文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信 No.80

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)6月 11日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.80
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
6・11下原ゼミ
6月 11日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(提出課題受付・・進行指名)
   ・ゼミ誌編集委員(報告があれば)
   ・ゼミ合宿担当委員(報告があれば)
 2.テキスト『網走まで』を読んで(初読みの感想)
 3.提出原稿読み(車内観察・一日を記憶する・社会観察)
  (前回分)車内観察:山根裕作「ある一日の中央線」、疋田祥子「隣の娘」
       一日記憶:茂木愛由未「兄さんおめでとう」、山根裕作「昼夜転換」
            金野幸裕「朝にはーー」、疋田祥子「フック船長な日」
  (当日分)車内観察:茂木「逸した親切」、山根「永遠の二番手」
       車外観察:疋田「レストラン観察」
4.名作読みorテキスト草稿読み(『網走まで』)
 
 5.連絡・配布・その他
 
映画観察
 先週のゼミのあった日、6月4日テレビBSでカンヌ映画際で監督賞をとった『殯の森』を上映したという。息子と母親が仲良く観たと言った。が、感想はよくなかった。
 ヨーロッパの映画祭といえば、北野武監督がいつも話題になる。今回も変わった恰好で歩く姿がニュースになっていた。その関係かBSでヴェネチア国際映画監督賞をとった『座頭市』を放映した。まだ観ていなかったので観た。が、陳腐な筋立てで呆れた。シーンだけは、リアルな殺陣が繰り返される。が、全体的に創造性が欠如している。『座頭市』は作家子母沢寛が書いた十数枚の小説だが、勝新太郎の創意工夫で人気がでてキャラが確立した。北野監督の『座頭市』は、映像的には凝っていても目新しいものがまるでない。いつまでたっても勝新の『座頭市』と黒澤明の『用心棒』、それにテレビの『鬼平犯火帳』や木枯紋次郎の一シーンを観ている感が拭えないのだ。あまりにも薄く、軽く、浅い。が、マスメディアの評判は高い。嘘だろう、きっとよくなる。そんな思いで見ていたが、とうとう時間の無駄を悟った。最後まで平行線でいくに違いない。終盤になってチャンネルを替えた。
 何かつまらない。最近、映画に限らず小説においても、こんな感想を持つことが多くなってしまった。時代の流れについて行けなくなったのかも知れない。 (土壌館)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.80 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
写真家熊谷元一の写真
  
 今秋、熊谷元一写真コンクール10周年の展示会が東京で催される。熊谷については、78号の同欄で少し触れた。が、今一度、熊谷の写真について紹介したい。
 現在、東京都下の清瀬市に住む熊谷元一は、アマチュアながら写真家として広く知られている。この7月で98歳になる。が、いまも現役である。熊谷が写真家として認められた一番の業績は、信州の一山村の人々を70余年間撮り続けたことにある。
 この間、撮影した写真約5万点がCDに収録されている。出版された写真集も、多数ある。それらはいまや貴重な記録、時代の証言物となっている。なかでも戦前1938年に朝日新聞社から刊行された『会地村-一農村の写真記録』と戦後1955年に岩波写真文庫から出された『一年生――ある小学教師の記録』は、日本写真界の金字塔といっても過言ではない。『会地村』は、当時、「アサヒカメラ」に一ページ大の広告が掲載された。それによって「『会地村』は、たんなる一農村の記録にとどまらない評価を次第に得ていくことになる。」(矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』)熊谷の撮り続けるという手法は、写真技術の進んだドイツでもみられなかった。しかし、その評価は、予想もしなかった方向にも向かった。「この当時、『会地村』は地方翼賛文化運動の高揚に伴ってさまざまな機会に取り上げられていく。熊谷の撮影意図とは別に、ともすれば『会地村』は、「愛郷心」の延長線上にあるとされた「愛国心」と結び付けられて」(同書)いた。一農村写真が愛国教育の手本となる。驚きだが、これだけみても熊谷の写真の奥深さ、幅広さを窺い知ることができる。昨年暮れ教育基本法が改正された。法律によって愛国心教育がすすめられることになる。が、熊谷の写真は、押し付けることなく、義務づけることなく郷土愛を伝え訴えていたのだ。
 写真家・熊谷を決定づけたのは『一年生』である。昭和30年に第一回毎日写真賞を受賞したこの作品は、多くの写真関係者から絶賛された。メディアにおいても「書評はいくつものカメラ雑誌だけではなく、「週刊朝日」「朝日新聞」他のメディアにも掲載された(同書)」とある。写真家としての輝かしい功績。確かに熊谷は写真において、すばらしい仕事をした。貴重な記録を残した。が、熊谷が真に伝えんとしたことは他にある。そんな気がするのである。熊谷のエッセイ集に『三足のわらじ』というのがある。写真家、童画家、そして小学校教師としての自分を顧みた書である。本書で感じるのは、熊谷の自分は写真家、童画家である前に教師であった、教育者であった、という強い思いである。
 熊谷の教師生活は、昭和5年、郷里信州の山村で小学校代用教員としてスタートした。元々画家志望であったというから、一途に教師を目指したわけではない。戦時下、「教員赤化事件」に連座して教職を離れたが、戦後、再び郷里の小学校教員として復帰した。そして写真家、童画家として大成しながらも、定年まで生涯一教師を貫いた。
 教師時代の熊谷の教育は、どんなだったか。残されたものにB4のワラ半紙図がある。「熊谷は毎日一人ずつ対象を選んでは教室の掃除をするときの動きを記録していた。(同書)」そこには撮影ではない教師の目がある。その集大成が『一年生』となった。学校で教え子の様子を一年間撮りつづける。その行為は、教育現場において昔も今も不可能である。個人情報保護法が施行されている現代なら尚更である。が、熊谷にはできた。熊谷が教師だったからではない。人間熊谷と村人たちとの信頼関係の結果といえる。
 私は、1953年、小学校に入学した。そのときの担任が熊谷だった。熊谷は一年間、教え子たちを撮り続けた。が、なぜか、カメラを向けられた記憶はない。まだカメラが珍しい時代だった。なぜ、気にならなかったのか。撮る行為が日常になっていたかも知れない。
 一つの事物を観察することの習慣化。いま思うと恩師から学んだのは、そのことだったように思う。継続すること観察することの大切さを教えてくれている。今日、混迷する日本の教育だが、熊谷の写真に教育再生への力がある。      土壌館・編集室
――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
2007年、読書と創作の旅
6・11ゼミ
以下の手順で進めてください。
1.「2007年、読書と創作の旅」5日目
・提出課題の受付。書いてある人は提出してください。
・出欠確認、ゼミ担当者から。(お知らせがあれば)
・本日の司会進行指名。声や体の調子の悪い人は、無理しないで申し出てください。次回に
 お願いします。
 ※司会進行の目的は、全体を見る目と指導性・公平力を培います。各人の個性を尊重しながら、常に客観性をもって仕切ってください。
2.テキスト『網走まで』初読みの感想
 先週6月4日、テキスト『網走まで』を読みました。どのような印象を抱いたでしょうか。感想を話し合いましょう。
 ある夏の夕刻間じか、一人の青年が日光に遊びに行くために上野から列車に乗った。同じ席に乗り合わせたのは、赤子と子供を連れた若い母親だった。時は、富国強兵策を突き進む明治の末。極楽トンボの青年は、今は落ちぶれた印象を受けるが、かつては美しく教養のありそうな、零落した士族の娘を彷彿する若い母親に興味を持つ。聞けば、網走というところまでだという。青年には想像の及ばない未開の地だ。そんなところに子供二人を連れて行くという。青年は、そんな母子を哀れに思う。何か親切にしてやろうと思う。頼まれた葉書を読みたいという衝動。青年の傲慢さからか。心底、母親の事が心配になっての思いか。
 志賀直哉の作品は、まったくの私小説という人がいます。家庭ばかり画いて社会を描かないと非難する人もいます。が、土壌館編集室では、志賀直哉の小説は、時代を超えた人間観察・洞察作品と読み解いています。その考えに立つと、青年が乗った列車は時代の流れ、歴史の一コマ、そして母と子は国民となります。文明の利器、列車に乗せられた国民は、為政者(ここでは大酒呑みの父親。あるいは事の真偽は定かではないが天皇暗殺計画の嫌疑だけで翌年明治44年に24名死刑にした明治政府)のもと苦難の旅を強いられるのです。網走という未開の地、そこに一億日本民族を待つのは何か。ヒロシマ、ナガサキ、そして弥生文化からつづく日本精神喪失の大悲劇だったわけです。若き小説の神様の目は、想像の中で母子を観察しながら、はるか先の日本の悲劇を見抜いていたのです。そうしてすでに、廃墟の都をぐるぐる回る電車を、『灰色の月』を予見していたのです。
