文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.324

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)10月23日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.324

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/25 10/2 10/16 10/23 10/30 11/6 11/13 11/20 11/27 12/4 12/11 1/15 1/22 1/29 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

奇跡の記録『一年生』

写真家・熊谷元一(1909-2010)が亡くなってから7年が過ぎた。不朽の名作『一年生』の被写体となった「一年生」は、古希を過ぎ、後期高齢者への道を歩みはじめている。が、先行く友もいて、年々寂しくなるばかりだ。(66人中、2017.10.10現在、6名の友が逝去)。そこで、体が元気なうちにもう一度しっかり読んでみることにした。

 

 

 

 

20年前、被写体が50歳になったとき、熊谷は、88歳だった。そのときの心意気を記念写真集『五十歳になった一年生』(2001.10)に「21世紀に伝えたい学校教育がある」として、このような帯文を寄せている。

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教え子の一年生を写真に撮って四十四年になります。あのときの一年生も五十歳になった。米寿を迎えた私の体もいまのうちはもちそうだし、どうかもう一ぺん教え子を訪ねて写真を撮ったら教師としてやり残した教育を成し遂げられるような気持ちに、また写真としても大切な記録になるのではないかと思いました。 1996年10月 熊谷元一

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目次

 

・『一年生』奇跡の記録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

・写真文庫『一年生』の被写体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

・担任代理は18歳の女先生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

・創作ルポ 永遠の一年生①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.324 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

 

【写真文庫『一年生』の被写体たち】

『一年生』に写されている子どもたちは、東組、西組の子どもたち66名である。熊谷は1953年4月1日から写す計画だったが、西組担任の先生が、急病になったことから計画を変更せざるをえなくなった。熊谷は、東組担任だが、新しい西組担任が見つかるまで、西組の子どもたちの面倒をみることになったのだ。ということで、入学時の写真は、翌年1954年撮ることになった。したがって入学式に撮ったとみられる講堂や教室の写真は翌年1954年のものである。

新しい西組の担任

いつになったら新しい先生はくるのか。熊谷は、焦り始めた。一年生の写真撮影は、すでに岩波写真文庫と約束がしてあったからだ。10日ほどして、新しい西組担任の先生がやってきた。3週間前、県立飯田風越女子高校を卒業したばかりの娘さんだった。

このときから、熊谷による1953年(昭和28年)の子どもたちの撮影がはじまった。以下は、被写体となった子どもたち。名前は、漢字を書ける子どももいる。

 

【東組】

  1. みやざわよしこ 2.さとうまさひろ 3.はらさちこ 4.かねこたつうん 5.はらともかず 6.山田まさこ 7.あらいきよし 8.くらたかつよし 9.はらとおる 10.いとうさちこ 12.ますだしげこ 13.はらとおる 14.ますだしげこ 15.かわいよしこ 16.あんどうけんじ 17.しもはらとしひこ 18.はらりゆき 19.すずきてるお 20.みずののぶゆき 21.ささきすすむ 22.おりやまたかいち 23.あらいけいこ 24.あらいひでかず 25.こうさかしづ江 26.くまがいとしこ 27.ささよしお 28.おかもとみつよ 29.まきしまたかよし 30.おかにわやえこ 31.ふくしまたいし 32.すぎやまちずこ 33.いいじまかずこ 34.こもりきよと 35.あしざわひろふみ

【西組】

  1. 田中友市 2.もざわとしはる 3.おかにはひさお 4.おおしまあきら 5.はらひろあき 6.しもはらひろし 7.くまがいじゅんぺい 8.きたはらみよこ 9.かたぎりしげのぶ
  2. はらまさゆき 11.きたはらさよこ 12.はっとりふみこ 13.はらようこ 14.あしざわのりつぐ 15.そのはらよしじ 16.ごとうひさし 17.みやじまはるえ 18.田中かつ子
  3. はやしこうじ 20.くぼたよしふみ 21.さくらいひろみ 22.ささきちずこ 23.ふるかわきみのり 24.すだゆたか 25.こやましげる 26.かつのえいこ

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新しい担任代理は、18歳の女先生

 

ベビーブームのはしりで、教員が足らなかった時代。それに新学期早々である。代わりの先生はなかなか見つからなかった。一年生の学校での日常生活を撮る。岩波写真文庫との約束があるだけに、桜の散る季節、熊谷の心中は推して知るべしである。

一週間後、やっと担任代理がみつかった。やってきたのは、原(現・北條)房子先生。なんと三週間前、飯田風越女子高等学校を卒業したばかりの、まだ18歳の娘さんだった。東京の音楽大学志望だった彼女は、浪人生活を覚悟していたが、思わぬ話を受け入れた。

しかし、教育実習も、教育に関するなにも学んでいない自分が、たとえ代理といえできるだろうか。そんな不安があった。彼女はこのときの気持ちを『還暦になった一年生』でこのようにのべている。

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「思い起こせば、昭和2848日に、他の新任の先生方より一足遅れ、藤綱校長先生に〈お釈迦様の誕生日に・・・・〉と、全校児童の前で紹介されて1年西組の担任になりました」

