文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.315
日本大学藝術学部文芸学科 2017年(平成29年)6月5日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.315
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10
テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究
2017年読書と創作の旅
6・5下原ゼミ
文芸研究・日誌観察 『断腸亭日乗』を読む なんでもない一日の記録
人の世は、いつの時代も同じ
社会で起きる出来事は、時代も時間も関係ないようだ。たとえ100年過ぎようが200年過ぎようが、人間は変わらない。たとえば80余年前の永井荷風の4月の日記を覗けばこんな記録が書かれている。
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1936年(昭和11年)4月10日、新聞の雑報には連日、血なまぐさきことばかりなり、昨日9日の新聞には、小学校の教員その友の家にて彼女を見染め妻にせんと言い寄りしが、娘承知せざれば教員は直ちに女の親元に赴き掛け合いしが断られたり。教員は、警視庁人事相談掛けのもとに至り相談せしに、これまた思うに行かず、遂に殺意をお越し、劇薬短刀などを持ち娘の家に乱入せしところ娘は幸い外出中にて教員は家人の訴えによりその場で捕えられたという。乱暴残忍実にこれより甚だしきはなし、現代の日本人は自分の気に入らぬことあり、また自分の思うにならぬことあれば、直ちに凶器を振って人を殺しおのれも死することを名誉となせるがごとし、過日陸軍省内にて中佐某のその上官を刺せしが如しことに公私の別あれどこれを要するにおのれの思い通りに行かぬを憤しがためならずや/現代日本人の暴悪残忍なるは真に恐るべし、今朝の新聞には市内の或銀行の支配人にて年既に50を越えたるが、借金に苦しみその妻とその子3、4人を死出の旅の道連れとなせし記事あり。/この世はさながら地獄の如くなれり。/。
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※いつの時代にもストーカーあり一家心中あり。軍隊のなかでの殺人も。ちなみに、この年は、2・26大事件があった。
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文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.315 ―――――――― 2 ―――――――――――――
文芸研究Ⅱ
5・29ゼミ報告 究極の個人主義の魅力 スタヴローギンの告白
【究極の個人主義の魅力】について
「永井荷風の生き方。 無頼派作家との違い」を語る。島袋さん
【スタヴローギンの告白】スタヴローギンの「告白」を黙読、性格を探る
・スターヴローギン = ニヒリズムの敵…高慢な貴族…彼はあらゆる党派の外にいる…地主貴族のぼんぼんの堕落した性質と、非常な知力と、心情の偉大な行動…この人の中に、訳を演じている者がおり仮面があるのが、見てとれた。『創作ノート』
私を驚かせたのは、彼の顔だった…まるで絵に描いた美男子のようなのに、同時に何か非常に不快な感じがするのだ。あの人の顔は仮面のようだ、と人々は言った…『悪鬼ども』
スタヴローギン
8歳 ステパンが家庭教師として招かれる
16歳 学習院に入れられる(ペテルブルグ)
20歳ごろ? 近衛騎兵連隊に配属される
上流社会で成功するも、奇怪な事件を起こし始める。
(1861年2月 ロシア 農奴解放令発布)
1863年 下士官に昇進 将校に復官するも退職
→ペテルブルグで自堕落な生活を送る
(「スタヴローギンの告白」の内容はこの時期のこと)
3つのアパートを借り、複数の女性との密会を重ねていた。
そのうちの一つの部屋の隣に住む少女マトリョーシャを誘惑し、自殺に追い込む。
→生きていくのが気が狂いそうなほど退屈。自分の人生を滅茶苦茶にしたいとの誘惑にかられ、マリヤ・レヴャートキナと結婚する。
25歳ごろ 故郷スクヴォレーシニキに戻る(1回目の帰郷)
気違いとしての印象を残す。
・ガガーノフ引きずり事件(4年後 「あの時は完全に健康というわけではなかった」)
