文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.316

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)6月12日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.316

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

6・12下原ゼミ

 

 

文芸研究・新聞観察  ある日(6・8)の新聞に想うの

 

このごろ国内外、ろくなニュースはない。日本の国会では、連日、小学校新設につづいて大学の獣医学部新設忖度疑惑騒動。外国に目を向ければ、アメリカ大統領トランプ氏のロシア疑惑、イギリスでは連続テロと総選挙での与党敗北。そして、テロ輸出国家であったはずのあのイランでテロ、となんとも騒々しい限りだ。

たまたま手にとってひろげた新聞(朝日新聞)、6月8日付の朝刊だが、昨今のニュースを象徴するような記事ばかりである。列挙すればこんな記事である。

一面

□作業員4人内部被爆 茨城県大洗町の日本原子力研究開発機構大洗研究開発センター最大2.2万ベクレル国内最悪 容器内、26年点検せず

□イラン国会と廟襲撃、12人死亡 ISが声明

三面

□2児早朝までに殺害か 福岡 母親も首に圧迫の痕 一時「心中」揺れた判断

□逃走支援に中核派十数人 渋谷騒動 大坂容疑者を再逮捕 早く真実を。

□「共謀罪」空気を読まない物に疑いの目向かう

□浜渦氏告発を可決 都議会「豊洲百条委で偽証」

 

このように最近のニュースにろくなものはない。(大坂容疑者逮捕はいいとしてだが…)よいことが一つあるとすれば将棋の藤井四段(14)がずっと勝ちつづけているというニュースか。現在まで23連勝だという。

 

ホモ・サピエンス 30万年前に誕生 ?

 

暗い記事の中に一つだけ、ロマンのある記事を見つけた。8日、英科学誌ネイチャーに人類の祖先ホモ・サピエンスの骨がモロッコで発見されたとのこと。発表したのはドイツの進化人類学研究所。歯の年代測定の結果、約30万年前のものとみられる。

/研究チームは「進化はアフリカ東部に限らず、全土で徐々に進んだ可能性がある」と結論づけている。

 

 

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ゼミⅡ テキスト感想

 

テキスト感想 (『剃刀』を読む)

 

職業上の過失致死か

 

計画ではないが、殺人罪に当たると思う。 島袋

 

なんども中止できる機会はあった。にもかかわらず、体調不備を押して剃りをつづけた。

 

 

ゼミⅣ エッセイ課題報告

 

6・9課題  最近、興味あること

最近はジャズが好き       須川 藍加

 

最近ジャズが好きです。日本のも好きだし、海外のも好き。日本で、最近出ているジャズバンドは音がとても透き通ってて、テンポも速いし、音数も多いんだけど、うるさくない。海外のは、地下にある、おいしいオムレツとおいしいハイボールを出してくれるバーで流れてきそうなやつ。今にも音から錆びが出てきそうでとてもすき。

 

□音楽とレストランのメニューのイメージ。文章に特徴がでてきました。

 

6・9課題 なんでもない一日の記録

 

雨の日          須川 藍加

今日はゼミの日、だから絶対に学校に行かなくちゃ。ゼミは4限だからゆっくり起きられる日。はあ、ちょー幸せ。双子のはーがバイト先からもらってきたピザ(海老とアボガドのやつ。ちょーおいしかった)オーブンで焼いて食べた。あと、ブラックコーヒーも。今日は、朝に、誰かが淹れた残りがあったからラッキー。パンを食べながら録画してある「バスリズム」と「最高の人生のはじめ方」を見る。シャワーを浴びて外出の準備をする。雨もすごく降ってるし外に出たくないなあ―。雨が好きっていうやつはキライ!詩人ぶってんなよって思う。現実を見ろ。チャリは使えないし、お気に入りの服も着れないし、何よりも巻いた髪が台無しになる。ゼミが終わって山下先生に夫婦茶碗を渡す。マミーが買ってくれたやつ。喜んでくれてよかった。このあとは山崎先生の授業を受けて帰る。早く隊長とお酒飲みたいなー。帰りに西武でワインでも買っていこうかしら。あと、今日は夜にジャッキーと電話しなきゃあ。たのしみ。

