文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.313

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)5月22日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.313

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

5・22下原ゼミ

 

 

ニュース  熊谷元一の基礎となる写真理念の書

 

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』1932年 六文館

 

日本大学芸術学部図書館書庫で見つける!!

 

まさに「灯台もと暗し」であった。熊谷元一研究をはじめて、早三年、少しずつ研究調査を進めてきた。が、絵画や写真に対する熊谷の考えが、今ひとつみえてこないところがあった。画家をめざしていた熊谷は、その人生を、カメラに乗り換えたのか。

熊谷の自伝『三足のわらじ』にカメラをやりはじめた頃の様子がある。赤化事件で失職し、村でブラブラしていたときだ。

「―― そのままになっていた村誌の仕事をふと写真でやってみたらどうかと思いついた。その時、前に読んだ評論家の板垣鷹穂氏の著書『藝術界の基調と時潮』の中の「グラフの社会性」という論文が頭に浮かんだ。」熊谷は、この論文に新たに人生の活路を見出した。

「グラフの社会性』とは何か。板垣鷹穂とは誰か。気にかかりながらも調査を怠ってきた。ところが先日、何気なく日芸図書館を訪れとき、思いだして尋ねると書庫からぼろぼろになった本書がでてきた。熊谷の理念となる書、ここにあり。正に灯台もと暗し――であった。

※本書と「グラフの社会性」については6頁、7頁にて紹介

 

社会観察 ゼミ観察 ―― ゼミガイダンス報告 課題報告5・8

 

文芸研究Ⅱ――  日本国憲法前文読み

安岡章太郎『私の「墨東綺単」』(3.朝日での連載)読み

『にんじん』読みと考察、「遠い日の町」青春時代観察読み

熊谷元一研究 ―― 熊谷元一最新情報

『藝術界の基調と時潮』六文館 1932 発見 グラフの社会性」(2)

「永遠の一年生①」読み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.313 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

文芸研究Ⅱ

 

社会観察  どうなる9条

 

憲法改正問題について

1947年5月3日日本国憲法施行される。前年11月3日公布されたもの。世界に類をみない平和憲法だが、現代の世界情勢には翻弄されるばかりで2007年4月12日、ついに憲法改正がより現実化した。国民投票法案の与党修正案が、衆院憲法調査特別委員会で可決されたのである。この先、憲法はどうなるのか。安倍首相は、2020年実施を目指すと宣言したが…日本最大の課題である。下記は、現行憲法の前文と、注目される第九条です。

 

前文【現行憲法】

 

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

現憲法の第二章【戦争の放棄】

第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ

る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを

放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国

の交戦権は、これを認めない。

 

政府自民党案 ③を加え、自衛隊の明記する。

 

 

 

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島袋編集長 → ゼミ誌ガイダンス報告

 

課題報告5・8配布分

 

  1. 日本国憲法について

さらなる議論が必要      島袋美咲

 

国家にとって、もっとも重要視される法となる『日本国憲法』が近年、解釈の変更等のニュースが見られるようになった。時代の変客とともに変わらなければならないこともある理屈は分かるが、果たして、唯一の核被害国である日本という国がそういう報告への選択をするということは、正しいことであるのか。さらに議論が重ねられていくことだろう。

 

□核ミサイルが強さの証。まさか、こんな世紀になるとは。

 

2. なんでもない一日の記録

 

トノサマバッタの骸     島袋美咲

アパートの扉の前で茶色いトノサマバッタが死んでいるのを五日前に見つけた。今日の朝も死骸はそこにあっていつそれはなくなるものかと、私は、淡々とした気持ちで、善悪もなく、知のために見つめていられた。

 

□生と死、志賀直哉の『城の崎にて』をおもいだしました。

 

  1. 『にんじん』「めんどり」「しゃこ」「失礼ながら」感想

善か悪をも超越した残酷さ    島袋美咲

 

子どもには残酷さ(イノセントエ)がある。私はそういう部分に美を感じる。感性がないわけでもないので、毛嫌いすることもない「にんじん」というテオストからは、善か悪をも超越しえる、残酷さを考えさせられた。

 

□家族から疎まれる子どもの話はよくある。この作品もその一つか。それとも

 

  1. 『或る朝』感想

私は、まだ若いのかも       島袋美咲

 

何事もない日常をたいした脚色も加えることなく、つらつらと書いてゆく、現代っ子が読めば大半がつまらないと感じられるだろう。私自身も正直、これを読んで、すぐに面白いという感想を持ったわけではない。よくいわれることだが、この文をよいと感じるには、私はまだ若いのかもしれない。

