文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.323
日本大学藝術学部文芸学科 2017年(平成29年)10月16日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.323
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
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テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究
2017年読書と創作の旅
熊谷元一研究 岩波写真文庫『一年生』再読にあたり
『一年生』一人ひとりの現在を追ったら面白いのでは…、ライフワークとしてやってみたい…。先の第20回熊谷元一写真賞コンクール最終審査会打ち上げの宴席で、審査員だった二人の写真家から、こんな話が出た。出版から62年、写真集の名作として注目されつづけてきた『一年生』だが、被写体が古希を過ぎても、まだまだ魅力あるようだ。
写真文庫『一年生』は、歳月を積むほど輝きを増している。何故、『一年生』は時を超えて観る者の心を捉えるのか。普遍の懐かしさもあるが、真に感動する理由は撮られた写真一枚一枚が奇跡の記録でもあるからだ。
奇跡の記録
写真家・熊谷元一(1909-2010)が亡くなってから7年が過ぎた。不朽の名作『一年生』の被写体となった「一年生」は、古希を過ぎ、後期高齢者への道を歩みはじめている。が、先行く友もいて、年々寂しくなるばかりだ。(66人中、2017.10.10現在、6名の友が逝去)。
だが『一年生』を見ると元気がわいてくる。歳月を積むごとに『一年生』はますますその耀きを増している。時空を超えて奇跡の一年生を伝えている。
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【岩波写真文庫『一年生』の誕生まで】
熊谷元一(44)は、「一年生」撮影の動機を自伝『三足のわらじ』(南信州新聞社出版局2003)でこのように話している。
昭和27年(1952)の秋、岩波写真文庫の編集部を訪ねたとき、岩波写真文庫の主任・名取洋之助氏に『かいこ』のあと、「次は何を写しますか」と聞かれた。そのとき私は勤めて
いる郷里の小学校で来年、春から一年生の担任が決まっていた。それで
「私は昭和二十八年に新しく担任する一年生の生活を一カ年撮影したい」と、言った。
名取氏は「それはよい、きっとおもしろいものが出来ますよ」と励ましてくれた。
学校で、担任が授業とは関係ないことで教え子たちを写真に撮る。肖像権、プライバシー保護法など数々の規制や法律がある現代なら、到底不可能なことである。昭和28年というこの時代だからこそ実行できたといえる。(1954年7月に警察予備隊が自衛隊に)
昭和28年(1953)4月はじめから、熊谷は、新しく手に入れた35ミリのキャノン2Dで受け持った一年生の学校でのあらゆる生活を、翌年3月末日まで撮り続けた。その写真を収録した岩波写真文庫『一年生』は、1955年3月に出版された。
第一回毎日写真賞受賞
この写真集は、同年9月16日に第一回毎日写真賞を受賞する。以後『一年生』は写真界の金字塔として現在に至る。
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1955年(昭和30年)8月30日(火曜日)毎日新聞一面中記事
※他の記事「日米会談ひらく 中ソとの外交説明」小笠原沖縄なお保持」
「抑留名簿の手交期待」「砂川問題 一日から具体的会議
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「日常を素朴な目で」
写真評論家・金丸重嶺(日本大学教授)絶賛!!
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『一年生』表紙写真の謎
『一年生』の表紙写真は、入学式の朝、撮られたものと推察できる。一年生らしい女の子と男の子が校庭に入ってきたところだ。後ろから着物姿の母親が三人ついてくる。裏面も表紙写真のつづきで母親と子どもが写されている。表紙写真の二人の子どもは手に上履きの入った袋を提げ、胸に名前が書かれた名札をつけている。
4月1日の入学式の朝、母親とピカピカの一年生が、不安と期待で校庭に入ってくる光景。それ自体は何の不思議もない。が、この一年生は、被写体となった私たちの学年ではない。むろん母親たちも違う。表紙写真の一年生は、全員一学年下の子どもたちとその母親である。撮影日も1954年となっている。なぜ、こんなことになったのか ? 確か熊谷は、1953年(昭和28年)入学の一年生を撮ると決めていた。被写体と撮影年月が違っても、全体にはそれほど影響はないと思うが、真実が命の記録写真である。疑問に思うところである。なぜ表紙写真は、一年遅れの1954年(昭和29年)入学の一年生になったのか。
『一年生』のはじめから6頁は、主に入学式当日に撮影されたものだ。(0~2頁の「入学前の知能テスト」、我が子が心配で、こっそり覗く「うちの子は」を除く)
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講堂で入学式がはじまった。入場する新一年生。拍手で迎える上級生たち。この一年生は、私たち28会組ではない。翌年、昭和29年の入学式。【撮影1954年4月1日】