 

□頑張って授業、でて来ていたのですね。

 

 

 

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熊谷元一研究

 

熊谷元一研究料紹介・熊谷元一農協絵本シリーズ(10)「むら祭り」

 

ふるさとと農業を見直す絵本 7冊(27頁)(提供 飯田・鈴木藤雄氏から)

ふるさとと農業を見直す絵本シリーズ「夜田打」を発刊して、今年で十年たち絵本も十冊となりました。

十冊目の「むら祭り」は、農村のくらしやしきたりと大きなかかわりのある「祭り」をとおして、むらの一年の農作業にもふれました。飽食の時代と言われる現代において、苦しい時代を生き抜いてきたお年寄りの会話の中に学んでいただきたい事柄をふれました。微意おくみとりくだされば幸いです。

昭和61年12月1日

 

むらの仕来たりを考える本(その2)

文・飯田中央農協組織広報課

絵・熊谷元一

 

 

 

童画・写真・絵画を結ぶもの

 

昭和11年(1936年)失職中の熊谷は、写真による故郷・会地村の村誌を計画、村人の生活を撮って回っていた。が、基礎となる理念がなかった。そのため、たちまち行き詰まった。そんなとき思い出したのが、板垣鷹穂の『藝術界の基調と時潮』だった。とくに本書の中の「グラフの社会性」には深い感銘を受けていた。写真の一部を著者の板垣氏に送ったことから、熊谷の写真への道がにわかにひらけてくる。本書のなかで熊谷が、特に深い感銘をうけた項は、小説と映画と絵画の融和性を説いた「グラフの社会性」である。

 

※板垣鷹穂(いたがきたかお/たかほ、1894年10月15日1966年7月3日)は、美術評論家。東京生まれ。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。

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ドストエフスキー関連 ドストエフスキーと永井荷風「墨東綺譚」

 

安岡章太郎『私の「墨東綺譚」』を読む (作家が読む名作)

 

「1.美的リゴリズム」「2.白鳥の歌」「3.朝日での掲載」「4.荷風の〈悪戯〉」掲載済み

 

  1. 横光利一『旅愁』 (都合で前号と重複します)

 

永井荷風が、まだ『墨東綺譚』の構想に目鼻もついていないまま、玉の井の町を夜毎うろつき歩いていた頃、横光利一は海路、ヨーロッパを目指して出港した。

その船が日本をはなれて数日もたたぬうち、2・26事件が起こり、その報せを船中で受けた横光は、異様なショックに襲われたようだ。実際、あの頃の日本人は外国へ行くというだけで、言いようもない緊張を覚えていた。まして2・26事件のような”政変”が勃発したとあっては、おそらくだれもが前途に不吉な予感を覚えたであろう。

4月のはじめに横光はマルセーユに到着し、一行の日本人は一旦ここで上陸して、名物のブイヤベースを食べに出掛けることになる。しかし『旅愁』の主人公の矢代は、いざ明るい港町のレストランに入ると、急に片脚が硬直したまま動かなくなった。別段、上陸第一歩の街に気圧されたわけでもないが、とにかく脚が引きつれて我慢ならなくなったので、食卓を離れて外へ出た。同船の客千鶴子が心配してついてきてくれた。矢代は、なさけない思いだった。他の男たちは皆、地元の白葡萄酒でブイヤベースを飽食しているというのに、千鶴子と一緒に日本の船に戻ってみると、矢代の脚は、あれほど硬直していたのが嘘のように治り、船内を自由に動き回れるようになっていた。この『旅愁』という小説を、私はその後、途中まで読んで何度も放棄することになるのだがこの矢代がマルセーユに上陸したとたん脚がつれて動けなくなり、日本の船に戻ると無意識のうちに、その痛みを忘れているという場面は、何度読んでも面白い。

極端な言い方をすれば、横光氏のヨーロッパ紀行のすべては、上陸第一日目の脚の痛みに集約されているのかもしれない。いや『旅愁』は小説だが、そのヨーロッパ「紀行」は最初に次のように述べてある。

