文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.85

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)7月 23日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.85
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007前期4/16 4/23 5/7 5/14 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/23 
  
2007年、読書と創作の旅
7・23下原ゼミ
7月 23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」(ゼミ担当者から進行指名など)
   ・ゼミ合宿について 郊外授業計画の報告(担任)
   ・ゼミ誌編集について(報告事項あれば)
   
 2.提出原稿の発表and「社会観察」(人生相談「私はこう思う)
 3.名作紹介・レストラン店内観察作品(ヘミングウェイ作)
 4.紙芝居稽古・配布・その他
 
 
 
今週のニュース
 19日の朝刊一面と各面を見て、一瞬「おっ」と瞠若した人は、おそらく70歳、80歳台の人、「たしか、こんな人がいた」と思うのは60歳前後の人、多分、それ以下の人たちにとっては「この人、だれ?」が大半ではないかと思う。「宮本顕示治元議長死去 98歳戦後の共産党築く」「共産党変身に道筋」(朝日)、「宮本顕治元議長死去 98歳共産党を39年間指導」『闘士ひっそり終幕」(読売)。見出しは仰々しいが、今日を生きる人々の認識としては、やはり「!」「?」その域をでないだろう。戦前戦後の日本共産党の歴史において、華々しい活躍をした人物。一時期、共産党において絶大なカリスマを発揮した人間。だが、時代の流れの中では、やはり「兵どもの夢のあと」の感は拭えない。新聞は社説においても「宮本時代を超えるには」(朝日)、「共産党を支えたカリスマの死」(読売)と取り上げてはいるが、いずれも過去の栄光と褪せた存在感のみ。この先、この人の名が残るとすれば思想史と宮本百合子の夫ということか。宮本百合子(1899-1951)は、ドストエフスキーの『貧しき人々』に感動して『貧しき人々の群れ』を書いた。1916年、17歳のときだった。天才少女と呼ばれた。が、その後、彼女はプロレタリア文学の道を歩んでいく。ドストエフスキーを読みながら、一つの色に染まる。ドストエフスキー読者としては、大いなる謎である。が、染まることで、この作家は成長した。だが、この作家の名が思い出されるのは、作品ではなくドストエフスキーを読んだ作家としてだろう。そうして、宮本顕治もまた、彼女以上にドストエフスキーを彷彿する人物になって行くかも。宮本は1933年に逮捕され、45年10月網走刑務所から釈放された。非転向を貫いた、といわれるが、なぜか、そこにシベリアの監獄生活を生き抜いたドストエフスキーを感じる。彼は87年の大韓航空機爆破を北朝鮮の仕業と認め、89年からのソ連・東欧諸国の体制崩壊を「当然のことだ」と表明した。『カラマーゾフ』まで読んでいたら、この夫婦は脱色できたかも知れない。(土壌館・編集室)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.85 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
新聞の特集記事を読む
  
 子供の虐待が、近年、急激に増加しているという。昔の方が子供の数は圧倒的に多かったのに、なぜか。児童虐待が社会問題化して注目されたことにもあるかも知れないが、核家族化も原因の一端だろう。テキスト『網走まで』のなかで、相席の母親の亭主を「きたない家の中で弱い妻へ当たり散らして、幾らか憂いをはらす」(子供にも辺り散らす)そんな人間かも知れない、と思うところから、虐待は明治のこのころも珍しくなかったのだろう。
 ニュースで知る事件は、加害者が義理の父であったり母であったりするケースが多い。そのところから、結局、離婚率の高さが児童虐待の第一要因では、すると推測もある。ライオンのオスは、新しいメスと一緒になったとき前夫の子どもは、すべてかみ殺してしまうという。(以前テレビ「野生の王国」でもみた)悲しいことだが動物には、そんな遺伝子保護のような本能があるのかも知れない。血は水よりも濃いということか。
 しかし、人間には、その本能を打ち消す愛情がある。「生みの親より育ての親」という言葉もある。先日、朝日新聞の「家族」という特集記事を読んでいたら、三回連載でその故事を証明するような記事が載っていた。長野県上田市で戦没画学生の美術館「無言館」を開く窪島誠一郎氏(65)と3年前に亡くなった作家水上勉(1919-2004)との親子関係を追った特集記事である。1977年の夏、日本列島をある親子の衝撃的ニュースが流れた。『わが愛する夭折画家たち』(講談社現代新書1992)の著者窪島氏とその実父・流行作家水上勉との運命的な再会を大々的に報じた新聞記事である。よく覚えている。1977年の夏だった。
 そのニュースは、当時、居酒屋経営と芸術関係の仕事をしていた窪島氏(35)が、どうしても実の父に会いたくなって調べたら、父は作家の水上勉だった、という衝撃記事だった。そのときの感想は、小説のような話に「ああよかった」と素直に感動した。水上勉は子供について、以前、なにかの本に書いていた。貧乏時代、赤ん坊を連れて新宿の屋台に行った。赤ん坊を屋台の屋根に乗せて飲んでいたが、帰るときに忘れてしまった。たしかこんな話だったと思う。そのとき、ちらっと、その赤ん坊は、どんな人間に成長したのだろうと思った。おそらく父の成功とともに何不自由なく育って、屋台の屋根に置き忘れられたことを笑い話にしているのかも。そう思っていた。が、ニュースで、その子は、他人に育てられて実の両親を知らなかったと知った。水上勉は、戦後『フライパンの歌』でデビューし1961年に『雁の寺』で第45回直木賞を受賞した。このとき窪島氏は、たしか二十歳である。成功した父は、なぜ他者に預けた(くれてやった)息子を探さなかったのか。ふとそんな疑問が浮かんだ。が、「数奇な運命」の感動的出会いに、疑問は吹き飛んだ。めでたしめでたしである。それ以降、水上勉とその息子のことは、すっかり忘れていた。
 あれから30年、こんどの新聞の家族特集記事で、あのときの感動再会は、そんなに単純なものではなかったことがわかった。「貧しい靴屋の息子と人気作家の父」という絵に描いたような一見シンデレラ物語のような話。だが、息子にとって、本当の「父と母」とは何かを問う旅のはじまりだった。子供のころ、たいていの子供は夢をみるものだ。自分には、もっと立派な両親がいて、自分はなにかの事情でここに預けられているのだと。小柄で無口な靴磨きの両親に、長身で芸術志向の息子なら、よけいにその思いは強かったに違いない。血液型を調べてその夢は、現実のものとなった。しかし実の親について何も語ろうとしない両親に「憎しみさえ覚えた」という。経済的には成功した息子は、いつまでも靴磨きを続ける両親を蔑み、軽蔑していた。「二人を何とよんだすら、思い出せない。」という。実の父が水上勉とわかってからは、「2人になると先生と呼んだ」。年老いた実母は自殺した。
 水上勉は、宇野浩二(1891-1961)に師事した。この作家の代表作に『子を貸し屋』というのがある。逢い引きするのに子供が一緒だと怪しまれない。逢い引きの男女に頼まれて子供を貸す商売。そんな話だった。水上の代表作は『飢餓海峡』、成功した犯罪者の話。特集記事を読んでいたら、なぜか二人の作家の代表作を思い出した。(土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
7・23ゼミ
以下の手順で進めてください。
1.「2007年、読書と創作の旅」
【ゼミ合宿】
・ゼミ合宿について → 待ち合わせ、出発時間などの打ち合わせ。
