文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.325

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)10月30日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.325

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/25 10/2 10/16 10/23 10/30 11/6 11/13 11/20 11/27 12/4 12/11 1/15 1/22 1/29 

テキスト作品読み(志賀直哉他) &熊谷元一研究

 

2017年読書と創作の旅

 

岩波写真文庫『一年生』考察③

 

写真家・熊谷元一(1909-2010)が亡くなってから7年が過ぎた。不朽の名作『一年生』の被写体となった「一年生」は、古希を過ぎ、後期高齢者への道を歩みはじめている。 が、年々先行く友もいて、寂しくなるばかりだ。2017年の現在までに既に5名の友が旅立っている。そこで、体が元気なうちに『一年生』を今一度しっかり考察し、この作品がなぜ名作なのかを明らかにしたい。

 

 

 

 

10年前、「一年生」が還暦を迎えたとき、白寿の熊谷は『還暦になった一年生』(2010.7.10 東京プライズエージェンシー)でのインタビューでこのように答えている。

 

「人間、いくつになってもやりたいことを持っていることが大切です」

 

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「いい写真を撮りたいなどと欲張っていると、ろくな写真が撮れないので、いつもありのままの姿を子どもの心に帰ってチャンスを逃さずシャッタ―を切っていたまでです。」

1955年(昭和30年)9月16日第一回毎日写真受賞のときのコメント。熊谷元一(46)

 

目次 □前号まで…3 ~ 4

□熊谷の撮影手法…5  □創作ルポ「永遠の一年生」…7

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.325 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

熊谷元一研究「一年生」考察

 

前号までの考察

□36号・・・・・・表紙写真、入学式(なぜ1954年撮影かについて)

表紙から6頁までの写真は1954年に撮られたもの。「なぜ1953年入学の担任の子どもたちではなかったのか」について。

□37号・・・・・・1953年度入学児撮影開始、新任教師は新米の女先生。

7頁――最初に撮ったのは、西組の子どもたちに「さくら」の字を教える原房子先生(18)。下校時に途中まで子どもたちを送る。子どもたちを正面から撮るのは、まだ難しい。はじめはうしろから撮ることにした。カメラが珍しい時代。だんだんと慣らすほかない。

原先生には、写真撮影協力をお願いして承諾を得た。それで最初の被写体となってもらった。

8頁――受け持つことになった東組の授業風景。写真を撮ることのむずかしさ。(左上・子どもたちは元気に手をあげながらも視線はカメラの方にある)

(下左右・子どもたちに興味がもてる授業をしたところ、そのことに夢中になった。カメラの存在を忘れている)

9頁――勉強の楽しさをおぼえる。(バンザイする子、じゃんけんする子どもたちに写されているという意識はない)

写真撮影になれるまでの歳月

 

(入学式の日を除いた)9頁までの写真を観ると、子どもたちが学校や授業、カメラに慣れてきたことがわかる。しかし、それは入学してからどれくらい経ってからか。月日が入っていないのでわからない。が、子どもたちの服装から推察できる。子どもたちは皆、半袖シャツを着ている。

そこからわかることは、季節は夏に近い――ということは、入学して3、4カ月あと、あるいは夏休み明けということもある。(8月16日以降)

いずれにせよ、このような写真が撮れるようになるまで半年近い月日を要した。そのよう想像するところである。

 

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「思い起こせば、昭和2848日に、他の新任の先生方より一足遅れ、藤綱校長先生に〈お釈迦様の誕生日に・・・・〉と、全校児童の前で紹介されて1年西組の担任になりました」

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「私は43年前の昭和28年4月に会地小学校(現阿智第一小学校)の一年西組の担任として赴任して行きました。高校を卒業したばかりで、限りない児童愛に燃えてはいたものの教育のことは何も分からない、教え子の皆さんと同じ先生一年生でした。幸いベテランの熊谷先生が隣の組の担任だったのでノウハウを一から教えて頂くことができました。」

 

―――――――――――――――――― 3 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.325

前号までの考察  撮影開始の頃

 

熊谷は、いかにして写真を撮ったか

 

誤算は、奇跡の幸運

 

熊谷にとって、突然、現れた若き女教師、原房子先生の登場は、奇跡といえた。もし西組担任の木下先生が病欠でなかったら、ベテラン同士二人三脚で「一年生」を教えていくことになった。が、木下先生が年上のこともあるし、やはり遠慮ということもあった。西組の子どもたちを早々撮るわけにもいかないだろう。教師未経験な先生だから、自分が教えながら自分主導で出来る。そのことを思うと、誤算は、奇跡の幸運に思えた。