・リプーチン妻への接吻事件
・県知事耳噛みつき事件→収監。精神錯乱状態にあると診断される。
→2か月の療養の後、旅に出る(以降4年。ヨーロッパ、エジプト、エルサレム、アイスランド)
・アメリカへ行く前のシャートフとキリーロフに影響を与える。
・ドイツ旅行(1年前)のとき、偶然立ち寄る田舎町での一夜、夢を見る。
『黄金時代(アシスとガラテヤ)』の世界であるが、マトリョーシャが首をつってから息絶えるまでの間に凝視していた赤い蜘蛛が見える。
それ以来、毎日、拳を振り上げたマトリョーシャの姿を見る。
・スタヴローギンはリーザと重婚しようと思うが、ダーシャにたしなめられ、逃げる。
→8月末にドロズドワ母娘、ダーシャ戻る。スタヴローギンは7月にペテルブルグへ。
→ワルワーラ夫人、帰郷したダーシャにステパンとの結婚を持ちかける。
→ダーシャとステパンの婚約発表の日、ワルワーラ夫人の屋敷に現れる。(2回目の帰郷)
※「告白」は『悪霊』の中のほんの些少だが、作品を読むきっかけになってくれたら…
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課題報告
- 車内観察
時間帯の乗車率 島袋美咲
西武新宿線の「新宿駅」から「所沢駅」へと向かう電車は、西武池袋線の「池袋駅」から「所沢駅」へと向かう電車に乗る人より少ない。それを見て私は、新宿にいる人は、午後11時という中途半端な時間には帰らないんだと勝手に思った。
□なぜでしょう。
- 『にんじん』の家族 にんじんの性格について
不思議な家族関係 島袋美咲
過去を想起する形で書かれている感じがする本作を読んでいると作者がどれほど自分という存在を投影して届いているか気になっていました。
□実際の母子関係はどうだったか。その後の母親の悲劇は、関係するのか?
- なんでもない一日の記録
幸福な人は日曜日に動物園に行く 島袋美咲
動物園に日曜日、行った。幸福そのものみたいに空気が入り、混じっては渦を巻く。なぜかと考えてみれば、理由は単純だった。そもそも、動物園に日曜日に来るような人は、大概幸福な人なのだ。彼らの息が渦を巻いているのだ。そして、私の息もそこに混じっては渦を巻いているのだろう。
□幸福だったのですね。
- テキスト感想 (『出来事』・『正義派』を読む)
子どもが目の前で死ぬ話と助かる話。対照的に書かれる本作に対して、私はどちらに転べど、それが同時に起こりうる現象であることの危うさと残酷さを思った。
【正義派ドキュメント 日記から】
・1912年(明治45)5月2日 夜少し仕事をした。(興奮という題の)
・同上5月5日 「興奮」という題の小説を書き上げた。「興奮」→「正義派」
・同上5月17日 雀の声を聞きながら眠って翌日の12時半に起きた。「線路工夫」を少し書いてみた。「興奮」→「線路工夫」
・同上5月28日 夜「正義派」わ書き終わった。感心すべき物ではない。暫く放擲
・同上8月25日 明け方、とうとう正義派を書き上げる。悪い小説とは思わない。
〈創作余談〉
「車夫の話から材料を得て書いたもので、短編らしい短編として愛している」
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関東大震災の日 大災害の日の記録
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『断腸亭日乗』永井荷風45歳 1923年(大正12年)9月1日
身体の動揺さながら船上に立つが如し 永井荷風
忽爽(こつそう)雨やみしが、空折々かき曇りて細雨烟(けむる)が如し。日まさに午ならむとする時、天地たちまち鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みたりしが架上の書帙頭上に落来るに驚き、立って窓を開く。門外塵煙濛々殆ど咫尺を弁ぜず。児女雛犬の声しきりなり。/予もまた徐に逃走の準備をなす。時に大地再び振動す。書巻を手にせしまま表の戸を押し開いて庭に出たり、数分間にしてまた振動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門によりておそるおそるわが家を顧みるに、屋根瓦少し滑りしのみににて窗(まど)の扉も落ちず。やや安どの思いをなす。昼げをなさむとて表通なる山形ホテルに至れるに、食堂の壁落ちたるとて食卓を道路の上に移し、2、3の外客椅子に坐したり。食後に帰りしが振動やまざるをもって内に入ることかなわず。庭上に坐してただ戦々恐々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕げをなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。10時江戸見坂を上がり家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上がり大村伯爵家の隣地にてやむ。我が庵をさることわずかに1町ほどなり。