 集合場所 = 午前   時    分
 集合時間 =
・ゼミ合宿について → 郊外授業の説明(担当者)9頁参照
【ゼミ誌について】
 ・ゼミ雑誌編集について、何かあれば
            2. 提出原稿発表
【車内観察】 ・今野幸裕君「終電の悪戯」 
【一日を記録する】 ・高橋亨平君「おとこはつらいよ」
【提出課題】 ・高橋亨平君「銀杏散る」を読んで
  3. 人間観察・ある人生相談から「君はどう答えるか」
 創作者は、物語のなかでどんな人間にもなります。新聞の人生相談に、ある母親の息子についての相談がありました。相談者だったら、どう答えるか。その息子の友人だったら、何と助言するか、自分の意見を述べてください。
   4. 名作紹介・レストラン店内観察作品
 時間がなければ後期に回します。そのときまでコピーを失くさないように。
            5. 紙芝居稽古
 ときどきBSでアフリカのドキュメンタリー番組を見る。が、現在、アフリカで起きている出来事は、あまりにも痛ましい映像ばかりだ。貧困、飢餓、内乱、大量虐殺、そして蔓延するエイズ。1970年前後、「世界残酷物語」というドキュメンタリータッチの映画が流行った。世界の悲惨な現実を記録したものだった。アフリカに取材したものが多かった。あれから40年近くなる。が、現状はますますひどくなっていくようだ。
 戦後のベストセラー絵物語「少年王者」は、今日においては差別と偏見に満ちた物語ともいえる。しかし、この作品にはそうした負の壁をも乗り越えるものがある。偏見を普遍に変える力がある。アフリカには、こんな黄金時代があった。夢と冒険の地だった。動物と人間が共生する、人類発生の地だった。アフリカは、地球の心臓。紙芝居稽古でそれを知るのも、アフリカ救済の道である。 土壌館
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2007年、読書と創作の旅・提出原稿
提出原稿発表
車内観察
終電車内の誘惑
金野幸裕
 終電は嫌いだ。今日の行動値を全て使い切った人たちが座席に身を沈め、つり皮にぶら下がり、ドアに寄りかかっている。車内ぎゅうぎゅうに。
 場所がないので僕はそれらのどこでもない空間に仁王立ちして、掴まる場所がないので右へ左へ揺れる中で懸命にバランスを保っている。
 読書している人、会話している人、携帯をいじっている人、色んな人がいるけれども、みんな目が死んでいる。そんな人たちを観察している僕の目もきっと死んでいる。
 車内には目が死んでいる人とそれから、死んでいる人で溢れている。
 
 各駅停車、僕の降車駅はまだ先だ。先に降りていく人たちが羨ましい、妬ましい。許せない、と思ったが、列車内が空いてきて座席に座れるようになったので許そうか。
 とにかく疲れているので座席に座ると眠気が襲ってくるが、最終電車で乗り過ごすと溢れ出た悲しみが涙となって流れ落ちるので我慢だ。以前乗り過ごした時、開催された深夜のマラソンは、あまり楽しくなかった。
 各駅停車、僕の降車駅はまだ先だ。もう車内はガラガラで、乗っている人たちは皆座席に座っている。そしてその七割が死んでいる。
 しかしながら眠い。疲れていると眠くなるのは当然で、更に眠気を我慢するのは大変な苦痛であることも当然だ。
 そして生まれる苛立ちが、自分を差し置いてグースカやっている死人達に向けられるのも至極当然のことだ。
パンッ。
 特に何か考えたわけではない。なんとなく腹立たしかっただけだ。つまり出来心というやつだ。ちょつと自分以外殆どの人が動かなくなっている車内で拍手を打ったらどうなるか、好奇心が抑えられられなかっただけだ。
 
 そんな仔細な好奇心は以外に大きな動きを生み出した。
 僕の見える範囲にいた死人達が皆蘇った。僕の向かいに座っていたおじさんの首の動きが非常に面白かった。西部劇のガンマンが鉄砲を抜く腕のイメージ。
 でも一番素敵だったのは僕の直ぐ隣に座っていた中年婦人だ。ビクッガバッ。基本だけれども王道だ。
 ところでその後、僕は周囲からの苛立ちと不審と怒りと軽蔑の視線に包まれ降車するまで非常に気まずい思いをしたことを記しておかねばならないだろう。
 止めて置いたほうがいいよ、これは。思いついても妄想するだけで満足しておきましょうぜ旦那。
□こんな悪戯心の衝動、朝のラッシュ時の車内でも感じます。ギュウギュウ詰めなのに、妙に静まり返った車内。でも、朝は危険すぎます。終電のようなユーモアはないと思います。下手をすればテロ容疑でニュースになりかねません。終電の乗客ならではの観察です。
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普通の一日を記録する
おとこはつらいよ
髙橋亨平
 日曜日、午前10時40分、いつものごとく母屋のベランダに出された犬の鳴き声で目覚めた僕は、DVDデッキに録りためた諸々の番組で時間をつぶしてから、遅い朝食を取りに母屋へ向かった。昼ごはんともいう。
 母屋にはおばあちゃんしかいなかった。妹と母さんはプールに出かけたらしい。父親というストッパーが出張で姿を消すと、週末はかように遊び通しになる。明日の朝、新しい口内炎にくずる妹の姿がありありと眼に浮かんだ。
 あきれながらワラビの混ぜご飯をかきこんでいると、座敷の座布団に弧を描いて寝転がっている黒い物体が眼に留まった。ちょうど一年前に拾ってきた猫のタマ(♂)だ。
「今日はめずらしく家にいるのか」
「盛りの時期も終わったからねぇ」
洗濯物をたたみながらおばあちゃんがいう。
 もともと平日、顔を合わせる時間が皆無ということもある。タマがこんなに家でまったりくつろいでいるのを見るはほんとうに久しぶりだ。夜なんかほとんど家にいたためしがないもんなぁ、この放蕩猫は。
「おいネコ野郎、毎日毛玉吐いてつか」
 元気に育ったのはいいが、こんな遊び人になってしまうなんて思いもしなかった。返す返すあきれながら抱き上げると、タマは気の抜けた声でフニャーと答えた。いい身分だ。
 よほど疲れているのか、あまり反撃してこないのでここぞとばかりに全身を撫で回してやる。虐待ではない、スキンシップだ。タマは何処の馬の骨とも知れぬ雑種だが、全身の七割を覆う黒い毛並みは短くツヤツヤしていて非常によろしい。とくに肩から背中にかけてのふにゅふにゅした触り心地は、巷の下手なマイナスイオングッズとかパワーストーンではてんで勝負にもならない癒しスポットなのだが・・・。
「なんだ。カサブタ多いな、おまえ」
 首根っこや肩のあたり、ところどころ毛の下にうっすら筋が走っているのが目に付く。ここ一ヶ月ほど、ずっとこんな有様だ。やられた理由も相手も、よく知っている。
 春の中ごろに、タマはどこでつかまえたのか近所の野良猫との間に子供をこさえた。何匹かはタマにそっくりなので、近所でもちょっと評判になった。だが子供が生まれると、嫁さんは子育てに専念するためかタマを邪険に扱うようになった。それでもタマはしつこく遊びに行き、そのたびに反撃されてとぼとぼ帰ってくる・・・というのが、全身のカサブタに関する切ないエピソードらしい。
 こういうとき「男はつらいよ、うんつらいね」としみじみ思わされる。ネコなんかまだ幸せだ。カマキリなんぞは『♂=繁殖の道具』でしかなく、雄はことを終えたら大人しく嫁の胃袋に納められてしまうのだから慙愧の念に耐えない。家庭を与えられ、一家の長という肩書きを頂戴してのうのうと女をはべらせているのは、じっさい人間様くらいのもんじゃあないのか。
 かつて『機動戦士ガンダム』の総監督・富野由悠季はエッセイの中で『いわゆる男中心の社会構造は男が権力を求めて作ったものではなく、単なる交尾相手でしかない男のもつ余剰エネルギーを有効活用するために女達が考え出し、男をおだてて作り上げた虚構のシステムなのだ』と書いている。冗談か本気かわからないあたりが空恐ろしいが、ネズミ捕りさえマトモにやらないタマのことだ。おっぱいすら出ないヒョーロクダマが
「やあ、パパですよ!」
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なんてのさばってみたところで、仔猫母猫にしてみれば威厳もクソもあったもんじゃないのだろう。
