文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.331

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2017年(平成29年)12月18発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.331

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/25 10/2 10/16 10/23 10/30 11/6 11/13 11/20 11/27 12/4 12/11 1/15 1/22 1/29 

テキスト読み(志賀直哉・ドスト他) &熊谷元一研究

 

熊谷元一研究  画集「てんしんらんまん」を全会員に発送

 

秘蔵の画集『てんしんらんまん』ついに陽の目を

 

熊谷元一写真保存会(会長・岡庭一雄)は、このたび会費還元として、昭和48年(1973)に秀文社から刊行された元一先生の「てんしんらんまん」の画集を、「秀文社・北林明様のご厚意によりご提供受けましたので」として全会員に発送した。

この画集は、子どもたちが性への目ざめを遊びに取り入れた絵の数々。大らかな時代の空気が伝わってくる。まさに「てんしんらんまん」の題名がふさわしい。しかし、当時、放送禁止用語やわいせつ物陳列罪が心配されたことから秘蔵作品となった。

熊谷元一の、大抵の作品を目にしている編集室も、ほとんどが初めての画。刊行してから44年を経て、漸く陽の目をみた作品といえる。

 

藝術か猥褻か「四畳半襖の下張」裁判を想起

藝術か猥褻か。この画集が刊行された頃、永井荷風の「四畳半、襖の下張」が裁判で争われ話題となった。大袈裟にいえば、この画集は、あの論争に匹敵する作品といえる。

 

月刊誌面白半分』の編集長をしていた作家野坂昭如は、永井荷風の作とされる戯作四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。これについて、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長・佐藤嘉尚が起訴された。被告人側は丸谷才一を特別弁護人に選任し、五木寛之井上ひさし吉行淳之介開高健有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請して争い、マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(野坂に罰金10万円、社長に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。

 

「てんしんらんまん」に収録されている、絵の題名です

 

『さてまた飯田の』『だいのこ だいのこ』

『一里行っちゃあ』 『嫁さま へさま』 『男と女』 『しょうべんくぐり』

『女の中の』 『まつえさっちゅっても』 『食べ物は』 『おしりまくり』

『だあれのちんぼ』 『たつくらべ』 『べんちょ べんちょ』

『ちんぼくらべ』 『とんぼ とんぼ』 『とんびは信濃の』

 

〒「熊谷元一写真保存会」様、ありがとうございました。下原敏彦

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画集にそえて

このごろの、こどもたちの多くは、学校から帰ると、学習塾だ、やれおけいこだ、と、いそがしい。ひまがあると、テレビを見ながら、マンガの本を開いている。村のこどもたちでも、自然の中にとびこんで、おもうぞんぶん、あそぶことが少ない。大正のころ育った、わたしたちのことを、ふりかえってみると、学校から帰るが早いか、かばんをなげ出して、外へとびだした。

山をかけあがり、野を走り、夏は川で水泳ぎ、それこそ暗くなるまで、あそびほうけたものだった。

友だちのすすめもあって、当時のあそびを絵にして、一集にまとめることにした。これまでの出版界では、こどものあそびの中で「ちんぼ」にかんすることは、めったになかった。言葉の上でも「ちんぼ」「べんちょ」などはあからさまに、使われなかった。

それで、この画集では地方出版の気やすさもあって「ちんぼあそび」

画集「てんしんらんまん」の解説冊子

 

この絵の製版は、写真製版でなく、全ての色わけを

わたし自身がしたので、五色六色と色を重ねるうち

に、色のずれもでてきたが、手づくりの画集として

ごかんべん願いたい。・・・

昭和48年10月 熊谷元一

 

を前面におしだし、「ちんぼ」「べんちょ」の言葉もむ、なにはばかることなく使うことにした。あつかったあそびは、こどものころの体験を中心にして、老人や友だちから、聞いた話も少し加えて、なるべくありのままに、描くことに、つとめた。

内容の表現には、ご婦人がごらんになっても、赤い顔をされるようなことがなく、すかっとして、健康で明るい感じを、もてるようにつとめた。

絵には説明はふようであるが、これはこどものあそびのきろくの意味もふくめて、それぞれのあそびについて、多少の説明をつけることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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絵について

 

さてまた飯田の

 

明治のころは、ゴムまりが少なかった。多くはおばあさんのつくってくれた、糸がかりの手まりであそんだ。伊那谷につたわっている、手まりうたは数多くあるが、ここでは「さてまた飯田の」をとりあげた。

飯田城を中心に、街まちや付近の名所がうたいこまれている。このうたのあとにつづく部分は

ただ一筋の大横町

 

手をひきよるは愛宕坂

 

松川橋をうち超えて

 

心細々下茶屋の

 

行くも帰るも観音で

 

腰うちかけて煙草すう

 

あれ見やしゃんせ 白山の

 

榎にとまる烏さえ

 

縁とつなげと鳴くわいな

 

 

 

 

 

 

 

だいのこ だいのこ

 

慶應生まれの、伊賀良出身の、そぼから聞いたはなし。小正月に、こぞうたちが、先をちょっとけずった、すりこぎのような棒を持って、「だいのこ だいのこ」と、あげたり、さげたりして、あそんでいたとのことであった。

辞書によると、「だいのこ」とは、「男根」とあるから、ちんぼをかたどったものだ。そうだとすると、あげさげしただけでなく、時には女の子を追いかけたにちがいない。

 

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一里行っちゃ

 

大正のころ、おもに男だけで、くるいやっこ(ざれあうこと)をした。組をわけるわけではなく、勝負もなく、ただ上になったり、下になったり、くすぐったり、ひっぱたりしてざれあうのだ。

時には「あのこびい、なまいきたで、やっつけてしまえ」というようなこともあって、女の子をひっぱってきて、「一里行っちゃあモソモソ」と、足の方からくすぐっていく。きゃあきゃあいうのがおもしろくて、だんだんしりの方へ手をまわす、ほかの女の子がたすけにきて、大さわぎしたこともあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『一年生』考察 ① 岩波写真文庫『一年生』を読む

 

  1. 表紙写真の謎 写真どころではなかった入学式の日(1)

 

岩波写真文庫『一年生』は、1955年3月に出版された。同年9月16日に第一回毎日写真賞を受賞する。撮影したのは、1953年4月~1954年3月末日。小学校教師、熊谷元一(44)が担任となった一年生を撮影した。一年生は、東組、西組の二クラス66名。熊谷が受け持ったのは東組33名だが、ベテラン教師として西組も見守ることになった。西組の担任は原房子(18)。熊谷は、こどもたちの学校での生活を一年間撮った。

表紙となった、入学式の日のこの写真は、厳密に言えば、私たち東組・西組の子どもたちではない。もちろん付き添いの母親たちも違う。熊谷は一年生を写しにあたり、前年の秋、岩波写真文庫の編集部を訪ねたおり、岩波写真文庫の主任・名取洋之助氏に『かいこ』のあと、「次は何を写しますか」と聞かれ「私は昭和二十八年に新しく担任する一年生の生活を一カ年撮影したい」と答えた。それだけに、新学期がはじまった4月1日の、この日は、かなり張り切っていたと想像する。が、この日、とんでもない事が起きた。なんと、西組の担任の先生が病気で入院してしまったのだ。写真は、学校の仕事ではない。あくまでも私的な、個人的趣味。新入生は、66名のこどもたち。親たちへの話もある。東組・西組。この日の、熊谷は、大忙しで写真を撮るどころではなかった。

