文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.77

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)5月 7日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.77
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 
     6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
5・7下原ゼミ
5月 7日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(同行者撮影・提出課題受付・進行指名)
 2.アンケート発表&観察作品及び提出原稿読み・評
 
3.テキスト初読み(草稿『小説網走まで』と完全稿)
 
 4.連絡・配布・その他
 
1.「2007年、読書と創作の旅」出立に際して
・旅仲間が増えました。金野幸裕(こんのゆきひろ)君が新たに加わりました。
・全員無事にこの旅ができますよう、祈願をこめて同行者記念撮影。
・担当者から「書くこと読むことを切磋琢磨しながら楽しい、有意義な旅にしましょう!」
・課題受付「連休中に書けたでしょうか」。前回で配布した原稿を集めます。採点も。
・本日の司会進行係指名。(テキスト読みは適当に配分を指示してください)
 
         2. アンケート発表&観察作品一例及び提出原稿読み・評
・アンケート発表 → 愛読書紹介は、提出されている茂木愛由未さん、髙橋享平君に。
・観察作品見本 → 「菜の花と小娘」花の観察から一篇のファンタジー作品を書く。創作
          の基本を学ぶ。他に「夫婦」は観察の基本。
・提出原稿読み → 前回提出のあったものです。観察・情景・要点に注目する。
          車中観察は、髙橋享平君の「不快指数200」の評。
          一日を記憶するは、こちらも髙橋君の「休日の過し方」感想
         3.テキスト初読み&周辺読み
 テキスト『網走まで』の読みにはいります。初読、再読、再々読。
・初読の前に草稿『小説網走まで』を読んでみます。完成作品までに、どう無駄を省いたか。
 より解りやすく腐心したか。その点に注意しましょう。
・初読、明治と現在では読み方が違うところもあります。原文でなくてもいいです。
         4.連絡・配布・その他
時間に余裕があれば、世界、日本の名作紹介。表現または番組観賞、原稿配布など。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.77 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 
車窓雑記
ものの見方について
  一つの事物も見方によって全く違ったものになる。裁判の判決がよい例だ。たとえば4月24日、東京地裁で7年前の事件の判決があった。資産家の道楽息子が10人の外国人女性に乱暴し、2人を死亡させた事件である。容疑者には求刑通り無期懲役が言い渡された。軽いと思われるが日本には、こうした事件(密室での死に至る事件)には、これより重い量刑がないとのこと。被害者にとっては不満は残るが、法律的には、妥当の判決であったといえる。しかし、今回、この判決公判のニュースを聞いた多くの人たちは、この判決内容に由としながらも、他方では複雑な思いにかられたに違いない。一つの事件が無罪となったからである。今回の裁判で注目されたのは、英国人女性の準強姦致死と遺体損壊遺棄事件だった。地球の反対側、遠い国からやってきた若い女性が、ある日、突然、失踪し。やがてバラバラ遺体で発見された。被疑者が、流暢な英語で外国人女性ばかり狙っていたということでワイドショーで連日とりあげられた。被疑者が、常習の性犯罪者であり、遺体切断に使ったとみられるチェーンソーの購入、被害者の生存を装った虚偽情報流しなどの状況証拠から、この事件は当然、100㌫の確立で被告に重罪判決が言い渡されるとみられていた。
 ところが、なぜか、大方の予想を裏切って、この事件だけが無罪だった。この判決に「まるで風船が突然割れたような気持だった」と落胆した被害者家族はむろん、法廷にいた誰もが唖然としたという。マスメディアも、この判決に驚いた。なぜ、こんな判決が出たのか。テレビや新聞で、法律の専門家がいろいろと分析していた。彼らの話を総合すると理由は二通りあるようだ。一つは、たまたまこの裁判官だったからだという個人的なもの。いわゆる疑わしきは罰せずという自分の信念に凝り固まっている裁判官に当たってしまったという運。もう一つは、この事件を有罪とした場合、立証は困難なので、他の事件を無期懲役にもってゆけないという穿った見方である。もっとも新聞によると今回の事件判決について判決を下した裁判長は無罪とした理由をこう説明している。「乱暴の場面を撮影したビデオテープなど被告の犯行を直接照明する証拠はない。別の犯行や性癖から、被害者に対する犯行を確認することは不可能だ」や「被告の犯行と認めるには合理的な疑いが残る」といつたコメントから、他の事件を考慮した技量ではなさそうだ。判決は、疑わしきは罰せずを信条とする裁判官の性格によるもののようである。このように、明らかに犯人が判然としている事件でも見方によって結果は、真反対になる。これからなにがわかるか。物事は、常に一方からではなく、疑いの目をもって多方面から観察するべし、ということである。
注目記事 ある新聞記事を読む
後ろに座る学生 教員には厳しく自分には甘い 産能大調べ
5月5日の朝日新聞に面白い記事を見つけた。ゼミではなく講義の方だと思うが、学生の成績は教室で座る席によって違う。そんな調査を実施した人がいた。以下は、その結果。
「教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しかった。」
情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べた。教室に入った学生を観察すると、「後方グループは、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる」という。産業能率大の松村教授の調査だと、教室で座る場所と成績の関係は、つぎのようになる。(140人)
□前方に座った学生 32名 期末試験の平均点 51.2点 教員評価は、ほどほど
□中央に座った学生 81名 期末試験の平均点 43.9点 教員評価は、甘い
□後方に座った学生 30人 期末試験の平均点 30.9点 教員評価は、厳しい
 なぜ、後ろの席の学生は成績が悪いのか。成績が悪いから後ろに行くのか。なぜ、後ろの学生は、教員評価が厳しいのか。さまざまな疑問があるが、調査は、今年いっぱい計3ヶ月つづけるという。
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2007年、読書と創作の旅
5・7ゼミ
愛読書アンケート
 最近は、どんな本を読んでいますか。どんな作家が好きですか。映画、演劇も可・
茂木愛由未 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○ 瀬尾まい子著『温室デイズ』
 
