文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.329
日本大学藝術学部文芸学科 2017年(平成29年)12月4発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.329
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
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テキスト読み(志賀直哉・ドスト他) &熊谷元一研究
2017年読書と創作の旅
熊谷元一最新ニュース 画集「てんしんらんまん」全会員に発送
熊谷元一写真保存会(会長・岡庭一雄)は、このたび会費還元として、昭和48年に秀文社から刊行された元一先生の「てんしんらんまん」の画集を、「秀文社・北林明様のご厚意によりご提供受けましたので会員の皆様にお送りします」として発送した。
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画集「てんしんらんまん」の解説冊子
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を前面におしだし、「ちんぼ」「べんちょ」の言葉もむ、なにはばかることなく使うことにした。あつかったあそびは、こどものころの体験を中心にして、老人や友だちから、聞いた話も少し加えて、なるべくありのままに、描くことに、つとめた。
内容の表現には、ご婦人がごらんになっても、赤い顔をされるようなことがなく、すかっとして、健康で明るい感じを、もてるようにつとめた。
絵には説明はふようであるが、これはこどものあそびのきろくの意味もふくめて、それぞれのあそびについて、多少の説明をつけることにした。
絵について
さてまた飯田の
明治のころは、ゴムまりが少なかった。多くはおばあさんのつくってくれた、糸がかりの手まりであそんだ。伊那谷につたわっている、手まりうたは数多くあるが、ここでは「さてまた飯田の」をとりあげた。
飯田城を中心に、街まちや付近の名所がうたいこまれている。このうたのあとにつづく部分は
ただ一筋の大横町
手をひきよるは愛宕坂
松川橋をうち超えて
心細々下茶屋の
行くも帰るも観音で
腰うちかけて煙草すう
あれ見やしゃんせ 白山の
榎にとまる烏さえ
縁とつなげと鳴くわいな。
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だいのこ だいのこ
慶應生まれの、伊賀良出身の、そぼから聞いたはなし。小正月に、こぞうたちが、先をちょっとけずった、すりこぎのような棒を持って、「だいのこ だいのこ」と、あげたり、さげたりして、あそんでいたとのことであった。
辞書によると、「だいのこ」とは、「男根」とあるから、ちんぼをかたどったものだ。そうだとすると、あげさげしただけでなく、時には女の子を追いかけたにちがいない。
「てんしんらんまん」に収録されている、他の絵の題名(絵は、順次、本通信にて紹介)
『一里行っちゃあ』 『嫁さま へさま』 『男と女』 『しょうべんくぐり』
『女の中の』 『まつえさっちゅっても』 『食べ物は』 『おしりまくり』
『だあれのちんぼ』 『たつくらべ』 『べんちょ べんちょ』
『ちんぼくらべ』 『とんぼ とんぼ』 『とんびは信濃の』
熊谷元一(1909-2010)長野県下伊那郡阿智村に生まれる、小学校勤務、拓務省嘱託
【主な著作】
・写真集 『会地村』(朝日新聞)
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・写真文庫 『一年生』『かいこの村』『農村の婦人』(岩波書店)
『農家の四季』『むらの写真先生』(家の光協会)
・絵 本 『わらべうた』(理論社)
『ヤマノムラ』(教養社)
『二ほんのかきのき』(福音館)
他多数
・伊那谷を描く(郷土本 秀文社)
『伊那谷のわらべ歌』
『伊賀良』
『黒田人形』
『天竜川のカワランベ』
『伊那谷のかいこ』
ふるさとが生んだ【写真家・童画家】熊谷元一が、楽しい絵と文でつづる
大正~昭和初期の村の暮らし。(毎日出版文化賞記念出版)
※「てんしんらんまん」は、全画、ひきつづき紹介していきます。
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文芸研究 創作編
本作品は10余年前、本通信にて連載したものを加筆・校正したものです。
ときは1970年、雨期はじまるインドシナの山岳地帯。サムライの約束キンチョウを果たすために潜入した6人の日本人青年。追撃する赤い悪魔、クメール・ルージュとの死闘。彼らの運命はいかに。
キンチョウ
この物語がはじまる前に、舞台となるインドシナは、1970年当時、どんな情勢にあったのか、知っておく必要がある。
米軍介入で動乱つづくインドシナ
一九六〇年から七〇年にかけてインドシナ半島の軍事情勢は刻々、変化していた。