《4月4日 雨。巴里へ着いてから今日で一週間も経つ。見るべき所は皆見てしまった。しかし、私はここのところは書く気が起らぬ。早く帰ろうと思う。こんなところは人間の住む所じゃない。・・・》

《巴里について、いろいろな人が、いろんな事を云ったり書いたりした。しかし、それらの人々が、自分の顔がどんなに変わったか誰も云いもしなければ、知りもしない.》

これは必ずしも、横光氏の創見でも卓見でもない。小出樽重もこれと同じようなことを言い、実際にフランス滞在を早々に切り上げて、古いフランス人形を一つ買って帰ると、その人形をモデルにたくさんの版画やガラス絵を描いて、それを生活の資とした。

横光も小出も、ここではフランスに到着早々、脚痛を起こしたなどとは書いていない。しかし一週間もすれば、見るべきものは皆見てしまったという点は同じであり、さらにパリ街頭のガラス窓に映った自分の容貌風姿にウンザリさせられている点でも同様なのである。

私は、ここに荷風の『ふらんす物語』の引用を差し控えることにする。荷風のフランス賛美と陶酔とはあまりにも有名で、それが横光や小出の印象記とは全く対象的なものであることは、あらためて言うまでもないことだからである。

しかし、それ以上に私は、あれほどフランスに惚れ抜き、骨の髄からフランス文明に共鳴していたかに見える荷風が、父の病気で一年そこそこのフランス滞在を切り上げて日本に帰ると、以後一度もフランスに足を向けなかったことが、不思議に思われるからだ。

 

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勿論、現在のように手軽にジェット機でフランスへ出掛けられる時代を基準に考えるわけにはいかないが、荷風ほど容易に外遊できる条件に恵まれた人は珍しかったろう。それなのに、なぜ日本に居座って動こうとしなかったのか ? じつは、こんなことは私達が考えてみたって仕方がないだろう。ただ、想像するのに、荷風は或る時期から、東京の街中のくら

しを意外に愉しんでいたのではなかろうか。パリなど、その気になれば

何時でも行ける。そういう好条件にあると、却って外国へ行くのは億劫になり、むしろ川向うの溝沿いの私娼の町に足を運ぶことが多くなったのではないか。

 

次号につづく 次号は「6.大人と子供の違い」

ドストエフスキー 1821-1881

20世紀の書物をみていると、すべての道はドストエフスキーに通ず、そんな思いにかられるといっても過言ではない。それほどまでにドストエフスキーは文学・哲学・心理学・科学などあらゆる分野の知識人たちの目標点に君臨している。

例えば、人類最高の知性で理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)は、ドストエフスキーについてこう述べている。

「どんな思想家が与えてくれるよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウス(天才数学者)よりも多くのものを与えてくれる。」

【日本に現在あるドストエフスキー研究団体】

・ドストエーフスキイの会 ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会 1970発足

・ドストエーフスキイの会 例会 1970発足

・D文学研究会 1971発足

・ドストエフスキイ研究会 2015

・日本ドストエフスキイ協会 2017年6月設立

 

ゼミⅣ 映像で読むドストエフスキー

『白夜』1957年

運河にかかる橋のたもとで恋人を待ちつづける娘と、彼女に思いを寄せる孤独な青年、幻想的でロマンティシズム溢れるヴィスコンティの名作。ドストエフスキー名作文学の映画化。

 

スクリーンのドストエーフスキイ①

 

荻 昌弘(映画評論家)昭和38年発表

 

約70年にわたる映画史の流れのあいだ、ドストエーフスキイの作品はずいぶん幾度か映画化された、と、考えられている。しかし、少し詳しく調べると、じつは、この作家の映画化は、意外なほど多くないのである。世界的文豪としては例外的なくらい少ない。むしろ「ドストエーフスキイと映画」について考える場合は、彼の小説が、どのように映画化されたか、ということより、なぜ彼の作品が映画化されにくいか、また成功しにくいか、を探るほうが重大であるとさえ思われる。 つづく

 

★この評論が発表された1963年、ソビエト連邦は、世界人類にとってまだ輝かしい星だった。ドストエフスキーは愛読者以外には、興味をもたれなかった。

 

 

