文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.83

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)7月 2日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.83
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
7・2下原ゼミ
7月 2日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(提出課題受付・・進行指名)
   ・ゼミ誌編集について(新しい提案があれば)
   ・ゼミ合宿担当委員から合宿先抽選結果の報告
 2.提出原稿の発表orテキスト草稿読み(完成作品との違いをみる)
 3.名作にみるレストラン店内観察作品(ヘミングウェイ作)
 4.連絡・配布・その他
 
 
 
今週のニュース
 過剰な平和主義者は、熱心な戦争扇動者でもある。完璧な平等社会は、完璧な階級社会を生む。歴史を振り返るとしばしばこんな相対一致現象がみられる。
 今週、26、27、28日と行われた、ある裁判における弁護団の記者会見ニュースをみていて、思ったのは、相反することの合致である。狂信的な死刑廃止論者たちの、なりふり構わぬ法廷作戦。そこから感じとれるのは、いっそうの死刑推進論である。弁護団は、死刑賛成者を増やしたいために稚拙な弁護を繰り返している。そのように見えるのである。
 1999年4月のある日、地方都市の団地内、作業着姿の少年が一人、小さな黒板を手に歩き回っていた。一見、団地内の水道工事会社の社員風だった。が、少年は、全く違う会社の社員で、この日は会社を休んでいた。少年は、先月高校を卒業したばかりだった。少年は、ある家のブザーを押し、水道工事検査と偽って室内に入った。家にいたのは若い母親(23)と11ヶ月になる女の子の赤ちゃんだった。少年は、いきなり母親を襲い、首を絞めて殺害。泣き出した赤ちゃんを紐で絞め殺した。その後、母親の遺体を強姦し逃走した。到底、許される犯行ではない。極刑は当然である。が、仮に百歩譲ってこの残忍な犯行に微細でも情状が加えられるとしたら、若い欲望の暴走への後悔と、どんな刑でも受け容れる改悛の気持だろう。ところが、こともあろうに弁護団は荒唐無稽な弁解を示唆した。母親を襲ったのは、「甘えたかった」遺体を強姦したのは「『魔界転生』を読んだから」遺体を押入れに隠したのは「ドラえもんがなんとかしてくれると思った」驚いたことに、こられを証明するのに精神医学の教授が「母体回帰」と真顔で答えていた。肉屋の専門家が偽肉を売り、公安の元トップが詐欺を働く。どこかの市では学歴詐称が965人もいた。いまこの国は、専門家といわれる人たちが怪しい。私利私欲で専門知識を悪用している。日本の闇は深い。
(土壌館)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.83 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
宗教学者島田裕巳氏の話を聴く(山下ゼミ)
  
 25日、3時限目の山下ゼミで著名な宗教学者・島田裕己氏の講演があった。演題は、事前にポスターでも宣伝されていた「宗教学者が読む『坊ちゃん』」である。
 本通信でも紹介したが、先ごろ、山下聖美先生は『100年の坊ちゃん』(D文学研究)を出版された。今回のゲスト講演は、その上梓に寄せてのもの。島田氏が、最初にメディアに登場したのは、オウムが社会問題になった頃と記憶している。サリン事件や弁護士一家殺害事件などの凶悪犯罪が明らかになる以前。関心は山岸会からと聞いたことがある。それだけに出版物は多く、最近では『創価学会』(新潮新書)、『公明党VS創価学会』(新書)などがある。この宗教学者が『坊ちゃん』をどう読むのか。そもそも『坊ちゃん』と宗教とは結びつくのか。そんな興味から、飛び入りで聴かせていただいた。ちなみに氏は、山下先生が学生時代(日本女子大)授業を受けた恩師でもある。また、現在演劇プロデューサーをしておられる兄姉の方が日芸出身者ということで日芸に縁は深いと挨拶された。
 漱石については、祖父が学んだことがあり、『坊ちゃん』の舞台となった愛媛・松山は、母方の出身地だという。私事でも不思議な因縁と感嘆されていた。しかし、そうした縁とは別に夏目文学への思いは薄く「未だ松山には行ったことがない」と苦笑されていた。が、氏の漱石評は明快であった。今日、100年を過ぎてなお読みつづけられている夏目文学の底力に感嘆しながらも、流行新聞作家の狡猾さと手腕を指摘された。森?外、樋口一葉、芥川龍之介、島崎藤村ら明治の大作家たちの作品は、年々読まれなくなっている。が、漱石作品は、そのほとんどが今も新刊となって書店の棚に並んでいる。この驚嘆すべき生命力は何か。氏は、その謎解きとして、一つに国民の漱石信仰にあるとした。かつて(ブリタニカの百科事典が流行った時代か)夏目漱石全集は、家庭の教養度を測るバロメーターだった。漱石全集が、本棚にあるかないかでその家の品格をみたらしい。故に読む、読まないに関わらず、どの家も競って、『家庭の医学』を置くように、漱石全集を揃えた。なかには門前の小僧もいたと、全集の栞を紹介された。「日本人にとって聖書」まさに宗教学者の言といえる評。二つ目は、会場で山下先生も指摘されたが文体にあるという。他の作家たちは古文から抜けきっていないが、漱石作品は、常に現代文学であり続けている。三つ目は、作品の内容という。漱石の作品には一体何が書かれてあるのか。思想でも哲学でもない。不倫、三角関係が主な筋立て。男女の愛憎劇は人類普遍のテーマである。今日、渡辺淳一がそれで流行作家となった。夏目漱石は現代の渡辺淳一である。大胆な見方だが、大いに頷けるところもある。日経というお堅い新聞に連載された官能小説をビジネスマンたちが、密かに隠れ読みしたように、明治という国家高揚の時代、読者は禁断の愛に一喜一憂した。これらの要因が、漱石文学を普遍不動のものとしている。宗教学的見地からみてもイニシェーションがしっかりできているとのこと。そのへんのところは、映画『ダイハード』や『ローマの休日』を例にあげてわかり易く解説された。もっとも、唯一『坊ちゃん』は、「発想が逆転」で、この通過儀礼が当てはまらないらしい。主人公の坊ちゃんには、試練に耐えての希望的再合がなく、嫌ならすぐに逃げ帰る自己中心的と辛らつだ。「末つ子文学の典型」とのこと。
 最後に、「変わらない人」という表現で『坊ちゃん』を評した。それは「損なわれた人」となりホリエモンや村上春樹文学にも繋がっていくという。そんなところから現在、氏は、宗教学的見地から世界のプチブルジュアが好む村上春樹文学に注目しているという。
 氏の『坊ちゃん』読みは、文学作品として高く評価しながらも、主人公の坊ちゃんには手厳しい。作者漱石においても、同様の見方をされていた。人間漱石に対する懐疑である。百年過ぎても変わらぬ作品はすばらしい。が、作者漱石は、いったいどんな人間だったのか。その疑問は、そのまま宗教にも繋がっている。オウムがいまも続いているのは、(信者にとって)教義の崇高さにある。が、教祖麻原は欺瞞に満ちている。宗教学者が読む『坊ちゃん』は、その矛盾の壁があるらしい・・・。         (土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