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自分の机に座る一年生と忘れ物がないかと確かめる母親たち。これも、私たちではない。
【1954年撮影か】
上、緊張した顔で熱心に先生の話を聞く一年生。
下、記念撮影。
※6頁までの入学式の写真は、1953年(昭和28年)入学の私たちではない。1年遅れの1954年(昭和29年)入学の一年生である。
なぜ、熊谷は、担任の「一年生」を撮らなかったのか。
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創作ルポ
誤 算
何事にも誤算はつきものだ。熊谷が計画した担任となる一年生を一年間撮る、という計画は、初日から頓挫することになった。(もっとも、この不運は、結果的には幸運となったのであるが)昭和28年(1953)この年、長野県下伊那郡会地村、村立会地小学校に入学したのは66名は、東組33名、西組33名の子どもたちだった。熊谷が担任することになったのは、東組33名の子どもたち。熊谷は、写真を撮るということもあって、意気込んでいた。「この前、一年生を受け持った時の失敗を反省して、ああしたらいいか、こうしてみたらなどと」思いめぐらせていたのだ。
それだけに熊谷にとっても、緊張と不安でいっぱいだった。この日、熊谷は、学校現場で誰もがやったこともないことをはじめることにしていた。日本はおろか世界中の教師が、やったことのないこと。それを実行しようとしていたのだ。ところが、そんな熊谷の教師生命を賭けた大計画をぶち壊す出来事がおきた。
この日の朝早く、正確には1953年(昭和28年)4月1日の7時過ぎ、熊谷は胸高ぶらせて登校した。校門をくぐると、立ち止まって何度もアングルを確認した。空は快晴、桜は満開。あとは最初の一枚を、どのように撮るかだ。表紙にしょうと決めていた。それだけにこれまでさんざん考えてきた。昨日、構図と距離を決めたが、まだ迷いもあった。つぎに被写体だ。やはり、最初は受け持つことになる東組の子どもがいいだろう。どこの集落の子が一番乗りか、楽しみでもあった。熊谷は、急いた気持ちで職員玄関に向かった。そのとき、職員室の窓があいて、保健室の有馬先生が顔をだした。
「せんせい、せんせい」
彼女は大声で呼ばった。なにか、あわてた様子だ。
「せんせい、大変です」
いつもは陽気な彼女だが、笑顔がない。熊谷は不安になった。
「せんせい、木下先生が入院されたんですって!」
有馬先生は、待ち切れずに玄関まで迎えに来て言った。
「えっ!木下先生が!?」
「今朝、倒れて、飯田の病院に緊急入院したと奥様から連絡ありました」有馬先生は、息を切らせて言った。
「そうすると、学校には・・・」
熊谷は、つぶやいたが、頭のなかは、真っ白になった。
木下先生は、定年前のベテラン教師。性格温厚で気兼ねのいらない人だった。写真のこ
とを話すと協力を約束してくれた。それ故に、今日は、大いに頼みの綱にしていた。その木下先生がいきなり欠席する―――ということは西組の子どもたちの面倒もみなければならないということだ。
今日は、忙しくなる。カメラで写している場合ではない。一瞬にして、そんな思いが頭の中を駆け巡った。熊谷は、恨めしげに窓から校庭を眺めた。登校してくる子供たちがみえた。残念だが、今日は、新入生の世話に専念しよう。はじめて学校にきた一年生のいろんな場面の撮影を計画していたが、全てあきらめることにした。
熊谷は、几帳面な性格だけに無念な思いだった。しかし、自分がアマチュアカメラマンとしての道を歩む限り、これは避けては通れぬことだと思った。本務を第一先行事とする。自分の仕事は、あくまで教師、終戦末期、ある事情から写真家の道に背を向け郷里にかえってきたときから、そう決めていた。熊谷は、写真撮影のことは、忘れ、担任する東組の子どもたちと担任がいない西組のこどもたち二クラスの面倒をみることになった。
そんなわけで当日、撮影する余裕はなくなった。たとえ、あったとしてもできぬ相談だった。故に入学式の写真撮影は、次の年に泣く泣く持ち越しされた。
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1953年度の入学式は大忙し、撮影は断念
入学式風景は、1954年(昭和29年)に撮影
入学式の日
はじめての学校、緊張と期待 いつの時代も同じ
入学式の日の緊張と初々しさが伝わってくる一枚
仕切り直しで、翌年、昭和29年4月1日、熊谷は満を持して校庭に入ってくる一年生と、その母親たちを撮影した。子どもたちの一年生の緊張した顔、先頭の男の子は、母親の手をしっかりにぎりしめている。母親たちの髪型、着物姿をのぞけば63年前もいまも、入学式の風景は変わらない。
次号から1953年度撮影の一年生
熊谷元一写真童画館
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新しい担任代理は、18歳の女先生
西組担任の急病で、熊谷の「一年生」写真撮影は、大きく狂った。熊谷は、担任
する東組と、西組任の復帰は当分無理のようだった。熊谷は焦りを感じた。西組は教頭先生とふたりでみていた。が、写真を撮る余裕はなかった。いったいいつまで・・・。新任の先生が来ることを望んだがこの時期、ヘビーブームのはじまりで、教師の数は足らなかった。
※28年の「一年生」最初は、新任の女先生を撮った。悪ガキたちはおとなしかった。
