文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.78

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)5月 14日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.78
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 
     6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
5・14下原ゼミ
5月 14日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(提出課題受付・進行指名・採点)
 2.採点作品読み、愛読書、名作紹介&提出原稿読み・評
 
3.テキスト初読み(『菜の花と小娘』初読み『網走まで』)
 
 4.連絡・配布・その他
 
1.「2007年、読書と創作の旅」
・提出課題を受付。
・本日の司会進行指名。少し、皆さんの様子がわかってきました。おてんばな人、お淑やか
 な人、脱線しがちな人、はにかみ屋さんぽい人、のりのいい人。5人5色です。司会者は、
 各人の個性を尊重しながらも常に客観性をもって仕切ってください。司会進行の目的は、
 多数を見る目と指導性、公平力を培います。
・課題のテスト問題(「ひがんさの山」)の採点と発表。読解力をみる。
 
         2.採点作品読み、愛読書、名作紹介&提出原稿読み・評
・採点作品読み → 物語の一部分の読みと全体の読みとでは、解釈は違ってくるのか。
・愛読書紹介 → 疋田祥子さん、山根裕作君、金野幸裕君。
・名作紹介 → 5月の詩、A・ランボー『谷間に眠るもの』他。
・提出原稿読み → 前回提出のあったもの。観察度・情景度・まとまり度をみる。
          車中観察は、山根勇作君の「ある一日の中央線」
          一日を記憶するは、こちらも山根君の「昼夜転換」
         3.テキスト初読み&周辺読み
・テキスト周辺読み → 「菜の花と小娘」観察から創作の見本作品。志賀の処女作
・テキスト初読 → 『網走まで』。感想。
 
         4.表現・配布・その他
・表現または観賞 → 紙芝居稽古、(回想法DVD、ビデオ)
・原稿配布など。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.78 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 
車窓雑記
ある一日・恩師の家に寄る
 連休明けのゼミの出席者は、予想がつかない。五月病という病名を聞いて久しい。が、前回の様子では、四人とも心身ともに健康そうだった。(元気過剰そうな人もいたが・・)。
 しかし、なにしろ連休明けである。その心配に加え、新しく加わりたいとメールで問い合わせてきた学生がいた。金野君といった。本当にくるだろうか。「ゼミ通信77」に、既に名前を書き込んでしまっている。で、そのことも気になった。そんなこんなで、落ち着かず、早めに家を出た。ホームに立つと五月晴れの光がまぶしかった。
 5時限目には、時間があった。で、途中、恩師が在宅なら、お寄りすることにした。先日、恩師から『じいちゃの子どものころのえ』(熊谷元一写真童画館発行)という画集を送ってもらっていた。それで久しぶりにお会いしてお礼と思ったのである。
 昨年、サンケイ出版賞を受賞した『じいちゃの子どものころ』(冨山房インターナショナル発行)は、恩師が童画家になってからの絵だが、今度の画集は、恩師が子供のころ、小学生のときに描いたものだった。尋常一年から尋常六年までの絵が収録されている。いつも不思議に思いながらも感心するのだが、その道の大家になった人は、たいてい物持ちがよい。子供のころからのものが手紙でも成績表でも残っている。ちゃんと保管してくれる人がいるのである。ゴッホのように弟も亡くなって、そんな環境でもないのに、手紙や絵が残っている。ドストエフスキーにしても、子供のころからの手紙が殆ど全部あって書簡集が(上)(中)(下)と刊行されるほどだ。功なり名を遂げたあとならわかるが、子供時代のものが、将来を見越したように保管してあるというのは、驚嘆を過ぎて奇蹟に近い。普通の家なら代がかわればたいていは処分される。よほどその人のことを大切に思う家族か知人がいたのだろう。 
 恩師も小学生時代の絵が現存していて、ちゃんと画集がつくれた、ということは、きっと家族がすばらしかったに違いない。実際、恩師も「絵は、どうでも、あのころのものが残っているということはすごい。よくとってあったものだ」と、他人事のように感心していた。
 池袋で電話すると「いつでもいる」と元気な声。で、恩師の家がある秋津駅で下車した。恩師は、私が小学1年生のときの担任で、現在97歳、再来月には98歳になる。高齢だが現役の写真家・童画家である。日本の写真家40人の一人である。(岩波1997)
 恩師の家に向かって歩いてゆくと、大勢の大学生たちと出会った。女子学生が多い。近くに明治薬科大があると聞いていた。私が学生のころ私の学部は世田谷の下馬にあったが、隣がこの大学だった。それで、この薬科大の名はなんとなく懐かしい。いまは、私の学部も相模平野の藤沢六会に移った。なんの関係もないが不思議な因縁。そんな気がした。
 恩師の家を訪ねるのは、一年ぶりだった。この前は名城大学のS先生と一緒だった。彼女は回想法を研究していて、恩師の写真をDVDに取り入れていた。恩師は、教育においては実践教育の宝庫ともいえる人で、教育学の研究対象になっていた。静岡大教育学部のY先生は、恩師を研究テーマにして、ゼミ学生を連れて静岡から度々訪問している。昨年『写真家・熊谷元一とメディアの時代』(青弓社)を発行した。本書は、恩師の現場の教育手法をあますことなく研究し検証している。「わしの知らないことまで書いてある」恩師は、苦笑しながらもうれしそうに言っていた。1953年、私は信州の山村の小学校に入学した。恩師は四年間、私たちのクラスを受け持った。もともと画家を目指していた恩師は、それほど教育に熱心というわけではなかった。代用教員からはじめたので、ちゃんと教育学を学んできたわけでもなかった。が、あれから半世紀、恩師はいまも担任である。
 私は、なんの因果か、恩師と同じ道を辿ることになった。しかし、まだ、教育とは何か、胸をはって答えられない。どんなふうにゼミを・・・毎年、この季節そんな迷いがある。恩師と一時間余りの雑談。帰り道、新緑の五月の風が爽やかだった。
 出席者数の心配は杞憂だった。新しく加わった北海道出身の子も、意欲がありそうだ。なにか、今年も、いい旅ができそうな、そんな予感がする。
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2007年、読書と創作の旅
5・14ゼミ
 愛読書紹介は概要のみお願いします。詳しく紹介したい人は、課題原稿とします。感想・書評なんでも結構です。提出してください。本通信に掲載します。
愛読書アンケート
 最近は、どんな本を読んでいますか。どんな作家が好きですか。映画、演劇も可・
引田祥子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○ 著『悲しみの歌』
 