7・2ゼミ
以下の手順で進めてください。
1.「2007年、読書と創作の旅」
・提出課題の受付。書いてある人は提出してください。
・出欠確認、ゼミ担当者から。(お知らせがあれば)
・本日の司会進行指名。声や体の調子の悪い人は、無理しないで申し出てください。次回に
 お願いします。
 ※司会進行の目的は、全体を見る目と指導性・公平力を培います。各人の個性を尊重しながら、常に客観性をもって仕切ってください。
【協議事項】
(一)ゼミ合宿担当委員(疋田さん)からゼミ合宿申請の抽選結果報告
(二)ゼミ誌について、新案など何かあれば
2. 提出原稿発表
(一)提出原稿発表
 【車内観察】、疋田祥子さん「今を楽しく」 茂木愛由未さん「子泣きじじい?」
 【一日を記憶する】、
3. テキスト比較
 先週25日のゼミで、テキスト『網走まで』と同時期に書かれた夏目漱石の『三四郎』の車中部分を読んでもらいました。この作品は、『網走まで』とは、すべてが反対です。文面の一部を拾ってもこれだけ違う。
          『網走まで』              『三四郎』
○列車の行先
 (女の客)→ 「青森」から青函連絡船で「網走」   名古屋で一泊して「四日市の方」
 (主人公)→ 東京から宇都宮の友人。日光に行く。 熊本から東京
○目的 
 (女の客)→  不明。              故郷に帰る。子供を預けている。
  (私) → 日光に遊興に。           大学生になる。
提議 性格はどうでしょう。話し合ってみてください。
 1. 私と三四郎。2.子連れの母親と子供のところに向かう母親。
 
4.テキスト草稿読み
 先に完成作品の『網走まで』を読みました。草稿には、作者や主人公の思いが書かれています。が、完成作品は、かなり整理されています。そこに作者の文学的才能があります。どこがどう直され、削除されているのか注意しながら読んでください。
5.名作紹介・レストラン店内観察作品
 先日、疋田さんが店内観察を発表しました。世界の名作の店内観察物語はどうでしょう。
ある小さな町のレストラン。いつものように・・・だがこの日は違った。
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2007年、読書と創作の旅・提出原稿
提出原稿発表
車内観察
今が幸せならば・・・
疋田祥子
 ある木曜日の夕方。がら空きの電車内で、塾通いらしき三人の小学生と一緒になった。体の大きさからして小学四年生くらいだろう。現在の中学受験戦争に詳しくない私でも、いよいよ本腰を入れて勉強するころなのだろうとわかる。早くも過酷な現代日本の競争社会に巻き込まれた彼女らをみていると、なんだか苦労している分、年齢よりも大人っぽくみえる。私は受験戦争に躍起になっている社会を決して肯定はしないが、頑張っている子供は応援したくなる。だから「今日もがんばれよー!」とのんきに心の中で応援していた。
 電車の中の彼女らは、別段疲れているふうでもなく、ふざけてはクスクスと笑いあっていた。人気キャラクターのリックサック、丸っこいメガネ、細い細い手足。勉強して、勉強して、就職して、出世して。みんなきっと立派になっていくのだろう。私は彼女らの人生コースを想像してみた。
 そのとき、彼女らが偶然私の方へ近づいてきた。リックサックから出したガムをわけあって食べていた彼女からは、甘い、子ども用のガムの匂いがした。「ああまだ本当に子どもなんだなぁ」なんだか改めてそう気づいた私は、彼女らの今が幸せであるように、それだけを願ってみた。
□この観察は、短いですが車内観察と子どもたちの人生における幸福度観察がされています。車内の塾通いらしい子どもたち。受験戦争に、ちょっぴり批判的な作者だが、健気な子どもたちに同情しながら応援する。そうして子どもたちの未来に思いを馳せるが、子どもガムの匂いに翻然、今が幸せなら、と願う。一つの観察から、結論は違った観察へ。ショートもの、コントものができていくといいですね。作者は、ゴビ砂漠に入ったり自転車で旅したりとかで普段は、冒険野郎風にもみえますが、本当は繊細な性格だったんですね。
座席指定
 所沢から池袋まで、ときどき特急に乗車することがある。特急券だけだから安心して座席に座っていられる。が、たまに乗る新幹線や「あずさ」は、座席指定だから発車するまで安心はできない。かなり昔になるが、こんな出来事があったからである。
 団体さまで箱根温泉に旅行したときのことである。新宿から小田急線のロマンスカーに乗った。十数人で、皆顔見知りの人たちだった。私が切符を買った。子供もいたので、進行方向がよく見える最前列の座席周辺をとった。全員が座ったのを確認した。大人たちはビールのふたを開け、楽しい旅行がはじまろうとしていた。そのとき、発車間際に飛び乗ったのか、後方からあわてた様子でやってくる紳士がいた。席は全部埋まっている。トイレは後方にある。なんだろう、と怪訝に思っていると、紳士は、一番前までやってきた。そうして空席がないのを確かめると、にわかに厳しい顔になって、ポケットから乗車券を出して確認してから押さえた声で、1号車A1番の席の客、子供だったが
「ぼく、そこの席、どいてくれる。おじさんの席だよ」と言った。
 私は、びっくりして大慌てで鞄から全員の切符を取り出した。紳士は、子供を押しのけて、もう座っている。子供は半べそをかいて立っている。親が気がついてやってきた。ロマンスカーは走り出した。
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2007年、読書と創作の旅・提出原稿発表
小泣きじじい?(子泣き爺)
茂木愛由未
 
 電車の暖かい振動に誘われて、隣に座っている女の人がうとうととし始めた。そして五分も経たないうちに、隣の人は心地よい眠りの中へ入っていったようだ。私はと言うと、なぜか目が冴えてしまって眠れなかったので、音楽を聴きながらただボーっとしていた。
 明日のお昼は何を食べようかな?なんて考えていると、腕に重くのしかかるものを感じた。隣の人が私に寄りかかって眠っていたのだ。こういうことはよくある。私は座り直すふりをして、隣の人の頭をよけてみた。隣の人は、一瞬目を覚まして姿勢を正し、頭を真っすぐにするが、またしばらくすると、私の腕には重みがのしかかってきた。
 寝ている人に罪はない。
 そう思い、そのままにしておくことにした。さっきの続きで、明日のお昼についてボーっと考える。パン、カレー、ハヤシライス、おにぎり、カップラーメン。あとは・・・。楽しい思考は続けられなかった。
 腕が半端なく重い。
 駅を一駅、また一駅と越えていくにつれて、この隣の人はどんどん重たくなっていく。も
う耐えられないと思った時、電車は私の下車する駅の一つ手前に停まった。あと少しの辛抱だと思い、そのままそこに座ることにした。
 次の駅に電車が着いて、私が勢いよく立ち上がったら、この人はそのままイスに倒れるんじゃないかな。
 私は腕に重みを感じながら、一つの考えを思いついた。次の駅に着いたその瞬間に、素早く立ち上がって、隣の人をイスにそのまま倒れさせてしまうという、地味な復讐だ。しかし、この地味な復讐を思いついたことによって、腕の重みが気にならなくなり、立ち上がった時の様子を想像して楽しくなった。電車はだんだんとスピードを落とし始め、ついに私の降りる駅へ到着した。
 いよいよ実行に移す時がきた!