一年生の一年間を写す。早くも熊谷の計画はとん挫した。それ故、表紙は翌年1954年の一年生となった。写真は、1学年下29年入学の子どもたちである。【1954年4月1日撮影】

 

□35号から

〈撮影時の謎〉上記表紙写真は1954年撮影となっている。

 

入学式の日、校庭に入ってくる一年生とその母親たち。その表紙写真には、謎がある。4月1日の入学式の朝、母親とピカピカの一年生が、不安と期待で校庭に入ってくる光景。それ自体は何の不思議もない。が、この一年生は、被写体となった私たちの学年ではない。むろん母親たちも違う。表紙写真の一年生は、全員一学年下の子どもたちとその母親である。撮影日も1954年となっている。なぜ、こんなことになったのか ? 確か熊谷は、1953年(昭和28年)入学の一年生を撮ると決めていた。被写体と撮影年月が違っても、全体にはそれほど影響はないと思うが、真実が命の記録写真である。疑問に思うところである。    なぜ表紙写真は、一年遅れの1954年(昭和29年)入学の一年生になったのか。

 

 

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〈誤算〉1953年入学の一年生は66名、東組・西組の二クラス

 

不運は、結果的には幸運

 

何事にも誤算はつきものだ。熊谷が計画した担任となる一年生を一年間撮る、という計画は、初日から頓挫することになった。(もっとも、この不運は、結果的には幸運となったのであるが)昭和28年(1953)この年、長野県下伊那郡会地村、村立会地小学校に入学したのは66名は、東組33名、西組33名の子どもたちだった。熊谷が担任することになったのは、東組33名の子どもたち。熊谷は、写真を撮るということもあって、意気込んでいた。「この前、一年生を受け持った時の失敗を反省して、ああしたらいいか、こうしてみたらなどと」(岩波写真文庫『一年生』)思いめぐらせていたのだ。

 

【創作ルポ】     1953年 入学式の朝 再現

 

それだけに熊谷にとっても、緊張と不安でいっぱいだった。この日、熊谷は、学校現場で誰もがやったこともないことをはじめることにしていた。日本はおろか世界中の教師が、やったことのないこと。それを実行しようとしていたのだ。ところが、その日の朝、そんな熊谷の教師生命を賭けた大計画を、ハナから挫くようなことが発生した。

この日の朝早く、正確には1953年(昭和28年)4月1日の7時前、熊谷は胸高ぶらせて登校した。校門をくぐると、立ち止まって何度もアングルを確認した。空は快晴、桜は満開。あとは最初の一枚を、どのように撮るかだ。表紙にしょうと決めていた。それだけにこれまでさんざん考えてきた。昨日、構図と距離を決めたが、まだ迷いもあった。つぎに被写体だ。やはり、最初は受け持つことになる東組の子どもがいいだろう。どこの集落の子が一番乗りか、楽しみでもあった。熊谷は、急いた気持ちで職員玄関に向かった。そのとき、職員室の窓があいて、保健室の有馬先生が顔をだした。

「せんせい、せんせい」

彼女は大声で呼ばった。なにか、あわてた様子だ。

「せんせい、大変、大変です」

いつもは陽気な彼女だが、笑顔がない。熊谷は不安になった。

「せんせい、K先生が入院されたんですって!」

有馬先生は、待ち切れずに玄関まで迎えに来て言った。

「えっ!K先生が!?」

「今朝、倒れて、飯田の病院に緊急入院したと奥様から連絡ありました」有馬先生は、息を切らせて言った。

「そうすると、学校には・・・」

熊谷は、つぶやいたが、頭のなかは、真っ白になった。

K先生は、定年前のベテラン教師。性格温厚で気兼ねのいらない人だった。写真のことを話すと協力を約束してくれた。それ故に、今日は、大いに頼みの綱にしていた。その先生が、欠席する。ということは西組の子どもたちの面倒もみなければ・・・

カメラで写している場合ではないな・・・熊谷は、恨めしげに窓から校庭を眺めた。登校してくる子供たちがみえた。残念だが、今日は、新入生の世話に専念しよう。はじめて学校にきた一年生のいろんな場面の撮影を計画していたが、全てあきらめることにした。

熊谷は、几帳面な性格だけに無念な思いだったに違いない。西組担任教師の突然の入院ということで入学式の写真撮影は、次の年に持ち越される事になった。そんなわけで『一年生』の入学式の日は、すべて翌年1954年の入学式となった。

【1954年4月1日撮影】

 

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写真撮影になれるまでの歳月

 

(入学式の日を除いた)9頁までの写真を観ると、子どもたちが学校や授業、カメラに慣れてきたことがわかる。しかし、それは入学してからどれくらい経ってからか。月日が入っていないのでわからない。が、子どもたちの服装から推察できる。子どもたちは皆、半袖シャツを着ている。

そこからわかることは、季節は夏に近い――ということは、入学して3、4カ月あと、あるいは夏休み明けということもある。(8月16日以降)

いずれにせよ、このような写真が撮れるようになるまで半年近い月日を要した。そのよう想像するところである。

 

 

前号の考察  撮影開始の頃 1953.4~

 

熊谷は、いかにして写真を撮ったか

 

誤算が、名作を生む

 

熊谷にとって、突然、現れた若き女教師、原房子先生の登場は、誤算だが、幸運の奇跡ともいえた。もし西組担任の先生が病欠でなかったら、担任する東組のみの撮影となったかも知れない。ベテラン教師同士、やはり遠慮ということもあり西組の子どもたちを頻繁に撮るわけにもいかなかっただろう。原房子先生が教師未経験な若い代用教師だから、自分が教えながら自分主導で出来る。そのことを思うと、西組教師の誤算は、「一年生」撮影には、必要不可欠な出来事だった。

繰り返しとなるが、歴史に「たら」「ねば」はないが、もし西組担任が健全で、女教師原房子先生の登場がなかったら『一年生』この名作は生まれなかったかもしれない。

 

下の写真は、新任の原房子先生の授業風景。最初の一枚、誤算の幸運

 

 

写真撮影の協力を頼む

東組35名の児童に加え西組31名の児童と自分の子どものような若すぎる女先生の指導を抱えてしまった熊谷だが、とにもかくにも写真撮影は実行しなければ。そのことを新任の女先生に話すことにした。そのときのことを彼女は、このように書いている。

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「最初に熊谷先生から『一年生』の写真文庫を作るから協力して欲しいということを伺い

ました。その時は、正直いってどんなものかわからず軽く受け止めていました。(それが後になって毎日出版賞を受賞されこうして現在に至るまで輝きつづけるとは、あの時は夢に

も思いませんでした。)熊谷先生と一年生の教え子の皆さんとの出会いが『一年生』という貴重な記録として風化されずに残されたことは私にとってこの上ない幸せだと思っております。先生一年生の私は、熊谷先生にお世話になるばかりでしたが、音楽とダンスの指導は私の担当でした。」(『還暦になった一年生』2010.4.10より)