 買ったけど忙しくて、まだ読んでいないので、もう少ししたら読みたいです。「幸福な食卓」を読んだあとに瀬尾まい子の他の作品を読みたくなったので買いました。
○ 森 絵都『永遠の出口』
 森 絵都が好きなので買いました。小学生から高校生までのことが書かれているのですが、共感できることがたくさんありました。
○ ダン・ブラウン著『ダヴィンチ・コード』
 最近、やっと上・中・下読み終えました。すごい面白かったので、映画もDVDでみてみようと思っています。
髙橋享平 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○ 水木しげる著、漫画『猫楠』
 一匹の猫の視点から、南方熊楠の半生を活写した漫画。水木しげるのペンはつくづく、人と妖怪の境目をなくすと思う。
○ 銀色夏生著のエッセイ集『ぶつかり体験記』
 銀色夏生のエッセイ。座禅や前世癒法といったスピリチュアルな世界への興味から始まり、身の丈にあった食事癒法へ到る道のりに共感した。
○ 福井晴敏著ルポ『兵士を追え』
 福井晴敏が資料として使っている自衛隊ルポ「兵士聞け」の続刊。読み始めたばかりだが、隊内ばかりでなくパイロットの家庭にも視点を置いていて感心した。
名作案内
オススメ図書・配布(作家志望者必読)
ウィリアム・サローヤン(1908-1981)古沢安二郎訳
『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』早川書房『わがこころ高原に』に収録
 1929年、アメリカの大不況時代、職もなく金もない文学青年の一日。青年は、作家になる野心を胸に、仕事を求めて街をさすらうが・・・・・。
訳者あとがき、この作品はサローヤンが一世に名をとどろかせた処女作。「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。
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2007年、読書と創作の旅・提出課題
不快指数200
髙橋享平
 午後21時42分、日暮里で乗り換えた。夕刻から降りつづいている春の冷雨に、車内もすっかり熱が飽和しきっている。いま自分がどんな顔をしているか、周りの乗客を見れば言うまでもない。
 こんな天気の日には電車に乗りたくない。冷えきって感覚のなくなった頬を突き抜けたむき出しの体温が、隣に座するサラリーマンや正面に立つ老人のそれとぶつかりあう。傘の水滴も落ちるより早く蒸発していそうな湿度の中だ。輪郭をなくした体温は、普段ならアタマで手なづけられる不快感や不機嫌も一緒に外へと連れ出しているようで、そのくせ視線は誰とも交わらずに膝を泳いでいるから始末に終えない。こんな日は、ただでさえ不確かな距離感がいよいよ、しっちゃかめっちゃかになる。
 千住大橋を過ぎたあたりで、酔っぱらい同士が喧嘩を始めた。京成が有料特急枠を減らしてくれれば、少しは楽に帰れるだろうに。
□氷雨の夜の車内。酒臭い蒸し暑さで飽和状態にある混雑した車内の不快状態がよく伝わってきます。が、全体的に省略しすぎか詰めすぎかで、読み手の想像が及ばないところもあります。情景不足と文脈の不明な個所をあげてみました。
①夕刻から降りつづいている春の冷雨に、車内もすっかり熱が飽和しきっている。
傍線は、車内は湿気が多くて蒸し暑い状態という意味か。
②いま自分がどんな顔をしているか、周りの乗客を見れば
一人か二人乗客の状態が、どんなだとわかるとよいのだが・・・
③冷えきって感覚のなくなった頬を突き抜けたむき出しの体温が
なんとなく感覚的にはわかるが、文をもっとわかりやすくするには・・・
④輪郭をなくした体温
「輪郭をなくした体温」とは。感覚か、車内の温度と体温の境か。
⑤そのくせ視線は誰とも交わらずに膝を泳いでいるから始末に終えない。
こちらも情景はわかるが、もっと分かり易くするには・・・。
出だしの文をわかり易く
出だしを分かり易い文にすると、こんなふうにもなる。
 午後21時42分、日暮里で私鉄に乗り換えた。夕刻から春雨が降りつづいているせいか、混雑した車内は、湿気でムッとした。
※最初の一行で全体がつかめるようにする。
