だが、やはりストーリーを理解するには想像を必要とする。おそらく作者の頭の中には、この10倍ほどの物語があって、実際にここに書いたのは、ほんの断片に過ぎない。そんな気がするのである。夏休みの補講を舞台に、お盆という異次元との接点をした作品だが、読者に伝わるか否か疑問である。この作者は、生と死の世界の境界の作品が多い。
次回
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.76――――――――12 ―――――――――――――――――
掲示板
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
 以上の作品は、車中・車外からの乗客観察である。乗客の様子が鋭く描き出されている。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。
課題  次回ゼミで提出するもの。配布原稿か下記メールへ
□ アンケート「私の愛読書」
□ 一日を記憶する (事実でも想像でも可)
□ 車中観察 (事実でも想像でも可)
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第222回「読書会」
月 日 : 2007年6月16日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 村野和子氏 作品『白痴』第二回目
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年5月19日土曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 長瀬 隆氏
題 目 : 未定                 関心ある人は下原まで
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。

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