文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.314

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)5月29日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.314

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

5・29下原ゼミ

 

 

熊谷元一研究・ニュース 熊谷元一関連資料入手(飯田・鈴木藤雄氏から)

 

この5月21日、信州飯田在住の鈴木藤雄氏(郷土史家)から熊谷元一研究に関する新たな関連資料をお送りいただいた。お礼申し上げます。

 

・熊谷元一童画カレンダー(昭和54年~61年)飯田中央農業組合 7点

 

・熊谷元一農協絵本シリーズ ふるさとと農業を見直す絵本 7冊(27頁)

 

・口演 戦没画家・市瀬文夫(無言館代表作品「黒衣の婦人」)台本記事

 

熊谷元一と市瀬文夫、飯田中学時代の親友同士。和歌山県で絵画教師だった市瀬は、召集され昭和19年2月20日ニューギニヤ・マダン島において戦死 享年29歳。

ちなみに警察官だった私下原の叔父・下原忠男(28)は、同年2月トラック島付近で戦死した。(作家山本茂実著『松本連隊の最後』角川文庫)

 

口演は、2017・4・1 東京四七会にて行われた。講談・神門 久子 台本・牧内 冬彦

台本の全文は南信州新聞(2017・4/14 /17 /20 /26 /27)に掲載された。

 

ゼミ観察 ―― 「ニュース・熊谷元一研究資料入手報告」、課題報告5・15

 

文芸研究Ⅱ―― 「永井荷風とキルケゴール」報告

『正義派』と『出来事』について

安岡章太郎『私の「墨東綺単」』(4.荷風の悪戯)読み

『にんじん』読みと考察、「遠い日の町」青春時代観察読み

熊谷元一研究 ―― 熊谷元一と永井荷風、志賀直哉、

『藝術界の基調と時潮』六文館 1932 発見 グラフの社会性」(3)

「永遠の一年生①」読み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.314 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

文芸研究Ⅱ

 

5・22ゼミ報告  島袋美咲さん皆勤

 

ゼミ誌ガイダンス報告

 

5月16日(火)12字20分 教室1 12月8日(金)納品

 

「現代の恋愛小説は可能か?」【社会観察】から フランス大統領マクロン氏と夫人25歳歳の差結婚と恋愛小説について

 

自由のマンネリ、規制緩和によっていわゆる恋愛ものは滅んだ。(島袋)

現代版『谷間の百合』だが、『谷間の百合』は悲恋物語

ほとんどの作品は、男性が年上『あしながおじさん』『貧しき人々』『高慢と偏見』『ジェーン・エアー』など

 

「私の『墨東綺譚』」「三、朝日での連載」音読、島袋

 

昭和11年2月26日のクーデター未遂事件、翌年の昭和12年の7月7日、中国盧溝橋での日中軍事衝突。暗い不幸な時代のはじまり。『墨東綺譚』は、そんな緊張した時代に花咲いた。「安部定事件」も昭和11年5月に起きている。

 

テキスト『正義派』『出来事』黙読、事実と想像

 

『正義派』は人から聞いた話を創作した。『出来事』は自分が体験した話を創作した。

『正義派』は、子供は死ぬが『出来事』は助かる。『出来事』(1913)を書いた夜、山の手電車にひかれけがをする。

【『出来事』創作談義】

これは自身で目撃した事実を殆どそのまま書いた。『正義派』は正義の支持者という誇りを自らだんだん誇張していって、しかもそれが報いられないところから来る淋しさを主題としたが、『出来事』の方はもつと直接な感情――子供が電車に轢かれかけて助かったという喜び――或る時は一時の驚きと、興奮から喧嘩もするが、結局、皆子供が死を免れたことを喜んでいる。その善良さに好意を感じ、この小説を書く気になった。

 

テキスト『網走まで』「帝国文学」に投稿するも没1910年『白樺』に発表

 

  1. なぜ没にされたのか 2.なぜ「網走まで」としたのか 3.この作品を書いた頃、夏目漱石の『三四郎』が発表された。

 

