文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.81

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)6月 18日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.81
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
6・18下原ゼミ
6月 18日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(提出課題受付・・進行指名)
   ・ゼミ誌編集委員から6・12ゼミ誌ガイダンス報告
   ・ゼミ合宿担当委員から申請書類提出状況の報告
 2.テキスト『網走まで』を読んで(初読みの感想)
 3.提出原稿読み(車内観察・一日を記憶する・社会観察)
  (前回分)車内観察:山根裕作「ある一日の中央線」、疋田祥子「隣の娘」
       一日記憶:茂木愛由未「兄さんおめでとう」、山根裕作「昼夜転換」
            金野幸裕「朝にはーー」、疋田祥子「フック船長な日」
  (当日分)車内観察:茂木「逸した親切」、山根「永遠の二番手」
       車外観察:疋田「レストラン観察」
4.名作読みorテキスト草稿読み(『網走まで』)
 
 5.連絡・配布・その他
 
今週のニュース観察
 今週のニュースで注目されるのは、13日の朝刊で報道された〈「よど号」妻2人に逮捕状〉の記事である。朝日は3面に4段扱い、読売は1面7段扱いと両紙にやや比重の違いをみるが、大きな事件記事であることに変わりはない。彼女たちの犯罪は、1980年にヨーロッパで消息をたった2人の若者の拉致容疑である。1970年に「よど号」を乗っ取り北朝鮮に行ったハイジャック犯たちは、日本から結婚相手を呼び寄せ、仲間をつくるために彼女たちをヨーロッパに遊行させ、旅している若者や留学生を言葉巧みに北朝鮮に連れていったのだ。到底、許せる犯罪ではない。が、今日、人によっては、「なぜ、あの北朝鮮について行ってしまったのか」と疑問に思う人もいる。政治家やマスメディアの功罪が大きいといえる。1980年代、日本海海岸からアベックや若い女性が次々と姿を消した。そのニュースをワイドショーは何度もとりあげた。捕まえた拉致犯嫌疑の男が自殺した報もあった。拉致未遂の証拠品まで紹介されていた。何の目的か、わからなかったが、どこの国の犯行かは誰もが知っていた。にもかかわらず、政治家もマスコミも正面きって、触れなかった。金日成は英雄、北朝鮮は理想国家。それがマスメディアの見識だった。総連本部購入疑惑。14日「首相、不快感示す」。あろう事か元公安庁長官もシンパだったようだ?!それとも百地三太夫か。闇は深い。マスメディアは、どこまで照射することができるか。(土壌館)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.81 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
四国・松山観察
  
 先ごろ『100年の坊ちゃん』(D文学研究会)が出版された。著者は、文芸学科専任講師の山下聖美先生。今年は、夏目漱石の『坊ちゃん』が刊行されてから100年になる。この間、様々な『坊ちゃん』論が出された。本書、『100年の坊ちゃん』は、作者夏目漱石及び作品『坊ちゃん』の考察と、数多ある『坊ちゃん』論の検証である。ドストエフスキーや宮沢賢治との共通性、その作品に登場する「坊ちゃん」的人物の比較解析。本書には、100年の間、眠っていた「坊ちゃん」論評が、見事に展示論証されている。
 この100年という歳月だが、なぜかガルシア・マルケスの『百年の孤独』が思い浮かぶ。小川が流れる石ころだらけの原野に、家が建ち、村ができ、町になり、そして再びもとの石ころだらけの原野にかえっていく。『坊ちゃん』論の百年、そして主人公「坊ちゃん」に秘められた謎。それらは、100年という歳月の中で孤独だったのかも知れない。
 だがしかし、いま本書によってその謎が紐解かれた。百年の孤独から解放たれた。漱石の作品群のなかで、文学評価は、決して高いとは言えなかった『坊ちゃん』だが、本書によって、生まれ変わった。新しい『坊ちゃん』のはじまりである。
 ところで、『坊ちゃん』と、いうと連想するのは愛媛の松山である。本書の「夏目漱石『坊ちゃん』の舞台、松山を訪ねて」の章には、山下先生が、松山に取材されたときのことが書かれている。2004年8月に訪れたとある。私は、その翌年の2005年10月に訪れた。それで、松山をなつかしく思い出した。四国に旅するのは、はじめてだった。(ある留学生は、日本中行かないところがないくらい旅したと言っていたが、私はまだ九州も行ったことがない)むろん松山は、はじめてである。ひょんなことから宇和島に行くことになった。ある音楽とロシア詩の夕べの会に出席して闘牛を観戦するという、なんともミスマッチな旅に誘われたのだ。羽田から松山空港に降りたついでに道後温泉に一泊しようということになった。秋晴れの松山の街は、想像していたより、広く活気があった。路面電車で名所をあちこち回った。さすが正岡子規の故郷らしく、いたるところに俳句の碑があった。漱石と住んだという「愚陀仏庵」で蚊に刺された。ちょうど昼時、松山城に上った。城下にある会社の女子社員たちだろうか。三々五々お弁当をひろげていた。遠くには瀬戸内海がかすんでいた。和やかな風景に、ゆったり時間が流れる地方都市を感じた。茶屋で買ったおにぎりを食べながら漱石も、ときどきここに来ただろうか。ここに座って城下をながめたり、瀬戸内海を見渡したりしたのだろうか、100年前は、どんな風景だったろう。そんな思いをめぐらせた。天守閣は工事中だった。駅前の時計台下にマドンナがいた。が、城山にもいて同じ姿のマドンナがいて一緒に写真を撮った。宿のホテルは高台の、日本のどこにもあるホテルだった。どのホテルの玄関脇に、小さな池があった。足だけの温泉だという。何軒か桶を持って足湯めぐりをした。夜の道後はやはり全国区だけのことはある。九時をまわってもお土産街はたいそうな賑わいだった。深夜になっても怪しげなネオンで繁盛していた。道後温泉にきたなら、話のネタにと朝、本館の湯に入ることにした。この本館、どこか見たことがあると思ったら、アニメ『千と千尋の神隠し』にでてくる旅館のモデルらしい。早朝6時に開館というので行ってみると、すでに長蛇の列。湯は、昔の銭湯と同じだが、湯船が深く、熱かった。一番風呂に入る会というのもあるらしく、とにかく盛っていた。これもかれもみな『坊ちゃん』の恩恵というものか。松山は、文学の力を見せてくれる都でもある。
 松山といえば文学では正岡子規や漱石だが、歴史的には「松山騒動」が有名である。享保17年(1732)の大飢饉で、松山藩領の農村は大きな被害を受けた。長雨とウンカの発生で麦、米作とも不作で米価は異常に高騰したという。11月に藩が幕府に提出した被害状況の報告書をみると、なんと餓死者は3489人もいたという。これが原因で一揆が起こり、藩が割れて政権争奪から騒動が起きた。その話は講談になり『伊予名草』という本にもなった。そんなお家騒動が嘘のように松山はのんびりしていた。      土壌館・編集室
――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
2007年、読書と創作の旅
6・18ゼミ
以下の手順で進めてください。
1.「2007年、読書と創作の旅」
・提出課題の受付。書いてある人は提出してください。
・出欠確認、ゼミ担当者から。(お知らせがあれば)
・本日の司会進行指名。声や体の調子の悪い人は、無理しないで申し出てください。次回に
 お願いします。
 ※司会進行の目的は、全体を見る目と指導性・公平力を培います。各人の個性を尊重しながら、常に客観性をもって仕切ってください。
○ゼミ誌編集委員から6・12ゼミ誌ガイダンス報告
○ゼミ合宿担当委員からゼミ合宿申請状況の報告
2.テキスト『網走まで』初読みの感想
