文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.334

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)1月29発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.334

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/25 10/2 10/16 10/23 10/30 11/6 11/13 11/20 11/27 12/4 12/11 1/15 1/22 1/29 

 

テキスト読み(志賀直哉・ドスト他) &熊谷元一研究

 

 

2018年 熊谷元一写真賞コンクール20回記念写真展

 

月 日 2018年5月29日~6月3日

 

会 場 JCIIフォトサロンクラブ25(東京・半蔵門)

 

2017年度、ゼミⅡ最終授業

 

平成29年度のゼミⅡ授業も、早いもので本日が最終日となりました。二人三脚でスタートしたゼミでしたが無事にゴールできました。1年間お疲れ様でした。

2017年の一番の思い出は、夏合宿「熊谷元一写真童画館」見学でした。

 

下原ゼミⅡは、8月16日(水)~17日(木)熊谷元一研究の一環として、熊谷の故郷、長野県下伊那郡阿智村訪問を実施した。日芸からは、2年生の島袋美咲さん、3年生の浦上透子さんが参加した。加えて、ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会から3名の会員、日大OB「六会会」からも参加で総勢10名の団体となった。

写真は、熊谷元一写真童画館、右・島袋美咲さん、中央・下原 左・浦上透子さん

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.334 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」発行はNo.308 ~ No.334

 

文芸研究Ⅳ発行「下原ゼミ通信Ⅳ」の主な内容

 

(文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信Ⅱ」と重複します)

 

・No.23 4月14日発行 熊谷元一研究『あいなび』『ねじ釘の如く』紹介

・No.24 4月28日発行 世界観察「戦争はいかに起こるか」

・No.25 5月12日発行 学生観察「五月病の季節」「日本国憲法施行70年」

写真集『昔のくらしと子どもたち』農文協の紹介

・No.26 5月19日発行 児童観察「発達障害児の線引きの難しさ」

熊谷元一研究『藝術界基調と時潮』「グラフの社会性」

・No.27 5月26日発行 鈴木藤雄氏寄贈「熊谷元一童画カレンダー」12カ月

「熊谷元一絵・農協絵本シリーズ」7冊

口演 戦没画家・市瀬文夫 新聞コピー

・No.28 6月2日発行 板垣鷹穂『藝術界の基調と時潮』「グラフの社会性」1~4

・No.29 6月9日発行 絵本『むら祭り』紹介 『白夜』によせて

・No.30 6月23日発行 政治観察「共謀罪」法の骨子 『地下生活者の手記』

テキスト『網走まで』と漱石『三四郎』の比較

・No.31 6月30日発行 読書会観察『悪霊』4回目報告 テキスト『網走まで』再考

・No.32 7月7日発行 ゼミ合宿お知らせ 8月16日(水)~17日(木)

・No.33 7月14日発行 2017.8月号『WiLL』(月刊ウイル)現代写真家シリーズ

【熊谷元一の世界】「昭和の子供だ、僕たちも」

・No.34 9月29日発行 熊谷元一写真賞コンクール最終審査報告 テーマ「遊ぶ」

ゼミⅡ夏合宿報告、「熊谷元一写真童画館」「満蒙開拓平和記念館」見学

・No.35 10月6日発行 熊谷元一写真賞コンクール選考過程報告 岩波写真文庫『一年生』再読 創作ルポ「永遠の一年生」着手①

・No.36 10月13日発行 「『一年生』奇跡の記録」誕生まで

・No.37 10月20日発行 「『一年生』奇跡の記録」創作ルポ校正1回目「永遠の一年生」

・No.38 10月27日発行 岩波写真文庫『一年生』考察 教室撮影の難しさ他

創作ルポ校正2回目「永遠の一年生」

・No.39 12月8日発行 画集「てんしんらんまん」紹介 「一年生」を読む・考察

創作ルポ校正3回目「永遠の一年生」

・No.40 12月15日発行 画集「てんしんらんまん」紹介 熊谷元一略歴

創作ルポ校正4回目「永遠の一年生」

・No.41 1月13日発行 謹賀新年 熊谷元一写真童画館へのお誘い 創作校正1回目「ドストエフスキイの人々」

・No.42 1月19日発行 ゼミⅣ受講生 卒論提出間に合う。ゼミⅡ雑誌報告

創作ルポ校正5回目「永遠の一年生」

・No.43 1月26日発行 2017年「下原ゼミⅣ通信」発行記録 卒論

創作ルポ校正6回目「永遠の一年生」

 

