文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.319

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)7月3日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.319

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/10 4/17 4/24 5/1 5/8 5/15 5/22 5/29 6/5 6/12 6/19 6/26 7/3 7/10 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

7・3下原ゼミ

 

 

熊谷元一研究 熊谷元一写真童画館&満蒙開拓平和記念館見学+星空

 

南信州への旅への誘い(参加希望確認)

 

前期も、残すところあとわずかとなりました。お疲れさまでした。

今年も参加者(2名以上)いれば熊谷元一の故郷、南信州・昼神温泉郷への旅を計画します。

 現地では、熊谷元一写真童画館と昨年天皇・皇后両陛下が訪れて話題となった満蒙開拓平和記念館を見学します。星空が日本一きれいに見える村としても有名です。希望あれば星空ツアー(+ロープウエイ含む約往復5000)

 

下記、写真は、熊谷元一の故郷 長野県、伊那谷にある昼神温泉郷

 

行き先 長野県下伊那郡阿智村昼神温泉郷 交通・中央道高速バス(新宿―伊賀良)

 

目 的 熊谷元一研究(ゼミ誌制作)のため

宿 泊 昼神温泉郷村営旅館「鶴巻荘」1泊2日 約10000前後(人数割)星空+ツアー代

参 加 現在のところ ゼミⅡ→1名 ゼミⅣ→0名 聴講→1~2名 計2~3名

日 程 8月上旬 8月  日( ) ~ 8月  日( )

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テキスト研究  安岡章太郎『私の墨東綺譚』を読む

 

六、大人と子どもの違い

 

 

横光利一の『旅愁』は昭和12年4月13日から東京日日(現・毎日新聞)・大阪毎日の夕刊ではじまった。そして、それから3日後の4月16日の東京・大阪の朝日新聞夕刊は荷風の『墨東綺譚』を連載しはじめた。

別段、これは朝日、毎日の両紙が意図的におこなったことではない。

前にも述べたように荷風は前年、9月末頃、墨東をおとずれたあと、《この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり》と言い、翌日の夜から直に執筆にとりかかって、約一か月後の10月25日に『墨東綺譚』百数枚の原稿を脱稿している。そして翌月には、朝日との契約が成立し、あくる昭和12年の新年から連載がはじまる旨の予告も、新春の新聞にある。しかし、その予定は遅れに遅れ、12年4月14日の夕刊にやっと、

《待望の永井荷風氏が、いよいよ近く夕刊中編小説に登場いたします。

題して『墨東綺譚』・・・》

という予告が出たわけだが、これはもっぱら朝日の社内事情によることであって、毎日新聞への対抗措置ではない。尤も、この朝日の社内事情なるものの実態は、私には、全く不案内である。要するに、この緊張した時局に玉ノ井の小説などのせるのはいかがなものであろう。作者荷風にとっても、いったん社告で連載を予告しながら、いつまでも宙ぶらりんの状態に置かれることは、甚だ落ち着きが悪く不快なものであったに相違ない。それで無名の小出版社から私家版で出してみたが、これが紙のタテ目とヨコ目を取り違えるというシロウト然とした不様な出来のものだったので、荷風は激怒し、代かの支払いに応じないことになった。一方、毎日の『旅愁』には、そんなゴタゴタはなかったようだ。横光利一作、藤田嗣治画と両大家の名を並記し、セーヌ河畔のエッフェル塔に旭日の燦然と輝くさまを挿し絵に、つぎのような堂々たる文章で始まっている。

《・・・復活祭の近づいた春寒い風が、河岸から吹く度に、枝枝が震えつつ弁を落としていく》《バッシイからセイヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から、物うげな汽灌の音を響かせて来る…》
まことに悠然たるかまえであるが、描かれた風景は日本人読者にとってじつに目新しく期待感をおぼえさせるものであったにちがいない。