 口から笑みがこぼれそうなのを我慢して、そっと立ち上がる。私は素早く振り向いて、待ちに待ったその映像をこの目にしっかり焼きつけようとした。しかし、女の人は倒れるどころか、しっかり目を開き今までもそうしていたかのように、そこに真っすぐ座っていた。ぐっすり眠ってスッキリしているようにもみえた。悔しい思いを抱きながら階段をのぼっていると、腕の重みは肩のコリに変わっていた。
□電車での居眠り。たいていの人が経験します。自分のときは、このままどこまでも乗って行きたいほど心地よいけど、隣の人だと迷惑このうえもない。ちょっぴり意地悪もしたくなる。そんな思いがよく書けています。また、たいがいの男性は、寄りかかってくる乗客が若い女性だったりすると、いつまでも枕がわりになっていたいものです。勝手なものですね。
 題名「小泣きじじい?」とありますが、もしかしてゲゲゲの鬼太郎の「子泣き爺」かな?作者水木しげるによると、徳島県の山中に棲息していて赤ん坊のような泣き声をだし、相手にしがみつくと石のように重くなる、との話。マンガでは、いつも砂かけ婆と一緒にいる。電車で、急に重くなったとき一瞬、不気味な気持になります。もし「子泣き爺」だとしたら、電車で作者が感じたのがそれだったのかも知れませんね。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83―――――――― 6 ――――――――――――――――
6・25ゼミ報告
 6月25日(月)、は4名の出席でした。山根君は、病欠とか。心配です。
参加者 : 疋田祥子 髙橋亨平 茂木愛由未 金野幸裕
司会・進行:今野幸裕君(1)
1.ゼミ雑誌編集についての確認。
 サイズ、内容、仮題、などが話し合われた。
 ・サイズ → A5判 雑誌形式
 ・内容  → 車内観察作品「一本化の方がまとまった感じがする」
 ・仮題  → 「世界の車窓から」他
 ・印刷  →  髙橋君の知っている会社「コーシン出版」
2.ゼミ合宿申請報告・疋田祥子さん
 ・第一希望 → 8月4日(土)~5日(日)軽井沢
 ・第二希望 → 8月4日(土)~5日(日)塩原
 
  7月2日に抽選結果を報告します。
3.提出原稿の発表 なし
4..テキスト『網走まで』感想
  連載「学生と読む志賀直哉の車中作品」参照。
5.車内観察作品の観察。テキスト『夫婦』
  連載「学生と読む志賀直哉の車中作品」参照。
6.車内作品比較。夏目漱石の『三四郎』を読む。
  東京に向かう小川三四郎(23)が体験する車内の出来事。
  連載「学生と読む志賀直哉の車中作品」参照。
7.名作紹介。詩篇1作を吟唱。
  フランスを代表する詩人人ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)の詩集『無言の恋 
  歌』の「忘れた小曲 その七」。後日、他の詩「沈む日」「秋の歌」も紹介します。
 
 ※ヴェルレーヌの詩を、もっと読みたくなったら
  新潮文庫『ヴェルレーヌ詩集』堀口大学訳
8.提出原稿
  提出 → 車内観察2本(茂木さん、疋田さん)
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2007年、読書と創作の旅・旅記録
連載5 (加筆、訂正しながらの連載)
学生と読む志賀直哉の車中作品
はじめに
 
 「小説の神様」志賀直哉は、多くの車中作品を書いた。想像で書いた作品もあるが、見たことをそのままを描いた作品もある。全体的にみれば、志賀直哉の作品は、長編、中編を含め、時間という列車に乗り合わせた人々の観察作品といえる。が、本論においては、実際の電車の車内、もしくは車外に関係した作品を対象にした。取り上げる主な作品は『網走まで』から『正義派』『出来事』『灰色の月』などである。いずれも短篇である。
 本論は作品論というより、車中作品を検証・考察することによって「小説の神様」ではなく人間志賀直哉の本質に迫ることを目的とするものである。
第一章『網走まで』を読む
その一 「菜の花と小娘」について
 車中観察『網走まで』を読む前に、志賀直哉が文字通り最初に書いた作品「菜の花と小娘」について検証したい。或る意味で、この作品も車中作品の一つといえなくもないからである。
 「菜の花と小娘」は、「網走まで」「或る朝」と合わせて、いわゆる三つの処女作といわれている。小説家は、常に創意工夫だが、最初から小説家を目指した志賀直哉の作品は、その創意工夫がより強く現れている。志賀直哉の、創意工夫は観察したものへの自身の投影と想像である。まず事物をしっかり観察する。それに自分の気持を重ねる。そうして空想によって作品を完成させる。この処女作三篇のうち、一番早く書き、一番遅くに発表された『菜の花と小娘」は、この手法の手本のような作品である。菜の花をじっくり眺めて、自分の気持を入れ、空想によって完成させた作品。
 志賀直哉が十八歳ころからはじまった父直温(なおはる)との不和は周知の事実だが、この父が総武鉄道会社に入ったころから、直哉は度々、千葉県鹿野山に遊びに行くようになる。標高353㍍の広い山頂からの展望は最高で、現在、この地はマザー牧場として観光名所になっている。花と緑と動物が観光の中心。季節ごとに様々な花祭がある。とくに菜の花と桜が名物。このことから当時も菜の花の名所だったと推測する。麓の村や谷間の畑一面に咲きほこる黄色のじゅうたん。毎年、春に遊行したというから、志賀直哉は、よほど菜の花の咲く風景をみるのが気に入っていたに違いない。春の晴れた日、鹿野山の斜面の草萌える土手で、一人菜の花に見入る多感な若者の姿を想像できる。そんなところから明治37年(1904)5月5日に、「アンデルセン張りの作文『菜の花』を書く」としたのかも知れない。作文『菜の花』が小説『菜の花と小娘』になった経緯について、全集の後記には、このように記されている。
 ・・・従って作文『菜の花』が、二年ののち、鹿野山で書かれた『花ちゃん』にど程度類似していたかはいまのところ判定しがていが、ともかく「菜の花と小娘」完成までに、作文「菜の花」→草稿「花ちゃん」→童話「菜の花と小娘」というプロセスがあったことが確認でき、「花ちゃん」が、「菜の花と小娘」にもっとも近い草稿と考えることができる。
 小説「菜の花と小娘」は、枯れ枝を拾いに山に行った小娘が、一本だけ咲いている菜の花を見つけ、可哀そうにおもい、小川という乗り物に乗せて、大勢仲間がいる麓の菜の花畑まで話をしながら連れてくる、という寓話的というか擬人化作品である。
 この作品をテキスト読みした学生たちの感想は、どのようなものであったろうか。
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その二 ゼミ学生の感想
 『菜の花と小娘』を疋田祥子さん、茂木愛由未さん、山根裕作さん、高橋亨平さん、金野幸裕さで朗読した。彼らの感想はこのようであった。
・菜の花とストーリーがかみあっている。風景がよくわかる。
・電車の中の雰囲気に似ている。
・母と娘のような会話。
・たくましい小娘とナイーブな菜の花。菜の花の横柄さにもムカつかない。
・全体的に明るい雰囲気が漂う作品。
 などなど、色々な感想がありました。全体的に、小娘のやさしさ。つまり作者志賀直哉のやさしさを感じたとの思いが多かった。「作品に明るさがある」も皆の一致した印象でした。
