文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.312

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)5月15日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.312

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

5・15下原ゼミ

 

 

学生観察   五月病の季節、  ※五月病は1968年に生まれた言葉

 

連休が終わると、大学では心配なことがある。毎年だが、学校に来なくなる学生が多くなるとのこと。これは、近年に決まった現象ではないが、最近、私の身の回りで、とみにそんな話を聞いたり、実際に相談をうけたりする。

むかし私のゼミでも、どうしても学校に来られなくなってしまった学生がいた。携帯口でも、メールでも「明日は行けそうです」と告げてくるが、朝になると部屋からでられない。2年生のときはほとんど休むこともなかったし。ゼミ合宿にも行って、7時間のマラソン朗読会でも完走した。そんな彼がなぜ、不登校になったのか。人間は謎である。神秘である、と言ったのはドストエフスキーだが、彼の場合、その後、頑張って卒業できた。

卒業式の日、「人生は長いからゆっくりやろう」そんな言葉を送った。これはよい例だが、悪い例もある。知人の一人息子は理工系の難関大学に合格した。歳いってからの子どもだっただけに、喜びもひとしおだった。それなのに1年でやめてしまった。親はまったくわからないが、本人いわく理由は、自分に合わないとのこと。

最近、相談された知人の息子も、やはり理工系だが、1年生のときは希望に満ちていた。将来の夢は、数学教師。実現可能だった。私は、小学校の頃から彼を知っている。元気で明るくスポーツマン。家族もよく知っている。両親と子ども二人。なんの問題もない家庭。彼とは、ときどき顔を合わして話をしていた。まったくいつもと変わらなかった。なんの兆候も感じなかった。それだけに大学を辞めたいと聞いても、意外に思った。とても本当とは思えなかった。しかし、彼は、もう退学届をだしたという。そういえば私も中退である。

 

社会観察 ゼミ観察 ―― 5・8ゼミ報告 課題報告

 

文芸研究Ⅱ――  安岡章太郎『私の「墨東綺単」』(2.白鳥の歌)読み

志賀直哉『網走まで』読み 前後の物語の創作

『にんじん』読みと考察、

「遠い日の町」青春時代観察読み バルザック『谷間の百合』

熊谷元一研究 ―― 熊谷元一最新情報

『藝術界の基調と時潮』六文館 1932 発見 グラフの社会性」(1)

第一回毎日写真賞記事紹介

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.312 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

文芸研究Ⅱ

 

島袋編集長 → ゼミ誌ガイダンス報告

 

5・8ゼミⅡ報告

 

・島袋美咲「なぜ永井荷風かについて」を語る。高校時代に邂逅。

命日4月30日に雑司ヶ谷にある墓に墓参りに行ったことなど。

 

・安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (1.美的リゴリズム)

作品発表の昭和12年(1937)前後の時代をみる。大戦前夜の時代。

1933(国際連盟脱退)、1934(満州国帝政実施)、1935(政府国体明徴声明)

1936(ロンドン軍縮会議脱退、2・26事件)1937(7・7盧溝橋事件、日中戦争)

熊谷元一(24~28歳)影から光への青春時代。失職、生活苦、そしてカメラとの出会い。

 

・志賀直哉『或る朝』を読む。処女作三部作の一作 1908年作、発表1918年

「はじめて小説を書けたような気がした。」

 

・ルナール『にんじん』を読む。家族観察

「めんどり」「しゃこ」「失礼ながら」の謎について

(1)母親ルピック夫人は、なぜ「にんじん」にだけきびしいのか。

(2)兄、姉、父親、母親の「にんじん」の性格の理解度

(3)この話はほんとうか?