 

□世話好きな祖母によく口答えした。その時は、ただうるさいだけだったが、この作品を読んだりすると、懐かしくももっとやさしくしてあげていればと悔やむ。

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5・15ゼミⅡ報告

 

連絡 ゼミ誌ガイダンス ゼミⅡは、5月16日(火)文芸棟教室1

参加者=島袋編集長

レントゲン検査結果票の渡し

 

【ゼミⅡ テキスト読みと考察】

 

(1)小説家「永井荷風」の魅力について  島袋美咲

 

文学という藝術に人生を捧げたところが好きです。あくまでも個人と自由に向き合った生活。作家の孤独死は現代を象徴している。

経済的には恵まれた人生は、志賀直哉と似ている。

 

しかし志賀直哉と永井荷風、両者には決定的な違いがある。

志賀直哉は、世界人類の幸福のために作品を書く。

永井荷風は、自分の自由のために書く

 

(2)安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (2.白鳥の歌)

 

作品発表の昭和12年(1937)前後の時代をみる。大戦前夜の時代。現在と比較

近づく戦争の足音。

1933(国際連盟脱退)、1934(満州国帝政実施)、1935(政府国体明徴声明)

1936(ロンドン軍縮会議脱退、2・26事件)1937(7・7盧溝橋事件、日中戦争)

 

(3)志賀直哉『網走まで』について。処女作三部作の一作 1908年作、発表1918年

『網走まで』の読み

 

『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

 

【熊谷元一研究報告】

 

(4)熊谷元一(24~28歳)影から光への青春時代。失職、生活苦、そしてカメラとの出会い。『藝術界の基調と時潮』板垣鷹穂著「グラフの社会性1.」をみる。

第一回毎日写真賞の新聞記事 1955年8月30日

選考経過 作品と選考者

推薦文など

 

 

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安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (作家が読む名作)

 

前回「1.美的リゴリズム」の次「2.白鳥の歌」を読んだ。5・22ゼミは「3.朝日での掲載」

 

  1. 朝日での掲載

 

永井荷風の『墨東綺譚』は、すでに述べたように東京・大阪の朝日新聞夕刊に昭和12年4月16日から連載がはじまり、同年6月15を以て完結している。そして翌月、7月7日には中国北平(ペイピン 現北京)郊外で盧溝橋事件が発生、これが日中戦争となり、第二次世界大戦に引き継がれる。そう考えると、『墨東綺譚』という小説は、わがくにに辛うじて戦前の平和が残されていたギリギリの時期に発表されたことがわかる。

もっとも、この小説は普通の新聞小説のように、新聞紙上に毎回の時日に合わせて少しずつ書かれたものではない。前年(昭和11)9月20日の日記に

〈今宵もまた玉の井の女を誘う、この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり〉

とあるように、荷風はこの年の五月から玉の井を歩きはじめ、その散歩が次第に創作の意欲を掻き立てて行ったものである。荷風自筆の玉の井の明細図が残されていることでもわかるとおり、その調査は頗(すこぶ)る綿密をきわめたもののようだ。腹案の成った翌日にも荷風は、雨中、昼間の玉の井を見るべく、いつもの家に、いつもの女を訪ね、帰宅すると早速、灯下に小説原稿を書きはじめた。それからも連日、玉の井にかよいつめるのだが、これは女が目的ではなく、明らかに執筆のための調査に出向いているのである。10月にはいってからも、依然として玉の井を訪ね、いよいよ感興が乗ってきたのであろう、7日にはその小説の題名を『墨東綺譚』ときめ29日には前篇を脱稿している。

当時の荷風の筆がいかに熱気をおび、躍動していたかは、さりげなく誌された日記の文面からも推察される。原稿は百枚余りのものだが、ともかく一編の新聞小説となるものを、この僅かな日数でかきあげているのは、余程の好調と考えるべきであろう。この小説が朝日に掲載されるにいたった経緯について、くわしいことを私は知らない。ただ、日高基裕氏の紹介で原稿は朝日の記者に渡され、その年の11月に原稿料2400余円が朝日から支払われたという話を人づてに聞いているだけである。私は終戦直後の頃、日高氏との面識があったが、荷風についての話は殆ど何一つ聞かされていない。おそらく固く口止めされていたものかと思う。何にしてもアサヒは、昭和11年12月11日の紙上で、正月早々にも連載をはじめる棟を予告したが、それが4月中旬まで延びたのは、やはり社内に反対意見があったからだとの噂をきいた。しかし、当時としては「墨東綺譚」のような小説に反対する者がいても、それは当然だろう。2・26事件の直後、陸軍は表面上、一時鳴りをひそめていた。「粛軍」という何を意味するか分からないような言葉が新聞や雑誌にしきりにあらわれ、要するに軍の内部で激しい派閥争いがおこなわれている様子だった。その間、世間はなにやら真空状態のような有様をていし、検閲の目も緩んだかに見えた。安部定の情痴事件が浅草の舞台でアドリブやジョークに使われたりしたのも、その間隙を突いたものだろう。