 この作品は、作者の観察と、思い入れ、そして空想力で書かれた作品である。が、作者志賀直哉は、なぜこんな作品を書いたのか。菜の花を見ていたら、自然、こんな話が浮かんできたとは思えない。この作品を書いたときの作者の心情を検証してみることにする。
その三 作者はなぜ『菜の花と小娘』を書いたのか
 菜の花は、清楚な黄色から明るいイメージがある。そして、その明るさは、愛とか秘密とかいった男女のことより家庭を彷彿させる明るさである。つまり菜の花は、家庭、イコール母を思い出させる花である。多感な青春期に鹿野山の山すそ一面に咲く菜の花を見て、志賀直哉が母を思い出さなかったと、誰が否定できよう。志賀直哉は明治28年(1895)12歳の夏、母を亡くしている。母・銀は享年33歳だった。直哉少年のショックはいかばかりだったか。家庭内観察をつづけてきた志賀直哉だが、亡き母のことを書いたのは、17年も後のことである。明治45年(1912)に「母の死と新しい母」を、大正6年(1917)に「母の死と足袋の記憶」を書いている。歳月の長さが、直哉の悲しみの深さをあらわしている。
 直哉少年が、はじめて鹿野山の菜の花畑をみたのは、明治35年前後だという。年齢にして18、9の頃である。このころ、ただでさえ傷つきやすい少年の心を傷つける出来事が起こっている。明治34年は、日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒問題が大きく報じられた年である。この問題に関して7月に神田の青年會館で内村鑑三らが演説した。聴講した直哉少年は、大いに憤慨し、友人らと鉱毒地視察を計画した。が、父の反対にあい断念する。後年、軍や行政の不正を憎む志賀直哉の正義感はこのころから根づいたと思える。このことが元で父との不和がつづく。
 傷ついた少年の心を癒したのは、鹿野山に咲く菜の花だった。少年は、「菜の花」という作文を書くことで、母を思い、父との不和を忘れようとした。だが、直哉少年の身に降りかかる不条理が、この作文を、書き物から文学へ、そして名作へと変えていくのである。
 明治39年春、23歳の直哉は一人で鹿野山に上り菜の花を眺めながら10日ほど過ごす。この年は7月に学習院高等科を卒業し、9月には東京帝国大学文科大学英文学科に入学していることから、比較的平和な順調な時期といえる。だが、直哉の心のなかは、矛盾と不条理への怒りが渦巻いていた。その思いが作文「菜の花」を物語「花ちゃん」に変えた。
 23、4歳の頃である。青年志賀直哉の心の中で渦巻く人間社会への怒りとは何か。直哉は恋をした。この頃の日記にも登場するが、相手は女中のCであった。叶わぬ恋であった。島崎藤村の『破壊』を読みながら、この世の不条理を受け容れるしかなかった。父、祖母、義母の猛烈な反対。直哉は、千葉県小見川にあるCの実家を何度も訪ねたが、結局のところ結婚は断念するほかはなかった。
               次回に加筆
次回に解説
テキストとして『網走まで』をとりあげているが、『夫婦』は完璧な車中観察。
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テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。乗客観察のお手本。
         夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いた。
次回へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83――――――――10 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・名作紹介の旅
レストラン観察(車中観察できたえた目を店内観察に向けてみる)
 
アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)
『殺し屋』
 ヘミングウェイは、デビュー作となった『日はまた昇る』や映画化でも人気がでた『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などが有名だが、自身の少年、青春時代を描いた短編も捨てがたい。そのなかにあって『殺し屋』は、世界文学線上にあっても名作。まさに20世紀の短編小説を代表する作品です。無駄のない簡潔な文体は、現代文学の手本ともいえます。こんな文体を身につけたい・・・そんな思いで若い頃、原稿用紙にヘミングウェイの作品を繰り返し写し取ったことを懐かしく思い出します。訳者の大久保康雄は、あとがきで、この作品についてこう紹介しています。
 『殺し屋』は、ヘミングウェイがつくりあげた小説技法の見本のような作品である。ヘミングウェイはここで、余分な描写や説明をいっさい払いのけて、設定された状況に読者を直接対面せしめるという彼独自のスタイルを、ほとんど純粋なかたちで示している。ヘミングウェイ・スタイルの裸形というべきものが、ここにはある。
 舞台がどこの町であり、登場人物がどんな性格をもっているのか、ここで提出される事件に到達されるまでにどのような過去があったのか、そういう説明は何ひとつなされていない。それでいて、描かれた場面の張りつめた緊張感が、異様なするどさで読むものの心に迫ってくるのである。
 文章の簡潔さということが果たしている大きな役割の一つは、いうまでもなく、描写や説明を極度にまで切りつめることによって、ある一つの特殊な状況を、そのまま普遍的な意味にまで高めていることである。この『殺し屋』にしても、もし登場人物の経歴や性格を示すために多くの説明がなされたとしたら、これらの人物は、普通の小説的意味では、それだけ具象的なリアリティを濃くするかもしれないが、この事件全体を、ただの特殊な一事件―たんなるギャングの内輪もめ程度のものとしてしまったであろう。こういう簡潔化は、しばしば日常的な事物に象徴的な意味を付与するものなのである。ヘミングウェイの新聞記者時代の先輩ライオネル・ロイーズが、この作品を評して、「対話と行動の最小限の描写だけの純粋な客観性の一例だ」と言っているが、まことにそのとおりといわなければならない。
 物語の筋は簡単である。ニックは小さな町の簡易食堂で働いている。ある夕方、二人の男がやってくる。二人は殺し屋で、だれかに頼まれて、この町に身をひそめているスウェーデン人の拳闘家アンドルソンを殺しにきたのだ。アンドルソンは、いつも六時にはこの食堂にきて食事をとる習慣なのだ。しかし、この日は六時になっても彼は姿を見せない。七時になった。それでもこない。二人の殺し屋はとうとうあきらめて帰ってゆ
く。二人が立ち去ると、ニックは、危険を知らせるためにアンドルソンが泊まっている下宿屋へ駆けつける。拳闘家は、服を着たまま部屋のベッドに横になっている。ニックが殺し屋の話をしても、ただ壁を見つめたまま黙っている。警察に知らせようかと言っても、いや、どうにもしょうがないんだ、と言って、そのまま壁を見ているだけだ。この壁は無力な絶望感を象徴しているものと思われる。押しても、叩いてもどうにもしょうがない壁だ。
 ニックとアンドルソンとのあいだにかわされる平凡な会話も、社会の表裏を経験してきた人間の絶望と、社会に足を踏み入れたばかりの恐れを知らぬ若者の勇気を対比させることによって、二つの世代の相違を巧みに暗示しているのである。ニックは、ここで