 

課題報告

 

  1. 現在、興味あること    私を鏡写した存在       島袋美咲

 

永井荷風の「歓楽」を最近よく読む。永井荷風がとても好きなのだと云うと、私のイメージからか相手から、どうして ? と聞き返されることが多々ある。それを説明するには、あまりにも人生は短いとしか答えられない。数ある作家の中で一番尊いと感じるのは、彼なのだ。一文一文に私は震えあがるのだ。ひどく彼が私を鏡写した存在であるから。

 

□青春時代の読書を思いだします。永井荷風は別のことで気になったことはあるが、それ以上にはならなかった。ドストエフスキーの後だったせいかも。あるいは佐藤春夫の『田園の憂鬱』か。あるいは北條民雄の『いのちの初夜』か。

 

  1. なんでもない一日の記録    雑司ヶ谷参り       島袋美咲

 

私の誕生日がもう一つ夜を越えれば、彼の命日になる。雑司ヶ谷にある永井荷風の墓へ出向いた。静かな場所に墓はあった。ここに彼はいないだろう。しかし、それは彼が生きていた時だって同じはずだ。

 

□雑司ヶ谷は、私の青春時代の1コマがある。東池袋の木造アパートの6畳一間に数人の友人たちと住んでいた。まだ文学が遠かった時代。が、彼らとはいまも花見したり、お伊勢まいりしたりしている。

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  1. 岩波写真文庫『一年生』に想ったこと    憧憬     島袋美咲

 

憧憬を感じた。時代を色濃く写したフイルムだ。映像は、写真は、文学は、その時代(世界)の空気を閉じ込められるものだと誰かが言っていたのを思い出した。

 

□1953年(昭和28年)この時代のタイムカプセルだ。が、普遍なのは、なつかしさがあるからだと思う。老若男女、時間も人種も超えたものが、この写真集にはある。

 

5・15ゼミⅡ

 

世界観察   フランス大統領選とバルザック『谷間の百合』

 

注目されたフランス大統領選挙は、エマニエル・マクロン氏に決まった。39歳、史上最年少だという。公約にEU改革、「欧州を守る。市民と欧州の関係を紡ぎなおす」をかかげていたが、メディアの関心は別のところにあった。奥さんのブリジット夫人との年齢差に世界が驚いた。朝日新聞も5月9日付の「天声人語」に、こんな感想を寄せている。

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(略)▼そのフランスで、25歳以上の妻をもつ大統領が生まれた。(略)高校1年生のとき、ブリジットさんと出会った。40歳の文学教師だった。演劇部の顧問として脚本指導を受けているうち親しくなったという。▼結婚したのは10年前、ブリジットさんが前夫との間にもうけた3人の子に謝意を伝えた。(略)選挙戦を通じ、二人の年齢差はしばしば揶揄の対象ともなった。(略)▼激しい選挙戦を夫婦は二人三脚で乗り切った。演説の言い回しや縁談でのふるまいにも助言を続けた。彼女と出会わなければ、いまの彼はなかったのでは、よどみないマクロン氏の勝利演説を聞きながら、ひとり想像した。5・9「天声人語」から

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歳の差結婚は、そう珍しいものではない。ロシアでは驚くに値しないし、世界文学をみればいくらでもある。『あしながおじさん』しかり『ジェーン・エアー』しかり、『高慢と偏見』しかりである。ただこんどのフランスの大統領夫妻と決定的にちがうのは、ほとんどの物語は、男性が年上で女性が年下という構図である。ドストエフスキー作品の登場人物も、そうした歳の差恋が特に多い。日本でも芸能界の世界にはよくある。しかし、女性の方がはるか年上となると、ほとんどきかない。(外人プロ野球選手が同級生の母親と結婚したという話が、以前に一度だけあったが、それだけである。)映画『卒業』は、似たような構図だが、セクシー過ぎて純愛のイメージがわかない。

フランス大統領夫妻のニュースをきいたとき、頭に浮かんだのは、バルザック(1799-1850)の名作『谷間の百合』(1836)河内清訳(角川書店)である。パリの社交界で活躍するフェリックスが恋人ナタリーに送った長い長い手紙。そこに書かれていたのは、フランストゥールの谷間で死んでいったアンリェツトとの思い出だった。

歳の差婚を乗り越えられなかった悲恋物語だが

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「たってのお望みとあらばやむをえません。愛するよりもずっと多く愛されている女性の特権は、何事につけても良識の掟を忘れさせてしまうことです。略 今日あなたは私の過去を知りたいとおっしゃいました。ここにそれを送ります。

