文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.311

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)5月8日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.311

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

5・8下原ゼミ

 

 

憲法問題観察    日本国憲法施行70年

 

熊谷元一研究の一環としてすすめている「一年生」は、まさに日本国憲法の申し子。昭和22年(1947年)生まれである。この70年、日本国憲法と共に育ってきた。この平和憲法のおかげで一度も戦争にまきこまれることも、戦争を引き起こすこともなかった幸せな世代。が、いま日本国憲法は、改憲か護憲かの岐路にある。日本の最重要課題となっている。

・憲法が施行された5月3日の朝日新聞・読売新聞。両紙は、真っ向対峙している。

たとえば朝日新聞は社説で「この歴史への自負を失うまい」と護憲意思を表せば、読売新聞は「自公維で3年後の改正目指せ」と、改正に意欲をみせている。

・興味をもって読んだ特集記事は朝日のオピニオン&フォーラム「日本国憲法の運命」で長尾龍一さん(日本大学非常勤講師・東京大学名誉教授)の《憲法を考える》である。

〈軍国主義から開放 国民は制定に感激 保守本流も「追認」〉と題し

「日本国憲法は、一度も改正されずに施行70年を迎えたそれはなぜか」の問いにこのように答えている。(抜粋 2017.5.3 朝日新聞12オピニオン欄参照)

――直接的には、国民の3分の1以上が護憲勢力に投票し続けたからですが、制定当時の国民に強い感激をもって受け入れられたという事実が大きい。個人を極端に粗末にした軍国主義下に生きてきた日本人は、憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)などの言葉に接して、救いと光明をみました。

しかし、総理大臣安倍首相は、改憲・2020年施行を表明した。

首相「9条に自衛隊明記」2017.3.4朝日新聞の1面見出しは、こう伝えている。

ちなみに改憲の目玉になる9条とは何か。

 

1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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書くこと・課題報告    課題「愛読書はどんな本ですか」

 

私の一冊     永井荷風『墨東綺譚』の衝撃      島袋美咲

 

『墨東綺譚』/永井荷風 彼について、この本について私は多くを知らない。ただ、この本を読んだ時に小説家を目指していた私は思った。私には、もう何も書くことがないか。書く必要がないか。彼がこれを書いたなら、私にとって『墨東綺譚』はそんな作品だ。

「お雪」らしき下記写真 撮影者は永井荷風本人か

永井荷風、本名壮吉は明治12年(1879年)12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2丁目)に長男として生まれている。その父永井久一郎は文部省の官吏で、若かった荷風をアメリカ、フランスに遊学させた人だが、弟に久満次がいた。やはり官吏で台湾総督府に勤めた男である。この久満次は永井家から大島家に養子に入り、長男一雄をつくる。一雄が私の実父である。一雄は長唄の師匠。この父が、26歳年長の本家の荷風と仲が良かった。

永井永光

永井荷風は大正6年9月16日、37歳のときから昭和34年4月29日(80歳で死ぬ前日)まで、41年と7カ月あまり1日も休まず日記を書いた。20代から30代にかけて小説執筆には励んだが、生活そのものはきわめて気ままで放蕩に過ごした。

『あめりか物語』『ふらんす物語』

『花火』『腕くらべ』『おかめ笹』

 

荷風のある日の記録を読む 『断腸亭日乗』より

 

昭和16年(1941)12月8日といえば、世界はむろん、日本人にとって忘れることができない日である。62歳、還暦を過ぎたばかりの荷風は、この日のことをどのように記録したか。既に予期していたのだろうか。あまり緊張感が伝わってこない。

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□「褥中(ふとんのなか)小説浮沈第一回起草。晡下(夕方)土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となる。街頭商店の灯は追々に消えゆきしが電車自動車は灯を消さず、省線はいかにや。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄色い声を張り上げて演説をなすものあり。1941年12月8日記す。

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『私の墨東綺譚』を読む 安岡章太郎著 新潮社 1999.6.25