 6・4ゼミで、はじめて読んだテキスト『網走まで』の感想。
 次の点の疑問「なぜ」について考えてみてください。
1.なぜ「網走」か。2.母子はなぜ網走に行くのか。3.私は、なぜ葉書を見たかったのか。
4.作者は、なぜこんな話を書いたのか。
 
          3.提出原稿発表・感想
 【車内観察】、山根裕作君の「ある一日の中央線」、疋田祥子さんの「隣の娘」
 【一日を記憶するは】、山根裕作君の「昼夜転換」、茂木愛由未さんの「妹の気持」
           疋田祥子さんの「フック船長な日」、金野幸裕君の「朝には何を」
 【車内観察】、茂木愛由未さんの「逸した親切」、山根裕作君の「永遠の二番手」
 【車外観察】、疋田祥子さんの「レストラン観察」
・観察評についてのポイント → 短文で、どれだけ分かり易く情景を伝えているか。
・「一日を記憶する」のポイント → 作者の環境、精神面がどれだけ書けているか。
4.名作読みorテキスト草稿読み(『小説 網走まで』)
・ポール・ヴェルルレーヌの「忘れた小曲(その七)」を紹介 以下は年代記の一端。
 1844年 メッツ市に生まれる。
 1884年 詩集『昔と今』、評論集『呪われたる詩人達』出版。
 1886年 1月26日母死す。(ランボーと同じように母との関係も複雑)
     これ以降の生活は、ボヘミアン生活。カッフェと安下宿、病めば慈善病院。 
 1896年 1月7~8日未明、デカルト街の陋屋で一人寂しく死んでいった。52歳。
     以後、詩人の栄光は高まる。メッツ市と巴里の公園に記念碑。
・テキスト『網走まで』の草稿『小説 網走まで』の紹介。
 完成作品と、どういった点が違うのか注意して読む。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81 ―――――――― 4 ――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・提出原稿
6・11ゼミ報告
 6月11日(月)、校舎全体が静かでした。前日の10日に江古田校舎で新入生歓迎会があって疲れたせいでしょうか。お休みする人が多勢いました。3名欠席でした。もしかして「はしか」にかかったのでは・・・。そうでないことを祈っています。
参加者 : 疋田祥子  山根裕作 
6・11ゼミは、欠席者多数のため、以下の授業内容となりました。
1.ゼミ合宿申請書類作成 作成者・疋田祥子さん
 ・学生課に提出の書類(緊急) ・日時希望書類(8月4~5日と、第二、第三)
 ・振込み先書き込み用紙配布(銀行、信金) 
2.6月12日(火)12時20分のゼミ誌ガイダンスのお知らせ
 ・編集委員の山根裕作君にお知らせプリント配布
3.写真集『なつかしの一年生』(河出書房2001・3・30)鑑賞
 ・撮影者は熊谷元一(98) ・被写体は小学一年生(対象約30~60名)
 ・撮影場所は長野県下伊那郡会地村(現阿智村)会地小学校一年東西組教室
 ・撮影日時は1953年(昭和28年)4月~54年3月まで
撮影者(熊谷元一)の「はじめに」の言葉
 この写真集の被写体は、主として長野県の南部、伊那谷の会地村(現・阿智村)のこどもたちである。そのなかでも大きな部分をしめる小学一年生は、昭和28年会地小学校に入学し、私が受け持ったこどもたちである。戦後まだ間もなく、村でカメラを持っている人も少なかった。写真そのものがめずらしかった時代の話である。
 こどもたちには何も話さず、4月1日、入学の日から毎日こどもたちの日常を克明に写した。はじめはカメラを意識して堅くなるのではないかと心配したが、全然そのような様子もなく、平気でいるので安心した。
 いつでもシャツターを切れるように用意しておき、これはというときにさっと写した。ただ、カメラによって学習がおろそかにならないよう、充分気をつかった。
★ポイント
「旧きを訪ねて新しきを知る」という言葉がある。半世紀以上も前の小学一年生の学校や家での生活。ただ懐かしいだけではないものを感じる。教育に行き詰った現代だが、この写真のなかに教育の原点があるような気がする。教育再生のヒントがここにある。そのように感じるわけである。21世紀の新しい教育をこの写真集から学んだ。
4.マンガ・武富健治『鈴木先生』(漫画アクション連載)を読む
 最近、話題になりはじめた漫画を読む。中学校を舞台にした作品。熱血教師ものでなく、教師も生徒と同じ目線で、悩みながら教室で起こる難問、奇問に立ち向かっていく。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
2007年、読書と創作の旅
5.『ハンバーガー・ヒル』(鳥影社 2004年3月)を読む
 時間が余ったので先日読んだ『ひがんさの山』の続編『ハンバーガー・ヒル』を読んでもらうことにしました。『ひがんさ』から10年の後です。
 その前に前日、丹沢で部活動・探検部の訓練をしたという疋田さんが、こんな話をした。
「テントを張っている最中に、何かがはね飛んできて唇にあたった。冷たい感じがした。ゴミだと思って取り除こうとした。が、なぜか離れない。一緒に作業していた部員に見てもらったら、ヒルだ!と叫んだ。あのヒルが唇についている。夢中で振り払った。」
 そんなことで『ハンバーガーヒル』のコピーを配布したとき、真っ先に、昨日の「ヒル」を思い出し気持悪くなった、という。で、「そのヒル(池や沼にいて他の動物の血を吸う環形動物)ではなく、丘のヒルです」と説明すると、安心されたようです。
(編集室の想像ですが、ヒルではなくナメクジではなかったかと思います。昔、というか子供のころ、山でよくそんな経験しました。)
 さて、「ハンバーガーヒル」は日本語にすれば、「ハンバーガー(ミンチにされた肉の塊)の丘」となります。いまアメリカは、イラク戦争の泥沼にはまり込んでいますが、40年前はベトナム戦争の泥沼にはまっていました。1969年の戦いでは、937高地で要塞を築く北ベトナム軍とアメリカ兵の激戦があった。10日間の激戦でアメリカの若い兵士はミンチのように撃ち砕かれて死んでいった。そんなところから、その丘を「ハンバーガー・ヒル」と呼ぶようになった。ハリウッドで映画にもなった。ジョン・アービン監督(1987年)。その頃、アメリカはまだ徴兵制度だった。で、脱走兵がでるようになった。この作品『ハンバーガー・ヒル』は、そんな時代背景の東南アジアを無銭旅行する日本の学生の話。
ベトナム戦争までについて
 現在、ベトナムは社会主義国家ながらドイ・モイ(刷新)と呼ばれる経済の自由化をすすめ、アメリカとも仲良くしています。が、40余年前、この国は北と南に分れ、北と南のゲリラは10年間もアメリカと戦争していたのです。なぜ、戦争していたのか、原因は、石油でも宗教でも民族問題でもありません。時は、共産圏の雄ソビエト連邦と自由陣営の雄アメリカのにらみ合い。東西冷戦の時代でした。両雄は、一度対決姿勢をみせました。1962年10月28日、場所はキューバ沖。ケネディ米大統領は海上封鎖を宣言。突破しようとするソ連と一発触発の状態になりました。第三次世界大戦の危機でした。結局はソ連のフルシチョフ首相が折れてはキューバから攻撃的武器を撤去しました。ちなみにフルシチョフは、このときの責任をとらされ、1964年10月東京オリンピックの最中、失脚しました。
 以後、ソ連は革命を輸出し、アメリカは防戦に回ったのです。世界中を社会主義国にする。共産主義から自由主義を守る。両大国の大義のため世界は、代理戦争の時代に突入したのです。ベトナム戦争は、その代理戦争を象徴する戦争でした。では、そもそもなぜベトナムでという疑問があります。これは1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争もそうですが、植民地主義が起因になっています。(朝鮮の場合は日本が1910年(明治43年)8月に公表した韓国併合が原因になっていますが)、ベトナムの場合は歴史が長く、大航海以降の西欧植民地支配が元になっています。インドシナはフランスが支配していました。第二次大戦のとき日本に追われて引き揚げます。代わって日本が支配しましたが、太平洋戦争が終わるとホー・チ・ミンの指導のもと1945年9月2日「ベトナム民主共和国」の独立を宣言します。