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ある日の記録 土壌館日誌 2017年6月4日(平成29年)晴れ
今日は、春季市民柔道大会。7時半、息子の車で市の武道センターへ。8時到着。8時半開場のセンター玄関前には既に試合出場の子どもと応援の家族たちが大勢待っていた。野田元首相がくるということで、SPもすでに何人か立ちならんでいた。要人警護にどれほど効果があるのか知らないが、来場者の胸ににワッペンを貼る。受付でプログラムと景品渡しの手伝いのあと、3階の剣道場の隅に敷物を敷いて場所取り。小学生から一般まで、男女選手がぞくぞく入ってくる。選手、応援もいれると1000余名ぐらいか。柔道人口減少のせいか。いつもより少ない。監督親子くる。9時の集合。今年大学を卒業し一般から出場予定の高以良君からメール、土壌館のゼッケンがみつからないとのこと。ほとんど稽古をしていないので、棄権をすすめるが、出場したいとのこと。ほどなくしてあったとの返事。二宮中学の顧問が挨拶に。土壌館から柔道部に入部したことへの挨拶。野田元総理、いつものように3分間スピーチ。本日は時間余裕あってか、すぐには帰らず15分ばかり観戦。試合新ルールだが問題なく。小学生選手、ことごとく敗退。中学女子選手一回戦突破なるも二回戦、敗退。有段者の部、高井良君出場するも、数秒のうちに破れる。本人落胆。稽古不足を知る。反省会での事故報告、小学生1名骨折の疑いが、大事ないとのこと。4時終了。帰路。長い一日。
小4 片桐 1回戦 一本背負い
小5 福田 1回戦 大内刈り
中一 小柏 1回戦、横四方固め 2開戦、内股
中二 石川 1回戦 (水野1回戦)
(中3 菊池1回戦 )
一般 高以良 1回戦
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安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (作家が読む名作)
「1.美的リゴリズム」「2.白鳥の歌」「3.朝日での掲載」「4.荷風の〈悪戯〉」掲載済み
- 横光利一『旅愁』
永井荷風が、まだ『墨東綺譚』の構想に目鼻もついていないまま、玉の井の町を夜毎うろつき歩いていた頃、横光利一は海路、ヨーロッパを目指して出港した。
その船が日本をはなれて数日もたたぬうち、2・26事件が起こり、その報せを船中で受けた横光は、異様なショックに襲われたようだ。実際、あの頃の日本人は外国へ行くというだけで、言いようもない緊張を覚えていた。まして2・26事件のような”政変”が勃発したとあっては、おそらくだれもが前途に不吉な予感を覚えたであろう。
4月のはじめに横光はマルセーユに到着し、一行の日本人は一旦ここで上陸して、名物のブイヤベースを食べに出掛けることになる。しかし『旅愁』の主人公の矢代は、いざ明るい港町のレストランに入ると、急に片脚が硬直したまま動かなくなった。別段、上陸第一歩の街に気圧されたわけでもないが、とにかく脚が引きつれて我慢ならなくなったので、食卓を離れて外へ出た。同船の客千鶴子が心配してついてきてくれた。矢代は、なさけない思いだった。他の男たちは皆、地元の白葡萄酒でブイヤベースを飽食しているというのに、千鶴子と一緒に日本の船に戻ってみると、矢代の脚は、あれほど硬直していたのが嘘のように治り、船内を自由に動き回れるようになっていた。この『旅愁』という小説を、私はその後、途中まで読んで何度も放棄することになるのだがこの矢代がマルセーユに上陸したとたん脚がつれて動けなくなり、日本の船に戻ると無意識のうちに、その痛みを忘れているという場面は、何度読んでも面白い。
極端な言い方をすれば、横光氏のヨーロッパ紀行のすべては、上陸第一日目の脚の痛みに集約されているのかもしれない。いや『旅愁』は小説だが、そのヨーロッパ「紀行」は最初に次のように述べてある。