任の復帰は当分無理のようだった。熊谷は焦りを感じた。西組は教頭先生とふたりでみていた。が、写真を撮る余裕はなかった。いったいいつまで・・・。新任の先生が来ることを望んだがこの時期、ヘビーブームのはじまりで、教師の数は足らなかった。
※28年の「一年生」最初は、新任の女先生を撮った。悪ガキたちはおとなしかった。
一週間後、やっと担任代理がみつかった。やってきたのは、原(現・北條)房子先生。三週間前、飯田風越女子高等学校を卒業したばかりの、まだ18歳の娘さんだった。東京の音楽大学志望だった彼女は、浪人生活を覚悟していたが、思わぬ話を受け入れた。
しかし、教育実習も、教育に関するなにも学んでいない自分が、たとえ代理といえできるだろうか。そんな不安があった。彼女はこのときの気持ちを『還暦になった一年生』でこのようにのべている。
「思い起こせば、昭和28年4月8日に、他の新任の先生方より一足遅れ、藤綱校長先生に「お釈迦様の誕生日に・・・・」と、全校児童の前で紹介されて1年西組の担任になりました」
ベテラン先生のかわりに西組の担任になったのは、まったく教師経験がない高校でたての18歳の娘さんだった。熊谷が指導しながら教師に育ててゆけということか。熊谷は、絶望的な気持ちだった。しかし、写真は撮らねばならない。自分で決めている。岩波にも約束している。東組西組併せて66名の一年生児童と素人の娘さん。自分が教え指導していかねばならない。それに写真を撮るということ自体、子供たちの親兄弟の承諾をえているわけでもない。熊谷は、悩み苦しんだ。10年前、大東亜省の写真班として満州に行った。国策のた
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めに政府の命令で撮ることに疑問を感じた。プロパガンダは、自分にはできなかった。戦争が終わったら自由に写真を撮る。そう思っていたのに、いまは、その自由にくるしんでいる。国家命令で写真を撮ることのほうがよほど楽だと思った。
66名の一年生と、素人教師の娘を前に熊谷は、写真をどう撮るか悩みに悩んだ。このとき新任の原房子先生は、どのようにおもっていたのだろうか。一年生が50歳になったとき創った記念文集『五十歳になった一年生』に、このような思いでをよせている。
「私は43年前の昭和28年4月に会地小学校(現阿智第一小学校)の一年西組の担任として赴任して行きました。高校を卒業したばかりで、限りない児童愛に燃えてはいたものの教育のことは何も分からない、教え子の皆さんと同じ先生一年生でした。幸いベテランの熊谷先生が戸なりの組の担任だったのでノウハウを一から教えて頂くことができました。」
写真撮影の協力を頼む
東組33名の児童に加え西組33名の児童と自分の子どものような若すぎる女先生を抱えてしまった熊谷だが、とにもかくにも計画は実行しなければと思った。そのことを新任の女先生に話すことにした。そのときのことを彼女は、このように書いている。
「最初に熊谷先生から『一年生』の写真文庫を作るから協力して欲しいということを伺い
ました。その時は、正直いってどんなものかわからず軽く受け止めていました。(それが後になって毎日出版賞を受賞されこうして現在に至るまで輝きつづけるとは、あの時は夢に
も思いませんでした。)熊谷先生と一年生の教え子の皆さんとの出会いが『一年生』という貴重な記録として風化されずに残されたことは私にとってこの上ない幸せだと思っております。先生一年生の私は、熊谷先生にお世話になるばかりでしたが、音楽とダンスの指導は私の担当でした。」
カメラがめずらしかった時代。最初は、後ろ姿から撮るほかなかった。
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アンケート 誰の母親か不明
【昭和29年撮影か】教室をこっそりのぞく母親。服装から、入学式の日ではなさそう。
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ゼミⅡの記録
□9月25日(月)テキストサローヤン「空中ブランコに乗った大胆な青年」ゼミ合宿の話
□10月2日(月)テキスト志賀直哉『灰色の月』通夜の為、早引き。
・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・・・・
ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
月 日 2017年10月21日(土)午後2時 ~ 4時45分
会 場 東京藝術劇場小会議室7 開場 午後1時
作 品 『悪霊』6回目
報告者 野澤高峯 福井勝也 ジョイント方式
【第21回写真賞コンクールについて】
テーマ 「はたらく」 第一回「働く」の初心に帰って
締切 2018年9月末日
最終審査 10月12日(金)
最終日審査会場 昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館
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熊谷元一賞コンクール20回記念写真展
□日時 平成30年5月29日~6月3日
□会場 JCフォトサロンクラブ25 東京・半蔵門
■参加費:1000円(学生無料)
課題 10月16日
『やまびこ学校』の感想
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一日の記録
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