文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.84

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)7月 9日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.84
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
7・9下原ゼミ
7月 9日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(ゼミ担当者から進行指名など)
   ・ゼミ合宿準備・参加費徴収(疋田さんへ)学3500 担任4500
   ・ゼミ誌編集について(報告事項あれば)
   
 2.提出原稿の発表andテキスト『出来事』読み
 3.名作紹介・レストラン店内観察作品(ヘミングウェイ作)
 4.紙芝居稽古・配布・その他
 
 
 
今週のニュース
 今週のニュースは、なんといっても「しょうがない」この一言だろう。「しょうがない」「仕方がない」。広辞苑によると「手段、方法のない意からやむを得ない」とある。
 6月30日、久間防衛相(66)は千葉県柏市にある麗沢大学で講演した。雉も鳴かずば撃たれまい。こんな故事もあるが、この人種は、どうしても鳴いてしまうらしい。注目されることになった問題発言は、「原爆も落とされて長崎は本当に無数の悲惨な目にあったが、『あれで戦争が終わったんだ』という頭の整理でしょうがないなと思っているし、」と言ったことにある。この失言で3日午後、久間議員は防衛相を辞任することになった。この人は長崎二区選出の衆院議員だという。もし生まれも育ちも長崎なら、あの日、1945年8月9日は4、5歳児か。一瞬の閃光のあと焼け野原となった瓦礫の街に累々と転がる数万の焼け焦げた長崎市民の遺体を見たはず。この世の地獄は幼子の目にどう映ったのか。たとえ半世紀以上が過ぎても「戦争だから」「あれで戦争が終わる」で済む出来事ではない。
 もっとも人間は、「どんなことにも慣れるし、どんなことでもやってのける」。仕方ないと言いながら懲りずに歴史を繰り返す動物である。真実はわからないが、アメリカはあの後、朝鮮戦争やベトナム戦争でも原爆投下を考えたという。今日においてもイランや北朝鮮の核問題がある。核爆弾の恐怖は、いまこの時もある。だとすれば、政治家は、いかなる時も仕方ないではなく「なんとかしたかった」であろう。しかし、思えば日本の近代史は、「しょうがなかった」の連続できた。日韓併合をはじめとして日清、日露の戦争、大逆事件、満州事変、盧溝橋事件、真珠湾攻撃、特攻作戦などなどである。いまにして思えば、これらのどれも対策に「しょうがあった」のではないか。今月末には国政を占う参院選がある。政治をやる者の辞書には「しょうがない」の言葉が、あってはいけない。あるとしたらそんな人を国政の場に送り出してはいけない。大切な一票である。      土壌館・編集室


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.84 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
浅草・木馬亭で新紙芝居創世記を観劇
  
 3日夕、NHKニュース「街の話題」で紙芝居のことを放映していた。公園や街角で紙芝居公演に携わっている人は、戦後間もない頃は3千人はいたという。が、現在、東京では数人。実際に仕事にしている人は3人ぐらいらしい。この日、テレビでとりあげていた森下正雄(84)さんという紙芝居師は、その一人だった。が、何年か前、喉頭がんを患い声がでなくなってしまった。それで、やむなくやめていた。が、あるとき、かつて地方で口演したときのテープが送られてきた。四国のある幼稚園の会場で口演したとき、録音していてくれた人がいたのだ。その人は、森下さんが、声がでなくなったことを知って送ってくれたのだ。「これでまた口演して欲しい」と書いてあった。「涙がでるほどうれしかった」と話していた。以後、テープに合わせて太鼓を叩きながら公演している。十八番は、加太こうじ作の『黄金バット』。最近、弟子ができたという。23歳のIT企業に勤める青年で、森下さんの口演をみて紙芝居の面白さに取り憑かれたという。
 「なにかすごく面白かった」「ゲームとは違う感じがした」紙芝居を見た子供の感想である。喜ぶ子供がいる限りやめられない。そんな老紙芝居師の言葉か耳に残った。
 こんなニュースをみたせいでもないだろうが、翌日、こんな誘いのメールをもらった。
「7日、8日に浅草の木馬亭で紙芝居の公演があります。見に行かれませんか」日芸の芸術修士で見せ物小屋愛好家のK君からだった。K君は、大道芸や見せ物小屋を研究テーマにしていて、興行先をあちこち歩いているとのこと。そういえば昨年、一緒に靖国神社で公演していたヘビ女のショーを見に行ったことがある。大蛇にまきつかれた着物姿の女の絵がえがかれた看板から、なにか、エログロ的なものを想像していた。が、実際にはあっさりしたものだった。看板と同じ長い黒髪の赤い着物姿の若い娘が登場。長い前口上のあと、青大将かヤマカガシの一部を瞬間的に噛みちぎって食べる、芸ともいえぬ見せ物だった。
 今回の浅草木馬亭の紙芝居は「新紙芝居創世記」とか「21世紀紙芝居」と銘打っている。怪しげな感じもしたが、前日テレビで見た森下正雄さんも実演するという。紙芝居を見るのは、何年ぶりか。記憶にないほど遠い昔になる。が、懐かしかった。それと、昨年からゼミで表現方法として紙芝居稽古を取り入れている。そんなこんなで、実際の紙芝居公演をもう一度、見てみたいと思い夕方、浅草にでかけた。
 浅草は相変わらず観光客の人の波。外国人と人力車が目立った。浅草寺の前でK君と落ち合う。木馬亭の前は既に長蛇の列。入場券2千円(当日券2500円)で整理券をもらう。公演は六時から、近くでブラついてから開場を待つ。会場は200席ぐらいか満席で補助席もあった。主催者は、一時は10名ぐらいのときもあったとにこやか。
 出し物は、はじめに〈浅草雑芸団〉による、のぞきからくり『八百屋お七』、次に〈劇団みんわ座〉による、江戸写し絵『滑稽だるま夜話』、そして、お目当ての森下正雄氏による紙芝居実演。氏は、十八番の「黄金バット」を五作口演された。これまで知らなかったが、黄金バットの由来は、タバコのゴールデンバットだとの話があった。黄金バットは「怪タンクあらわる」「怪獣篇」など。内容は、まったくおぼえていなかったが、悪者が現れて、黄金バットが退治するというパターン。最後に、今回の目玉、21世紀紙芝居「蛇蝎姫と慙愧丸」があった。これまでの紙芝居の常識を超えて330枚の長編物語を一気に公演するという。私がやっている「少年王者」は1話166枚だが、1時間半はかかる。330枚は2時間
くらいと予想した。はじめに昨夜は、9時30分までかかったと断った。120分勝負。
 昭和40年代以降ほとんど作られることのなかった街頭長編紙芝居が、この21世紀に復活した。全30巻330枚に及ぶ『蛇蝎姫と慙愧丸』である。(パンフレッドから)途中で2割の客が帰った。口演者でもったが、紙芝居には長すぎた。ストーリーも「少年王者」の方が、はるかに面白い。(もっとも、こちらは大ベストセラーなので比較にはならないが)この先、紙芝居人気どうなるか。まだ不明である。(土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
7・9ゼミ
以下の手順で進めてください。
1.「2007年、読書と創作の旅」
【ゼミ合宿】
 ・ゼミ合宿参加費用徴収(担当者、疋田祥子さんへ)
  学生は、3500円 担当者、4500円
 ・ゼミ雑誌編集について、何かあれば
            2. 提出原稿発表
【車内観察】
 
