文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.305
日本大学藝術学部文芸学科 2017年(平成29年)1月16日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.305
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
9/26 10/3 10/17 10/24 10/31 11/7 11/14 11/21 11/28 12/5 12/12 2017年 1/16 1/23
熊谷元一研究&テキスト作品読み(志賀直哉他)
2016年読書と創作の旅
1・16下原ゼミ
1月7日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
2. カルタ大会 小倉百人一首 ゲームはたくさんありますが歴史、伝統、 芸術、競技スリルにおいて最高峰。 |
新年明けましておめでとうございます
2017年は、どんな年になるでしょうか。現在2年生の皆さんは、大きく環境が変わります。まず、4月から通学する校舎が所沢から江古田になります。もうバスの時間を気にすることはないのです。都内が近くなり、卒業がみえてきます。
一年の計は元旦にあり
大きな変化があるということで、2017年は、重要な年になります。一年の計は元旦にあり、といいます。どんな計画を立てましたか。
土壌館日誌 元旦に青い鳥小鳥を拾う
1月1日 日曜日 晴れ
2017年の朝、いつもと変わらぬ朝、1歳版の孫が熱をだしたということで小1の孫を預かる。年賀状の配達を待って近くの3人で八幡神社に向かう。途中、道場に寄り、去年の破魔矢をはずす。昼過ぎで初もうでする人ちらほら。狭い歩道を歩いているとき、何気なく足元をみるとなにやら緑色のもの。危なく踏みつけるところだった。小鳥のようだった。死んでいるかとおもったが、すばやく拾った。孫も家人も気がつかなかった。死んでいたら嫌なのでなにも言わずポケットにいれた。参拝したあと、ポケットに手をやると、なにやら温かい。もぞもぞしている。死んではいなかったのだ。家に帰って収納かごにいれてミカンをやると、つつきはじめた。すっかり元気になった。酉年に青い鳥を拾ったことになる。
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名作読みは『小倉百人一首』
今日の名作読みは、せっかくのお正月明けなのでカルタ大会を行います。昨今、ゲームは沢山ありますが、『小倉百人一首』は、最も古典的な、ゲーム。
昔の正月の遊び、いま何処
最近の家庭は、どうか知らないが、私が子どもだったころは、正月の遊びは百人一首と相場が決まっていた。そのころは、まだ大家族で、どの家にも数人の子供がいた。実家の周辺はほとんど親戚だったことから、子供たちは、年賀に親戚の家々を泊まり歩いた。こたつで、花札、トラン遊びをした。大人が加わると百人一首大会となった。楽しさのなかに緊張があった。あの雰囲気、正月がくると、思い出す。
核家族になった現代では、都会ではむろん、田舎でもほとんど百人一首は遊ばなくなったようだ。従兄弟の数も減ったし、いろんなゲームが増えたこともある。毎年、ゼミでやったことがある人を聞くのだが、未経験の人が多い。2012年もそのようだ。
そんなわけで、本日の後期後半最初のゼミは、百人一首大会にした。
百人一首とは何か
天智天皇(平安末期)から藤原家隆・雅経(鎌倉)の時代までのもの
小倉山荘で藤原定家(1162-1241)が勅撰集から選んだ。男79名、女21名。
春夏秋冬の歌32首 恋歌43首 その他、旅など25首などで構成されている。
百人一首とは何か。カルタひろいから入れば、それほど縁遠いものではない。おそらく苦手とする人は、学校教育の一環、古典文学と考えるからと思う。昔の人が優雅に風景や、四季、恋、失恋を詠んだもの、文法ではなくリズムで思い描いてみよう。
百人一首とは、何か。HPでは、このように紹介している。
藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) – 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
摂関家藤原北家道兼流・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野に建築した別荘、小倉山荘の襖色紙の装飾の為に、蓮生より色紙の依頼を受けた鎌倉時代の歌人藤原定家[1]が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型と言われている。男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙和歌」などと称された。
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いずれも『古今集』 、『新古今集』などの勅撰和歌集から選ばれている。歌道の入門書として読み継がれた。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まった。より人々が楽しめる遊戯として普及した。関連書に、やはり藤原定家の撰に成る『百人秀歌』があり、『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は「後鳥羽院・順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3名が入っている」「源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌である」2点である。現在、この『百人秀歌』は『百人一首』の原撰本(プロトタイプ)と考えられている。
2010年読書と創作の旅 百人一首一覧
1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ 天智天皇
2.春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山 持統天皇
3.あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂
4.田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪は降りつつ 山部赤人
5.奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき 猿丸大夫
6.鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける 中納言家持
7.天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 安倍仲麿
8.わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
9.花の色は移りにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに 小野小町
- これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸
- わたの原八十島かけて漕き出でぬと人には告げよあまのつりぶね 参議篁
- 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ 僧正遍昭
- 筑波嶺のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院
- 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 河原左大臣
- 君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇
- 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む 中納言行平
- ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣
- 住の江の岸に寄る波よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ 藤原敏行朝臣
- 難波潟短かき蘆の節の間も逢はでこの世を過ぐしてよとや 伊勢
- わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
- 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな 素性法師
- 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ 文屋康秀
- 月見ればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里
- このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉のにしき神のまにまに 菅家
- 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな 三条右大臣