 そうか。ふと僕は思い至った。雄猫はみな、ニートの烙印を押されてこの世に生を受けるのである。なんという悲哀。かように残酷な宿命がほかにあるだろうか。
 たまらず頭を撫でてやると、ニート猫はごろごろ喉を鳴らして寝返りを打った。
 
 それでも夜になると、タマはやっぱり懲りずにサッシを開けて、するりと外へ抜け出していった。なんというか、もういいかげんにしてくれ。
□オス猫の悲哀、面白く観察されています。猫といえば道場周辺にノラがいつもうろついていて、トタン屋根の上でドタバタ、ゴロニャーンとうるさい。子供たちがけんかをしているのだと騒ぐので「愛し合っているのだ」と教えると、わーと笑いだす。妙におとなしいなと思っていると玄関の戸の隙間から覗いている。安全だと思うのか、道場の中で子供を生みたがっているのだ。一度、盆明けに行ったら4匹仔猫がいたので困ったことがある。昨年は、床下で産んだようだ。家のないフーテン猫はオスもメスもつらいところだ。
 
感想
「銀杏散る」を読んで
髙橋亨平
 若者である時間、それを何に使うのもそれぞれ人の勝手で、自由だ。だけれども時間は、いつの間にやら過ぎ流れていて余裕ぶっこいていたら時間切れ。
 アレ?おかしいな、となるわけで。
 無限の可能性から有限の成果を抽出する行為はどうあっても、満足はできっこない。どれだけ成果を引き出せても、無限であったころにはかなわないからだ。
 まあ、もっと単純に、「衰えるのは本当にこわい」わけだ。
 面白かったです。
□『城の崎にて』は、命について。ここでは老いについての心境作品になっています。
土壌館日誌
 いつものことだが、練習中にAとSがふざけあっていた。Aは小2、Sは小1。6と7歳である。叱ってばかりいてもきりがないので、遠くからふざけの原因がなにか観察した。互いに柔道着の前を隠し合ってクスクス笑っている。すぐに察しがついた。相手の胸が見えた見えないというのだろう。なぜかわからないが、低学年の子供たちは「カンチョウ」とか「オッパイ」という言葉が好きだ。つつき合って「イャーン」などと声色をだしている。低学年には抽象的な言葉は通じないので、傍に行って直截に「なにが可笑しいのか」と、聞いた。案の定、「乳首がみえるから」という。「めずらしいのか」とたずねると「ううん」と頭をふる。「吸いたいのか」と聞くと二人はわーと歓声をあげて黙ってしまった。どうもわからない。Aは、母親がいない。赤ん坊のころからのようだ。それで人一倍、関心があるのかも知れない。が、Sは、五歳離れた兄がいる。母乳でなかったかも――と想像した。それにしても、なぜ、そんなに興味があるのか。高学年は、さすがに口に出さない。が、反対に「このあいだまでオムツしているのを見たぞ」などとからかうものなら、かなり焦って「皆に、そのことは話さないでくれ」と頼み込んでくる。とにかく、子供は予想外のことを考えている。低学年のふざけについて6年生に聞いてみた。「えーぼくに聞くの」と渋っていたが、「ふざけの原因を知りたいだけだ」と粘ると、ようやく「クレヨンしんちゃんじゃないですか」と教えてくれた。何のことはないアニメのものまねだったのだ。放映時間で思い出すらしい。そこで作戦を変えて「テレビが見たかったら帰っていいぞ」と告げた。「道場にいるほうがいい」ふたりは、急に半ベソになってふざけるのをやめた。    (土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
3.人間観察・ある人生相談から
 新聞の「人生案内」欄に、下記の相談が寄せられていました。創作でこうした状況場面をつくったとき、作者は、それぞれの登場人物たちに、どう答えさせるか。書き手一人ひとり違うと思います。相談者や本人が満足いくような矛盾のない、納得いくような答えを考えてください。
 この相談の場合、次の登場人物が考えられます。
・相談内容から推測する母親像(性格など)は → 
・相談者(40歳代の母親)の考えは → 
・相談者の夫は → 
・相談されたカウンセラー → 
・相談されることになった大学生の友人 → 
・説得するとしたら(親戚・大学関係者) → 
読売新聞 2007・7・10 「息子が大学を辞め料理人に」心配な40代母親
4.名作にみるレストラン店内観察
 時間がなければ次回(後期)にします。後期は、電車を降り車外観察、主に家庭観察へと移ります。テキストは志賀直哉に加えジュナールの『にんじん』です。
  5.「少年王者」紙芝居稽古
 前回、演技派ぞろいで驚きました。これなら公演も可能かも!?稽古しなくても演技力抜群でした。紙芝居は、口演者の読みと、間と、ちょっとした喋りです。
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2007年、読書と創作の旅・旅記録
7・9ゼミ報告
 7月9日(月)、は全員の出席でした。(敬称略・順不同)
参加者 : 疋田祥子 髙橋亨平 茂木愛由未 金野幸裕 山根幸裕
司会・進行:疋田祥子さん(2)
1.ゼミ合宿について(担当者・疋田祥子さん)
  参加費用徴収 ゼミ生=3500円、担当=4500円
  ゼミ合宿授業予定について4日 →  自彊術・体操 マラソン読書 
               5日 →  (朝)自彊術・散策 見学
2.ゼミ誌について編集協議(編集委員・髙橋君、山根君)
 ・内容 → 車内観察を発展させたもの、旅ものなど。写真。
 ・制限 → 1人2作(フリー含む)
 ・サイズ → A5版 50頁~
 ・枚数 → 車内観察は最低3枚~ フリーは10枚+写真可
 ・締切 → 10月15日(月)までにデーターを送る。
3. 提出原稿発表
  車内観察作品 → 疋田祥子さんの「終電と造花」
  終電に造花を持っている人がいた。ふだんは目にもとまらない造花だが、車内では、生
 き生きと見えた。美しかった。その乗客が楽しそうだったので、私もうれしくなった。
  その乗客は、知的障害者だった。「ボロボロになったゴムと、ナイロンの靴」など服装
 で、そのことを言い表し伝えた。
感想 ・「レインマン」ぽい気がした。
    造花を大切そうに持っている乗客。作者の目には、造花が美しくみえた。他の乗客
    にもそう見えた。なぜか。「だから私ははっとした」で、謎とける仕掛けになって
    いる。が、もう少し状況があると、それが強くなるのでは・・・。
     後期、このような翻然的観察作品であるテキスト「灰色の月」をとりあげます。
4.. テキスト『出来事』の読み
  感想 ・前半と後半と雰囲気が違う。前半は、退屈な感じだが、出来事で一変。後半は
      皆、生き生きしていてうごきがある。子供が助かって皆が喜んでいるのがいい。
      今の車内ではない気がして寂しく思った。
     ・車内は運命共同体、一蓮托生を感じた。一時だが同じ空間にいる運命の不思議
      さを感じるこのあいだ『正義派』を読んだ。こちらは、逆の話。子供が助から
      なかった。事故を目撃した線路工夫の目から書いている。
     ・小役人が可愛い。前半と後半、スピードが変わるのがよかった。
     ・若者がかっこいい。
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5.店内観察作品にみる名作紹介『殺し屋』 次回
6. 山川惣治絵・文『少年王者』紙芝居稽古 5名全員で。茂木さんでチャイム。
7.提出原稿
  提出 → 車内観察1本(金野君) 「一日を記憶する」1本(高橋君)
       感想1本(高橋君) 
前期ゼミ報告
前期下原ゼミ「2007年、読書と創作の旅」は、以下の内容で行われました。
4月16日 ガイダンス ゼミ授業の説明。嘉納治五郎「精読と多読」「憲法九条」20名
4月23日 司会・髙橋君 4名自己紹介。ゼミ誌編集委員決め。高橋君・山根君 配布。
5月 7日 司会・疋田さん 5名全員。写真撮影。愛読書紹介2名。サローヤン『空中ぶ
      らんこに乗った大胆な青年』の読み。テキスト『網走まで』論評読み。
5月14日 司会・山根君 4名参加 『ひがんさの山』読みと感想、四谷大塚テスト問題、