満蒙開拓平和記念館 選者の三枝昴之さんの歌です。1月13日 夕刊
語ることは繋ぎゆくこと満蒙といふ蜃気楼阿智村に聞く

 

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2018年 よい年でありますように

 

熊谷元一研究  熊谷元一写真童画記念館へのお誘い

 

人間の営みに接し、表現し続けた写真家・熊谷元一童心をテーマに描き続けた童画家・熊谷元一懐かしいあの日がよみがえる昭和の原像がここにある. 昼神. 阿智村を撮り続けてきた熊谷元一氏の写真展示しています。昭和20年代の写真などがあり、農村の記録としても貴重なものとなっています。「農村記録写真の村宣言」の村・阿智村にある熊谷元一写真童画館は、郷土を70年にわたって写真で記録し続け、また伊那谷のなつかしい生活を童画で描き続けた熊谷元一の作品を保存、展示しています。熊谷元一写真童画記念館HPより 交通=新宿から「飯田行」高速バス4時間

 

熊谷元一研究   2017年 熊谷元一関連資料入手記録

 

熊谷元一研究では、熊谷元一に関連する資料、2017年も多くの皆様からご協力いただきました。この場を借りて厚くお礼申しあげます。

 

・熊谷元一童画カレンダー(昭和54年~61年)飯田中央農業組合 7点 鈴木藤雄様

 

・熊谷元一「一年生」カレンダー 2001年版 コーア 1点 渡辺正一様

 

・熊谷元一農協絵本シリーズ ふるさとと農業を見直す絵本 7冊(27頁)鈴木藤雄様

 

・写真集『昔のくらしと子どもたち』農文協 第2集(3冊) 須藤 功様

 

・地域誌『あいなび』2017年4月号 長野県伊那谷飯田 鈴木藤雄様

 

・情報 井出孫六著『ねじ釘の如く』『柳瀬正夢画集』岩波書店 池田和彦様

 

・月刊誌 2017.8月号『WiLL』(月刊ウイル)現代写真家シリーズ

【熊谷元一の世界】「昭和の子供だ、僕たちも」 水飼四郎様

・情報 東京新聞12月4日「象徴天皇と平成 2」満蒙記事 戸塚美代子様

 

・画集『てんしんらんまん』16画 秀文社 写真保存会(岡庭一雄会長)から

 

・口演戦没画家・市瀬文夫(無言館代表作品「黒衣の婦人」)台本記事 鈴木藤雄様

熊谷元一と市瀬文夫、飯田中学時代の親友同士。和歌山県で絵画教師だった市瀬は、召集され昭和19年2月20日ニューギニヤ・マダン島において戦死 享年29歳。

ちなみに警察官だった編集室下原の叔父・下原忠男(28)は、同年2月トラック島付近で戦死した。(その時の情況は作家山本茂実著『松本連隊の最後』角川文庫に詳細が)

 

※口演は、2017・4・1 東京四七会にて行われた。講談・神門 久子 台本・牧内 冬彦

台本の全文は南信州新聞(2017・4/14 /17 /20 /26 /27)に掲載された

 

 

 

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創作ルポ 本文は、フィクションです。校正・加筆しながら完成させる。5回目

 

小説永遠の一年生 (ほぼ完成)

平成22年11月6日、一人の写真家・童画家が、都下武蔵野にある老人施設で101歳の生涯を閉じた。亡くなる前日まで元気にカメラの話をされていたという。

熊谷元一が、その人の名である。熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終え

たあと上京、清瀬市に居を定めた。還暦からの出発だったが、退職後は写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長に推され地域のためにも尽力した。訃報を知って多くの清瀬市民が焼香に列を成した。名誉村民となっている故郷、阿智村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。他に教え子、知人友人、出版社やマスメディアの人たち。そして熊谷の写真作品の愛好者も大勢参列した。私もそうした一人だった。代表作『一年生』に魅せられて20年になる。