 ところがフランスは、植民地栄華の夢を忘れられず、またやってきたのです。1946年12月、独立を求めるべトミンと戦争がはじまりました。近代武装のフランス軍と、ゴム草履をはいたべトミン兵。戦争は優位のものが必ず勝つとは限らない。1953年11月ラオス国境に近い高地ディエン・ビエン・フー。フランス兵16000人をべトミン兵4万が包囲。2ヶ月の攻防戦の末、翌年5月仏軍は、べトミン司令官の感動的呼びかけで全面降伏した。7月「ジュネーブ協定」でベトナムは南北に。そしてアメリカの登場。(編集室)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81―――――――― 6 ――――――――――――――――
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  高橋亨平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 6月12日(火) ゼミ雑誌作成ガイダンス。ゼミ誌編集委員は必ず出席してください。
    ○ ゼミ雑誌作成についての説明。○ 申請書類の受取り。
  【①ゼミ誌発行申請書】を期限までに提出してください。
       提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。題名など。
4. 7月下旬、夏休み前、編集委員は、原稿依頼し、締め切りを決める。
5. 9月末 夏休み明け、編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は、印刷会社を決める。印刷カイシャから【②見積書】を 
  もらい料金を算出してもらう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷カイシャと、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
 ※ 印刷会社は、学科スタッフに相談した方が、スムーズに運びます。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
ゼミ合宿について
ゼミ合宿担当委員:疋田祥子さん(ですが、皆さんで協力してください)
6・11ゼミの担当者作業は、担当者が以下のことを行いました。
1.ゼミ合宿月日について、第二、第三希望日の選考。
2.提出書類への書き込み。
―――――――――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
2007年、読書と創作の旅・提出課題発表
連載4
学生と読む志賀直哉の車中作品
『網走まで』編第2章
 6月4日のゼミで、ようやくテキストの『網走まで』を読むことができました。前回までは題名というか行き先にこだわってきました。
一、なぜ「日光」か
 前回までこの欄は、題名の網走に拘ってみた。作者は、題名をなぜ「網走」としたのか。考察した結果、母子の旅を、より困難なものに印象づけようとした。それで無理を承知で鉄道もまだ敷けていない網走にした。当時としては、若き小説の神様の勇み足と読み解いた。が、普遍的に捉えれば「網走」でよかったことになる。『網走まで』という題名に、何の違和感はない。むしろぴったりする題名と思っている。
 学生たちの読みは、どうだろうか。6月11日ゼミの感想に期待する。
 宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)
 冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。このころ華厳の滝は、
「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。
 国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ずるだけだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。
 夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いところなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわい
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――8 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇創作
連載2
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室
■主な登場人物
 
西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督
 中島教一郎・・・・日都大学助教授
 高木 健二・・・・五井物産社員
 柳沢晴行・・・・・日都大学病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師
 沢田 浩・・・・・フリーカメラマン志望の若者
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
 タオ・・・・・・・ヤマ族の長老
 シナタ・・・・・・長老の甥 
 ボト・・・・・・・ヤマ族の族長
 ユン・・・・・・・ヤマ族の女性 
ニホン・・・・・・ユンと柳沢の子
 オシム・・・・・・ヤマ族の若頭
  ビバット・・・・・ヤマ族の若者
  チャット・・・・・ヤマ族の若者
【あらすじ】1970年3月、インドシナのカンボジアで政変が起きた。新政権はベトナムで苦戦するアメリカと国交を結んだ。アメリカ軍はカンボジア領内の爆撃を開始した。それによりクメール・ルージュと呼ばれていたカンボジアのゲリラは、活発化して勢力をのばしはじめた。彼らはゲリラを増やすため密林の少数民族から若者を徴用した。彼らは赤い悪魔と呼ばれ恐れられるようになった。山岳民族のヤマ族の集落にも、赤い悪魔の兵士が若者狩りにきた。が、誇り高いヤマ族の答えは、三人の兵士の殺害だった。成り行きとはいえ宣戦布告したことになった。赤い悪魔が襲ってくる。ヤマ族の恐怖がはじまった。
 しかし、雨季の山が赤い悪魔を近づけなかった。鉄砲水、土石流が武器となった。赤い悪魔たちはあきらめて山を下りた。逆らったものは皆殺しにする。それが、彼らの掟だ。山が安全になれば彼らは必ずやってくる。雨季が明けないうちにこの地を去らねば。だが、タイ国境までは荒海のような密林がひろがっている。案内人がいなければ、絶対に抜けることはできない。行くも地獄、留まるも地獄。絶体絶命に陥ったヤマ族。長老が考えついた秘策は、十年前、タイから密林を通ってやってきた日本の若者たちだった。別れの日、彼らと交わした約束がある。困ったことができたら、きっと駆けつける。彼らは口々に言って固く握手した。そしてサムライの約束、キンチョウを交わした。いま真実、困ったことが起きた。ヤマ族存亡の危機である。いまこそ彼らに約束を果たしてもらいたい。タイ国境まで案内して欲しいのだ。プノンペン大学の学生ソクヘンは、一族の命運を担って、日本に向かった。リミットは四十日。あのときの日本の若者たちは、約束を、キンチョウを覚えているだろうか。ソクヘンは彼らを連れ帰ることができるだろうか。風雲急を告げるインドシナである。
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
第二章 過去からの訪問者
一 商社マン
<一九七十年六月 東京 > 
 どんよりと垂れ下がった雲の間から薄陽が差していた。久しぶりの梅雨の晴れ間に、正午を待って、ここ丸の内のビル街で働く人々がどっと外にくりだした。雨に洗われた濃い緑があざやかなマロニエの街路樹。その下の歩道が勤め人たちのワイシャツの白さと女子社員のカラフルな色合いの制服で埋め尽くされていく。それらの光景を見下ろすように、林立するビル。そのなかでも一際高くそびえているのは、さきごろ完成したばかりの三十五階の五井物産ビルである。そのビルの三十階、外交部のフロアーは昼時でごった返していた。急いで席を立って食堂に向かう社員。早く仕事を終らそうと広いフロアを駆けずり回る若手社員。