 ストーリーの展開は大してないのですが、人がそれぞれに抱える悲しみが伝わってきます。
○ 『クレイジー・ガール』
 児童書に近いかもしれませんが、パワフルなストーリーと、主人公の心の葛藤が組み合わされていて好きです。
○ 著『ベロニカは死ぬことにした』
 内容、文章共にとても読みにくいですが、奥が深いです。
○ 著『ばら盗人』
 浅田次郎はいろいろ好きですが特にこのなかの「ひなまつり」が好きです。
山根裕作 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○ 著『ベオウルフ』
 イギリス最古の抒情詩。韻文で書かれた英雄物語。韻文特有の雰囲気と、英雄物語の高潔な空気が面白い。
○ 北杜夫『楡家の人々』
 北杜夫の傑作。未だ読みつづけながらその凄さは十分に伝わってくる。
○ 『アーサー王の死』
 英雄の代名詞の一、アーサー王の栄枯盛衰を描いた本。
○ 『フルメタル パニック』
 人気ライトノベル作品、学園SFミリタリーラブコメディと、一体何なんだか解らない様なはちゃめちゃな作品ですが、好きなので挙げてみました。
オススメ図書 トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』訳・実吉捷郎
サローヤンの『空中ぶらんこ』同様、文学を目指す人は必読。この作品を知らずして文学を語るなかれ。作者の自叙伝風作品だが、「芸術と生活、もしくは芸術家と人間という対立が、ここではきわめて率直に、さまざまな角度から、さまざまな濃淡をつくして、照らし出されている」(訳者1951年)是非、読んでください。
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2007年、読書と創作の旅・提出課題・愛読書アンケート
○ 『リング・ラセン・ループ』
 これが流行した頃は恐ろしすぎて近づきませんでした。大学にも入り精神肉体共に成熟した今なら大丈夫だと思って読みました。大丈夫だと思っていた。
○ 白夜行 文庫
 今、読んでいるぶ厚い本を読めば知的だと思った。
○ 『逃避行』
 表紙がめっち可愛らしい犬だったので買ってみた。犬は素晴らしい。実家でも犬を飼っているが彼もまた非常に可愛らしい。正直日本で五本の指に入る可愛らしさだと思っている。多少頭は悪いがむしろその分容姿がいい。トイレの場所を未だおぼえていないが、変な場所にトイレをしちゃつたときの「失敗したっ!テヘッ!」って感じのかおがまたカワイらしい。
こちらが怒るとションボリと反省するのだがそれが本当に反省している顔でその辺りは変にかしこい。洋式のドアの開け方をいつのまにか理解していたりする。侵入した部屋にあった化粧品を食べる。やはりバカ。うちの犬は犬のくせに熱にも寒さにも弱い。夏はせんぷうきの前でグッタリしているし冬は親のふとんに入っていっしょに寝る。時々オレのふとんで寝る。冬の散歩は歩かない。だっこされている。試しに地面に置くと数歩だ歩いたけで動かなくなりプルプルしながらだつこをせがんでくる。それがまたかわいらしくてかなり弱々しさっていうのはかわいらしさの一つだと思うのだが、彼はときたま~
○ 『ポケット怪談』
 怖い話は好きだが、恐い。だが恐くない恐い話も嫌い。超短篇が収録されているこの本は、そんなわがままな人間のニーズに答えてくれる。見事に。
名作案内
5月の詩「谷間に眠るもの」
 新緑がまぶしいこの季節になると、この詩を思い出す。5月の光が燦々と降り注ぐ谷間。青葉しげる泉。詩人がそこにみたものは・・・・。『ランボオ詩集』金子光晴訳
アルチュール・ランボオ(1854-1891)37歳没 第一詩集(1870-1872)に収録。
 この詩の背景は普仏戦争。ランボー16歳、家出を繰り返していた時期。普仏戦争とは
普仏戦争1870年~1871年
プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位。パリでは共和制の国防政府が樹立され抗戦を続けたが、1871年パリを開城して敗戦。フランスはフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ(アルザス・ロレーヌ地方)の大部分を割譲、賠償金50億フランを支払った。戦争終結直前の1871年1月8日、プロイセン王・ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一が達成された。
プロイセン・フランス戦争、独仏戦争とも。(HP)
普仏戦争と名作
 戦争は、いつの時代でも悲惨で忌むべき出来事である。が、不幸な中に幸いを見つけるとすれば、この戦争を材料にした、多くの名作が生まれたことである。『月曜物語』「最後の授業」のアルフォス・ドーテ(1840-1897)、短篇「二人の友」「母親」などのギ・ド・モーパッサン(1850-1893)が、そうである。