同じ年の5月20日、荷風が玉の井に出掛けて、曹洞宗東清寺の玉の井稲荷の緑日とぶっつかり、人出に賑わう町を眺めて帰ってきた。この時期には、まだ玉の井の散歩が「墨東綺譚」を書くことになることなど予期していなかったらしいが、お稲荷さまの縁日との出会いが、荷風にこの小説を書かせるキッカケを神仏が用意してくれていたというわけだろうか。

この年の1月には、日劇で『ジャズとダンス』の初公演があった。これが日劇ダンシングチームの前身といわれるものだが、荷風はこの有楽町の新名物ロケットガールには目を向けず、浅草六区のオペラ館などの方へ専ら脚を運ぶことになるわけだ。ここにも荷風の興味が銀座の女給たちから玉の井の私高子に移って行った事と相通じる趣味なり心情なりの変化が窺える。

次号につづく(四は、荷風の「悪戯」)

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熊谷元一研究

最新情報    熊谷27歳のとき感銘を受けた本、見つかる !!

 

灯台もと暗し 所蔵・日本大学芸術学部図書館。

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき出会ったのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だという。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けた。写真の一部を板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

本文目次

【論 説】都会の性格描写とカメラ

【研 究】藝術史的方法とプレハノフ

「第三期」的商業藝術

視覚的叙述に就いての小感

【解 説】展覧会と絵画形式

東京と新建築

資本的統制と現文壇

グラフの社会性

教化映画と教材映画

1931年の建築界

【断 想】フィルムとラヂオ

絵画技法の「超」階級性

美術に於ける「過去と現在」

機械の性格描写

【短 評】西洋美術館印象の断片

日本の展覧会で感じたこと

展覧会的絵画の一形態

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき思い出したのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だった。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けていた。写真の一部を著者の板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。本書のなかで熊谷が、特に深い感銘をうけた項は、小説と映画の融和性を説いた「グラフの社会性」である。

※板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年10月15日1966年7月3日)は、美術評論家。東京生まれ。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。HP

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熊谷が深い感銘をうけた「グラフの社会性」とは、何か。その章を紹介する。

 

「グラフの社会性」1931・12・14-16 東京朝日新聞学芸欄

 

2

 

断るまでもなく、グラフがヂャーナリズムの流行となるためには、写真の撮影やグラビュールの製版に関する技術上の発達が、前提されていなければならない。そしてその上に、映画的訓練を経た現代の読者層にアピールし得るだけの、新しい感覚を示すものでなければならない。かかる意味から、まず最初に注目すべき現象は、現代の写真に窺われる「藝術的特質」であろう。

二十世紀の初頭時代に標榜されていた所謂「藝術写真」なるものは、写真それ自身の特質を生かすよりも、むしろこれを殺して、出来るだけ絵画を模倣しようとする試みであった。そして、その模範に選ばれた絵画も、印象派以後の気分本位の画風を持つものであったため、必然的に、調子の柔らかいニュアンス(色合い)が悦ばれ、ソフト・フォーカスレンズが愛用される結果となった。

然るに、ピューリスムの運動が絵画に現れる頃から写真の傾向にも著しい変化が生じ、映画の影響が窺われはじめてからは、カメラ技法の特質を強調した新しい試みが、次々に考案されるようになった。所謂「カメラの眼」を透して現代的感覚に順応する形式が、ここに生まれて来たのである。そして写真藝術に於けるこの新しい感覚は、小型撮影機の著しい新保によって助長された。