 

最初の撮り方

いまでこそ、カメラやスマホを向ければ、子どもたちは、にっこり笑ってVサインしてポーズをつくる。しかし、63年前のこの時代、カメラで撮影されること自体、稀だった。しかも山村である。私の経験でいえば、はじめてカメラを向けられたとき、瞬間的に逃げた記憶がある。個人的に撮られることが恥ずかしく、恐ろしくもあった。写真は、祝いや行事のとき大勢の人たちと撮るもの。子どもに限らず大人にもそのような固定観念があった。それだけに、学校のなかで、子どもたちのふだんの様子を写す。これが、いかに難しいことだったか、想像に難くない。

しかし、熊谷には、これまで村人の日常を撮ってきたことで自信はあった。(『会地村』につづき『かいこの村』『農村の婦人』で成功している)

はじめは背後から撮った写真が多い。最初の撮影は、下校。子どもたちを送る、担任の女先生と子どもたち。カメラには気づいていないようだ。

 

 

 

 

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下の写真 左上、勉強で手をあげているが視線は、どの子もカメラ方向をみている。他3枚の場面(競争・工作)、夢中で何かをしているときは、カメラを忘れている。

 

 

教室撮影の難しさ

学校内や教室内ではむろんだが、授業中の撮影は、もっと難しい。子どもたちは四六時中、先生をみているわけだし、カメラを手にすれよけいに気になって、ますますカメラをみる。上の写真で右上の写真は、何かの授業の最中だが、手を上げながらも子どもたちの視線はカメラを見ている。

服装から、撮影時期を推察

 

子どもたちは、いつごろからカメラに慣れたのか。上の、上2枚は、輻輳から入学間もないころか。下2枚は授業に夢中。半袖なので夏。入学して半年は過ぎているか。

 

熊谷の撮影手法

 

熊谷は、どのようにして子どもたちにカメラ撮影を慣らしていったのか。

写真集『一年生』の最大の疑問は、いかにして子どもたちを自然なままで撮ることに成功したか、である。スマホでも写真が撮れる現代において、写されるということは、肖像権の問題を除けば、まったくといってよいほど気になることではなくなっている。

しかし、63年前は違う。カメラは珍しい器械だった。経済的に余裕のある人しか持てなかった。山村では、医者か写真店主、村の名士である。それに撮る対象は、結婚式や記念事の祝い事だった。学校での子どもたちの日常を撮る。そんな発想はなかった。

しかし写真家・熊谷元一は、板垣鷹穂の「グラフの社会性」を理解し、これからの時代は、

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記念ではなく記録の時代と信じてシャッターを押して村人の生活をとりつづけてきた。

既に、戦前には『会地村』を、昨年、一昨年には『農村の婦人』『かいこの村』を発刊している。これらは、現場百回。辛抱強く、被写体に接し、相手にカメラも熊谷の一部、そのように思わせることができた結果である。

 

被写体の紹介

 

『一年生』の被写体は、主に熊谷が担任だった東組33名の子どもたちだが、熊谷は社会見学など合同授業を行って、西組33名の子どもたちも、より多くカメラに収めた。

 

以下は、被写体となった「一年生」の子どもたち。漢字を書ける子どももいる。

【東組】

  1. みやざわよしこ 2.さとうまさひろ 3.はらさちこ 4.かねこたつうん 5.はらともかず 6.山田まさこ 7.あらいきよし 8.くらたかつよし 9.はらとおる 10.いとうさちこ 11. こもりきよと12. 13.はらとおる 14.ますだしげこ 15.かわいよしこ 16.あんどうけんじ 17.しもはらとしひこ 18.はらりゆき 19.すずきてるお 20.みずののぶゆき 21.ささきすすむ 22.おりやまたかいち 23.あらいけいこ 24.あらいひでかず 25.こうさかしづ江 26.くまがいとしこ 27.ささよしお 28.おかもとみつよ 29.まきしまたかよし 30.おかにわやえこ 31.ふくしまたいし 32.すぎやまちずこ 33.いいじまかずこ 34.あしざわひろふみ

【西組】

  1. 田中友市 2.もざわとしはる 3.おかにはひさお 4.おおしまあきら 5.はらひろあき 6.しもはらひろし 7.くまがいじゅんぺい 8.きたはらみよこ 9.かたぎりしげのぶ
  2. はらまさゆき 11.きたはらさよこ 12.はっとりふみこ 13.はらようこ 14.あしざわのりつぐ 15.そのはらよしじ 16.ごとうひさし 17.みやじまはるえ 18.田中かつ子
  3. はやしこうじ 20.くぼたよしふみ 21.さくらいひろみ 22.ささきちずこ 23.ふるかわきみのり 24.すだゆたか 25.こやましげる 26.かつのえいこ 27.わしおじゅんこ

転校生 みやじまじゅんこ くろこうちたかひろ

※黒字は、亡くなっている学友(2017.12.8現在) 下写真は西組の子どもたち

 

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ヒントとして、黒板絵

 

熊谷は、どのようにしてカメラを、撮影を子どもたちに慣らしていったのか。カメラが珍しかった時代、しかも山村である。背後から、夢中になっているとき撮るということもあるが、ヒントとして、黒板絵がある。

黒板絵は、休み時間や放課後、教室の黒板に子どもたちが描いた落書き絵だが、熊谷は、それを写真に撮って残した。「これは面白い」ということをすぐに実行した貴重な記録だが、当初の考えは、まず、子どもでないものを撮る。そんな発想があったのかもしれない。とにかく子どもたちが描いた黒板絵を写す。そのうち子どもたちは撮ることにも写されることにも慣れて、学校生活の一部、そのようになってくる。黒板絵撮影にも、そのような思いつきがあったかもしれない。(次号は黒板絵から)

 

熊谷元一研究

 

熊谷元一の人生を変えた一冊

最新情報27号    熊谷27歳のとき感銘を受けた本、見つかる !!

 

灯台もと暗し 所蔵・日本大学芸術学部図書館にありました。(破損部分有り)

 

板垣鷹穂著『藝術界の基調と時潮』六文館 1932

「グラフの社会性」1931・12・14-16 東京朝日新聞学芸欄

※板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年10月15日1966年7月3日)は、美術評論家明治大学教授、早稲田大学教授、東京写真大学教授を歴任した。東京生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。1929年『新興芸術』を創刊。1933年、明治大学文芸科教授[1]。モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。HP

※『藝術界の基調と時潮』のなかで特に「グラフの社会性」に感銘をうけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊谷元一研究・創作ルポ

 

永遠の一年生

 

創作ルポ 本文は、フィクションです。なおしながら完成させる。2回目

 

草稿・永遠の一年生

平成22年11月6日、写真家・童画家の熊谷元一は、都下武蔵野にある老人施設で101歳の生涯を閉じた。亡くなる前日まで元気にカメラの話をされていたという。

熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終えたあと上京、清瀬市に住み始め

た。還暦からの出発だったが、清瀬では写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長に推され地域のために尽力した。訃報を知って大勢の清瀬市民が焼香に列を成した。名誉村民となっている故郷、桑谷村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。他に知人友人、出版社やマスメディアの人たち。そして熊谷の写真作品の愛好者が大勢参列した。私もそうした一人だった。代表作『一年生』に魅せられて30年になる。