 

文芸研究Ⅱのゼミをはじめて十数年たつ。この間、多くの作品に触れてきたが、ゼミ生から愛読書は、永井荷風の『墨東綺譚』と聞いたのは、はじめて。

この作品には、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を彷彿させるところもある。それ故、なんとなく気になっていた。作家の安岡章太郎も愛読書にしていたようで、こんな本を残している。本欄で少しずつ紹介していくので、読んでいきたい。但し、既に読まれている場合は、再読でも没でもかまわない。

 

一、美的リゴリズム

 

「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない」

永井荷風の小説『墨東綺憚』は、そういう一行から始まっている。

これは私たち大正生まれの世代の者には、何の説明も要しないことだろう。しかし、この小説が新聞に連載された昭和12年の頃となると日常会話では専ら「映画」という言葉が使われるようになり、仮に若い男女が、次の日曜日に「活動写真を見に行かない ? 」などと言ったとすれば、笑顔になっただろう。

しかし荷風が《活動という言葉は、既にすたれて他のものに代えられているらしいが、(略)わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる》と言っているのは、若干の誇張があるだろう。とくに「廃語」はおかしい。

なぜなら「活動」という言葉は、昭和4年、私が小学3年生の頃までは、まだ、生きていたからだ。当時、童謡のレコードに「茶目子の一日」というのがあって、一日の終わりには家族揃って活動見物に出掛けることになる。そこに女の子の「活動写真はおーもしろい、

弁士が妙な声をして…」という歌が入るのを、私は未だにハッキリと覚えている。

昭和4年(1929)といえばアメリカでは大恐慌が起こった年であり、映画は無声からトーキーに切り換わったところだ。その頃でも、わがくにには万事アメリカのものが、2、3年遅れて這入ってくることになっていて、映画館では弁士が舞台の傍らで大声を張り上げ無声映画のセリフを声色を入れてやっていた。その当時は確かに「映画」ではなく「活動」が一般的な呼び方だったのだ。やがてオール・トーキーと称するものが続々と大量に輸入されて即ちサイレント映画を制圧すると、弁士も和洋合奏の伴奏の楽隊も姿を消した。しかし、そうなってからも、まだ活動写真という言葉は残っていた。それが完全に払拭されたのは多分シナ事変が始まって、ニュース映画が大変な人気となりもあちこちにニュース専門の映画館が出来るようになったからである。

ところで、『墨東綺譚』は昭和12年4月16日から6月15日まで連載された。その年の7月7日にシナ事変が始まるのだから、まさに大戦前夜の作品といえる。ということは『墨東綺譚』が新聞に連載されていた頃「活動写真」という言葉には、まだ幾許かの余命が残されていて、明治の前半に生まれた人で「エイガ」などと言う老人は滅多に居なかったように思う。それを殊更「廃語」と呼ぶのは、荷風独特の美意識、ないしはスネ者の自己憐憫から出たものであろう。荷風は映画という言葉だけでなく映画を見るのも嫌だったしい。これも厳格に保守的な美的リゴリズムのせいであろう。ただ後年オペラ座の楽屋に出入りするようになってからは、この保守的な美学にもかなりの変化があったらしく、踊子たちに誘われると映画館にも時には足を向けるようになり、昭和18年にはショパンの伝記映画「別れの曲」を見て、何十年ぶりに聞くフランス語のセリフに、思わず暗涙を催したといったことを日記の中でも述べていた。

しかし、これは別段、荷風の頑固な美意識が軟化したことにはならないだろう。むしろフランス語を久しぶりにきいて涙ぐんだというような話は、昭和18年ともなると荷風の日常生活も、物心ともに、いかに激しく窮乏してきたかを考えるべきであろう。早い話が、いま

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のように誰もが簡単に外国に行けるようなら――むろんそれでも荷風がパック旅行でパリやリヨンに出掛けるとは考えられないことだが――映画館の暗闇の中で涙ぐむことなど一層想像も出来ない話だ。どんな場合にも、反時代的態度をくずさないのが、荷風生来の基本的姿勢だからである。 次回は、《二、の「白鳥の歌」》