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2007年、読書と創作の旅・提出課題「車中観察」
ある一日(いちじつ)の中央線
山根裕作
 電車というものは、東京近郊に住む者にとって欠かせぬ物である。網の目のように張り巡らされた鉄道網を把握するのは、都会人にとってもはや義務とさえ言えるだろう。
 都内に住む私は、毎日の通学に電車を利用している。初めての電車通学は高校生の時で、大学に入ってからもその習慣は続いていた。
 今朝もまた、眠い頭を引っ張りながら益のホームに向かう。目的地方向の電車が来ていたので駆け足で階段を昇った。全身オレンジに塗装された車体を確認して、次いでホームの電光掲示板に目をやった。映っていた文字は『武蔵小金井』だった。
 それを認めた途端、膝の力が抜け落ちて危うく階段から転げ落ちそうになった。電車は行ってしまった。気を取り直して最後の二段を踏みしめながら、「構うものか」と、流れ出す車体に毒づいた。自分が向かうのは国分寺駅。その一歩手前の武蔵小金井で止まられても仕方がなかった。ホームのベンチに腰かけながら次の電車を確認する。黒色のボードに橙色の文字で『大月』と映っていた。大月は国分寺の更に先にある駅で、当然国分寺にも停まる。だから次の電車に乗ればよいのだ。
 ベンチに腰を落として瞼を閉じる。眠るためではなく、むしろ目を覚ますため、頭に余裕を持たせるべくまったりと休んでいた。
 しばらくして目当てのの電車がやって来た。銀色の車体にオレンジ色の線模様が上下に一本ずつ、計二本横向きに伸びていた。中央線の電車なのに、あたかも山手線電車の如き姿だった。先のオレンジ一色電車とは外装内装ともに違っていた。
「あら、今日は新車ですか」
 少し前から中央線には数本、新しい電車が走っているのだ。外見の違いは言うまでもなく、しかしナカミの造りはもっと顕著だった。象徴的なのが車内扉の上に設置された二つの液晶モニターである。右のモニターには次の駅や路線情報が表示され、左の方には様々なニュースやコマーシャルそして暇潰し用の動画が流れていた。そこで流れる一分間英会話や豆知識クイズなどが案外面白かったりする。しかし今はそういったこと雑事には目もくれず空いている席に腰をおろした。
 先程よりは幾分マシになったとはいえ、まだ頭の覚醒率は七割といったところか、いつものように電車の中で本を読むほどの気力はなかった。恐らくはもうしばらくすれば目も覚めるので、乗り換えた後の車内で読むとしょうか。再び瞼を閉じて、浅く眠っているような、しかし確かに意識のある、半覚半睡状態で時を過していた。そんな状況だったが故、あまりはっきりとは覚えていないのだが、三鷹駅か、いや恐らく武蔵境駅のあたりで車内の空気が変わった。それまでは割かし閑散としていた車内に妙な活気が湧き出して来た。
 何事かと思い、うっすら瞼を開けると、車壁の白と座席の青にあうツートンカラーだった車内が、黄やらピンクやら様々な色で溢れかえっていた。小学生の大群が押し寄せて来たのである。全員がリックサックを背負っていたり、視界の端に先生とおぼしき保護者の姿が見えたことから、どうやら遠足らしいと推測を建てた。
 普段であれば「元気でよろしい」などと思うところだが、いかんせん頭が重く沈んでいるこの体調にあっては、子供達の話し声はこの上ない騒音でしかなかった。必死で耳蓋を閉めて耐え抜き、ようやくのことで目的の国分寺駅到着の知らせが右のモニターに映った。
 駅のホームに差し掛かり、席を立って扉の前に移動すると、またしても障害が発生した。小学生の一団が扉の前をびっしりと占拠していたのである。ことここに来てこの仕打ちをされては、もはや我慢の限界である。これはもはや注意するしかない。などと心の中で憤りを表すが、そこは現代人。思うだけで実際の行動には移らなかった。
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 電車が止まり、扉が開くと、小学生の一団が何やら騒つき始めた。
「ここで降りるの?」
「え?ここなの?」
「他の子は降りているよ」
「降りろ降りろ」
 どうやら一団もまた、この駅で降りるらしい。しかし当人達はいまいち確証がない様子で、扉の前を塞いだまま慌てふためいていた。
 そんなこんなで時は刻一刻と進んで行く。 こうしている間も入り口の占拠は続いていて、いつ扉が閉まってしまうかもしれないという焦りが徐々に頭を埋め尽くしていった。
 果たして一団はとっと流れ出す様に出て行き、自分もその流れに次いで駅に降りた。
 最近の子供は・・・・・・などと考えつつ、自分の小さい頃はどうだったのかを思い出して、結局閉口してしまった。
