文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.318

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)6月26日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.318

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

6・26下原ゼミ

 

 

文芸研究・読書会観察 『悪霊』4回目、「合意」に意見対立

 

ドストエフスキーの『悪霊』は、昨年12月から読みに入った。人気の作品だけに2月、4月と参加者は20名を越す盛況ぶりだった。が、先日24日の6月読書会は、17名と、普段よりやや少なかった。4回目ということでマンネリ化したかもしれないが、この日の報告は、元高校教師の学校での悪霊体験報告。新鮮味あった。以下は、報告のレジメ

 

ドストエフスキーにおける「悪」

ワルコフスキー、スタヴローギンからの一考察

1、私の体験から

① 高校生の酒盛り事件(高校教員時代の最悪な出来事)

・  クラス合宿での「酒盛り」の噂

・  「性善説」を信じる自分

・  悪意ある副担任

・  酒盛りの現場に遭遇

・  退学した生徒が合宿所に侵入していること

・  暴走族がやってくる

・  事件の結末

② 事件をきっかけに「性善説」を疑うようになる

・  「教員と生徒との信頼関係は善意、誠意、理性で築ける」という信念、思い込みの揺らぎ。「人間の天性は善である。悪事はたまたま何かの拍子、環境などの問題から偶発的に起きるもの」といういわゆる「性善説」の危うさを感じる。ルソーの思想「あらゆるものは神の手から出るときは美しい。人間の手の中で醜くゆがむ」という説に疑問を感じるようになる。

・  一方、高校時の友だちの言葉も、ずっと気持ちの底にあった。「大量の同族殺人(戦争)をするのは人間だけ。人間は生来原罪を負っている」

・  『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとアリョーシャの会話にも、これと通底する思想がある。((第5編 プロとコントラ 4)…イワンが領主の犬にけがを負わせた少年は、領主によって猟犬に噛み殺された話しをする。アリョーシャは「そんな領主は銃殺です!」と叫ぶ。この記述につながっているのではないか

※山間の牧歌的な女子高だったが、『悪霊』は、漂っていた。

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【前々回ゼミ】

志賀直哉の生き物作品を読む前に、平成20年、埼玉県県立高校入試問題に出題された生き物作品(下原)のテストをみてもらった。作者と出題者の相違点をみる。

 

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※回答との違い一問あり。問い2

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テキスト研究

『網走まで』考察 (まとめ)

 

「下原ゼミ通信」編集室

没書顛末について

1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』のあとがきで、志賀直哉は、『網走まで』について投稿した時の様子や没になった理由をいろいろ詮索している。

一見、エッセイ風で、小説とは思えない作品である。それだけに謎も多いが、想像を駆使して考察してみた。

なお、原文そのままだと時代の開きから読みにくいので、掲載分は、編集室が現代表記にした。悪しからず。

 

まず、没になったときのことを志賀直哉は、どう書いているのか。再度掲載してみた。

 

【細川書店版「網走まで」あとがき】「帝國文学」没書顛末記 抜粋

 

発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。

 明治三十九年に、二十四で学習院を卒業し、東京帝国大学に入り、そのよく翌年くらいにこの短編を書いた。その頃、大学内に「帝國文学」という雑誌があって、それに載せてもらうつもりで、その会員になったが、幾月経っても載らず、ついに何の音沙汰もなく、没書になった。

 「帝國文学」の原稿用紙というのが、今思えばまことに変なもので、紙を縦に使って、一枚がそのまま、雑誌の一頁になるように出来ていた。編集には便利なので「白樺」をはじめた時、真似して作ってみたが、使いにくく、すぐやめてしまった。十七八行、五十字詰くらいで、今の四百字詰の原稿用紙に比べると倍ほどの字数になる。従って一コマが小さく、とくに上下がつまっていて、大変書きにくかった。その上、ロール半紙で、表面がつるつるしているし、それに毛筆で書くのだから、私のような悪筆の者には非常に厄介なことだった。清書だけでも人にしてもらえばよかったものを自分で書いて送ったから、編