 ・疋田祥子さん「終電と造花」 
  3. テキスト車内観察作品『出来事』
 ゼミでは、車内観察のテキストとして『網走まで』をとりあげ、この作品を重点的に考察している。が、先日、読んだ『夫婦』もそうだったが、実際の車内観察、乗客観察といえば、この作品『出来事』である。夏のある午後に乗った電車。いろんな乗客がいる。何の縁もないが一時を同じ空間で過ごす人たち。作者は、暑さでデレーっとなった彼ら一人ひとりの様子を観察する。人身事故という出来事によって変身する乗客の様子がよく描けている。
 この作品は、1913年(大正2年)9月1日発行の『白樺』第四巻に発表された。30歳。
7月28日の日記「子供が電車にヒカレかかった。(出来事)」。8月15日「病院。かえって『出来事』の了ひを書き直して出来上がってひるね」この夜、友人と散歩にでて山の手電車にはねられて怪我をする。☆ この怪我の治療に城の崎温泉に行き『城の崎にて』を書く。
 
  4. 名作紹介・レストラン店内観察作品
 先週、時間がなかったので本日読みにしました。レストランに来た二人の殺し屋の様子がよく観察された作品です。もう五十何年前か「ルート66」こんなアメリカのテレビドラマがありました。二人の若者が町から町を旅して歩くストーリー。「殺し屋」の観察者ニックも、そんな若者のように思えた。「殺し屋」という、特殊な職業。
            5. 紙芝居稽古
 4月のガイダンスで「少年王者」の紙芝居をやってもらった。あのとき見学者は、20名以上いたが、あの紙芝居稽古で、すっかり敬遠されてしまった。で、今年はどうしょうか迷うところだが、表現するということで、紙芝居稽古も、つづけてみたい。芸術はどれだけ内なる自分を表現できるかである。「車内観察」「一日の記録」や名作を朗読することで、実践しているが、紙芝居口演も、また同じである。口演するのは、一つの物語だが、それぞれ自分流に表現すれば、違ってくるかも知れない。
 戦後のベストセラー物語を、より面白く再現してみよう!
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2007年、読書と創作の旅・提出原稿
提出原稿発表
車内観察
終電と造花
疋田祥子
 零時四十一分。池袋に到着した山手電車の扉が開く。皆、小さな歩幅で我先にと電車を降りる。降りたとたん、その場で吐瀉物をまき散らしてしまう人をよけてくねった列が、エスカレーターに続く。階段は、頭髪とスーツで黒く波打っているようだ。
 その人の群れに混ざって私も先を急ぐ。西武線の終電出発まであと4分。もたもた乗り換えをしていては逃してしまう。飲み物を買いつつ、速足で電車に乗り込む。階段からは遠い、割と空いている車両を選んで乗り、なんとなく携帯電話を見てほっと一息つく。出発まで、あと二分。自分さえ電車に乗ってしまえば、出発までの時間はとても長く感じる。できるだけ早く出発して欲しいと思う。その二分間でどれだけ人が乗ってくるかで、走行中の快適さに大きな差がでるからだ。
 あいかわらず携帯電話を見つめながら、ぼうっとそんなことを考えていた私の視界の端に、妙なものが映った。商店街のアーケードなどに飾られている、プラスチックの造花である。黄緑とピンク色のそれは、アーケードのポールではなく、一人の男の手に握られてあった。男はキョロキョロしながらも、ときに満足げにそれを眺め、上下に振ってみたりしていた。窮屈になってきた電車内で、およそ一人分のスペースをとっている造花は邪魔なはずのものであったが、私はなんだかそれがあることが嬉しかった。そして不思議と誰も嫌な顔をしていなかった。造花がおしりに当たっている女性でさえも。
 それはきっと、男の満足な気持が皆に伝わったのだと思う。ボロボロになったゴムとナイロンの靴と、一昔前の流行服は、男が自身で選んで購入し、自身で選んで今日着たのではないとわかる。だからわたしは、はっとしたのである。商店街を地味にダサく飾る、目にも止まらない造花の美しさを知って。
 だから造花を手に入れた彼の気分を害したくなかった。例え、その場にいた皆が私と同じ思いでなくとも、私は男を守る気持でいた。そのとき、私は男の嬉しい気持を守るためならなんでもできるような気がした。
 結局電車内はなにごともなく、男はある駅で意気揚々と降りて去っていった。
                                      (了)
□汗と酒の臭いが充満する終電車内。満員の乗客は、ぐったりして押し黙っているし、終電はなんか嫌な雰囲気ですね。家畜列車のようで・・・。そんな一日のゴミためのような場所に咲く花。商店街では見向きもしなかった造花なのに、ここでは美しく見える。そんな状況と光景が思い浮かびます。深夜の車内がよく観察されて描かれています。造花を持った男が、どんな人物だったのか。靴と服であらわされていますが、もう少し、男の人生を想像できるようなものがあれば、と思いました。
 ドストエフスキーの『白痴』でその意味についてよく問題にされる言葉があります。主人公ムイシュキン公爵の「美は世界を救う」あるいは「世界を救うのは美だ」という言葉です。「美とは何か」その人の人生や体験、考え方によって随分と違うものになります。
 ここで作者は、車中の乗客の誰もが感じた美について語っています。自分は、その美を守るためなら「なんでもできる気がする」とまで言っています。作者の作品は、野球でいえば九回裏二死満塁ときて一発逆転が多くみられます。この手法を磨いてO・ヘンリーのような作品が生まれるといいですね。それには、どんどん書くことです。
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2007年、読書と創作の車内観察
訂正 前回の「83号の車内」で間違いがありました。茂木愛由未さんの「子泣き爺」の出だし「電車の暖かい振動に誘われて」とありますが「電車の緩い振動」の誤りでした。
座席指定
 所沢から池袋まで、ときどき特急に乗車することがある。特急券だけだから安心して座席に座っていられる。が、たまに乗る新幹線や「あずさ」は、座席指定だから発車するまで安心はできない。かなり昔になるが、こんな出来事があったからである。
 団体さまで箱根温泉に旅行したときのことである。新宿から小田急線のロマンスカーに乗った。十数人で、皆顔見知りの人たちだった。私が切符を買った。子供もいたので、進行方向がよく見える先頭車両の最前列座席周辺を独占した。全員が座ったのを確認した。大人たちはビールのふたを開け、楽しい旅行がはじまろうとしていた。そのとき、発車間際に飛び乗ったのか、後方からあわてた様子でやってくる紳士がいた。席は全部埋まっている。トイレは後方にある。なんだろう、怪訝に思っていると、紳士は、一番前までやってきた。そうして空席がないのを確かめると、にわかに厳しい顔になって、ポケットから乗車券を出して確認してから押さえた声で、1号車A席1番の席の客に、子供だったが
「ぼく、そこの席、どいてくれる。おじさんの席だよ」と言った。
 私は、びっくりして大慌てで鞄から全員の切符を取り出した。紳士は、子供を押しのけて、もう座っている。子供は半べそをかいて立っている。親が気がついてやってきた。ロマンスカーは走り出した。鞄の中の切符を確認すると、番号は、その席の切符に間違いなかった。
「すみません、切符は合ってますが」
私は、恐る恐る言って切符をみせた。
「そんなはずはないでしょう」紳士は、ろくに見もしないで自分の切符を指し示した。「これ、ちゃんとAの1となっている。私の席ですよ」
「そんな、こっちだって、ちゃんと切符がありますよ」席をとられた子供の両親は、私からとった切符をかざして食ってかかった。一気に険悪な雰囲気になった。
「そんなことは、ぼくの知るところではありませんよ」紳士は、腕組みして言った。もう梃子でも動かん。そんな態度だった。
「どうするんですか」両親は、責めるように私を見た。
「とりあえず、この席に」私は、自分の席を子供に譲ってからた首をひねって、誰に言うでもなくつぶやいた。「と、いうことは。駅で間違って売ってしまったんですかねえ・・・」
「いつ、買いました」紳士は、悠然と聞いた。
「一週間前です。先週の今日」
「ああ、それじゃあやっぱり私の席だ。私は十日前ですから、私の方が早い」紳士は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。「たぶん機械のせいですよ。機械の」
「そんなことが・・・・」私は疑心暗鬼にかられながらも頷くよりほかなかった。
同じ座席の切符が二枚ある以上、機械か駅員が間違えて発行した。そう思うより仕方なかった。もしそうなら、座る権利は先に買った紳士の方にある。なぜかそう思ってしまった。
 車掌がやってきた。私は、思わず怒り口調で言った。
「同じ座席のが二枚あって、座れません。どうしたらいいんです」
車掌は、訝しげに私が差し出した切符をみた。ほんの一瞬、眺めたあと、
「この切符で、よろしいですよ」と頷いた。それをみて、紳士は憮然とした顔で自分の切符を差し出した。車掌は、手にとった瞬間、言った。
「お客さん、これ来月の9日ですよ」
「えっ!?今日じゃない?!」紳士は絶句した。そうして、かなりうろたえた様子で、乗降口がある方にこそこそ歩いていった。                (土壌館・編集室)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84―――――――― 6 ――――――――――――――――
7・2ゼミ報告
 7月2日(月)、は全員の出席でした。(敬称略・順不同)
参加者 : 疋田祥子 髙橋亨平 茂木愛由未 金野幸裕 山根幸裕
司会・進行:山根幸裕君(2)まだ快復状態途中のようでしたが、長めのテキスト、し
                っかり割りふりできたと思います。
1.ゼミ合宿について(担当者・疋田祥子さんから)抽選ご苦労様でした。
 日にち抽選結果報告・第一希望 → 8月4日(土)~5日(日)軽井沢がとれました。
 参加費用徴収のお知らせ(9日に)ゼミ生=3500円、担当=4500円
 ゼミ合宿授業予定について4日 → 自彊術・体操 マラソン読書 
              5日 →  (朝)自彊術・散策 見学
2.提出原稿「車内観察」の発表
 ・「今が幸せならば・・・」疋田祥子さん
  感想として、自分の塾通いの思い出が話された。全員、塾に通いだしたのは中学生にな
  ってから、とのこと。報告者疋田さんの子供の頃は、大変、勉強のできたお子さんだつ
  たようです。むろん、現在でもそうですが。
 ・「子泣き爺」茂木愛由未さん
  居眠りされたときの経験談が多くでました。たいていはそんなときは迷惑千万ですが、
  男の場合、相手に限ることもあるらしい。若い女の子だったりすると、重くも迷惑でも
  なくなってしまうとのこと。
3. テキスト草稿『小説網走まで』の読み
  草稿作品は、盆栽に例えると、まだ剪定していない木です。伸び放題に枝がのび、葉が
  繁り放題に繁った木です。草稿小説『網走まで』はまさに、この状態です。剪定の腕具
  合によって、盆栽は、名作にも駄作にもなるわけです。草稿「小説網走まで」と完成品
  『網走まで』は、この例の見本のような作品です。草稿には完成作品には、みられない
  私の心情も書き表されていました。その辺を注意して読んでもらいました。
   ※詳細は、連載「学生と読む志賀直哉の車中作品」参照。
4.. テキスト『網走まで』・車内作品比較夏目漱石の『三四郎』などの感想は
  提出原稿で。配布。
5.店内観察作品にみる名作紹介『殺し屋』 時間なくて次回ゼミ。
6. ビデオ観賞 2001年7月第一、第二、第三週日曜日昼12時30分日テレ放映
  日本テレビ番組「パーワーバンク」『おんぼろ道場再建』撮影180時間、放映45分
7.提出原稿
  提出 → 車内観察1本(疋田さん)
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2007年、読書と創作の旅・旅記録
連載6 (加筆、訂正しながらの連載)
学生と読む志賀直哉の車中作品
はじめに
 
