文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.310

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)4月24日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.310

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

4・24下原ゼミ

 

 

ゼミ観察  2017年度も下原ゼミⅡは、少数精鋭で

 

この2、3年、下原ゼミは、受講者が激減している。以前は、毎年10名は下らなかったが、3年前いきなり3名に落ち込んだ。原因は、熊谷元一研究のようだ。作家をめざして、せっかく日芸にきたのに、無名のよくわからないアマチュア写真家の研究などはじめたくない。そう敬遠するのが人情だろう。「シラバスを変えれば」とアドバイスしてくれる人もいる。が、出来ぬ相談である。熊谷の作品には、いまの日本人には、必要なものがある。懐かしい気持ちを呼び起こすものがある。志賀直哉をテキストにした「書くこと」の習慣化と、熊谷元一研究で学ぶ観察と継続力で、いまの混沌とした社会に光を送りたい。今年も少数精鋭になりそうだが、未知への扉を開けようとする動機。そこにこそ学ぶ意義がある。

 

熊谷元一研究 一年生を撮る

 

春の野に遊ぶ

 

撮影地 → 会地小学校裏山

場 所 → 長野県下伊那郡会地村(現阿智村)

撮影者 → 熊谷元一(44歳)

月 日 → 1953年4月

被写体 → 西組担任(原房子)と子どもたち

正面右に見えるのは城山公園

昭和28年度(1953)、会地小学校は1年から6年まで11学級。総児童数464人。教員14名

熊谷は東組を原房子(18)は西組を担任する。一年生は69名(男子44名、女子25名)

東組、西組合同で小学校の裏山によく登った。

女の子たちの服装、原先生の髪型。時代を表している。

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.310 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

講師自己紹介

 

古希を過ぎてしまった70余年の歳月ですが、どの年代もパッとしません。特急で履歴を追えば車窓に映るのは、このような人生でした。

・1947年、長野県に生まれる。

・1965年、地元の高校を卒業。地元の国大受験するも失敗。

・このころ創設された平和部隊(海外技術協力隊)を目指して日大(農獣医学部=現・生物資源科学部)に入学。復活した拓植学科(現・国際地域開発学科)。主任教授の「美しい花を植えよう海の外」の呼びかけに魅せられて。教養過程は一年間神奈川県藤沢。柔道部に入部。竹橋の毎日新聞社で住み込みのバイトしながら下馬の校舎に通う。4年のとき日大紛争。

・アジア無銭旅行(カンボジアで農業することに決めるがクーデターで帰国)。バイトしながらカンボジアに戻る資金づくりに励む。が、インドシナ紛争は激化。諦める。

・業界紙の記者をしながら人生の目的を探す。ドストエフスキーを読み、衝撃を受ける。世の中に、こんな小説があるのか?! なにか書きたい。なにか読みたい。そんな衝動にかられた。記者を辞め立川の下宿に移り住む。(それまでは池袋雑司ヶ谷にいた)貨物駅で働きながら図書館通いで「読むこと」に挑戦。散歩で知り合った沖縄の作家との交流。この作家は、いまも立川に住んでいるとのことだが、40年近くあっていない。

・ドストエフスキーの会に入会。例会、読書会に参加するようになる。会員の佐伯康子と結婚。千葉県船橋市に引っ越す。息子と娘の子育てに追われる。息子は小学校に入ったとき、近くにあった柔道の道場に入門。高齢の道場主だったので、昔取った杵柄で師範代を引き受ける。が、道場主、突然引っ越す。オンボロ道場を置いてゆく。地代が安かったので地主と話し合い、子どもらがいるあいだつづけることにした。大雪で倒壊寸前だったが、2002年、日本テレビが番組で直してくれた。結局それで現在まで30余年つづいている。

・「書くこと」について迷う。小説は、いくら書いてもゴミ。自分が知っていることから書いていくことにする。戦後すぐの信州の山奥の村。電化製品は電球とラジオしかなかった時代の出来事。いま雪が降ったりすると、思い出すのは、部落の大人たちと、うさぎ狩りにいったことである。子供にとって遊びは、人生のスタート。いまは、いろんな遊びがあります。が、最初の遊びは、忘れがたいもの。名作映画『市民ケーン』もそれがポイントとなっている。大富豪で新聞王、この世の欲しいもの全てを手に入れた彼が臨終においつぶやいた言葉「バラのつぼみ」、それは何か。子供のころ遊んだ雪ぞりの名前だった。で、その話、「ひがんさの山」を書いた。