□ この車中観察は、大きく分けて三つの観察を行っています。一つは電の車両観察。いつもの電車と新しい電車である。二つ目は、「雑事には目もくれず空いている席に腰をおろした。」とあるように車内の自分への観察。そうして、三つめは、乗り込んできた一連の小学生の観察に当てられている。最後だがこちらが本文となっている。小学生のうるささがよく観察されている。
世界名作観察・追記 前回の名作紹介で追記がありました。
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
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2007年、読書と創作の旅・提出課題「一日の記憶」
普通の一日を記憶する
昼夜転換
山根裕作
 ゴールデンウィークとは、この時期になると映画館の客入りが増えることからつけられた業界用語が元だという。つまり、この時期の皆々は外に出掛けるということだ。
 気だるい体を起こしてベッドの下に手を伸ばす。そこに置いてあった携帯電話を確認すると既に三時を回っていた。無論、十五時のことである。
 昨夜も遅くまで原稿と睨めっこしていた・・・なんて言い訳は見苦しい。如何に遅く寝ようとも、起きる気があれば起きられる。それが人間というものだ。事実昨夜だってそのつもりで布団に入ったのだから、起きられなかった時点で何も終わりなのだ。
 学校のある日であれば何とか起きられるのだが、こう休みに入ると朝日は目覚まし足り得ないから不思議だ。ベッドから降りて風呂場へのそのそ歩いていく。朝シャン・・・というには遅すぎて、昼シャンにしても時間がおかしいが、ま何でも良いか。
 シャワーからお湯を出して頭から浴びる。眠気眼は未だ半開きで、意識があるのかないのか自分でも怪しかった。今この時が「夢です」と言われても「ああ、そうか」程度にしか思わなかっただろう。
 頭を洗う前にまず歯を磨く。寝起き時はこの歯のザラザラ感が気になって気持ち悪かった。それが終わると次は頭を洗った。体は手で申し分け程度にこするだけにした。
 風呂場から出て体を拭きながら、今日は何をしょうかと考えて、原稿の締切が真っ先に頭に浮かんだ。明日も起きるのが遅くなりそうだ。
一日を記憶することの意味
 水のように流れていく日々。そのときは、なんでもない一日であっても、日が過ぎるにつれて貴重な記憶となります。1492年8月3日金曜日、ピンタ号は出帆した。目指すは「黄金の国」ジャパン。提督ドン・クリストーバル・コロンの胸は希望に燃えて高鳴る。この歴史的偉業を残さんとバルトロメー・デ・ラス・カサス神父は単調な航海の日々を記録した。
 以下は、その単調な一日が歴史的一日となったのである。(西欧人にとってだが)
1492年10月11日 木曜日
 西南西へと航走したが、海は、この航海中かつてなかったほどの荒れようであった。・・・提督は夜の10時に、火が燃えているのを船尾のやぐらから見たが、かなり曇っていたので、陸地だと確信するのをためらった。・・・しかし、提督はたしかに陸地に近づいていると考えた。・・・上陸してみると、青々した樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督は、二人の船長をはじめ、上陸した者達を、・・・を呼んで、彼がいかにこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の目前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。(大航海時代の西欧人の横暴さがよくあらわれている)・・・そこへ早速、この島の者達が大勢集ってきた。・・・彼らは利巧なよい使用人となるに違いありません。・・・私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。・・・私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発する時には、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れて行こうと考えております。・・・。
             (『コロンブス航海記』から)
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5・7ゼミ報告
5月7日(月)連休明けのゼミは、次のように行いました。
5名の同行者、決定!
 「2007年の旅」同行者が5名となりました。遅れてきた旅人は、金野幸裕君です。北海道は北見の出身。笑顔が爽やかな若者です。ゼミ教室一番乗りでした。
 ほぼきまった同行者です。この一年、
無事の旅を祈願して、写真をとりました。    記念撮影
6名全員で。敬称略・順不動
 茂木愛由未
(もてぎあゆみ)   
 疋田祥子
(ひきたしょうこ)
 山根裕作
(やまねゆうさく)   
 髙橋享平
(たかはしきょうへい)
 金野幸裕
(こんのゆきひろ)
司会進行は、疋田祥子さん
 