      愛読書紹介1名
5月21日 大学、はしかで閉鎖、ゼミ休講。
5月28日 大学、はしかで閉鎖、ゼミ休講。
6月 4日 司会・茂木さん ゼミ合宿決めと担当者決め。担当者は疋田さん。愛読書紹介
      1名。テキスト読み『菜の花と小娘』『網走まで』 5名全員。
6月11日 2名参加。ゼミ合宿申請書類作成。河出書房『なつかしの一年生』鑑賞。マン
       ガ作品武富憲治作「鈴木先生」前・後編を読む。
6月18日 司会・髙橋君 5名全員。ゼミ誌編集について、ゼミ合宿について。提出作品
      発表=「車内観察」4作、「一日」4作、「車外観察」1作。
6月25日 司会・金野君 4名参加。ゼミ誌・ゼミ合宿について。テキスト『網走まで』
      の感想。『夫婦』の読み。夏目漱石『三四郎』の読み。名作詩編1篇「無言の」
7月 2日 司会・山根君 5名全員。ゼミ合宿抽選結果、8月4~5日軽井沢。提出原稿発
      表=「車内観察」2作。ビデオ・テレビ番組「おんぼろ道場再建」観賞。
7月 9日 司会・疋田さん 5名全員。ゼミ合宿費徴収。提出発表=「車内観察」1作。
      テキスト読み『出来事』、感想。紙芝居稽古『少年王者』
提出原稿17本(7月23日現在)
【車内観察】髙橋「不快指数200」、疋田「隣の娘」「今が幸せならば」「終電と造花」、
      山根「ある日の中央線」「永遠の二番手」、茂木「逸した親切」「子泣き爺」
      金野「終電の悪戯」
【一日を記憶】髙橋「休日の過ごし方」「おとこはつらいよ」、山根「昼夜転換」、
       金野「朝には何を」、疋田「フック船長な日」、茂木「兄さんおめでとう」、
【車外観察】疋田「レストラン観察」、
【感想】髙橋「銀杏散る」を読んで。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――10 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅
8・4~5ゼミ合宿について
 8月4日~5日のゼミ合宿の授業計画予定は、以下の要領で行います。
1.持参するもの
○健康の為に自彊術(戦前の体操)をするので動き易い服装。
○マラソン読書テキスト・ドストエフスキー『貧しき人々』訳・江川卓。コピー配布。
2.日程・計画 8月4日(土)~ 5日(日)マラソン読書の他は変更の場合あります。
 4日土曜日 朝出発 → 軽井沢 → 散策 → 体操 → 昼食 →
       午後マラソン読書スタート → 自彊術 → 夕食 → マラソン読書
 5日日曜日 散策 → 気功 → 朝食 → 見学 → 帰京 → 解散
自彊術(じきょうじゅつ)について
 戦前まで行われていた日本独自の健康体操・医療術。大正5年(1916)に中井房五郎という武道家が創案した。デンマークからきたラジオ体操に押されたことや第二次世界大戦の敗戦で様々な理由から中止。昭和40年(1965)から復活。49年に文部省体育として承認された。(HP&『自彊術』池波酉次郎著・日本初「心療内科」創設者)
 ※「自彊」について → 2006年前の中国の古典『易経』の一節からとった。
             「天行健君子以自彊不息」(天行健なり、君子以自彊不息)
             「天の運行はすこやかである。人間は健康を保つためには、毎
              日、自ら勉めて休んではいけない」の意。
マラソン読書(テキスト『貧しき人々』読破に挑戦)
 7月15日(日)の朝日新聞「読書」欄にこんな記事をみかけた。先般『土の中の子供』で芥川賞を受賞した中村文則(29)さんの近著の話題でドストエフスキー体験をこのように話していた。「高校生の時に太宰治と出会い、大学でドストエフスキーを知った。圧倒された。世の中にこんなものがあるのか、と思いました。あの驚きは大切にしたい」
 「世の中にこんなものがあるのか!」ドストエフスキーを読むということは、まさにこの体験である。川端康成はじめ多くの作家が体験し、文学を志す若者に「読むべし!ドストエフスキー」の言葉を残した。アインシュタインはじめニーチェなど世界の科学者、哲学者もまたしかりである。
 1845年5月6日未明、白夜のペテルブルグの街を、興奮した様子で駆けていく二人の男がいた。一人は若手作家のグリゴローヴィチ、もう一人は当時ロシアを代表する詩人で編集出版人でもあるネクラーソフ(1821-78)。二人は、ドストエフスキーの下宿に飛び込むと、寝かかっていたドストエフスキーをたたき起こした。「寝てる場合じゃない!」。二人は、『貧しき人々』を読み終えるとすぐその足で会いにきたのだ。作品は、その日のうちにロシア随一の評論家ベリンスキー(1811-1848)に手渡された。ロシアの指導的批評家は、皮肉な笑みを浮かべて「君たちによると、ゴーゴリはまるで茸みたいにやたら生えてくるんだな」と受け取った。が、彼もまた同じだった。読みはじめたらやめられなかった。 
 162年も前の話である。だが、その感動と興奮は、世界各地で162年間、絶え間なくつづいてきた。「こんなものがあるのか」そんな驚嘆があった。今日、そんな本があるだろうか。
 ならば、読んでみよう!2007年の夏、何かが変わる。新しい世界への旅立ちがある。
と、いうわけで7月4日、軽井沢の夜は、記念すべき日となる。
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6度目 (加筆、訂正しながらの連載)
学生と読む志賀直哉の車中作品
はじめに
 
 「小説の神様」志賀直哉は、多くの車中作品を書いた。見たままを的確に捉えてそのまま書いた作品もあれば、全く想像で書いた作品もある。が、全体的にみれば、観察と想像を巧みに混ぜ合わせた作品である。それ故、一見、エッセイ風にも私小説作品にもみえる。が、その実、創作作品である。本稿において 取り上げた主な作品は『網走まで』、『正義派』、『出来事』、『灰色の月』などである。これらの作品は、車中、車外を克明に観察することで、当時の時代を、未来を見据えている。
 本論は作品論というより、車中作品を検証・考察することによって「小説の神様」ではなく人間志賀直哉の本質に迫ることを目的とするものである。また、一部の人たちからしばしば「社会を描かなかった」、「何もしない作家」と批判されてきた。このことについすても、はたしてそうだろうか。志賀直哉の車中作品には、ときの政治を、時代を超えて未来をも警鐘するものがある。だからこそ普遍である。とみて、本論において証明するものである。
第一章『網走まで』を読む
その一 (一)「菜の花と小娘」について (二)ゼミ学生の感想
    (三)『菜の花と小娘』とは何か (四)「観察と想像」による習作
その二
(一)『網走まで』について
 志賀直哉の車内作品は、『網走まで』からはじまる。が、関連作品として、〈その一〉で、処女作三部作の最初の作品『菜の花と小娘』をとりあげてみた。この作品には、小説の神様と云われる志賀直哉の創作基本がよく現れている。対象物をよく観察した上で想像のはねをのばし、一つの作品に仕上げる。二十歳前後のこの時期、志賀直哉はアンデルセンを読んでいたというから、この作品もいわゆる童話作品になった。が、観察と想像が、よくブレンドされた作品といえる。川の流れを乗り物とするなら、『菜の花と小娘』も、車中作品の一つといえる。菜の花と小娘は、川という列車に乗った乗客。山に一人ぽつねんと咲いていた菜の花にたいする小娘のやさしさがわかる作品である。
 『網走まで』は、二人の幼子を連れて、蝦夷地に行く母子に同情を寄せる作品。菜の花は幸せに、母子には、不吉な予感が、というように状況は違うが、構図的には、よく似ている。
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。
 そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』