 次の点の疑問「なぜ」について考えてみてください。
1.なぜ「網走」か。2.母子はなぜ網走に行くのか。3.私は、なぜ葉書を見たかったのか。
 
          3.提出原稿発表・感想
 【車内観察】、山根裕作君の「ある一日の中央線」、疋田祥子さんの「隣の娘」
 【一日を記憶するは】、山根裕作君の「昼夜転換」、茂木愛由未さんの「妹の気持」
           疋田祥子さんの「フック船長な日」、金野幸裕君の「朝には何を」
 【車内観察】、茂木愛由未さんの「逸した親切」、山根裕作君の「永遠の二番手」
 【車外観察】、疋田祥子さんの「レストラン観察」
・観察評についてのポイント → 短文で、どれだけ分かり易く情景を伝えているか。
・「一日を記憶する」のポイント → 作者の環境、精神面がどれだけ書けているか。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80 ―――――――― 4 ――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・提出原稿
提出原稿発表
車内観察
逸した親切
茂木愛由未
 吊り革につかまって立っていた女の子がいた。その子の前に座っていたサラリーマンが降りたので、彼女はそこに腰をかけた。そして、残りの時間をどう過そうかと考えていると、彼女の眼下に小さな靴が映った。その靴先から視線をゆっくりと上にずらすと、目一杯手を伸ばして、吊革につかまるおばあさんが立っていた。そのおばあさんは、彼女がつい先程まで立っていた場所にいた。
 彼女は迷っていた。目の前にいるおばあさんに席を譲るか、このまま座り続けるか。彼女はとりあえず、このおばあさんはもしかしたら次の駅で降りるかもしれないと思うことにした。彼女はおばあさんに気づかないふりをして、バックの中から本を取り出し、読書をすることにした。しばらく文章を目で追っていたのだが、おばあさんのことが気になってしまい、内容はほとんど頭に入ってこなかった。本を閉じてみた。しかし眠気がやってくることはなかった。落ち着かなくなり、おばあさんに目をやってみる。すると今度はそのおばあさんと目が合ってしまい、とても気まずい気分になった。彼女にはおばあさんの目が、「お年寄りに席を譲るのは当然じゃないの?」とでも言っているような気がして、更に落ち着かなくなった。周りを見回しても皆知らんふり。他人のことなど見えていないようだ。しかし、それが逆に彼女を責めているように思えた。
 電車は次の停車駅に着き、扉が開いた。どうか降りてくれと願ってみたが、彼女の期待もむなしく、おばあさんが降りる気配は全くなかった。
 やっぱり席を譲ろう。やっと決心がつき、おばあさんの様子をうかがいながらタイミングを見計らった。彼女は緊張した面持ちでおばあさんの視線を捕らえようと、じっと見つめていた。
「あの、どうぞ、座って下さい」
小さい声でそう言って立ち上がると、おばあさんが立っていた所に再び彼女は立った。感謝の言葉など期待していなかったが、おばあさんから感謝の言葉は聞こえてこなかった。彼女はとても後悔していた。
 どうせならおばあさんが立っているのに気づいたその時、すぐに席を譲ってあげれば良かった。なんとも後味が悪く、とても恥ずかしくなった。
 窓の外は真っ暗で、そこには困ったような顔をして突っ立っている自分が映っていた。彼女はその顔に向かって、力なく笑った。
□本当に、そんなときは困ってしまいますね。機を逸っした、この娘さんの話で思い出したのですが、バスの中でお年寄りに席を譲ろうとしたために終点に着くまで冷や汗をかく羽目になったことがあります。混んだときの日芸バスほどではないが、満員のバスに乗ったときのことです。並んだのが前の方だったので、座ることができた。周りには同年輩か若い乗客。ほっとしていると、白髪のおばあさんが乗ってきて私の前に立った。どうみても70歳は越している。すぐに譲ろうとした。が、驚いたことに、そのおばあさん立ちかけた私の肩を押さえて座席に押し戻した。そして、耳そばで「健康のため立っている方がいいんです。どうぞそのままに」大きな声で言ってくれれば、よかった。が、周りの乗客は事情を知らない。駅までの長い時間、おばあさんの前で座っているのは、まさに針のムシロだった。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
2007年、読書と創作の旅
永遠の二番手
山根裕作
 忙しい毎日、朝起きて電車で学校へ行き、家に帰れば課題やら予習やらに追われ、それが済むと原稿の執筆が待っている。そんな毎日。
 ああ、時間がない。読書する時間がない。これは文人にとって非常に忌々しきことだった。夜明けまで起きていては次の日が保たない。本当、三徹ぐらいしても平気な体が欲しい。
 だがそう、これは仕方のない事なのだ。通学途中の電車の中で読むしかないのだ。周りの思惑などそ知らぬと、あえて厚顔無知を装うことにしていた。
 乗り換えた後の西武国分寺線は、始発駅という特性から、ほぼ確実に座席を得ることが出来る。もっとも、例え立っていたとして、吊革片手に本を開くのも辞さないつもりではあるが。
 常の事として座席を確保し、鞄の外ポケットから本を一冊抜き取った。いま読んでいるのは『ケルト幻想物語』で、この本を買ってから数ヶ月経っているのだが未だに百ページ以上も未読部分が残っていた。壮大な翻訳本なので、文体が難しく読みにくいのは事実なのだが、それを差し引いてもペースが遅すぎていた。それに読みかけの本はこれだけではない。家にも数冊あるが、今のこの時、鞄の中にさえ読みかけが一冊封印されていた。
 その本というのは『楡家の人々』で、わざわざ携帯していることからも分かる通り面白い作品である。しかしどういうわけか優先順位が下に行っており、一向にページが進まなかった。夏休みになればドイツ文学作品について書かなくてはならない。前々から興味はあったので、その意味でも次に読む本はそれになるだろう。
 さて、物語が進むのはいつになることやら。
□そうですね。時間に追われる現代。なかなか読書する暇がありません。でも、新刊本は、毎週のように店頭に並んでいる。で、つい買ってしまう。が、気がつけば部屋の隅に山となっている。どの本を持って行こうか。いつも外出時に迷ってしまいます。
 自分の悩みと焦りが、そっくり伝わってきて苦笑しました。
 感想が逸れますが、嘉納治五郎の読書に対する話を思い出しました。ゼミ初日のガイダンスで参加者に読んでもらったものです。(これで大半の人が敬遠したようです。笑)
 嘉納治五郎は、「精神の健全な発達を遂げようとするには」読書が絶対に必要だ、と説いています。読書は、精神の栄養剤である、と。が、どんな本でも読めばいい、と言っているのではありません。「もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ」かえって害を受けるのである、と警鐘しています。そうして、沢山ある本を、どんな方法で、どんな順位で読んだらいいのか、この迷いについて、「ゼミ通信77」にも掲載しましたが、このように指導しているのです。
 「すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、また古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後回しとするがよい。また昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするのがよいのである。」
 つまり新刊書を全部読むのは不可能である。新聞・雑誌の書評から識者が認めたものから読みなさい、ということである。が、それとて当てにはできない。早い話、新刊本は後回しでもいいのではないか。では、どの本を先に読めばよいのか。優先順位は、昔から名著・名作とされるもの、とすすめている。
 ちなみに川端康成は、文学を志すなら、いまの作家など読まずにドストエフスキーやトルストイを読んでいればいい。そう言っていたそうです。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80―――――――― 6 ――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・提出課題発表
車外観察
レストラン観察
疋田祥子
 東京駅八重洲のラーメン激戦区。単にラーメン屋の集合地帯なのだが、21時を過ぎた東京駅構内で営業している数少ない店が集っているので、客足は途絶えない。がらんとした構内では店の付近だけが不自然ににぎやかだ。その中から比較的価格の安そうな店を選んで入店した。店の従業員はみな中国人らしく、店内では中国語がとびかっている。案内された席は四人掛けのテーブルを調味料で仕切った二人席だった。すぐ隣に見知らぬ人間がいるのはどうも窮屈であるが、皆そのようにしているので仕方がない。連れと二人で四品程オーダーしたが、従業員はメモをとらなかったので少し心配になった。ふっとため息をついて隣を見る。隣席では二人のサラリーマンがちびちびと酒を飲みながらチャーハンを食べていた。二人は上司と部下の関係のようだ。上司のほうはあまり食欲がないらしく、箸が進んでいない。そこまでわかったころに私のタンタン麺がテーブルに運ばれてきた。続いて連れのジンギスカン丼も。私は食べながら喋るのは苦手なので、隣席の会話をBGMに黙々と食べた。BGM