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ベテラン先生のかわりに西組の担任になったのは、まったく教師経験がない高校でたての18歳の娘さんだった。熊谷が指導しながら教師に育ててゆけということか。熊谷は、絶望的な気持ちだった。しかし、写真は撮らねばならない。自分で決めている。岩波にも約束している。東組・西組併せて66名の一年生児童と素人の娘さん。自分が教え指導していかねばならない。それに写真を撮るということ自体、子供たちの親兄弟の承諾をえているわけでもない。熊谷は、悩み苦しんだ。10年前、大東亜省の写真班として満州に行った。国策のために政府の命令で撮ることに疑問を感じた。プロパガンダは、自分にはできなかった。戦争が終わったら自由に写真を撮る。そう思っていたのに、いまは、その自由にくるしんでいる。国家命令で写真を撮ることのほうがよほど楽だと思った。

66名の一年生と、素人教師の娘を前に熊谷は、写真をどう撮るか悩みに悩んだ。このとき新任の原房子先生は、どのようにおもっていたのだろうか。「一年生」が50歳になったとき創った記念文集『五十歳になった一年生』には、このような思い出をよせている。

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「私は43年前の昭和28年4月に会地小学校(現阿智第一小学校)の一年西組の担任として赴任して行きました。高校を卒業したばかりで、限りない児童愛に燃えてはいたものの教育のことは何も分からない、教え子の皆さんと同じ先生一年生でした。幸いベテランの熊谷先生が隣の組の担任だったのでノウハウを一から教えて頂くことができました。」

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新任の若き女教師は、熱く児童愛に燃え、夢と希望を胸に、山間の小学校に赴任した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.324 ―――――――― 4 ――――――――――――

 

誤算は、奇跡の幸運

 

熊谷にとって、若き女教師、原房子の登場は、奇跡といえた。もし西組担任の木下先生が病欠でなかったら、ベテラン同士二人三脚で「一年生」を教えていくことになった。が、木下先生が年上のこともあるし、やはり遠慮ということもあった。西組の子どもたちを早々撮るわけにもいかないだろう。教師未経験な先生だから、自分が教えながら自分主導で出来る。そのことを思うと、誤算は、奇跡の幸運に思えた。

 

写真撮影の協力を頼む

東組35名の児童に加え西組31名の児童と自分の子どものような若すぎる女先生を抱えてしまった熊谷だが、とにもかくにも写真撮影の計画は実行しなければと思った。そのことを新任の女先生に話すことにした。そのときのことを彼女は、このように書いている。

「最初に熊谷先生から『一年生』の写真文庫を作るから協力して欲しいということを伺い

ました。その時は、正直いってどんなものかわからず軽く受け止めていました。(それが後になって毎日出版賞を受賞されこうして現在に至るまで輝きつづけるとは、あの時は夢に

も思いませんでした。)熊谷先生と一年生の教え子の皆さんとの出会いが『一年生』という貴重な記録として風化されずに残されたことは私にとってこの上ない幸せだと思っております。先生一年生の私は、熊谷先生にお世話になるばかりでしたが、音楽とダンスの指導は私の担当でした。」

(上の写真は、新任の原房子先生の授業風景。最初の一枚、誤算の幸運)

 

 

 

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「一年生」撮影開始

新しく赴任した西組担任の原房子先生の承諾と協力をとりつけた熊谷は、いよいよ撮影を開始した。だが、子供たちの学校での日常を撮るということは、考えていたほど容易ではなかった。人々の日常生活を写すことにおいては、すでに『会地村』『農村の婦人』『かいこの村』などで慣れていた。熊谷はアマチュアカメラマンといえども、戦前、戦中は、大東亜省の嘱託撮影班として満州国に出張、満蒙開拓のプロパガンダ写真を撮っていた。カメラマンとして実践、経験、作品においては、プロカメラマンと同等。が、カメラが珍しかった時代で、それも山村の学校では、子供を撮ることはかなり難しかった。

(筆者の経験からいけば、幼年時代、カメラを向けられ、逃げ回ったことがある。撮られるのは恥ずかしいというより怖かった記憶がある。山村では、撮影といえばお祝いのときに撮るもの、そのような固定観念があった)

教室でカメラを向けられた記憶がない。(私は、被写体の一人だが)、なぜか?思うに、熊谷は、撮影をはじめた頃は、正面から撮らなかった。下の写真は、原房子先生が、下校するこどもたちを送って行くところである。のどかな春の午後、微笑ましい光景だが、土地を知

 

るものにとっては、二つの驚きがある。それは、この場所が小学校からかなり離れているということである。女先生は、こんなところまで送ってきていたのか、という驚きと、熊谷がシャッターチャンスを狙ってここまで追ってきたのか、という驚きだ。子どもたちは気づいていないようだ。

(ちなみに、この子どもたちは、この村でいうところの春日地区の子どもたちである)

 

 

 

 

 