 この日の司会は、疋田祥子さんにお願いしました。疋田さんは探検部に所属していて、海外はむろん日本国内でも自転車旅行に挑戦していると聞きました。そんなところから冒険心ある司会ぶりが感じられました。進行、配分、決断力ともよかったと思います。
 司会進行で難しいのは、客観性と決断力です。テレビなど見ていると、熱くなってつい我を忘れてしまう司会者を見かけます。決断力は、話こんでいる人の話をどこで遮るかということです。また、黙っているが、本当は意見や感想を言いたいのだ。そんな人をみつける洞察力も必要です。この一年の旅のなかで、そうした力が身につくよう心がけましょう。
 
愛読書紹介
 前回、提出のあった髙橋享平君、茂木愛由未さんが、最近、読んで面白かった本、これから読みたい本を紹介しました。高橋君の南方熊楠紹介では、彼が、どんなに熊楠に夢中になっているかわかりました。ただ惜しむは、一時に沢山の紹介をしてしまうところです。話題が多いと、聞き手の関心度が薄れてしまうこともあります。対照的に茂木さんは、少し言葉が足りませんでした。いまどんな本が、が、もう一つ見えないところがありました。
名作読み・全員
 
 読む本はたくさんあります。自分の好みの他に、世界の名作を読んでいきます。この日は、アメリカの作家サローヤンの処女作『空中ぶらんこに乗った大胆な青年』を読みました。作家を目指す人は、サローヤンの作品を読んでみましょう。
『網走まで』解説読み 途中まで
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2007年、読書と創作の旅・テキスト考
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
 