下の写真は、新任の原房子先生の授業風景。最初の一枚、誤算は奇跡の幸運だった。

 

写真撮影の協力を頼む

東組35名の児童に加え西組31名の児童と自分の子どものような若すぎる女先生の指導を抱えてしまった熊谷だが、とにもかくにも写真撮影は実行しなければ。そのことを新任の女先生に話すことにした。そのときのことを彼女は、このように書いている。

 

「最初に熊谷先生から『一年生』の写真文庫を作るから協力して欲しいということを伺い

ました。その時は、正直いってどんなものかわからず軽く受け止めていました。(それが後になって毎日出版賞を受賞されこうして現在に至るまで輝きつづけるとは、あの時は夢に

も思いませんでした。)熊谷先生と一年生の教え子の皆さんとの出会いが『一年生』という貴重な記録として風化されずに残されたことは私にとってこの上ない幸せだと思っております。先生一年生の私は、熊谷先生にお世話になるばかりでしたが、音楽とダンスの指導は私の担当でした。」(『還暦になった一年生』2010.4.10より)

 

新しい担任代理は、18歳の女先生

 

ベビーブームのはしりで、教員が足らなかった時代。それに新学期早々である。代わりの先生はなかなか見つからなかった。一年生の学校での日常生活を撮る。岩波写真文庫との約束があるだけに、桜の散る季節、熊谷の心中は推して知るべしであったと思う。

一週間後、やっと担任代理がみつかった。やってきたのは、原(現・北條)房子先生。なんと三週間前、飯田風越女子高等学校を卒業したばかりの、まだ18歳の娘さんだった。東京の音楽大学志望だった彼女は、浪人生活を覚悟していたが、思わぬ話を受け入れた。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.325 ―――――――― 4 ――――――――――――

 

 

 

最初の撮影は、下校。子どもたちを送る、担任の女先生。

はじめのころは、正面から撮るのはむずかしかったのかも知れない。

教室撮影の難しさ

学校内や教室内ではむろんだが、授業中の撮影は、もっと難しい。子どもたちは四六時中、先生をみているわけだし、カメラを手にすれよけいに気になって、ますますカメラをみる。上の写真で右上の写真は、何かの授業の最中だが、手を上げながらも子どもたちの視線はカメラに集中している。

 

服装から、撮影時期を推察

 

子どもたちは、いつごろからカメラに慣れたのか。下、2枚は授業に夢中。半袖なので夏。入学して半年は過ぎているか

 

―――――――――――――――――― 5 ―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.325

 

本号の考察         熊谷の撮影手法

 

熊谷は、どのようにして子どもたちにカメラ撮影を慣らしていったのか。

写真集『一年生』の最大の疑問は、いかにして子どもたちを自然なままで撮ることに成功したか、である。スマホでも写真が撮れる現代において、写されるということは、肖像権の問題を除けば、まったくといってよいほど気になることではなくなっている。

しかし、63年前は違う。カメラは珍しい器械だった。経済的に余裕のある人しか持てなかった。山村では、医者か写真店主、村の名士である。それに撮る対象は、結婚式や記念事の祝い事だった。学校での子どもたちの日常を撮る。そんな発想はなかった。

しかし写真家・熊谷元一は、板垣鷹穂の「グラフの社会性」を理解し、これからの時代は、記念ではなく記録の時代と信じてシャッターを押して村人の生活をとりつづけてきた。

既に、戦前には『会地村』を、昨年、一昨年には『農村の婦人』『かいこの村』を発刊している。これらは、現場百回。辛抱強く、被写体に接し、相手にカメラも熊谷の一部、そのように思わせることができた結果である。

 

被写体の一年生

 

以下は、被写体となって協力した「一年生」。漢字を書ける子どももいる。

 

【東組】

  1. みやざわよしこ 2.さとうまさひろ 3.はらさちこ 4.かねこたつうん 5.はらともかず 6.山田まさこ 7.あらいきよし 8.くらたかつよし 9.はらとおる 10.いとうさちこ 11. こもりきよと12. 13.はらとおる 14.ますだしげこ 15.かわいよしこ 16.あんどうけんじ 17.しもはらとしひこ 18.はらりゆき 19.すずきてるお 20.みずののぶゆき 21.ささきすすむ 22.おりやまたかいち 23.あらいけいこ 24.あらいひでかず 25.こうさかしづ江 26.くまがいとしこ 27.ささよしお 28.おかもとみつよ 29.まきしまたかよし 30.おかにわやえこ 31.ふくしまたいし 32.すぎやまちずこ 33.いいじまかずこ 34.あしざわひろふみ

