文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.309

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)4月17日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.309

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

4・17下原ゼミ

 

 

社会観察  2017年度の車窓、不安と不明の世相、しっかり観察を

 

真冬から常夏、常夏から真冬。そして、花に嵐のたとえありの風雨。なんとも極端に変化した今年の春の天気である。桜も、さぞ困っただろう。この気温を反映して社会も世界規模で落ち着かない出来事がいまもつづいている。テロに怯える欧州とロシア。極右政党の台頭への不安。東アジアは、緊張する朝鮮半島。有事がいつどこであっても不思議ではない緊迫状態。日本では、東西で役所の不明出来事が連日のニュースになった。(だいぶ、あきられてきたが)東京では、都知事交代騒動からはじまった築地市場移転問題が。大阪では、教育者を名乗る怪しげな夫婦が、首相夫婦を巻き込んで連日国会と世間を騒がせている。いずれも日本特有の「忖度」から起きた出来事のようだ。

そしてまた悲惨な事件が起きた小学三年生の女児が登校途中に不明となり殺害された。犯人は、保護者会の会長で毎朝、通学路に立って登校する子供たちを見守っていた人物。犯人にも同年代の子供がいるという。なぜ、どうしての問いしか浮かばない暗い事件。

新年度は、こんな不安で不明な世相の中ではじまった。人間は、未来を変えることはできない。が、しっかり観察することで予防することはできる。

熊谷元一研究

 

建物 → 会地小学校

場所 → 長野県下伊那郡

会地村(現阿智村)

撮影者 → 熊谷元一

月日 → 1953年4月1日

正面の二階建てが会地小学校

右の平屋は小学校体育館

左は、中学校体育館

 

 

 

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文芸研究Ⅱ    「読むこと」「書くこと」の習慣化

 

はじめに「読むこと」の一環として、読書はなぜ必要かを考えてみます。それについて、近代日本の教育基礎をつくった嘉納治五郎(1860-)の教えを紹介します。

志賀直哉は、学生だった学習院時代、柔道に夢中だった。が、そのときの師範は、嘉納治五郎の一番弟子の富田常次郎(作家・富田常雄の父親)だった。ということで、柔道において志賀直哉は、嘉納治五郎の孫弟子にあたる。

 

読書はなぜ必要か  嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介

 

15 精読と多読

『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)

精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝(けげん)に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免(まぬが)れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(あずまかがみ)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝(さら)しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠(おこた)らない

ようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。

 

※東鑑(吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録)

※頼山陽(1780-1832 江戸時代後期の儒者・史家 著『日本外史』『日本政記』など)

※ホメロス(前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など)

※カーライル(1795-1881 著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など)

※ウエリントン1769-1852 (ナポレオンをワーテルローで破った)

 

健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。

 

読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。

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どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。

さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。

 

次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。

 

つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。

 

世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。

 

鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。

 

 理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。

 

 そのためには・・・・・

 

さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。

 

※テイシ兄弟(北宋の大儒 著『定性書』1032-1085)

 

書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さす

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れば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。

 

 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。

 

ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為

されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。

 

しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。

 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもな

い。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。

 

一作家のものが万有を網羅することはない。

 

 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。

 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉

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(しょうりょう)(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読となるに至ってその幣が極まるのである。

 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。

 

以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれに好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深く、かつ小説の神様といわれる志賀直哉の作品をテキストとするしだいである。

(編集室)

 

テキスト処女作の三部作を『網走まで』『或る朝』『菜の花』

 

テキストは、車内観察『網走まで』、生き物観察『菜の花と小娘』、「一日を記録する」の『或る朝』を読みます。

『或る朝』について

志賀直哉の処女作三部作の一つ『或る朝』は、明治41年(1908)正月執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)

1月13日 月

朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事

1月14日 火

朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。

この〈非小説 祖母〉が「一日を記憶する」の『或る朝』の原形とみられる。そのへんのところは「創作余談」でこのように語っている。

27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年の歳月を経て。

 

※ 一日のなかでどんな些細なことでも書いてみる。書いたときは、ただの日記だが、あとで手の入れ方しだいでは文学作品となる場合もある。『或る朝』は、その見本。

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テキスト『網走まで』について

『網走まで』を読むにあたり

 

小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。

かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。

そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。

小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。

1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。

しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石ころである。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。

では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。

『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

 

テキスト関連作品読み・『三四郎』

 

『網走まで』は先々週、完成作品を読んだ。この頃、時を同じくして発表された作品がある。前半が車中観察になっているので、取り上げてみた。夏目漱石の『三四郎』である。

『網走まで』と『三四郎』。両作品の対象点、類似点をあげてみた。

○『網走まで』は、草稿末尾に「明治41年8月14日」と執筆月日が書いてある。

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作者、志賀直哉は25歳、小説を書き始めたばかりの、まったく無名の青年。