の内容は、こうだった。
「だいたい、僕みたいな若造がね、こうして食事に連れてきてもらったり、話を聞いてもらったりして、対等に扱われていること自体、感謝すべきことなんですよ。これからの会社はそうじゃなきゃいけない。ウチはもっと危機感を持った方がいいつすよ。こんな風にして若者の声を聞いて。Mさんも人を使うのがうまいわけじゃないですよね。あの人はもっと部下を褒めないと。今の若い人は褒めて伸びるんだから。先輩方はもっと仕事に情熱を・・・」
 なるほど上司の箸も進まないわけである。なんだか可哀想になった上司の方をみると、彼は困ったような、呆れたような顔で笑っている。「自分も若いころはこうだった。けれど現実を知っていくうちに・・・」とか「まだまだ本当の社会を何も知らない若造だな」とかを思っていそうな顔だった。
 隣席にまた新たな皿が運ばれてくる。チャーハンの空き皿と引き換えに「シヨリャーメェン デス」の声と皿が置かれる。上司は皿に一瞥もくれず、苦笑いを続け、部下はせっせとラーメンを小皿にとりわける。「どうぞ」と小皿に入ったラーメンを渡し、部下は勢いよくすすりにかかる。まだ口をモゴモゴさせながら「それから会議もね」と喋り続ける部下と、のび続けるラーメン。張り付いた苦笑いと、喧嘩をしているように聞こえる中国語。それらを窮屈な店内に残して私は店を出た。
□車中に劣らず店内の観察も面白いですね。ゼミでは、車外観察の形で名作の車外観察などを紹介していきます。近く、ヘミングウェイの店内観察を予定しています。演劇風に。
 店内観察は、車内観察に比べると、ストーリーが創り易いかも知れません。車内は、時間的に観察しきれない場合がありますが、店内は、食事が済むまで観察ができます。隣席の客は、会話が糸口になり、仕事や家庭にまで想像がひろがります。二人の歯車の合わないのは、上司は団塊世代で、若者は、ネット世代のせいかも。中国人らしい従業員に焦点を当ててみるのも面白い気がします。彼ら、彼女らは、どのようにして日本にやってきたのか。中国では、どんな暮らしをしていたのか。彼らの目から見た日本人の客は・・・等などです。
 少々気になったのは、筆者とジンギスカン丼の連れです。黙々と丼とタンタン麺を食べる二人。この二人を見つめる眼を想像するのも愉快です。
 昔、「失恋レストラン」という歌がありましたが、深夜のレストランには様々な物語があるかも。観察しがいがありますね。
 
―――――――――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
2007年、読書と創作の旅
4.名作読みorテキスト草稿読み(『小説 網走まで』)
名作読み
 先週の名作読みはアルチュール・ランボーの詩編「感覚」と「谷間に眠る者」を読み大作「酔っぱらいの舟」を配布しました。で、今週の名作読みは・・・ランボーとくれば、必ずあげられるのは、この詩人です。と、いうわけでかの詩人と詩編を紹介します。
 1896年1月7日深夜、あるいは8日未明。神父ショェネンツは、巴里のデカルト街39番地の陋屋で死にかけている男がいるとの知らせを受け、臨終の秘蹟(サクラメント)に出向いた。貧民街の、陽もあたらない部屋。汚れたベットに一人の浮浪者のような初老の男が横たわっていた。これから死にゆくというのに、肉親も友人も、知人もいない。男はただ一人でボロ布のようになって死んだ。52歳だった。男の名は、ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)詩人だった。(新潮文庫・堀口大学訳)
1844年3月30日 フランス、メッツ市に生まれる。父は工兵大尉。
1866年 詩集『土星の子の歌』出版。反響まったくなし。
1869年 詩集『艶かしきうたげ』出版。
1870年 詩集『やさしき歌』出版。マッティルド・モーテと結婚。普仏戦争。
1871年 被害妄想で乱酒と家庭不和。が、一人息子生まれる。
1871年 「幼き悪魔」ランボー、家庭に入り込むが夫人追い出す。
1872年 ロンドンでランボーと共同生活。ベルギー、イギリス、アルデンヌを放浪。
     『無言の恋歌』成る。
1873年7月10日 ブリュセルにてランボーを拳銃で撃つ。2年間入獄。
1875年1月16日 ネッカー河畔でランボーと乱闘。永遠の別れ。
1880年ジュニヴィルにて農耕生活に入る。
1882年 巴里に戻る。日刊紙に寄稿。
1884年 詩集『昔と今』、評論集『呪われたる詩人達』出版。
1886年1月26日母死す。(ランボーと同じように母との関係も複雑)
 これ以降の生活は、ボヘミアン生活。カッフェと安下宿、病めば慈善病院。 
1894年 詩王の栄位。詩集文集の出版。
1896年1月7~8日未明、デカルト街の陋屋で一人寂しく死んでいった。
 以後、詩人の栄光は高まる。メッツ市と巴里の公園に記念碑。
土壌館日誌
 6月3日(日)は、市民春季柔道大会。昨夜の会場準備は早め8時過ぎに終わったが、近くのファミリーレストランで、なぜか料理が遅く、帰宅したのは10時過ぎ。朝8時にコンビニ前に行く。小5のSと待ち合わせ。Sが祖母に連れられてきた。Sの両親は仕事。母親が後で迎えにくるとのこと。Sを連れ電車で試合会場の武道センターへ向かう。
 会場は小中高の選手300人余りに加え応援の家族、1000人ぐらいですし詰め状態。猛烈の蒸し暑さ。来賓の祝辞がつづく。市議から民主党の野田何某まで。政治家にとっては、選挙も近いし大切な時間のようだ。人生訓や名言など様々。試合は10時開始。土壌館からは小学生8名、中学生が学校から4名出場。若い人は、仕事が忙しくて0。中学生が一人だけ三回戦に進む。あとの選手は初戦か、二回戦で敗退。一年生の母親が浮かぬ顔で聞いてきた。「うちのこ、勝てないのに敢闘賞らしいんです」賞状を書いているのを見たという。小さいのに頑張ったからですよ。適当に答えたがプログラムをみると、組み合わせがよく2回戦からの出場であった。戦わずして、ベスト8だったのだ。「運も実力のうちです」なおも不思議がる母親にそう説明した。                   土壌館・編集室
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――8 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅 6・4ゼミ報告
6・4ゼミ報告
6月4日(月)のゼミは、以下のように行いました。
全員無事に出席
 大学で「はしか」が大流行。ゼミ学生は大丈夫だろうか。そんな心配があったが、全員元気な顔で出席、ほっとした。
この日の参加者 : 茂木愛由未  疋田祥子  山根裕作  金野幸裕 髙橋亨平
司会進行は、茂木愛由未さん
 
 この日の司会は、茂木愛由未さんにお願いしました。前橋から電車通学しているそうです。通学時間が長くて大変と思う一方、車中でゆっくり読書や思索ができるのではないかと羨ましくもなります。もの静かでおしとやかな印象がありますが、しっかりした進行でした。
ゼミ合宿及び担当委員決め
ゼミ合宿をどうするか。話し合ってもらいました。決定事項は下記の通り。
・ゼミ合宿の是非 → 全員一致で、ゼミ合宿実地に
・合宿担当委員  → 疋田祥子さん
           申し込み、書類提出などを一任しました。
・ゼミ合宿日月 → 8月4日(土)~5日(日)
・候補地    → 軽井沢(日大施設)
※以上のように決まりました。皆で楽しい旅ができるよう協力しあいましょう。
ゼミ誌ガイダンスのお知らせ
 6月12日(火)12時20分から教室1でゼミ誌ガイダンスがあります。編集委員の人は必ず出席してください。
愛読書紹介
 
 金野幸裕君が、特徴ある紹介をしてくれました。お茶目なところがありますが、なかなかの読書家のようですね。『リング』『ラセン』『ループ』はそれぞれ独立した物語でした。
 怖い話は、『黄金虫』のポオや『悪魔の辞典』のビアス、モーパッサンも得意とします。
名作紹介
アルチュール・ランボーの詩編2作を紹介。全員が吟唱?!
テキスト読み
・『菜の花と小娘』志賀直哉の最初の作品。花観察を想像発展させた小説。
・『網走まで』実践写実的想像小説。
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
2007年、読書と創作の旅 テキスト感想
『菜の花と小娘』感想
この作品は、明治39年(1906)4月2日に志賀直哉が23歳のとき千葉県鹿野山(マザー牧場)で書いた「花ちゃん」を、大正9年(1920)37歳のときに改題し『金の船』に掲載したもの。明治37年の日記には、
「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」と、しるしている。これが原文か?