しかし、それから三日たって朝日で『墨東綺譚』の連載がはじまると、両者の力関係は、次第に逆転していったらしい。

中山義秀は『墨東綺譚』を『旅愁』と比較して大人と子どもの違いだという意味のことを言っている。これは中山氏だけでなく、文壇内の大方の見方でもあったらしい。誰よりも横山氏自身が荷風の『墨東綺譚』に引け目をおぼえていたらしく、『墨東綺譚』の連載が完結すると『旅愁』の中断を毎日に申し込んだ。むろん、枚に他画をではこれを即座に了承するわけにはいかなかったが、40日ばかり後に『旅愁』の中断をきめたるそのとき、すでにシナ事変が始まっており、わがくにが戦争の泥沼に足をとられていったことは、すでに何度も述べた通りだ。これは日本にとって大きな不幸であったが、横光個人にとっても『旅愁』という小説にとっても、また大いなる不運であり、横光は戦後も断続的にあちこちの雑誌で延々二千枚まで『旅愁』を書きついだが、ついに完成せず、中断のまま終わった。横光利一は『旅愁』のために死んだと言っても過言ではない。

横光利一が渡欧した頃、氏は毎日の学芸顧問であったが、毎日としては、「横光利一特派員」の名前で、ヒトラーが、民族の祭典を謳い上げているべるりん・オリンピックの模様を伝えてくれれば、それでよかった。しかし、文名赫赫たる横光利一としては、オリンピック

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などという子ども騙しの見物だけのために、わざわざヨーロッパまで出掛ける気にはなれなかった。行くからには、シュペングラーの『西洋の没落』ではないが、或る文明の「落日」の実態を自分の眼でシッカリととらえてこなければという心持だったのである。

(つぎは「七、驟雨の出会い」

 

第一回挿し絵

 

この時代の熊谷元一  カメラ開眼の頃

 

□1936年(昭和11年) 27歳 パーレットの単玉を17円で求め、毎日、村人を撮り歩く。美術評論家・板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』の「グラフの社会性」に感銘。写真の一部を板垣氏に送る。板垣氏、評価。「アサヒカメラ」に紹介。

 

□1937年(昭和12年)28歳 「アサヒカメラ」2月号に写真評が掲載。写真に自信がつく。

 

□1938年(昭和13年)29歳 二年間撮ったふるさとの村「会地村」の写真、1500枚のなかから600枚をひきのばし、写真集をつくり、板垣氏に送る。板垣氏は絶賛、朝日新聞社に紹介、12月朝日新聞社から写真集『会地村』が出版される。

 

□1939年(昭和14年)30年 6月拓務省(大東亜省)嘱託となり上京。8月満州出張。

 

『墨東綺譚』が世に出た頃、熊谷青年は、写真が認められ、写真家としての道を歩み始める。前途洋洋の道。が、日本は、昭和12年7月7日盧溝橋事件を端に戦争への道を突き進む。

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テキスト研究 6歳継子殺人未遂事件

 

18765月×日ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた

(実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測があります)

 

日本には、現在1億3千万近い人間がいる。そのうち未成年者は2300万人というから選挙権の有権者は、1億人前後いることになる。自分が選ばれる確率は宝くじより低い、などと思ってはいけない。人間一生のうち67人に1人が裁判員となる割合だという。

平成元年生まれの人たちが多いゼミの皆さんも例外ではない。というわけで、この事件を裁判員になったつもりで、評決してみましょう。(この事件は、1876年ロシアの裁判で陪審員制度で裁かれました。ある意味で裁判員の見本となる裁判です。)

 

「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)

 

 

事件発端と推移

 

1876年5月×日、午前7時頃(推定)ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から十数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、いくらかの雪がはき積もっていた。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、その雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。はたして、この女の罪状は・・・・。現在、日本のあちこちで起こっている幼児虐待事件を思い出す。最近も三つ子の赤ちゃんの一人が虐待で死んだニュースがあった。