 「小説の神様」志賀直哉は、多くの車中作品を書いた。想像で書いた作品もあるが、見たことをそのままを描いた作品もある。全体的にみれば、志賀直哉の作品は、長編、中編を含め、時間という列車に乗り合わせた人々の観察作品といえる。が、本論においては、実際の電車の車内、もしくは車外に関係した作品を対象にした。取り上げる主な作品は『網走まで』から『正義派』『出来事』『灰色の月』などである。いずれも短篇である。
 本論は作品論というより、車中作品を検証・考察することによって「小説の神様」ではなく人間志賀直哉の本質に迫ることを目的とするものである。
第一章『網走まで』を読む
その一「菜の花と小娘」という車内観察    その二 ゼミ学生の感想
その三 『菜の花と小娘』とは何か
 菜の花は、清楚な黄色から明るいイメージがある。そして、その明るさは、愛とか恋とかいった男女のことより家庭を彷彿させる明るさである。つまり菜の花は、家庭、イコール母を思い出させる花である。多感な青春期に鹿野山の山すそ一面に咲く菜の花を見て、志賀直哉が母を思い出さなかったと、誰が否定できよう。志賀直哉は明治28年(1895)12歳の夏、母を亡くしている。母・銀は享年33歳だった。直哉少年のショックはいかばかりだったか。家庭内観察をつづけてきた志賀直哉だが、亡き母のことを書いたのは、17年も後のことである。明治45年(1912)に「母の死と新しい母」を、大正6年(1917)に「母の死と足袋の記憶」を書いている。この歳月の長さが、直哉の悲しみの深さをあらわしている。
 直哉少年が、はじめて鹿野山の菜の花畑をみたのは、明治35年前後だという。年齢にして18、9の頃である。このころ、ただでさえ傷つきやすい少年の心を傷つける出来事が起こっている。明治34年は、日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒問題が大きく報じられた年である。この問題に関して7月に神田の青年會館で内村鑑三らが演説した。聴講した直哉少年は、大いに憤慨し、友人らと鉱毒地視察を計画した。が、父の反対にあい断念する。後年、「銅像」などで国家犯罪の戦争を憎む志賀直哉の正義感はこのころから根づいたと思える。このことが元で父との不和がはじまる。
 傷ついた少年の心を癒したのは、鹿野山に咲く菜の花だった。少年は、「菜の花」という作文を書くことで、母を思い、父との不和を忘れようとした。だが、直哉少年の身には、さらなる試練、不条理が降りかかる。このことが、作文を、文学へ、そして名作へと変えていくのである。その意味では、不幸や不和が「小説の神様」を育てたとも言える。
 明治39年春、23歳の直哉は一人で鹿野山に上り菜の花を眺めながら10日ほど過ごした。この年は7月に学習院高等科を卒業し、9月には東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。このことから、表層的には、比較的平和な順調な時期といえる。だが、直哉の心のなかは、いろんな悩みが渦巻いていた。この時期、読んでいたのは、島崎藤村の『破壊』だった。そこに直哉の胸中を推測することができる。『破壊』の主人公、瀬川丑松は、23歳。奇しくも直哉と同じ年齢である。瀬川丑松が直面した、社会の不条理。それはまた若き小説の神様が直面した不条理でもある。直哉は、丑松に自分を重ねていたのかも知れない。
 では、若き志賀直哉が、感じていた矛盾、怒り、嘆きとは何か。このころの日記をみてみよう。(Cが書かれた日にちのみ抜粋)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84―――――――8 ―――――――――――――――――
明治四十年(1907)
七月十五日 月曜日
 …、帰って夜ついにCを呼んで話した。Cは喜んでうけがつた。Cは余の友となった。
七月二十二日 月曜日
 …、夕方Cと話す。夜、Cと少し話した。
八月三日 土曜日
 …、夜Cと一寸話して写真をもらう。
八月十二日 月曜日
 …、夕方、帰宅。十時過ぎまでかかつてCへ手紙を出す。Cより手紙。
八月二十二日 木曜日
 …、この夜、Cと婚約を約す。C気を失う。
八月二十四日 土曜日
 …、Cとのことを祖母に話す。
八月二十五日 日曜日
 祖母、志賀家にないことだと反対する。
 父は洋行後相当な人を探すつもりなりし故いけないという。
 この日余はCと夫婦になる。
八月二十六日 月曜日
 祖母は如何にしてCに暇やらんかという。余怒る。
 Cと十二時まで話 祖母と両立せぬ場合はと弱いことをいう。
八月二十七日 火曜日
 …、祖母Cに余の部屋へ出入り禁ず。
八月二十八日 水曜日
 午前武者(小路実篤)来る Cを紹介する。午後より銀座の方を散歩、夜Cと話す。
八月二十九日 木曜日
 …、夜一寸Cと話す。Cを欺いて連れて行く、余翌朝四時まで苦悶、有島へ手紙を書く、
   怒り頂点に達す。
八月三十日 木曜日
 武者来る、共に泣く、午後祖母と話す、祖母と和す、事定まれりと喜ぶ、夜母の手紙を見
 る、武者来たりて Cはいまだこの地いるという。
九月二十一日 土曜日
 雨 武者と小見川へ行く 四時頃着
 夜Cと話す、Cの父母姉兄に会う、弟よさそうな子なり。
十月九日 水曜日
 …、Cより大至急の手紙あり帰りてその返事をだす。
十月十四日 月曜日
 午前祖母と話す、祖母の言う所全然要領を得ず 泣く、
 午後武者来る、Cへ第一信 Cより手紙
十月十五日 火曜日
 午前武者の所へ行き、午後より小見川へ行く、八時半頃着、Cの兄と父と話し後Cと話す
 十二時過ぎねる、
十月十六日 水曜日
 午前Cの叔父と話す、Cと話す、午後Cと文二、常次郎と山に行く、
十月十七日 木曜日
 朝Cと話す、九時出発川汽船にてCの母と兄とCと共に佐原へ行く Cと共に上陸、一時間あるのを別れて十二時の汽車にて四時半過ぎ上野着
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84
 この日記は、直哉の叶わぬ恋の記録である。恋の相手は志賀家に奉公する女中のCである。この時代、志賀家はどんな状態だったのか。大金持ちだったという話はよく聞くが、その経済基盤となっていたものは何か。年譜によると、代々相馬藩に仕え、明治になって父直温は銀行員となり、明治二十六年には総武鉄道に入社。専務取締役となった。成功した実業家ということか。麻布の三河台町に大きな邸宅を構え、何人もの女中や書生がいたという。このお大尽の家の跡取り息子が恋したのは、こともあろうに何人もいる女中の一人Cだった。
 現代ならば、たいした障害にも思われない職業差、身分差の恋もこの時代は、難しかった。いかに、将来「小説の神様」といわれた直哉であっても、この差別と偏見を打ち砕くことはできなかった。結婚の約束まで交わしたが、結局はダメになる。
 余談になるが、身分差が違う恋を描いた作品は、小説でも映画でもなぜか大いに受ける。『野菊野の墓』、『不如帰』、『椿姫』、『マノン・レスコー』、『チャタレイ夫人』、『ローマの休日』、『哀愁』などなどすべてが悲恋に終わる。人間は、階級のある集団動物と知る。
 差別、階級という目に見えぬ大きな壁。人間社会がどんなに平等になろうと、科学や文明がどんなに発展しようと、絶対に消えうせないもの、なくならないもの。若き「小説の神様」は、島崎藤村の『破壊』を読みながら、この不条理を受け容れるしかなかった。
『破戒』について(HPウイデペディア)
『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版。被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価した。
 人間社会を支配する差別と偏見という悪魔。この悪魔に敗れた若き小説の神様。傷ついた心を癒したのは、鹿野山の菜の花だった。春の陽光の下に咲き乱れる菜の花をながめながら、
志賀直哉と菜の花と小娘