集者はそのきたない原稿を恐らく読まずに、そのまま屑籠に投げこんでしまったのだろうと思う。今はそれを当然のことだと思うが、当時は一寸不快に感じ、会費を一度払っただけで脱会してしまった。明治四十三年に「白樺」を創刊したとき、私はその第一号にこの短編を載せた。二年ほど前から回覧雑誌を出していたから、作品は他にも三つ四つできていたが、創刊号にこれを選んだのは、没書になった故に、わざと出したように思う。

 小宮豊隆君が新聞か雑誌かでほめてくれた。月評を書くのでいろいろなものを読んだが、この小説へきてようやくほっとしたというようなことが書いてあった。ほめたといってもその程度の賛辞であったが、私はそれをうれしく思った。個人的には未だ小宮君を知らぬ頃のことだ。・・・・・・・・・。(岩波『志賀直哉全集』)

 

没にされた腹いせか、「帝國文学」の原稿用紙の悪口を言っている。字が汚かったから読

まずにゴミ箱に捨てたのだろうも、当てつけのように感じる。これでは、あまりにも「帝國

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文学」の編集者が無能のようで、文学を見る目がないようで、気の毒におもえる。

「下原ゼミ通信」編集室としては、字はきたなくても編集者はしっかり読んだ。作品も評価した。その上で、覚悟をもって没にした。そのように思いたい。

そんなわけで、もう一度はじめから検証してみることにした。

 

『網走まで』には大きな謎がいくつかある。作品を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。母子の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、まず題名の「網走」から考えてみたい。

 

インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。

 

例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)

また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。

  • 1872年(明治5年)3月北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
  • 1875年(明治8年)漢字をあてて、網走村となる。
  • 1890年(明治23年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
  • 1891年(明治24年)集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
  • 1902年(明治35年)網走郡網走村北見町勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。

明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。(屯田兵として利用する)。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。

「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」

なんとも乱暴が話だが、国策、富国強兵の一環として、この計画はすすめられた。

そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時(1908)、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。

第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかった。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。

この作品はどう読んでも網走駅までの印象は強い。「網走まで」は駅までではない。そう言われても、では「なぜ」と問いたくなる。題名からして大きな謎である。

『網走まで』とは何か。今一度、書いた動機から探ってみることにする。

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『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。直哉がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読める。が、そうではない。この作品は完全なる創作であるという。志賀直哉は、創作余談において、書くことになった動機をこう明かしている。

 

「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」

 

そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか。

網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたはず。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。

なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。それ故に当時も一般的知名度は、高かったのではと想像する。

もっとも、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。

にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。「網走」は志賀直哉にとって何か、よほど深い思い入れがあったのか。題名にしたかった理由があったのか。

しかし、四十一年後、1951年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、それほど深い思い入れはなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の題名であったのか。

 

「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているよ

うだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。

同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿とさせる一種文芸作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わって完全なやくざ映画である。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健が唄う歌「網走番外地」で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱く

て良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人で日本刀を片手に、多勢の悪いヤクザが待つ敵陣に乗り込んでいく。その背中に、発売禁止とな

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った「網走番外地」の唄が流れる。

とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景だった。が、当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。

で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十年末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。

『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたの

か。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。

子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな印象の町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても未開を感じる土地だった。

余談になるが、1965年、昭和40年、今から52年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためだった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、と覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)に組み込まれた。住み込み三食つきにバイト代500円、それに単位修得。一石三鳥になる。(当時、バイト日給600~800円が相場)で、躊躇なく決めた。

信州の山奥で育った筆者は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れがあった。7月の前期終了日、主任教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。釧路が一番多く数名、あとは稚内や網走、他、知らぬ土地だった。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名。地図でみると根釧原野の中ほどにある。釧路から近い、とわかった。が、どんなところかは、想像もつかなかった。