一九六四年八月、アメリカはベトナムのトンキン湾での衝突を口実にベトナム戦争を開始した。近代兵器を重装備したアメリカ軍を迎え撃つのは、ゴムぞうりを履いた徒手空拳のベトコンと貧弱な旧式の武器しかもたない北ベトナム軍だった。だれの目にもベトコン組織の解体と北ベトナム軍の早期敗北が予想された。だがしかし、戦況はそうはならなかった。米国は苦戦した。四年たっても勝利の予感すらつかめなかった。それどころか六八年の激戦では多くのアメリカの若者の命が散った。勝てぬ原因は何か。アメリカは焦った。軍司令部は、夜間撮影した航空写真を前に地団駄踏んだ。真っ黒な写真に写っていたのは、放物線を描いて幾筋も延びた糸のような光の線だった。
真っ暗な密林の中を、松明をかざしてベトコンや北ベトナム兵士に食糧、武器弾薬を運ぶ人々の列だった。米軍が勝利するための戦略は、ホーチミン・ルート、すなわちこの補給路をたたくことだった。しかし、できぬ相談だった。光線の曲線部分は、隣国カンボジアの領土の上にあった。米国とカンボジアは、国交がなかった。独裁王国社会主義という奇妙な政治形態を維持するカンボジアの統治者、シアヌーク殿下は、鎖国政策で国内の共産勢力を弾圧しながら、アメリカとも張り合うことで国政の安定を保っていた。それは東西冷戦上に張られたロープの上を歩くような危なっかしいものだった。が、その外交手腕は世界の脚光を浴びていた。インドシナのジャンヌ・ダルク、と称えるジャーナリストもいた。それだけにアメリカは簡単に手をだすことができなかった。
なんとしても補給路をたたきたい。カンボジア領土への爆撃を実行したい。シアヌークはノドに刺さった魚の骨。ベトナム戦争に勝利するために、南下する共産勢力を押し返すために是非に抜かなければならなかった。そのためには親米政権の樹立が必要だった。米情報局はひそかに、その作戦を開始した。
一九七○年三月十九日、カンボジアで無血クーデターが起きた。外遊中のシアヌーク殿下は失脚し親米派のロンノル政権が生まれた。アメリカの画策は成功した。アメリカは新政権と国交を回復し、カンボジア領内のホーチミン・ルート爆撃を可能にした。作戦は、つり針作戦と名づけられ、さっそくに開始された。北ベトナムからつり針のような曲線を描いてカンボジア領に入り込んだ補給路への攻撃。泥沼にはまっていたアメリカ軍にとって起死回生の作戦だった。手を焼いているベトナム戦争は好転し泥沼から脱出できる。そんな希望と期待がもてた。
だがしかし、戦局はそうはならなかった。アメリカ情報局は、三つの見誤りをしていた。一つは、シアヌーク政権下、抵抗していた共産ゲリラ、クメール・ルージュが、クーデター
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後あっさりシアヌークと手を握ってしまったことである。シアヌーク時代、犬猿の間柄にあったにもかかわらず、である。二つには、カンボジア内のゲリラ、クメール・ルージュを三千人足らずの武装グループと推計していたこと。同時に、そのグループは、軍事組織にもなっていない、軍事訓練すら受けたことのない山賊集団と決めつけていたことにある。そして、三つめに、最も重大な見過ごしをしていた。米軍は知らなかった。フランス帰りの元小学校教師がカンボジアの密林の奥で、人知れず巨大なモンスターに成長しつつあったことを。そして、その怪物が、赤いゲリラたちを徐々に支配し彼らのカリスマになりつつあったことを。アメリカはむろん、世界中の誰も知らなかった。
一九七○年四月、カンボジア北東部の密林の中を黒衣の一団が南へと向かっていた。クメール・ルージュと呼ばれるカンボジアの反政府ゲリラたちだった。理念のないゲリラ、それ故にインドシナの孤児だったクメール・ルージュ。だが、このとき北京とハノイの密約で確かな力を得て、意気揚揚の帰国の途にあった。一団のリーダーは、おだやかな顔で常にやさしい微笑を絶やさなかった元小学校教師。だが、彼らが通り過ぎた後には、戦時下のベトナム人でさえ戦慄する残虐な殺され方をした死体が転がっていた。反政府活動の協力を拒んだ村、渋った少数民族は、老若男女問わず皆殺しにされた。あるものは股を裂かれ、あるものは首だけになって晒された。竹やりで串刺しされた赤ん坊の下に
協力しないもの、協力したふりをするもの、したがわないものは人民の敵である。かならず裁かれる
こんな宣告文がばらまかれていた。書いたのはやさしい微笑みをたたえる中年男の元小学校教師。彼の名は、サロト・サル。カンボジアではありふれた名前だったが、ゲリラたちがこの名を口にするとき親しみと尊敬がこめられていた。この男こそ、密林のなかで内なる怪物を育てあげた人間、赤い悪魔の化身だった。男は六年後、ポル・ポトと名乗って、その名を全世界に知らしめた。が、このときサルの名は、まだ密林の少数民族の間に部族の若者を連れ去る、赤い悪魔として恐れられていただけだった。
一九七○年三月、無血ク―デ―によって失脚したシアヌークは、なんとかっての敵クメール・ルージュこと赤い悪魔と手を組んだ。写真は、悪魔の指導者たちとシアヌーク殿下。