感想
・千葉県なので感じがわかる。風景を押さえている。ストーリーに取り入れている。
・電車の中の雰囲気に似ている。菜の花と娘の対話は、母と娘の会話のよう。菜の花と小娘
 には、初対面とは思えぬ親しさがある。
・人間同士の会話のようだ。
・花を流す。子供のころやった遊び。疾走感がある。作品のリズムがいい。
・たくましい小娘とナイーブな菜の花。菜の花の横柄さにも不思議とムカつかない。
・ムーミンの世界を彷彿した。
□可愛い光景、母と娘の会話。親しい人間同士の会話、そんな印象を得た人が多くいました。うららかな春のある日、鹿野山に一人で遊びに行った志賀直哉は、山の斜面一面に咲き乱れる黄色い花畑を見てなにを思ったでしょう。想像ですが、きっと11年前、明治28年、直哉12歳のときに亡くなった母、銀のことを思い出したに違いありません。母と、ここに来てこの風景をみれたら、そんな叶わぬ願望が過ぎったかも知れません。
 そんなふうに想像するとこの作品が、何かしら悲しくも美しいものに思われます。菜の花と小娘の対話も、無理がない気がします。もしかして母親に送った作品だったのかも。ゼミの皆さんの直感の感想に学ぶものがありました。
 ともあれ、この作品は作文「菜の花」→「花ちゃん」→小説「菜の花と小娘」のプロセスで完成したことになっています。が、解説では、判定しがたい、とも書かれている。
志賀直哉と菜の花と小娘
 菜の花が人間のように会話する。この擬人法は、目新しいものではない。旧くはイソップ物語から使われてきた手法である。こうした擬人小説のほかに志賀直哉は、輪廻転生の話も書いている。仲のよい夫婦がいた。死んだあと、何に生まれ変わるかわからないが、必ずここに来て会いましょう、と誓う。やがて夫婦は死ぬ。どちらかだったか忘れたが、夫婦はニワトリとキツネに生まれ変わった。約束を思い出してその場に行く。が・・・残酷な結末である。もしかして志賀直哉は死後の世界を信じていた、あるいは信じようとしていたのかも知れない。その感覚が、作品の端々に感じる。なぜ、志賀直哉はそんな考えを持ったのか。
 3月31日に一人で鹿野山に遊びに行った志賀直哉は、4月11日頃まで山の上から谷底一面に花咲く菜の花を眺めて過した。鹿野山は、今日マザー牧場として有名である。子豚のレース、菜の花畑は観光の目玉となっている。が、当時も菜の花はすばらしかったようだ。
 谷間の菜の花畑を眺めながら、春の陽光のなかで直哉が読んでいたのは、最近刊行されたばかりの島崎藤村の『破壊』であった。前年、父直温は総武鉄道株式会社の取締役に就任している。経済的に恵まれ7月に学習院高等科を卒業、9月には東京帝国大学英文科に入学する直哉は、明治維新まで、士農工商という階級社会の中にも入れなかったエタと呼ばれる人たちのことをどれほど知っていただろうか。彼らは、士農工商が廃止された明治になってもその差別のなかで生きていたのだ。主人公の瀬川丑松は24歳。奇しくも直哉と、一つしか違わない歳である。『破壊』は直哉にどんな影響を与えただろうか。
 志賀直哉が、なぜ小説を書きつづけて行こうと決心したのか。これまで多くの評論家や読者は、貴族趣味の一点に終始してきた。が、『菜の花と小娘』を再読して編集室は、このように思った。春の鹿野山で直哉は、菜の花に母、銀を重ね、瀬川丑松の人生に義憤した。そうして、決心した。自分は「人類の幸せのために小説を書いて行くのだ」と。
芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――10 ―――――――――――――――――
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  高橋亨平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 6月12日(火) ゼミ雑誌作成ガイダンス。ゼミ誌編集委員は必ず出席してください。
    ○ ゼミ雑誌作成についての説明。○ 申請書類の受取り。
  【①ゼミ誌発行申請書】を期限までに提出してください。
       提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。題名など。
4. 7月下旬、夏休み前、編集委員は、原稿依頼し、締め切りを決める。
5. 9月末 夏休み明け、編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は、印刷会社を決める。印刷カイシャから【②見積書】を 
  もらい料金を算出してもらう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷カイシャと、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
ゼミ合宿について
ゼミ合宿担当委員:疋田祥子さん(ですが、皆さんで協力してください)
手順はつぎの通りです。
1.まず、事務室(高岡さん)に、ゼミ合宿を実地する意向を告げる。
2.申し込み書類をもらう。
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
連載4
学生と読む志賀直哉の車中作品
『網走まで』編第2章
 6月4日のゼミで、ようやくテキストの『網走まで』を読むことができました。
一、なぜ「日光」か
 前回までこの欄は、題名の網走に拘ってみた。作者は、題名をなぜ「網走」としたのか。考察した結果、母子の旅を、より困難なものに印象づけようとした。それで無理を承知で鉄道もまだ敷けていない網走にした。当時としては、若き小説の神様の勇み足と読み解いた。が、普遍的に捉えれば「網走」でよかったことになる。『網走まで』という題名に、何の違和感はない。むしろぴったりする題名と思っている。
 学生たちの読みは、どうだろうか。6月11日ゼミの感想に期待する。
 宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)
 冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。このころ華厳の滝は、
「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。
 国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ずるだけだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。
 それでは『網走まで』とは、どんな物語か。すじらしいすじはないが簡単なあらすじは、およそこのようである。
 夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いところなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわいそうだ。という思いの方が先に立った。「網走」という地名に、草稿では、熊がでる、ジミチではない連中が住むところ、という印象を持っている。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――12 ―――――――――――――――――
この幸薄い母子のために私は、何ができるのか。(全人類の幸福のために小説を書く)という私だが、できることはよれたハンカチを直してやることと、頼まれた葉書を出してやることぐらいだった。作者のやさしさが感じる作品。だが、作者の若さをも感じられる作品でも
ある。同情した。かわいそうに思った。だから葉書を見てもかまわない。そんな自己満足が垣間見える。(「同情するなら金をくれ」テレビドラマでこんなせりふがあった。人間社会の現実である。が、主人公はまだそんなことも知らないボンボンなのだ)
 それは8月もひどく暑い時分のことで、自分はとくに午後4時20分の汽車を選んで、とにかくその友の所まで行くことにした。汽車は青森行である。自分が上野へ着いた時には、もう大勢の人が改札口へ集っていた。自分もすぐその仲間へ入って立った。
 鈴が鳴って、改札口が開かれた。人々は一度にどよめき立った。鋏の音が繁く聞こえ出す。改札口の手摺りへつかえた手荷物を口を歪めて引っぱる人や、本流からはみだして無理にまた、かえろうとする人や、それを入れまいとする人や、いつもの通りの混雑である。巡査がいやな眼つきで改札人のうしろから客の一人ひとりを見ている。このところを辛うじて出た人々はプラットホームを小走りに急いで、駅夫等の
「先が空いてます、先が空いてます」と叫ぶのも聞かずに、われ先と手近な客車に入りたがる。自分は一番先の客車に乗るつもりで急いだ。
 先の客車は案の定空いていた。自分は一番先の車の一番後ろの一ト間に入つた。後ろの客車に乗れなかった連中が追い追いこのところまでも押し寄せてきた。それでも七分しか入つていない。発車の時がせまつた。遠く近く戸をたてる音、そのおさへ金を掛ける音などが聞こえる。自分のいる間の戸を今閉めようとした帽に赤い筋を巻いた駅員が手をあげて、
「こちらへいらっしゃい。こちらへ」と戸を開けて待っている。26、7の色の白い髪の毛の少ない女の人が、一人をおぶい、一人の手をひいて入ってきた。汽車はすぐでた。
写真集紹介
【写真ものがたり】昭和の暮らし6
『子どもたち』須藤 功 著(民俗学写真家)
2006年3月26日 農村漁村文化協会 5000円
貧しくも力をあわせ、夢と誇りにあふれて暮らした昭和30~40年代。
右の写真は、私が小学1年生のとき
のもの。前に立っているのが写真家
の恩師。授業中に
「おしっこ」と言っているらしい。
撮影・熊谷元一
1953年(昭和28年)
長野県の小学校教室
―――――――――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇創作
連載1
KINCHOU
キンチョウ
土壌館編集室
プロローグ  遺跡に眠る者
乾季の午後の密林は、まるで時間が止まったように静まりかえっていた。ときどき風が過ぎると高い木々の葉が眠りから覚めたように物憂く揺れた。そのたびに木漏れ陽が白雨となって苔むした巨石の上を走った。風が止むと、ふたたびすべてのものがピタリと静止した。くっきりと陰影が落ちた地上に動くものは何もない。しかし、よく見ると巨石の端に動く小さな影ひとつ。少年が一人、崩れた回廊の隅で、黙々と遺跡の欠片を掘り起こしていた。