とにかく行けばわかるさ、で、友人たちと上野から「青森行き」夜行列車に乗った。大学一年18歳の夏だった、「計根別まで」の旅。記憶では、翌朝早く、青森駅に到着、青函連絡船で函館。そこから札幌までが、長かった。札幌で時計台を見に行きラーメンを食べた。再び列車で釧路に向う。深夜、倶知安という駅に着いた。寒いので、うどんを食べた。美味しかったという記憶がある。計根別に着いたのは昼過ぎ。上野を出てから二日かかった。農協の職員と、酪農家の家の人が待っていて、学生は、各農家一軒に一人ひとり振り分けられた。私が働くことになったのは、開拓13年目の酪農農家だった。小学生の子供が三人いる五人家族だった。トラックから下りたところは根釧原野の真っ只中。アメリカの人気ドラマだった「大草原の小さな家」の丸太小屋を思わせる家と20頭ほどのホルスタイン牛がいる牛舎があるだけだった。夕焼けに染まっていく空が以上に広く、なにか心細さを感じたことを覚えている。東京は、外国ほどはるか遠くに思えた。

昭和40年でも、こうだから、明治の時代には、どれだけ辺境の地と思われていたか見当もつかない。その意味から、母子三人の網走行は矛盾が大き過ぎる。鉄道も通っていず、道路さえ建設中の、熊と雪崩とジミチな人間の行くところではない。そんな魔境のようなところへ信玄袋一つ持って、乳飲み子と病気の子どもを連れて行くという。およそ世間というものを知っている人が書いたなら、こんな無理なというより不可能な設定はしない。

先ほど、映画「幸福の黄色いハンカチ」をあげたが、この山田洋次監督の映画で、こちら

も北海道を舞台にしたものだが『家族』がある。監督は、いつだったかテレビで、この映画を作ることになった経緯を話していた。それによると、八高線(?)の車内で、鉱山労働者

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のような家族を見かけた。高度成長期の日本は、大阪万博を前に賑わっていた。監督の作品「男はつらいよ」もヒットしていた。こんな浮かれた時代、その親子は、まるで時代に取り残されたようにみえた。この家族は、どこから来て、これからどこに行くのだろう。気になった。そんな思いからシナリオ「家族」ができたらしい。

ちなみに、あらすじは、九州長崎の炭鉱が閉山になったことから、幼子二人いる夫婦は、

北海度で酪農農家になること決意する。同居の祖父と5人の北海道までの列車の旅。昭和

元禄で湧く日本列島を縦断するなかで、赤子を亡くし、3月末目的の開拓地に着いたとき祖

父も死ぬ。悲壮な終盤だが、緑の草原がひろがる6月の爽やかな光景が、希望となる。

山田監督は、人生の辛酸を知っている。そんな年齢でもある。車内観察した家族を北海道

の開拓地に向かわせるに、それほど想像力はいらなかったのではと思う。

そこにいくと夫婦間の愛憎も子育ての大変さもお金の苦労もしたことのない、若干27歳

の青年にとって、母子の大変さは、頭でわかっても実際的には、理解できていない。主人公が、母子にどれだけ同情しているか。それを読者に知ってもらうには、目的地が知れた大きな町ではだめだ。より辺鄙な未開地ということで、母子の旅の大変さ、苦労を醸しだそうとした。しかし、それはあまりにも矛盾があり過ぎた。

編集者は、その矛盾を見逃さなかった。若き小説の神様の勇み足といえる。

 

古本紹介

 

世界の大思想 河出書房新社 800円 1966.1.30

 

『キルケゴール』

・おそれとおののき 桝田啓三郎訳

・哲学的断片    矢内原伊作訳

・不安の概念    原 佑 飯島宗亨訳

・死にいたる病   松浪信三郎訳

 

これから読むテキスト 志賀直哉・生き物作品他

 

これから読んでゆきます

 

・濠端の住まい ・蜻蛉    ・城の崎にて  ・犬     ・雪の遠足

 

・池の縁    ・日曜日   ・クマ     ・虫と鳥   ・馬と木賊

 

・兎      ・玄人素人  ・猫      ・蝦蟇と山棟蛇 ・子雀

 

・山鳩     ・目白と鴨と蝙蝠 ・朝顔   ・鴉の子  ・雀の話

 

 

車内観察 → 「灰色の月」

 

裁判作品 → 『汎の犯罪

 

 

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草稿・日大外聞 小話を書き足していく。

 