※「ひがんさの山」は、私が25、6歳のときの作品。ある出版社に持ち込んだのですが、多分、体のよい断りだったのか。「簡潔な文体はいいのですが、もう少し直して持ってきてください」と指導された。親切だったが、かえってどうでもいいように思えて、なにか面倒になってしまいそのまま押入れの奥にしまいこんだ。そのころ、近くに住んでいたある作家と深夜の街を徘徊していた。彼は、「これはいいよ」と励ましてくれたが、彼自身、壁に突き当っていた。芥川賞の賞金も使い果たし、また同居の女性にも逃げられていて、それどころではなかった。で、「ひがんさの山」作品は、そのまま化石となった。

10年の後、ファミコンで遊ぶわが子を見て、子供時代が懐かしくなった。探し出し書き直したが、もはや陳腐なものに思え再び押入れに。また10年の後、郷里の新聞社が郷土に根ざした作品を募集しているのを知った。思い出し応募した。今度は採用された。が、たいして話題にはならなかった。2004年、それまで書いたいくつかの短編とまとめ『伊那谷少年記』と題して出版した。忘れていく子供時代の思い出を残したかったからである。

20年近く日陰にあった作品だが、本になったら注目されることもあった。平成20年に埼玉県が、21年には、大阪府が、公立高校入試問題作品として採用した。四谷・大塚はじめ進研ゼミ、旺文社、ベネッセなどの「過去問研究」に収録されはじめた。2010年には東筑紫学園高等学校が入試問題として採用した。

―――――――――――――――――― 3 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.310

文芸研究Ⅱ    「読むこと」の習慣化

 

車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。

夫 婦         志賀直哉

函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。

家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。

私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。

その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。

玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)

日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。

 

(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)

この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。

※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように夫婦の絆をとらえ描いている。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.310 ―――――――― 4 ―――――――――――――

 

世界名作紹介 読むことの習慣化

 

名作読み サローヤン短編(大恐慌時代の青春)

アメリカの青春文学といえば、代表として何年か前91歳で亡くなったサリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(1951)をあげる人が多いと思う。僕という一人称ストーリーが受けて真似た作家もいた。旧くは『赤ずきんちゃん…』で芥川賞を受賞した作品や、いま『騎士団長殺し』で話題の村上春樹の『風の歌を聞け』もそうだ。

しかし、サローヤンのこの短編も捨てがたい。『ライ麦』より知名度はないが、文学を目指す青年にとっては、『空中』の方がより私的衝撃が強いに違いない。ここにはトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』に匹敵するものがある。現在の日本の作家は、文学修業時代がない。最初に書いた作品が賞をとると、そのあと、いきなり作家としてデビューする。漫画家や漫才師は、それなりの修業時代があるようだが・・・。この作品は、大恐慌時代の文学青年のある一日。

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃である。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。

「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など

作品は、次のようなものがある。

【ハヤカワNV文庫】に収録

『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。

【新潮文庫】サローヤン短編集

『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。

【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』

『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。

 

★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。

 

 

 

―――――――――――――――――― 5 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.310

 

書くこと の習慣化を目指して

 

土壌館・実践的投稿術 No.12

文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。

もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。

土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。

 

オンボロ道場の悩みをまとめてみた。

 

 

2000年(平成12年)4月2日 日曜日 朝日新聞

 

町道場の灯を支える教え子

一人でも通ってくる子供がいる限り、減り続ける町道場の灯を消すまい。そんな思いで柔道を続けてきた。

しかし、年々少なくなる生徒の数。築三十年の老朽化した道場は、雨が降れば雨漏りの、風が吹けばトタン屋根の、稽古中はでこぼこ床の心配が絶えない。それだけに修理代もバカにならず、地主との契約もある。こんな状況に限界を感じ、道場をたたもうかと迷っていた。