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ではじまる、長い長い書簡物語。モリソォフ夫人(アンリェツト)とフェリックスは結婚することはできなかったが、彼女のアドバイスは、社交界で大いに役に立った。マクロン氏とブリジットさんの恋も、そんな恋だったのだろうか・・・。

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安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む

 

前回「1.美的リゴリズム」を読んだ。風変わりな性格の持ち主だが、そこが魅力と感じる読者もいる。5・15は2の「白鳥の歌」を読む。なぜ安岡はそう感じとったか。

 

  1. 白鳥の歌

 

荷風が『墨東綺譚』の腹案成る」として執筆にかかったのは、昭和11年9月21日、またそれを脱稿したのは、同年10月25日、つまり一月あまりで書きあげている。枚数は400枚詰原稿用紙にして105枚ぐらいであろうか。筆の運びが、いかに円滑、かつ迅速であったかがうかがわれる。

と同時に、これは腹案の段階で小説が十二分に練りあげられており、頭の中では、すでに一編の物語が出来上がっていることを示すものでもあろう。

昭和11年に2・26事件、5月には安部定のいわゆる局部切り取り事件の起こった年である。2・26は、当時の陸軍中枢部を上げてのクーデター計画であって、その実行者・犯人とされる青年将校のほか、廃語にどれほど大きな勢力が動いていたかは、いまなお正確には分かっていない。それほど大規模な事件であった。戒厳令がしかれ、九段下の軍人会館が戒厳令司令部になって、剣付鉄砲の衛兵が二六時中あたりを睥睨して立っていた。

しかし、戒厳令よりも実際に国民を脅かしたのは「統帥権の干犯」という一見不可解な言葉だろう。要するに、軍人は憲法を含むあらゆる法規の埒外にあって、総てを統師する権限があり、これを妨げることは許されないというわけである。

これに較べると安部定の事件は、実際は虐げられた女性の哀れな犯行というべきだろうが、世間ではこれを陽気で滑稽な事件としてとらえ、局所だの局部だのという言葉が流行語になった。浅草の芝居小屋で、女が登場して手真似で「ちょん切るぞ」と言いさえすれば、それだけで客席はドッと沸いた。つまり当時の世態はそれほど暗く、人心は捨て鉢になっていた。その頃、荷風がしきりに玉の井の私娼窟を訪ね、興に乗って迷路を探り歩いたのも、そういう世相に一脈通じる気分があったからであろう。

別段、玉の井にこれといった期待や、情欲を掻き立てるものがあったとは思えない。同じ荷風でも『腕くらべ』を書いた頃とは、そこに大きな違いがある――。《目下執筆中の腕くらべも来月分の処けんのんにて書直しの要あり閉口致し候、過日朗読致し候「襖の下張」なぞは出し得べき時節ならず、腕くらべ思うさま書きて自費出版せんかとも存居候》(大正6年、井上唖々宛書簡)とあるように『腕くらべ』は検閲のきびしさを嘆きながら、何とか愛欲の場面を一層濃艶に描くべく血気さかんな意気込みをみせているのに、『墨東綺譚』になると、そんなところは全くない。もっぱら過ぎ去った時代への郷愁と、移りかわる季節の変化を、自らの身体になぞらえながら切実な思いをこめて書きとめているのである。

『腕くらべ』は、第一次世界大戦のさなか、日本は出兵せず高みの見物だけで、未曾有の好景気に沸き返った頃に書かれたものだ。一方、『墨東綺譚』はそれから二十年後、第二次世界大戦勃発の前夜ともいうべき頃に、その危機感を時代背景としながら書かれている。女主人公も『腕くらべ』の駒代が新橋で引く手あまた人気役者を色にして器量も押し出しもいい芸者なら、『墨東綺譚』のお雪の方は川向うの藪蚊の唸る湿地で小窓から顔をのぞかせる私か子に過ぎない。だが何よりも『腕くらべ』の荷風はまだ30代の末期であったが、『墨東綺譚』は既に60歳になりかけての作品である。その差異は行間にもありありとうかがい知られる。

それなら『墨東綺譚』は、『腕くらべ』に較べて劣っているかといえば、決してそんなことはない。白鳥は死ぬまえに一際美しい声でうたうという。とすれば『墨東綺譚』は矢張り荷風の白鳥の歌というべき作品であろう。次号につづく(3は「朝日での連載」読み)