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はじめて殺し屋たちの暴力の世界と拳闘家の絶望の世界に接触し、しだいに社会悪への目を開いてゆく。 新潮文庫『ヘミングウェイ短編集(一)』訳者「あとがき」より
 この作品は一九三十年前後、ヘミングウェイ三十歳前後に書かれた。アメリカの三十年代といえば何か。禁酒法(1920-1933)でギャングが横行した時代である。映画『アンタッチャブル』にみる無法時代。ギャングに狙われたら、もうどうしょうもない。警察など当てにならない。この作品から若きヘミングウェイの怒りが伝わってくる。
 ギャング達は新移民と呼ばれる人達の子供達が多かったそうです。その代表的なのがイタリアからの移民の子のアル・カポネです。彼の残した言葉としてこんなのがあります。
 『私は市民が望むものを供給することで、金を稼いだだけだ。もし、私が法律を破っているというのなら、顧客である多くの善良なシカゴ市民も、私と同様に有罪だ。』 HP検索
話題  読売新聞2007・6・27 水曜日夕刊
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83――――――――12 ―――――――――――――――――
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  高橋亨平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 6月25日(月)までの現段階は 
  済み【①ゼミ誌発行申請書】を提出した。提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。題名など。
  仮題「世界の車窓」、内容は車内観察、サイズA5版、印刷会社はコーシン出版に内定。
4. 7月下旬、夏休み前、編集委員は、原稿依頼し、締め切りを決める。
5. 9月末 夏休み明け、編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出しても
  らう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
ゼミ合宿について
ゼミ合宿担当委員:疋田祥子さん(ですが、皆さんで協力して、楽しく有意義な合宿にしま
しょう!)合宿ゼミ授業の計画予定は
○健康の為に自彊術(戦前の体操)をする。参加者は、体操のできる服装で。
○合宿授業は、マラソン読書(中編書簡小説読破)に挑戦。
 「読みはじめたら止まらない」それは真実か?!
 世界最高峰の文学作品は『カラマーゾフ』なら世界一面白い作品は『貧しき人々』。嘘か
 真か読んでみなければわからない。その謎に夏の夜を徹して挑戦します。
 根性入れて読みましょう。はたして君は何ページまでもつか?
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2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇習作
連載4
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室
■主な登場人物
 
西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督
 中島教一郎・・・・大和大学助教授
 高木 健二・・・・五井物産社員
 柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師
 沢田 浩・・・・・ヒロシ。フリーカメラマン志望の若者
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
 タオ・・・・・・・ヤマ族の長老
 シナタ・・・・・・長老の甥 
 ボト・・・・・・・ヤマ族の族長
 ユン・・・・・・・ヤマ族の女性 
ニホン・・・・・・ユンと柳沢の子
 オシム・・・・・・ヤマ族の若頭
  ビバット・・・・・ソクヘンの従兄弟
  チャット・・・・・ヤマ族の若者
【前号までのあらすじ】1960年3月。大和大学「アジア研究会」の一行五人は、日本民族の源流を探してインドシナ西北部の大密林山岳地帯の少数民族ヤマ族の集落を訪ねた。集落はカンボジア領にあったが、カンボジア政府が鎖国していたため、タイ国境から、密林を通って行った。彼らは一ヶ月、滞在して再び、密林を通ってタイ国境ルートで帰国した。
 1970年6月のある日、大和大学に東南アジア人の若者が訪ねてきた。手に「アジア研究会」の探検隊五人とヤマ族の人たちが写った写真を持っていた。差出人は、大和大学「アジア研究会」と書かれていた。10年前、帰国した彼らが送った記念写真だった。若者は、大学で教鞭をとっていた副隊長の中島教一郎に、部族をタイ国境まで案内して欲しいと頼みに来たのだ。10年前、別れる日、何かあったら必ず来ると約束した。その約束はただの約束ではなかった。ヤマ族の長老が尊敬するサムライの約束、キンチョウを交わしたのだ。しかし、探検隊にとっては、真剣なものではなかった。日本人同士が交わす「何かあったら、お知らせください」程度の社交辞令に等しかった。日本ではキンチョウ自体知る人も少なかった。中島は、急いで10年前の仲間に集ってもらった。が、10年一昔。いまや社会にでて第一線で働く彼らに、キンチョウは遠い昔だった。だが、ヤマ族の若者ソクヘンには、彼らを雨季が終わるまでに連れて帰らねばならない理由があった。密林を支配する赤い悪魔クメール・ルージュに反抗したのだ。雨季が明けるまでに、インドシナ奥地に逃げなければならなかった。さもなければ部族皆殺しの運命にあった。キンチョウを渋る彼らにソクヘンは不安と疲れで風邪を引き寝込んでしまった。助けたのは航空機疑惑を追うフリーカメラマンの若者ヒロシだった。ヒロシは盗撮ネガと引き換えに、自分も密林ガイド一員に加えてもらうことを迫る。大学病院勤務の柳沢は、まったくその気はなかったが、自分の子、ニホンがいることを知って動揺する。リミットは20日。彼らは羽田に集ることができるのか。
※習作の為、登場人物などの名称が変更されている場合もあります。
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第三章 クメール共和国
一 密林の空港
 大和大学「アジア研究会」の元探検隊の一行は香港でフランス機に乗り換えるとサイゴンでプロペラ機に乗り換えた。そして、三月の政変で、クメール共和国となった新生国家に向かった。眼下にどこまでも緑のじゅうたんメコンデルタがひろがっている。ところどころに見える赤土は、今現在も繰り広げられている米軍との激しい戦いの傷跡か。
 またふたたびインドシナに来た。皆の胸は緊張となつかしさで高鳴った。にわかに空一面が黒雲で覆われた。遠く地平の果てに稲光が走った。大粒の雨が機体を打ち始めた。もうすぐポーチェントムの空港に着くとのアナウス。だが、薄暗い地上には空港らしきものはなかった。ヤシ林と潅木がつづく原野である。機体は大きく高度を下げると、その原野のなかに下降していった。彼らは思わず「わー!」と。喚声をあげた。
「うそだろ!こんなところに空港、あるのかよ?!」