 菜の花が人間のように会話する。この擬人法は、目新しいものではない。旧くはイソップ物語から使われてきた手法である。こうした擬人小説のほかに志賀直哉は、輪廻転生の話も書いている。仲のよい夫婦がいた。死んだあと、何に生まれ変わるかわからないが、必ずここに来て会いましょう、と誓う。やがて夫婦は死ぬ。どちらかだったか忘れたが、夫婦はニワトリとキツネに生まれ変わった。約束を思い出してその場に行く。が・・・残酷な結末である。もしかして志賀直哉は死後の世界を信じていた、あるいは信じようとしていたのかも知れない。その感覚が、作品の端々に感じる。なぜ、志賀直哉はそんな考えを持ったのか。
 3月31日に一人で鹿野山に遊びに行った志賀直哉は、4月11日頃まで山の上から谷底一面に花咲く菜の花を眺めて過した。鹿野山は、今日マザー牧場として有名である。子豚のレース、菜の花畑は観光の目玉となっている。が、当時も菜の花はすばらしかったようだ。
 谷間の菜の花畑を眺めながら、春の陽光のなかで直哉が読んでいたのは、最近刊行されたばかりの島崎藤村の『破壊』であった。前年、父直温は総武鉄道株式会社の取締役に就任している。経済的に恵まれ7月に学習院高等科を卒業、9月には東京帝国大学英文科に入学する直哉は、明治維新まで、士農工商という階級社会の中にも入れなかったエタと呼ばれる人たちのことをどれほど知っていただろうか。彼らは、士農工商が廃止された明治になってもその差別のなかで生きていたのだ。主人公の瀬川丑松は24歳。奇しくも直哉と、一つしか違わない歳である。『破壊』は直哉にどんな影響を与えただろうか。
 志賀直哉が、なぜ小説を書きつづけて行こうと決心したのか。これまで多くの評論家や読者は、貴族趣味の一点に終始してきた。が、『菜の花と小娘』を再読して編集室は、このように思った。春の鹿野山で直哉は、菜の花に母、銀を重ね、瀬川丑松の人生に義憤した。そうして、決心した。自分は「人類の幸せのために小説を書いて行くのだ」と。
次回へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84――――――――10 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅
8・4~5ゼミ合宿について
 8月4日~5日のゼミ合宿が抽選の結果、正式に決まりました。ゼミ合宿担当委員の疋田祥子さんご苦労様でした。まだ実施に向けての書類提出、現金徴収など事務手続きがあります。が、協力して、楽しく有意義な合宿にしましょう!
 ゼミ合宿の授業計画予定は以下の通りです。
○健康の為に自彊術(戦前の体操)をする。参加者は、動き易い服装で。(筋力体操・気功など併せて30~40分程度)
自彊術(じきょうじゅつ)
 戦前まで行われていた日本独自の健康体操・医療術。大正5年(1916)に中井房五郎という武道家が創案した。第二次世界大戦の敗戦で様々な理由から中止。昭和40年(1965)から復活。49年に文部省体育として承認された。(HP)
 「自彊」について → 2006年前の中国の古典『易経』の一節からとった。
            「天行健君子以自彊不息」
             「天の運行はすこやかである。人間は健康を保つためには、毎
              日、自ら勉めて休んではいけない」の意。
※正式に学んだものではないが、私の土壌館では、中高年者に受身稽古の前に筋力体操と一緒にこの体操を取り入れています。55~70歳までの会員が7年間実践している。
○合宿授業は、マラソン読書(中編書簡小説読破)に挑戦。
テキスト『貧しき人々』
 「読みだしたら、とまらない」かつて、新聞の広告欄でこんな宣伝文句をみかけた。昨年だったか亡くなったシドニー・シェルダン?とかいう作家の作品宣伝のコピーである。このキャッチフレーズにつられて書店の店頭で何度かパラパラと立ち読みした。が、何ページ読んだかも、どんな物語だったのか、いまは全く思い出せない。
 これまで読んで、面白かった小説は何か。大デュウマの『モンテクリスト伯』、小デュウマの『椿姫』、プーシキンの『大尉の娘』、吉川英治の『三国志』、司馬遼太郎の『竜馬が行く』など多々ある。長編書簡小説だがバルザックの『谷間の百合』も忘れがたい。面白い名作は数々ある。しかし、ダントツだったのは、『貧しき人々』この作品である。
 1845年5月5日、ドストエフスキーの下宿に友人のグリゴローヴィチがやってきた。(彼は、既に作家となっていた。後年、文壇長老としてチェーホフなど若手作家を育てた。)用事は、当時ロシアを代表する詩人で編集出版人でもあるネクラーソフ(1821-78)が、いろんな人の作品を集めた作品集の出版を計画している。紹介するから、作品をだしてみないか、ということだった。このときドストエフスキーは、作家になるつもりで勤めを辞め、小説を書いていた。24歳だった。で、先日、この友人に読んで聞かせた作品を渡した。 
 その夜、詩人と友人は、「どんなものか試しに読んでみよう」と読み始めた。10ページ読んだ。「なんだこれは・・・」二人は、もう10ページ読むことにした。が、気がつくとやめられなくなっていた。二人は一晩中、声を出して読みつづけた。読み終えたのは朝4時前だった。二人はいても立ってもいられなかった。寝ている場合じゃない。作者に会いに行こう!二人は、興奮して白夜の街にとびだしていった。ドストエフスキーの誕生の朝である。
 こんなことが真実あるのだろうか。実体験してみましょう!
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ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  高橋亨平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 7月9日(月)までの現段階は 
  済み【①ゼミ誌発行申請書】を提出した。提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。題名など。
  仮題「世界の車窓」、内容は車内観察、サイズA5版、印刷会社はコーシン出版に内定。
4. 7月下旬、夏休み前、編集委員は、原稿依頼し、締め切りを決める。
5. 9月末 夏休み明け、編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出しても
  らう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
ゼミ誌原稿を書きあげるポイント
 ゼミ誌掲載の作品は、一度に書こうとすると大変です。毎週コンスタントに提出原稿を書いて、そのなかの気に入ったものを手直しするのも一考です。そうすれば、締め切りも気にならなくなります。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84――――――――12 ―――――――――――――――――
話題 2007・7・4 読売新聞 夕刊 ナポレオンの恋文6800万円で落札
 1774年に出版されたゲーテの『若きエルテルの悩み』は、当時のヨーロッパに大センセーションをひきおこした。このとき5歳だったナポレオンは、後年、武将として頭角を現した。が、その頃、この作品を陣中にたずさえ「7回読んだ」といわれている。
 『若きエルテルの悩み』は、確かに名作だが、それにしてもナポレオンが「なぜ?」七回も読んだのか。その疑問がなかなか解けなかった。謎であった。が、この記事で頷けた。未来の英雄というか独裁者は、恋人を思う気持は、エルテル同然だったのだ。
2007・7・5 読売新聞 芥川賞候補作 『早稲田文学』から 22年ぶり
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2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇習作
連載4
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室
■主な登場人物
 