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が評価できなければ、志賀直哉について畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いたのである。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。三年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。まず、学生たちに読んでもらった。次のような疑問点というか感想がでた。
○ 題名について → なぜ『網走』としたのか。函館、札幌、旭川ではダメか。
  「遠いところ」「北の果てのイメージ」
○「網走」という地名について → どんなイメージがあるか。
○ 同席の女の人について → 彼女が網走に行く目的は何か。網走での生活は。
○ 頼まれたハガキについて → 誰と誰にだしたものか。
○ この作品は、当時、東京帝国大学で出版していた雑誌「帝國文学」に投稿するが没にな
  る。武者小路実篤など、後年白樺派文学の中心作家たちが推した作品である。なぜ「帝
  国文学」の編集者は採用しなかったのか。作者・志賀直哉は字が汚かったから、と思っ
  た。が、推理すれば、どんな理由が想像できるか。
 はじめに、この疑問点二に絞って考えてみた。一つには題名の「網走」。もう一つは、なぜ没にされたのか、という点である。
(二)「網走」の謎
 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
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? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人
は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、
「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」
と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発
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展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。
(三)「網走」の印象
「網走」という地名について、検証してきたが、現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、
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未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところだった。
計根別まで
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、私は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いからと、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の援護会で切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名である。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。実習希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷さんの像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大といろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、さすが、そのスタイルの学生は、いなかった。
 7時30分頃だったか、青森行き、寝台列車に乗った。一つ車両、バイト学生だったので、大学は違っても、皆、修学旅行気分だった。通路は宴会場になり「北帰行」や「琵琶湖周航の歌」、小林旭を気取ってギターを弾くものもいた。私たちの組もそうだが徹夜組もいて、皆、連絡船の中でうとうとしていた。函館から普通列車に乗り、札幌でラーメンを食べたついでに時計台を見物に行った。あまり小さかったので驚いた。倶知安という峠の駅で列車が停まった。時間待ちらしい。零時近かったが、駅のうどん屋は営業していた。仲間を誘って食べに走った。7月末だというのに、寒くて震えた。そのぶん、熱いうどんはうまかった。列車は根釧原野を走り続けた。停車するたびにバイト仲間は、少なくなっていった。計根別では、十人ほど降りた。まだ先に行くのは数人になった。「がんばれよ」彼らは、列車の窓からいつまでも心細そうに手を振っていた。「逃げ帰るんじゃないぞ」罵声を浴びせて手をふりながらも私たちも心細かった。
 私たちは、農協の人の説明を聞きながら駅の待合室で、雇い主がくるのを待った。どんな家で働くことになるのか、不安と期待があった。親友のA君にも迎えがきた。トラックはオンボロだが人のよさそうな雇い主にみえた。なぜ、わたしの雇い主は遅いのか。だんだん心配になったところに、雪印のトラックが着いた。色の黒い小柄なおじさんが降りた。
「お待ちどう、迎えきましたよ」農協の係りの人が私の顔をみて言った。
「どうも、どうも、遅くなっちゃって、配達してたもので」雪印のおじさんは、恐縮しながら入ってきて、すぐに私の荷物を持った。いい人らしい。私は安心した。
 私が働くことになった農家は、まさに「大草原の小さな家」。隣まで、どれだけかかるかわからない原野の一軒家だった。丸太作りで築12年の母屋と、10頭のホルスタイン牛舎があった。家族は、夫婦と小学校6年の長女、4年の二女、2年の長男。
 私の北海道体験、「計根別まで」は、こうしてはじまった。
話は逸れたが、昭和40年のときでさえ、北海道に行くのは、大変だった。『網走まで』が書かれた頃は、どんなだったか、想像に難くない。
つづく
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ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  高橋亨平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 7月9日(月)までの現段階は 
  済み【①ゼミ誌発行申請書】を提出した。提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。
  題名=仮題「世界の車窓から」、内容=車内観察、サイズ=A5版、
  印刷会社=コーシン出版に内定
4. 7月中旬、夏休み前、原稿内容を決める。一人二作(車内1とフリー1、写真可)
5. 10月15日 編集委員、ゼミ員から原稿を集める。締切厳守。
ゼミ誌原稿締切り10月15日(月)まで
6. 10月上旬 ゼミ誌編集委員は印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出しても
  らう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
ゼミ誌原稿を書きあげるポイント
 ゼミ誌掲載の作品は、一度に書こうとすると大変です。毎週コンスタントに提出原稿を書いて、そのなかの気に入ったものを手直しするのも一考です。そうすれば、締め切りも気にならなくなります。
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2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇創作・習作
連載5
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室