 

 

それ故、訃報を知って、矢も盾もたまらずお通夜に駆けつけた。大勢の参拝者のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。80に近いお歳だが、嘱託記者兼写真班として、いまでも地元紙に写真や記事を載せていた。彼はふだんは農業に従事していて、農作業のあいま、村中を回って珍しい話題や出来事を取材していた。記事が載れば、送ってくれる昵懇の間柄だった。私は、無言で挨拶した。そのあと故人について話したい気持ちになった。

「順風満帆な幸福な人生だったですね」

私は、熊谷の履歴を振り返って言った。

「・・・そうですなあ・・・」

彼は、ちょっと間をおいてつぶやくように言った。何か奥歯にものが詰まったような言い方だった。否定的な感じがした。私は、不可解に思ってたずねた。

「ちがうのですか」

「そうですねえ・・・あのことがなければ」

彼は、ひとりごちるようにつぶやいた。

「あのこと?!」私は、怪訝に思って再度たずねた。

これまで熊谷の写真や童画、それに書いたものを見たり読んだりしてきた。それ故に、熊谷の人生のほとんどは、知り得ている。そんな自負もあった。熊谷の人生で、まだ私の知らないことがあるのか。意外に思いながらも、あのことかと思って、ふたたびたずねた。

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「満蒙開拓団の撮影のことでしょうか」

熊谷は、戦前戦中、拓務省(後の大東亜省)に嘱託撮影班の職を得て、何度も満州に出張し

満蒙開拓をすすめるプロパガンダ写真を撮った。熊谷はそのことを負に感じていた。

「あれは国策ですから、日本人みんなの問題です。先生は悔やんでおられたが、戦争末期に辞職したことで、一人責任をとられた。むのたけじという記者が朝日新聞を辞める前にです」

「――で、ないとすると、なんでしょう」私は、食い下がった。

「個人的苦悩があったのです。先生は責任感の強い人でしたから」

「責任感――?」

「何に対する責任ですか」

「『一年生』ですよ。あの『一年生』に苦しんできたんです」老記者は、眉間にしわを寄せて言ってから、不意に、にこやかな顔になってきっぱり言った。

「でも、これで先生は、もうご自分を責めて苦しまなくてもいいでしょう。いまごろはほっとされていると思いますよ」

私は、ますます不思議に思った。奇妙にも感じた。あの『一年生』に、亡くならなければほっとできないような、安堵できないような、そんな重いものがあったのか。『一年生』のどの頁を思い浮かべても、生涯、責任を感じるような写真は思いつかなかった。

いつも、ひょうひょうとして陽気に写真を撮っていた熊谷から、責任感に苦しむ影の部分は想像できなかった。いったい熊谷は、一年生にどんなトラウマを持っていたのか。私は、読経を聞きながら熊谷の功なり名を遂げた101歳の人生を振り返ってみた。

画家が夢だった熊谷は、偶然カメラを手にしたことで、写真の世界に目覚めた。28歳で朝日新聞社から写真集を出版、高い評価を得た。30歳で大東亜省の嘱託カメラマンとなり、国策として満州の開拓村を撮影した。戦後は、郷里で小学教師をつづけながら村人の生活を写真に撮り、出版された写真集は、農村の記録写真として注目された。『農村の婦人』『かいこの村』などがそれである。そして写真の合間に描きつづけた童画は、失われていく山村文化の伝承と認められた。絵本『二ほんのかきのき』(福音館)は、百万部を超えるロングベストセラーとなっている。写真や童画作品の多くの作品が数々の賞に輝いた。これらをみれば、順風満帆な人生ではなかったなどと、だれが評せられるだろうか。三足のわらじを履いた人生だったが、創意工夫の教育を実現させた教師生活、記録写真の分野を確立した農村の写真撮影、山村の子どもの遊びに、だれもが故郷を思い起こさせる童画。