西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督   中島教一郎・・・・大和大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員     柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師 沢田 浩・・・・・ヒロシ。カメラマン
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
 タオ・・・・・・・ヤマ族の長老 シナタ・・・・・・長老の甥 
 ボト・・・・・・・ヤマ族の族長 ユン・・・・・・・ヤマ族の女性 
ニホン・・・・・・ユンと柳沢の子 オシム・・・・・・ヤマ族の若頭
  ビバット・・・・・ソクヘンの従兄弟 チャット・・・・・ヤマ族の若者
【前号までのあらすじ】プロローグ「遺跡に眠る者」
第一章〈赤い悪魔〉 一「はじまり」、二「ヤマ族の選択」、三「一枚の写真」、
第二章〈過去からの訪問者〉一「商社マン」、二「隊員たち」、三「闇の中」 
第三章〈クメール共和国〉一「密林の空港」、二「滅びの都」、三「日本橋にて死す」
 インドシナ最大の密林カルダモン山岳地帯に住む少数民族ヤマ族は、赤い悪魔のゲリラ徴集を拒否、兵士を殺害した。怒った赤い悪魔は攻撃してきたが、ヤマ族は鉄砲水と土石流を武器に利用して彼らを山から去らせた。雨季のあいだは、あきらめた彼らだが、雨季が終われば必ずやってくることは必至だった。逃れるには、乾季になる前に密林を抜けてタイ国境を越えるしかない。が、道はない。無謀に向かえばジャングルという大海にのまれるだけ。絶体絶命のヤマ族の長老が思いついたのは、10年前、シャム側からやってきた日本の若者たちに密林ガイドを頼むことだった。困ったことが起きたら、必ず助けにくる。若者たちは、そう言ってサムライの約束「キンチョウ」をした。いまが、その約束を果たしてもらうとき。ヤマ族の命運をになってプノンペン大学の学生ソクヘンは日本に飛んだ。しかし、10年という歳月。日本は高度成長真っ只中。10年前、大和大学で「アジア研究会」の学生だった彼らは、いまは社会の第一線にいた。隊長の西崎は、北アルプス山中でダム建設に、副長の中島教一郎は、母校に残って教鞭をとっていた。商社マンとなった高木は、アメリカ飛行機会社と政治家との裏取引に奔走していた。その航空機疑惑を追う、若いフリーカメラマン、ヒロシ。ある夕、ヒロシは、高木を尾行して新宿の喫茶店に入った。高木は、よくわからない五人の男たちと会った。三人は同じくらいの年齢だが、一人はあきらかに東南アジア人の若者だった。会話を盗み聞きした。異国人の若者はひたすら「アンナイ」を頼み、青年たちは、苦笑しながら断っている。そんな様子だった。よく解らないまま、その集まりは解散。彼らは、反戦フォークソングの歌声が流れる新宿の夜の街に消えていった。が、ヒロシは駅で偶然、異国人の若者と会う。若者は、風邪と疲れで熱をだした体だった。ヒロシは自分の下宿で若者を休ませ、事情を知る。青年たちが密林ガイドを渋っているのに怒りをおぼえる。
 そして、フリーカメラマンとして自分が撮るものはインドシナにあると知る。まだ、遅くはない。ヒロシは盗撮フイルムと引き換えに、密林ガイドの一員に加えてもらうことを頼む。
 7月の空に飛び立つジャンボ機。元アジケン隊五人とヒロシの顔があった。雨季の終わり、豪雨と稲妻が走る原野の空港に降り立った彼らを待つものは何か。赤い悪魔との戦慄の戦いがはじまる。
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第三章 クメール共和国
二 滅びの都・草稿
 午後三時過ぎだった。いつのまにか、雷雨と激しい雨を降らせていた黒雲は去って、クメール共和国の首都プノンペンの街を一面の青空が覆っていた。ヨーロッパ、それもフランスを思わせるレンガ造りの建物が建ち並ぶ、雨上がりのモニボン通りは、物売りと買い物客、それに難民と思われる人たちで賑わっていた。一見、平和そうに見える街並みだった。が、ところどころにあるバラ線と歩哨が、まだこの都が戒厳令下にあることを教えていた。
 一行は、通りのはずれにあるカフェ「パリ」にいた。広い店内はほぼ満席だった。が、そのわりには静かだった。彼らは二時間前、空港からリーセンの車二台に分乗してここに着いたばかりだった。彼らは、車を置きに行ったリーセン待っていた。
 