少年は、左足の膝から下がなかった。が、一本足ながら手製のスコップを器用に使っていた。遺跡の上に積もった腐葉土を取り除き、埋まっている遺跡の欠片を探し出す。今も、少年は自分の頭ほどある石壁のかけらを掘り起こしたばかりだった。これなら持って帰れる。少年は、一瞬、笑みを浮かべて泥土を払った。彫り物はどこにもなかった。ただの壁片だった。少年は、額の汗をぬぐって軽く舌打ちした。が、たいして落胆の表情はなかった。徒労には慣れている。そんな様子だった。少年は、ふたたび崩れた遺跡の上を這い回りはじめた。
少年は、金目になりそうな遺跡の欠けらを探していた。壊れた石像でも、拓本がとれそうな壁の浮き彫りでもよかった。だが、そんなしろものはめったに見つかりはしない。かつて人跡未踏だった、この密林の遺跡も最近では、タイの盗掘者やまだ隠れて抵抗しているポルポトの残党に荒らされ、人力で持ち運び可能なものは、ほとんど運び去られていた。回廊の浮き彫りもほとんど削りとられていた。密林の遺跡は、食い尽くされた残骸。まさに廃墟の中の廃墟と化していた。
だがしかし、それでも、自然の力と偶然がまだいくつかの遺跡を盗人たちから守っていた。あるものは巨木の根の中に、またあるものは厚い腐葉土の下に眠っていた。無傷なアプサラがが見つかれば広東人に高く売ることができる。アンコールワット出土と書いてPKOで沸くプノンペンの中央市場に並べられれば、大挙して押し寄せている日本人が土産に買って行くという。
少年は、お金をためて義足を買うつもりだった。二年前、水くみに谷川に降りた時、地雷を踏んだ。三ヶ月プノンペンの病院にいて、家族が新たに移り住んだこの山に帰ってきた。片足の者が密林で暮らすのは厳しい。なんとしても義足が欲しかった。それには、遺跡の欠けら探ししかなかった。少年は、毎日のように山頂のこの遺跡にきて石像を探した。それが一日の仕事になっていた。当てはなかったが、これより他に現金を手に入れる術はなかった。
上空を一陣の風が通過していった。高い梢の葉々がざわめくたびに、深海のような密林の中にも強い日差しが驟雨のように降り注いだ。少年は、手を休め光のシャワーを浴びながら密林を眺めた。昼なお暗い密林の中に降り注ぐ光の雨。幻想的な風景だった。が、少年は何の感慨もなかった。ここまで風が届けばいいのに。周囲の無風に舌打ちして、腕で額の汗をぬぐいかけ、ふと手をとめた。つる草が覆う急斜面の繁みに一瞬、キラリと光るものを見た。何かが反射したのだ。
なんだろう!?風はやんで、密林は、ふたたび薄暗くなった。が、すぐに木々はざわめき光が降り注いだ。風が吹くたびに繁みは、光を返した。あそこだ!少年は、見定めるとそこに向かった。光が反射する場所は、大きな石壁が入り組むように埋もれている所だった。大樹の根が、大蛇のように四方八方にのび、石柱や回廊の壁を押しつぶし、持ち上げていた。反射の光は、僅かにできた巨石の隙間からだった。最近、朽ちた大木が倒れたときにできた
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――14 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険創作
ものだった。はがれた苔の跡が新しかった。少年は、大木の上を歩いて行って、隙間を覗きこんだ。中は暗い空洞だった。カビ臭い冷んやりした空気が感じられた。頭上の木の葉がざわめき光の雨が降り注ぐと、そのたびに空洞の底からキラリと光が返った。まるで、何かを外の世界に知らせようとするかのようだった。
何かある、もしかしてルビーの原石か。この辺りは、昔、ルビーの産地と聞いたことがある。少年はにわかに元気づくと、太いつる草をつかんで遺跡の隙間に両足をすべり込ませた。狭い隙間を抜けると、いきなり空間だった。一瞬、少年は、宙吊りとなった。が、そのままズルズルと落ちていって蔓から手が離れた。足はすぐに着いた。穴底は腐葉土が積もって柔らかだった。小部屋ぐらいの広さで、回廊が崩れたとき偶然にできた空間のようだった。冷んやりしたかび臭い空気がよどんでいた。仰ぐとぽっかり開いた隙間が見えた。随分と高いように見えた。そこから光線が差し込むたびに足元の腐葉土が、キラリと光った。何かが反射している。
ここだ!少年は、はやる気持ちを抑えて反射する場所をスコップで掘り起こした。小さな土の塊がでてきた。少年は、拾って土を落とした。出てきたものはサビの塊となったカメラだった。反射していたのはレンズだった。指先で土を拭うとレンズは差し込む光りを反射させた。
「なんだ、これだったのか」少年は、落胆した。が、すぐに「なぜこんなところに、カメラが・・・?」と、思い返した。カメラがあるとすれば、ほかにも何かある。少年は、急に目を輝かせてふたたび足元の腐葉土を掘り起こした。スコップの先に感触があった。ぐいとすくいあげると、丸く白っぽいものがゴロンと転がりでた。なんだ・・・!? 少年は、拾いあげて、顔を近づけたとたん、ワーと驚き声を上げて、投げ捨てた。
人間の頭蓋骨だった。少年の恐怖はすぐにおさまった。ドクロはこの国では珍しくはなかった。そう遠くない昔、この国で大勢の国民が、主にプノンペン市民が殺されたと聞いている。この国のいたるところに墓場があって、いまも掘り起こされている。麓の村にも、そんな場所があって数え切れないほどの人の頭が埋まっていた。これも、そのころの人だろうか、少年は、意味もなくそんなことを考えながら腐葉土を注意深く掘り返していった。こんどは白骨がでてきた。背骨、骨盤、手足と次々にでた。完全な一人の人間だった。回りを掘り返したが、他にはなかった。想像するに、この人間は、たった一人でこの回廊の中で死んでいたようだ。骨がバラバラでなかったのは、倒れた巨石が密室状態をつくって獣たちから守っていたのだろう。降り積もった腐葉土から、その人間が死んだのは、もうかなり昔のように思えた。あの恐怖時代よりもっと前の時代かも知れないと思った。
そんな昔にも、人がこんな山岳地にきたのだろうか。なんのために?遺跡調査か、盗掘者か。いずれにせよカメラを持った人間がここにきて死んだ。埋められていなかったのはなぜか、一人だけだったのか。ちらっと疑問が浮かんだ。が、それ以上は、なんの興味も呼び起こさなかった。光っていたものは、宝石ではなかった。腐ったカメラだった。それがひどく残念だった。少年は、この人物が金目のものを持っていたのではないかと、さらに掘りつづけた。そのかいあってものの十分もたたないうちにビニール袋を発見した。中に変色してはいるが、原型を留めたノートと財布らしきものが入っていた。出してみようとするとノートはパラパラ崩れて散乱した。ノートには広東語とも思えぬ漢字とミミズがくねっているような文字が書いてあった。財布の中にあった紙幣は、ボロボロでどこの国のものかはわからなかった。価値があるのかないのかも。だが、少年は、満足だった。もしかしたら、百リエルぐらいにはなるかも、そんな期待を持った。
小一時間後、少年は巨石の上に立っていた。手にはドクロの主の所持品と思われる、拾い集めたノート片とサビの塊となったカメラを入れた麻袋を持っていた。少年は自分が這い出てきた巨石の隙間を見た。ちょうど光の雨が降り注いで白っぽいものが見えた。散乱した骸骨の破片だった。さっきまでまるで自分の存在を知らせるかのように光を反射させていたが、
―――――――――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
いまはもう役目を終えて安心したように自然の一部にかえっていた。
「高く売れたらお礼にくるから。やくそくするよ!」
少年は、隙間に向かって叫ぶと、きびすを返して、一気に巨石をすべり降りるとびっこをひきながら崖道を下っていった。頭の中は、麻袋の中身のことでいっぱいだった。
お金になったらいいな。明日、村にプノンペンから雑貨商の広東人が来ることになっていた。遺跡は、再び静まりかえった。葉影は、焼け付いたように動かなかった。
第一章 赤い悪魔
一 はじまり
一九六四年八月、アメリカはベトナムのトンキン湾での衝突を口実にベトナム戦争を開始した。近代兵器を重装備したアメリカ軍を迎え撃つのは、ゴムぞうりを履いた徒手空拳のベトコンと貧弱な旧式の武器しかもたない北ベトナム軍だった。だれの目にも北ベトナムの早期敗北が予想された。だがしかし、戦況はそうはならなかった。米国は苦戦した。四年たっても勝利の予感すらつかめなかった。それどころか六八年の激戦では多くのアメリカの若者の命が散った。大半が徴兵された若者だった。勝てぬ原因は何か。アメリカは焦った。軍司令部は、夜間撮影した航空写真を前に地団駄踏んだ。真っ黒な写真に写っていたのは、放物線を描いて幾筋も延びた糸のような光の線だった。真っ暗な密林の中を、松明をかざしてベトコンや北ベトナム兵士に食糧、武器弾薬を運ぶ人々の列だった。米軍が勝利するための戦略は、ホーチミン・ルート、すなわちこの補給路をたたくことだった。しかし、できぬ相談だった。光線の曲線部分は隣国カンボジアの領土だった。カンボジアと米国は、国交がなかった。独裁社会主義という奇妙な政治形態を維持するカンボジアの統治者、シアヌーク殿下は、国内の共産勢力を弾圧しながら、アメリカとも張り合うことで国政を保っていた。それは東西冷戦上に張られた綱の上を歩くような危なっかしいものだった。が、その外交手腕は世界の脚光を浴びていた。それだけにアメリカは簡単に手をだすことができなかった。しかし、補給路への爆撃をアメリカ軍は、なんとしても実行したかった。シアヌークはノドに刺さった魚の骨。ベトナム戦争に勝利するために、南下する共産勢力を押し返すために是非に抜かなければならなかった。そのためには親米政権の樹立が必要だった。米情報局はひそかに、その作戦を開始した。一九七十年三月十九日、カンボジアに無血クーデターが起き、親米のロンノル政権が生まれた。アメリカの画策は成功した。シアヌークは失脚しアメリカ軍は、カンボジア領内のホーチミン・ルート爆撃を可能にした。その作戦は、つり針作戦と名づけられ、さっそくに開始された。北ベトナムからつり針のような曲線を描いてカンボジア領に入り込んだ補給路への攻撃。泥沼にはまっていたアメリカ軍にとっては希望の作戦だった。出口無しのベトナム戦争は好転し泥沼から脱出できる。そのように思われた。