《4月4日 雨。巴里へ着いてから今日で一週間も経つ。見るべき所は皆見てしまった。しかし、私はここのところは書く気が起らぬ。早く帰ろうと思う。こんなところは人間の住む所じゃない。・・・》
《巴里について、いろいろな人が、いろんな事を云ったり書いたりした。しかし、それらの人々が、自分の顔がどんなに変わったか誰も云いもしなければ、知りもしない.》
これは必ずしも、横光氏の創見でも卓見でもない。小出樽重もこれと同じようなことを言い、実際にフランス滞在を早々に切り上げて、古いフランス人形を一つ買って帰ると、その人形をモデルにたくさんの版画やガラス絵を描いて、それを生活の資とした。
横光も小出も、ここではフランスに到着早々、脚痛を起こしたなどとは書いていない。しかし一週間もすれば、見るべきものは皆見てしまったという点は同じであり、さらにパリ街頭のガラス窓に映った自分の容貌風姿にウンザリさせられている点でも同様なのである。
私は、ここに荷風の『ふらんす物語』の引用を差し控えることにする。荷風のフランス賛美と陶酔とはあまりにも有名で、それが横光や小出の印象記とは全く対象的なものであることは、あらためて言うまでもないことだからである。
しかし、それ以上に私は、あれほどフランスに惚れ抜き、骨の髄からフランス文明に共鳴していたかに見える荷風が、父の病気で一年そこそこのフランス滞在を切り上げて日本に帰ると、以後一度もフランスに足を向けなかったことが、不思議に思われるからだ。
勿論、現在のように手軽にジェット機でフランスへ出掛けられる時代を基準に考えるわけにはいかないが、荷風ほど容易に外遊できる条件に恵まれた人は珍しかったろう。それなのに、なぜ日本に居座って動こうとしなかったのか ? じつは、こんなことは私達が考えてみたって仕方がないだろう。ただ、想像するのに、荷風は或る時期から、東京の街中のくら
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しを意外に愉しんでいたのではなかろうか。パリなど、その気になれば
何時でも行ける。そういう好条件にあると、却って外国へ行くのは億劫になり、むしろ川向うの溝沿いの私娼の町に足を運ぶことが多くなったのではないか。
次号につづく 次号は「6.大人と子供の違い」
熊谷元一研究
最新情報 熊谷27歳のとき感銘を受けた本、見つかる !!
灯台もと暗し 所蔵・日本大学芸術学部図書館。(前号313と重複)
板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932
昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき出会ったのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だという。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けた。写真の一部を板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。
板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932
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昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまちに行き詰まった。そんなとき思い出したのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だった。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けていた。写真の一部を著者の板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。本書のなかで熊谷が、特に深い感銘をうけた項は、小説と映画の融和性を説いた「グラフの社会性」である。
※板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年10月15日 – 1966年7月3日)は、美術評論家。東京生まれ。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。HP