直しと書き足し
空港を出て首都にむかう間、視界がきかないくらい激しく降っていた雨だが、市街に入ったとたんカラっと晴れた。リーセンに案内
「雨季は終わったのか」西崎は思い出したようにつぶやいた。「明けるのは、いつだったけ」
「ソクヘン」中島副長は助手席のソクヘンの肩をたたいてきいた。「雨季、いつ明ける」
「場所によって違うですよ」車を運転しているリーセンが振り返って笑顔で言った。「プノンペンは、あと一ヶ月だが、山岳地帯は、もっと早い。」
「その、雨季のあいだに立ち去れというのは、新政権にとって都合がいいわけ」
ソクヘンも完璧に日本語ができるわけではなかった。それで詳しい話はしていない。元アジケン隊は、要するに武士の約束であるキンチョウを果たすためにきた。なぜ移動しなければならないのか、そのわけは聞いていない。
のなにかしら不吉なものを感じていた。不安があった。ヤマ族の集落に行き方として、十年前に行って知っているタイルートを考えたが、鎖国が解けたいま、カンボジア側から入った方が最短だった。それに、あの密林を迷わずに縦断し再びヤマ族の集落にたどり着く自信がなかった。政変で政情が不安定とはいえ、集落までの道のりをよく知っているソクヘンにこちらから案内してもらう方が得策だった。
 しかし、疑問はあった。最初、ソクヘンからインドシナ北部への密林案内の依頼を受けたとき、中島教一郎も西崎も首を傾げて問い直したものだ。
「ソクヘン、君が案内して山を下りればいいじゃないか。それに、なぜタイ国境に向かうのだ。カンボジアに下りれば。なにも我々がわざわざいくことも」
しかし、この疑問にソクヘンはなぜか
「ヤマ族はクメール人ではないから」としか答えなかった。
 カンボジア側にくることは、政治的に難しいとも説明した。少数民族問題は、どこの国でもある。政変でカンボジアの国内に住む少数民族の立場がどのように変ったのか、彼らには知る由もなかった。ヤマ族には、タイ国境をめざさなければならない事情があるのだろう。その案内を日本まで頼みにくるのだから、よほどの事情かも知れない。そう理解するしかなかった。ヒロシには、そんな疑問は何もなかったが、西崎隊長はじめ五人の青年は、その疑問を抱いたまま、とにもかくにもカンボジアにやってきた。日本での報道では、この国のことはまったくわからなかった。が、空港に降りたとき、なんとなく、いまだ戒厳令下にある張りつめた情況を知ることができた。政治は、まだ安定していないのだ。
 激しい雷雨の中、車は原野に一直線に伸びた道路をどこまでも走った。左手に列車が走って行く。屋根の上に人やら荷物を満載している。窓からは人の顔、手、足がでている。
「もうすぐプノンペンです」ソクヘンは、人いきれ
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老人も盲目の詩人もラーマヤナを弾きながら歌う
滅びの中の滅びの都
                                    