 

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テキスト志賀直哉処女作三部作『網走まで』『或る朝』『菜の花と小娘』とルナール『にんじん』読みと考察。(『或る朝』は5・8ゼミで読み済み。)

 

5・15ゼミは車内観察として、『網走まで』を読みます。他に『にんじん』

 

テキスト『網走まで』について

『網走まで』を読むにあたり        編集室

 

小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。

かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。

そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。

小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。

1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。

しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石ころでしかない。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことだ。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかは、はたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。

『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。

『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

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熊谷元一研究

最新情報    熊谷27歳のとき感銘を受けた本、見つかる !!

 

所蔵・日本大学芸術学部図書館所蔵。おんぼろ状態で発見借入。返却後に修復が必要。

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき出会ったのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だという。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けた。写真の一部を板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。

熊谷が深い感銘をうけた「グラフの社会性」とは、何か。その章を紹介する。

 

「グラフの社会性」1931・12・14-16 東京朝日新聞学芸欄

 

1

かつて、小説と映画との間にその社会的優位性を比較する議論が、日本の文壇を賑わしたことがあった。言葉を透して表現される藝術よりも直接のイメージによって校正される藝術の方が、より現代的である――という意向が、この機会に繰り返し説かれた。故平林初之輔や大宅壮一氏などは、映画の優位性を主張する側の人達であった。そして、それに対して、小説の使命を複雑な心理描写に認める岡田三郎氏や、消費的な形式について小説と映画との差異を主張する中村武雄氏などが、独特の社会的優位性を小説に強調する人達であった。

けれども、この問題に満足な回答を興へ得るためには、映画と小説との各々の藝術的特質や両者の間の影響関係を、もっと詳細に分析しなければならない。そして、例えば、同じ、「言葉」を表現手段とする藝術の中で、過去の小説と現代の小説との間に見出される形式上の相違を注意したり、現代の社会生活とブルジョワ・ヂャーナリズムとの聯関する関係を解剖したりすることが、是非とも必要なのである。

然し、これらの分析を別としても「現代の特質」を理解する上で特に興味を惹く著しい現象は、現代藝術に対して直接間接の影響を映画が興へていることと、現代人の理解力が特に映画的に訓練されていることとである。

断るまでもなく、映画の表現中に聯覚的要素が摂取されて、本来の視覚的要素との間の構成関係がきわめて複雑化し特殊化された現状としては、他の一般藝術にその具体的な影響を看ることはできぬであろう。けれども無音映画時代の、文字とイメージとの組み合わせから成る形式は、社会生活上の一般的な表現技法として、既に普及しきっているといえる。

そこで、この新しい表現方法を応用してヂャーナリズムに一新生面を開く試みが「グラフ」として誕生し定期刊行物に流行しはじめた。そして、現代の時間的に切りつめられた生活を営んでいる読者は、簡潔明快に内容の表現されているニュースや、世相の断片の手際よいモンタージュによる「現代社会の横顔」にグラフ形式の便利さと面白さとを痛感しているのである。

スペインの革命、ニューヨーク株式取引所の混乱、ドイツの経済的恐慌、上海の暴動等の

ニュースから、ソヴェト五カ年計画の現状、ハリウッドの新流行、東京の消費的生活などの

プロフィールまでを、個別的に、あるいは、社会的機構の性格描写として組み合わせながら、どんなに目新しい試みでも考案することができる。グラフの持つヂャーナリズム的効果は、かかる表現技法の自由さにあるといえよう。(つづく 次号は2です)

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1955年 昭和30830() 第一回毎日写真賞決定を報じる毎日新聞の

新聞記事 (一面中記事)

 

第一回毎日写真賞決まる

 

本社では近年とみに重要さを増してきた写真文化の一層の発展に役立てるため、毎日十大文化賞の一つとして、昭和30年度から「毎日写真賞」を設定しました。これは年度内に発表された藝術、報道、観光、学術など各部門を通じて、最もすぐれ、しかも社会に貢献したと認められた写真に贈られるものですが、このほど慎重選考の結果、第一回(昭和29年4月~昭和30年3月)の毎日写真賞を次の通り決定しました。(選考経過、受賞者紹介、推薦のことばは、第二面に掲載)