 

犯人の身元

 

犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。1年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。妊娠中。

 

殺意の動機

 

自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた(米川訳)」など言葉の暴力を受けつづけた。

このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行した。

 

 

 

 

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陳述・容疑者の義母はこのように犯行を話した

夫婦喧嘩では、夫にいつも怒鳴られていました。亡くなった前妻の方がよかったと責めるのです。罵られるたびに、連れ子の6歳の継娘まで憎くなってきました。それで、いつか、面当てに夫が一番の打撃になること、継娘を亡きものにしようと思っていました。このところ、ひどい喧嘩がつづいたので、ついに限界に達し、昨日、それを実行する決心をしました。しかし、昨晩は、夫が家にいたのでできませんでした。

今朝、夫が仕事に出かけたので、計画を実行することにしました。私は、4階の窓を開け、草花の鉢植を窓じきの一方に寄せました。それから、起きたての継娘の名を呼びました。

 

6歳の継娘は、眠気眼をこすってやってきました。私は、

「○○ちゃん、窓の下を見てごらん」と、言いつけました。

継娘は、朝っぱらなんだろうという顔をしました。が、窓の下にどんな面白いものが見えるのかと、思ったのでしょう。すぐに窓じきにはいあがりました。そして、両手を窓に突っ張って、下をのぞきました。ちっちゃな両足が、私の目の前にありました。その可愛らしいちっちゃな両足を私は、つかんで持ち上げ、窓外に放り投げました。娘は、宙にもんどり打って落ちて行きました。私は、すぐに窓を閉めて、着換えをすませ、部屋の戸締りをして警察に出向しました。娘は、てっきり死んだものと思いました。これが犯行のすべてです。嘘偽りはありません。

 

検察側の起訴と求刑

 

 

 

 

弁護側だったら、どう弁護

 

 

 

裁判員だったら

 

 

 

 

判決は →

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本大学異聞創作ノート1 連載開始2017.7.3 校正ながらすすめる

 

この物語はフィクションです。現存するいかなる団体、個人とも関係ありません。

 

仮題・昭和元禄水滸伝

 

土壌館・編集室

日大生起つ

1968年5月、フランスで燃え上がった学園紛争の炎は、たちまちのうちに全世界の大学に燃え移った。日本も例外ではなかった。火の手は、枯野に放たれた野火ごとく勢いを増しあっというまに日本全国各大学に燃え広がっていった。

あの六十年安保騒動を凌ぐほどの過激さで――

しかし、その大学紛争の嵐のなかにあって日本大学だけは、一人学園紛争とは無縁だった。「あの大学でデモ騒ぎなど起こるか」いかなる確証あってか、世間はその噂に納得していた。「ポン大生がデモなどやるかよ」軽蔑と失笑の混じった風評が市井の感想だった。

しかし、その年の夏、突如、日大は燃え始めた。日本一の学部数、日本一の学生数を有し各地に校舎数を誇る日大。眠れる獅子ならぬ、ノンポリとみられた多くの学生が、意思をもちたちあがった。各地の校舎から一斉に火の手があがったのだ。

世間は驚き、思わず拍手した。

中国・香港帰りの警視庁公安部警視正佐々淳行警備第一課長は、鎮火すべき日大校舎に向かった。彼は、後に東大安田講堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍する。当時彼の知る日本大学はこのようだった。

「日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育であり、その放漫きわまる経営方針ゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。・・・・二部や通信教育をいれると三十万人ともいう。(『東大落城』)」

それだけに、おかしな話だが彼の胸のなかには、「日大生起つ」の報に接した時、一種ある感動があった。日大だけは、他の大学紛争とは違う。彼はそうおもっていたのだ。弱いもの虐げられたものに味方したいと思う気持ちが頭をもたげていた。

いかに法のためとはいえ屈辱にまみれながらもついに立ちあがった若者一揆の鎮圧は忍びなかった。名将の心いかばかりだったか。

 