加ふるに、写真の生作品を藝術として発表する形式が現代では非常に変わってきた。かつては、絵画の展覧会にならつて「写真展覧会」を行うことが、唯一の発表形式であつた。けれども現代のごとく、進歩した製版技術によって「写真集」の刊行され得る時代では、大量的に生産されて普及にも便利なこの方法が、より適当な発表形式と考えられるべきはずである。そこで最近になって、この種の刊行物が著しく増加し、中には極めて優秀なものが見出されるやうになった。古いところでは、例のモホリ・ナギの「絵画・写真・映画」から、ドイツの建築家メンデルゾーンによって撮影され出版された「アメリカ」や純粋映画作者レジェーの「パリ」などがあったが、その後の刊行物では、無産階級者の顔を効果的なアングルからクローズ・アップに撮ったシルスキーの「平日の顔」鉄材の示すマチリアルの持ち味を写したレンゲルバッツの「鉄」、際どい瞬間写真ばかり集めた「危機の一瞬間」(編集者ブコルツ)、ユダヤ人街の情調を巧妙なモンタージュに表現した「ウィルナ」(フュスリ絵本叢書)等が、その主な作例である。

かかる写真集の新機運と共に、挿絵を必要とする一般の定期刊行物も、新しい写真の撮影技術と編集法と感覚とを、極めて敏感に摂取しはじめた。建築と工芸とに関する現代藝術関係の雑誌はいうまでもない。通俗的なニュースはや流行を扱った雑誌から左翼運動の機関紙までが、等しく写真の用法を形式的に純化しはじめた。

かくて写真は、その藝術的写真の発表手段として刊行物の形式を求めたばかりでなく、一般ヂャーナリズムや宣伝用の機関紙とも密接な関係にむすばれるようになつた。そしてこの場合、これらの刊行物には、窺われる編集の形式には、一般社会人の映画による視覚的訓練が、高度に予想されているのである。

(つづく 次号は3です)

 

 

 

 

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熊谷元一研究  事実と想像で仕上げる 創作ルポ

永遠の一年生 ①

 

三足のわらじを履ききった人生

 

2010年11月6日、東京都下にある介護老人保健施設で一人の老人が101歳の人生を閉じた。老人は、年齢からくる足腰の弱りを除けば、心身とも具合の悪いところはなかった。それだけに、突如、介護施設に入居するといいだし家族を驚かせた。介護施設は5年前、亡くなった老人の妻が入居していた施設だった。

「おじいちゃん、なにもま、いまはいらなくても。まだお元気じゃない」

長年、老人の秘書役をつとめてきた長男の嫁は、諭したが、老人はいいだしたら聞く性格ではなかった。後で思えば、それは近づく寿命を悟っての入居だった。老人は、他者の世話になることを極端に嫌う独立独歩の人だった。妻の見舞いにいったとき、その施設を終焉の地と密かに決めていたようだ。一か月後、眠るように息を引き取った。大往生だった。

老人の101歳の人生は、自らも公言してはばからなかった三足のわらじをはき切った幸せの生涯だった。三足とは、教師として、童画家として、写真家としての三つの道の人生。どの道もそれなりに功なり名を遂げた人生であった。

生涯一小学校一教師を貫いたが、写真界では、伝説の写真家として、いまもその名を知らしめている。特に教え子を撮った『一年生』は、いまもグラフの金字塔となっている。童画家としても成功した人生だった。「三足のわらじを履ききった幸福な人生」お焼香にきた人たちは、だれもがこう言って称えた。熊谷元一が老人の名前である。

被写体にもなった老人の教え子の一人は、地元新聞に、このような追悼文を寄せていた。

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熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」にたとえられていた。三足とは、童画家、写真家、教師の人生である。昭和28年、村の小学校に入学した私たち一年生は、幸運にもこの三足の恩恵を受けることができた。

童画家としての先生からは、自由に描くことの楽しさを教わった。先生の絵画指導で、多くの子が賞状を手にする栄誉を得た。私もその一人だった。新聞社が主催した「第一回版画コンクール」では、共同制作の作品紙版画「どうぶつえん」が全国第一位になった。写真家としての先生からは、貧しかった時代にあって、本当に多くの写真を残していただいた。1955年(昭和30年)出版の岩波写真文庫『一年生』は、ひろく世に知られ私たちの一生の宝物となった。教師としての先生からは、人生の糧となることを学んだ。叱るより褒める教育だった。「ほう、面白いじゃないか」科目だが、その一言に自身がもてた。先生の教育は、学校に止まらなかった。退職後の人生そのものが教育だった。一つのことをつづけること、観察することの大切さ。いくつになっても目標を持つことの大事さ。継続は力なり。その実践教育は、私たちが還暦を過ぎた今日まで、私たちを励まし、裕樹と希望を与えてくれている。