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以下のレジメは2012年10月のドストエフスキー全作品読む会読書会で、会員が発表した報告内容です。まとまっているので取り上げました。

 

「白夜」に寄せて~はかなきものたちへの愛惜

土屋 正敏

「素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は思わずこう自問しないではいられなくなる―いったいこういう空の下にいろいろ怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのであろうか? これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますよう希望する!」(米川正夫訳、河出書房

新社「愛蔵決定版 ドストエフスキー全集」第2巻)。
これは「白夜」の有名な書き出しだが、皆さんはこの呼びかけにどう答えるだろうか。私がこの小説を初めて読んだのは、大学生だった22歳の夏。もうその内容は全く覚えていなかったのだが、今回再読して、読んだような記憶がおぼろげによみがえったものの、本当に読んだのか定かではないといった感覚だ。にもかかわらずこの書き出しの記憶は鮮やかで、当時、この呼びかけというか、問いかけに「その通り。怒りっぽい人や気まぐれな人間が住めるはずがない」と、こう心の中でつぶやきながら読み飛ばしていた自分を思い出す。もう35年以上も前のこと。私も若く、青春の真っただ中だった。
だが、実際はどうだろうか。この世の中には「怒りっぽい人や、気まぐれな人間ども」ばかりか、意地の悪い人や、うそつき、卑劣漢、泥棒、詐欺師…、人殺しだっている。きっと、こうしたいけ好かない人間たちや犯罪者らが、実際にはこの池袋にも、私の暮らす横浜の空の下にも少なからず住んでいるのではないだろうか。だが、善良な人たちは無論のこと、彼らだって満天の星空を仰ぐことがあるに違いない。だからこそ、若きドストエフスキーは「神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように…」と、この冒頭部分を締めくくり、星屑のこぼれる一面の夜空を見上げたときのあの胸躍る感動、青春期にしか味わえないような甘美な感覚を、それこそこの作品で呼び覚まそうとしたのではないだろうかと思う。
ところで、手元の広辞苑で「白夜(はくや)」を調べると、「北極または南極に近い地方で、夏、日没から日の出までの間、散乱する太陽光のために薄明を呈すること。びゃくや」とあった。また、ドストエフスキーの処女作「貧しき人々」の解説(全集第1巻)の中に、米川正夫のこんな下りがある。「折しも時は五月、昼のように明るいペテルブルグの白夜で、ドストエフスキーは眠れぬまま開け放した窓辺に座って、そこはかとなき

もの思いに耽っていた。その時、ベルがけたたましく鳴った。ドアを開けると、思いがけないグリゴローヴィチがネクラーソフと共に飛び込んできて、目に涙を浮かべながら彼を抱擁したのである」と。米川が、無名作家ドストエフスキーの処女作が批評家ベリンスキーに絶賛され、一瞬にして文壇の名声を得ることになる「伝説と化したエピソード」のプロローグに触れた一文だが、「昼のように明るいペテルブルグの白夜」に注意したい。白夜では、たぶん「空には一面に星屑がこぼれて」いない、のである。先月、あるロシア語初級の公開講座に参加した時、私は講師の女性に「ロシア人にとって、白夜とはどんなイメージですか。ご存じなら教えてください」と質問した。彼女は「ロシアの人に直接、印象を聞いたことがないので、はっきりとは分からないが…」と前置きしたうえで、「たぶん(冬が長いので)、短い夏を惜しむような感覚、魔法にかかったような一瞬、といったイメージではないか」と言い、「白夜は(緯度の低い)モスクワでは経験できません」とも話してくれた。
では、ドストエフスキーは「白夜」に何を託し、表現しようとしたのだろうか。
「白夜」が発表されたのは、1848年12月の「祖国雑誌」(クラエフスキー編集)誌