「グラフの社会性」を読む
熊谷が本書のなかで深い感銘をうけたとされる「グラフの社会性」とは、何か。その章を紹介する。
「グラフの社会性」1931・12・14-16 東京朝日新聞学芸欄
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絵画から写真へ、写真からグラフへの道へ
1932年に入ってからは、既に「経済往来」の如きも、資本主義形態のプロフィールを扱ったグラフを計画しているし、他の月刊雑誌も、追々この流行に参加することであろうが、かかる性質の雑誌以外にグラフ専門の刊行物も、既に様々の新しい試みを行いはじめている。
例えば、数年前から時折、一種の試みを示している「朝日グラフ」の如きも、最近には、東京の断片を扱った敷度の編集を発表している。「窪川いね子と東京を歩く」や下村千秋氏を動員したルンペンものがこれである。その他、シルスキーが無産階級者の顔について行ったクローズ・アップを「財界の巨頭」応用した模倣形態などもあつたように記憶する。
この種のグラフ物は――婦人雑誌の革新を企画した「婦人画報」の如く――なほ今のところ「朝日グラフ」の追従者以上に出ないものが多いが、中で一つ「ソゥ゛ェトの友」が、特殊な位置に立っている。
これに類する刊行物としては、既にソヴェト連邦自身の宣伝機関誌として「建設期のソヴェト連邦」が各国語で出ているが、これよりも遥か低廉な売買を必要とする「ソヴェトの友」には、編集上の著しい制約が加えられている。しかし、かかる経済上の制限を別問題としても、編集形式上なお改善の余地は多い。中でも説明と写真とがあまりに錯雑して盛り込まれていることと、強調すべき部分と単なる装飾的要素との区別が著しく不明であることとが、特に甚だしい缺點であろう。
なお「ソヴェトの友」に関連して考えられる問題は、プロレタリア藝術の中に写真を摂取する方法がもっと広く応用されてもよかろう、と思われることである。昨年の「プロレタリア美術展覧会」には、写真を組み込んだ一つの試みが出ていた。また、劇場同盟が映画同盟の助演を求める習慣も前から行われているし、プロキノの写真展覧会も――出来栄えは拙かったが――すでに展かれている。更に最近には、プロ・フォトという一つの團体ができあがったようである。本年の秋になって開催されたプロレタリア美術展をみると、政策の範囲が非常に拡大されて、質的にも多くのヴァラエティが現れはじめている。そこには、焼物の茶器から託児場の建築設計までが陳列されているが、中でも最も注目すべき一つの試みは、農業争議を扱った絵巻物であった。この作品は多くの部分がカットされていたので全体の出来栄えは解からないが、昨年出ていた類似の作品よりも優秀なように推察された。
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けれども、絵巻物の形式は、形式それ自身が既に甚だしく古風であり、有閑階級の特殊性に基づいて発達したこの形式を、プロレタリア藝術に取り入れることも無理である。私の考えとしては、ここに写真と文字と絵画とのモンタージュを行って、もっと力強い特有の形式を創案する方が、より効果的であり新鮮味も多いと思う。そして、かかるモンタージュの形式は、そのままを製版の原稿として大量的に生産することが可能なはずである。
絵画から写真へ、写真からグラフへの道が、ここにもまた求められるのではあるまいか ?
入手資料紹介 南信州新聞に連載された口演の台本
・口演 戦没画家・市瀬文夫(無言館代表作品「黒衣の婦人」)台本記事
講談 神門久子 台本 牧内雪彦
熊谷元一が登場する個所 台本から(いずれも南信州新聞に掲載)
4月20日 木曜日の南信州新聞「戦没画家・市瀬文夫 ③」
親友の熊谷元一らと自転車通学
こうして飯田中学生になった市瀬文夫。
「山本村からおよそ12㌔の道を自転車通学です。もっと遠く駒ン場の方面から走ってくる生徒たちと待ち合わせ、集団になって自転車通学するのでした。その中に文夫が最も親しくなった熊谷元一さんがおります。
熊谷元一さんに誘われて入った《創作部》。今日なら部活の美術部とか美術班でしょうが、飯田中学では創作部と云ったようです。
4月26日 水曜日の南信州新聞「戦没画家・市瀬文夫 ④」
熊谷元一君が来てくれたぞっ!