 

【西組】

  1. 田中友市 2.もざわとしはる 3.おかにはひさお 4.おおしまあきら 5.はらひろあき 6.しもはらひろし 7.くまがいじゅんぺい 8.きたはらみよこ 9.かたぎりしげのぶ
  2. はらまさゆき 11.きたはらさよこ 12.はっとりふみこ 13.はらようこ 14.あしざわのりつぐ 15.そのはらよしじ 16.ごとうひさし 17.みやじまはるえ 18.田中かつ子
  3. はやしこうじ 20.くぼたよしふみ 21.さくらいひろみ 22.ささきちずこ 23.ふるかわきみのり 24.すだゆたか 25.こやましげる 26.かつのえいこ 27.わしおじゅんこ

転校生 みやじまじゅんこ くろこうちたかひろ

※黒字は、亡くなっている友

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.325 ―――――――― 6 ――――――――――――

 

ヒント        黒板絵は一石二鳥

どうしたら子どもたちに、カメラを意識させずに写せるか。熊谷が最初にぶつかった壁だった。カメラを向けた瞬間、この時代の子どもたちは、逃げるか、顔を隠した。どうしても意識してしまう。熊谷は撮影方法に悩んだ。

新学期がはじまった、ある放課後、子どもたちが帰った教室に入ってみると、黒板に消し忘れた落書き絵があった。消そうと思ったとき、ひらめいた。そうだ、これを写そう!

次の日、「黒板に自由に絵を描いて、いいですよ」と告げた。

次の日、「黒板に自由に絵を描いて、いいですよ」と告げた。子どもたちは、大喜びで描き始めた。熊谷は、その様子と、描き上げた黒板絵を写真に撮った。黒板絵を撮るのは、いい発想だった。子どもたちも楽しめて、熊谷も子どもたちの自然な姿を撮れた。黒板絵は、まさに一石二鳥だった。

 

 

 

――――――――――――――――― 7――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235

 

創作ルポ  本文は、フィクションです。2017.1030 直しのぶん 校正と加筆

 

永遠の一年生

 

平成二十二年十一月六日、写真家・童画家の熊谷元一は、都下武蔵野にある老人施設で百一歳の生涯を閉じた。亡くなる前日まで見舞い客と元気にカメラの話をしていたという。

熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終えたあと夢を抱いて上京、清瀬市に

居を定めた。還暦からの出発だったが、清瀬では写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長として地域のために尽力した。故に訃報を知って大勢の清瀬市民が焼香に訪れた。名誉村民となっている故郷、阿智村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。他に出版社やマスメディアの人たち。そして写真作品の愛好者が多勢列席した。私もその一人だった。代表作『一年生』に魅せられて五〇年になる。

新聞で逝去されたことを知って、矢も盾もたまらず通夜に駆けつけた。大勢の弔問客のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。八十に近い歳だが、嘱託記者兼写真班として、いまでも地元紙に写真や記事を載せていた。彼はふだんは農業に従事していて、農作業のあいま、村中を回って話題や出来事を取材していた。熊谷の記事が載れば、いつも送ってくれた。私は、挨拶し話しかけた。