この作品の主人公は、上野から宇都宮まで行くために乗車したが、同乗の北海道まで行

く母子を観察し同情を寄せている。主人公の私は『三四郎』と同じくらい。秘められた

政府の政策批判。女との接点は、純情ハンカチを直してやる。模索。

○『三四郎』は、同じ明治41年1908年に書かれ9月1日から朝日新聞に連載。作者の夏目

漱石は、このとき41歳。すでに『我輩は猫である』の大ヒットで流行作家に。前年には

一切の教職を辞して朝日新聞社に小説を書くために入社。世間を驚かせた。九州から東京

に向う希望に燃えた書生。同乗の女。男。こちらは、その子持ちの女に誘われるというき

わどい場面もある。政府批判は、はっきりとでている。読者を意識した作品。

 

書くことの実践

 

動物随想            メジロ

下原敏彦

今年の元旦のことだ。2017年、年は明けたが、いつもの朝とかわりがない。明日二日、親戚が集まって新年会を開くというので、息子と娘一家は、それぞれ自分たちの正月をすごしていた。息子たちは、孫たちを連れ、同じ船橋市内にある嫁さんの実家へ行った。成田にいる娘一家は、香取神宮を初詣したあと、小見川の夫の実家に行った。

そんなわけで我が家は、いつもの老夫婦二人、年賀状を待つだけの新年となった。昼ごろ、その年賀状も配達され、見終ると、あとはなにもなかった。昨夜からのテレビにもあきたので近くにある八幡神社にお参りすることにした。この神社は、小さな神社で、参拝客も少ない。除夜の鐘以外は、行列もないので無精者にはお手軽な神社である。支度をして外に出る。お天気はよく風もない穏やかな午後だった。まさにお参り日和である。八幡神社は、閑静な住宅街を20分ほど歩いていったところにある。通行人は、初詣から帰る人、これから行く人がまばらに歩いていた。

道場に寄って去年の破魔矢を持って向かった。車の往来は少なかった。ガードレールの外側を歩いていた。アスファルトにひびが入り、ところどころはがれたりして凸凹になっていた。無意識に危ないとみたのか、視線を足元にやって歩いていた。そのとき道路にできた穴ぼこの中に緑色が見えた。なんだろう…瞬間、布切れと思った。が、次の瞬間、小鳥とわかった。車にぶつかったか、踏まれたか、死骸とみた。酉年早々に小鳥の死骸。しかもよりによって初詣に行く途中に目にしてしまった。縁起でもない。こんな考えが瞬時のうちに私の脳裏を駆け巡った。そして、つぎにこんな考えも…このまま放置すればだれかに無残に踏まれるか、猫の餌になるのは必至。どこか他の場所に置いてやろう。私は、とっさに手を伸ばし拾いあげた。同行の妻は何かに気をとられていてまったく気がつかなかった。驚いたことに小鳥は温かかった。いま死んだばかりか。そんなふうに思えて、素早くジャンパーのポケットにいれた。妻には、言わない方がいいと思った。死んだ小鳥を持っていたと知れば、何を非難されるかわからない。汚い、不潔だからはじまって私が殺したことにもなりかねない。ここは黙って、処分した方がいいとおもったのだ。あとはどこに捨てるか。せめて、死に際のよいところに。そんなことを考えながら歩いた。

ところが、私は、そのあとすっかり忘れてしまった。八幡様は、いつもよりにぎわっていたが、参拝はすぐに終わった。並んで参拝するのも嫌だが、こうあっさりも何かものたらない。ありがたみがなく味気ない。そんなだらけた気持ちがあっのでいきなり

「何をお願いしたんですか」と聞かれても、とっさに思い浮かばなかった。

「あれ、何だっけ。忘れちまった」

「ボケたんじゃないんですか。何のためにきたのかわかりゃあしない」

妻は、腹立たしそうに言った。

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そのとき小鳥のことを思いだした。ポケットに手を入れてつかんでみると、まだ温かかった。それに手の中でぴくぴく動いた。

あれ、まだ、生きている ! 私は、喜ばしい気持ちになって、ポケットのなかで小鳥を軽くにぎりしめていた。家に着くと、玄関で

「変なもの拾ったよ」とつかみだして妻にみせた。

「いやだ ! なんなの、それ」彼女は、顔をそむけながら見た。

「小鳥だよ。まだ生きている」

「どうして黙っていたの」彼女は、眉をひそめてなじった。

「正月早々、縁起悪いだろ。酉年の初詣に鳥の死骸だなんて」

「そうね」妻はしぶしぶ同意しながらも聞いた。「なにかたべるかしら」。

「スズメだったらアワとかお米だが・・・」

ミカンを切ってやると、よく食べて元気になった。もしかすると、小鳥は餓死寸前だったのかも知れない。小鳥は、インコより小さく野鳥のようだ。野鳥は、飼うことを禁止されているが、放しても生きていけるか心配である。しばらく我が家で飼うことにした。