「カルガモの赤ちゃん見にゆきましょうよ」
最後の女子社員たちが騒々しく出ていくと、急に室内がひっそりした。
髙木健二は重要書類の入ったアタッシュケースを金庫にしまうと、窓際に行って外を見た。皇居の濃い緑にほっとした気持ちになる。目まぐるしく変化する都会の風景のなかで、いつみても変わらぬ光景は、このところの張り詰めた神経を和らげてくれるようだ。夕方の会議まで時間はある。会場が赤坂の料亭というから政治家が同席するのはわかっていた。大きな仕事になるかも知れない。そんな予感があった。それまで命の洗濯でもするか。彼は、日比谷公園でもぶらつこうかと立ちあがった。そのとき電話番で居残りの女子社員が呼びとめた。
「お電話です。ナカジマ様からです」
「ナカジマ?」誰か知れなかったが、高木は頷いて目の前の受話器をとった。
「はい髙木ですが」
「髙木君?」
相手は確かめるように言った。聞き覚えのある声だったが、咄嗟に思い浮かばなかった。商社マンという仕事柄、日に何人もの人に会っている。ナカジマと名のつく名刺は何枚もある。
「はい、そうですが・・・タカギです」
 高木は、君づけの慣れなれしさを訝しみながら用心深く答えた。
 とたん、相手の声がはじけた。
「高木、おれだよ。アジケンの中島だけど」
「えっ!中島先輩スか?」とたん高木は、大声で叫んだ。「オス!副長!失礼しました」
「いま、ちょっといいかい」
「ええ、大丈夫ス。もうちょっとで出るところだったので、よかったですよ」
 いつもと違う応対に女子社員は、目を丸くして見ていた。電話の主は、母校日都大学で所属していた同好会、「アジア研究会」の先輩中島教一郎だった。
 アジケンことアジア研究会は、日本民族のルーツ探しが主な活動目的だった。人跡未踏の熱帯のジャングルや中央アジアの草原。標高三千メートル以上のヒマラヤ山中。その地に日本人と似た人たちが住んでいると云う伝聞を聞けば、すぐに探検計画が練られた。文化部に属してはいたが、日ごろの訓練や合宿は、運動部同様に厳しかった。
 十年前、秘境探検が流行った。世界は、ヨーロッパ、アメリカ合衆国など先進国を除けば、まだ未開の土地だった。アフリカも暗黒大陸と呼ばれていた。それだけに危険はあったが、夢と冒険に満ちていた。アジケンがインドシナの大密林にヤマ族を訪ねた翌年一九六一年には、米国の大財閥ロックフェラーの息子がニューギニア探検で、人食い人種バブ族に食べられたことが判明。世界中に恐怖の衝撃を走らせた。
 アジケンの探検対象地域もリスクの高い、いわゆる秘境といわれる場所だった。
芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――10 ―――――――――――――――――
 中島教一郎は、探検隊では、何時も副長を務めた。几帳面で英語やインドネシア語が得意なことが買われた。現在は、母校日都大学で教鞭をとっていた。昨年、助教授になった。この世界では早い出世といえる。やや事務的過ぎるところもあったが、きちんとした仕事ぶりから外国に行くには、なくてはならない人材だった。外務省に出す計画書の作成、提出、パスポート申請、ビザ許可。予防注射など、外国の探検に必要な事務的手続きは、すべて彼の役目だった。ここ数年、お互いの仕事が忙しくなり会うことはなくなったが、中島は、皆の情報を把握していた。そんなこともあって、一気に学生時代に戻った。
「おい、もう副長はよせよ、新撰組でもあるまい」中島教一郎は、苦笑しながらもなつかしそうに言った。「元気そうじゃないか。噂は聞いてるよ。昼間は仕事をバリバリやつてて、夜は夜で蝶を追いかけてるって」
「副長、冗談ポイですよ。蝶がいるとこなんて行ける余裕なんてないスよ。毎日、ジャングルの中で生活してるみたいな気分ですから」
「ジャングル!?エリート商社マンの生活にもそんなところあるのか」
「ありますよ。ジャングルの毒蛇や猛獣よりすごい連中がうようよいますよ。永田町、赤坂なんか妖怪とか怪物の戦いで、戦場が原ス」
「じゃあ、役に立ってるだろ」中島教一郎は、大笑いして言った。「アジケン魂」
「ええ、ほんと大いに役立ってまつス。ひるまず、怖れずアジケン魂」
「しかし、ジャングルなんて言葉を聞くと、なつかしいねえ」
「そうスね、ほんと・・・・」
髙木は、感慨深げにうなずいたが、疑念が過ぎった。
母校に残った中島は、連絡係りではあるが、たいていはハガキである。これまでに電話連絡してきたことはない。なつかしがって電話するような性格ではない。それに、要件以外は口にしたことはない。が、今日は、雑談が過ぎる。それもどこか陽気で上っ滑りだ。何か話すことがあるのかもしれん。高木は、話しながらも、ぼんやり思った。その思いが伝わったのか、中島は、不意に事務的な口調になって言った。
「実は電話したのは・・・」中島は、一瞬、間をおいたあと切り出した。「めずらしい人が大学に訪ねてきたんだ。そのことで、連絡したんだ」
 やっぱり、
「めずらしい人?!誰スか?」
高木はたずねた。早く用件を知りたかった。
「うん、めずらしいというか・・・。思いもしなかった人間だ」
中島の口ぶりでは、よほど意外だったようだ。
「だれスか。早く言ってくださいよ。自分も知つてる人間ですか」
「まあ、知ってはいるだろうが・・・」中島は曖昧に言ってから、聞いた。「ヤマ族って覚えているか?」
「ヤマ族?」高木は、一瞬、考えたあと言った。「ええーと、カンボジアとタイの間にあった山岳民族ですか・・・ジャングルの奥にあったあの部族」
「うん、そうだ、あの部族」
「でしよ。覚えてますよ。密林の中えらい苦労してたどり着いた部族ですよ。それに柳沢医療隊員が病気になつて、一ヶ月も滞在した」
「うん、そうそう、あそこの部族なんだ・・・」中島は、他人事のように頷いたあと、声色をかえて重しく言った。「あのヤマ族の若者が、さっき、いきなり大学にたずねてきたんだ」
「えっ、ヤマ族の若者スか?!」高木は、驚いて聞いた。「だれです?!」
「名前は、ソクヘンとか言ったが、まーわかんないだろ」
「ソクヘン・・・ソクヘン・・・」高木は、明るい天井を見上げながらつぶやいた。まった
く思い出せない。」
「いま、二十歳というから、ぼくらが行ったときは、十歳の子供だった」
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
「えー、そんなに若いんスか。じゃあわかんないなあ」
「ロンといえばわかるか」中島は、失笑した。
「ろん、マージャンのロンですか」
「そうだ、マージャンのロンだ」
高木の脳裏に十年前の記憶がかすかによみがえった。隊員たちが、退屈しのぎにマージャンをはじめると、ヤマ族の子供たちが大勢、見物に集まって見ていた。その中にテンぱって「即リー」と叫ぶと、大喜びする子供がいた。つづいて当たり牌がでて「ロン!」と怒鳴ると、こんどは一転半べそになった。ロンは、ヤマ族の言葉で間抜けという意味でソクリーのソクは、その子の呼び名らしかった。それで、皆は面白がってその男の子をロンと呼ぶようになった。両親が虎に襲われていない、と聞いた。それでか隊員によくなついていた。
「ああ、いたなあ。そんな男の子が」高木は、頷いた。十年前の、あの日のことがくっきり思い出された。「そうスか、あのロンが日本に」高木は頷いて聞いた。「留学生でスか、大学の方に・・・」
「いや、そうじゃないよ。今朝、羽田に着いて、直接きたんだ」
「えっ!?今日ついたんですか」
「そうなんだ。着いたその足で大学にきたんだ。驚いたよ」中島教一郎は、苦笑まじりに言った。「昔、ぼくらが送った写真を持って封筒の差出人の大学名を頼りに来たんだ」
「大学名だけで!?じゃあ副長、いてよかったですねえ。学校に」
「そうだな、十年も前の写真みせられて学生課も困つてたよ」
中島は苦笑いして言った
「で、日本語しゃべれるんですか」
「うん、いまはプノンペン大学で日本語を専攻しているらしい。片言だがなんとか通じる」