■主な登場人物
 
西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督   中島教一郎・・・・大和大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員     柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師 沢田 浩・・・・・ヒロシ。カメラマン
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
 タオ・・・・・・・ヤマ族の長老 シナタ・・・・・・長老の甥 
 ボト・・・・・・・ヤマ族の族長 ユン・・・・・・・ヤマ族の女性 
ニホン・・・・・・ユンと柳沢の子 オシム・・・・・・ヤマ族の若頭
  ビバット・・・・・ソクヘンの従兄弟 チャット・・・・・ヤマ族の若者
【前号までのあらすじ】プロローグ「遺跡に眠る者」
第一章〈赤い悪魔〉 一「はじまり」、二「ヤマ族の選択」、三「一枚の写真」、
第二章〈過去からの訪問者〉一「商社マン」、二「隊員たち」、三「闇の中」 
第三章〈クメール共和国〉一「密林の空港」
 1970年7月14日、大和大学の元アジア研究会探検隊5名と新たに加わったフリーカメラマンのヒロシは、ヤマ族の密林ガイドをするために新生クメール共和国に入った。新生クメール共和国は、3ヶ月前クーデーターが起き、独裁社会主義国から民主国家になったばかりの謎の多い国だった。独裁元首シフヌーク殿下は、追放され軍部が掌握していた。
 激しい雨の中、探検隊の一行は原生林の中にあるポーチェントム飛行場に降り立った。彼らがそこで目にしたのは兵士と溢れんばかりの避難民だった。彼らは、迎えにきた広東人リー・センの車二台に分乗して首都プノンペンに向かった。真っ黒な雲が空一面を覆い、時折地を索うな巨大な稲妻が走る。探検隊は不吉な予感。やがてはるか向こうに蜃気楼のように都がみえてきた。西欧を思わせる街並み。フランスが長く支配したプノンペンだった。
 今回、第三章 二「滅びの都」、三「日本橋にて死す」
第三章 クメール共和国
 盲人は原始的なギターの伴奏に合わせてラーマーヤナを吟唱していた。崩壊していくカンボジアが、もはやその英雄詩によって、まわりを囲む乞食や婢の心を動かすばかりの老人の姿にしのばれた。支配された土地、頌歌も寺院もともにくずれさろうとしている下僕の土地、滅びのなかの滅びの土地。(マルロー『王道』から)
二 滅びの都
 ペノンペンに入ると雨はやんで、時折日が差して暑い日となった。リー・センは、プノンペン市内を一周した後、煉瓦づくりの建物が建ち並ぶ繁華街で、探検隊の一行を降ろし車を置いてくると、走り去った。一行は、ソクヘンの後について赤い花が咲き乱れる歩道を歩いて行った。街は、駅前からワットプノンにかけての道路や広場は、難民と兵隊で溢れていた。
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 時刻は、午後三時過ぎだった。いつのまにか、雷雨と激しい雨を降らた黒雲はきれいさっぱり去って、抜けるような青空がクメール共和国の首都プノンペンを覆っていた。通りは、ヨーロッパ、それもパリの街並みを思わせた。雨上がりのモニボン通りは、物売りと買い物客、それに難民と思われる人たちでごった返していた。
 一見、平和そうに見える街並み。が、ところどころにあるバラ線と歩哨が、まだこの都が戒厳令下にあることを教えていた。
 ソクヘンは、一行を通りのはずれにある大きなカフェ「パリ」に案内した。広い店内はほぼ満席だった。が、リー・センの名を告げると、奥のテーブルを空けてくれた。
「顔がきくんだね、あのボス」
高木は、聞いた。
「はい、こんどの政府、知り合い多いですから」
ソクヘンは、頷きなが、恨めしそうに、ちらっと青空をながめた。
 天気を気にしているのか。高木は、ソクヘンが、この国に入ってから、焦っているようにみえた。さきほどの会話を思い出した。
 空港を出て首都にむかう間、視界がきかないくらい激しく降っていた雨が、市街に入ったとたんやんだ。引き潮のように、引いてゆく雲をみて、ソクヘンが舌打ちした。
「雨季は終わったのか」高木は、聞いた。「明けるのは、いつだ」
「まだです」ソクヘンは、首を振った。苛立っているようにみえた。
「雨季、いつ明ける」高木は、もう一度聞いた。
「場所によって違うですよ」車を運転しているリーセンが振り返って笑顔で言った。「プノンペンは、あと一ヶ月であけます。山岳地帯は、もっと早いです」
 そのことで焦っているのか。雨季が明けては困ることがあるのか。高木は、考えた。
なぜ、新政府は、雨季が終わるまでに立ち去れというのか。
 ソクヘンは、なぜか、そのへんのことを詳しく話さなかった。日本語が完璧に話せるわけではなかったので、高木は、深くは考えなかった。元アジケン隊は、要するに武士の約束であるキンチョウを果たすために行く、それしか考えなかった。彼らが、なぜ移動しなければならないのかは、それほど重要事ではなかった。が、いまになって気になってきた。
 最初、ソクヘンからインドシナ北部への密林ガイドの依頼を受けたとき、中島教一郎も西崎も首を傾げて問い直したものだ。
「ソクヘン、君が案内して山を下りればいいじゃないか。それに、なぜタイ国境に向かうのだ。カンボジアに下りれば。なにも我々がわざわざいくことも」
しかし、この疑問にソクヘンはなぜか
「ヤマ族はクメール人ではないから」としか答えなかった。
 カンボジア側にくることは、政治的に難しいとも説明した。少数民族問題は、どこの国でもある。政変でカンボジアの国内に住む少数民族の立場がどのように変ったのか、高木も西崎も知る由もなかった。ヤマ族には、タイ国境をめざさなければならないねよほどの事情があるのだろう。そう理解するしかなかった。
 西崎隊長はじめ五人の隊員は、その疑問を抱いたまま、とにもかくにもカンボジアにやってきた。ヒロシには、そんな疑問は何もなかった。日本での報道では、この国のことはまったくわからなかった。が、空港に降りたとき、いまだ戒厳令下にある張りつめた情況を知ることができた。政治は、まだ安定していないのだ。
 そのこととソクヘンが天候を気にすることと関係があるのか。日米をまたにかけて商社マンとして辣腕をふるっている彼だが、これだけの情報では、推測することもできなかった。ただなんとなく、あまりよくない予感があった。これまでの
 面倒なことに巻き込まれなければよいが。高木は、テーブルに着くと皆を見回した。西崎も中島も、そんな心配はないようだ。柳沢は、若い女の子に手を振っている。
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 テーブルの上に、カンボジアの地図がひろげてあった。
「ほんとうに、ヤマ族の集落まで行きますか?」
センは、皆の顔をみると、確認するように聞いた。
「ええ、もちろんです」西崎隊長は、なにをいまさらといった顔をしながらも力強く頷いた。「そのために来たんです」
「なにか、あるんですか、問題が」
中島副隊長は、不審そうに聞いた。センの言葉に何かを感じ取ったのだ。
「問題ですか」
センはつぶやきながらソクヘンの顔を見た。
 ソクヘンは、困った顔でうつむいた。センは、一瞬のうちに看取した。華僑として生き延びた勘で、彼らは全く現実を知らないできた。ソクヘンは、肝心なことを話していない。そ
うみてとった。
「ただ治安が悪くなったんですよ。おわかりでしょう。無血クーデターといっても、シアヌーク殿下からロン・ノル将軍に変ったことは、白から黒に、黒から白に変ったほどの変りようなんです。混乱しています。とくに山岳地方は」
「ゲリラですか」
「そうです」
「ゲリラだったら大丈夫じやないんですか」西崎隊長は、言った。「彼らは民間人には手を出さないんでしょ」
「岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』すばらしかったです。ゲリラの潜入記ですけど」
ヒロシは、うれしそうに言った。