「幸福な人生だったですね。どのわらじもはききった」

私は、熊谷の履歴を振り返って言った。

熊谷は自分の人生を三足のわらじに例えていた。教師・写真家・童画家のそれである。

「そうですねえ・・・」

老記者は、ちょつと考えるように小首をひねってつぶやいた。何か否定的に思えた。

私は、疑問を感じてたずねた。「ちがうのですか」

「そうですね。みなさんがおもっているほど、らくな人生ではなかったですよ」

老記者は、そうだといわんばかりに言った。熊谷とは長年の付き合いで昵懇だった。それだけに熊谷のすべては承知している。そんな様子だった。

「楽な人生では、なかった?!」私は驚いてたずねた。「なにか、秘密があったんですか」

「いや、秘密なんてものはありません。村中のだれもが知っていることです」

老記者は、あっさり言った。

「わかりませんねえ」私は、少し苛立ってきいた。

「まあ昔の村の人でないと、わからないでしょうが」老記者は、お茶を濁すように言ってから、こうも言った。「とにかく熊谷先生の人生は、気苦労の多い人生でしたよ」

「そうですか…」

私は、言われてみるとなんとなくわかるような気がした。狭い村のなかで、村人の日常を写真に撮るということ。おもっているほど簡単ではないかもしれない。

戦場カメラマンは度胸と無謀一つだが、村人は根気と忍耐、理解と許容が必要だ。繊細の神経と、図太い神経の使いわけがなくてはできない仕事だ。

真面目さとユーモアーのある熊谷が、時折ふとみせた憂愁。同じ村人でありながら撮るものと撮られる者の差。その溝は、案外深かったかもしれない。退職後、一切合財を手放して住み慣れた故郷を後にしたのは、あながち絵の道を目指すためだけではなかったかも。

「とくに『一年生』は大変だったのではないでしょうか。でもいまごろは、解放されて、天国でほっとしていますよ」

そういって老記者は、笑みをみせた。

「あの『一年生』が、一番の心の負担だったのですか」

私は、驚き、不思議に思った。

学校での教え子たちを一年間撮った写真集『一年間』は、熊谷の代表作品だ。が、作品か

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ら伝わってくるのは、屈託ない子どもたちの学校生活と、微笑ましさだけだ。

あの『一年生』に、亡くならなければ安堵できないような、そんな問題があるのだろうか。いつも、ひょうひょうとして陽気に写真を撮っていた熊谷から、負の部分は想像できなかった。いったい熊谷は、『一年生』にどんなを気苦労を持っていたのだろう。熊谷の功なり名を遂げた百一歳の人生を振り返ってみた。

画家が夢だった熊谷は、偶然カメラを手にしたことで、写真の世界に目覚めた。28歳で朝日新聞社から写真集を出版、高い評価を得た。30歳で大東亜省の嘱託カメラマンとなり、国策として満州の開拓村を撮影した。戦後は、郷里で小学教師をやりながら村人の生活を写真に撮り、出版された写真集は、農村の記録写真として注目された。『農村の婦人』『かいこの村』などがそれである。そして写真の合間に描きつづけた童画は、失われていく山村文化の伝承と認められた。絵本『二ほんのかきのき』(福音館)は、百万部を超えるロン

グベストセラーとなっている。写真や童画作品の多くの作品が数々の賞に輝いた。これらをみれば、いったい楽な人生ではなかったなどと、だれが評せられるだろうか。三足のわらじを履いた人生だったが、創意工夫の教育を実現させた教師生活、記録写真の分野を確立した写真撮影、山村の子どもの遊びに心の故郷を思い起こさせる童画。どのわらじも立派に履き切った成功した人生だった。

なによりも『一年生』という金字塔が、絶対の成功者としての証となっている。

「そうですか、教師、写真家、童画家。どれも成功した人生にみえましたが。もっとも継続する苦労は大変だったでしょうが・・・」

「いや、精神的なことですよ」老新聞記者は、言った。

「精神的ですか?!」

「そうです。知っている人を撮るということは、或る意味で一番難しいんです」老記者は、言った。「新聞記事も同じですが」

「そうですか…」私は、曖昧に頷いた。そうした仕事内容のことは、門外漢なのでわかったようなわからないようなところがあった。が、それでも、自分の生まれ故郷の村人を撮ったり、入学したての教え子一年生を撮ることは、楽に思えた。

「村人は、いろんな人がいますから、何ですが…、写真について言えば、元一先生にとって、一年生は、一番つらい作品だったんではないですか」

「一番つらい作品?!『一年生』が、ですか」

私は、意味がわからず、オウム返しに言って、眉をひそめて老記者をみた。

「そうです、一年生は熊谷を写真家として不動なものにしました。が、人間熊谷を一番に苦しめもした作品です。それ故に撮りつづけたのです」

そう言って彼は、読経の流れる晩秋の闇をみつめた。遠くのあの日を思いだすように。

 

――――――――――――――――― 9――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235

 

【老記者の思い出】

 

あの日は、朝から残暑が厳しかった。私は、地方新聞の豆記者になったばかりだったが、大きな祝い事に連日、多忙を極めていた。大きな祝い事というのは、私が尊敬する小学校教師の熊谷元一先生が、どでかいことをやってくれたからだ。人口三千人足らずの信州の山村にとっても、それはもう開闢以来の名誉ある大事件だった。