熊谷元一研究の報告

 

・新資料入手の紹介 1.農協カレンダー 2.農協絵本 3.口演の台本 地元紙連載

・熊谷元一の写真及び童画の基本理念となった本の発見のニュース。

 

「永遠の一年生」連載

 

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課題報告5・15配布分

 

  1. テキスト感想 志賀直哉『網走まで』

 

女の一生を描きだしている         島袋美咲

 

未開拓の地であった網走という北海道の場所を自分が、これから先も体験することの日々。未開拓の地をメタファーしているようにも考えられる作品だった。母という女の一生を上手く淡々と描きだしている作品だと思う。

 

□そうですね。この作品から様々な女の一生が創作できる、そんな気がします。

 

  1. 『にんじん』の家族

 

不思議な家族関係       島袋美咲

「にんじん」の主人公は、現代人の、日本の、私から見ると、少し不思議な家族関係の中にいるように見えた。

 

□一見、何の問題もないような幸福家族。しかし、ある日、突然、悲惨な出来事が起きる。昭和史犯罪のなかに、そんな事件が多々ありました。「金属バット両親殺害事件」など。

 

  1.  なんでもない一日の記録

単純な理由で死を恐れる自分    島袋美咲

 

風邪を引いた。私は死について小説を書くことがほとんどない。それは身内で、死んだ人がいないからだと思う。あまりにもひどい風邪だったので、むせびながら、このまま死んだらどうしょうかと考えた。そんなことはないだろうが、死ぬことは怖かった。死んだことがないからだろう、と単純な理由で死を恐れる自分がおかしかった。

 

□風邪治ってよかったですね。

 

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『断腸亭日乗』永井荷風62歳 1940年(昭和15年)5月16日

日夜フランス軍の勝利を祈る        永井荷風

 

晴れ /南風烈し。/夜一人浅草に至りて食事す。余は日本の新聞の欧州戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むのみにて、ドイツよりの報道また日本人の諸論は、一切これを目にせざるなり。今日のごとき余が身にとりては列国の興亡と世界の趨勢とは、たとえこれを知り得たとするも何の益するところもなし、余はただ胸の奥深く日夜フランス軍の勝利を祈願して止まざるのみ。ジャンヌ・ダルクは意外なる時、忽然として出現すべし。

 

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課題・文芸研究Ⅱ  愛読書(二人の人物)について

 

キルケゴールと永井荷風      島袋美咲

 

人間という存在は空である。個人的な体験や感覚に基づいて、私はそうと考えている。私は水槽だ。そして、その中を二匹の魚が泳いでいる。〈キルケゴール〉と〈永井荷風〉だ。もっと偉大な作家や思想家はいる。しかし、私は彼らが好きだ。恋や愛と同じだ。好きな理由を話すことは可能だが、好きという感情は説明すれば、忽ち陳腐な後付けに覆われてしまう。だからここでは割愛する。彼らの影を目で追うことで、私という概念の実存を私は知りたい。それは人間の謎ではなく、私という人間の謎であるのだ。だから、どこまでも私の文学観は、個人主義に留まる。あなたは更に偉大な人間になりたくないのか、善良な、崇高な、人間にはなりたくないのか、と文学に問われている気がして、個人主義から抜け出そうと試みたことも過去に二度や三度ある。だが、私は、私にしか興味がなく、厳密に言えば、私という概念における、対立構造そのものにしか興味が湧いてこない。その対立構造というのが、恋愛依存症と回避依存症だ。その対立関係と、精神構造と、現象に、私は堪らなく知的好奇心に駆られる。それは気付いたときには、私の中にあって、知らぬ内部の底から過去か現在かも知らぬ、人か悪魔かも知らぬ、囁きが聴こえてくる。「愛とは虚像だ」と。