「ここのゲリラは、ベトナムのゲリラと違いますよ」リーセンは苦笑して言った。「サルという元教師が指揮しはじめてから山賊から赤い悪魔と呼ばれるようになっているんです」
「赤い悪魔?!」
「以前はクメール・ルージュ、赤いクメールと呼ばれてたからです。とにかく評判が悪い」
「でも、ちゃんとした共産主義者なんでしょ」
「共産主義者!まあ、そうですが・・・・」
「だったら――」西崎隊長は、言いかけてやめた。りー・センは、いまアメリカ軍の日用品で大もうけしている。現政府に反対するゲリラのことを悪くいうのは当然のことだ。
「みなさんがヤマトン族のところに行かれることには反対しませんし、また、行ってくれなくては困ります。ヤマトンといいますから、日本の別名、ヤマトに似てます。ヤマトン族と
も言います。名前もそうですし、穏やかで、よい少数民族です。わたしもヤマシルクは、すばらしい織物。ずっと商売してきましたが、彼らから嫌な思いをさせられたことは一度もありません。本当にいい部族です。残念ながら、前政権も現政権も友好的ではない。むしろ追っ払いたいと思っている。だからぜひタイ国境まで、案内して欲しいのです。ソクヘンも、そのために助けを求めに行ったのです。わたしも協力したいのです。わたしはただ、気をつけて行ってほしいのです。十年前の約束を守ってきてくださった皆様の勇気、親切が無駄になってはいけないと」
「ご心配、ありがとうございます」西崎隊長は、頭をさげた。センが本当に自分たちのことを案じていてくれると思うとうれしかった。見ず知らずの彼が、それほどまでに考えてくれるのは、ヤマ族のことが心底好きだからだろう。ぜひ、ヤマ族のガイドして、彼らを無事タ
イ国境まで送り届けてやろう。改めてそう決心するのであった。夜になって、リー・センの舟で出発することにした。
ここまで直し
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三 日本橋に散る
 メコン河畔の歓楽街は、騒々しかった。ボリュームいっぱいにあげた音楽、エレキの生演奏、やら酔っ払いの歓声、それらの騒音に混じって時々銃声まで聞こえてくる。アメリカ軍が入ってきて、この国はまるで変ってしまった。しかし、通称日本橋の上は不気味なほど静かだった。雨が上がった後、夕涼みの人々が三々五々、欄干にもたれて、満々と水をたたえて流れるメコンの川面をながめていた。戒厳令はひかれたままだった。あちこちに歩哨がいた。が、彼らの顔に緊張感はなかった。中島とソクヘンは、橋の中ごろまで話ながら歩いて行った。
「立派な橋だ」
「なぜ、ニホンバシというんだい」
「それは、かんたんです」ソクヘンは笑って言った。「日本人がつくったからです」
「文字通りか、それじゃあ、日本人も、もつと評価されてもいいなあ」
「エコノミックアニマルだけじゃじゃないとこを」
「ぼくが知ってますよ」ソクヘンは笑った。
「そうだな、みんなに評価してもらうことじゃあないな」西崎は言った。
「武士は、己を知るもののために死す。まさにぼくたちにぴったりだ」
「あの舟じゃないですか」ソクヘンは指差す。明かりが二回点滅した。
「やけに小さいな、乗れるのか」
「七人だろ、船頭いれて八人か、大丈夫、十人は乗れるよ」
 日本製の小型車が、橋のなかほどで停まった。窓から運転手が顔をだして、何か言った。「何か」
中島近くにいた中島に声をかけた。タバコの火を貸してくれ、そんなふうに見えた。しかし、河畔にいた、歩哨には、
停車の口実とみえたようだ。突然、大声で何か叫んでかけてきた。
 とたん、夕涼みしていた、男たちが、一斉に腰をかがめて発砲しはじめた。ゲリラだったのだ。不意をつかれて歩哨は、ばたばたと倒れた。夕涼みの男たちは、歩哨の銃を拾って、銃声を聞きつけ集まってきた政府軍の兵士と応戦しはじめた。驚いたのは、西崎たち七名だ。橋のたもとでリー・センが、早く、早くと手招きしている。皆は、欄干沿いに、這うようにして走った。頭上を
ピューピュー音をたてて弾が行き交っていた。兵隊たちが、一斉に駆け出した。みると、夕涼みの男たちは、反対方向に逃げていく、運転手も車をそのままにして逃げていくところだった。銃声がやんで、不気味な沈黙が流れた。次の瞬間、大音響がして、小型車が爆発した。閃光と火柱で、空中高く、吹き飛ばされた車が見えた。そのなかに何人かの人間の体もあった。つづいて、夕涼みしていた男たちがいた橋のあちこちが次々、爆発した。大きな日本橋は、ゆっくりとメコンの流れに落ちていった。大きな水しぶき。
「副長は」
西崎は皆をみた。
 中島の姿がなかった。
「センセイが」ソクヘンは、叫ぶ。
「車の近くにいたぞ」
「よし、戻ろう」高木は、あわてて言った。
「まて、みろよ」西崎は指差す。
目の前のメコンの上と、河面をいくつものサーチライトが照らし出していた。橋は、無残にも橋げたを残すのみだった。橋のたもとは、大勢の政府軍で埋まっていた。
「いっしょに落ちたのか」
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そのことは、だれの目にもあきらかだった。空中に吹き飛ばされた人間の近くで、キラリと反射するものを確認していた。メガネのようだった。
「わからん、が、車の一番近くにいた。それは確かだ」
「じゃあ、河に落ちたか」
「わからん、もしそうだったら、この流れと水量だ」
「日本大使館に、届けよう」
「そんなことしたら、われわれの存在が知られてしまう。ゲリラにも筒抜けだろうから、このジャングル案内は中止するしかない」
「中止しないでください。お願いします。助けてください」
「しかし、副長は、どうする」
「もしかして、生きているかも知れん」
「どうします」
 選択に余裕はなかった。西崎呻いた。まさか、こんなところで、こんな事態になるとは思ってもみなかった。十年前、探検した密林の中を道案内をする。そう難しい作戦ではないと考えていた。辛い探検であったが、遺跡や、マンブローの林はなつかしいばかりだった。しかし、突然の悲劇に、この旅は考えていたより困難に思えてきた。
「日本大使館に行って相談しよう。ヤマ族の人たちのことは国連に頼めば、なんとかしてくれるだろう」柳沢は、早口でせきたてた。
「だめです、時間がないんです。やつらは、雨季が終われば、山に登ってきます。全員、皆殺しにされてしまうんです」ソクヘンは、必死に訴えた。彼にすればやっとここまで連れてきた密林ガイドに、こんなところで帰られたらたまらん話だ。
「皆殺しなんて、大袈裟な、ゲリラがそんなことするはずないだろ。ベトナムでソンミ村の村人を虐殺したのはアメリカ人だ」
「ベトコンとは違います。奴らは、悪魔です。恐ろしい悪魔なんです」
「げー、それなら、なおのこと、そんな連中がいるところへ行ってどうなる。ジャングルを道案内するだけでも大変なのに」
 進むか、残るか。言い争ったが、選択の余地はなかった。川岸の道路に何台も軍用トラックが停車し、荷台から兵士たちが次々と飛び降りてくる。
目の前のメコンの上と、河面をいくつものサーチライトが照らし出していた。橋は、無残にも橋げたを残すのみだった。橋のたもとは、大勢の政府軍で埋まっていた。彼らをめがけて駆けてくる。ゲリラに間違えられたらしい。
「まずいぞ、走れ、走れ」
リーセンが舟を指さした。皆は、一斉に駆け出した。すぐ近くに来た兵隊が何か叫んだ。
「止まれ」と、叫んでいるようだ。振り向くと銃をかまえている。
「どうする」西崎は迷った。「どうする、けん!」
高木も、どうしてよいかわからなかった。ソクヘンだけが夢中でかけていく。
「私にまかせろ」リーセンが言ってきびすをかえす、両手をひろげて何か叫びながら、前に歩き出した。とたん銃声がして、前のめりに倒れた。
「あっ、リーさんが」
「かまうな、行ってくれ」リーセンは振り向いて叫んだ。
「どうする」西崎は、瞬時の判断をなおも迷った。
「行け、ヤマ族を頼む」リーセンは、日本語でさけんだ。
「よし、決めたぞ」西崎隊長は大きく頷いた。「俺は行く。残りたい者は残って、日本大使館に行って中島副長を探してくれ。もし最悪の場合のときは、弔ってくれ。それから、もし八月十五日までに戻らなかったら」西崎は、一瞬思い巡らせてから言った。「二十日にしょうか。それまでに戻らなかったら日本に帰ってくれ」