 かってこの国で怪しげな青春時代を過ごしたフランスの作家、アンドレ・マルローは遺跡盗掘者を描いた作品『王道』のなかで、この国の首都プノンペンのことをこう表現していた。政変から五ヶ月、まさに戒厳令下のこの街は、その言葉がふさわしかった。地方から流れてきた物乞いと娼婦。それらはほとんど十五歳にもならない、小さな子供たちだった。
 クーデターで、それまで鎖国をしていたカンボジアは、開国した。そして、カンボジア領内にいるベトコンを一掃するために、アメリカ軍の兵隊が進軍し駐留することになった。そ
の兵隊の日用雑貨を生産、輸入、販売まですべて取り仕切るというのだから羽振りはいい。
 三時を過ぎていた。一同、モニボン通りにあるカフェ「ル・モンド」に入った。広い店内のテーブルは華僑らしい客で満席だった。
「なぜ、中国人が多いのか」はその夜、メコン河畔にあるレストランで祝杯をあげた。深夜、店を閉めるとセンは六人を奥の部屋に呼んだ。テーブルの上に、カンボジアの地図がひろげてあった。
「ほんとうに、ヤマ族の集落まで行きますか?」
センは、皆の顔をみると、確認するように聞いた。
「ええ、もちろんです」西崎隊長は、なにをいまさらといった顔をしながらも力強く頷いた。「そのために来たんです」
「なにか、あるんですか、問題が」
中島副隊長は、不審そうに聞いた。センの言葉に何かを感じ取ったのだ。
「問題ですか」
センはつぶやきながらソクヘンの顔を見た。
 ソクヘンは、困った顔でうつむいた。センは、一瞬のうちに看取した。華僑として生き延びた勘で、彼らは全く現実を知らないできた。ソクヘンは、肝心なことを話していない。そ
うみてとった。
「ただ治安が悪くなったんですよ。おわかりでしょう。無血クーデターといっても、シアヌーク殿下からロン・ノル将軍に変ったことは、白から黒に、黒から白に変ったほどの変りようなんです。混乱しています。とくに山岳地方は」
「ゲリラですか」
「そうです」
「ゲリラだったら大丈夫じやないんですか」西崎隊長は、言った。「彼らは民間人には手を出さないんでしょ」
「岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』すばらしかったです。ゲリラの潜入記ですけど」
ヒロシは、うれしそうに言った。
「ここのゲリラは、ベトナムのゲリラと違いますよ」リーセンは苦笑して言った。「サルという元教師が指揮しはじめてから山賊から赤い悪魔と呼ばれるようになっているんです」
「赤い悪魔?!」
「以前はクメール・ルージュ、赤いクメールと呼ばれてたからです。とにかく評判が悪い」
「でも、ちゃんとした共産主義者なんでしょ」
「共産主義者!まあ、そうですが・・・・」
「だったら――」西崎隊長は、言いかけてやめた。りー・センは、いまアメリカ軍の日用品で大もうけしている。現政府に反対するゲリラのことを悪くいうのは当然のことだ。
「みなさんがヤマトン族のところに行かれることには反対しませんし、また、行ってくれなくては困ります。ヤマトンといいますから、日本の別名、ヤマトに似てます。ヤマトン族と
直しと加筆
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84――――――――16 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出状況(7・2現在)
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、髙橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(車外も可)=髙橋亨平(1)山根裕作(2)疋田祥子(4)茂木愛由未(2)
□ 一日を記憶する=髙橋亨平(1)、山根裕作(1)疋田祥子(1)茂木愛由未(1)
          金野幸裕(1)
□ 読書感想、社会コラム、他
ドストエフスキー関連
■亀山郁夫氏講演会(東京外国語大学学長)
月 日 : 2007年7月30日(月) 午後6時30分~午後8時
会 場 : 銀座・教文館9階、ウェンライトホール 無料
      定員100名、先着順 TEL03-3561-8447
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年8月11日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : フリートーク 作品『白痴』第三回目
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年8月3日金
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : コメンティター5名。
題 目 : 『ドストエーフスキイ広場』合評会      関心ある人は下原まで
出版
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えて
ゲンダイ文学であり続ける。 
※ 集英社『21世紀ドストエフスキーがやってくる』2500円 
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
も言います。名前もそうですし、穏やかで、よい少数民族です。わたしもヤマシルクは、すばらしい織物。ずっと商売してきましたが、彼らから嫌な思いをさせられたことは一度もありません。本当にいい部族です。残念ながら、前政権も現政権も友好的ではない。むしろ追っ払いたいと思っている。だからぜひタイ国境まで、案内して欲しいのです。ソクヘンも、そのために助けを求めに行ったのです。わたしも協力したいのです。わたしはただ、気をつけて行ってほしいのです。十年前の約束を守ってきてくださった皆様の勇気、親切が無駄になってはいけないと」
「ご心配、ありがとうございます」西崎隊長は、頭をさげた。センが本当に自分たちのことを案じていてくれると思うとうれしかった。見ず知らずの彼が、それほどまでに考えてくれるのは、ヤマ族のことが心底好きだからだろう。ぜひ、ヤマ族のガイドして、彼らを無事タイ国境まで送り届けてやろう。改めてそう決心するのであった。明日の夜になって、リー・センの舟で出発することにした。
三 日本橋に散る
 皆は、プノンペンの繁華街モニボン通りのレストランにいた。パリでの出来事。広東人に間違われ兵士に囲まれるが、ジャポンで切り抜ける。
 メコン河畔の歓楽街は、騒々しかった。ボリュームいっぱいにあげた音楽、エレキの生演奏、やら酔っ払いの歓声、それらの騒音に混じって時々銃声まで聞こえてくる。アメリカ軍が入ってきて、この国はまるで変ってしまった。しかし、通称日本橋の上は不気味なほど静かだった。雨が上がった後、夕涼みの人々が三々五々、欄干にもたれて、満々と水をたたえて流れるメコンの川面をながめていた。戒厳令はひかれたままだった。あちこちに歩哨がいた。が、彼らの顔に緊張感はなかった。中島とソクヘンは、橋の中ごろまで話ながら歩いて行った。
「立派な橋だ」
「なぜ、ニホンバシというんだい」
「それは、かんたんです」ソクヘンは笑って言った。「日本人がつくったからです」
「文字通りか、それじゃあ、日本人も、もつと評価されてもいいなあ」
「エコノミックアニマルだけじゃじゃないとこを」
「ぼくが知ってますよ」ソクヘンは笑った。
「そうだな、みんなに評価してもらうことじゃあないな」西崎は言った。
「武士は、己を知るもののために死す。まさにぼくたちにぴったりだ」
「あの舟じゃないですか」ソクヘンは指差す。明かりが二回点滅した。
「やけに小さいな、乗れるのか」
「七人だろ、船頭いれて八人か、大丈夫、十人は乗れるよ」
 日本製の小型車が、橋のなかほどで停まった。運転手が顔をだして、近くにいた中島に声をかけた。タバコの火を貸してくれ、そんなふうに見えた。しかし、河畔にいた、歩哨には、停車の口実とみえたようだ。突然、大声で何か叫んでかけてきた。
 とたん、夕涼みしていた、男たちが、一斉に腰をかがめて発砲しはじめた。不意をつかれて歩哨は、ばたばたと倒れた。夕涼みの男たちは、歩哨の銃を拾って、銃声を聞きつけ集まってきた政府軍の兵士と応戦しはじめた。驚いたのは、西崎たち七名だ。橋のたもとでリー・センが、早く、早くと手招きしている。皆は、欄干沿いに、這うようにして走った。頭上を
―――――――――――――――――――― 17 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84
ピューピュー音をたてて弾が行き交っていた。兵隊たちが、一斉に駆け出した。みると、夕涼みの男たちは、反対方向に逃げていく、運転手も車をそのままにして逃げていくところだった。銃声がやんで、不気味な沈黙が流れた。次の瞬間、大音響がして、小型車が爆発した。閃光と火柱で、空中高く、吹き飛ばされた車が見えた。そのなかに何人かの人間の体もあった。つづいて、夕涼みしていた男たちがいた橋のあちこちが次々、爆発した。大きな日本橋は、ゆっくりと落ちていった。大きな水しぶき。
 皆は、河上の船着場に急いだ。
「副長は」
西崎は皆をみた。
 中島の姿がなかった。
「センセイが」ソクヘンは、叫ぶ。
「車の近くにいたぞ」
「よし、戻ろう」高木は、あわてて言った。
「まて、みろよ」西崎は指差す。
 目の前のメコンの上と、河面をいくつものサーチライトが照らし出していた。橋は、無残にも橋げたを残すのみだった。橋のたもとは、大勢の政府軍で埋まっていた。
「いっしょに落ちたのか」
そのことは、だれの目にもあきらかだった。空中に吹き飛ばされた人間の近くで、キラリと反射するものを確認していた。メガネのようだった。
「わからん、が、車の一番近くにいた。それは確かだ」
「じゃあ、河に落ちたか」
「わからん、もしそうだったら、この流れと水量だ」
「日本大使館に、届けよう」
「そんなことしたら、われわれの存在が知られてしまう。ゲリラにも筒抜けだろうから、このジャングル案内は中止するしかない」
「中止しないでください。お願いします。助けてください」
「しかし、副長は、どうする」
「もしかして、生きているかも知れん」
「どうします」
 選択に余裕はなかった。西崎呻いた。まさか、こんなところで、こんな事態になるとは思ってもみなかった。十年前、探検した密林の中を道案内をする。そう難しい作戦ではないと考えていた。辛い探検であったが、遺跡や、マンブローの林はなつかしいばかりだった。しかし、突然の悲劇に、この旅は考えていたより困難に思えてきた。
「日本大使館に行って相談しよう。ヤマ族の人たちのことは国連に頼めば、なんとかしてくれるだろう」柳沢は、早口でせきたてた。
「だめです、時間がないんです。やつらは、雨季が終われば、山に登ってきます。全員、皆殺しにされてしまうんです」ソクヘンは、必死に訴えた。彼にすればやっとここまで連れてきた密林ガイドに、こんなところで帰られたらたまらん話だ。
「皆殺しなんて、大袈裟な、ゲリラがそんなことするはずないだろ。ベトナムでソンミ村の村人を虐殺したのはアメリカ人だ」
「ベトコンとは違います。奴らは、悪魔です。恐ろしい悪魔なんです」
「げー、それなら、なおのこと、そんな連中がいるところへ行ってどうなる。ジャングルを道案内するだけでも大変なのに」
 進むか、残るか。言い争ったが、選択の余地はなかった。川岸の道路に何台も軍用トラックが停車し、荷台から兵士たちが次々と飛び降りてくる。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84――――――――18 ―――――――――――――――――
「よし、決めたぞ」西崎隊長は大きく頷いた。「俺は行く。残りたい者は残って、日本大使館中島助教授を探してくれ。もし最悪の場合のときは、弔ってくれ。それから、もし八月十五日までに戻らなかったら」西崎は、一瞬思い巡らせてから言った。「二十日にしょうか。それまでに戻らなかったら骨をもって日本に帰ってくれ」
「お願いします」ソクヘンは、船のうえから何度も頭を下げて頼み込んでいた。
「乗りかかった舟だ。中島も、言うだろ」
「そうだな、いまさらじたばたしてもしょうがない」高木武司は、飛び乗った。「どうする」
「むろんだ。おれは」
「なんだ、なんだよ」柳沢は、躊躇する。
「早くしてください」ソクヘンは、叫んで指で示す。向こうから大勢の兵士がやってくるところだった。
「ぼうやは、どうする」
「行きますよ。どこまでも」
ヒロシは、むっとした顔でシャッターをきると、桟橋から飛び移った。
「よししゃ、まあいいや、決めた。おれは行く」
柳沢医師は、意を決した。はじめて自らの意思で自分の人生を決めた瞬間だった。大病院の息子に生まれた彼は、これまで常に誰かが彼の前途を決めていた。幼稚園、小学校は母親が、
高校大学は父親が、そして現在勤める大学病院もすべてそうだった。アジア研究会も、研究
室の主任教授に進められてだった。上司の教授に、アジアの少数民族に日本人と同じ骨格探しの野心があった。
「よし!全員か。オーライ」西崎隊長は、叫んだ。「さあ、行ってくれ」
「バンハイ」中年の船頭は、頷いてエンジンの紐を引いた。
スズキのエンジンは軽い音をたてて動き出した。六人を乗せた舟はいきなり動き出した。
「出発!」
「中島、待つてろ。帰りに迎えにくる」
一同、両手を合わせる。だれもが、中島教一郎が、もはやこの世にいないことを理解していた。それほどにメコン河は広く、流れは速かつた。
「くそ!一番のまとめ役がなあ」
西崎隊長は、無念そうにはき捨てた。
その思いから逃れるように舟は、猛スピードをあげた。いきなりのスピードに五人は、不安顔になった。が、すぐに、その理由がわかった。
岸辺から叫ぶ声がした。暗がりの土手から兵士たちが何人も駆け下りてくるのが見えた。河面に爆竹音が響きわたり、線香花火のような赤い光が瞬間的にあちこちで飛び散った。兵士たちが、一斉射撃をはじめたのだ。背後の方で水面にドボンドボンと何かが落ちる音を聞いた。
「ヤバイぞ」
弾丸の雨とわかって皆は緊張した。が、小型船は、スピードをゆるめながらも軽快なスズキエンジンの音をたてて、北上していった。周囲は墨を流したように真っ暗だった。水しぶきの音意外なにも聞こえなかった。緊迫した状況が続いたせいか。皆は押し黙っていた。が、高木は、思いだしてつぶやいた。
「リー・セン商店の社員はどうなったんだろう」
「兵隊たちに捕まったかもな」西崎は舌打ちした。
―――――――――――――――――――― 19 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84
「大丈夫だって、言ってます」ソクヘンは、中年の船頭から何かを聞いて笑って言った。「リーセンさんが撃たれた、ロンノル政権の大物と親しいんです。中島センセイも探してくれるかも」
「なんだよ、それなら逃げることなかったじゃん、バンバン撃たれちゃって、弾が届くところにいたら、危なかったじゃん」
柳沢は、不満そうに言った。
「さっきは、逃げなきゃだめでした。兵隊、怪しいと思ったら見境ありません」
「それもそうだ」
皆は、一斉に安堵のため息をもらした。
 中島助教授の悲劇はあるが、緊迫した極度の緊張状態が悲しみを上回っていた。強ばっていた顔がゆるんだ。皆の緊張はようやく解けた。
    