 

 

それ故、訃報を知って、矢も盾もたまらずお通夜に駆けつけた。大勢の参拝者のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。80に近いお歳だが、嘱託記者兼写真班として、いまでも地元紙に写真や記事を載せていた。彼はふだんは農業に従事していて、農作業のあいま、村中を回って話題や出来事を取材していた。記事が載れば、送ってくれる昵懇の間柄だった。私は、挨拶し話しかけた。

「順風満帆な幸福な人生だったですね」

私は、熊谷の履歴を振り返って言った。

「そうですなあ・・・」

彼は、うなるようにつぶやいた。

何か否定的に思えた。私は、不可解に思ってたずねた。

「ちがうのですか」

「そうですねえ・・・あのことがなければ・・・」

彼は、言いずらそうにつぶやいた。

「あのこと?!」私は、不思議に思って再度たずねた。これまで熊谷の写真や童画、それに書いたものを見たり読んだりしてきた。それ故に、熊谷の人生のほとんどは知り得ている。

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そんな自負もあった。

熊谷の人生で、まだ私の知らないことがあるのか。そんな疑問から

「満蒙開拓団撮影のことでしょうか」と、聞いた。戦前戦中、拓務省の嘱託撮影班になって満蒙開拓をすすめるプロパガンダ写真を撮った。熊谷はそのことを負に感じていた。

「あれは国策ですから、日本人みんなの問題です」

「で、ないとすると、なんでしょう」私は、食い下がった。

「個人的苦悩です。あの『一年生』が一生のトゲとなっていたのです。でも、これ

で開放されたでしょう。いまごろはほっとされていると思います」

私は、ますます不思議に思った。奇妙にも感じた。あの『一年生』に、亡くならなければ安堵できないような、そんな深い懊悩のようなものがあったのだろうか。いつも、ひょうひ

ょうとして陽気に写真を撮っていた熊谷から、影の部分は想像できなかった。いったい熊谷は、一年生にどんなトラウマを持っていたのだろうか。私は、読経を聞きながら熊谷の功なり名を遂げた101歳の人生を振り返ってみた。

 

画家が夢だった熊谷は、偶然カメラを手にしたことで、写真の世界に目覚めた。28歳で朝日新聞社から写真集を出版、高い評価を得た。30歳で大東亜省の嘱託カメラマンとなり、国策として満州の開拓村を撮影した。戦後は、郷里で小学教師をやりながら村人の生活を写真に撮り、出版された写真集は、農村の記録写真として注目された。『農村の婦人』『かいこの村』などがそれである。そして写真の合間に描きつづけた童画は、失われていく山村文化の伝承と認められた。絵本『二ほんのかきのき』(福音館)は、百万部を超えるロングベストセラーとなっている。写真や童画作品の多くの作品が数々の賞に輝いた。これらをみれば、順風満帆な人生ではなかったなどと、だれが評せられるだろうか。三足のわらじを履いた人生だったが、創意工夫の教育を実現させた教師生活、記録写真の分野を確立した写真撮影、山村の子どもの遊びに心の故郷を思い起こさせる童画。どのわらじも立派に履き切った愉しく面白く生きた人生だった。

そのなかで『一年生』は写真界の金字塔として燦然と輝いている。そしてそれがアマチュアカメラマンにもかかわらず熊谷を絶対のプロ写真家として認めさせている。その「一年生」に熊谷は苦しんできたという。何のことか。私は、もう一度老記者に話しかけた。

「そうですか、継続する苦労は大変だったでしょう・・・それに学校で写真を撮るということも・・・」

「いや、そういうことではなく個人的責任感です」老新聞記者は、きっぱり言った。

「責任感ですか?!」

「そうです。人一倍責任感が強い人でしたから。あの陽気な先生が時折、ふっと見せる寂しげな表情、深い憂愁を見た時、いつもそれを感じました」

「責任感ですか…」私は、意味がわからず、オウム返しにつぶやいた。

「そうです、一年生は先生を写真家として不動なものにしました。が、先生を一番に苦しめもした作品です。それ故に先生は一年生の人生を撮りつづけたのです」言って、彼は突然に聞いた。「あなた、先生が、なぜ一年生を撮りつづけたかわかりますか」

「教え子だからじゃないんですか」

私は、戸惑って答えた。いまさら、そんなことを質問されるとは、思っていなかった。

「先生は、長い教師生活で、一年生は、何度も担任しました。しかし、撮っていないんです写真は、その子たちの人生もおいかけていません」老記者は、熱を帯びた口調で言った。

「あの一年生を撮ったのは、すべて永遠の一年生のためだったんです。私はそう思います」

「永遠の一年生??」

はじめて聞く言葉に私は困惑して、焼香の煙が流れはじめた晩秋の闇をみつめた。

老記者は、遠くのあの日を思いだすように。ぽつりぽつり語りはじめた。

私は、黙したまま老記者の独り言のような話に耳を傾けた。それは、熊谷が、心の中にし

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まっていた55年前のある悲劇のことだった。彼は目撃者だった。

 

それは

※『会地小学校の百年』誌にある「会地小学校沿革史」の項、昭和30年(1955年)9月4日の日曜日に起きたある不幸な出来事だった。

 

【老記者の思い出】

 

昭和30年9月4日、日曜日、あの日は、朝から残暑が厳しかった。私は、地方新聞の豆記者になったばかりだったが、大きな祝い事に連日、酔っていた。大きな祝い事というのは、私が尊敬する小学校教師の熊谷元一先生が、どでかいことをやってくれたからだ。人口3千人足らずの信州の山村にとっても、それはもう開闢以来の名誉ある大事件だった。

先生は、教師をしながら写真を撮っていた。戦前、私がまだ子供だったとき、先生が撮った村の写真を、朝日新聞社が出版し、高い評価を得た。先生、若干28歳のときである。それが縁で、大東亜省に写真班として勤務し、満州国の開拓村を撮り歩いたとも聞いた。戦後は、私なら東京で、大出を振って写真家としての道を歩いたが、先生はなぜか、その道を行かず、また元の木あみ、生まれ故郷に還られて小学校教師の職につかれた。将来は、東京でメディアの世界で活躍しようと思っていた私にとっては、不思議な限りだった。後で知ったが、先生は戦争の片棒を担いでしまった。その悔いがあったようだ。

高校をでると私は地元の新聞社に入社することができた。思い通りではなかったが、とにもかくにも新聞の仕事につくことができた。先生をお手本にしながら記者の仕事をこなしていた。が、信州の山奥の村である。たいした事件も出来事もなかった。十年一日のごとく過ぎる毎日だった。そんなとき、村にどでかい花火があがった。先生が撮った『一年生』の写真集が、並みいる有名写真家を差し押さえて日本一に選ばれたのだ。大新聞の一面ド真ん中に、熊谷元一の名前が載った。3面には顔写真や詳しい選考経過も載った。