どのわらじも立派に履き切った愉しく面白く生きた人生だった。そのなかで『一年生』は写真界の金字塔としていまも燦然と輝いている。そしてそれがアマチュアカメラマンにもかかわらず熊谷を絶対のプロ写真家として認めさせている。その「一年生」に熊谷は苦しんできたという。何のことか。私は、もう一度老記者に話しかけた。

「学校で写真を撮るということは、昔も大変だったかも」

「いや、そういうことではなく個人的責任感からです」老新聞記者は、きっぱり言った。

「個人的責任感ですか?!」

「そうです。人一倍責任感が強い人でしたから」老記者は、夜空を仰ぎみてひとりごちるように言った。「いつもは陽気な先生が時折、ふっと見せる寂しげな表情。そこに深い憂愁を感じるんです。先生はあのことに、まだ責任を感じている。そのように思っていました」

「責任感ですか…」私は、意味がわからず、オウム返しにつぶやいた。

「そうです、一年生は先生を写真家として不動なものにしました。が、先生を一番に苦しめもした作品です。それ故に先生は一年生の人生を撮りつづけたのです」言って、彼は突然に聞いた。「あなた、先生が、なぜ一年生を撮りつづけたかわかりますか」

「教え子だからじゃないんですか」

私は、戸惑って答えた。いまさら、そんなことを質問されるとは、思っていなかった。

「先生は、長い教師生活で、一年生は、何度も担任しました。しかし、撮っていないんです

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写真は、その子たちの人生もおいかけていません」老記者は、熱を帯びた口調で言った。

「あの一年生を撮ったのは、すべて永遠の一年生のためだったのでは。私はそう思います」

「永遠の一年生??」

はじめて聞く言葉に私は困惑して、焼香の煙が流れはじめた晩秋の宵闇をみつめた。

老記者は、遠くのあの日を思いだすように。ぽつりぽつり語りはじめた。私は、黙したまま老記者の独り言のような話に耳を傾けた。それは、熊谷が、心の中にしまっていた55年前のある悲劇のことだった。彼は、その目撃者だった。

 

それは

『会地小学校の百年』誌にある「会地小学校沿革史」の項「当校のあゆみ」にある、昭和30年(1955年)9月4日の日曜日に起きたある不幸な出来事だった。

 

※『会地小学校の百年』会地小学校開校百年記念委員会 昭和47年8月25日 発行

 

ある老記者の思い出

 

昭和30年9月4日、日曜日、あの日は、朝から残暑が厳しかった。私は、地方新聞の豆記者になったばかりだったが、大きな祝い事に連日、村の小学校に詰めていた。大きな祝い事というのは、私が尊敬する会地小学校の教師熊谷元一先生が、どでかいことをやってくれたからだ。人口3千人足らずの信州の山村にとって、それはもう開闢以来の名誉ある大事件だった。10年前、満蒙開拓で多大な犠牲者をだした悲劇の村にとって、それは久々の喜びの出来事だった。

先生は、教師をしながら写真を撮っていた。戦前、私がまだ子供だったとき、先生が撮った村の写真を、朝日新聞社が出版し、高い評価を得た。先生、若干28歳のときである。それが縁で、大東亜省に写真班として勤務し、満州国の開拓村を撮り歩いたとも聞いた。戦後は、私なら東京で、大出を振って写真家としての道を歩いたが、先生はなぜか、その道を行かず、また元の木あみ、生まれ故郷に還られて小学校教師の職につかれた。将来は、東京でメディアの世界で活躍しようと思っていた私にとっては、不思議な限りだった。後で知ったが、先生は戦争の片棒を担いでしまった。その悔いがあったようだ。

高校をでると私は地元の新聞社に入社することができた。思い通りではなかったが、とにもかくにも新聞の仕事につくことができた。先生をお手本にしながら記者の仕事をこなしていた。が、信州の山奥の村である。たいした事件も出来事もなかった。十年一日のごとく過ぎる毎日だった。そんなとき、村にどでかい花火があがった。先生が撮った『一年生』の写真集が、並みいる有名写真家を差し押さえて日本一に選ばれたのだ。大新聞の一面ド真ん中に、熊谷元一の名前が載った。3面には顔写真や詳しい選考経過も載った。