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2007年、読書と創作の旅・提出課題「一日を記憶する」
休日の過し方
髙橋享平
 朝六時半、セットしておいた携帯のアラームが、宙船のメロディーを伴って鳴り響く。
   その船をこいでゆけ  お前の手でこいでゆけ
と、唄ったのは中島みゆきだが、こいではいけない船も時にはあろう。こっくりこっくりしながら枕元をまさぐり、携帯を探り当てスイッチを押した・・・が、やはりこの船のオールは手離し難いものがある。前のめりに布団の上へつっぷした僕は、中島みゆきに言われるまでもなく出航した。
 かくして惰眠を貪り、再び目を覚ましたのは正午をまわった頃だった。こんな怠業に手を染められるのも休日の醍醐味だが、それも度が過ぎると逆に後悔すら喚び起こす。お世辞にもジーザスだ。
 頭の悪そうな犬の鳴き声に窓を開ける。ベランダに出されダックスフンドと目が合って、しぶしぶ散歩に連れ出した。春の休日なんて、大体こんなものだ。
 ほほえましい光景が目に浮かびます。携帯の目覚ましセットを消し忘れたために朝っぱら起こされてしまった。あわてて消すが、そのまま再び、夢の世界へ。昼に起きて、犬の散歩。休日の怠業に「春の休日なんて、大体こんなものだ」、と照れ臭そうに居直るところに、筆者の本音がでているような気がします。案外、本当は、筆者は早起きしてジョギングでもしたかったのかも・・・。
 この一日からわかることは、筆者は、携帯メロに中島みゆきの最近曲をいれていて、自宅のベランダにはダックスフンドを飼っている。
感想:
一日を記憶することの意味
 水のように流れていく日々。そのときは、なんでもない一日であっても、日が過ぎるにつれて貴重な記憶となります。1492年8月3日金曜日、ピンタ後は出帆した。目指すはジャパン「黄金の国」提督ドン・クリストーバル・コロンの胸は希望に燃えて高鳴る。この歴史的偉業を残さんとバルトロメー・デ・ラス・カサス神父は単調な航海の日々を記録した。
 以下は、その単調な一日の何日かの紹介である。
1492年9月16日 土曜日
 西へ向かい、昼夜にわたって航海をつづけ、39グレアも進んだであろうか、36グレアだけを勘定した。この日は少し雲が出て、小雨が降った。ここで提督は、この日からその後はずっとまことにさわやかな風邪に恵まれ、朝ともなればまったく爽快で、これでうぐいすが鳴けば申し分ないとし、「アンダルシアの4月のような気候であった」とのべている。ここで、普通見られないほどの(と彼には思えた)濃い緑色した草の束が次々と流れてくるのを見始めた。この草束は陸地からはがれてきたもののようだったので、誰も皆、どこかの島へ近づいたものと考えた。提督は、それでも大陸の近くではないとして、「大陸はもっとさきにある」とのべている。              (『コロンブス航海記』から)
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4・23ゼミ報告
4月23日(月)のゼミは、次のように行いました。
4名の同行者集る!
 毎年ゼミ初日は不安と楽しみが交差する。今年は何名の旅人が・・・そんな思いを胸に4月23日、所沢校舎に入った。希望カード提出表を受け取ると2名の書き込み。16日のガイダンスで見学者は10名だった。のっけから青年修養訓や憲法読み、加えて紙芝居稽古で半減は予想していた。が、八割減までは頭になかった。昨年と同じようにビデオ観賞にすればよかったか・・・。ちらりそんな悔いが過ぎった。
 しかし、提出された希望カードの理由欄を読んで安堵した。やはりあれでよかったのだ。そんな自信がわいた。「ガイダンスに行って、面白そうだと思った」「観察力、表現力を磨くためには適切な授業内容だと思った」しっかりとゼミ方針が伝わっている。二割でも理解されれば大成功なのだ。書くことも、一人でも読んでくれる人がいれば、からはじまる。3人4脚いい旅ができそうだ。希望が燃え立った。そのとき、新たに2名の参加者。陽気な面々に爆笑。一気に4名が10名分の賑やかさになった。
 「2007年、読書と創作の旅」初日同行者です。敬称略・順不動
   茂木愛由未(もてぎあゆみ)   疋田祥子(ひきたしょうこ)
   山根裕作(やまねゆうさく)   髙橋享平(たかはしきょうへい)
司会進行トップバッターは、髙橋享平君
 