昭和元禄草もう伝 昭和元禄草莽伝

 

この物語はフィクションです。現存するいかなる団体、個人とも関係ありません。

 

時代

 

ときは一九六八年(昭和四十三年)遠くインドシナではベトナム戦争が激しさを増していた。隣国、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。だが、高度成長まっただ中の日本は太平を謳歌していた。

高度成長真っ只中の日本は好景気に沸き立っていた、その時代を昭和元禄と呼んだ。だが、大学では、革命に目覚めた学生たちが、密かに各大学で活動しはじめていた。あの徳川幕府に討幕の狼煙をあげたように。だが、そのなかにあって、10万の学生を要す万マンモス大学日本大学は、かって中国のように眠れる獅子だった。が、さすがに、その図体を動かしはじめた。

そもそもの発端は、この年のはじめ一月二六日の新聞に「都内某私大の有名教授 裏口入学で三千万円、謝礼金をポケットへ」の見出しからはじまった。

しかし、この事件はケチな裏口入学だけでは終わらなかった。不正入学という黒雲が漂うなか会計課長が失踪すると、つづいてベテランの経理主任が自宅で首をくくった。四月十四日、東京国税局は、日大に億単位の多額の、使途不明金があることを公表した。

しかし、十万日大生は、まさに眠れる羊のごとくだった。

 

この時代、日大は暗黒時代だつた。マンモス化から日大生は学生にあらず、とまで侮蔑され軽蔑されていた。だれも日大生とは呼ばなかった

だが、ついに日大生は、各学部で学科ごとに集会を開いてことの正否を問い始めた。そして立ちあがった。幕末維新の山田いちのじょうの血は脈々とながれていたのだ。

序章 神田の新撰組 京の街を取り締まった新撰組さながら

 

ここ東京は、深夜に近い時刻だったが相変わらず飲めや歌えやの賑わいをみせていた。ネオン街は、永遠につづきそうに彩っていた。ここ神田界隈も学生や勤め人の人波は絶えることがなかった。そんな夜の学生街を、人ごみを蹴散らして、いく異様な集団があった。まるで夜警でもするように、居酒屋、喫茶店、スナックを軒並み見回っている。手に手に木刀を持っている。応援団が着る学ラン姿もいれば揃いの黒のジャージを着ているものもいた。背中にピンク色で桜嵐会と刺繍がしてあった。彼らは何か探しているようだった。奥行きのある居酒屋や喫茶店などに行くと入口を固め、二人が斥候に入っていく。

養老の滝は三階まである。満席だった。

二階から斥候の若者が顔をだして、腕でばってんした。

「三階をみろ」

路上でみあげていた桜嵐会の一人が怒鳴った。

「オス!」

「この店にはいません」

「よしもどれ」

隊長の杉本広太郎は、言って舌打ちした。

ほんとうにやつら、全学部集会をこの神田で開くのだろうか。まだ半信半疑だった。日本大学の学生がデモをやるはずがない。これが世間の定説だった。ポン大生としか呼ばなかった。