市瀬文夫は、東京上野の美術学校を卒業すると紀州和歌山の県立粉河中学の教師として赴任した。昭和14年、春であった。新婚生活の家で生徒たちと話していた。
と、その時、トントンと戸口を叩き、
「ごめんないし。ごめんないしょ」
と呼んでいる声。胸に響くふるさと言葉
「ごめんないしょ。市瀬文夫君はおいでかな」
その声で市瀬先生は、突然わーつと大きな叫び声をあげて階段を飛び降り、戸をあけて「やっぱり熊谷元一君だ。なんと嬉しい不意打ち訪問。どうぞ、さあどうぞ上がってください。おーい文枝、熊谷元一君が来てくれたぞっ! 熊谷くんだあ!」
泣きださんばかりの感激です。夢じゃないかとほっぺたをつねります。
つい今しがた遠い信州の故郷を思っていた、その目の前に、いちばん懐かしい親友が現れるなんて! 友情に理解のある粋な神様のお引き合わせなら、その神様に感謝です。
やや、興奮から冷めた文夫は、生徒たちがアキレ顔しているのに気がついて、
「ああ、紹介するよ、こちら熊谷元一さんだ。中学時代の先輩でね、自転車通学でいつも一緒だった。そして僕ら夫婦を結び付けてくれた恩人、月下氷人なのだよ」
「おいおい、そのくらいにして、この俺が、突然に和歌山へ来た訳を聞いてくれよ。ようやく仕事にありつけたんだ。こう見えても今は拓務省の嘱託だよ。官費出張で和歌山県の農村調査にきたんだ」
そうなんです。熊谷さんは飯田中学を卒業後、小学校教師になりましたが、社会思想事件
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に関連して学校を追われ、上京して職を探しながら浪人暮らしをしていたのです。(実際は、郷里で家業を手伝いながら、カメラで村人を撮っていた)
「挿絵や写真をもって雑誌社や出版社回りをやっていたけど、思わしくなくてね。やけのやんぱち駄目を覚悟で、拓務省に提出した履歴書に、特技は写真撮影と書いたのが大当たりだったのさ」(実際は、評論家・板垣鷹穂に送った写真が評価され、朝日新聞社が写真集「会地村」を出版。内外で高い評価を得て拓務省の満州事業嘱託に推薦された)
「採用されてよかったですねえ。よーし、いい事を思いついたぞつ! 熊谷君の就職祝いだ。五平餅だ! おーい文枝、ミカン山行きは五平餅に変更だぞ。さあ、きみたちもお手伝いしなさいよ。水汲み、マキ割、竹の串作り、それぞれ分担をきめるぞ」
「オーケーです」「はーい」「はい」
生徒たちの元気な声を聞くと、市瀬先生もねじりはちまきして行動開始です。
「おーい文枝。ご飯が炊けたら『半殺し』の練り作業は俺がやるからな」
「はーい。お願いしまーす」
「熊谷君は大事なお客様だから、五平餅が出来るまでその辺を散歩しててください」
4月28日 金曜日の南信州新聞「戦没画家・市瀬文夫 ⑤」
身体に気をつけて、いい絵を描いてくれ
よほど楽しい五平餅会だったのでしょう。熊谷元一さんからの手紙が今も保存されていますので、朗読してみましょう。
「突然の訪問だったのに大歓迎してくれて有難う。紀伊の国で食べた五平餅は格別にうまかったよ。死ぬまで忘れないだろう。僕は、こんどは満州開拓村の視察団に入れられた。満州はバカ広いところだというが、まあよく見てくるよ。ではまた逢う日まで、身体に気をつけて、いい絵を描いてくれ。文枝夫人にも、どうぞ宜しく。
昭和14年 市瀬文夫様 熊谷元一
口演は、2017・4・1 東京四七会にて行われた。講談・神門 久子 台本・牧内 冬彦
台本の全文は南信州新聞(2017・4/14 /17 /20 /26 /27)に掲載された。
熊谷元一と市瀬文夫は、飯田中学時代の親友。和歌山県立粉河中学で絵画教師だった市瀬は、昭和15年9月召集され昭和19年2月20日ニューギニヤ・マダン島において戦死 享年29歳。
ちなみに警察官だった私下原の叔父・下原忠男(28)は、同年2月トラック島付近で戦死した。(作家山本茂実著『松本連隊の最後』角川文庫に詳細が)
農協カレンダー
農協カレンダーについて童画家・熊谷元一は、自伝『三足のわらじ』のなかで、このように述べている。
10年間で130点描く 私の主要作品
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飯田中央農協で組合員に写真入りのカレンダーをだしていた。それが昭和53年(1978)から私の絵で作ってくれるようになった。その年は今まで描いた絵の中から選んでくれた。表紙大平越しの馬子、1月ほんやり、つづいて霰もこんこん、おたまかえるに、坊やはよい子だ、此処はどこの、夕焼け小焼け、ホーホーほたる、ぼんさまぼんさま、お月さまいくつ、
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柿をむくなら、とんびは信濃の、あっち山かぎれの13点。次の54年からは農作業を取りあげたり、年中行事をあつかったり、時には子どものあそびを取りあげたりして変化をつけた。背景も飯田周辺のこことわかるような風景をスケッチして入れた。
57年は表紙そりすべりだけあそびで、うたなしのリンゴの剪定、牛の親子、田おこし、苗しろづくり、山田の田植えなど主として農作業の歳でもあった。また59年などは、うたを入れユーモアのある、あんがりめ、小僧こっくり、でんでんまいこ、ゆさゆさどんどんなど子どものあそびを主とした歳もあった。