 ゼミの司会進行は、トップバッターということで、元気も体力もあり性格も明朗活発そうな髙橋享平君にお願いしました。話すことが大好きでラジオトークがぴったりする人柄。スイッチが入ると大分、脱線もしそうですが、ちゃんとブレーキ役もいて安心でした。楽しい旅になる予感がします。
 
旅人自己紹介(愛読書はアンケート紹介で)
髙橋享平君 ラジオをよく聞きます。(車で)、千葉県の香取郡多古町から通学しています。成田空港の先。通学時間は2時間以上かかりますが、複数サークルに入っています。
茂木愛由未 たくさん小説を書きたいと思っています。群馬県前橋から通学しています。サークルはマジック研究会です。昨年は山本ゼミでした。
山根裕作 吉祥寺の実家から通学しています。将来の希望は作家です。髙橋享平君とは馬が合いそうなので(話しやすかったので)一緒に参加しました。
疋田祥子 探検部にいます。昨年の夏は、タクラマカン砂漠でラクダに乗っていて一時、失踪騒ぎになりました。紀行ものが書きたいです。自転車旅行も趣味です。
下原敏彦 長野県出身、団塊世代。農獣医学部中退(学生時、海外技術協力隊が夢だった)隔月に池袋東京芸術劇場で読書会開催。執筆活動の傍ら地元の青少年に柔道指導。
ゼミ誌編集委員決め・髙橋享平君&全員
 
小所帯なのでゼミ誌は、のびのびつくれると思います。全員が協力しあってすすめることに意見が一致しました。ただゼミ誌ガイダンス出席、見積書提出などの実務があるので責任者選出が必要でした。髙橋享平君が、その任に当たってくれることになりました。
◎ゼミ誌原稿は、「車中観察」作品を主体に。5、6、7月に習作を重ね8月完成。9月提出。
12月14日、ゼミ誌提出。14日の発行期限を厳守しましょう!
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2007年、読書と創作の旅・テキスト考
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
 
連載3   学生と読む志賀直哉の車中作品(加筆)
土壌館・編集室
『網走まで』を読む
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