 

下写真は、活況を呈する浅草映画街(昭和7年12月)毎日新聞社提供

安岡章太郎著『私の「墨東綺譚」』まえがきから

 

永井荷風の小説で、私が最初に読んだのは『おかめ笹』である。その内容はあらためて私が説明するまでもない。『腕くらべ』と並んで、花柳小説として荷風の代表作とされるものだ。蛇足をいえば『腕くらべ』は、明治以来一流の花街とされてきた新橋の芸者を描いたものだが、『おかめ笹』は大正に入って急激に発展した山の手の富士見町、白山といった、当時は三流の遊興地を舞台にしたものだ。そこで働いているのは

《貧民窟から周旋屋の手に狩出されて女工にあらざれば芸者と先天的に運命の決まっている女の一人である》と荷風はいう。その貧しさを赤裸々に述べたてたこの文章は、現在なら早速差別的だとして、ジャーナリズムその他から大いに糾弾の的にされたであろう。

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□荷風「断腸亭日乗」より 1941年12月9日記す

くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより近隣物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々(しょうしょう)たり。

 

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熊谷元一研究 『墨東綺譚』同時期の熊谷元一 28歳、無職青年に光明

 

 

1879年(明治12)生まれの永井荷風と、1909年(明治42)生まれの熊谷元一とは、年齢差が30ある。荷風が『墨東綺譚』を書き始めたのは1937年、昭和12年6月。58歳、永井は、すでに押しも押されぬ小説家の大家となっていた。

熊谷元一は、どうだろうか。このときの熊谷は、28歳、無職で無名の山村の一青年だった。画家を目指しながらも童画において、ようやく芽をだしはじめていた。しかし、3年前、勤め始めた小学校で赤化事件にまきこまれた。それが理由で、退職に追い込まれた。

教師という職を得て落ち着いて絵画の道に取り組もうとしていた矢先だった。熊谷は、やむなく郷里の山村に帰り、家業のそば店を手伝いながら悶々とした日々を送っていた。

この年の7月、遠く中国の盧溝橋で戦争の発端となる大事件が起きた。やがてくる大戦争への足音。暗い先のみえない世の中がはじまろうとしていた。

しかし、その暗雲を他所にその時期熊谷には、彼の将来を決定する大きな幸運が近づきつつあった。人間万事塞翁が馬。

信州のある山村の宿場町。そこに住み画家を夢見る無職の一青年。彼に近づいてきた幸運とは何か。カメラとの出会いである。その出会いは熊谷の人生を大きく好転させてゆく。

時に世の中は、風雲急を告げる時勢であった。熊谷は、郷里をでて、より広い動乱の世界にとびこんでいく。絵筆ならぬカメラを手に。

 

【この時期の熊谷元一の記録と世界の出来事】1933~1937

地獄から一転、天国への道

 

□昭和8年(1933)24歳 2・4の赤化事件に連座し(歓迎会と思った。本人)、小学校退職、郷里会地村に帰る。以後童画を描き、家事を手伝う。生活に苦しむ。

・世界の出来事 3月日本、国際連盟脱退

□昭和9年(1934)25歳 童画の師、武井武雄から「かかし」の写真を送ってくれと頼まれ、カメラを借りてはじめてシャツターを押す。

下記は「かかし」の写真撮影を頼む武井氏からのハガキ。9月18日付

「この頃武田氏(童話作家)を写真班として自転車で、近郊の案山子集めに歩いています。もう130程に達しました。伊那谷の特産のがお手に入った節に何卒お願いいたします」

・世界の出来事 3月満州国帝政実施

□昭和10年(1935)26歳 版画をはじめる。カメラに魅力を感じる。

・世界の出来事 8月政府国体明徴の重大声明

□昭和11年(1936)27歳 6月パーレットの単玉を17円で求め試写。毎日村をまわり、村人の生活を写す。「板垣鷹穂氏の「芸術界の基調と特潮」の中の「グラフの社会性」に深い感銘を受ける。」(『三足のわらじ』)写真の一部を板垣氏に送る。