 

 

1955年(昭和30年)8月30日(火曜日)毎日新聞一面中記事

 

山奥の蚕の村は、上や下へと大騒ぎになった。どのようにして、この慶事を祝ったらよいのか、村長はじめ教育長、小中校長からPTA、郵便局長らが会議を開いた。その結果、授賞式のある9月19日前に中学校の裁縫室で「一年生」の展覧会を行うことにした。

 

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熊谷元一先生、第一回毎日文化賞受賞を祝って

 

祝・岩波写真文庫『一年生』写真展開催

 

1955年9月5日(月)~ 17日(土)

9月10日、17日(土)午後 11日(日)朝~夕まで一般公開

 

会場 会地中学校3階、裁縫室

 

 

中学校の裁縫室は、三階の端にあって、畳2百畳の大広間だった。月曜の長礼の校長先生の話は、この裁縫室で正座して聴いた。私は、ずっと熊谷番として、先生の一挙手一投足を記事にしていた。そのことから、この展覧会も取材しながらの手伝いとなった。明日から子供たちに見せるということで、4日、日曜日、教職員、村の関係者などボランティアで展示作業をおこなうことになった。

残暑のなか、展示作業は順調にすすんでいた。開け放たれた窓から、熱風とプールで遊ぶ子供たちの歓声がとびこんできた。

「今日が最後のプールですから、大勢きてるだに」

「それに、今日は日曜だら。春日の方の子はみんなきてるだ」

二年前、昭和28年、「一年生」が入学した年の7月に会地小学校にル25m×15mのプールが完成した。中学と共用だったので、5分の1ほど水深が2mのところがあった。この時代、プールがある学校は、まだ珍しかった。

数人の手伝いの先生たちは、談笑しながら、給食の味噌汁を作っている用務員のおばさんが運んできた麦茶を美味しそうに飲んだ。会地村は、春日村と宿場町駒場村の合併で成っ

ていた。春日は、広い稲田がある地域で、水路はあるが泳げるほどの川はなかった。山間

にある宿場町駒場の下方には天竜川の支流阿知川が流れていた。曲がり角に淵があって、こどもたちにとってはかっこうの泳ぎ場所だった。アユや岩魚もとれた。それで駒場方面の子どもたちは、阿知川で泳ぐのがふつうだった。

「そろそろモーターが鳴りゃあせんかな」(昼を知らせるサイレン)

誰かが、言ったときだった。

プールの騒音が、ぴたりとやんだ。どのくらいの静寂がつづいたろうか。その静まりに何か胸騒ぎがした。

「なにかあったのかな」

若い先生が窓から身を乗り出してプール方向を見た。

「休憩時間でしょう」

「うちは休憩なしですね」

「そういえば」

「すみません」熊谷は、律義に頭をさげた。本当に申し訳なさそうだった。

実をいえば、熊谷は、プールで遊ぶこどもたちを写真に撮りたかった。プールは二年前、の1953年「一年生」を撮りはじめた年の7月に完成し、子どもたちは大喜びした。

しかし、なぜか、意識したわけでもないのに、熊谷はプールで遊ぶ子どもたちの写真は撮

ってなかった。『一年生』には一枚も収録されていない。川で遊ぶ子どもたちの写真は何枚もあるのに、不思議といえば不思議だった。展示作業が終わったら行くつもりだった。が、本当はいますぐ、子供たちが昼で帰ってしまわないうち行って撮りたかった。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.330 ―――――――― 16 ―――――――――――――

 

しかし、自分のために残暑のなか、展示作業してくれている皆さんのことを思うと、自分だけ写真を撮るために、この場を空けるということは、言いだしずらかったし、できなかった。思えば、このときの迷いと遠慮が終生の禍根となった。だが、そのときは、その後に起きた悲劇を誰が想像できただろうか。歴史に「もし」はない。熊谷は、知る由もなかった。あのとき自分が行っていれば――悔やんでも悔やみきれない現実だけがあった。

「昼までに終わらせまい」そう言って吉田先生が組写真を脚立の私によこした。

私は、一枚目のパネルを受け取ろうとしてつかみそこねた。

「あっ」

写真は、畳の上に落ちた。二人の子どもが写っていた。

「大丈夫?」

「しげこちゃんとひろふみくんだ。ごめん」

近くにいた若い女先生が拾いあげてくれた。熊谷と同時に一年生の担任となった西組の原先

生だった。あのときは高校でたての新米教師だったが、いまはすっかりベテラン教師らしくなっている。

「すみません」私は、礼を言って写真を見た。

写真は、計算練習の遊びをする写真だった。

仲良しの女の子と男の子が「さんすう」でおぼえた計算練習をしてあそんでいる。

「これ、わかる」

「どれ」

「三たす、五たす、四は」

「えーと、むずかしいな」

そんな会話が聞こえてきそうなほほえましい光景だつた。だが、私は、自分が落としたせいか、何か気になった。私は一瞬、視線をとめて見入った。

そのとき、突然プールの方から悲鳴のような怒号のような声があがった。何事か!?

みんな窓に行って身を乗り出してプールの方角をみた。

こどもたちが走ってくる。泣き顔だ。

「どうした、なにかあったんか」

「たいへんだ!」

「たいへんだ!!」

子供たちは口々にそう叫んだ。それを聞くと裁縫室にいた先生たちは、脱兎のごとく飛びだしていった。

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。出来事を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた人たちは、いっせいに飛び出して行った。何か事件か事故が起きた。私は新米ながら、早くもしみついたブンや魂が躍った。皆に先を越されまいと、もうスピードで会談を駆け下りて行った。

誰もいなくなった裁縫室の畳の上に拾ってもらった3枚の組写真が、無造作に散らばっていた。

 

(左の写真は、岩波写真文庫11頁、3枚組写真)

 

 

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。異変を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた十数人の人たちは、いっせいに飛び

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出して行った。一年生の写真だけが、畳の上に悲しげに散らばっていた。

校舎を飛びだしたところで、駆けて来た子どもたちと出くわした。

「どうした、どうした」

先生たちは、口ぐちにきいた。

「プールで、プールで」

子どもたちは、興奮した口調で、ただそう叫ぶだけだった。

私は、その声を潜り抜けブンや根性丸出しでプールに向かって走った。まずは現場だ。現場でなにがあったかこの目でみる。人の話はそれからだ。私が一番先頭になっていた。

プールの脇に大勢の子どもたちが黒山の人だかりとなってかたまっていた。大半が小学生だったが、中学生もいた。彼らは、走ってきた私たちを一瞬、ちらっと振り返った。真っ黒に日焼けした顔に真剣の目がギラついていた。事件や事故の現場で感じるあの目だった。どの顔も、こわばっていた。私は、こどもたちを押し分けて人だかりの真ん中に入った。熊谷先生も他の先生たちにまじって追いついた。