飛行機には慣れているはずの高木も、驚いた声をだした。
 ガタンと機体が揺れ、着地した。滑走路らしきものはあるようだ。が、打ちつける雨粒で窓外はほとんど見えなかった。機体が止まり、ドアが開けられた。まるで夜のように暗かった。激しい雨と暗さで視界がきかなかったが、どうやら学校の校庭ほどのちっぽけな空港だった。周囲はヤシか何の林のようだった。あちこちに水たまりができていた。舗装もしてないようだ。送迎バスもない。皆は、降りるのをためらってたたずんだ。
「おどけたな。これが空港かよ」
高木は笑いだした。
 赤土が見える向こうに貧弱な管制塔と思われる建物がぽつんと建つていた。ヘッドライトをつけた車がこちらに向かっている。送迎バスか。
「ここがプノンペンですか」
中島恭一郎は、ひとりごちるように聞いた。
「違います」
ソクヘンは、即座に首を振って言った。「ここはポーチェン・トムです」
「ポーチェン、・・・?」
「トムです。プノンペンの郊外の町です」
「ああ、そういうこと。で、ここが、つまり羽田ということか」
 ヘッドライトの車は、軍の幌つきトラックだった。十数名の乗客は、足早に降りてトラックの荷台にのりこんだ。これが送迎バス代わりらしかった。
「何だよ、ひでえもんだな」西崎は大声で言って飛び乗った。皆もあとにつづいた。
 雨が滝のように降っていた。七人は、トラックが止まると急いで空港の建物に駆け込んだ。大勢の兵士が、雨宿りしていて、彼らをみると一斉に
「クメール共和国、バンザイ!」
と叫んで出迎えた。
 ふざけているのか、どうかわからなかった。海外出張の多い高木は、軽く手を振って挨拶した。が、西崎たちは、十年ぶりの外国とあって、少し緊張気味だった。ヒロシ佑は、はじめて見る異国人、それも大勢の浅黒い兵隊の歓迎に、驚きながらも薄気味悪さを感じた。鳥肌が立った。建物には、兵士の他に大勢の民間人もいた。女や子供が多かった。彼らは、皆、大きな荷物をいくつも持っていた。旅行者には見えなかった。
「この人たちは?}
中島は、ソクヘンに聞いた。
「避難民のようだぜ」高木が言った。
「避難民?!」
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「このあたりの人たちです。プノンペンに行くのでしょう。バスが通るから」
ソクヘンは答えた。が、何か奥歯にものの挟まったような言い方だった。
「なぜ、荷物を持ってるのか」
「市場で売るものです。プノンペンに行く農民、いつも荷物、多いんです」ソクヘンは、上の空で答えながら人を探していた。香港で、国際電話をかけた相手らしい。「あっ、いました。彼です、リーさんです」ソクヘンは手を振った。
 人混みから白髪の背の高い男が現れた。
「いらっしゃい」流暢な日本語で挨拶した。
「私たち山岳民族が、日用雑貨で世話になっているリーさんです」ソクヘンは、紹介した。「リーさんには日本に行くとき世話になりましたが、こんども途中まで世話になります」
「よろしく」
西崎は、手をのばして握手した。
「空港の雑貨、こんどわたしの店が全部、引き受けることになったよ」
リー・センは、自慢げにソクヘンに言った。広東人の彼はクーデター前からロンノルの部隊と取引があったのでクーデーター後は、相当に羽振りがよくなった。それで、毎日、空港にくることになったらしい。
二 滅びの都
 リーセンの車二台に分乗してクメール共和国の首都プノンペンに向かった。ヤマ族の集落に行き方として、十年前に行って知っているタイルートを考えたが、鎖国が解けたいま、カンボジア側から入った方が最短だった。それに、あの密林を迷わずに縦断し再びヤマ族の集落にたどり着く自信がなかった。政変で政情が不安定とはいえ、集落までの道のりをよく知っているソクヘンにこちらから案内してもらう方が得策だった。
 しかし、疑問はあった。最初、ソクヘンからインドシナ北部への密林案内の依頼を受けたとき、中島教一郎も西崎も首を傾げて問い直したものだ。
「ソクヘン、君が案内して山を下りればいいじゃないか。それに、なぜタイ国境に向かうのだ。カンボジアに下りれば。なにも我々がわざわざいくことも」
しかし、この疑問にソクヘンはなぜか
「ヤマ族はクメール人ではないから」としか答えなかった。
 カンボジア側にくることは、政治的に難しいとも説明した。少数民族問題は、どこの国でもある。政変でカンボジアの国内に住む少数民族の立場がどのように変ったのか、彼らには知る由もなかった。ヤマ族には、タイ国境をめざさなければならない事情があるのだろう。その案内を日本まで頼みにくるのだから、よほどの事情かも知れない。そう理解するしかなかった。ヒロシを除いた西崎たち五人の青年は、その疑問を抱いたまま、とにもかくにもカンボジアにやってきた。日本での報道では、この国のことはまったくわからなかった。が、空港に降りたとき、なんとなく情況を知ることができた。政治は、まだ安定していないのだ。
 激しい雷雨の中、車は原野に一直線に伸びた道路をどこまでも走った。
老人も盲目の詩人もラーマヤナを弾きながら歌う
滅びの中の滅びの都
                                    次回へ
 
    
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83――――――――16 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出状況(6・11現在)
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、髙橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(車外も可)=髙橋亨平(1)山根裕作(2)疋田祥子(4)茂木愛由未(2)
□ 一日を記憶する=髙橋亨平(1)、山根裕作(1)疋田祥子(1)茂木愛由未(1)
          金野幸裕(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■亀山郁夫氏講演会(東京外国語大学学長)
月 日 : 2007年7月30日(月) 午後6時30分~午後8時
会 場 : 銀座・教文館9階、ウェンライトホール 無料
      定員100名、先着順 TEL03-3561-8447
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年8月11日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : フリートーク 作品『白痴』第三回目
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年8月3日金
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : コメンティター5名。
題 目 : 『ドストエーフスキイ広場』合評会      関心ある人は下原まで
出版
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えて
ゲンダイ文学であり続ける。 
※ 集英社『21世紀ドストエフスキーがやってくる』2500円 
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