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プロローグ 密林の遺跡に眠るもの
乾季の午後の密林は、まるで時間が止まったように静まりかえっていた。ときどき風が過ぎると高い木々の葉が眠りから覚めたように物憂く揺れた。そのたびに木漏れ陽が白雨となって苔むした巨石の上を走った。風が止むと、ふたたびすべてのものがピタリと静止した。くっきりと陰影が落ちた地上に動くものは何もない。しかし、よく見ると巨石の端に動く小さな影ひとつ。少年が一人、崩れた回廊の隅で、黙々と遺跡の欠片を掘り起こしていた。
少年は、左足の膝から下がなかった。一本足だが、木製のスコップを器用に使っていた。腐葉土を取り除き、埋まっている遺跡の欠片を探し出す。今も、少年は自分の頭ほどある石壁のかけらを掘り起こしたばかりだった。これなら持って帰れる。少年は、勇んで泥土を払った。彫り物はどこにもなかった。ただの壁の欠けらだった。
「なんだ」少年は、額の汗をぬぐって軽く舌打ちした。
が、落胆の表情はなかった。徒労には慣れている。そんな様子だった。少年は、ふたたび腐葉土を掘りはじめた。金目になりそうな欠けらは皆無だった。壊れた石像でも、ちょつとした浮き彫りのある石でもよかった。だが、そんなしろものはめったに見つかりはしない。かつて人跡未踏だった山頂に近い密林の遺跡も最近では、タイからの盗掘者や未だ隠れて抵抗しているポルポトの残党に喰い尽されていた。巨大な仏像は、人力で持ち運び可能なまでに砕石され、いまはただ岩の塊と化していた。回廊で妖艶に踊っていたアプサラ(踊り子)たちは無残に削りとられ、僅かに残る滑らかな平面に人口壁の証拠をみるだけだった。時の侵食と盗掘者たちによって、もはや、価値あるものは何一つ残っていなかった。埋もれた遺跡は、、ふたたび元の密林に還ろうとしていた。
遺跡の何処にも神秘はなかった。が、それでも自然の力と偶然がまだいくつかの秘密を隠していた。盗人たちから守っていた。あるものは巨木の根の中に、またあるものは厚い腐葉土の下に隠していた。石像が見つかれば広東人に高く売れる。アンコールワット出土と書いてPKOで沸くプノンペンの中央市場に並べられれば、いま大挙して押し寄せている日本人が土産に買って行くのだ。
少年は、お金をためて義足を買うつもりだった。二年前、水くみに谷川に降りた時、地雷を踏んだ。三ヶ月プノンペンの病院にいて、家族が新たに移り住んだタイ国境に近いこの山に帰ってきた。片足の者が密林で暮らすのは厳しい。なんとしても義足が欲しかった。それには、ここでは遺跡の欠けら探ししかなかった。少年は、毎日のように山頂のこの遺跡にきて金目になりそうな石片を探した。それが一日の仕事になっていた。当てはなかったが、これより他に現金を手に入れる術はなかった。
上空を一陣の風が通過していった。高い梢の葉々がざわめくたびに、深海のような密林の中にも強い日差しが驟雨のように降り注いだ。少年は、手を休め光のシャワーを浴びながら密林を眺めた。昼なお暗い密林の中に降り注ぐ光の雨。幻想的な風景だった。ここまで風が届けばいいのに。少年は、恨めしげに額の汗をぬぐいかけ、ふと手をとめた。つる草が覆う急斜面の繁みに一瞬、キラリと光るものを見た。何かが反射したのだ。
なんだろう!?風はやんで、密林は、ふたたび薄暗くなった。
次号へ 密林の遺跡
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ゼミⅡの記録
□9月25日(月)テキストサローヤン「空中ブランコに乗った大胆な青年」ゼミ合宿の話
□10月2日(月)テキスト志賀直哉『灰色の月』通夜の為、早引き。
□10月16日(月)テキスト『やまびこ学校』、『作家の日記』「継子殺人未遂」裁判の行方
□10月23日(月)台風20号直撃予報で休講。12月18日補修
□10月30日(月)印刷会社「緑陽社」見積もり提出。芸祭で早引き。
□11月6日(月)休講 芸祭片づけ。
□11月13日(月)『氾の犯罪』「奇術師美人妻殺害事件裁判」
□11月20日(月)「透明な存在の正体」、依存について
□11月27日
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ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」開催のお知らせ
□月 日 2017年12月9日 土曜日
□会 場 池袋・東京芸術劇場第5小会議室
□時 間 1時半開場 2時開始 ~ 4時45分
□作 品 『悪霊』5回目最終回 司会進行 國枝幹生さん
□報告者 フリートーク
【熊谷元一賞写真賞コンクール20回記念写真展】
□ 日 時 平成30年5月29日~6月3日
□ 会 場 JCフォトサロンクラブ25 東京・半蔵門
【第21回写真賞コンクールについて】
テーマ 「はたらく」 第一回「働く」の初心に帰って
締切 2018年9月末日
最終審査 2018年10月12日