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上。「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」(ネクラーソフ編集)に発表された46年から約2年後で、作家は当時、主人公「わたし」と同じ26歳と思われる。「貧しき人々」の半分にも満たない中編だが、どこか詩情豊かで、「わたし」と美しいブリュネットの娘ナスチェンカとの出会い、そして別れを描いた4夜と、その翌朝までの物語。二人は互いに境遇などを熱く語り合いながら、生涯を共にしようという思いを結び合わそうとするが、4夜目になって一切が崩れ去り、彼女がこつ然と現れた元の間借り人だった恋人の男と一緒に姿を消してしまう。ストーリー展開、また4夜の冗長ともいえる会話のやりとり(ドストエフスキーならではとも言えるが…)の間に、わざわざ配置された「ナスチェンカの物語」の内容から二人の別離はある程度予想できたものの、この突然に訪れた瞬時の幕切れには、読者も一瞬、度肝を抜かれる。そして思うのだが、この刹那こそが、作者が「白夜」という作品と言葉に託し、描きたかった情景ではなかったか。
この物語でも描かれ、言及されているが、ロシアのティーンエージャーら若い女性たちはことのほか美しいといわれる。しかも、その美しさが保たれる期間も同様に短く、はかないものである、と。ドストエフスキーがこの作品で描きたかった主題、それは、こうしたあらゆるはかなきものたちへの愛惜の情ではなかったか、と私は思う。野の花の美しさ、青春、恋、友情、誠実さ、一瞬のように過ぎ去る白夜…も、このはかなきものたちに含まれる。あるいはまた、この世では、あらゆること、どんなことでも起こり得るという残酷ともいえる、冷めた認識ではなかったか。「白夜」というタイトルも、そこにある意味を考えるより、むしろはかなきものたちの一つの比喩ととらえるのが妥当だと思う。
物語は、最後の朝を迎える。ナスチェンカからの手紙が「わたし」に届く。そこには、数時間前に別れたばかりの主人公に対する感謝、謝罪、愛に満ちた言葉がちりばめられている。「…あなたは生涯わたくしの親友です。わたくしの兄さんです…どうか私をお見かけになったら、お手を差し伸べてくださいまし。…わたくしは来週あの人と結婚します。…わたくしはあの人といっしょにあなたをお訪ねしたいんですの。…どうかわたしを許してください、お忘れのないように、愛してくださいまし。あなたのナスチェンカ」。そして、主人公は「わたしは長いことこの手紙を読み返していた。涙は瞼からあふれ出るのであった」(ともに米川訳)。「わたし」は耐えきれないほどの無力感に襲われながらも、ナスチェンカとその夫の将来にわたる最大限の幸福を願う。その誠実な思い、言葉がリフレインのように繰り返されながら結末を迎える。けだし、このエピローグも極めて小説的で、現実では容易に起こらない事柄だろう。
「白夜」をもう少し読み解くために、当時のドストエフスキーがどのような精神的状態にあったかについても触れてみたい。ここに、小林秀雄著「ドストエフスキーの生活」(新潮社、全集第5巻)からの引用だが、興味深い記述がある。
「僕は相変わらず、クラエフスキーの借金を払っている。冬中働いて借金をきれいにするのが僕の目的です。ああ、いつになったら自由になれるか。ジャーナリズムの労働者になっているのは実にみじめです。みんな無くしてしまうのだ、才能も青春も希望も。仕事がたまらなくなる。作家どころか三文文士に成り下がるのが落ちです」(46年12月)、「貴方には信じられまい。文学の仕事を始めてもう3年になるが、僕は全く茫然自失しています。僕は生きてはいない、われに返る暇がない。暇がないので、僕には沈黙というものがない。怪しげな名声は得たが、この地獄がいつまで続くやら。文無しと注文仕事。ああ、休息がほしい」(47年4月)=ともに兄ミハイルに宛てた手紙。
ここには、借金の返済と、そのための「注文仕事」に追われる〝地獄のような生活〟に対する作家自身の率直な思いが飾らない文章で吐露されている。作家として脚光を浴びた「貧しき人々」が「ペテルブルグ文集」に掲載されたのが46年1月だから、その年の暮れにはもう、こんな弱音ともいえる言葉(最初の手紙)を兄に書き送っていることになる。天にも昇るようなあのエピソード(45年5月)から数えても、たった一年半ほど後の手紙である。2通目の手紙はその翌年4月。翌48年の「祖国雑誌」に「白夜」が掲載されていることか