そんなとき職人風の若者が訪ねてきた。十数年前に通っていた生徒だった。社会に出てか

らやめてしまったが、また稽古したくなったとのこと。私が現状を話すと、見るまでもない

が、彼は道場のオンボロぶりにあきれながらも「自分が直しますから」と申し出た。

かつての生徒は大工になっていた。先日の日曜日、彼は材料を車に積んでやって来た。棟梁の父親も一緒だった。息子の心意気をかって、協力したいと言った。

親子が一日がかりで根だを取り替え、床を張り替えた。「近くに柔道が出来る場所がないと困りますから」。若者は言った。「そのうち屋根も直しましょう」。屈託のない笑顔が頼もしかった。続けられる限り。そんな勇気がわいてきた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.310 ――――――― 6 ――――――――――――――

 

読むこと テキスト紹介 志賀直哉作品(1883-1971)

 

処女作三部作『網走まで』『或る朝』『菜の花と小娘』

 

『或る朝』について

 

志賀直哉の処女作三部作の一つ『或る朝』は、明治41年(1908)正月執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)

1月13日 月

朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事

1月14日 火

朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。

この〈非小説 祖母〉が「一日を記憶する」の『或る朝』の原形とみられる。そのへんのところは「創作余談」でこのように語っている。

27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年の歳月を経て。

 

※ 一日のなかでどんな些細なことでも書いてみる。書いたときは、ただの日記だが、あとで手の入れ方しだいでは文学作品となる場合もある。『或る朝』は、その見本。

 

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

 

『網走まで』について

 

○『網走まで』は、草稿末尾に「明治41年8月14日」と執筆月日が書いてある。

 

作者、志賀直哉は25歳、小説を書き始めたばかりの、まったく無名の青年。

この作品の主人公は、上野から宇都宮まで行くために乗車したが、同乗の北海道まで行

く母子を観察し同情を寄せている。主人公の私は『三四郎』と同じくらい。秘められた

政府の政策批判。女との接点は、純情ハンカチを直してやる。模索。

○漱石の『三四郎』は、同じ明治41年1908年に書かれ9月1日から朝日新聞に連載。作者の夏目漱石は、このとき41歳。すでに『我輩は猫である』の大ヒットで流行作家に。前年には一切の教職を辞して朝日新聞社に小説を書くために入社。世間を驚かせた。九州から東京に向う希望に燃えた書生。同乗の女。男。こちらは、その子持ちの女に誘われるというき

わどい場面もある。政府批判は、はっきりとでている。読者を意識した作品。

―――――――――――――――――― 7 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.310

 

熊谷元一研究     熊谷元一年譜 年譜で知る熊谷元一

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮る。

 

1938年(昭和1329歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

1939年(昭和1430歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係の根が消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

西組は原房子先生18歳。

 

1953年(昭和2844歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

1955年(昭和3046歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

 

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

 

1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

現在100万部のロングセラー

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

 

1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

 

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.310 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

ゼミ誌について

 

題 名  → 『熊谷元一研究 No.4 』とします。

 

掲載作品 → 課題提出されたもの

(テキスト感想、自分の一日、車内観察、社会観察など)

岩波写真文庫『一年生』感想、私が選ぶ写真5~10点(コメントつき)

自由創作

 

編集長 → 島袋美咲さん

 

ゼミ合宿について 実施…人数複数名 南信州 Or 軽井沢

 

南信州(高速バス4時間半) 熊谷元一写真童画館の見学

満蒙開拓平和記念館見学(昨秋天皇両陛下訪問で注目)

温泉と日本一の星空見物

軽井沢(新幹線2時間)    日本大学保養施設

マラソン朗読会(恒例の)作品ドストエフスキー

3名は、必要

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

 

ドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年4月29日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』三回目

米川正夫訳『ドスト全集12巻(河出書房新社)』 他訳可

報告者  : 報告者・石田民雄さん & 司会進行・熊谷暢芳さん

 

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

※  連絡090-2764-6052下原

 

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.4.24  名前

 

  1. 現在、興味あること (足らなかったら裏面を使用してください。)

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

  1. なんでもない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  1. 岩波文庫写真集『一年生』に想ったこと

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