・世界の出来事 1月日本ロンドン軍縮会議脱退、2・26事件 11月日独防共協定調印

□昭和12年(1937)28歳 送った写真が板垣氏に認められ『アサヒカメラ』2月号に評が載る。写真について自信がつき、村内を写しまわる。応召への心配。

・世界の出来事 7月7日盧溝橋事件、日支事変はじまる、11月日独伊三国防共協定調印、

日本軍南京占領(市民虐殺疑惑)

□昭和13年(1938)29歳 2年間写した村の写真、1500枚のなかから600枚を引き伸ばし写真集を作り、板垣氏に送る。これが朝日新聞社に紹介され、写真集『会地村』が12月に出版された。山村の一青年が、いきなり時の人となりメディアの表舞台に登場。

・世界の出来事 3月第12回オリンピック、カイロ会議で東京に決定 5月日本国家総動員法成立、10月日本軍広東占領

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熊谷元一研究   最新熊谷元一情報 地元発信 !

 

地域情報誌『あいなび』2017  VOL.56 4-6

阿智村出身の写真童画家 熊谷元一さん

 

独自のまなざしで描かれた 伊那谷の暮らしと子どもたち

 

伊那谷の山々を背に、子どもたちがたわむれる在りし日の風景…熊谷元一さんの描く絵には、ほのぼのと見る人の心を和ませる魅力が詰まっています。

 

《おすすめの2作品》

 

『じいちゃの子どものころ』冨山房インターナショナル 1800+税

熊谷さんが子どもの頃に親しんだ遊びや地域に伝わる風習が絵と文で綴られています。大人が読んでも楽しい、心温まる一冊です。

『二本のかきのき』熊谷元一写真童画館 500+税

渋柿と甘柿、二本の柿の木の一年を四季の移ろいとともに描いた作品、柿の白い花は首飾りや帽子飾りに、落ちた葉、青い実は遊び道具に、子ども目線を交えて描かれています。

※4歳から小学校初級向き。ロングセラー100万部

 

熊谷元一研究に関連したメール

 

「資料拝受しました」法政大学国際文化学部(高柳俊男教授)2017・5・3

 

熊谷元一に関する資料を、いつもありがとうございます。
さっそく、学部資料室につくる「飯田・下伊那文庫」に収めさせて
いただきました。

添付の記事は、すでにご覧になっているかもしれませんが、最近の
信毎に載ったものです。
「東京の信州」以外にも、「埼玉の信州」でもかまわないそうで、
いつかこの欄で熊谷元一のことを取り上げてもらうのはどうかと
思っています。

ちなみに、執筆した前野聡美記者は、この春まで飯田支社にあって
とくに満蒙開拓に関してきわめて精力的かつ情熱的な報道を続けてきた
方です。
この春の異動で、東京支社勤務となり、在任中にいろいろ面白いことが
できるのではないかと相談しています。

3月に阿智村で開催されたイベントに出向いたら、原佐代子さんと偶然
一緒になりました。
村議になられた感想を伺ったら、これから議会で質問があって、ちょっと
緊張する旨、話されていました。

 

※原佐代子(熊谷元一写真記念館職員・熊谷の教え子)

 

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城島徹(毎日新聞社編集委員)2017216

阿智村の記念館は伊那谷の中国帰国者(子どもの頃に一家で日本に来て、苦労して中学の英語教師になり、今は小学校教師をしています)の知人らと訪ねました。

読むこと・世界名作  テキスト『にんじん』読み4・24ゼミから

 