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神田のカラス

 

一九六八年(昭和四十三年)五月 神田三崎町界隈

 

ここ東京、神田の三崎町に夕闇が漂いはじめたていた。桜は、すでに終わったが、街は、まだお花見気分の賑わいがあった。この時刻、日本全国、いずこも同じ高度成長まっただ中の風景である。赤ちょうちんやバーやスナックが軒を並べる路地裏は、早くも仕事帰りの勤め人やコンパの学生たちで溢れていた。大通りの歩道は、駅に向かう人波がつづいていた。

その人混みを、逆流する一団があった。黒い上下のジャージを着た十二人の青年たちだった。皆、体格がよく、見るからに体育会系の学生を思わせた。先頭の青年は、長髪をオールドバックに整えた端正な顔立ちだったが、その眼は、獲物を探す鷹のように鋭かった。彼だけが紫色のジャンパーを着ていた。背に桜志会とピンクの刺繍。リーダーらしかった。

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彼らは、まるで兵士のように一糸乱れぬ足取りで直進していた。手に木刀を持っているものもいる。その異様さに、仕事帰りの人々は道をあけた。彼らは、道すじにあるスナック、居酒屋を軒並み覗き回っていた。ニコライ堂を過ぎて、古本屋街に向かう横町の居酒屋の前にさしかかると、リーダーは、いきなり踵を返して命じた。

「捜索してみろ!ここもよく使うらしい」

三人の若者が「オス!と叫んで、飛びこんでいった。残りの若者は、応戦体制で入口をかためた。リーダーは、数歩、離れたところから、入り口に視線を釘付けていた。獲物はいたのか。ぴりぴりした空気が張り詰めた。何事が起きるのかと、通行人が遠巻きに見ながら通り過ぎていった。一分、二分、三分が過ぎても平穏だった。店の戸が開いて、入っていった若者たちがでてきた。一人が、リーダーに向かって両腕でバッテンした。

「じゃあ、次の店だ」

リーダーは怒鳴った。若者たちは、一列になった。

リーダーは怒鳴った。若者たちは、一列になった。

そのとき、向かいの喫茶店から数人の若者がぞろぞろでてきた。彼は目にするや、矢のようにすっ飛んで彼らの前に立ちふさがった。

「な、なんだよ、いきなり」

学生らしい若者たちは、ぶ然としていった。

「ちょっといいですか、学生さんですか」

隊長は笑みを浮かべて聞いた。

「だったら、なにか用」

「どちらさんの学校か知りたくて」

「なんだあ」

「なんでそんなことを

彼らは怒りだした。

「どこの学生かって、そんなのおまえに教える義理がー」

そう言って居丈高な口調でリーダーに詰め寄った。が、そのときになって黒ジャージ姿の若者たちに気がついた。すぐに察したようだ。

「教えてくれないと、」

隊長格の青年は、ささやくように言った。

ドスのきいた声面倒になりますよ。人を探しているだけなんですから

と丁寧な口調が彼らを怯えさせた。その学生たちは、結局一人一人学生証をみせることになった。全員が他大の学生だった。

「オス!失礼しました」

リーダー格は、大げさに頭を下げた。

「なんだよ、内輪もめを外でやんなよ」

「まったく、ポン大のくせに、えらそうに」

学生たちは、小声で、舌うちしながら通りの人波に消えて行った。

「副長!」一人の若者が走ってきて一礼すると聞いた。「あいつら怪しくないですか」

「わからん」副長と呼ばれたリーダー格は、首を振りながらもきっぱり言った。「おれたちが、探してるのは、うちの学生だけだ。他大のやつは、ほっとけ」

「オス!」

「明治や中央は、もう草だらけだ。早稲田もいまから草取りやったっても追いつかんって言ってた。手遅れだと」副長と呼ばれた青年は、周囲に聞こえるように大声で怒鳴った。「しかし、わが日本大学は、違う!そうなる前にやつらを一掃する。一木一草、根をつかさせん」