保健室の有賀先生が一生懸命、人工呼吸をしているのが見えた。下にいるのは小さな体で、低学年の子どものようだ。

「何年生か」

「なんねんせい」

「何年」

駆けつけた先生たちは口々に叫んで聞いた。自分の学年の子ではないかと必死だった。

「どこの組だ」

溺れた子どもの身元は、なかなか判明しなかった。しばらくして

「三年生らしい、三年生だって!!」

そんなささやき声が聞こえた。そして、突然

「熊谷先生のとこの子だ!」

とのさけび声。

その一声は、雷のように熊谷先生の全身を貫いた。先生は、一瞬地面に串刺しされたように動けなかった。次の瞬間、取り囲んでいる野次馬をかき分けて中に飛びこんでいった。黒の海パンをつけた男の子が仰向けに寝ていた。その上にまたがって有賀先生が人工呼吸をつづけていた。子どもの顔をみた。まぎれもなくさきほど落としたパネルの芦沢宏文君だった。

「あしざわくん! ひろふみくん!」

熊谷は、膝ついて耳元で名前を呼び続けた。だが、子どもは人形のように寝たままで、ピクリともしなかった。周囲の喧騒をよそに眠っているようにも見えた。

知らせをうけて。村に唯一人の外科医者、橋上医院の橋上医院長が、バイクの後ろに乗って到着した。村に来るまではダム工事現場の医者をやっていたというひとで、治療は荒っぽいが腕はいいとの評判だ。重苦しいなかにも、淡い安ど感が流れた。つづいて警察署長がジープで到着した。少し遅れて春日地区の消防団員たちが非常事態を聞きつけかけつけてきた。

しかし、芦沢君は、いっこうに息を吹き返さなかった。芦沢宏文君は、ジープに載せられ宿場町にある病院に向かった。皆、祈るような気持ちで見送った。これで助かるのでは、そんな一縷の望みを抱いていた。プールの周りにいた大勢のひとたちは、気が抜けたように散会した。夕方前の日差しは焼けるように強かったが、すすきの穂を揺らす風は、秋風だった。

プールに一緒にきていたのは、同じ三年生で、西組の原房子先生の組の子どもS・K君と一学級上の同じ部落の子ども3人だった。プールでは四年生の子は、同級生と泳いでいて、まったく気がつかなかったと答えた。ずっと一緒に遊んでいたS・K君は、職員室に呼ばれ、何度も、熊谷先生から情況を聞かれた。だが、S・K君は、よく覚えていなかった。確かに、きたときからずっと一緒にあそんでいた。しかし、ときどきは見失って、どこにいるかわからないときもあった。なにしろ最後のプールということで、大勢の子どもたちが、プールに

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入っていたのだ。はじめのうち、追いかけっこをしていたが、そのうち他の子もはいって遊んでいるうちに芦沢君はいなくなった。ほかのグループにいったのかと思った。思い出せることは、これだけだった。しかし、熊谷先生は、聞きだすことが時間を巻き戻せると信じてでもいるかのように、繰り返したずねた。

S・Kくんは、疲れてしまいには泣きだしてしまった。

風がやんで蒸し暑い空気がよどんだ職員室は重苦しい空気につつまれた。沈黙のなかS・Kくんの鼻水をすすりあげる音だけが微かに聞こえていた。皆は、祈る気持ちで職員室に一台しかない電話機を見つめていた。長い長い時間だった。熊谷先生はS・Kくんを帰すと、自転車で病院に向かった。拭ってもぬぐっても汗が滝のように流れた。これが夢であってくれればいい。何度も何度も祈った。だが、病院の玄関先に咲き乱れる夾竹桃の花や駆けつけた家族や親せき、消防団の人出のごった返しが、現実を教えていた。

なにしろ村で、こんな事故が起こるなど、村人は考えたこともなかった。これまで阿知川で、溺れた人の話はきかないが自然の川だけに心配はあった。だが、二年前に新しくできたプールができたことで、そんな心配も雲散した。近代的なプールで溺れる事故が起きるはずがない。村人は堅く信じていた。だが、起きてしまったのだ。

病院周辺は、多勢のひとがいるにも関わらず異様な静まりをみせていた。芦沢くんの意識の回復をじっと待っていた。待つほかなかった。いつしか残暑はやんで、赤とんぼといっしょに涼しげな風がふきはじめていた。

病院の待ち合い室で待つ両親は、槌で打ち込まれたように無言で座りこんでいた。口をひらくにも開けないほどの重力に疲れたといった。

熊谷先生は、声もかけることもできず、病院をあとにした。展示作業は、まだおわっていなかった。が、展示会も授賞式も、喜べなかった。もうどうでもよい気持ちになっていた。 稲穂の実るあぜ道を学校に向かいながら、熊谷先生は、悔いても悔いても悔い切れない気持ちにくるしんでいた。あのときプールに写真を撮りに行っていれば、展示作業してくれている先生方に遠慮してあとに伸ばしたことを悔やんだ。

学校に着くと、展示作業は、終わっていた。熊谷先生は、ただただ皆に頭を下げた。そんなときだった。教頭先生が、息を切らせてかけあがってきた。

そして、重苦しい表情だった。教頭先生は、いちど咳払いして言った。

「いま、橋下医院の方から連絡が入りました。あしざわひろふみくん午後三時一〇分、死亡しました」

女先生が泣き崩れました。皆起ったまま言葉もありませんでした。私は、しんぶんきしゃの性出というか習性で、早く社にもどって記事をかかなければと思いました。それで、黙って頭をさげて退室しました。展示会は、どうなるのだろう。ちらと、そんな考えも過りました。

私は、隣り町にある社に戻り、事故の記事を書くと、再び桑谷村に戻った。お通夜の取材と、展示会の動向を書くためであった。

 

残暑の名残が消えて秋風がススキの穂を揺らしはじめた夕刻、芦沢宏文君の家で通夜がはじまった。悲しい葬式だった。弔問客のなか、校長、教頭先生と並んで読経を聴く熊谷先生は、身の置き場がなかった。

「お焼香をおねがいします」

承久寺のお和尚の力強い声がして、焼香がはじまった。

熊谷先生の番がきた。先生が遺族に深々と一礼した、そのとき

「クマガイさんよ」突然、遺族の席から、鋭い声があがった。「ヒロフミが死んだ原因、先生にもあるんじゃないか。あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」

先生は、ひたすら頭をさげた。

「カメラなんか、持って、金持ち面して」

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親戚の男は、甲高い声で責め立てた。その声に通夜の席はしんと静まりかえった。読経もぱたとやんでしまった。

芦沢くんの家は、満州帰りの貧しい農家だった。「行けば1町歩の大地主」そんな国策のうたい文句に踊らされ、僅かな農地を手放して満州に渡ったのだ。それが3カ月も経たないうちに、無一文となり命からがら帰えってきた。それだけに満州の写真を撮った先生のことは、日ごろからよくおもっていなかったようだ。

「写真展もやめちまえ、こんなときに、なにが展示会だ」

「もうしわけございません。やりませんので」

熊谷は、展示会を中止を決めてきた。せっかく皆に準備してもらったのに申し訳なかったが、、さすがこんなときはできないと思った。

「もう写真は、とらんでくれ、ひろふみがかわいそうとおもうなら、もう写つせんはずだ」

「すみません。もうとりません」

「本当か、それはほんとうですか」

親戚の男は、約束をとりつけるかのように、詰め寄った。

先生は、あたまを低くして、何度も謝っていた。私は、不安になった。もしかして、先生は、写真を撮らないことを約束してしまうのではないか、受賞も辞退してしまうのではないか。そのときだった。