 

 

長野県下伊那郡会地村小学校教諭

 

熊谷元一氏「一年生」(岩波写真文庫)

 

――賞碑ならびに賞金10万円――  毎 日 新 聞 社

 

 

 

 

 

 
2頁記事

「毎日写真賞」受賞に輝く 初の受賞者 熊谷元一氏
ありのまま捕らえる 作品に満つ子供への愛情

 

地上だけにあきたらなくなったカメラはとうとう水中にまで入った。また明るいレンズ、高感度フィルム、増感現像液の組み合わせでまったくの暗黒以外はカメラでとらえられるようにさえなった。このようにして写真の持つ重要性は報道、学術そのほか社会のあらゆる面でいよいよ高まってきたため、本社ではこの写真文化向上の一助として「毎日写真賞」を設定したが、このほど第1回毎日写真賞は一面社告のように地方の一アマチュアカメラマンの業績に対しておくられることとなった。選考経過、受賞者の紹介、推薦の言葉は次のとおりである。

 

【受賞者の紹介】

 

熊谷元一 1909年、長野県下伊那郡会地村駒場に生まれる。小学校教師。

 

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初の毎日写真賞受賞の熊谷元一氏は明治42年に長野県生まれ大正15年飯田中学卒業、しばらく農業に従事していたが、のちに小学校教員となり現在は長野県下伊那郡会地(おおち)村小学校に奉職している。童画を学び現在日本童画会に属し数冊の絵本を出版している。熊谷氏のカメラ歴は昭和10年(一時教職を去り、童画を学び始めたころである)からスタートを切った。最初のカメラは絵本の原稿料をためて買った17円のパーレットの単玉、常焦点、F11という今から考えればオモチャ同様のカメラではあったが、熊谷氏は飛び立つようなうれしさでやたらに写しまわった。
ちょうどそのころ同氏は村誌を作ろうと考え写真で村の一年間の記録を作ってみたらと次のような計画をたてた。一カ月に約50枚、二年間に1200枚の写真をととる。このための費用は一カ月約50円(フィルム3本で3円、印画紙、薬品2円)節約のために一場面は3枚を原則とする。
こうして村の記録は次々とカメラにおさめられ2年後には予定を超えた1500枚の写真を作ることができた。こうして出来上がった村ぼ記録は美術評論家板垣鷹穂氏に認められて昭和13年朝日新聞社から『会地村=ある農村の記録』として出版されたのである。
戦時中東京で役所勤めをしていた同氏は戦後再び村に帰って小学校に奉職するようになった。ようやくフィルムが一般の手に入るようになると再びカメラを手にとった。そのころはバーレットではなくて戦時中に買ったセミ・ミノルタ3.5に進んでいた。まず手掛けたのは農林省の駐村研究員として農村婦人の実態を調べることだった。この成果は『農村の婦人』(岩波写真文庫)と『村の婦人生活』(新評論社)の2つにまとめられている。また名取洋之助氏の指導を受けて岩波写真文庫の一つにするために「養蚕」の記録写真をまとめ同文庫の『かいこの村』となってあらわれている。
この本の印税で同氏のカメラはまた進んだ。キャノンⅡDP1.8となったのである。バーレットからちょうど20年の歳月が流れている。この新鋭カメラをい同氏は教室に持ち込んで教え子たちの姿をとらえ、今回の受賞作『一年生』が生まれたのである。この記録写真集が生まれるまでには次のような苦心がある。
3年前農村の生活記録を収録したいと構想を練っているやさき岩波の方から「それをいま一つしぼって一年生としたらどうか」と言われ、そのころ氏はちょうど一年生受持に担当変更となったチャンスと合致したため、撮影意欲は盛り上がった。教師と生徒という自然の間柄から彼らの生活態度は少しもカメラを意識されず極めて自然の姿を、しかもさほど苦心せずに撮影することができた。

 