「読むこと」の習慣化の一環として前回4・24ゼミからジュール・ルナール(1864-1910)の『にんじん』訳窪田般彌を読み始めた。

『にんじん』は、劇化されたことで世界的には、よく知られている。が、作品が読まれているかもというと、そうでもないらしい。「案外知らない人が多い。

この物語は、家族観察の物語である。が、多くの謎がある。ユーモラスに描かれているが、深刻な問題が潜んでいる。毎ゼミで、志賀直哉作品と併せて読み進めながら、「にんじん家族」にある謎を考えてゆきたい。

前回読んだ「めんどり」と「しゃこ」から、にんじん家の家族構成がだいたいわかったと思う。この一家は、郊外に住む5人家族。父親のルピック氏はセールスマン。一軒家で畑もあり家畜も飼っている。(ニワトリとうさぎ)番犬もいる。女中さんもいる。フランスでは、中流上の家庭か。

 

書くこと・課題報告 なんでもない一日の記録

 

本で溺れ死ぬ夢をみた朝       島袋美咲

 

もしかしたら、彼らには見えていないものが私には見えていて、それらが日々、私を脅かしているのだとしたら困った事実だ。積み上げられた本は、天井を突き抜ける。本で溺れ死する夢を見た朝に、チャツカマンで家中の本に火をつけてしまおうかと、指をかけた。だが、燃やしたところで消滅はしないのだと、逃げられはしないのだと、悪魔が囁く。逃げたいと思うことは、生きたいと思うことに似ている。だから私は明日も机の上に積み上げられた本のページをめくるに違いない。(4・24提出)

 

□本で溺れる夢。頼もしい限りですね。

 

花と小鳥              編集室

 

5月6日 飼っていた小鳥が突然死んだ。前々回、この欄に書いたが、今年の元旦、初詣にいく途中、拾ったメジロだ。拾ったとき死骸かと思ったが生きていて元気になった。酉年の元旦に青い鳥を拾う。縁起がいいと喜んでいた。実際、老夫婦の我が家は明るくなったような気がした。毎朝、小鳥の鳴き声に起こされるのが楽しみだった。夜になると、妻は「ぴーちゃん、そろそろ寝る時間よ」といって鳥かごに布をかけていた。長らく医学図書館で専門書物を相手にしていた妻だが、小鳥の世話に老後の生きがいを見つけたようだった。

それがこの日の午後、4時を回った頃。台所で料理の下準備をしていると、「ぴーちゃん、どうしたの ! 」突然、妻の悲鳴。なにごとかと駆けつけると、小鳥は止まり木で逆さ吊りになっていた。あきらかに変だ。手にとっても羽ばたこうとしない。少し前まで楽しそうに鳥かごの中で飛び回っていたのに。一体どうしたのか。水をやると、それが末後の水となった。4か月と6日いただけに寂しく残念だった。夜、団地中庭のぼたん桜の樹の下に埋めてやった。死因は何か。思い当たるのは、つつじの花をたべさせたことだ。ここ何日か、公園から花どろぼうしていた。小鳥は、喜んでつついていた。花も小鳥もはかない命。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.311 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

 読むこと テキスト紹介 志賀直哉作品(1883-1971)

 

処女作三部作『網走まで』『或る朝』『菜の花と小娘』を読む

 

『或る朝』について

 

志賀直哉の処女作三部作の一つ『或る朝』は、明治41年(1908)正月執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)

1月13日 月

朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事

1月14日 火

朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。

この〈非小説 祖母〉が「一日を記憶する」の『或る朝』の原形とみられる。そのへんのところは「創作余談」でこのように語っている。

27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年の歳月を経て。

 

※ 一日のなかでどんな些細なことでも書いてみる。書いたときは、ただの日記だが、あとで手の入れ方しだいでは文学作品となる場合もある。『或る朝』は、その見本。

 

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

※  連絡090-2764-6052下原

 

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.5.8  名前

 

  1. 日本国憲法について (足らなかったら裏面を使用してください。)

 

 

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  1. なんでもない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

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3. テキスト感想(足らなかったら裏面を使用してください。)

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・にんじん

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・或る朝

 

 

 

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