それが、そうか否か、仮定をたて、検証し、実験し、結論を出す。しかし、穴というか、割れ目が必ず出てくる。どれだけ時間をかけ、丁寧に編まれた布がほろほろと糸がくずれていくように。そして、また折りなおす。そんな途方もない、作業を繰り返している。私が常々思考(嗜好)し、小説に書き続けていることは、オイディプス理論であり、ジェンダーレス又はジェンダーが錯綜する複雑な現代であり、愛することは自己愛だと言い放つラカンであり、何でもあるけど何もない現代人の憂いであり、悪魔のような魔性(ファム・ファタール)の分析であり、子供の持つイノセンスと残酷さと美であり、芸術家の精神構造についてである。それらが私の知的好奇心をひどく刺激する。そういう類のことを考えているときが生きていて一番愉しく、幸福を私は感じる。そして私が一番、二番に好きな議題が、やはり前半に話した二人のことである。キルケゴールがなぜ愛しているレギーネと婚約破棄したのか、ということと、永井荷風はなぜ孤独死を貫いたのか、ということである。この二つの共通項は、愛か芸術かという問いで、藝術を選んだということである。そして、彼らの性格には回避依存症の特徴が見られる点である。そういった観点から、二人を議論していくと広がるのは、眩い限りの現実における絶望の美しさである。一歩間違えば、錯乱しかねないほどの眩しさである。私はこれが好きだ。この世にある、あらゆるものの中で、不確かであるからこそ、何よりも正確で、誠実であるように感じられるから、耽美派とは何かといわれれば、潔癖症の人のことだと答える。普通の人が何の疑問もなく、口に入れる愛を、耽美派は、菌が付着しているといって、手にもつけない。無理に口に含んでも、全部吐き出してしまう。それが耽美派だ。純粋で、幼稚で、わがままで、強情で、貪欲で、潔癖なのだ。彼ら、という人間は、世界の割れ目、綻び、を享受し、生き、恐れ、絶望し、悲しむ。悲しみを悲しみ抜いて、ふいに笑みを溢す彼らを私は愛す。

 

※キルケゴール(1813-1855)デンマークの宗教思想家。『死に至る病』

 

 

 

 

 

 

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安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (作家が読む名作)

「1.美的リゴリズム」「2.白鳥の歌」「3.朝日での掲載」掲載済み

 

  1. 荷風の「悪戯」

 

『墨東綺譚』の連載がはじまると、朝日の車内の印刷工たちが、刷り上がった夕刊の小説に群がって読みふけったとか、駅の新聞売り場でも珍しく朝日の夕刊が真っ先に売り切れたとか、正宗白鳥、宇野浩二など、ふだん新聞小説に興味を示さない人たちが、『墨東綺譚』だけは欠かさず熱心に読んだとか、そんな話が伝わっているが、そうしたことは皆、後から聞いたり読んだりして知ったので、残念ながらその頃の私は映画に熱中して、他のことには全く無関心だった。

当時 わが家でも新聞は朝日を取っていたが、『墨東綺譚』が何処にどんな風に載っていたかという覚えもまるきりない。といっても、まだ中学生だった私には、墨東綺譚といわれても「墨東」とは如何なるものか全然、合点が行き兼ねたはずである。

私が東京へつれて来られたのは小学校上級生の頃だが、住んでいたのは青山、目黒、世田谷など、西のはずれの方だから、浅草へもめったに連れていってもらったことがない。地下鉄も最初は浅草・上野間だったのが、だんだん西へ寄ってきて、新橋で暫く工事が止まっていた。それが渋谷まで通ったのは、たしか昭和14年の春、私が中学を卒業した翌年かと思う。おかげで浅草は急に身近なとは言わないまでも、私にとって無縁な場所ではなくなった。もっとも玉の井はむろん、向島など川向うの町は、やはり縁遠いところには違いなかったが。

ところで秋庭太郎『考証永井荷風』には、昭和11年9月頃の或る晩のこととして、荷風が年少の友人小田呉郎を連れて墨田公園を散歩した際、風呂敷の結び目から古着の女物の派手な襦袢のはしを、わざと