「そうスか。羽田からまっすぐきたっていうことは、大学に何か用事があってですか」
「いや、大学じゃない。我々に用件があってきたんだ・・・」
「我々ですか?」
「うん、そうなんだ、我々に用事があってきたんだ」中島は、言って反芻した。「突飛な、いや突飛でもないか」
「用事って、なんです?」高木は、また聞いた。気になった。「まさか、十年前の忘れ物を届けに、でもないんでしょ」
「忘れ物?!ううん、忘れ物か、似たようなもんだな・・・」
中島教一郎は、曖昧につぶやいた。声は真剣だ。
「なんですか、似たようなものって」
「ちょっと、一言じゃ言えん話だ、会って話す。とにかくみんなに集まってもらうから」
「えっ、そんなにでかい用なんスか!?」
「うん、そうなんだ。とにかく、みんな集まったとき話すよ。あのときの探検に行った全員の問題でもあるから。じゃあ、皆に連絡して時間と場所きまったら連絡する」
「ちょっと、待ってスよ。その本人、ロンはどうしたんでス」
「ひどく疲れてるみたいなんで、ホテル紹介して連絡することにした。とにかく皆に連絡する。まず、君を抑えた」
なぞめいた言葉を残して中島教一郎は、電話を切った。
 何だろう・・・高木は、受話器を置くとちょっとの間立ち尽くして考えた。あのとき探検にいった全員の問題とは何か。十年たって持ち上がる問題事などあったろうか。
 高木は、思いめぐらしながら窓際に歩み寄ると、灰色の雲が垂れ下がる向こう空をながめながら十年前、訪れたインドシナの密林を思いだした。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――12 ―――――――――――――――――
一九六十年三月 タイ国境を越えてからすでに五日が過ぎていた。乾季の太陽が照りつけるタイ、カンボジア、ラオスに囲まれた高地密林地帯は、まるで全ての生き物が眠りこけてしまったように静まり返っていた。インドシナ最大といわれるカルダモン山地につづく東北部山岳は行けど尽きない密林だった。数十メートルの樹木がそそり立ち熱帯植物が生い茂る緑の大海がいつまでもつづく。
日都大アジア研究会の一隊は、高台にある密林に埋もれた遺跡で最後の休憩した。三日で着ける予定が迷って二日も余分にかかった。が、やっと方向が確認できる山頂に着いたことで目的地に近いことがわかった。皆、疲れきってはいたが、ほっとしてそれぞれの場所で休んでいた。高木は、高く築きあげられた巨石の上に立つて、眼下を眺めた。ジャングルがまるで緑の海のようにはるか彼方までつづいていた。つづいてよじ登ってきた医療班の柳沢晴行は並んで立つと
「うひょーこれはすごい眺めだ!」
両手をひろげて叫んだ。医学部の彼は、医療担当だが、一番へばっていた。それだけに、目的地が近いとわかって急に元気がでたようだ。
「なんだって、こんなところに、こんなものをつくりゃあがったんだ」
隊長の西崎泰造は、土木学科の学生らしく、興味深そうに巨石の下をのぞきこんでいた。
「どうやって、ここまで運び上げたんだ」
一ノ瀬幸基は、のんびりしたことを言って平らな巨石の上に大の字になった。
「ここにいると、世間のことなど、どうでもいいように思えるな」
副隊長の中島教一郎は、座禅を組み冥想しながら言った。出発するときに報道された安保反対の全学連の動きが気になるようだ。
「この景色に比べりゃあ安保条約なんて小さい話さ」一ノ瀬は、むっくり起き上がって手製の弓をひきしぼった。音を発して弦が切れた。舌打ちした。
「五月、六月にでかいデモを計画していると聞いた」
中島教一郎は、まだ思案顔で言った。
「副長!今は、安保どころじゃないでしょう!」高木は、あきれて言った。「三日のはずが、もう五日もジャングルの中さまよっていたんです」
「ここがわかれば、もうすぐだ。目安はついた」
「本当にヤマ族なんているんですかねえ」柳沢は皮肉っぽい薄笑いを浮かべて言った。「まあ、ぼくはどっちでもいいですけど、そろそろ街の灯りがなつかしくなってきた」
 柳沢の疑いも、もつともだった。インドシナ最大といわれるカルダモン山地より広いこの北西部の密林に棲む山岳民族ヤマ族は、まさにまぼろしの少数民族だった。山繭を採取して草花染で織った絹布は、タイシルクの商人たちのあいだでは伝説的な反物だった。商人たちは、競ってヤマ族の集落を探した。カンボジア領にあったが、激流と断崖や起伏の多い地形はカンボジア側からの交通を難しいものにしていた。加えてカンボジア政府が鎖国政策をとるっていたので、ヤマ族との接触は、タイ国から密入国するよりほかに手段がなかった。
 しかし、その密林は、入ったら最後、出られぬ魔境だった。運よくヤマ族の集落にたどりついた商人たちは、自分たちだけが反物取引を独占するため、自分だけがわかる地図をつくった。そのため、その人間が死ねば、地図もまた消えうせた。誰も来るものがなければ、ヤマ族は、山を降りプノンペンの商人に反物を持ち込んだ。嶮しいが、辛うじてカンボジア側に道はあったのだ。ヤマシルクの存在が、かれら種族の存在を証明していた。日都大学のアジケンは、当初、ボルネオに人食い人種探しを計画していたが、たまたまなにかの雑誌で紹介されたヤマシルクを知ったことから、にわかにヤマ族探しに変更した。ヤマ、ヤマッという呼び名からしてヤマ→ヤマッ→ヤマト→大和。日本となんらかの関係があるのではないか。もしかして日本人の源流。そんな憶測までされ早々に決定した。しかし地図もなく、場所も、僅かな書物からといったこころもとないものだった。噂だけの人食い人種より、物的証拠もあるヤマ族を探す。こちらの方がより現実的で、成功性が高いとみたのである。が、タイ、
―――――――――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
カンボジア、ラオスにかけて広がる北西部の密林は、インドシナ最大といわれるカルダモンの密林より、なお深く険しかった。一歩進むにも困難を極めた。昼なお暗い大木、網の目のように行く手を阻むつる草。密林というより大海の只中を漂流している。いまはそんな思いだった。もしかしてこのまま永遠にこの密林を彷徨いつづけるのでは。不安を通り越して恐怖すらあった。もし富士山麓の樹海訓練で、足跡の目印がいかに大切で重要だということを身にしみてわかっていなかったら、絶望するほかはなかった。タイ国境から踏み入れた昼なお暗いジャングル。その地はまさに魔境だった。朽ちた大木と、網の目のようにのびたつる草。毒虫や毒蛇、巨大蛭。そして、繁みに光る獣たちの眼。あらゆるところに危険と困難が潜んでいた。緊張の連続のなかで唯一ほっとさせられるものは、大木の根の下に眠る大小さまざまな巨石遺跡だった。その昔。こんな密林の只中にも、こんな巨石の都があったのだ。そのことに勇気づけられた。巨石に、描いた地図が帰り道の命綱だった。しかし、人跡未踏のジャングルは想像をはるかに越えていた。たった百メートルを半日もかかつたときもある。有り余る樹海のなかにいての水の乾き。絶えず襲ってくる蚊とアリ。そして吸血ヒル。なんども行軍を断念しようとした。だが、その都度、若さと無謀さで探検隊はひたすら前進した。そして、遭難寸前、奇跡的に伝説の山岳民族ヤマ族の集落にたどりついた。突然、神聖かつ怖れの領域である密林から現れた五人の外国人。マヤ族の人たちは驚愕した。遺跡盗掘者と怪しみ警戒した。が、探検隊が、ただの日本の学生だとわかると親切になった。ヤマ族は主に、織物をしてくらしていた。プノンペンから商人がやってくるらしい。顔かたちから習慣まで日本人に似ていることから探検隊もすっかり心をゆるした。医療隊員の柳沢が病気になったことからまるまる一ヶ月の滞在延長となり、彼らといっそう親交を結ぶことになった。
 あのなつかしい密林の集落から若者が一人、十年の歳月の後あらわれた。たんなる旅行者ではなく、なにか目的をもって。
援助の話か。仕事柄、高木は、そう思った。ヤマ族の集落がある、あの国は、この三月に政変が起きたばかりだ。軍事クーデターでそれまで鎖国政策をとっていた国王シアヌーク殿下が追い出された。そのことと関係あるのだろうか。しかし、政変がジャングルの奥地にある少数山岳民族に影響があるとは思えなかった・・・。
「高木さん」