先生は、教師をしながら写真を撮っていた。戦前、私がまだ子供だったとき、先生が撮った村の写真を、朝日新聞社が出版し、高い評価を得た。先生、若干二八歳のときである。それが縁で、大東亜省に写真班として勤務し、満州国の開拓村を撮り歩いたとも聞いた。戦後は、私なら東京で、大出を振って写真家としての道を歩いたが、先生はなぜか、その道を行かず、また元の木あみ、生まれ故郷に還られて小学校教師の職につかれた。将来は、東京でメディアの世界で活躍しようと思っていた私にとっては、不思議なかぎりだった。

高校をでると私は地元の新聞社に入社することができた。思い通りではなかったが、とにもかくにも新聞の仕事につくことができた。先生をお手本にしながら記者の仕事をこなしていた。が、信州の山奥の村である。たいした事件も出来事もなかった。十年一日のごとく過ぎる毎日だった。そんなとき、村にどでかい花火があがった。先生が撮った『一年生』の写真集が、並みいる有名写真家を差し押さえて日本一に選ばれたのだ。大新聞の一面ド真ん中に、熊谷元一の名前と顔写真が載った。

山奥の蚕の村は、上や下へと大騒ぎになった。どのようにして、この慶事を祝ったらよいのか、村長はじめ教育長、小中校長からPTA、郵便局長らが会議を開いた。その結果、授賞式のある九月十九日前に中学校の裁縫室で「一年生」の展覧会を行うことにした。

 

熊谷元一先生、第一回毎日文化賞受賞を祝って

 

祝・岩波写真文庫『一年生』写真展開催

 

1955年9月5日(月)~ 17日(土)

9月10日、17日(土)午後 11日(日)朝~夕まで一般公開

 

会場 会地中学校3階、裁縫室

 

中学校の裁縫室は、三階の端にあって、畳2百畳の大広間だった。月曜の長礼の校長先生の話は、裁縫室で正座して聴いた。私は、ずっと熊谷番として、先生の一挙手一投足を記事にしていた。そのことから、この展覧会も取材しながらの手伝いとなった。明日から子供たちに見せるということで、4日、日曜日、教職員、村の関係者などボランティアで展示作業をおこなうことになった。

残暑のなか、展示作業は順調にすすんでいた。開け放たれた窓から、熱風とプールで遊ぶ子供たちの歓声がとびこんできた。

「今日が最後のプールですから、大勢きてるだに」

「それに、今日は日曜だら。春日の方の子はみんなきてるだ」

二年前、昭和28年、「一年生」が入学した年の7月に桑谷小学校にル二五m×十三mのプールが完成した。中学と共用だったので、5分の1ほど水深が2mのところがあった。この時代、プールがある学校は、まだ珍しかった。

数人の手伝いの先生たちは、談笑しながら、西組担任の原房子先生の運んできた麦茶を美味しそうに飲んだ。会地村は、春日村と宿場町駒場村の合併で成っていた。春日は、広い稲田がある地域で、水路はあるが泳げるほどの川はなかった。山間にある宿場町駒場の下方には

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天竜川の支流阿知川が流れていた。曲がり角に淵があって、こどもたちにとってはかっこうの泳ぎ場所だった。アユや岩魚もとれた。それで駒場方面の子どもたちは、阿知川で泳ぐのがふつうだった。

「そろそろモーターが鳴りゃあせんかな」(昼を知らせるサイレン)

誰かが、言ったときだった。

プールの騒音が、ぴたりとやんだ。どのくらいの静寂がつづいたろうか。その静まりに何か胸騒ぎがした。

「なにかあったのかな」

若い先生が窓からのぞいた。

「休憩時間でしょう」

「うちは休憩なしですね」

「そういえば」

「すみません」熊谷は、律義に頭をさげた。

実をいえば、熊谷は、プールで遊ぶこどもたちを写真に撮りたかった。プールは二年前、「一年生」を撮ることになった年の七月に完成し、子どもたちは大喜びした。しかし、なぜか、意識したわけでもないのに、熊谷はプールで遊ぶ子どもたちの写真は撮ってなかった。『一年生』には一枚も収録されていない。川で遊ぶ子どもたちの写真は何枚もあるのに、不思議といえば不思議だった。展示作業が終わったら行くつもりだった。が、本当はいますぐ、子供たちが昼で帰ってしまわないうち行って撮りたい気持ちだった。