今年の夏だった。記念文集『還暦になった一年生』の刊行を終えほっとしていると、先生から電話があった。「おもしれいことを思いついたんだ」先生はうれしそうにおっしゃった。なんと、またしても新しい写真集の企画が浮かんだというのだ。101歳を過ぎたというのに尽きぬ好奇心と意欲に驚いた。周囲の人たちの困惑を思って苦笑した。が、なにか新しい力をもらったようで元気がわいた。「はい!手伝わしてください!」私は、思わず返事した。

 

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思えば、それが先生との最後の会話となった。先生の訃報を知ったのは病因のベッドの上だった。脊髄手術で身動きできない体だった。葬儀の日、無念な思いで病室の窓の秋空をな

がめていたら、重大なことを思いだした。先生との約束である。先の貞子奥様の葬儀のとき、先生から「わしの葬儀のときバンザイで送ってくれ」と頼まれた。皆には、断られたらしい。「おまえさんが是非やってくれ」ユーモアのある先生だが、冗談はいわない。私は笑ってうなずくほかなかった。だれかやってくれただろうか。葬儀が終わる時刻、私は、高く晴れわたった西空に、小さくバンザイを告げた。

後日、先生の最後の様子を伝え聞いた。見舞った曾孫さんに

「わしはいくつだ」とたずね「101さいだよ」といわれると「そうか、そんなに生きたのか」と、おどけてみせて、みなを笑わせたという。

先生は三足のわらじの他に人を楽しませる、わらじも履いていた。先生は四足のわらじを履いていたのだ。

退院の日、小春日和の日差しの中で、ふとそんなことを思った。そうして、四足のわらじに改めて感謝したい気持ちになった。

先生、本当にありがとうございました。 (南信州新聞 2010年12月1日 水曜日)

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三足のわらじを履ききった熊谷だが、その履歴を辿ると疑問は残る。幼小の頃から画家を夢見て目指した熊谷である。浜松や東京の美術学校に挑戦している。作品が認められたとはいえ、倉氏の為に描き始めた童画。なぜその道を選んだのか。そうして、せっかく得た大東亜省での写真班嘱託を戦時最中になぜ辞したのか、戦後、どうして上京しなかったのか。なぜ山村の小学校で①教師を貫いたのか。アマチュアカメラマンの生涯に甘んじたのか。数々の謎がある。三足のわらじの人生。表層は平凡な、安穏な人生にみえた。だが、それは真実だろうか。人間万事塞翁が馬。見えざる熊谷元一の人生を追ってみた。

 

その日の朝

 

元一は、まんじりともせずその日の朝を迎えた。これまで日本中の、いや世界中のどんな教師も思いつかなかったことを、教育現場では考えられなかったことを、自分が今日から実践するのだ。そのことを思うと、胸が高まった。四月に入ったとはいえ、信州伊那谷の春は遅い。外はまだ霜柱がたつほどに冷えていた。が、元一の体からは緊張と興奮で、汗がじりじりと湧き出た。時刻は、まだ四時を過ぎたばかりだったが、心も体も急いて、これ以上、床にいられなかった。元一は、そっと立ち上がった。

「起きられますか」妻の貞子が布団のなかから声をかけた。

寝ていると思っていたが貞子も眠られなかったようだ。今日からの仕事は、詳しく話さないまでも、すでに貞子は、察していた。夫は、今日から学校において教師生命を賭けた一世一代の大仕事をはじめる。そのことは先刻承知していた。が、貞子は何も尋ねなかった。この日は、いつもより少し早かったが、いつものように起きて朝餉の支度に向かった。小学三年生の忠雄と六年生の博人はまだぐっすり眠りこけていた。

東の空が白々と明けていた。彼方の赤石山脈の峰の端に太陽がのぼろうとしていた。時に1953年、昭和28年4月1日の朝であった。日本は先の日本国憲法施行で独立国になってはいたが、民主教育は、まだ草創期にあって混乱していた。創意工夫、教師は自ら、信じる道を進むほかなかった。

 

 

 

 

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貴重な新資料お礼   提供=鈴木藤雄様(長野県飯田)

 

先日は、熊谷元一が紹介された地域誌『あいなび』(2017 4-6)を送っていただくなど、いつも「熊谷元一研究」に協力・協賛してくださっている信州飯田在住の鈴木藤雄様から、このたびも、また貴重な新資料の数々をお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。

2017年5月21日 「熊谷元一研究」編集室・下原敏彦

 