かってこの国で怪しげな青春時代を過ごしたフランスの作家、アンドレ・マルローは遺跡盗掘者を描いた作品『王道』のなかで、この国の首都プノンペンのことをこう表現していた。政変から五ヶ月、まさに戒厳令下のこの街は、その言葉がふさわしかった。地方から流れてきた物乞いと娼婦。それらはほとんど十五歳にもならない、小さな子供たちだった。
 クーデターで、それまで鎖国をしていたカンボジアは、開国した。そして、カンボジア領内にいるベトコンを一掃するために、アメリカ軍の兵隊が進軍し駐留することになった。そ
の兵隊の日用雑貨を生産、輸入、販売まですべて取り仕切るというのだから羽振りはいい。一同、その夜、センのレストランで祝杯をあげた。深夜、店を閉めるとセンは六人を奥の部屋に呼んだ。テーブルの上に、カンボジアの地図がひろげてあった。
「ほんとうに、ヤマ族の集落まで行きますか?」
センは、皆の顔をみると、確認するように聞いた。
「ええ、もちろんです」西崎隊長は、なにをいまさらといった顔をしながらも力強く頷いた。「そのために来たんです」
「なにか、あるんですか、問題が」
中島副隊長は、不審そうに聞いた。センの言葉に何かを感じ取ったのだ。
「問題ですか」
センはつぶやきながらソクヘンの顔を見た。
 ソクヘンは、困った顔でうつむいた。センは、一瞬のうちに看取した。華僑として生き延びた勘で、彼らは全く現実を知らないできた。ソクヘンは、肝心なことを話していない。そうみてとった。
「ただ治安が悪くなったんですよ。おわかりでしょう。無血クーデターといっても、シアヌーク殿下からロン・ノル将軍に変ったことは、白から黒に、黒から白に変ったほどの変りようなんです。混乱しています。とくに山岳地方は」
「ゲリラですか」
「そうです」
「ゲリラだったら大丈夫じやないんですか」西崎隊長は、言った。「彼らは民間人には手を出さないんでしょ」
「岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』すばらしかったです。ゲリラの潜入記ですけど」
ヒロシは、うれしそうに言った。
「ここのゲリラは、ベトナムのゲリラと違いますよ」リーセンは苦笑して言った。「サルという元教師が指揮しはじめてから山賊から赤い悪魔と呼ばれるようになっているんです」
「赤い悪魔?!」
「以前はクメール・ルージュ、赤いクメールと呼ばれてたからです。とにかく評判が悪い」
「でも、ちゃんとした共産主義者なんでしょ」
「共産主義者!まあ、そうですが・・・・」
「だったら――」西崎隊長は、言いかけてやめた。りー・センは、いまアメリカ軍の日用品で大もうけしている。現政府に反対するゲリラのことを悪くいうのは当然のことだ。
「みなさんがヤマトン族のところに行かれることには反対しませんし、また、行ってくれなくては困ります。ヤマトンといいますから、日本の別名、ヤマトに似てます。ヤマトン族とも言います。名前もそうですし、穏やかで、よい少数民族です。わたしもヤマシルクは、すばらしい織物。ずっと商売してきましたが、彼らから嫌な思いをさせられたことは一度もありません。本当にいい部族です。残念ながら、前政権も現政権も友好的ではない。むしろ追っ払いたいと思っている。だからぜひタイ国境まで、案内して欲しいのです。ソクヘンも、そのために助けを求めに行ったのです。わたしも協力したいのです。わたしはただ、気をつけて行ってほしいのです。十年前の約束を守ってきてくださった皆様の勇気、親切が無駄になってはいけないと」
「ご心配、ありがとうございます」西崎隊長は、頭をさげた。センが本当に自分たちのことを案じていてくれると思うとうれしかった。見ず知らずの彼が、それほどまでに考えてくれるのは、ヤマ族のことが心底好きだからだろう。ぜひ、ヤマ族のガイドして、彼らを無事タイ国境まで送り届けてやろう。改めてそう決心するのであった。明日の夜になって、リー・センの舟で出発することにした。
モニボン通りのカフェ「パリ」で起こる衝突。
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三 日本橋
 午後三時を過ぎたところだった。皆は、プノンペンの繁華街モニボン通りのレストランにいた。パリでの出来事。広東人に間違われ兵士に囲まれるが、ジャポンで切り抜ける。
 メコン河畔の歓楽街は、騒々しかった。ボリュームいっぱいにあげた音楽、エレキの生演奏、やら酔っ払いの歓声、それらの騒音に混じって時々銃声まで聞こえてくる。アメリカ軍が入ってきて、この国はまるで変ってしまった。しかし、通称日本橋の上は不気味なほど静かだった。雨が上がった後、夕涼みの人々が三々五々、欄干にもたれて、満々と水をたたえて流れるメコンの川面をながめていた。戒厳令はひかれたままだった。あちこちに歩哨がいた。が、彼らの顔に緊張感はなかった。中島とソクヘンは、橋の中ごろまで話ながら歩いて行った。
「立派な橋だ」
「なぜ、ニホンバシというんだい」
「それは、かんたんです」ソクヘンは笑って言った。「日本人がつくったからです」
「文字通りか、それじゃあ、日本人も、もつと評価されてもいいなあ」
「エコノミックアニマルだけじゃじゃないとこを」
「ぼくが知ってますよ」ソクヘンは笑った。
「そうだな、みんなに評価してもらうことじゃあないな」西崎は言った。
「武士は、己を知るもののために死す。まさにぼくたちにぴったりだ」
「あの舟じゃないですか」ソクヘンは指差す。明かりが二回点滅した。
「やけに小さいな、乗れるのか」
「七人だろ、船頭いれて八人か、大丈夫、十人は乗れるよ」
 日本製の小型車が、橋のなかほどで停まった。運転手が顔をだして、近くにいた中島に声をかけた。タバコの火を貸してくれ、そんなふうに見えた。しかし、河畔にいた、歩哨には、停車の口実とみえたようだ。突然、大声で何か叫んでかけてきた。
 とたん、夕涼みしていた、男たちが、一斉に腰をかがめて発砲しはじめた。不意をつかれて歩哨は、ばたばたと倒れた。夕涼みの男たちは、歩哨の銃を拾って、銃声を聞きつけ集まってきた政府軍の兵士と応戦しはじめた。驚いたのは、西崎たち七名だ。橋のたもとでリー・センが、早く、早くと手招きしている。皆は、欄干沿いに、這うようにして走った。頭上をピューピュー音をたてて弾が行き交っていた。兵隊たちが、一斉に駆け出した。みると、夕涼みの男たちは、反対方向に逃げていく、運転手も車をそのままにして逃げていくところだった。銃声がやんで、不気味な沈黙が流れた。次の瞬間、大音響がして、小型車が爆発した。閃光と火柱で、空中高く、吹き飛ばされた車が見えた。そのなかに何人かの人間の体もあった。つづいて、夕涼みしていた男たちがいた橋のあちこちが次々、爆発した。大きな日本橋は、ゆっくりと落ちていった。大きな水しぶき。
 皆は、河上の船着場に急いだ。
「副長は」
西崎は皆をみた。
 中島の姿がなかった。
「センセイが」ソクヘンは、叫ぶ。
「車の近くにいたぞ」
「よし、戻ろう」高木は、あわてて言った。
「まて、みろよ」西崎は指差す。
 目の前のメコンの上と、河面をいくつものサーチライトが照らし出していた。橋は、無残にも橋げたを残すのみだった。橋のたもとは、大勢の政府軍で埋まっていた。
「いっしょに落ちたのか」
(加筆)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83――――――――18 ―――――――――――――――――