 だがしかし、事態はそうはならなかった。アメリカ情報局は、三つの見誤りをしていた。一つは、シアヌーク政権下の反政府の共産ゲリラ、クメール・ルージュが、クーデター後あっさりシアヌークと手を握ってしまったことである。シアヌーク時代、犬猿の間柄にあったにもかかわらず、である。二つには、カンボジア内のゲリラ、クメール・ルージュを三千人足らずの武装グループと推計していたこと。それと、そのグループは、軍事組織にもなっていない、軍事訓練すら受けたことのない山賊集団と決めつけていたことである。そして、三つめに、最も重大な見過ごしをしていた。かつてカール・マルクスは、その書『共産党宣言』の冒頭で「ヨーロッパを得体の知れない怪物が歩き回っている」と記した。が、アメリカは知らなかった。フランス帰りの元小学校教師にとりついた悪魔がカンボジアの密林の奥で、人知れず成長していたことを。巨大なモンスターとなりつつあったことを。そして、その怪物が、赤いゲリラたちを徐々に支配し彼らのカリスマになりつつあったことを。アメリカはむろん、世界中の誰も知らなかった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――16 ―――――――――――――――――
一九七十年四月、カンボジア北東部の密林の中を黒衣の一団が南へと向かっていた。クメール・ルージュと呼ばれるカンボジアの反政府ゲリラたちだった。理念のないゲリラ、それ故にインドシナの孤児だったクメール・ルージュ。だが、このとき北京とハノイの密約で確かな力を得て、意気揚揚の帰国の途にあった。一団のリーダーは、おだやかな顔で常にやさしい微笑を絶やさなかった元小学校教師。だが、彼らが通り過ぎた後には、戦時下のベトナム人でさえ戦慄する残虐な殺され方をした死体が転がっていた。反政府活動の協力を拒んだ村、渋った少数民族は、老若男女問わず皆殺しにされた。あるものは股を裂かれ、あるものは首だけになって晒された。竹やりで串刺しされた赤ん坊の下に「協力しないもの、協力したふりをするもの、したがわないものは人民の敵である。かならず裁かれる」こんな張り紙が吊るされていた。書いたのはやさしい微笑みをたたえる中年男の元小学校教師。彼の名は、サロト・サル。カンボジアではありふれた名前だったが、ゲリラたちがこの名を口にするとき親しみと尊敬がこめられていた。この男こそ、密林のなかで内なる怪物を生み育てた人間、赤い悪魔の化身だった。男は六年後、ポル・ポトと名乗って、その名を全世界に知らしめた。が、このときサルの名は密林の少数民族たちの間に部族の若者を連れ去る、赤い悪魔として知られていただけである。
二 ヤマ族の選択
<一九七十年五月末日 カルダモン北西部の山岳民族ヤマ族の集落>
まだ昼だというのに辺りは夜のように暗かった。暗雲垂れ込める空に時折、闇を切り裂く稲妻が走り、さながら天地のはじまりを思わせる光景があった。鬱蒼と繁れる密林には雨季入りを知らせる激しい雨が容赦なく降り注いでいた。雨というより、まるで滝のようだった。地上は瀑布で煙っていた。雨はあらゆる植物を育てジャングルをつくる。そしてジャングルは、緑の波となっていかなる文明さえ呑みこんでゆく。あの絶大な栄華を誇ったクメール王朝さえも、いまはただつわものどもの夢の跡と化している。雨は、密林の命であり、支配者でもある。密林に棲むあらゆる生き物はすべて、小動物はむろん、トラや山ネコのような獣たちも、猛毒のグリーンスネークやコプラでさえ、ひたすらじっとして雨脚が静まるのを待つのだ。だが、例外の生き物もいた。
豪雨のなかを一人の若者が必死の形相でかけて行く。ヤマ族のソクヘンだった。岩場を登りきったところに柵で囲ったヤマ族の集落があった。二本の丸太が打ちつけてある入り口に、かってはクメール・ルージュと呼んだ、いまは赤い悪魔の兵士の死体が三体、激しい雨に洗われていた。三遺体とも黄土色の軍服姿だった。ソクヘンは、彼らに一瞥もしないで集落のなかに飛びこんでいった。
ジャングルに囲まれた猫の額ほどの高台に十戸ばかり、竹づくりの高床式住居が軒を並べていた。離れたところに一軒だけ他の住居より幾分床の高い大きめな建物があった。ヤマ族の集会所だった。中では数人の初老の男たちが黙然と車座になっていた。ヤマ族の家長たちだった。奥まった所に痩せた白髪の老人が一人じっと目を閉じて座っていた。最長老のタオだった。車座の男たちは、どの顔も不安と脅えが交錯していた。薄暗い室内は、重苦しい空気がよどんでいた。老人と女や子どもは密林に、力のある男たちは命令どおり持ち場についていた。しかし、ヤマ族には武器と呼べるものは、狩りに使う弓矢と腰の山刀しかない。こんなもので、はたして抗戦という選択は、正しかったのか。もしかして間違いだったかも。彼らの表情から、そんな苦悩が読み取れた。
不意に、彼らは、耳をそばだてた。誰かが竹の階段を駆け上がってくる。皆、一斉に入口に目をやった。ソクヘンが飛びこんできた。
「いなくなりました!」ソクヘンは、咳き切って叫んだ。「完全に姿を消しました。」
家長たちの顔は、こわばったままだった。唐突過ぎて、言葉の意味がわからない。そんな表情だ。った
「どこにもいないんです」ソクヘンは、ゆっくり言い直した。「山を下りたようです」
―――――――――――――――――――― 17 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
「ほんとうか・・・?」車座の中心にいた族長のボトが、確かめるように聞いた。
「はい!ほんとうです!」
ソクヘンは、大きくうなずいた。びしょぬれの頭から雨水が飛び散った。
 つづいて二人の男が飛び込んできた。麓に近い東の谷を見張っていたオシムとシナタだった。
「やつら、逃げていった」シナタが、勝ち誇ったように報告した。
 皆は、怪訝げに見つめた。一瞬間をおいて
「逃げていった・・・?」ボトは、確かめるように聞いた。「本当に逃げていったのか」
「疑うのですか」シナタは、ムキになった。
「オシム、そうか」
「あきらめたんだ。それで全員、引き揚げて行った」オシムは言った。
「同じことさ、逃げるのもあきらめるのも」シナタは、薄笑いを浮かべて言った。
「バカもの!」
突然、タオは、怒鳴った。かっと眼を開けて甥っこを睨みつけると叱りつけるように言った。
「同じではない。逃げたのなら、すぐにまた加勢を得てやってくる。しかし、あきらめたのなら、当分、この季節の間はやって来ないということだ」
「どちらだ」ボトは聞いた。
「あきらめたのだと思います」オシムは、小さな声で自信なさそうに言った。
「そうだろう、この季節、どんなに攻めても山には勝てない」タオは、ふっとため息をついた。
「はい、蛇の谷にいくつも堰をつくりました」ソクヘンは、意気込んで言った。「追ってきた赤い悪魔の兵隊たちが、何人も鉄砲水に流されるのを見ました」
「こちらの犠牲は・・・」
族長のボトが、きいた。
「ソーティが逃げ遅れてケガしました」
「撃たれたのか」
「違います、鉄砲水が速すぎたのです。でも通り道、よく知っていましたから」
「そうか、よかった」ボトは、小さく頷いた。
 それを合図に、家長たちの緊張の表情が弛んだ。ひとまず目下の恐怖が去ったのだ。張りつめていた室内の空気が一気に和らいだ。
 生まれ育って勝手知った山とはいえ、毎年、雨季のはじまりに突然、襲ってくる鉄砲水や土石流の恐ろしさは、ヤマ族の誰もが皆、身にしみて知っていた。その自然の脅威を武器とした作戦が功を奏したのだ。この時期、沢地に竹を切り倒せば、たちまちに水たまりができた。乾季のあいだに落ちた枯れ枝が自然の堰となった水溜まりもある。上流の一箇所の堰を崩せば、たとえ小さな流れでも、二つ三つの水溜りを過ぎるときには強力な鉄砲水や土石流に変っている。雨季、山は、どこもかしこも危険地帯である。ヤマ族の男たちは、赤い悪魔の兵士を谷に誘っては次々と鉄砲水をおこしていったのだ。いつもは恐れている、山の怪物鉄砲水や土石流が、山岳民族ヤマ族を救ったのだ。
 ソクヘンたちの報告で、いまの今まで不安と恐怖で怯えきっていた家長たちの表情がにわかに明るくなった。誰かが、女や子供が潜む密林の隠れ家に知らせに行った。なぜこんな事態になったのか。発端は、今朝、若者狩りにきた赤い悪魔の兵士三人を殺害したことからだった。いきなり現れた彼らは
「この国に住む以上、たとえ少数民族であっても革命政府に忠誠を尽くす義務がある」
と、もっともらしく召集令状のような文書をよみあげた。そして、その場に居合わせたソクヘン、チャット、シナタ、ビバットの四人を強引に引き立てようとした。アメリカに行ったことを自慢しているシナタは、ニヤニヤと追従笑いして話しかけていた。が、ソクヘンは、既に召集された少数民族の若者がどうなるか、知っていた。ゲリラの手足となってプノンペ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――18 ―――――――――――――――――
ンの新政府と戦わされるのだ。逃げ帰ると部族ごと皆殺しされる。そんな噂も聞いていた。「どうする」と聞くようにいとこのビバットがソクヘンをみた。ソクヘンは、引きつった顔で首を振った。が、どう行動してよいのかわからなかった。彼は一ヶ月前までプノンペン大学で、国際法を学んでいた学生だった。先ごろこの国の元首シアヌーク殿下追放の政変が起きた。無血クーデターと世界に打電されたが、あちこちで虐殺がはじまった。大学が閉鎖され戒厳令もひかれた。それで三日前、政変のニュースを伝えに帰ってきたばかりだった。
 ビバットは虎を仕留めたこともある狩の名人だったが、指導力には欠ける。単独行動を好む性格だった。こんなときは若頭のオシムの指示に従うのがいい。
 ソクヘンは、若頭のオシムを探した。どこにも見えない。こんなときに、ソクヘンは、心細くなった。このまま連れて行かれてしまうのではないか。そんな恐怖がわきあがった。
 ゲリラ兵は、いつもはトレードマークの黒服に縞マフラーのスタイルだが、今日は三人とも、中国製の軍服を着ていた。徴集ということで威厳をつけたのだろう。二人は無言で目ばかりぎょろつかせていたが、中年の兵士は愛想よく、四人を整列させ、不安そうに見守る部族のものたちに一席ぶった。
「この国にいるすべての悪を打ち負かして、彼らは英雄になるのです。さすれば、この山奥から麓の平地に自治区を与える。オンカーはそう約束しています」終始にこやかに話した後、最後に「革命バンザイ! 共産党バンザイ!」と、叫びバンザイしながら皆にも、強要した。数十人の部族のものは、男も女も困惑して見守るばかりだった。
「では、出発する ! 前へすすめ!」中年の兵士は、威厳をつけた声で怒鳴った。