不意に呼ばれて振り返った。秘書課の宮西真理子が立っていた。
「ああ、いてよかった」真理子は、うれしそうに言った。「ちょうどフリーになったの。お食事つきあってよ。まだでしょ」
「ああ」高木は頷いた。「よかった。電話があって居残ってたんだ」
「まあ、幸運だわ。じゃあ早くでましょう。また電話があったら困るから」
「仕事のことじゃないよ、電話は」
高木は、笑って言って並んで歩き出した。
 彼の頭から、中島教一郎からの電話のことは消えていた。このところ忙しくて玲子と、ゆっくり話する暇がなかった。エレベーターで最上階にあるレストランに向かいながら高木は思った。
・・・今度の大取引が終ったら、はっきりさせてもいいか。
「ねえ、うわさよ。こんどニューヨーク支店に行くのは高木さんだって。ほんと」
「地獄耳だね、そんなことはわからんよ」
高木は笑い飛ばしたが、その顔は自信に満ちていた。
「そのときは、わたしも一緒よ」
真理子は、耳元でささやいて高木の腕をしっかりにぎった。
 ガラス張りのエレベエターから見える皇居の緑がすがすがしかった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――14 ―――――――――――――――――
二 キンチョウの重さ
中島教一郎は、研究室の窓辺にたたずみ、校舎の中庭を見下ろしていた。雨上がりの中庭に、講義を終えた学生たちがどっとでてきたところだった。カップルあり、グループあり。流れは、歩道のあちこちで淀んだ。あちこちのベンチでおしゃべりがはじまった。平和な学園風景だった。半年前まで、吹き荒れていた学園紛争が嘘のように思えた。機動隊導入で、徹底的に解体された学生運動だったが、一部の学生はより狂信的な集団となって、地下にもぐった。教一郎は、なにかスッキリしなかった。大学をマンモス化した学校側。学生たちの怒りも、もつともだった。中島は、心のどこかであの学園紛争によって学校の不正、教育を商売にかえた政治家との癒着。それらすべて白日の下に晒されることを望んでいた。
だが、結局は、そうはならなかった。学園紛争は、占拠された校舎が学校側にとりかえされたとたん霧消した。大学は、ふたたびノンポリたちの天下になった。そのことを心のどこかで不満に思っていた。六十年安保闘争の時代は、探検がすべてだった。闘争に参加しなかつた、後ろめたさもある。アメリカが露骨にベトナムに兵隊を送り出したときも、なにか自分たちの無関心さがそうさせたような気がしていた。
そのアメリカが、この四月から隣国のカンボジア爆撃を開始しはじめたというニュースを聞いた。政変で鎖国は廃止されたらしい。一昨日、十年前、タイ国境を越えて入ったあの密林の村からソクヘンという若者がきた。おそらくあのときは生まれてもいなかった若者だ。来日した目的のことを思うと、半信半疑で、複雑な思いだった。が、探検で苦楽を共にした仲間と久しぶりに会えるとなると無性に懐かった。奇跡的だが、全員に連絡がついた。何年ぶりだろうか。夜になるのが待ち遠しかった。
それにしても、皆にソクヘンの頼みをどう話そうか、考えると、なんとなく気が重かった。ソクヘンの話は、あまりにも突飛過ぎた。「キンチョウ」ソクヘンは、この言葉を何度も繰り返した。武士の約束のしるしということだが、現代社会では、ほとんど使われていないし、知られてもいない。いまとなっては、本当に「キンチョウ」などという言葉を取り交わしたことすらはっきりは覚えていなかった。もし使ったとすれば、おそらく社交辞令か若気の至りだ。日本の武士の約束を紹介するつもりで、そんな言葉と行為をみせたに違いない。そういえば、探検に行った先々で別れるとき「困ったことがあったら、知らせてください。きっときます。ぼくたちは親友です」と、言っていたのがなんとなく記憶にある。あれを本気にとってしまったとしたら、厄介だな。中島の気持は、重かった。
三 隊員たち
 同じ時刻、一ノ瀬幸基は郊外のT市にある神社の境内にある武道センターの弓道場にいた。武道センターは、空手、合気道、柔道の稽古に通ってくる子供とその送り迎えの親、若者たちで騒々しかった。が、その喧騒なにぎわいとは別にセンターの後ろにある弓技場はひっそり閑としていた。近頃は弓道を習う子供はいない。弓道愛好会の会員も、現在のところ七名と少なかった。弓道は人気がなく、年々、減るばかりだ。高校教師の一ノ瀬は、週末は、武道センターの弓場で、一人弓を引くことにしていた。教師仲間との付き合いは苦手だった。職員室は空気がうすい穴倉のようで息苦しかった。幸基はここに自分を取り戻すために来ていた。ここに来ると気持ちが晴れ晴れした。彼は、無心に構え弦を引き絞った。そのとき不意に今晩の約束が頭に浮かんだ。放たれた矢は、的をわずかに逸れて盛り土に突き刺さった。一ノ瀬は、二の矢を手にしたまま、思いめぐらした。何年ぶりだろう。アジケンの仲間を思い出すとなつかしかった。しかし、他方では学生時代の仲間と会ってもわずらわしい気がした。昔話には興味がなかった。欠席してもよかった。が、家に妻が帰っていなかったらと思うと、家に戻るのがためらわれた。小学校教師の妻が、同僚と不倫している。匿名の手紙をもらってから、妻の行動に不審を抱きはじめていた。疑心暗鬼な気持ちで一人、妻の帰りを
―――――――――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
待つのは嫌だった。
「びっくりする人物を連れていくから」
副長だった中島教一郎の含み笑いが耳に残っている。
 びっくりする人物・・・誰だろう・・・。思い当たらなかった。アジケンの仲間の他に、そんな人間がいたのか。思い出せなかった。だれだろう、知りたい焦燥感にかられた。
同じ時刻、西崎泰造は、中央線の上り特急列車、新宿行き「あずさ」の車内にいた。北アルプス山中のダム建設現場から本社に戻る途中だった。西崎はアジケンで探検隊を組織して活動したときの隊長だった。土木科だった彼は、ゼネコン社員となり、入社早々、本社が落札した秘境のダム建設現場に赴任した。最初の三年は飯場暮らしだったが、一番の難関、隋道が開通して完成が近くなってからは年何回か山を降りた。一週間前、高さ十数㍍の現場で足場から足を踏み外して落下し亡くなった作業員がいた。保証金を支払おうにも、なかなか身元がわからなかった。先日、家族がわかったので、直接、金を渡すことにした。折りよく母校の教職員となった中島教一郎から電話があった。
「おお、ちょうどよかった。明日、東京に出張するところだ」西崎は、髯面を破顔させて怒鳴った。両足を靴のまま事務机の上に投げ出し椅子の背もたれに体を預けた。「みんなくるんか。何年ぶりだろ、なつかしいな。ケルンだな。いつもとんぼ返りだから、学生時代以来だよ。楽しみにしているよ。副長、じゃなかったセンセイ。じゃあケルンで」
右手に夕日を浴びた甲斐駒が見えていた。ダム建設は、大工事だった。規模も日本有数の大きさなら場所も、場数を踏んだ登山者も恐れる峻厳な北アルプス山中である。工事は困難を極めた。が、日本経済は、その成長速度の速さから極度エネルギー不足に陥っていた。それ故に一日も早い完成が待たれ昼夜もない突貫工事がつづいた。落石、なだれ、土石流と自然との闘いに加え過酷な重労働のなかで大勢の部下や同僚を失った。現場はまさに戦場だった。しかし、それももうすぐ終わろうとしている。その安堵感と大学時代の仲間に会えるということで、西崎泰造は上機嫌だった。ゆったりした気持ちになっていた。車窓に置いて焼きスルメでちびちびやっているウイスキーがうまかった。松本駅の売店で買った小瓶はすでに空で、いまは車内販売で買った二本目が半分になっていた。眠くなった頭の隅で、もやっているものがある。中島との会話だった。
「驚くことがある」
「なにが!?」
「まあ、きてのお楽しみだな」
「なんだよ。気になるじゃないか。早くいえよ」
「めずらしい人を連れていくよ」
「めずらしい人?」西崎はオウム返しに言って聞いた。「だれだよ」
「会わなきゃわからん。いや、会ってもわからんかもしれんが」
中島教一郎は、しゃくり笑いした。
「だれだよ」
西崎はじれて怒鳴った。
「ヤマ族の人間だよ」
「ヤマ族?!」西崎は、一瞬言葉をきってからつぶやいた。「タイから行った山岳民族の集落の?」