そのことは、だれの目にもあきらかだった。空中に吹き飛ばされた人間の近くで、キラリと反射するものを確認していた。メガネのようだった。
「わからん、が、車の一番近くにいた。それは確かだ」
「じゃあ、河に落ちたか」
「わからん、もしそうだったら、この流れと水量だ」
「日本大使館に、届けよう」
「そんなことしたら、われわれの存在が知られてしまう。ゲリラにも筒抜けだろうから、このジャングル案内は中止するしかない」
「中止しないでください。お願いします。助けてください」
「しかし、副長は、どうする」
「もしかして、生きているかも知れん」
「どうします」
 選択に余裕はなかった。西崎呻いた。まさか、こんなところで、こんな事態になるとは思ってもみなかった。十年前、探検した密林の中を道案内をする。そう難しい作戦ではないと考えていた。辛い探検であったが、遺跡や、マンブローの林はなつかしいばかりだった。しかし、突然の悲劇に、この旅は考えていたより困難に思えてきた。
「日本大使館に行って相談しよう。ヤマ族の人たちのことは国連に頼めば、なんとかしてくれるだろう」柳沢は、早口でせきたてた。
「だめです、時間がないんです。やつらは、雨季が終われば、山に登ってきます。全員、皆殺しにされてしまうんです」ソクヘンは、必死に訴えた。彼にすればやっとここまで連れてきた密林ガイドに、こんなところで帰られたらたまらん話だ。
「皆殺しなんて、大袈裟な、ゲリラがそんなことするはずないだろ。ベトナムでソンミ村の村人を虐殺したのはアメリカ人だ」
「ベトコンとは違います。奴らは、悪魔です。恐ろしい悪魔なんです」
「げー、それなら、なおのこと、そんな連中がいるところへ行ってどうなる。ジャングルを道案内するだけでも大変なのに」
 進むか、残るか。言い争ったが、選択の余地はなかった。川岸の道路に何台も軍用トラックが停車し、荷台から兵士たちが次々と飛び降りてくる。
「よし、決めたぞ」西崎隊長は大きく頷いた。「俺は行く。残りたい者は残って、日本大使館中島助教授を探してくれ。もし最悪の場合のときは、弔ってくれ。それから、もし八月十五日までに戻らなかったら」西崎は、一瞬思い巡らせてから言った。「二十日にしょうか。それまでに戻らなかったら骨をもって日本に帰ってくれ」
「お願いします」ソクヘンは、船のうえから何度も頭を下げて頼み込んでいた。
「乗りかかった舟だ。中島も、言うだろ」
「そうだな、いまさらじたばたしてもしょうがない」高木武司は、飛び乗った。「どうする」
「むろんだ。おれは」
「なんだ、なんだよ」柳沢は、躊躇する。
「早くしてください」ソクヘンは、叫んで指で示す。向こうから大勢の兵士がやってくるところだった。
「ぼうやは、どうする」
「行きますよ。どこまでも」
ヒロシは、むっとした顔でシャッターをきると、桟橋から飛び移った。
「よししゃ、まあいいや、決めた。おれは行く」
柳沢医師は、意を決した。はじめて自らの意思で自分の人生を決めた瞬間だった。大病院の息子に生まれた彼は、これまで常に誰かが彼の前途を決めていた。幼稚園、小学校は母親が、
―――――――――――――――――――― 19 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.83
高校大学は父親が、そして現在勤める大学病院もすべてそうだった。アジア研究会も、研究室の主任教授に進められてだった。上司の教授に、アジアの少数民族に日本人と同じ骨格探しの野心があった。
「よし!全員か。オーライ」西崎隊長は、叫んだ。「さあ、行ってくれ」
「バンハイ」中年の船頭は、頷いてエンジンの紐を引いた。
スズキのエンジンは軽い音をたてて動き出した。六人を乗せた舟はいきなり動き出した。
「出発!」
「中島、待つてろ。帰りに迎えにくる」
一同、両手を合わせる。だれもが、中島教一郎が、もはやこの世にいないことを理解していた。それほどにメコン河は広く、流れは速かつた。
「くそ!一番のまとめ役がなあ」
西崎隊長は、無念そうにはき捨てた。
その思いから逃れるように舟は、猛スピードをあげた。いきなりのスピードに五人は、不安顔になった。が、すぐに、その理由がわかった。
岸辺から叫ぶ声がした。暗がりの土手から兵士たちが何人も駆け下りてくるのが見えた。河面に爆竹音が響きわたり、線香花火のような赤い光が瞬間的にあちこちで飛び散った。兵士たちが、一斉射撃をはじめたのだ。背後の方で水面にドボンドボンと何かが落ちる音を聞いた。
「ヤバイぞ」
弾丸の雨とわかって皆は緊張した。が、小型船は、スピードをゆるめながらも軽快なスズキエンジンの音をたてて、北上していった。周囲は墨を流したように真っ暗だった。水しぶきの音意外なにも聞こえなかった。緊迫した状況が続いたせいか。皆は押し黙っていた。が、高木は、思いだしてつぶやいた。
「リー・セン商店の社員はどうなったんだろう」
「兵隊たちに捕まったかもな」西崎は舌打ちした。
「大丈夫だって、言ってます」ソクヘンは、中年の船頭から何かを聞いて笑って言った。「リーセンさん、ロンノル政権の大物と親しいんです。中島センセイも探してくれるかも」
「なんだよ、それなら逃げることなかったじゃん、バンバン撃たれちゃって、弾が届くところにいたら、危なかったじゃん」
柳沢は、不満そうに言った。
「さっきは、逃げなきゃだめでした。兵隊、怪しいと思ったら見境ありません」
「それもそうだ」
皆は、一斉に安堵のため息をもらした。
 中島助教授の悲劇はあるが、緊迫した極度の緊張状態が悲しみを上回っていた。強ばっていた顔がゆるんだ。皆の緊張はようやく解けた。
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6月4日ゼミでテキストの『網走まで』を初読みしました。
○ 題名について → なぜ『網走』としたのか。函館、札幌、旭川ではダメか。
  「遠いところ」「北の果てのイメージ」
○「網走」という地名について → どんなイメージがあるか。
○ 同席の女の人について → 彼女が網走に行く目的は何か。網走での生活は。
○ 頼まれたハガキについて → 誰と誰にだしたものか。
○ この作品は、当時、東京帝国大学で出版していた雑誌「帝國文学」に投稿するが没にな
  る。武者小路実篤など、後年白樺派文学の中心作家たちが推した作品である。なぜ「帝
  国文学」の編集者は採用しなかったのか。作者・志賀直哉は字が汚かったから、と思っ
  た。が、推理すれば、どんな理由が想像できるか。
 【テキスト車内観察】、志賀直哉の車内観察作品のなかで短篇ながらとくに観察が鋭いのが配布する「夫婦」です。車内観察(乗客観察)の手本もいえます。
 夜、友人宅からの帰り。電車の向かいに座った若いアメリカ人の夫婦と幼い娘。アメリカ人は、戦時中は鬼畜米英だったが敗戦後は神の存在になった彼ら。しかし、彼らも自分たちと同じ人間、夫婦であった。夫婦間のちょっとした無意識の仕草に、普遍の機微をとらえた優れた観察文である。
 
          3.同時期の車内観察作品
 【同時期の車内観察作品】、夏目漱石『三四郎』から車内観察の部分を読む。『三四郎』は、流行作家が書いた新聞小説。『網走まで』は、無名の文学青年が書いた同人誌作品。
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