 若い兵士は先頭に立って歩き出した。四人はあとにつづかされた。集落の門をくぐると、すぐに岩場の崖となった。古人の知恵で、わざと足場の悪いところを集落にしたのだ。フランス兵や日本兵をも追い帰した自然の要塞である。だが、侵略者が去って平和な世の中になると、若者たちからは、不便だと評判が悪かった。しかし、年寄りたちは移転を嫌った。いつかまたあんな時代がくる。常にそんな危機意識を持っていた。
 しかし、その防衛本能も堅固な自然の要塞もこうして徴集されるのでは、何の役にもたたなかった。せっかく帰った故郷から、プノンペンを攻撃するための兵士に仕立てられる。ソクヘンは、深い絶望感に襲われた。そのとき、背後のどこかから
 ヒューヒューと、鳥の鳴き声のような 物音がした。
若頭のオシムが、鳴らしている、とわかった。
 ヤマ族の狩の合図だった。前を行くシナタとチャットがちらっと手を振った。待ち伏せを了解したのだ。ヤマ族は、自給自足の生活はしていても誇り高い正義を尊ぶ部族だった。赤い悪魔の理不尽な要求への答えは、すでに決まっていた。
 襲撃はあっという間に終わった。岩場を下りかけたとき岩陰からオシムが、不意に飛び出して最後尾の兵士を蹴落とした。同時にシナタとチャットが先頭の兵士に背後から飛びかかった。つづいて、先回りしていた部族の男たちが、岩陰から一斉に飛びかかった。ソクヘンは震えて一瞬、立ちすくんだが、赤い悪魔の兵士たちは、まったく予想していなかったのか、なんの抵抗もなく撲殺された。若者たちは、三人の遺体を囲んで、暫くの間興奮気味に騒いでいたが、しだいに不安になった。事の重大さがわかってきたのだ。
 この山の麓に大勢の赤い悪魔が待っているはず。行ったきり戻らぬ仲間に不審をもつのは時間の問題だ。新しい中国製の武器を手にした彼らに敵うはずはなかった。しかし、事が起きてしまった以上、なにもしないことは、部族全員の死を意味した。異変に気づいて麓にいる仲間がやってきてからでは遅い。部族の男たちは手分けして山を下りた。怪しんで山を登ってきた赤い悪魔の兵士に先制攻撃するためだった。戦法は決まっていた。蛇の谷に誘い込み水攻めにするのだ。乾季のときは、山の上まで来るのを待って下から火を放つ。
 かつて、シアヌークの兵隊やフランス軍と戦っ作戦だった。家長たちは、老人と女子供を密林に隠し、集会所に集って連絡を待っていた。この二十年、戦争はなかった。タオだけが雨季の実戦を知っていて、皆に指導した。若者たちは、耳で知っているだけで、
―――――――――――――――――――― 19 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
だ。うまくやれるだろうか。沈黙がいっそう不安にさせた。が、杞憂だった。若者たちは、タオの指示のもと、予想以上の戦果をおさめたのだ。
 毎年、この時期、雨季のはじまった頃、降り始めた雨は乾季の間に積もりたまった枯れ木
や木の葉に流れを妨げられて、狭い谷間にいくつもの水溜りをつくった。が、それはすぐに池となりたちまち満水になって、枯れ木でできた自然の堤防を決壊させた。谷のあちこちから鉄砲水が流れ出て一つの大きな濁流となって偉大なるトンレサップ湖に流れ込んでいった。濁流は山への道を拒んだ。密林を棲家とする赤い悪魔の兵士も、さすがに高地にあるヤマ族を雨季の最中に攻めるには無理とわかった。山道を突然、滝のように流れ襲ってくる泥水に為すすべもなかった。密林が幾多の王朝を滅ぼしたように、水もまた近代兵器で武装した赤い悪魔の兵士の行く手を阻んだのである。
「勝った。勝った」
突然にシナタがバンザイして、踊りだした。
 つづいてチャットも踊りだした。
「よさんか」タオは、シナタを睨むと言った。「雨季が明ければ奴らは戻ってくる」
「そのときは、皆殺しにされるぞ」
ボトは、深いため息をつく。
「そうだ」気の弱い家長が泣き出しそうにクビを振った。
「そうだ・・って」シナタが急に気の抜けた声をあげた。「じゃあ、どうすりゃいいんです」
「どうすることもできん」ボトは、言った。
「で、できんって、そんな」チャットはへたりこんだ。
再び重苦しい空気が流れた。
「新政府に頼もう」シナタは言った。
 だれも返事をしなかった。四月に誕生したロンノル政権が、どんな政府か知らなかった。プノンペンにいたソクヘンでさえ、まったくわかっていないのだ。できたときから腐敗しきった政権とのよからぬ噂もある。それに少数民族にとっては、シアヌーク時代と、なんらかわるところがない。その点だけは一致していた。ただアメリカが味方しているということで、日常の生活物資は豊富だった。アメリカに行ったことがあるシナタには親近感があるようだ。
「長老さま、どうしたらいいんです」
ボトは、タオを見た。
 タオは目をつむって、しばらく考えていたが不意にぽつんと言った。
「ここを捨てるしかない」
 言葉の意味を理解しかねたのか、長い沈黙があった。
「ここを捨てる!?」ボトは確かめるように聞いた。「この地から離れるということですか」
「そうだ、雨季の終る前にこの地を去るしかない」タオは、静かに言ってつづけた。「赤い悪魔の兵隊を殺したときから、これより他ないと考えていたのだ」
「そんな、いやです!」チャットが叫んだ。「ここを捨てるなんてできません」
「どちらかを選ぶしかない。残って死ぬか、逃れて生きるか。生きていれば、また戻ってくることもできる。悪魔の乱暴を天が黙ってはいないだろう」
「そうだ、そうだ。長老様のおっしゃる通りだ。いまは、いっとき避難するしかないのだ。天が雨となって味方してくれているうちに」
家長たちは、口々に賛同した。
「しかし、逃げるって、どこに逃げるんです?」ソクヘンは聞いた。
「そうだ、どこに・・・我々はこの地を離れたことがない」オシムも頷いた。
「ソクヘン、おまえはプノンペンまで行ったんだ。どこに行ったらいいかわかるだろう」
「プノンペンに行こうぜ」シナタがうれしそうに叫んだ。「シアヌークはだめだったが、新政府ならかくまってくれるだろう」
「とんでもない。まったくあてになりません。それよりなによりも、もうプノンペンには行
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――20 ―――――――――――――――――
けはしない」
「どうしてだ」
「山の下は赤い悪魔の兵隊で埋まっている」
「じゃあどうすればいいんだ!」
ソクヘンとシナタの言い合いを遮ってボトが言った。
「雨季が明け、水が引ければ、赤い悪魔の兵隊は、山に登ってくる。そして、われわれは皆
殺しだ」
「雨季が明けるまで、まだ百日以上あります。それまでに準備をしましょう。時間はあります」若頭のオシムは、言った。
「武器はどうするんだ」シナタは、苛立たしそうに聞いた。
「やつらから奪ったのがある」
「ふん、一つや二つのの銃でなにができる。それに今回のように徴用にきたのとわけが違う。大勢の赤い悪魔が攻めてくるんだ」
「では、どうしょうというんだ。むざむざ殺されるのを待つのか。それとも許しをこうて、やつらの手下になってこんどはぺノンペンの新政府と戦うのか、男たちが消えた村がどうなったか。ミャン族の女子供は全員なぶり殺しにされた。子供は棍棒で叩き殺され、女は暴行されそのあと八つ裂きにされる、年寄りは銃の的にされた。そして、家には火が放たれ、村は焼き尽くされる」気の強い家長が怒鳴るように言った。
「昨日までシアヌークと戦っていた赤い悪魔の兵士が、こんどはシアヌークと手を組んで、新しい政府と戦う。クメール人のすることはわからん」
「むかしのクメール・ルージュはよかった。人など殺さなかった。赤い悪魔がきてからクメール・ルージュはかわった。恐ろしい集団になった。かれらに反抗したら皆殺される」
「そうだ、我々の生き延びる道は、もはやない」タオは、暗い顔で言った。「この地を捨てるほかは」
「捨てる。捨ててどこへ行くのですか」
「もっと奥だ」
「奥?シャムかラオの国境までですか」
「そうだ。とにかくここから逃げるのだ」
「密林の中を、ですか」
「そうだ。われわれも大変なら、やつらにも大変だ」
「しかし、誰も行ったことがない密林を、どうやって」ソクヘンは、聞いた。
「やれないことはない」シナタは、自信ありげに言った。「タイの国境は、そんなに遠くない。五日も歩けば行けるはず。国境を越えれば、奴らはもう襲ってこない。タイで、新政府がやつらを打ち破るまで待ちましょう」
「簡単に言うな」族長のボトは、睨む。「おまえは、ジャングルで迷ったときの怖さを知らないのだ。案内人もいないジャングルは羅針盤なしで海を渡るのと同じだ。全員が野たれ死ぬか赤い悪魔に見つけ出されて殺されるのがおちだ」
「どのみち我々が生き残る道はないということか」
男たちは、ため息をついて肩を落とす。
重苦しい沈黙がつづいた。いつのまにかビバットも戻ってきていた。
三 一枚の写真
「いや、手はある。むずかしいが方法はある」突然、タオがつぶやいた。
「案内人を頼めば行ける。シャムの国境まで」
「長老様、そんなことは百も承知してます」シナタが薄笑いを浮かべて言った。「案内人がいれば、とっくに頼んでいますよ」
「シナタの言う通りです」ボトは頷いて言った。「誰か、いれば頼みます。しかし、このあ
―――――――――――――――――――― 21 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
たりで密林を抜けてタイに行った部族の話はききません。トラやグリーンスネーク、コプラ
もいる。それにいまじゃ、そんな猛獣より恐ろしい赤い悪魔の兵隊までいるんだ。そんな恐ろしいところへ、たとえ道を知っていたとしても、誰も案内などしちゃあくれませんよ」
「・・・・」
「・・・・・・」
言葉はなかった。深いため息だけがもれた。この地を離れるなどということは、彼らにとって不可能極まりないことであった。彼らは、この地に根をはった樹木と同じだった。部族の誰もがここに生まれ、ここに死んでゆくのだ。唯一、例外は、アメリカに行って帰ってきた長老の甥のシナタとプノンペン大学の学生となったソクヘンだけだった。絶望の沈黙がつづいたあと、長老はうめくように一言つぶやいた。
「おる・・・」
「えっ、なにがおるんです!?」
「案内人だ。彼らに頼めばいい」
「彼ら?」
誰もが眉をひそめた。自分たちのために危険な役を引きうけてくれる人。そんな人間は誰も思い浮かばなかった。
「ここにいる」タオはそう言って革袋を引き寄せ、中から古びたエアーメールの封筒をとり出した。この会議のために自宅から用意してきたらしい。長老は、封筒の中から、色あせた油紙の包みをとりだしひろげた。