眼につくようにチラチラさせながら、巡査の立っている交番の前を何べんも往ったり来たりしたという事が出てくる。前もって荷風は、小田に、「もし自分が不審訊問を受け、拘留されて三日たっても帰れなかったら、これを以て迎えにきてくれ」と戸籍謄本か何かの入った封筒を渡してあったという。しかし、いくら交番の前を派手な女の襦袢の風呂敷を下げて、ぶらぶらしていても巡査は何の興味も示さず、不審訊問どころか、声、一つかけてくれなかった。これは秋庭氏が小田氏から直接きいたものだというのだが、こういう話をきくと、荷風散人というよりまるで遠藤狐狸庵の悪戯談義を聞かされているような心持になる。

『墨東綺譚』を読んだ人なら、これが冒頭の場面で次のように使われていることを覚えているだろう――荷風の分身「わたくし」はその夜、浅草の帰りに山谷堀から日本堤に出ると、行きつけの古本屋で出会った男から、維新前後のものらしい胴抜きの長襦袢を、古雑誌と一緒に買って包ませた。風呂敷包みの中にはすでに先刻買ったパンや缶詰などが入っている。言問橋の灯のそばまできて、この包みが持ち難いので、公園の手前の暗い芝生の上に荷物をひろげ包みを直していると」と巡査に見咎められ、橋際の交番に連行される。

氏名、住所の次に年齢を訊かれると「巳(つちのと)の卯です」とこたえる。巡査は重ねて訊く。「いくつだよ」黙っていようと思ったが、後がこわいので「五十八」「いやに若いな」「へへへへ」といった調子であしらうと、次に巡査は服のポケットを調べて、財布を抜きだしたが、内身は見ずに卓子の上に置くと、風呂敷包みに眼を向けて言う。「ほどいて見せたまえ」パンと古雑誌まではよかった。次に《胴抜きの艶めかしい長襦袢の片袖がだらりと下がるや否や、巡査の態度と語調とは忽ち一変して》甚だ険悪な様子となる。このへんの呼吸はさすがに狐狸庵先生の文章とは格段の相違で、思わずドキリとさせられる。さいわいにして、取り調べの巡査の手が財布の中から、火災保険の保証書と、戸籍謄本、印鑑証明書と実印を探りだした。これらのものが無言のうちに、怪しげな物を持ち歩き、訊問に「巳の卵」などと気障りなことをうそぶく男が、有資産者であることを証明してくれて、「わたくし」は無事に釈放される。               次回は、5.横光利一「旅愁」

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熊谷元一研究

最新情報    熊谷27歳のとき感銘を受けた本、見つかる !!

 

灯台もと暗し 所蔵・日本大学芸術学部図書館。(前号313と重複)

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき出会ったのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だという。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けた。写真の一部を板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

本文目次

【論 説】都会の性格描写とカメラ

【研 究】藝術史的方法とプレハノフ

「第三期」的商業藝術

視覚的叙述に就いての小感

【解 説】展覧会と絵画形式

東京と新建築

資本的統制と現文壇

グラフの社会性

教化映画と教材映画

1931年の建築界

【断 想】フィルムとラヂオ

絵画技法の「超」階級性

美術に於ける「過去と現在」

機械の性格描写

【短 評】西洋美術館印象の断片

日本の展覧会で感じたこと

展覧会的絵画の一形態

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき思い出したのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だった。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けていた。写真の一部を著者の板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。本書のなかで熊谷が、特に深い感銘をうけた項は、小説と映画の融和性を説いた「グラフの社会性」である。

※板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年10月15日1966年7月3日)は、美術評論家。東京生まれ。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。HP

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熊谷が本書のなかで深い感銘をうけたとされる「グラフの社会性」とは、何か。その章を紹介する。

 

「グラフの社会性」1931・12・14-16 東京朝日新聞学芸欄

 

3

 