 志賀直哉の処女作品『網走まで』には、大きな謎が二つあるとして、前述では、その一つの謎、題名にこだわった。即ち、なぜ「網走」かである。が、この謎は、「網走」という所を調べれば調べるほど深まってゆく。まったく手掛かりのない謎である。
 当時、東北以北は、文明開化が進む東京人にとっては、未開の地であったに違いない。その未開の地の果て、海を渡った蝦夷地にある網走は、おそらく想像もつかない遠い土地だったと想像する。実際、当時、網走は、まだ鉄道も敷かれていなかった。草稿に書かれているのは、「なだれのある」熊と無宿人の土地である。それが作者の印象だったに相違ない。
 では、何故にそんな土地を題名にしたのか。行き先にする必要があったのか。作者に網走という土地に対する強い思い入れがあったという記録も記述もない。当時の作者の詳しい年譜をみても、これといって思い当たるものもない。二十七歳の作者にとって網走は、まったく関係のない土地、所であった。
 と、すると作者が、地図の上でサイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げである。が、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。(書いている最中に、郵便配達が二度ベルを鳴らした。それで『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』そんなタイトルをつけたという米国作家の逸話話を聞いたことがある。が)志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。いずれも、その題名に作者が関係しているか、想起できるものがある。
 ところが、この網走だけは、なんの関連も思い浮かばない。そこで、まったくの空想だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関係するのではないだろうかと考えた。つまり毒には毒をもってと同様、謎には謎をもって、というわけである。
 それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、作品『小説網走まで』が、応募先の編集部で没にされたという事実である。前号でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それより、まともな編集者であったなら、たとえミミズがのたくっていようがなんとかして解読を試みようとするはず。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかったのか。見る目をもつ者がいなかった。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、と思いたい。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.77――――――――8 ―――――――――――――――――
なんでもないエッセイのような車中作品。だが、読んでみると何か、ただならぬものを秘めている。そんな気がする。まず、そんなふうに思うはずである。
 それ故に、私としては、『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったと思いたくない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。
 では、なぜ、彼らは『小説網走まで』を、没にしたのか。させたのか。没になったのは、顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。彼らが絶賛し、また現代においても、充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。俄かには信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。
では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。
1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)
 没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。