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「いい写真をとりたいなどと欲張っているとろくな写真がとれないので、いつもありにままの姿、子供の心にかえってチャンスを逃さずシャッターをきっていったまでです」と心境をもらした。
なお熊谷氏は受賞内定の報に次のように語っている。「我々しろうとカメラマンが推薦にあずかるなど非常にうれしいが、今後もこの調子でいけるかどうか多少心配にもなります。しかしたんたんとした気持でやっていくつもりです」

 

推薦の言葉 日常を素朴な目で 金丸重嶺(日大教授 写真評論家)

 この組写真は長野県の農村にある一つの小学校に取材して、新しく入学してきた児童が、その後の一年間にさまざまな体験を通じて変化していくy経過を克明に記録したもので、家庭から初めて学校という集団に入ってきた子供、次第に共同生活の中に芽生えていく状態が興味深くあらわれている。この作品の全般に通ずるものは、単なる興味や感傷に訴えるという装飾を避け、素朴な目で日常の現実をみつめ、極めて自然な角度から対象に融けあい、しかもよく時間的経過の中に、生活やその心理的変化を視覚的に組み立てていることである。
またその組写真全体に流れるものは小学一年生を通じて人間をみつめているが、この背骨の通っていることが何よりも力強い。その表現技術の優れていることも確かであるが、長い年月に一つの問題を深く掘り下げていったこの真摯な態度と、対象に対する深い愛情と理解がこの成果をあげたものであろう。

選 考 経 過
まず昭和29年4月1日から30年3月31日」までに新聞、雑誌その他刊行物、展覧会を通じて発表された写真について文化人、写真評論家、全国アマチュア写真団体に対して推薦アンケートを求めその回答を基礎に本社委員会において82点(白黒63点、カラー7点、組写真12点)を候補作品として選出した。これを東京では7月29日から8月10日まで銀座松屋における「第一回毎日写真賞候補作品」で一般に公開すると同時に、45名の選考委員から投票を求め、また大阪においては今回は準備期日不足のため公開展覧会は行わなかったが、本社内で非公開展示を行って在関西6名の選定委員から投票を求めた。

この東西51名の選考委員団の投票を集計した結果、次の14作品が最終選考に残された。
◇『一年生-ある小学教師の記録』(熊谷元一)

◇『ある画家の生活』(林忠彦)

◇『カメラ・日本の旅』(樋口進)

◇木村伊兵衛『外遊作品全般』

◇『室生川-「室生寺」より』(土門拳)

◇『スラム街イタリア』(木村伊兵衛)

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◇『小渕沢所見』(瀬田千作)

◇『おしんこ細工』(土門拳)

◇『曽根崎心中』(木村伊兵衛)

◇『夜の潮流』(緑川洋一)

◇『日本の顔「新しき悲劇」』(橋本保治)

◇『ひまわり』(中山八郎)

◇『秋田』(木村伊兵衛)

◇『待ちぼうけ』(大宮晴夫)※錚々たるメンバーだった。賞金10万円は当時すごい!!

以上14作品について本社委員会による最終選考を行い「一年生」および「ある画家の生活」が最有力として話題になったが、結局「一年生」が技術的な優劣を超えて、じっくりと対象と取り組んで地方の小学校一年生の生活と性格、その成長をとらえていること、自分の日常生活のなかにテーマを求め、一年間絶えない努力を続けたこと、写真がだれにでもとれ、またアマチュア・カメラマンのあり方を教えたこと、などが認められて受賞と決定した。なお第一回は部門別選考を行わなかったが、次回から白黒写真、天然色写真、組写真の各部門ごとに優秀作品を選び、受賞作品を決定する方法をとる予定である。

 

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新資料発見!! 熊谷と柳瀬正夢の関係  提供・池田和彦さん

 

井出孫六著『ねじ釘の如く』岩波書店 熊谷が見ていた画集。

 

この本のなかに熊谷元一の名をみつけたとのこと。本書下が、その箇所です。

ありがとうございました。(「下原ゼミ通信」編集室)

「いま、わたしの机の上には、二冊の『柳瀬正夢画集』があって、それぞれにきざまれた歴史を示してくれている。その一冊は背表紙の上下が破損し、かろうじて背文字だけが読み取れるぐらいに読み回されたものである。・・・・・・