しかし、自分のために残暑のなか、展示作業してくれている皆さんのことを思うと、自分だけ写真を撮るために、この場を空けるということは、いいだしずらかったし、できなかった。

「昼までにやっちゃいましょうよ」

「この写真どうします。三連続の組写真ですが」

私は、パネルを受け取ろうとしてつかみそこねた。

「あっ」

写真は、畳の上に落ちた。思えば、それが悲劇を告げる前兆だったのかもしれなかった。

 

(写真は11頁、3枚組写真)

〈写真説明〉

「大丈夫?」

「しげこちゃんとひろふみくんだ。ごめん」

近くにいた原房子先生が拾いあげた。

このときなにかしら不吉な予感がした。カメラを気にすることなく遊びに興じている二人の写真に私は一瞬、視線をとめた。

 

計算練習の遊びをする写真だった。

仲良しの女の子と男の子が「さんすう」でおぼえた計算練習をしてあそんでいます。

「これ、わかる」

「どれ」

「三たす、五たす、四は」

「えーと、むずかしいな」

 

突然、プールの方から悲鳴のような怒号のような声があがった。なにかあった。みんな窓に行って身を乗り出してプールの方角をみた。

こどもたちが走ってくる。泣き顔だ。

「どうした、なにかあったんか」

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「たいへんだ!」

「たいへんだ!!」

子供たちは口々にそう叫んだ。それを聞くと裁縫室にいた先生たちは、脱兎のごとく飛びだしていった。私たちも、後につづいた。

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。出来事を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた人たちは、いっせいに飛び出して行った。一年生の写真だけが、畳の上に悲しげに散らばっていた。

プールの脇に黒山の人だかりができていた。

「こどもがおぼれた」

 

「一年生」受賞の喜びから一転、天国から地獄。悲しみと苦痛のどん底、決断を迫られた。受けるべきか辞退すべきか。地獄の選択の一週間を描く。

「ひろふみは永遠の一年生です」

我が子を失った母親の切なる願い。

針のむしろを覚悟で

昭和28年 会地小学校プール完成(25×13)

昭和30年 29年4月1日~30年3月31日までに出版されたもの

3月『一年生』出版

クレーム 予想したものだった。しかし、あとで思えば、不吉の前兆だった

7月29日~8月10日まで銀座松屋で「第一回候補展」

8月30日毎日新聞に選考経緯記事 受賞決定

 

9月3日 土曜日 熊谷の身辺、授賞式に向けて華やかさとにぎわい。

9月4日 日曜日 芦沢宏文君プールで水死 一緒に泳いでいた園原吉二君職員室で、熊谷先生から事故当時の様子を繰り返し聞かれる。騒然とした職員室の雰囲気、怖く恐ろしかったとの印象が残る。トラウマに。

9月6日葬式 周囲の無言の非難。胸中切り抜けることができた。郷里に帰って村民に疑念を抱かせることもできた。満州国撮影と同じ気持ちに。あのときは大東亜省を辞めることで行動が。しかし、今回は、

 

9月12日から会地小学校裁縫室で記念作品展開催

9月16日

9月19日写真賞受賞

10月23日 芦沢君49日

 

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ゼミⅡの記録

 

□9月25日(月)テキストサローヤン「空中ブランコに乗った大胆な青年」ゼミ合宿の話

□10月2日(月)テキスト志賀直哉『灰色の月』通夜の為、早引き。

□10月16日(月)テキスト『やまびこ学校』、『作家の日記』「継子殺人未遂」裁判の行方

□10月23日(月)台風20号直撃予報で休講。

□10月30日

 

・・・・・・・・・・・・・・掲示板・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

 

月 日  2017年12月9日(土)午後2時 ~ 4時45分

 

会 場  東京藝術劇場小会議室7 開場 午後1時

 

作 品  『悪霊』7回目

 

報告者  フリートーク

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」  第一回「働く」の初心に帰って

 

締切 2018年9月末日

 

最終審査 10月12日(金)

 

最終日審査会場  昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館

 

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熊谷元一賞コンクール20回記念写真展

 

□日時 平成30年5月29日~6月3日

□会場 JCフォトサロンクラブ25 東京・半蔵門

 

■参加費:1000円(学生無料)

 

 

 

 

 

課題 10月30日

『 テキスト 』の感想

 

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一日の記録

 

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