 『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに『小説網走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。
 それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの
があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。
 余談だが、先般、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を名作と踏んだ。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。
 では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、元の謎に戻ってしまうが、やはり題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。
「どちら迄おいでですか」と訊いた。
「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」
「何の国になってますかしら?」
「北見だとか申しました」
「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」
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「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」
 ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見
までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治二三年前身の「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人がおくられてから、既に十八年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。
 網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。
 恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。
 だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。(第一章 完了)
 次回、第二章からは作品「網走まで」とは何かを連載します。
         次回につづく
志賀直哉年譜(『網走まで』の)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。
1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.77――――――――10 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・表現・土壌館劇場
よみがえった『少年王者』 中編
三 
 電話はあるテレビ製作会社からだった。「少年王者」に関する情報をインターネットで探していたら、土壌館創作道場の「下原ゼミ通信」に行き当たった、というわけである。
「少年王者の紙芝居みせてもらえないでしょうか」
電話の声の主は、早速に言った。まだ若い声だった。
「かまわないですけれど・・・・」
私は曖昧に答えた。なにか面倒に巻き込まれるような気がした。
 というのも過去に何度かこのようなこと(いきなりテレビ制作会社から電話があったこと)があったからである。
 最初は、NHKのドキュメンタリー番組だった。もう10年も前になる。ちょうどやらせ問題が起きた頃で、台本はつくれないというので協力することになった。小学一年生のときの担任の先生が50歳になった教え子たちを訪ねる旅を追ったもので「教え子たちの歳月」というタイトルで放映された。評判は良かったと思う。が、アーカイブスを一昨年ゼミで観賞したときは、退屈な人と、興味を持って観た人とに別れた。眠ってしまった人もいた。つぎは数年前か、ちょうど日韓共同のW杯があった年だった。民放の昼のバラェテイ番組から電話があった。私が指導している柔道の道場を善意の若者たちでリフォームしたいというのだ。お金がかかるのでは、と断ったが、テレビ局が全部負担するというので、承諾した。二週間、朝から晩までのロケ。大変だったが、ほとんど倒壊しかかっていたオンボロ道場が再建された。結果的には、よかった。しかし、二度はご免だ。つぎは、ビールのコマーシャルの舞台にと、電話があった。が、こちらはやめにした。そんなこともあって、反射的に不安になった。だが、「少年王者の紙芝居」という話に、思わず聞いてしまった。
「これから伺ってよろしいでしょうか」
この手の人たちは、隙あらば間髪を入れない。狙ったら直進あるのみである。
「紙芝居といっても、本物ではないですよ。画用紙にコピー絵を貼ってつくったものですよ」
そう説明した。が、都心の会社から1時間半かけて見に行きたいという。断る理由もないので承知した。怪しんだ。南米にある川の名前の会社だが、いまどき「少年王者」だけを求めてはるばる来るだろうか。何かセールスされるのではないかと懸念した。杞憂だった。菓子箱を手土産にやってきた若者は、本当に、60年も前のベストセラー「少年王者の紙芝居」を探していた。NHKハイビジョンで「私が子供だったころ」という番組をやっているらしい。著名人が子供時代の思い出を語る番組。今度の出演者は赤テントの唐十郎さん。その唐さんの子供時代の思い出の一つに少年王者の紙芝居があるという。
「紙芝居を見たというのですか」私は、首をかしげて聞いた。
「はい、そう言ってました。楽しみにしていたと」
「変ですねえ、『少年王者』は長すぎて紙芝居には向かないし、あったとは知りません。全部で六話あって、一話だけでも160場面あるんですよ」
「そうですか、でも、確かに紙芝居があると聞いたのですが・・・・」
テレビ制作会社の青年は、あきらめない。あくまでも市販の紙芝居が存在すると信じているようだった。それで、ゼミで稽古した手製のものを見せたると、そのあまりの貧弱さに、いささか落胆したようだ。もう一度、出版社や原作者の家に当たってみると帰っていった。
「たぶん、どこへ行っても紙芝居は、ないと思いますよ」
私は、苦笑しながら青年の背中にそう告げた。「少年王者」の紙芝居は、私が作ったものしか存在しない。そう思えたのである。              つづく 後編は次回に
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.77
教育基本法改正記念
岩波写真文庫『一年生』を読む②
 この写真文庫は、1955年3月25日発行。復刻ワイド版は1988年2月18日発行。
 
本稿は、写真集「『一年生』-ある小学教師の記録-」の観察である。
2頁目 解説 入学前の知能テスト
 二枚の写真は、子供が大人と向き合っている。「入学前の知能テスト」と説明が入っているから大人は教師だろう。写真中に二人のやりとりが載せられている。
「この絵はなあーに」「おんま」
「お父さんはなにしているの」「うちで仕事をしとるの」
解説には「なにを聞いてももじもじして答えない子、はきはき答える子、見当違いの答えをする子」とある。上の写真。机に肘をついて話かける教師の姿がやさしそうだ。左手を頭に添えながら答えようとするおかっぱ頭の女の子の様子も微笑ましい。下の写真。坊主の男の子が神妙な面持ちで教師の質問を聞いている。はじめて教師と向き合う一年生の様子は、いつの時代も同じかも知れない。二枚の写真の中で時代を感じるのは、木造校舎の教室である。机の節穴に懐かしさを感じる。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.77――――――――12 ―――――――――――――――――
掲示板
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
 以上の作品は、車中・車外からの乗客観察である。乗客の様子が鋭く描き出されている。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。
課題提出状況  課題原稿は常時受け付けます。
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、高橋亨平
□ 一日を記憶する(事実でも想像でも可)=高橋亨平(1)
□ 車中観察(事実でも想像でも可)=高橋亨平(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第222回「読書会」
月 日 : 2007年6月16日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 村野和子氏 作品『白痴』第二回目
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年5月19日土曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 長瀬 隆氏
題 目 : 未定                 関心ある人は下原まで
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
☆冊子観察「賢所」感想は、紙面の都合で次号に掲載します。

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