リーダーは、うなるように言って店の入り口に仁王立ちする。客の迷惑おかまいなしだ。

大学に請求することになってい。捕りものでいくら店のものを壊しても、大学がしりぬぐいしてくれる。そんな安心感があった。

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リーダーが一声叫んで足を止めると、数人が店の中に飛び込んでいった。

「オス! いません、オス!」

すぐに出てきた若者が報告する。

「二階は、みたか」リーダーは怒鳴る。

「オス!」若者は、踵を返し再び店の中にとびこんでいく。すぐに二階の窓があいて若者が顔をだすと、首を振り「オス!」と一礼して引き下がった。

「よし、次いくんぞ。やつらは必ずおる」

どたばたと去っていった。

「なんだよ、あの連中」

カウンターにいた勤め人がビールの泡をふきながら不快そうに見送った。彼は、この日、はじめて彼らにお目にかかったようだ。

「学生の集会を探してるんですよ」

カウンターの内側にいた店主が苦笑して言った。「このあいだから、やけにご執心なんだ学生狩り」

「学生狩り!?」

「そう、集会している学生を探してるようだ」

「体育会系ぽいけど、どこの学生だ」

「そこの、三崎町の」客の一人がいいずらそうに言った。

「まさか、あそこの学生はやらんだろう」

「ポン大だもんな。政治運動はやらんよ」さも軽蔑したように吐き捨てた。

「それもそうだな。連中は、親が殺されたって仇討の相談はしねえよ」

「なんていったってポン大生だからな」

だれかが言った。

客たちが失笑するのも無理なかった。

そもそもの発端は、この年のはじめ一月二六日の新聞に「都内某私大の有名教授 裏口入学で三千万円、謝礼金をポケットへ」の見出しからはじまった。

しかし、この事件はケチな裏口入学だけでは終わらなかった。不正入学という黒雲が漂うなか会計課長が失踪すると、つづいてベテランの経理主任が自宅で首をくくった。四月十四日、東京国税局は、日大に億単位の多額の、使途不明金があることを公表した。

しかし、10万日大生は、まさに眠れる羊のごとくだった。

「いたぞ!」

「逃がすな」

深夜の神田からお茶の水にかけて大とり物がはじまった。逃げているのは、ジーパンにシャツ姿の若者。追うのは、宵の口から、居酒屋を見回って歩いている、学らんの右翼学生と体育会系の混成隊だった。逃げる学生たちも必死、捕まれば、リンチ、暴行が待っていた。痛みに耐えたとしても、学生証がわかれば、即退学は間違いなかった。追う右翼学生や応援団の学生、彼らとて必死だった。昼間、神田三崎町日大本部において、不穏分子一掃作戦の結団式を終えてきた。「いいか、日大からアカをだすな!」時の日大の独裁者古山会頭の命を直接うけているという新藤本部長が檄をとばした。日大生は学生運動とは無縁。長らくそんな思いが固く信じられてきた。昨年、佐藤首相訪米を阻止しようと戦った「第二次羽田闘争」の逮捕者のりなかに日大生が2人いたことで、大学側はにわかに、警戒しはじめた。

路地のくらがりにカラスが一羽身をひそめている。隠れながらこんな歌を口ずさんでいた。昨年テレビドラマの人気時代劇「高杉晋作」の主題歌をアレンジした歌だった。

 

六十余州を  揺り動かして   桜(はな)を咲かせる  夜明けも近い

のぞむところだ  学園 あらし   こぶし つきあげ

ゆくぞ  日大 騎兵隊

提出課題     文芸研究Ⅱ下原ゼミ  2017.7.3  名前

 

  1. 社会観察

 

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  1. テキスト感想

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  1. なんでもない一日の記録 

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