ページの角は手垢にまみれて幾重にも折れ、この画集が人から人に手渡されて読まれたことがうかがえる。この画集の持ち主は信州伊那谷で代用教員の傍ら童画の勉強をし、借りもののカメラを手に山村の日常を記録しはじめていた熊谷元一という青年教師だった。飯田中学校を卒えて代用教員となった熊谷青年の前には、繭価の暴落にあえぐ伊那谷の山村がひろがっており、以来60年、熊谷元一さんは伊那谷の変貌をカメラで撮りつづけてきたカメラマンだが、その青春期に、『柳瀬正夢画集』は現実を映しとるテキストの役割を果たしたことがページの汚れに示されている。」

 

※柳瀬正夢(1900-1945)は、昭和20年5月、諏訪に疎開した娘を見舞いにいくため新宿で乗った夜行列車が空襲にあいなくなった。

 

※板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年10月15日1966年7月3日)は、美術評論家明治大学教授、早稲田大学教授、東京写真大学教授を歴任した。東京生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。1929年『新興芸術』を創刊。1933年、明治大学文芸科教授[1]。モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。HP

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熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮りはじめる。

 

1938年(昭和1329歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

1939年(昭和1430歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係のネガ消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

西組は原房子先生18歳。

 

1953年(昭和2844歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

1955年(昭和3046歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

 

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

 

1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

現在100万部のロングセラー

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

 

1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

 

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.312 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

土壌館日誌

 

問題児の解決策は…

 

5月14日 日曜日 曇り、風やや寒し。昨日から泊まりにきていた娘と、二人の孫を私鉄駅まで送る。午前中に孫の体操教室がある。その足で、道場に行く。だれもきていなかった。草取りをしていると小5のM君がきた。相変わらず、小さな声で「イヤダヨー、イヤダヨー」をくりかえしている。無視していると、着替え室でマンガをひろげてよみはじめた。いつものようだ。そのうち他の子たちもきて掃除をはじめた。が、M君我関せずでマンガを読みつづけていた。彼が入門して、ちょうど1年間になる。が、道場での彼の様子は入門したときと何ら変化はない。柔道はむろん運動は、まったくできない子どもだ。努力してやろうともしない。なぜ入門したのか。母親が、熱心。で、はじめのうちは、ついてきていた。母親が見ているときは、しぶしぶやっているが、いなくなるとまったくやらない。準備体操だけでもとすすめると、大声で泣き出す。同級生の子にきくと学校でも同じだという。子供たちは、はじめのうちは、珍しがって面倒をみていたが、彼にまったく学習能力がないとわかると、あきらめてしまった。大人たちも、はじめはなんとかしようと。彼に話しかけるが、彼はまったく聞き耳をもたない。この日、師範代も、なんとかしようと思ったようだ。はじめ穏やかに話しかけていた。「みんな、掃除してるから、いっしょにやろう」しかし、M君は、まったく無視、マンガにしがみついている。「稽古の前です。マンガやめなさい!」いつもは穏やかな性格の持ち主だが、今日は虫の居所が悪いらしい。つい声を荒げた。とたんM君は、わざとらしい泣き声をあげた。「どうしましょう」師範代は、困り顔で相談にきた。「他の子に影響しますから」とも言った。師範代は「やらないのなら帰りなさい」を告げたいようだった。しかし、その常套句は、M君が待っている言葉だ。最近、そのように思えてきた。彼は、その最終手段のカードを私や師範代に切らせたいのだ。「帰りなさい」その言葉を金科玉条にして母親にみせたい。そうすれば道場から解放されると思っている。辞めさせるべきか、母親の意をくんで、まだつづけさせるべきか。難しい問題だ。なぜなら、道場の使命は、こうした子を救うためにもあるからだ。娘を見学にくる母親の一人に、相談した。早めにきて観察しながら見守ってくれるという。母親にもしばらくきてもらうしかない、と思った。いまのところ解決策は他になさそうだ。

 

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ドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

 

※  連絡090-2764-6052下原

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.5.15  名前

 

  1. テキスト感想 (足らなかったら裏面を使用してください。)

 

『網走まで』

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『にんじん』家族

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  1. なんでない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

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