- 小倉山峰の紅葉ば心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ 貞信公
- みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ 中納言兼輔
- 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣
- 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 凡河内躬恒
- 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし 壬生忠岑
- 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪 坂上是則
- 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹
- 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
- 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風
- 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之
- 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ 清原深養父
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- 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康
- 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな 右近
- 浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき 参議等
- 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで 平兼盛
- 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見
- 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは 清原元輔
- 逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり 権中納言敦忠
- 逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠
- 哀れともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな 謙徳公
- 由良の門を渡る舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋の道かな 曽禰好忠
- 八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり 恵慶法師
- 風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな 源重之
- みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつ物をこそ思へ 大中臣能宣朝
- 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝
- かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじなもゆる思ひを 藤原実方朝臣
- 明けぬれば暮るるものとはしりながら なほうらめしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣
- なげきつつひとりぬる夜のあくるまは いかに久しきものとかはしる 右大将道綱母
- 忘れじのゆくすえまではかたければ 今日を限りの命ともがな 儀同三司母
- 滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ 大納言公任
- あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな 和泉式部
- めぐりあひて見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな 紫式部
- 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弐三位
- やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな 赤染衛門
- 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 小式部内侍
- いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな 伊勢大輔
- 夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ 清少納言
- いまはただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな 左京大夫道雅
- 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木 権中納言定頼
- うらみわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそをしけれ 相模
- もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかにしる人もなし 前大僧正行尊
- 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそをしけれ 周防内侍
- 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな 三条院
- あらし吹くみ室の山のもみぢばは 竜田の川の錦なりけり 能因法師
- さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくもおなじ秋の夕ぐれ 良選法師
- 夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信
- 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊
- 高砂のをのへのさくらさきにけり とやまのかすみたたずもあらなむ 前権中納言匡房
- 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
75ちぎりおきしさせもが露をいのちにて あはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊
- わたの原こぎいでてみれば久方の 雲いにまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣
- 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 崇徳院
- 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守 源兼昌
- 秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔
- 長からむ心もしらず黒髪の みだれてけさはものをこそ思へ 待賢門院堀河
- ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる 後徳大寺左大臣
82思ひわびさてもいのちはあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり 道因法師
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- 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
84ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき 藤原清輔朝臣
- 夜もすがら物思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり 俊恵法師
- なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな 西行法師
- 村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ 寂蓮法師
- 難波江の蘆のかりねのひとよゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