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教室撮影の難しさ

学校内や教室内ではむろんだが、授業中の撮影は、もっと難しい。子どもたちは四六時中、先生をみているわけだし、カメラを手にすれよけいに気になって、ますますカメラをみる。上の写真で右上の写真は、何かの授業の最中だが、手を上げながらも子どもたちの視線はカメラに集中している。

どのようにして写したのか

熊谷は、どのようにして撮っていたのか。大人になってから同級会などの宴席で、熊谷が出席したときたずねたことがある。

「撮る場所、撮るものを決めていた場合もあるが、いつもは、カメラを机の上に置いていて、これはと思ったとき、さっと撮った。夢中になる授業だと、カメラを気にしなかったので、面白い授業を考えた」

下、二つの写真は、夢中になってなにかをしている。カメラのことは忘れてしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――― 7――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.234

 

 

創作ルポ 本文は、フィクションです。

永遠の一年生 ①

平成22年11月6日、写真家・童画家の熊谷元一が、都下武蔵野にある老人施設で101歳の生涯を閉じた。亡くなる前日までお元気でカメラの話をされていたという。

熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終えたあと上京、清瀬市に住み始め

た。還暦からの出発だったが、清瀬では写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長に推され地域のために尽力された。それ故に、訃報を知って大勢の清瀬市民が焼香に列を成した。名誉村民となっている故郷、桑谷村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。他に知人友人、出版社やマスメディアの人たち。そして写真集の愛読者が大勢参列した。私は熊谷の写真世界、特に『一年生』を愛する一人だった。『一年生』に魅せられてから30年近く、熱心なファンでありつづけている。

それ故、訃報を知って、矢も盾もたまらずお通夜に駆けつけた。大勢の参拝者のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。80に近い歳だが、嘱託記者兼写真班として、いまでも地元紙に写真や記事を載せていた。彼はふだんは農業に従事していて、農作業のあいま、村中を回って話題や出来事を取材していた。熊谷とは懇意にしていた。私は、挨拶し話しかけた。

「順風満帆な人生だったですね」私は言った。

「そうですね・・・」

彼は、つぶやいた。何か否定的にみえた。私は、少しへんに思ってたずねた。

「ちがうのですか」

「そうですね。みなさんがおもっているほど、らくな人生ではなかったですよ」

彼は、少しばかり苦笑して言った。私は不思議に思った。

画家が夢だった熊谷は、偶然カメラを手にしたことで、写真の世界に目覚めた。28歳で朝日新聞社から写真集を出版、高い評価を得た。30歳で大東亜省の嘱託カメラマンとなり、国策として満州の開拓村を撮影した。戦後は、郷里で小学教師をやりながら村人の生活を写真に撮り、出版された写真集は、農村の記録写真としてどれも高い評価を得た。『農村の婦人』『かいこの村』などがそれである。そしても写真の合間に描きつづけた童画は、失われていく山村文化の伝承と認められた。絵本は、百万部を超えるロングベストセラーとなっている。写真や童画作品の多くの作品が数々の賞に輝いた。これらを振り返って、いったい楽な人生ではなかったなどと評せるだろうか。我が世の春を謳歌した生涯。それに尽きるかもしれない。『一年生』という金字塔が、熊谷に絶対の幸運をもたらしている。

「そうですか、教師、写真家、童画家。どれも立派にはきこなした人生にみえましたが。継続する苦労は大変だったでしょうが・・・」

「精神的なことですよ」老新聞記者は、言った。

「精神的ですか?!」

「そうです。知っている人を撮るということは、或る意味で一番難しいんです」老記者は、言った。「新聞記事も同じですが」

「そうですか…」私は、曖昧に頷いた。そうした仕事内容のことは、門外漢なのでわかったようなわからないようなところがあった。

「元一さんにとって、一年生は、一番つらい作品だったんではないですか」

「一年生が、ですか」私は、意味がわからず、眉をひそめて老記者をみた。

「そうです、一年生は熊谷を写真家として不動なものにした。が、人間熊谷を一番に苦しめもしたのです。それ故に撮りつづけているのです」

そう言って彼は、読経の流れるなか闇をみつめた。遠くのあの日を思いだすように。

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.324 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

ゼミⅡの記録

 

□9月25日(月)テキストサローヤン「空中ブランコに乗った大胆な青年」ゼミ合宿の話

□10月2日(月)テキスト志賀直哉『灰色の月』通夜の為、早引き。

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

 

月 日  2017年12月9日(土)午後2時 ~ 4時45分

 

会 場  東京藝術劇場小会議室7 開場 午後1時

 

作 品  『悪霊』7回目

 

報告者  フリートーク

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」  第一回「働く」の初心に帰って

 

締切 2018年9月末日

 

最終審査 10月12日(金)

 

最終日審査会場  昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館

 

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熊谷元一賞コンクール20回記念写真展

 

□日時 平成30年5月29日~6月3日

□会場 JCフォトサロンクラブ25 東京・半蔵門

 

■参加費:1000円(学生無料)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題 10月16日

『やまびこ学校』の感想

 

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一日の記録

 

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