年を重ねるうちに題材がなくなり、あれこれ考えて仕上げた。そして昭和62年まで10年間なんとか、表紙とも130点描きあげて次の方にゆずってほっとした。これらの全作品は、額装にて阿智村の「熊谷元一童画・写真館」に納め、私の主要作品になっている。
(『三足のわらじ』から)
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熊谷元一童画カレンダー 飯田中央農業協同組合
☆昭和54年(1979) 1月 ~ 12月 童画12枚
☆昭和56年(1981)Ⅰ月~ 12月 童画12枚
☆昭和57年(1982) 1月 ~ 12月 童画12枚
☆昭和58年(1983)Ⅰ月~ 12月 童画12枚
☆昭和59年(1984)Ⅰ月~ 12月 童画12枚
☆昭和60年(1985) 1月 ~ 12月 童画12枚
☆昭和61年(1986)Ⅰ月~ 12月 童画12枚
以前に入手した写真「一年生」カレンダー
写真カレンダー KOA(コーア) 提供=渡辺正一様(長野県阿智村)
『20世紀のこどもたちから 21世紀のこどもたちへ』2001年1月 ~ 12月
ふるさとと農業を見直す農協絵本シリーズ
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文・写真=飯田中央農協広報課 絵・熊谷元一
☆シリーズ(4)『虫封じ』みんなの健康を考える本 27頁
☆シリーズ(5)『石の語り部』村の歴史を考える本 27頁
☆シリーズ(6)『むらの碑(いしぶみ)』農協の歴史を考える本 27頁
☆シリーズ(7)『いろり』農家のくらしを考える本 27頁
☆シリーズ(8)『もらい風呂』農家のくらしを考える本(その2) 27頁
☆シリーズ(9)『こばし休み』むらの仕来たりを考える本(その1)27頁
☆シリーズ(10)『むら祭り』むらの仕来たりを考える本(その2)27頁
時代とともに消えゆく、忘れ去られていく村の生活、風習、四季の思い出。現代の日本人が失った「ふるさと」が、ここにある !
貴重な新資料お礼 提供=鈴木藤雄様(長野県飯田)
先日は、熊谷元一が紹介された地域誌『あいなび』(2017 4-6)を送っていただくなど、いつも「熊谷元一研究」に協力・協賛してくださっている信州飯田在住の鈴木藤雄様から、このたびも、また貴重な新資料の数々をお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。
2017年6月1日 「熊谷元一研究」編集室・下原敏彦
熊谷元一と激動の時代
・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。
・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。
・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮りはじめる。
◆1937年(昭和12)永井荷風 58歳 『墨東綺譚』
志賀直哉 54歳 『暗夜行路』の完成に着手
7月7日盧溝橋事件 日中戦争突入
12月25日 石川達三32歳 従軍記者として中国へ。『生きている兵隊』
◆1938年(昭和13)嘉納治五郎 氷川丸船内で急逝 79歳
・1938年(昭和13)29歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。
・1939年(昭和14)30歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。
・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係のネガ消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.314 ―――――――― 12 ―――――――――――――
熊谷元一研究入手資料紹介 ・熊谷元一農協絵本シリーズ
ふるさとと農業を見直す絵本 7冊(27頁)(提供 飯田・鈴木藤雄氏から)
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※こばし=稲をこぐ農機具。上の図 脱穀の道具。
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2017年 熊谷元一写真童画館 お知らせ
☆2017年 第20回熊谷元一写真賞コンクール応募 詳細は「熊谷元一写真童画館」HP
テーマは「遊ぶ」です。併せて「阿智村」を撮る
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提出課題 文芸研究Ⅱ下原ゼミ 2017.6.5 名前
- テキスト『正義派』感想
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- 気になった出来事(社会観察)
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- なんでない一日の記録
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