「やめてください!!」

突然、宏文くんの母親が叫んだ。

「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、きをつけろといったのに、深い方に行って、じぶんがバカだったんです」

「いや、わしがわるかったんな。もっとみとりゃあよかったんな。展示会準備なんかしないで、もうしわけない。展示会やめますんで」」

「先生、やめとくれ、明日から展示会、必ず開いてくさい。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくのに、宏文は一年生のままです。展示会ひらいて、そのことをみんなに教えてやってくんな。先生、ここで約束してくれ。写真展、やめたら、宏文は、永遠にわすれられちまうだに。お願いしますだ」

「わかりました。ありがとうございます」

先生は、なんども頭をさげられた。

参列者もほっとしたのか、会場にざわついたため息を感じた。

緊迫していた空気がいくぶん緩んだような気がした。ふたたび読経がはじまった。先生は、焼香を終えると一人とぼとぼと歩いていった。夜の帳が下りていた。私は、走ってあとを追いかけたが、立ち止まった。先生の孤独と悲しみが寄せ付けなかった。

先生は写真をやめてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。母親から「永遠の一年生」を頼まれたのだ。母親の願いを無にするはずがない。私は、そんな堂々巡りをしながら最終バスに揺られ社に戻った。葬儀の様子は、どうしても書くことができなかった。

 

「これがあの日、起こった出来事のすべてです。先生は、それ以降、あの日のことは封印しました。が、その後の一年生の関わりがすべてです」老記者は、話終わると、そくさくと初秋の夜の街にきえていった。

私は、一人、私鉄の駅にむかった。写真集『一年生』でみた、熊谷や、子どもたち、そして、永遠の一年生のことを思い出しながら。

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.330 ―――――――― 20 ―――――――――――――

 

後期ゼミⅣの記録

 

□9月25日(月)テキストサローヤン「空中ブランコに乗った大胆な青年」ゼミ合宿の話

□10月2日(月)テキスト志賀直哉『灰色の月』通夜の為、早引き。

□10月16日(月)テキスト『やまびこ学校』、『作家の日記』「継子殺人未遂」裁判の行方

□10月23日(月)台風20号直撃予報で休講。12月18日補修

□10月30日(月)印刷会社「緑陽社」見積もり提出。芸祭で早引き。

□11月6日(月)休講 芸祭片づけ。

□11月13日(月)『氾の犯罪』「奇術師美人妻殺害事件裁判」

□11月20日(月)「透明な存在の正体」、依存について

□11月27日(月)日本文学雑論 永井荷風の文学 ドストエフスキーとギャンブル

□12月3日(月)太宰「決闘」など、最近文学論 永井荷風について

 

掲示板

 

【ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」】

 

2018年2月10日(土)

東京芸術劇場小会議室7 午後2時 ~ 4時45分

作品 『おかしな男の夢』

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【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」第一回「働く」の初心に帰って

締切 2018年9月末日 最終審査 10月12日(金)

最終日審査会場  昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館

詳細は、「熊谷元一写真童画館」のホームページをご参照ください。

 

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【熊谷元一賞コンクール20回記念写真展】

 

□  日時 平成30年5月29日~6月3日

□  会場 JCフォトサロンクラブ25 東京・半蔵門

 

 

 

 

 

 

 

 

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文芸研究 創作編 より面白く、より

 

本作品は10余年前、本通信にて連載したものを加筆・校正したものです。

 

ときは1970年、雨期はじまるインドシナの山岳地帯。サムライの約束キンチョウを果たすために潜入した6人の日本人青年。追撃する赤い悪魔、クメール・ルージュとの死闘。彼らの運命はいかに。

 

キンチョウ  2回目

 

この物語がはじまる前に、舞台となるインドシナは、1970年当時、どんな情勢にあったのか、知っておく必要がある。(前号掲載)

 

プロローグ 密林の遺跡に眠るもの (前半1回目と重複あります)

 

乾季の午後の密林は、まるで時間が止まったように静まりかえっていた。ときどき風が過ぎると高い木々の葉が眠りから覚めたように物憂く揺れた。そのたびに木漏れ陽が白雨となって苔むした巨石の上を走った。風が止むと、ふたたびすべてのものがピタリと静止した。くっきりと陰影が落ちた地上に動くものは何もない。しかし、よく見ると巨石の端に動く小さな影ひとつ。少年が一人、崩れた回廊の隅で、黙々と遺跡の欠片を掘り起こしていた。

少年は、左足の膝から下がなかった。一本足だが、木製のスコップを器用に使っていた。腐葉土を取り除き、埋まっている遺跡の欠片を探し出す。今も、少年は自分の頭ほどある石壁のかけらを掘り起こしたばかりだった。これなら持って帰れる。少年は、勇んで泥土を払った。彫り物はどこにもなかった。ただの壁の欠けらだった。

「なんだ」少年は、額の汗をぬぐって軽く舌打ちした。

が、落胆の表情はなかった。徒労には慣れている。そんな様子だった。少年は、ふたたび腐葉土を掘りはじめた。金目になりそうな欠けらは皆無だった。壊れた石像でも、ちょつとした浮き彫りのある石でもよかった。だが、そんなしろものはめったに見つかりはしない。かつて人跡未踏だった山頂に近い密林の遺跡も最近では、タイからの盗掘者や未だ隠れて抵抗しているポルポトの残党に喰い尽されていた。巨大な仏像は、人力で持ち運び可能なまでに砕石され、いまはただ岩の塊と化していた。回廊で妖艶に踊っていたアプサラ(踊り子)たちは無残に削りとられ、僅かに残る滑らかな平面に人口壁の証拠をみるだけだった。時の侵食と盗掘者たちによって、もはや、価値あるものは何一つ残っていなかった。埋もれた遺跡は、ふたたび元の密林に還ろうとしていた。

遺跡の何処にも神秘はなかった。が、それでも自然の力と偶然がまだいくつかの秘密を隠していた。盗人たちから守っていた。あるものは巨木の根の中に、またあるものは厚い腐葉土の下に隠していた。石像が見つかれば広東人に高く売れる。アンコールワット出土と書いてPKOで沸くプノンペンの中央市場に並べられれば、いま大挙して押し寄せている日本人が土産に買って行くのだ。

少年は、お金をためて義足を買うつもりだった。二年前、水くみに谷川に降りた時、地雷を踏んだ。三ヶ月プノンペンの病院にいて、家族が新たに移り住んだタイ国境に近いこの山に帰ってきた。片足の者が密林で暮らすのは厳しい。なんとしても義足が欲しかった。それには、ここでは遺跡の欠けら探ししかなかった。少年は、毎日のように山頂のこの遺跡にきて金目になりそうな石片を探した。それが一日の仕事になっていた。当てはなかったが、これより他に現金を手に入れる術はなかった。

上空を一陣の風が通過していった。高い梢の葉々がざわめくたびに、深海のような密林の

連載・下原ゼミ通信No.330―――――――― 22 ――――――――――――

 

 