それにしても酉年の元旦、初詣の途中で青い鳥を拾う。2017年、世間は、世界も日本もいろんな問題で不安ばかりだが、この小鳥が「青い鳥」になってくれたらと願う。

あの日から三カ月と半月、小鳥は新しい鳥かごのなかで元気にさえずっている。小鳥は、パソコンで検索したらメジロと判明した。この出来事を、新聞の投稿文規定の550字内でまとめてみた。

 

【土壌館創作道場】

 

決められた字数で観察したこと、身の回りで起きた出来事をまとめてみる。

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いま小鳥を飼っている。元旦の朝、近所の神社に参拝に行く途中、拾った。はじめ死骸かと思った。酉年に縁起でもない。踏まれないところにと手にとると温かった。せめて命あるまでとコートのポッケに入れた。家に帰ってみるとまだ生きていてミカンをつつきはじめた。そのうちパタパタと部屋の中を飛び回るようになった。古希になった老夫婦に愉しみができた。ところが先日、臨時に作った手製の鳥カゴから逃げた。妻が日光浴させようとベランダに出したとき隙間ができたようだ。

妻は「元気になって、よかったね」といいながらも残念そうだった。小鳥が逃げた夜、風が強かった。妻は、好物のミカンを外のあちこちにおいて回った。あんな小さな生き物でもいなくなると寂しかった。

翌朝、部屋の中で小鳥の鳴き声を聞いた。テレビからだと思った。が、耳をすますと玄関からだった。探すと小鳥は、天井の電気の傘の中にいた。逃げたとき外ではなく家の中にまいこんでいたのだ。出入りの多い玄関。チャンスは何度もあったのに丸1日逃げずにいた。「青い鳥」の話を信じたくなった。暫く飼ってみようと鳥カゴを買った。

嫌なニュースの多いが毎朝、さえずりに癒される。

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熊谷元一研究  最新情報  提供者 = 飯田市 鈴木藤雄様

 

「地元で発行の小雑誌に熊谷元一先生に係わる記事が掲載されましたのでお届します。」

冊子『あいなび』2017 4 ― 6 で紹介

ありがとうございました。 「下原ゼミ通信」編集室・下原敏彦

 

 

 

 

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熊谷元一研究      新資料発見!! 熊谷と柳瀬正夢

 

熊谷元一に関して新しい資料がありました。ドストエフスキーの会の知人(池田和彦氏)から、コピーが送られてきました。

この本のなかに熊谷元一の名をみつけたとのこと。本書下が、その場面である。

ありがとうございました。(「下原ゼミ」編集室)

 

 

いま、わたしの机の上には、二冊の『柳瀬正夢画集』があって、それぞれにきざまれた歴史を示してくれている。その一冊は背表紙の上下が破損し、かろうじて背文字だけが読み取れるぐらいに読み回されたものである。・・・・・・

ページの角は手垢にまみれて幾重にも折れ、この画集が人から人に手渡されて読まれたことがうかがえる。この画集の持ち主は信州伊那谷で代用教員の傍ら童画の勉強をし、借りもののカメラを手に山村の日常を記録しはじめていた熊谷元一という青年教師だった。飯田中学校を卒えて代用教員となった熊谷青年の前には、繭価の暴落にあえぐ伊那谷の山村がひろがっており、以来60年、熊谷元一さんは伊那谷の変貌をカメラで撮りつづけてきたカメラマンだが、その青春期に、『柳瀬正夢画集』は現実を映しとるテキストの役割を果たしたことがページの

汚れに示されている。

 

 

 

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熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮る。

 

1938年(昭和1329歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

1939年(昭和1430歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係の根が消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

西組は原房子先生18歳。

 

1953年(昭和2844歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

1955年(昭和3046歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

 

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

 

1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

現在100万部のロングセラー

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

 

1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

 

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.309 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

ゼミ誌について

 

題 名  → 『熊谷元一研究 No.4 』とします。

 

掲載作品 → 課題提出されたもの

(テキスト感想、自分の一日、車内観察、社会観察など)

岩波写真文庫『一年生』感想、私が選ぶ写真5~10点(コメントつき)

自由創作

 

ゼミ合宿 → 南信州 Or 軽井沢 = (一泊二日)

 

南信州(高速バス4時間半) 熊谷元一写真童画館の見学

満蒙開拓平和記念館見学(昨秋天皇両陛下訪問で注目)

温泉と日本一の星空見物

軽井沢(新幹線2時間) 日本大学保養施設

マラソン朗読会(恒例の)作品ドストエフスキー

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

 

ドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年4月29日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』三回目

米川正夫訳『ドスト全集12巻(河出書房新社)』 他訳可

報告者  : 報告者・石田民雄さん & 司会進行・熊谷暢芳さん

 

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

 

※  連絡090-2764-6052下原

 

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.4.17  名前

 

  1. 愛読書の紹介 (足らなかったら裏面を使用してください。)

 

 

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  1. なんでない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

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