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「なんだよ、あの連中」

カウンターにいた勤め人がビールの泡をふきながら不快そうに見送った。彼は、この日、はじめて彼らにお目にかかったようだ。

「学生の集会を探してるんですよ」

カウンターの内側にいた店主が苦笑して言った。「このあいだから、やけにご執心なんだ学生狩り」

「学生狩り!?」

「そう、デモ集会している学生を探してる」

「体育会系ぽいけど、どこの学生だ」

「そこの、三崎町の」客の一人がアゴを突き出して示した。

「まさか、あそこの学生はやらんだろう」

「ポン大だもんな。政治運動はやらんよ」さも軽蔑したように吐き捨てた。

「なんていったってポン大生だからな」

客たちが失笑するのも無理なかった。

「いたぞ!」

「逃がすな」

深夜の神田からお茶の水にかけて大とり物がはじまった。逃げているのは、ジーパンにシャツ姿の若者。追うのは、宵の口から、居酒屋を見回って歩いている、学らんの応援団と右翼学生の混成隊だった。逃げる学生たちも必死、捕まれば、リンチ、暴行が待っていた。痛みに耐えたとしても、学生証がわかれば、即退学は間違いなかった。追う右翼学生や応援団の学生、彼らとて必死だった。昼間、神田三崎町日大本部において、不穏分子一掃作戦の結団式を終えてきた。「いいか、日大からアカをだすな!」日大会頭の命を直接うけているという新藤本部長が檄をとばした。日大生は学生運動とは無縁。長らくそんな思いが固く信じられてきた。昨年、佐藤首相訪米を阻止しようと戦った「第二次羽田闘争」の逮捕者のりなかに日大生が2人いたことで、大学側はにわかに神経質になった。

路地のくらがりに身をひそめている若者、隠れながらこんな歌を口ずさんでいた。昨年テレビドラマの時代劇「高杉晋作」の主題歌をアレンジした歌だった。

六十余州を  揺り動かして   桜を咲かせる  夜明けも近い

望むところだ  学園 嵐   みごと 桜を咲かせてみせる

 

新学科創設に集まった若者  一 深夜の酒宴

 

「あれ?!お酒は」

Aは、驚いたように声をあげた。

「お酒??」さきにきていたSは、もっと驚いたようだ。

新学科秘話 プロローグ

1945年8月6日 中国東北部吉林郊外。漆黒の大地を疾走する単騎。日本人馬賊、一角竜こと小谷田龍二。

吉林関東軍本部、ソ連軍が条約を破棄し国境を越えてなだれ込んでくることを知らせるため。

関東軍の返事は「知っている。想定内。軍は出せない」だった。

拓務省の役人前藤俊一は危機を理解して軍に頼む。

2人はクラブに乗り込む。軍人たちが宴の真っ盛り。

松岡大佐のテーブル

「なんだ、一角竜」

「おまえたち軍人は

 

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一角竜、モーゼル拳銃を抜き取ると天井の豪華絢爛の大シャンゼリゼに向かって発砲した。喧騒。クラブ東京を脱出する一角竜。

「あんたは、残って開拓民脱出の列車を頼む」

憲兵隊発砲するが、一角竜を乗せた馬のひずめは奉天の闇の彼方に消える。

闇の大地。北へ疾走する一角竜。真暗な地平線に、閃光。ソ連機の爆撃がはじまったのだ。

「おそかった」

「日本人など滅びてしまえ」小谷田の叫びが満州の闇のなかに消えていった。

 

1947年1月5日、北京の軍事裁判所。

「日本人軍属、小谷龍造、銃殺刑に処す」

前藤俊一郎見送る。

 

刑務所。雪の脱出、

1953年 九州小倉 大山田一家の遊郭。北京刑務所で死んだ仲間の娘を訪ねる。娘は死んだと知らされ、金を要求すると簀巻きにされ小倉川に 流砂の守りの歌 二ヵ月後、再び大山田一家の事務所。

 

 

ゼミⅡ日誌

 

□4月10日 参加 □4月17日 参加 □4月24日 参加 □5月8日 参加

□5月15日 参加 □5月22日 参加 □5月29日 参加 □6月5日 参加

□6月12日 参加 □6月19日 参加 □6月26日

 

【テキスト】志賀直哉『或る朝』、志賀直哉『網走まで』、志賀直哉『剃刀』、志賀直哉『正義派』、森鴎外『高瀬舟』、夏目漱石『三四郎』最初の章

 

2017年 熊谷元一写真童画館 お知らせ

 

☆2017年 第20回熊谷元一写真賞コンクール応募 詳細は「熊谷元一写真童画館」HP

テーマは「遊ぶ」です。併せて「阿智村」を撮る

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会からのお知らせ

 

 

東京芸術劇場第7会議室

 

作品『悪霊』4回目 報告者・未定  司会進行・未定

 

2017年8月19日(土) 午後2時~4時45分

 

東京芸術劇場第7会議室

 

作品『悪霊』5回目

 

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下原ゼミ通信編集室 〒274-0825 メール:toshihiko@shimohara.net

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.6.26  名前

 

  1. 社会観察

 

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  1. テキスト感想

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  1. なんでもない一日の記録 

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