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ら考えると、この中編も、注文仕事の一環として、あるいはその合間に、馬車馬のようなスピードで書かれたであろうことが推測される。
一方、当時のロシアは、皇帝ニコライ1世(1825年即位)が強権をほしいままにしていた時代。小林は「ドストエフスキーの生活」の中で次のように記しているが、言論が封殺される、まさに戦時下のような空気が立ちこめていたのである。「無論、刑事警察は以前からあったが、ニコライの治下において空前の発達をしたので、所謂『第三部』

なる政治的スパイの広大な組織は、彼の治世のはじめに生まれたのである。この憲兵団は国家第一流の人物に宰領され、インテリゲンチャの生活はその不断の監視下にあった。『さらば、空色の軍服よ、汝ら、これに従順なる国民よ』とレルモントフが歌った、この制服こそ当時の治世の象徴であり、教養ある人々の、はけ口を禁止された憎悪の的であった。過酷な検閲官の認可なく、何一つ印刷することはできなかった。大学内の研究は監視され、公開講演のごときは革命的事件であった」。先の2通目の手紙からちょうど2年後の49年4月、ドストエフスキーはペトラシェフスキイ事件で検挙、収監されるが、その後の判決で明らかになった作家の罪は「ペトラシェフスキイの会合(毎週金曜日)でゴオゴリに宛てたベリンスキーの手紙を朗読した事実だけである」(「ドストエフスキーの生活」から引用)。ベリンスキーが時代をけん引していた批評家だとしても、彼が作家に宛てて書いた手紙を朗読しただけで罪に問われることは普通考えられない。帝政という過酷な時代の空気を映し出す象徴的な事例の一つではないだろうか。
ところで、いかに偉大な作家といえども、当時はまだ20代半ばすぎの若者である。しかも、「貧しき人々」以降、中短編を矢継ぎ早に執筆しているものの、いずれの作品も、文壇のみならず一般読者の反応もいま一つ。こんな苦境の中、人間誰しも思い出すのが、忘れることのできない輝かしい瞬間ではないか。作家も例外ではなく、彼にとってそれは言うまでもなく、あの「伝説と化したエピソード」であり、それを惜しむ精神ではなかったろうか。先に引用した米川正夫の一文を思い出していただきたい。「折しも時は五月、昼のように明るいペテルブルグの白夜で、ドストエフスキーは眠れぬまま開け放した窓辺に座って、そこはかとなきもの思いに耽っていた。その時、ベルがけたたましく鳴った。ドアを開けると、思いがけないグリゴローヴィチがネクラーソフと共に飛び込んできて、目に涙を浮かべながら彼を抱擁したのである」―。白夜のまどろみに抱かれて、若き日のドストエフスキーが何を思い耽っていたのか、私たちには知るよしもない。だが、この処女作のこの上ない幸せな船出を予感させたこの瞬間は、友二人が熱く抱きしめてくれたその感触とともに、作家にとって生涯忘れられない出来事として胸に焼き付いたことだろう。「白夜」は、作家を襲ったさまざまな苦境と焦燥感の中で、若き日の祈りにも似た気持ちが書かせた、ドストエフスキーの生涯で唯一の、詩情豊かな珠玉の小品とも言えるのではなかろうか。
なお、「白夜」のサブタイトル、「感傷的ロマン」と「空想家の追想より」については、「この作品の特色は二つの傍題によって、はっきりと暗示されている」とする米川正夫の解説に譲りたい。また、主人公とナスチェンカの会話のやりとりに「貧しき人々」の手紙の往復を連想しながら読み、第1夜の「わたし」、「わが未知の女性(ナスチェンカ)」、さらに「燕尾服の紳士」の場面設定に、「罪と罰」の一場面を彷彿としながら読んだことを付記しておきたい。

 

2017年 熊谷元一写真童画館 お知らせ

 

☆2017年 第20回熊谷元一写真賞コンクール応募 詳細は「熊谷元一写真童画館」HP

テーマは「遊ぶ」です。併せて「阿智村」を撮る

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下原ゼミ通信編集室 〒274-0825 メール:toshihiko@shimohara.net

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.6.12  名前

 

  1. テキスト感想

 

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  1. 気になったニュース(社会観察)

 

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  1. なんでもない一日の記録 

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