「お願いします。早く乗ってください」ソクヘンは、船のうえから何度も頭を下げて頼み込
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んでいた。一の瀬は、黙って飛び乗った。
「乗りかかった舟だ。中島も、言うだろ」
「そうだな、いまさら帰れん」高木は、振り返って柳沢をみた。「どうする」
「なんだ、なんだよ」柳沢は、躊躇する。
「早くしてください」ソクヘンは、叫んで指で示す。
 向こうから大勢の兵士が何か叫びながら走ってくる。リーセンは死んだのか、顔見知りの兵士がいたのか。わからなかった。ただ倒れたところに集った兵士は、こちらに駆けてこず、たたずんでいるだけだった。
「ぼうやは、どうする」
「もちろん行きますよ。どこまでも」
ヒロシは、むっとした顔でシャッターをきると、桟橋から飛び移った。
「よししゃ、まあいいや、決めた。おれは行く」
柳沢医師は、意を決した。はじめて自らの意思で自分の人生を決めた瞬間だった。大病院の
息子に生まれた彼は、これまで常に誰かが彼の前途を決めていた。幼稚園、小学校は母親が、
高校大学は父親が、そして現在勤める大学病院もすべてそうだった。アジア研究会も、研究
室の主任教授に進められてだった。上司の教授に、アジアの少数民族に日本人と同じ骨格探しの野心があった。
「よし!全員か。オーライ」西崎隊長は、叫んだ。「さあ、行ってくれ」
「バンバン」中年の船頭は、大声で頷いてエンジンの紐を引いた。
ヤマハのエンジンは軽い音をたてて動き出した。六人を乗せた舟はいきなり動き出した。
「出発!」西崎は叫んだ。
「中島、待つてろ。帰りに迎えにくる」
一同、両手を合わせる。だれもが、中島教一郎が、もはやこの世にいないことを理解していた。それほどにメコン河は広く、流れは速かつた。
「くそ!一番のまとめ役がなあ」
西崎隊長は、無念そうにはき捨てた。
その思いから逃れるように舟は、猛スピードをあげた。いきなりのスピードに五人は、不安顔になった。が、すぐに、その理由がわかった。
岸辺から叫ぶ声がした。暗がりの土手に兵士たちが鈴なりに並んで銃口をこちらに向けている。とたん一斉に火花が散った。河面に爆竹音が響きわたった。船の背後の水面にドボンドボンと何かが落ちる音を聞いた。
「ヤバイぞ」
弾丸の雨とわかって皆は緊張した。が、小型船は、スピードをゆるめながらも軽快なエンジンの音をたてて、北上していった。周囲は墨を流したように真っ暗だった。水しぶきの音意外なにも聞こえなかった。緊迫した状況が続いたせいか。皆は押し黙っていた。が、高木は、思いだしてつぶやいた。
「リー・センさんはどうなったんだろう」
「兵隊たちに捕まったかも」西崎は舌打ちした。
「大丈夫だって、言ってます」ソクヘンは、中年の船頭から何かを聞いて笑って言った。「リーセンさんは、ロンノル政権の大物と親しいんです。中島センセイも探してくれる」
「なんだよ、それなら逃げることなかったじゃん、バンバン撃たれちゃって、弾が届くところにいたら、死んでたぜ」柳沢は、不満そうに言った。
「さっきは、逃げなきゃだめでした。兵隊、怪しいと思ったら見境ありません」
「それもそうだ」
皆は、一斉に安堵のため息をもらした。
 中島助教授の悲劇はあるが、緊迫した極度の緊張状態が悲しみを上回っていた。強ばっていた顔がゆるんだ。皆の緊張はようやく解けた。        次回へ
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お知らせ
熊谷元一写真賞コンクール10周年記念企画展
月 日 : 平成19年9月11日(火)~17日(月)
時 間 : 午前10時~午後7時(月曜は午後4時まで)
会 場 : 新宿エルタワー28階・ニコンサロンbis
                   (ニコンプラザ新宿内)
新宿西口・地下道出口A17
 熊谷元一は、アマチュア写真家であるが、日本の写真家40人(岩波書店)に列挙される写真家でもある。戦前戦後を通じ、一農村を撮りつづけた撮影手法の評価は高く、戦前『アサヒカメラ』は、何度も熊谷の写真を取り上げた。写真集『会地村』は、当時写真技術の進んでいたドイツにも翻訳されたという。熊谷の名がひろく世に知られたのは1955年に毎日新聞社が写真文化の向上を目標に新しく制定した第一回毎日写真賞だった。教え子たちを撮った『一年生 ある小学教師の記録』が第一回毎日賞に輝いたのである。現在、日芸の講師でもある飯沢耕太郎氏は、『日本の写真家17』(岩波書店)において、その快挙をこのように紹介している。
「・・・。土門拳、木村伊兵衛、林忠彦らの名だたる候補作家を押しのけての受賞は、『一年生』がいかに大きく共感の輪を広げ、読者に新鮮な驚きをもって迎えられたかを示している。・・・」
詳細は、土壌館・下原
新刊
双葉社 819円+税 2007・8・3
漫画・武富健治『鈴木先生 3』
ジャイブ 950+税 2007・7・9
漫画・武富健治『屋根の上の魔女』
鳥影社 2007・7・7 定価3000+税
森 和朗著『自我と仮象 第Ⅲ部』
仮体帝国アメリカの没落を事実と論理によって検証する 総観三部作ここに完結
第Ⅰ部 社会を動かす心の深層構造。豊富な歴史的事例をふまえ、「自我」の検証を通して現代の核心に迫る。アメリカの価値観に追随するな!
第Ⅱ部 現代社会を動かすモンスターの正体。マスコミにあおられ、人々の自己投機が生み出す「仮象」。そのメカニズムを明らかにし、日本頽落の根源を衝く。
成文社 2007・7・19 定価2600円
高橋誠一郎著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――24 ―――――――――――――――――
掲示板
課題原稿提出状況(7・9現在)
□ アンケート「私の愛読書」=茂木愛由未、髙橋亨平、疋田祥子、山根裕作、金野幸裕
□ 車中観察(車外も可)=髙橋亨平(1)山根裕作(2)疋田祥子(5)茂木愛由未(2)
             金野幸裕(1)
□ 一日を記憶する=髙橋亨平(2)、山根裕作(1)疋田祥子(1)茂木愛由未(1)
          金野幸裕(1)
□ 読書感想、社会コラム、他=髙橋亨平(1)
ドストエフスキー関連
■亀山郁夫氏講演会(東京外国語大学学長)
 光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』全5巻完結記念
月 日 : 2007年7月30日(月) 午後6時30分~午後8時
会 場 : 銀座・教文館9階、ウェンライトホール 無料
      定員100名、先着順 TEL03-3561-8447
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年8月11日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : フリートーク 作品『白痴』第三回目
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年8月3日金
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : コメンティター5名。
題 目 : 『ドストエーフスキイ広場』合評会      関心ある人は下原まで
好評発売中
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えてゲンダイ文学であり続ける。 
※ 集英社『21世紀ドストエフスキーがやってくる』2500円 
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ
「2007年、読書と創作の旅」
      2007年8月4日(土)~5日(日)
軽井沢・ゼミ合宿
マラソン読書・テキスト
1845年5月6日未明ロシア・ペテルブルグで起きた衝撃体験。あの体験を軽井沢で再体験しょう!!

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