「うん、そうだ。正確にはカンボジア領内の少数民族」
「思い出したぞ。あの部族のだれが」
「言ってもわからんよ」
「観光旅行か」
「いや、違う。頼みごとさ」
「だれに?」
「おれたちに決まってるじゃないか」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――16 ―――――――――――――――――
「おれたちに?!」西崎は、不思議そうに言って聞き返した。「おれたちに、何を頼むっていうのか。金か?」
「いや、違う」中島は、即座に否定した。「金ならいいさ。もっとやっかいなことだ」
「もっとやっかいなこと」
「そうだ、あのヤマ族の集落で、帰る前の晩、部族のものたちとお別れ会ひらいただろう」
「うん、覚えている。それが何か」
「あのとき儀式したろ、サムライの約束とか何とかいって」
「キンチョウか」
「そうだ。そのキンチョウのことで来たというのだ」
「えっ!なんだよ、それ」
「おれもちょっと聞いただけで、よくわからないんだが、とにかく皆にあってキンチョウのことを頼みたいというんだ」
「キンチョウのことを・・・ますますわからん」
「集ったときに、詳しく話してもらうよ」
中島は、言って強引に電話を切った。
 いったい、何なんだ。気イ持たせやがって。西崎は、ぐいとウイスキィをあおると眠りについた。車内は、ぶどう狩りに来た帰り客で混み始めた。
同じ時刻、柳沢晴行はい板橋にある日都大学付属病院にいた。午後の定期回診を終えて看護婦詰め所に戻るとちょうど中島教一郎から電話があったところだった。
「今晩、時間とれるか」
「こんばん!?また急だな」
「うん、まあな、とれるか」
「無理だな当直だ」
柳沢医師は、あっさり断った。
「そうか、当直じゃあしょうがないなあ・・・」中島教一郎は、落胆気味につぶやいた。「全員、集まった方がよかったんだが」
「なんだよ、いまごろ」
「めずらしい人物がきたからさ」
「めずらしい?」
「ヤマ族の若者さ」
「ヤマ族!?」柳沢医師は、ちょっと考えてから聞いた。「あのタイから行った山岳部族か?」
「おお、そうそう」
「そこから来たって、誰が?!年寄りか」
「いや、若い」
「若いって、いくつぐらいの・・・」
なぜか、柳沢は気にして聞いた。
「二十歳前後か、大学生だっていうから」
「ああ、そうか」柳沢はほっとしたように言ってから聞いた。「じゃあ知ってるといっても、あのころは十歳くらいか、おぼえてないだろ」
「そうだな、でもなんとなく記憶があるかな」
「留学生か」
「いや、そうじゃない。昨日、きたばかりだ」
「昨日。なにしに」
「柳沢先生、竹見先生がお呼びです」
不意に、とおくから看護婦の呼ぶ声がした。
 柳沢は、軽く頷くと言った
―――――――――――――――――――― 17 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
「おお、ちょっと用がはいったから」
「なるべくこいよ」
「うん、今日のは事後報告でいいよ」
柳沢晴行は、目の前を過ぎて行った看護婦を目で追いながら受話器を置いた。
 彼にとって学生時代の仲間は、まったく興味なかった。今晩は、仕事明けになる看護婦の吉沢美子と会う約束があった。学生時代の仲間と会うより豊満な美奈子を抱くこと。その方がいまの彼にとっては優先すべきことだった。
「たしかヤマ族とかいったな」ちらっとそんな部族名をおもいだしたが、なつかしくはなかった。研修医が終わって晴れて大学病院の勤務医となった彼だが、生来の負けず嫌いと見栄張りの性格から神経を使い減らしていた。新米と思われるのが嫌で、尊大にみせてはいるが、毎日は薄氷を踏む思いだった。先日も冷や汗をかいたことがあった。当直の夜、運悪くベテランの医師が急用で帰ってしまった。何事もなければと思っていると、そんな晩に限って急患がある。夕方、ジョギング中に呼吸困難になった若者が担ぎこまれてきた。彼は、慣れたふりをして胸部聴診したあと、マニュアル本通り、点滴をオーダーした。ところが患者が苦しみだした。柳沢は焦って、静脈注射をしてしまった。幸い患者が丈夫で大事には至らなかったが、苦しがっているあいだは生きた心地がしなかった。こんなこともあった、過呼吸で運ばれてきた患者に、酸素を与え余計に苦しがったのにすっかり動転してなおも酸素量を多くしてしまった。医者になるのは、毎日が戦争だった。その疲れを癒してくれるのは、女性だった。豊満な女体に抱かれて眠ることが、なによりのやすらぎだった。大学時代の仲間など、いまは、面倒なだけだった。大学病院で実績を積み、早く郷里にある父の経営する大病院に帰ること。それが彼の人生に敷かれたレールだった。
 十年の歳月、学生時代アジア探検部だった彼らはそれぞれの道を歩いていた。エリート商社マン、大学助教授、高校教師、ダム建設の現場監督、大学病院の勤務医と皆、それぞれの人生がはじまっていた。しかし、いまはばらばらでも一九六○年、十年前は、固い一枚岩だった。が、卒業と同時に砕け散った。が、いままた十年の歳月を経て集ろうとしている。一欠けらを除いて。
四 闇の中
 赤坂とはいえ、路地に入ると、まるで郊外の住宅街のように暗い。政治家、財界人が毎日のように通う道にしては、あまりにも粗末な明かりである。ここを通る誰か一人でも、「暗い」とつぶやけば、翌日にはたちまちに、街灯がいくつもとりつけられ、本でも読めるほどになるであろう。が、決してそんなことにはならなかった。この界隈に集まってくる連中は、顔を見られるのを嫌う魑魅魍魎の輩なのだ。昼間は、あるものは赤じゅうたんの上を闊歩し、またあるものは何千人もの社員の前で教訓をたれる。そんな華々しい活躍をしている。が、夜ともなればなぜか暗がりに暗がりにと入っていく。「分け入っても、分け入っても、闇」の世界がここにある。普通の人間にとって、暗がりの道は危険な道である。しかし、かれらにとってはもっとも安全な道であった。
 しかし、三日前の宵、この日ばかりは、安全とはいえなかった。暗い路地の中で一際暗い場所があった。こんもり繁った立ち木と、窓のないビルに囲まれた一角で、そこだけが墨を流したような真暗闇となっていた。
 その闇のなかに、何者かが獣のように潜んでいた。夕方から降り始めた雨の中、もう二時間もじつとしていた。梅雨の終わりの雨は、夜に入るとしだいに激しさを増していった。
「くそ、これで何も撮れなかったらアホや」
何者かが闇のなかでつぶやいた。若者だった。
沢田浩は、高校生のとき、フリーカメラマン岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』を読んで感動した。将来、絶対に、あんな戦場カメラマンになる。浩は、大志を抱いて上京し写真学校に入った。しかし、寒村の農家の次男坊。生活費と学費を自力で捻出するには、過酷過ぎた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――18 ―――――――――――――――――
バイトに明け暮れながらも、学園デモを撮って歩いた。一人前のフリーカメラマンになった気持ちだった。何枚かが週刊誌に採用されたが、写真学校の学費に当てていた金はすべてフイルム代に消えた。学園紛争が終わり学校が平常になると滞納した学費の額に驚いた。働いて返済するには気の遠くなる数字だった。もしかしたら学校に行かなくても、名をあげることができるのではないか。当時フリーカメラマンを夢見る若者はごまんといた。が、結局、浩の考えもそこに落ち着いた。彼は、一攫千金を夢みて学校をあきらめた。しかし、フリーの道は厳しかった。甘い考えだった。ベトナムはすでに遅すぎた。アフリカの飢餓も中東の戦場も、あきられはじめていた。フイルムを買うためのバイト。学生時代と変らぬ生活。何かスクープを、街をあてもなく徘徊した。そんなとき三流雑誌に記事を書いているフリーライターの笠井と知り合った。
「カメラマンはいいよ。一発勝負だからな。たった一枚で有名になれる」笠井は、屋台でコップ酒をあおりながらよく愚痴た。その彼が追っているヤマは、とてつもなく大きなヤマだという。が、誰も相手にしてくれない、と嘆いていた。友人に大新聞社の記者が何人もいる。が、彼らにすればそのヤマは犬が人を咬むほどのことだというのだ。しかし笠井は追い続けた。そして、肝臓を病んで倒れた。見舞いにいくと、別人のようにげっそり痩せていた。笠井は、息子のような浩を見ると泣きながら