写真を応用したこの新時代の流行は、刊行物の輸入と共に日本にも伝わり、日本特有の迅速さで普及と模倣が行われはじめた。

月刊物としてのヂャーナリズムを代表する二大雑誌「中央公論」と「改造」とのうち、前者は1931年の1月号から、後者は4月号から、共にグラフを載せはじめた。「改造」は4月号に労農ロシアの大規模なグラフを208頁の附録として組み、6月号にはドイツの時事画報を掲げた。これに対して「中央公論」は、7月号の「近代構成美」、9月号の「世界舞台に登場する人々」10月号の「大東京の性格」等に於いて各々一種の目新しい試みを示している。その他の月刊誌では「犯罪科学」が、はじめから、写真についての独特な編集ぶりを示していた。古いものにはモホリ・ナギの模倣などが目立ったが、12月号以来の新しい試みは ―― その出来栄えは別として ―― 一種の興味を喚起する。

12月号の巻頭に載せた20頁のグラフは、村山和義氏の編集と、堀野正雄氏の撮影とになる「首都貫流」である。これは、試みそれ自身の面白さにも拘わらず、出来栄えは極めて拙劣であった。一般の批評として編集のアマチュア的平凡さと、撮影の平面的な稀薄さとが致命的な欠点として指摘された。特にカメラ技法においては、―― 中央公論の「大東京の性格」に私自身が拙い編集を試みた際にも感じたことだが、――効果的なアングルの欠けているいることが、カメラマンの努力にも拘わらず感じられる弱みであった。

また、1932年1月号の同誌が掲載している伊奈信男編集の「危機を探る」は、この雑誌に相応しい試みでもあり、編集の形式も相当に要領が良いが、言葉の用法は余りに甘すぎた。

そして、特に、ここに収められた危機の写真の半数以上が、全部上記の単行本「危機の一瞬間」1冊の中から転載されていることも、現代日本の流行現象として如何にも性格的である。

なほ、かかる模倣的現象として殊更私の興味を惹いたのは、村山和義氏も伊奈信男氏も、その最後の頁の編集形式を、等しく、上記ユダヤ人街の写真集「ウィルナ」に負うていることで、新しい試みが一つの「流行形式」となるまでの具体的な経路をここに窺うことができる。

然し「「犯罪科学」のように、グラフに興味を持つ人たちが毎月入れ代って編集を行う試みは、一つの興味深い方針でもあり、また今後各方面でも流行することと思われる。大宅壮一氏、吉田謙吉氏の如く、既にグラフの試みに進出している人達は、いうまでもないが、なほ、広く一般文壇の人達が、この試みに参興するようになつたら、ヂャーナリズムの新形態として、極めて興味ある着想ではあるまいか。

 

(つづく 次号は4です)

 

 

※1930年代初頭のこの時代 、外国の写真雑誌が入ってくるようになり、日本特有の速さで普及されるようになった、と同時に模倣もされるようにもなった。

写真雑誌の草創期。ジャーナリズムの新形態に着目。その後、写真雑誌は、予見通り発展進歩するが、写真週刊誌『フライデー』の最盛期を頂点に、失墜していった。原因は、商業主義と話題にのみ集中し、記録・継続を怠った。

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貴重な新資料お礼   提供=鈴木藤雄様(長野県飯田)

 

先日は、熊谷元一が紹介された地域誌『あいなび』(2017 4-6)を送っていただくなど、いつも「熊谷元一研究」に協力・協賛してくださっている信州飯田在住の鈴木藤雄様から、このたびも、また貴重な新資料の数々をお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。

2017年5月21日 「熊谷元一研究」編集室・下原敏彦

 

熊谷元一童画カレンダー 飯田中央農業協同組合

 

☆昭和54年(1979) 1月 ~ 12月 童画12枚

☆昭和56年(1981)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和57年(1982) 1月 ~ 12月 童画12枚

☆昭和58年(1983)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和59年(1984)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

☆昭和60年(1985) 1月 ~ 12月  童画12枚

☆昭和61年(1986)Ⅰ月~ 12月  童画12枚

※何れも未使用

 

ふるさとと農業を見直す農協絵本シリーズ

 