連載4   学生と読む志賀直哉の車中作品(加筆)
土壌館・編集室
『網走まで』を読む
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
北海道について
 話は前後になるが、前回、時間がきてゼミでテキスト読みに入れなかったので、網走ではなく北海道について、志賀直哉がどのように思っていたのか、想像してみた。明治時代というか、いつの時代でそうだが、文学を志す人は、ほとんど東京に向いていた、といってよいだろう。石川啄木も宇野千代も、『五重塔』の幸田露伴もみんなそうだ。幸田露伴について、HPの検索から抜粋すると、このように書いてある。
16歳の時、給費生として逓信省電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任。坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。しかし明治20年(1887年)、職を放棄し逃走、免官の処分を受けた。そのため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で井原西鶴を愛読した。明治22年(1889年)、北海道の赴任先から帰京した露伴は、「露団々」を起草し、寒月を介して「都の花」に発表された。これが山田美妙の激評を受け、さらに天王寺をモデルとする『五重塔』『風流仏』などを発表し、作家としての地位を確立していく。この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉、坪内逍遥、森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。
 志賀直哉は、北海道をどのように考えていたか。戦後、一人で旅したときの様子から、おそらくほとんど関心はなかった、と推測する。
 
三、なぜ「日光」か
 宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)
 冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。このころ華厳の滝は、
「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所に
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もなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。
 国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ずるだけだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。
 それでは『網走まで』とは、どんな物語か。すじらしいすじはないが簡単なあらすじは、およそこのようである。
 夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いところなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわいそうだ。という思いの方が先に立った。「網走」という地名に、草稿では、熊がでる、ジミチではない連中が住むところ、という印象を持っている。
この幸薄い母子のために私は、何ができるのか。(全人類の幸福のために小説を書く)という私だが、できることはよれたハンカチを直してやることと、頼まれた葉書を出してやることぐらいだった。作者のやさしさが感じる作品。だが、作者の若さをも感じられる作品でもある。同情した。かわいそうに思った。だから葉書を見てもかまわない。そんな自己満足が垣間見える。(「同情するなら金をくれ」テレビドラマでこんなせりふがあった。人間社会の現実である。が、主人公はまだ知らない。まだ甘ちゃんなのだ)
          次回につづく
志賀直哉年譜(『網走まで』の)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。
1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。
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2007年、読書と創作の旅・お知らせ
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. 4月23日(月)ゼミ雑誌編集委員2選出。責任者・高橋亨平君、全員。
2. 6月上旬 ゼミ雑誌作成ガイダンス。ゼミ誌編集委員は必ず出席してください。
    ○ ゼミ雑誌作成についての説明。○ 申請書類の受取り。
  【①ゼミ誌発行申請書】を期限までに提出してください。
       提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。題名など。
4. 7月下旬、夏休み前、編集委員は、原稿依頼し、締め切りを決める。
5. 9月末 夏休み明け、編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は、印刷会社を決める。印刷カイシャから【②見積書】を 
  もらい料金を算出してもらう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷カイシャと、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.78――――――――12 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、高橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(事実でも想像でも可)=高橋亨平(1)山根裕作(1)
□ 一日を記憶する(事実でも想像でも可)=高橋亨平(1)、山根裕作(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第222回「読書会」
月 日 : 2007年6月16日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 村野和子氏 作品『白痴』第二回目
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年5月19日土曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 長瀬 隆氏
題 目 : 未定                 関心ある人は下原まで
出版
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
山下聖美著『ニチゲー力』目下好評発売中!!
清水 正著『萩原朔太郎と』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えて
ゲンダイ文学であり続ける。 
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
☆冊子観察「賢所」「写真を読む」の感想は、紙面の都合で次号に掲載します。

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