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.84――――――――20 ―――――――――――――――――
6月4日ゼミでテキストの『網走まで』を初読みしました。
○ 題名について → なぜ『網走』としたのか。函館、札幌、旭川ではダメか。
  「遠いところ」「北の果てのイメージ」
○「網走」という地名について → どんなイメージがあるか。
○ 同席の女の人について → 彼女が網走に行く目的は何か。網走での生活は。
○ 頼まれたハガキについて → 誰と誰にだしたものか。
○ この作品は、当時、東京帝国大学で出版していた雑誌「帝國文学」に投稿するが没にな
  る。武者小路実篤など、後年白樺派文学の中心作家たちが推した作品である。なぜ「帝
  国文学」の編集者は採用しなかったのか。作者・志賀直哉は字が汚かったから、と思っ
  た。が、推理すれば、どんな理由が想像できるか。
 【テキスト車内観察】、志賀直哉の車内観察作品のなかで短篇ながらとくに観察が鋭いのが配布する「夫婦」です。車内観察(乗客観察)の手本もいえます。
 夜、友人宅からの帰り。電車の向かいに座った若いアメリカ人の夫婦と幼い娘。アメリカ人は、戦時中は鬼畜米英だったが敗戦後は神の存在になった彼ら。しかし、彼らも自分たちと同じ人間、夫婦であった。夫婦間のちょっとした無意識の仕草に、普遍の機微をとらえた優れた観察文である。
 
          3.同時期の車内観察作品
 【同時期の車内観察作品】、夏目漱石『三四郎』から車内観察の部分を読む。『三四郎』は、流行作家が書いた新聞小説。『網走まで』は、無名の文学青年が書いた同人誌作品。
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テキスト『網走まで』の感想
テキスト『菜の花と小娘』の感想
社会観察「           」

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