文・写真=飯田中央農協広報課 絵・熊谷元一

 

☆シリーズ(4)『虫封じ』みんなの健康を考える本  27頁

☆シリーズ(5)『石の語り部』村の歴史を考える本 27頁

☆シリーズ(6)『むらの碑(いしぶみ)』農協の歴史を考える本 27頁

☆シリーズ(7)『いろり』農家のくらしを考える本  27頁

☆シリーズ(8)『もらい風呂』農家のくらしを考える本(その2) 27頁

☆シリーズ(9)『こばし休み』むらの仕来たりを考える本(その1)27頁

☆シリーズ(10)『むら祭り』むらの仕来たりを考える本(その2)27頁

 

時代とともに消えゆく、忘れ去られていく村の生活、風習、四季の思い出。現代の日本人が失った「ふるさと」が、ここにある ! 

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写真カレンダー KOA(コーア) 提供=渡辺正一様(長野県阿智村)

 

『20世紀のこどもたちから 21世紀のこどもたちへ』

 

2001年1月 ~ 12月

 

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ふるさとと農業を見直す農協絵本シリーズ

 

 

 

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農協カレンダー

 

農協カレンダーについて童画家・熊谷元一は、自伝『三足のわらじ』のなかで、このように述べている。

 

10年間で130点描く 私の主要作品

 

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飯田中央農協で組合員に写真入りのカレンダーをだしていた。それが昭和53年(1978)から私の絵で作ってくれるようになった。その年は今まで描いた絵の中から選んでくれた。表紙大平越しの馬子、1月ほんやり、つづいて霰もこんこん、おたまかえるに、坊やはよい子だ、此処はどこの、夕焼け小焼け、ホーホーほたる、ぼんさまぼんさま、お月さまいくつ、柿をむくなら、とんびは信濃の、あっち山かぎれの13点。次の54年からは農作業を取りあげたり、年中行事をあつかったり、時には子どものあそびを取りあげたりして変化をつけた。背景も飯田周辺のこことわかるような風景をスケッチして入れた。

57年は表紙そりすべりだけあそびで、うたなしのリンゴの剪定、牛の親子、田おこし、苗しろづくり、山田の田植えなど主として農作業の歳でもあった。また59年などは、うたを入れユーモアのある、あんがりめ、小僧こっくり、でんでんまいこ、ゆさゆさどんどんなど子どものあそびを主とした歳もあった。

年を重ねるうちに題材がなくなり、あれこれ考えて仕上げた。そして昭和62年まで10年間なんとか、表紙とも130点描きあげて次の方にゆずってほっとした。これらの全作品は、額装にて阿智村の「熊谷元一童画・写真館」に納め、私の主要作品になっている。

(『三足のわらじ』から)

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熊谷元一研究  事実と想像で仕上げる 創作ルポ

永遠の一年生 ②

 

その日の朝

 

元一は、まんじりともせずその日の朝を迎えた。これまで日本中の、いや世界中のどんな教師も思いつかなかったことを、教育現場では考えられなかったことを、自分が今日から実践するのだ。そのことを思うと、胸が高まった。四月に入ったとはいえ、信州伊那谷の春は遅い。外はまだ霜柱がたつほどに冷えていた。が、元一の体からは緊張と興奮で、汗がじりじりと湧き出た。時刻は、まだ四時を過ぎたばかりだったが、心も体も急いて、これ以上、床にいられなかった。元一は、そっと立ち上がった。

「起きられますか」妻の貞子が布団のなかから声をかけた。

寝ていると思っていたが貞子も眠られなかったようだ。今日からの仕事は、詳しく話さないまでも、すでに貞子は、察していた。夫は、今日から学校において教師生命を賭けた一世一代の大仕事をはじめる。そのことは先刻承知していた。が、貞子は何も尋ねなかった。この日は、いつもより少し早かったが、いつものように起きて朝餉の支度に向かった。小学三