- 玉の緒よたえなばたえねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王
- 見せばやな雄島のあまの袖だにも ぬれにぞぬれし色はかはらず 殷富門院大輔
- きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣
- わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそしらねかわくまもなし 二条院讃岐
- 世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣
- み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり 参議雅経
- おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖 前大僧正慈円
- 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣
- こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ 権中納言定家
- 風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける 従二位家隆
- 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は 後鳥羽院
- ももしきやふるき軒ばのしのぶにも なほあまりある昔なりけり 順徳院
解説のなかで、注目される一つ
◇ 32.山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹
この歌は、古注では「風のかけたるしがらみ」という表現をきわめて高く評価しており、応永抄では、「誠にはじめて言出したる妙処也」、頼孝本は「ことばあたらしくおもしろきうたなり」、上條本は、「粉骨也」、米沢本は「金玉なり」なりと絶賛している。
しかし、その表現内容の理解には微妙な相違がある。紅葉が間断なく散り落ちて流れもせきかえすばかり、と見る光景と、紅葉のながれる跡より吹き入れて、そこにもみじのたえぬしがらみ、と見る光景など。詳しくは『百人一首』(講談社)解釈参照
余興として、坊主めくりも面白い。僧侶は15名/79。
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世界名作文学紹介
2016年、最後のゼミの「読むことの習慣化」は
『殺し屋』アーネスト・ヘミングウェイ 訳・大久保康雄
ヘミングウェイは、デビュー作となった『日はまた昇る』や映画化でも人気がでた『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』など長編が有名だが、自身の少年、青春時代を描いた短編も忘れがたい。そのなかにあって『殺し屋』は、世界文学線上にあっても名作。まさに20世紀の短編小説を代表する作品です。無駄のない簡潔な文体は、現代文学の手本ともいえます。こんな文体を身につけたい・・・そんな思いで若い頃、原稿用紙にヘミングウェイの作品を繰り返し写し取ったことを懐かしく思い出します。訳者の大久保康雄は、あとがきで、この作品についてこのように紹介しています。
『殺し屋』は、ヘミングウェイがつくりあげた小説技法の見本のような作品である。ヘミングウェイはここで、余分な描写や説明をいっさい払いのけて、設定された状況に読者を直接対面せしめるという彼独自のスタイルを、ほとんど純粋なかたちで示している。ヘミングウェイ・スタイルの裸形というべきものが、ここにはある。
舞台がどこの町であり、登場人物がどんな性格をもっているのか、ここで提出される事件に到達されるまでにどのような過去があったのか、そういう説明は何ひとつなされていない。それでいて、描かれた場面の張りつめた緊張感が、異様なするどさで読むものの心に迫ってくるのである。
文章の簡潔さということが果たしている大きな役割の一つは、いうまでもなく、描写や説明を極度にまで切りつめることによって、ある一つの特殊な状況を、そのまま普遍的な意味にまで高めていることである。この『殺し屋』にしても、もし登場人物の経歴や性格を示すために多くの説明がなされたとしたら、これらの人物は、普通の小説的意味では、それだけ具象的なリアリティを濃くするかもしれないが、この事件全体を、ただの特殊な一事件―たんなるギャングの内輪もめ程度のものとしてしまったであろう。
こういう簡潔化は、しばしば日常的な事物に象徴的な意味を付与するものなのである。ヘミングウェイの新聞記者時代の先輩ライオネル・ロイーズが、この作品を評して、「対話と行動の最小限の描写だけの純粋な客観性の一例だ」と言っているが、まことにその
とおりといわなければならない。
物語の筋は簡単である。ニックは小さな町の簡易食堂で働いている。ある夕方、二人の男がやってくる。二人は殺し屋で、だれかに頼まれて、この町に身をひそめているスウェーデン人の拳闘家アンドルソンを殺しにきたのだ。アンドルソンは、いつも六時にはこの食堂にきて食事をとる習慣なのだ。しかし、この日は六時になっても彼は姿を見せない。七時になった。それでもこない。二人の殺し屋はとうとうあきらめて帰ってゆ
く。二人が立ち去ると、ニックは、危険を知らせるためにアンドルソンが泊まっている下宿屋へ駆けつける。拳闘家は、服を着たまま部屋のベッドに横になっている。ニックが殺し屋の話をしても、ただ壁を見つめたまま黙っている。警察に知らせようかと言っても、いや、どうにもしょうがないんだ、と言って、そのまま壁を見ているだけだ。この壁は無力な絶望感を象徴しているものと思われる。押しても、叩いてもどうにもしょうがない壁だ。
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ニックとアンドルソンとのあいだにかわされる平凡な会話も、社会の表裏を経験してきた人間の絶望と、社会に足を踏み入れたばかりの恐れを知らぬ若者の勇気を対比させることによって、二つの世代の相違を巧みに暗示しているのである。ニックは、ここでは
じめて殺し屋たちの暴力の世界と拳闘家の絶望の世界に接触し、しだいに社会悪への目を開いてゆく。 新潮文庫『ヘミングウェイ短編集(一)』訳者「あとがき」より
この作品は1930年前後、ヘミングウェイ三十歳前後に書かれた。アメリカの三十年代といえば何か。禁酒法(1920-1933)でギャングが横行した時代である。映画『アンタッチャブル』にみる無法時代。ギャングに狙われたら、もうどうしょうもない。警察など当てにならない。この作品から若きヘミングウェイの怒りが伝わってくる。
ギャング達は新移民と呼ばれる人達の子供達が多かったそうです。その代表的なのがイタリアからの移民の子のアル・カポネです。彼の残した言葉としてこんなのがあります。
『私は市民が望むものを供給することで、金を稼いだだけだ。もし、私が法律を破っているというのなら、顧客である多くの善良なシカゴ市民も、私と同様に有罪だ。』 HP
作者ヘミングウェイについて
1899年7月21日に生まれ
1961年7月2日に亡くなっている。ライフル自殺。
『老人と海』『キリマンジェロの雪』『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』
『河を渡って林の中へ』『持つものと持たざる者』など多数。
20世紀文学は『失われた時を求めて』のプルーストとヘミングウェイからはじまったとも言われている。
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下原ゼミⅡ、11月26日、27日阿智村訪問
11月27日(日)熊谷元一写真記念館見学
下原ゼミⅡは、27日熊谷元一研究の一環として長野県昼神温泉郷にある「熊谷元一写真童画館」を訪問、展示作品を見学した。撮影 原佐代子(職員・一年生)
ゼミ生:鈴木優作 浦上透子 講師:下原敏彦 芝勝社長:下原勝弘
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ゼミⅡ後期の記録
□10月3日 ゼミ誌について、DVD「ある山村の昭和史」
□10月17日 ゼミ誌について、ゼミ合宿について
□10月24日 ゼミ誌について、テキスト読み、志賀直哉『子を盗む話』
□10月31日 ゼミ誌について、バス予約、校外授業申請書き込み
□11月 7日 ゼミ誌について鶴巻荘
□11月14日 DVD「村民は、なぜ満蒙開拓団になったか」
□11月26日 校外授業 長野県阿智村
□11月27日 校外授業 長野県阿智村
□11月28日 ゼミ誌編集作業
□12月5日 ゼミ誌編集作業
□12月12日 ゼミ誌完成報告 読むことの習慣化「殺し屋」
□ 1月16日
□ 1月23日
読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会
どなたでも自由に参加できます。下原まで
月 日 : 2017年2月18日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 :『悪霊』二回目
米川正夫訳『ドスト全集12巻(河出書房新社)』 他訳可
報告者 : 報告者・太田香子さん & 司会進行・熊谷暢芳さん