熊谷元一童画カレンダー 飯田中央農業協同組合

 

☆昭和54年(1979) 1月 ~ 12月 童画12枚

☆昭和56年(1981)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和57年(1982) 1月 ~ 12月 童画12枚

☆昭和58年(1983)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和59年(1984)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和60年(1985) 1月 ~ 12月  童画12枚

☆昭和61年(1986)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

※何れも未使用

 

ふるさとと農業を見直す農協絵本シリーズ

 

文・写真=飯田中央農協広報課 絵・熊谷元一

 

☆シリーズ(4)『虫封じ』みんなの健康を考える本  27頁

☆シリーズ(5)『石の語り部』村の歴史を考える本 27頁

☆シリーズ(6)『むらの碑(いしぶみ)』農協の歴史を考える本 27頁

☆シリーズ(7)『いろり』農家のくらしを考える本  27頁

☆シリーズ(8)『もらい風呂』農家のくらしを考える本(その2) 27頁

☆シリーズ(9)『こばし休み』むらの仕来たりを考える本(その1)27頁

☆シリーズ(10)『むら祭り』むらの仕来たりを考える本(その2)27頁

 

時代とともに消えゆく、忘れ去られていく村の生活、風習、四季の思い出。現代の日本人が失った「ふるさと」が、ここにある ! 

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写真カレンダー KOA(コーア) 提供=渡辺正一様(長野県阿智村)

 

『20世紀のこどもたちから 21世紀のこどもたちへ』

 

2001年1月 ~ 12月

 

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熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮りはじめる。

 

1938年(昭和1329歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

1939年(昭和1430歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係のネガ消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

西組は原房子先生18歳。

 

1953年(昭和2844歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

1955年(昭和3046歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

 

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

 

1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

現在100万部のロングセラー

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

 

1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

 

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.313 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

【動乱時代の熊谷元一の記録と世界の出来事】1933~1937

 

 

□昭和8年(1933)24歳 2・4の赤化事件に連座し(歓迎会と思った。本人)、小学校退職、郷里会地村に帰る。以後童画を描き、家事を手伝う。生活に苦しむ。

・世界の出来事 3月日本、国際連盟脱退

□昭和9年(1934)25歳 童画の師、武井武雄から「かかし」の写真を送ってくれと頼まれ、カメラを借りてはじめてシャツターを押す。

下記は「かかし」の写真撮影を頼む武井氏からのハガキ。9月18日付

「この頃武田氏(童話作家)を写真班として自転車で、近郊の案山子集めに歩いています。もう130程に達しました。伊那谷の特産のがお手に入った節に何卒お願いいたします」

・世界の出来事 3月満州国帝政実施

□昭和10年(1935)26歳 版画をはじめる。カメラに魅力を感じる。

・世界の出来事 8月政府国体明徴の重大声明

□昭和11年(1936)27歳 6月パーレットの単玉を17円で求め試写。毎日村をまわり、村人の生活を写す。「板垣鷹穂氏の「芸術界の基調と特潮」の中の「グラフの社会性」に深い感銘を受ける。」(『三足のわらじ』)写真の一部を板垣氏に送る。

・世界の出来事 1月日本ロンドン軍縮会議脱退、226事件 11月日独防共協定調印

□昭和12年(1937)28歳 送った写真が板垣氏に認められ『アサヒカメラ』2月号に評が載る。写真について自信がつき、村内を写しまわる。応召への心配。

・世界の出来事 7月7日盧溝橋事件、日支事変はじまる、11月日独伊三国防共協定調印、

日本軍南京占領(市民虐殺疑惑)

□昭和13年(1938)29歳 2年間写した村の写真、1500枚のなかから600枚を引き伸ばし写真集を作り、板垣氏に送る。これが朝日新聞社に紹介され、写真集『会地村』が12月に出版された。山村の一青年が、いきなり時の人となりメディアの表舞台に登場。

・世界の出来事 3月第12回オリンピック、カイロ会議で東京に決定 5月日本国家総動員法成立、10月日本軍広東占領

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

 

◆鈴木藤雄様からカレンダー、絵本の他に、熊谷元一と同期だった戦没画家市瀬文夫の口演記録の新聞記事(南信州新聞)もありました。併せてお礼もうしあげます。次号で紹介

 

ドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

※  連絡090-2764-6052下原

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.5.22  名前

 

  1. 車内観察 (電車の中で見たこと考えたことなど)

 

 

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2.『にんじん』家族 にんじんの性格について

 

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  1. なんでない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

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