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年生の忠雄と六年生の博人はまだぐっすり眠りこけていた。

東の空が白々と明けていた。彼方の赤石山脈の峰の端に太陽がのぼろうとしていた。時に1953年、昭和28年4月1日の朝であった。日本は先の日本国憲法施行で独立国になってはいたが、民主教育は、まだ草創期にあって混乱していた。創意工夫、教師は自ら、信じる道を進むほかなかった。熊谷は満州宣伝の贖罪から教育の道を選択した。

 

【計画】

  1. 平穏な生涯 2.その日の朝 3.上京 チャンスは2度 4.戦争責任 5.図工において果たす  6.毎日写真賞 プロへの道。7.事故 8.後悔 9.自分が進む道 10.還暦からの出発

 

熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮りはじめる。

◆1937年(昭和12)永井荷風 58歳 『墨東綺譚』

志賀直哉 54歳 『暗夜行路』の完成に着手

7月7日盧溝橋事件 日中戦争突入

12月25日 石川達三32歳 従軍記者として中国へ。『生きている兵隊』

◆1938年(昭和13)嘉納治五郎 氷川丸船内で急逝 79歳

 

1938年(昭和1329歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

1939年(昭和1430歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係のネガ消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

西組は原房子先生18歳。

 

1953年(昭和2844歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

1955年(昭和3046歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

 

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

 

1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

現在100万部のロングセラー

 

1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

 

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.314 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

【動乱時代の熊谷元一と世界の出来事】1933~1937

 

 

□昭和8年(1933)24歳 2・4の赤化事件に連座し、小学校退職、郷里会地村に帰る。

・世界の出来事 3月日本、国際連盟脱退

□昭和9年(1934)25歳 童画の師、武井武雄から「かかし」の写真を送ってくれと頼まれ、カメラを借りてはじめてシャツターを押す。

・世界の出来事 3月満州国帝政実施

□昭和10年(1935)26歳 版画をはじめる。カメラに魅力を感じる。

・世界の出来事 8月政府国体明徴の重大声明

□昭和11年(1936)27歳 6月パーレットの単玉を17円で求め試写。毎日村をまわり、村人の生活を写す。「板垣鷹穂氏の「芸術界の基調と特潮」の中の「グラフの社会性」に深い感銘を受ける。」(『三足のわらじ』)写真の一部を板垣氏に送る。

・世界の出来事 1月日本ロンドン軍縮会議脱退、226事件 11月日独防共協定調印

□昭和12年(1937)28歳 送った写真が板垣氏に認められ『アサヒカメラ』2月号に評が載る。写真について自信がつき、村内を写しまわる。応召への心配。

・世界の出来事 7月7日盧溝橋事件、日支事変はじまる、11月日独伊三国防共協定調印、

日本軍南京占領(市民虐殺疑惑)

□昭和13年(1938)29歳 2年間写した村の写真、1500枚のなかから600枚を引き伸ばし写真集を作り、板垣氏に送る。これが朝日新聞社に紹介され、写真集『会地村』が12月に出版された。山村の一青年が、いきなり時の人となる。

・世界の出来事 3月第12回オリンピック、カイロ会議で東京に決定 5月日本国家総動員法成立、10月日本軍広東占領

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・

 

◆鈴木藤雄様からカレンダー、絵本の他に、熊谷元一と同期だった戦没画家市瀬文夫の口演記録の新聞記事(南信州新聞)もありました。併せてお礼もうしあげます。次号で紹介

 

ドストエフスキーを読みませんか

 

 

読書会のお知らせ ドストエフスキー全作品を読む会

どなたでも自由に参加できます。下原まで

 

月 日 : 2017年6月24日(土)

場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)

開 場 : 午後1時30分

開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分

作 品  :『悪霊』四回目

 

※  連絡090-2764-6052下原

 

 

 

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.5.29  名前

 

  1. テキスト『網走まで』について

 

なぜ「帝国文学」で没になったか

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  1. なぜ「網走まで」としたか

 

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  1. なんでない一日の記録 (足らなかったら裏面を使用してください。)

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