 皆は一斉にのぞきこんだ。包まれていたものは一枚の古びた大判の写真だった。長老、族長をはじめ部族の男たちが写っていた。皆、若かった。そのなかに服装の違う若者が五人いた。彼らは、もう何年も前に、この地を訪れた五人の日本の大学生だった。写真は、部族のものたちが記念に撮ったものだった。この写真は、その大学生たちが帰国後、日本から送ってくれたものだった。
「彼らに?!」
「そうだ。彼らだ」
 考えてもみなかった答えとタオの確信をもった言葉に誰の反応もなかった。救いの糸口が見えた感動からではない。あまりに突飛な、あまりに現実離れした提案に言葉を失ったのである。
「彼らはシャムからきて、再びシャムに帰っていった。密林をぬけて」タオは、構わず言った。「彼らなら密林の中の道を知っている。彼らの他にシャムから来たものはいない」
「しかし、あれから何年もたっています」族長のボトはぼそっと言って、オシムを振りかえる。「ニホンはいくつだ」
「このくらいです」オシムは両手をひろげる。
「十年、十年も過ぎているんです。とても無理です」ボトは苦笑いして首を振った。
いくらこんな山岳地方に住んでいるとはいえ、半年に一度プノンペンから日用雑貨を売りにくるイエン・リーセンと話している彼は、十年という歳月の重さは理解できた。まして彼らは日本という外国の若者だ。彼らが引きうけてくれることなどありえない。いや、もし自分が彼らだったとしても引きうけることはないだろう。山を去る日、たしかに彼らは約束した。
「何か困ったことが起きたら、きっと戻ってきます」五人のだれもが口々に言って誓った。あのときは、その言葉にウソはなかっただろう。しかし、十年が過ぎた。何かあれば、「必ず手助けにくると」タオ長老は、後ろに置いてあった山刀を引き寄せると、皆の前で、ゆっくりと引き抜きかけ、途中で手を止めると、いきよいよく白刃を鞘に戻した。ビシ!という、はぎれのよい音がどんより湿った室内に響いた。
「彼らは誓ったサムライの約束は、こうするのだと」
「サムライの約束」
男たちは思い出したように口々につぶやいた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――22 ―――――――――――――――――
「ああ、たしかに、そのようなことをしました、が・・・」誰かが頷く。
「困ったことがあったら知らせてくれ。彼らはそう言った。だから彼らに知らそうと思う」
「ふん、バカバカしい」シナタは横を向いて小声で言い捨てたあと、失笑しながら言った。「長老さま、わたしも覚えています、彼らがそうやって約束したのを。しかし、彼らが約束を守るとは思いません」
「なぜだ?!」
「あのときは、たしか彼らは若者でした。でも十年もたてば、人間は変わります。そんな約束など忘れているでしょう。たとえ覚えていたとしても、海を越えてこの地にわざわざ来るでしょうか。わたしは信じられません。もしわたしがアメリカでそんな約束してきたって、わたしは行きませんよ。金をもらって街を案内しろというなら別ですが、密林じゃ断りますよ」
 シナタの言葉にだれもが小さく頷いた。その想像に議論の余地などなかった。
「ふうむ」長老は大きなため息をついて黙り込んだ。が。すぐに顔をあげて皆に問い掛けた。「では、ほかになにか策はあるのか。雨季があければ奴らは攻めこんでくる」
 誰もその問いに答えられる者はいなかった。
 長い沈黙のあと族長は、恐る恐る口を開いた。
「もし、彼らに頼むとしても、どうやって知らせるんです。彼らが写真を送ってきたのは十年も前です。あれ以来、彼らからは何の連絡ない。それに手紙を書くにしても字も知らないんです」
「長老様でも、あまりにも荒唐無稽な話すぎます」族長は言った。ボトは、若い頃、プノンペンにでて広東人の店で働いていただけに世間のことはよくわかっていた。
「日本人は、違う」
「どこがです」
「彼らは、アジアを白人から救うと約束し、クメールからフランス人を追い出した。彼らは、アメリカに負けたが約束は守った。日本人は必ず約束を守るのだ」
長老は、頑とした口調で言った。そうして、彼方を眺めるようにほの暗い天井を見上げた。
長老の脳裏に二十数年前の、出来事がよみがえっていた。自分たちは、万能の神である。クメール人はむろん、あのベトナム人や中国人さえも水牛やブタ扱いしていた白人たち。その彼らがなんと、恐怖におびえ右往左往しながら逃げて行ったのだ。
「しかし、たとえそうするにしても、どうやって・・・」ボトは、困惑顔でため息をつくと言った。「手紙を書くといっても・・・」
 タオは、大きく手を振って言った。
「時間はない。行って、直接に頼むのだ」
「行く、ってどこにですか?」
「日本だ。こんな話、会って直接頼むしかない」
「しかし、頼むといっても・・・だれがです」
「そうですよ。たとえ行ったにせよ、言葉だって通じない。たしかあのとき彼らだってそんなに話せたわけじゃない。三ヶ月かかってやっとカタコトだった」
「そんなことより、行くとなれば旅費がいる。旅費はどうするのか。何千リエルと必要だぜ。いや、彼らの旅費だって必要じゃないか。ただじゃあこないぜ」シナタは言った。
「行くものは考えてある」長老は力強く言った。
「考えてある?!」
「誰です」
 長老はゆっくり振りかえると、ソクヘンを指差した。
「ソクヘンを?」
 非常時ですっかり忘れていた。ヤマ族でただ一人の大学生ソクヘンはプノンペン大学で日本語を専攻していたのだ。
―――――――――――――――――――― 23 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
「ソクヘンは、わかりますが、お金はどうするんです。彼一人だって行かせられるかどうか」
「大丈夫だ。こんなことがあるかと」長老は言って懐から皮袋をとりだすと紐をほどいてゴザの上にあけた。鈍い赤や緑の光の粒がいくつも転がった。ルビーの原石だった。
「ソクヘン、ここに来い。話は聞いての通りだ。ヤマ族を救うのは、お前しかいない。行っ
てくれるか」
「はい」ソクヘンは、思わぬ任務に頬を紅潮させて大きく頷いた。「孤児である私を大学まで行かせてくれた一族のためにお役にたてることをうれしく思います」
 ソクヘンの両親は彼が幼い頃、なくなっていた。人食いトラに襲われた妻と我が子を助けようと勇敢に戦った。矢尽き刀折れても、必死で向かっていったのだ。妻もトラの牙から逃れることはできなかったが、我が子に次の牙がとどく直前に、トラの喉は山刀でかき切られていた。母親の屍の上にどっと倒れこんだ人食いトラ。ソクヘンはその牙のほんの数センチの下で泣いていた。
「これをイエン・リーセンに買ってもらうのだ。日本へのことは彼に頼め」
「わかりました」
「今から行ってくれるか」
「はい」
「おまえの方が奴らより山を知っている。だが、油断するな」
 それから一時間後、ソクヘンは誰にも見送られることなくヤマ族の集落を後にした。十日前にプノンペンからシアヌーク追放、ロンノル政権誕生のクーデターのニュースをもって帰ってきた道を、今度は部族興亡の重責を背負って再びプノンペンへ戻っていく。こんな事態になろうとはソクヘンは微塵だに想像しなかった。そればかりか、憧れの国、ジャポンに行くことになろうとは夢にも思わなかった。リミットは雨季明けまでの百日。はたしてあのときの日本の若者たちは、約束したことを覚えているだろうか。そして、彼らはその約束を守ってくれるだろうか。
十日後、雑貨商イエン・リー・センの手引きでパスポートを手に入れるとソクヘンは一族の命運を背負ってポーチェントム空港から日本に旅立った。
「日本人、二人いる。いい日本人と悪い日本人」リー・センは、何度も言った。戦争中に会った日本人に学んだという。
 彼らが、「いい日本人」でありますように。ソクヘンは、眼下に広がるメコンデルタをながめながら祈るしかなかった。ベトナムでは戦争が激化していた。その火の粉はカンボジアに飛び火した。政変とともに静かだった空に米軍の爆撃機がとびはじめた。そして、かってのクメール・ルージュ、赤い悪魔の動きも活発になった。風雲急を告げるインドシナを後にエアーベトナム機は、機体をきしませながら一路、香港に向かった。
 次回、ソクヘンは、あの日本の青年たちに会うことができるだろうか。そして、彼らは約束を覚えているだろうか。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――24 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出状況(6・4現在)
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、髙橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(車外も可)=髙橋亨平(1)山根裕作(2)疋田祥子(2)茂木愛由未(1)
□ 一日を記憶する=髙橋亨平(1)、山根裕作(1)疋田祥子(1)茂木愛由未(1)
          金野幸裕(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第222回「読書会」
月 日 : 2007年6月16日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 村野和子氏 作品『白痴』第二回目
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年7月28日土曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : コメンティター5名。
題 目 : 『ドストエーフスキイ広場』合評会      関心ある人は下原まで
出版
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えて
ゲンダイ文学であり続ける。 
※ 集英社『21世紀ドストエフスキーがやってくる』2500円 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
☆冊子観察「賢所」「写真を読む」『学生と読む志賀直哉の車内作品』④は、紙面の都合で、
 次号以降の掲載となります。

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