「俺は、もうだめだ」そう言って遺言がわりに教えてくれたのが、旅客機購入に絡む大物政治家と商社との黒い噂だった。「これはペンでは、どうにもならん。密会現場の写真がいる」笠井は、悔しそうに言った。もっともアメリカの大手飛行機会社と日本の商社、政治家の癒着は今に始まったことではないらしく、噂はたとえ真実であったにせよある種の儀式のように受け取られていた。その証拠に新聞記者はじめマスコミはまったく関心を示さなかった。笠井は、一ヵ月後に亡くなった。不摂生な生活が、たたったようだ。彼の話は本当なのか。浩は、顔見知りの三大紙の記者に、ちらっと探りを入れてみた。が、彼らは、失笑して
「口きき料はどこの世界にだってある。早い話が不動産屋の礼金さ。そんなことはみんなが知ってることだ」と、一笑に付した。
「政治家と商社マンの密会現場の写真など金にはならんよ」写真家仲間や、雑誌社の編集者からも言われた。「そんなのより、芸能人の密会写真を撮れよ。バンバン仕事がくるぜ。これからはそっちだな。やっかいな政治ネタより芸能ネタだ」
冗談ぽいだ。おれはぜったいフリーの報道カメラマンになる。そう心に決めた。大きなヤマ。他の新聞記者は笑い飛ばしたが、浩は、なぜか笠井の言葉を信じたかった。彼の追っていたヤマを写真に収めれば、自分は写真家になれる。一夜にして有名になれる。そんな気がするのだ。だからなにがなんでも写真を撮ってやる。雨の中、長時間の張り込みで、ともすれば落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせようと浩は、何度も胸の中で念仏のようにつぶやいた。
「大スクープ、大スクープ、大スクープ・・・きた!」
不意に音もなく黒塗りの高級車が路地にすべりこんできた。車は、薄明かりの門灯がつく料亭の前に停まった。勝手口から番傘をひろげた割烹着姿の女性と、スーツ姿の青年が出てきた。青年は、コウモリ傘をひろげて路地の左右を確かめるように見てから、勝手口に向かってうなずいて傘を差し出した。中から恰幅のよい小太りの老紳士が出てきた。青年は自分が濡れるのもかまわず老紳士の頭の上に傘をさし車のところに送った。運転手がドアを開けた。そのとき、雨の音に混じって動物が飛び出してくるような物音がした。緊張が走った。
 次の瞬間、暗闇にフラッシュの閃光が流れた。青年は、すばやく傘を横に倒して老紳士を隠した。
「誰だ!」
彼は、叫びながら脱兎のごとく暗闇に向かって飛び出して行った。
雨脚が一段と激しくなった。激しい雨と暗闇が盗撮者の足音と姿をかき消した。異変に気づいて料亭から、何人もの男たちが飛び出してきた。薄暗い街灯のなかに人影が浮かんだ。
―――――――――――――――――――― 19 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
一瞬、男たちは構えた。が、追っていった青年だった。
「いゃ-逃げ足の早い奴だった」
青年は、ずぶ濡れになった肩の雨つぶを片手で払い落としながら大声で言ったあと、車の中をのぞいてわびた。「すみません、逃がしちゃいました」
「かまわんよ、高木くん」車の中から老紳士の笑い声が聞こえた。「どうせ押さえてあるんだ、大きいところは。それより濡れるから」
「はあ、でも・・・」
「心配せんでもいいよ、ネズミの一匹や二匹」
老紳士の、落ち着いた声と葉巻のにおいを残して窓ガラスが閉まった。高木は、雨の中一礼したまま見送った。
 浩の前を、黒塗りのベンツ車が音もなく通っていった。ヘッドライトの明かりがなければ、風が過ぎたようにしか感じないかも知れなかった。それほどに静かに速く車は去って行った。
 危なかった・・・。追いかけてきた青年にもう少しで捕まるところだった。浩は、ふっと大きく安堵のため息をついた。彼は、隠してくれた繁った老木とビルの間から抜け出すと、急ぎ足で明るい表通りに向かった。いま撮った写真が、どれだけの闇を照らすものか。まったく見当がつかなかった。ただかなりの大物のようだ。先に入った政治家と一緒のところが撮れれば。自分がなにか、とてつもなく大きななヤマに向かって近づいている。そんな予感がした。それにしても、追ってきたビジネスマン風の青年はだれか。かなりの俊敏さから秘書ではないような気がした。
 SPか、たんなるガードマンか。そんなふうには見えなかった。もう二度三度、彼を目撃している。が、彼は政治家、右翼の大物らしい人物、料亭の女将。誰とも親しそうだった。一体、何者だろう。現像すれば判明する。早く正体を知りたかった。
 青年の身元は、意外に早くわかった。この日の夕方、浩は、思わぬ場所で青年を発見した。今晩も赤坂に行くつもりだったが、その前に癒着に絡んでいるとみられる五井物産の本社ビルを張っていたら出てきたのはなんとあの青年だった。長身でがっしりした体格。まるで背広のモデルのようだった。いかにもエリート商社マンといった風情だ。昼間はええ恰好しゃがって。佑介は舌打ちした。青年は、年配の外人と連れ立って流暢な英語で談笑していた。交差点で外人と別れると、地下鉄の構内に入って行った。佑介は追った。いくつもの路線が入り組んだ地下構内は、帰宅の人波でごったがえしていた。つけていても気づかれる心配がなかった。
次回につづく
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81――――――――20 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出状況(6・11現在)
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、髙橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(車外も可)=髙橋亨平(1)山根裕作(2)疋田祥子(3)茂木愛由未(1)
□ 一日を記憶する=髙橋亨平(1)、山根裕作(1)疋田祥子(1)茂木愛由未(1)
          金野幸裕(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年8月11日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : フリートーク 作品『白痴』第三回目
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年7月28日土曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : コメンティター5名。
題 目 : 『ドストエーフスキイ広場』合評会      関心ある人は下原まで
出版
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えて
ゲンダイ文学であり続ける。 
※ 集英社『21世紀ドストエフスキーがやってくる』2500円 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
☆『学生と読む志賀直哉の車内作品』④は、紙面の都合で、
 次号以降の掲載となります。
―――――――――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.81
朝日新聞2007年6月14日記事
まだ終わらない暗黒時代
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――22 ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――――― 23 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.80――――――――24 ―――――――――――――――――

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