中にも強い日差しが驟雨のように降り注いだ。少年は、手を休め光のシャワーを浴びながら密林を眺めた。昼なお暗い密林の中に降り注ぐ光の雨。幻想的な風景だった。ここまで風が届けばいいのに。少年は、恨めしげに額の汗をぬぐいかけ、ふと手をとめた。つる草が覆う急斜面の繁みに一瞬、キラリと光るものを見た。何かが反射したのだ。

なんだろう!?風はやんで、密林は、ふたたび薄暗くなった。

 

 

が、すぐに木々はざわめき光が降り注いだ。風が吹くたびに繁みは、光を返した。あそこだ!少年は、見定めるとそこに向かった。

光が反射する場所は、大きな石壁が入り組むように埋もれている所だった。大樹の根が、大蛇のように四方八方にのび、石柱や回廊の壁を押しつぶし、持ち上げていた。反射の光は、僅かにできた巨石の隙間からだった。最近、朽ちた大木が倒れたときに穴ができたのだ。はがれた苔の跡が新しかった。少年は、大木の上を歩いて行って、隙間を覗きこんだ。中は暗い空洞だった。カビ臭い冷んやりした空気が感じられた。頭上の木の葉がざわめき光の雨が降り注ぐと、そのたびに空洞の底からキラリと光が返った。まるで、何かを外の世界に知らせようとするかのように。

あそこだ!少年は、思わず声をあげた。もしかしてルビーの原石か。この辺りは、昔、ルビーの産地だったと聞いたことがある。少年はにわかに元気づくと、太いつる草をつかんで遺跡の隙間に両足をすべり込ませた。狭い隙間を抜けると、いきなり空間だった。一瞬、少年は、宙吊りとなった。が、そのままズルズルと落ちていった。蔓から手を離すと足はすぐに着いた。腐葉土が柔らかだった。空洞は小部屋ぐらいの広さで、回廊が崩れたとき偶然にできたようだ。冷んやりしたかび臭い空気がよどんでいた。仰ぐとぽっかり開いた穴の入り口が見えた。随分と高いように感じた。そこから光線が差し込むたびに足元の腐葉土が、キラリと光った。何かが反射している。

ここだ!少年は、はやる気持ちを抑えて反射する場所をスコップで掘り起こした。小さな土の塊だった。少年は、拾って土を落とした。出てきたものはサビの塊となったカメラだった。反射していたのはレンズだった。指先で土を拭うとレンズは差し込む光りを反射させた。

「なんだー」少年は、落胆した。が、すぐに「なぜこんなところに、カメラが・・・?」と、思い返した。カメラがあるとすれば、ほかにも何か。少年は、急に目を輝かせてふたたび足元の腐葉土を掘り起こした。スコップの先に感触があった。ぐいとすくいあげると、丸く白っぽいものがゴロンと転がりでた。なんだ !? 少年は、拾いあげて、顔を近づけたとたん、悲鳴を上げて、投げ捨てた。人間の頭蓋骨だった。が、少年の驚きはすぐにおさまった。ドクロはこの国では珍しくはなかった。そう遠くない昔、この国で大勢の国民が、主にプノン

―――――――――――――――――― 23 ―――――連載・下原ゼミNo.330

 

ペン市民が殺されたと聞いている。国のいたるところに大きな墓場があって掘り起せば数え切れないほどの人骨がでてきた。この山の麓にも多数のドクロが転がっていた。これも、そのころの人だろうか、少年は、意味もなくそんなことを考えながら腐葉土を注意深く掘り返していった。こんどは白骨がでてきた。背骨、骨盤、手足と次々にでた。完全な一人の人間だった。回りを掘り返したが、他にはなかった。想像するに、この人間は、たった一人でこの回廊の中で死んでいたようだ。骨がバラバラでなかったのは、倒れた巨石が密室状態をつくって獣たちから守っていたのだろう。降り積もった腐葉土から、その人間が死んだのは、もうかなり昔のように思えた。あの恐怖時代よりもっと前の時代かも知れなかった。

そんな昔に、人がこんな山岳地にきたのか。なんのために?密猟者か、盗掘者か。いずれにせよカメラを持った人間がここにきて死んだ。事故か病気か。一人だけだったのか。ちらっと思いを馳せた。が、それ以上は、なんの想像も起きなかった。反射したものは、宝石ではなかった。腐ったカメラだった。それがひどく残念だった。少年は、カメラの持ち主が金目のものを持っていたのでは、と、さらに掘りつづけた。かいあってものの十分もたたないうちにビニール袋を発見した。中に変色してはいるが、辛うじて原型を留めたパスポートと財布らしきものが入っていた。出してみようとするとパスポートはパラパラ崩れて散乱した。財布の中にあった紙幣は、ボロボロでどこの国のものかはわからなかった。だが、少年は、満足だった。もしかしたら、百リエルぐらいにはなるかも、そんな期待を持った。

小一時間後、少年は巨石の上に立っていた。手にはドクロの主の所持品と思われる、拾い集めたパスポートのノート片とサビの塊となったカメラを入れた麻袋を持っていた。少年は自分が這い出てきた巨石の隙間を見た。ちょうど光の雨が降り注いで白っぽいものが見えた。散乱した骸骨の破片だった。さっきまでまるで自分の存在を知らせるかのように光を反射させていたが、いまはもう役目を終えて安心したように自然の一部にかえっていた。

「高く売れたらお礼にくるから。やくそくするよ!」

少年は、空洞に向かって叫ぶと、きびすを返して、一気に巨石をすべり降りるとびっこをひきながら崖道を下っていった。頭の中は、麻袋の中身のことでいっぱいだった。

お金になったらいいな。明日、村にプノンペンから雑貨商の広東人が来ることになっていた。

密林の遺跡は、再び静まりかえった。巨石の葉影は、焼け付いたように動かなかった。

 

■主な登場人物

 

西崎泰造・・・・・熊島建設(ダム建設現場監督)元アジア研究会 通称アジケン

中島教一郎・・・・日本大学助教授 元アジケン

高木 健二・・・・五井物産社員  元アジケン

柳沢晴行・・・・・日本大学付属病院医師 元アジケン

一ノ瀬幸基・・・・高校教師 元アジケン

由利野圭介・・・・戦場カメラマン志望の若者

ソクヘン・・・・・プノンペン大学の学生

タオ・・・・・・・ヤマ族の長老

シナタ・・・・・・長老の甥

ボト・・・・・・・族長

ユン・・・・・・・ヤマ族の女性

ニホン・・・・・・ユンと柳沢の子

ビバット・・・・・ヤマ族の青年 狩の名手

オシム・・・・・・ヤマ族の青年長

 

 

連載・下原ゼミ通信No.330 ―――――――― 24 ―――――――――――――――

 

次回から

 

目次

 

一九七〇年、動乱のインドシナ

 

プロローグ 遺跡に眠る者

 

第一章 一枚の写真

 

第二章 過去からの訪問者

 

第三章 滅びの都

 

第四章 クメール・ルージュ

 

第五章 密林逃避行

 

第六章 カオ・プレア・トムの戦い

 

エピローグ 密林だけが知っている

 

 

 

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