信州の蚕の山村は、上や下へと大騒ぎになった。どのようにして、この慶事を祝ったらよいのか、村長はじめ、小中校長からPTA、郵便局長と村をあげて会議が開かれた。その結果、授賞式のある9月19日前に中学校の裁縫室で「一年生」の展覧会を行うことに決まった。左新聞記事は

1955年(昭和30年)8月30日(火曜日)毎日新聞一面中記事

 

 

 

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熊谷元一先生、第一回 毎日文化賞受賞を祝って

祝・岩波写真文庫『一年生』写真展開催

 

1955年9月5日(月)~ 17日(土)

9月10日、17日(土)午後 ※11日(日)は朝~夕まで一般公開

 

会場 会地中学校2階、裁縫室  上記の手作りポスターがつくられた。

 

中学校の裁縫室は、二階の端にあって、畳2百畳の大広間だった。月曜日の長礼は、ここで行わ、子どもたちは正座して校長先生の話を聴いていた。受賞が決まってから私は、ずっと熊谷番として、先生の一挙手一投足を記事にしていた。そんことから、この展覧会も取材しながらの手伝いとなった。明日から子供たちに見せるということで、4日、日曜日、教職員、村の関係者など数人のボランティアで展示作業をおこなうことになった。

残暑のなか、展示作業は順調にすすんでいた。開け放たれた窓から、熱風とプールで遊ぶ子供たちの歓声がとびこんできた。

「今日が最後のプールですから、大勢きてるだに」

「それに、今日は日曜だら。春日の方の子はみんなきてるんな」

二年前、昭和28年、「一年生」が入学した年の7月に会地小学校にル25m×15mのプールが完成した。中学と共用だったので、5分の1ほど水深が2mのところがあった。この時代、プールがある学校は、まだ珍しかった。

数人の手伝いの先生たちは、談笑しながら、給食の味噌汁を作っている用務員のおばさんが運んできた麦茶を美味しそうに飲んだ。会地村は、春日村と宿場町駒場村の合併で成っていた。春日は、広い稲田がある地域で、水路はあるが泳げるほどの川はなかった。山間にある宿場町駒場の下方には天竜川の支流阿知川が流れていた。曲がり角に淵があって、駒場方面の子どもたちは、阿知川で泳ぐのがふつうだった。

「そろそろモーターが鳴りゃあせんかな」(昼を知らせるサイレン)

誰かが、言ったときだった。

プールの騒音が、ぴたりとやんだ。どれほど静寂がつづいただろうか。その静まりに何か胸騒ぎがした。

「なにかあったのかな」

若い先生が窓から身を乗り出してプール方向を見た。

「休憩時間でしょう」

「うちらは休憩なしですね」

「そういえば」

「すみません」熊谷は、律義に頭をさげた。本当に申し訳なさそうだった。

実をいえば、熊谷は、プールで遊ぶこどもたちを写真に撮りたかった。プールは二年前、の1953年「一年生」を撮りはじめた年の7月に完成した。子どもたちは大喜びした。

しかし、なぜか、意識したのか無意識にか、熊谷はプールで遊ぶ子どもたちの写真は撮ってなかった。『一年生』には一枚も収録されていない。他の写真集にも川で遊ぶ子どもたち

の写真は何枚もあるのに、プールはない。不思議といえば不思議だった。展示作業が終わったら行くつもりだった。が、本当はいますぐ、子供たちが昼で帰ってしまわないうち行って撮りたかった。しかし、自分のために残暑のなか、展示作業してくれている皆さんのことを思うと、自分だけ写真を撮るために、この場を空けるということは、言いだしずらかったし、できなかった。思えば、このときの迷いと遠慮が終生の禍根となった。だが、そのときは、その後に起きた悲劇を誰が予見できただろうか。歴史に「もし」はない。

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あのとき自分が行っていれば ―― 悔やんでも悔やみきれない現実だけが残った。

「昼までに終わらせまい」そう言って吉田先生が組写真を脚立の私によこした。

私は、一枚目のパネルを受け取ろうとしてつかみそこねた。

「あっ」

写真は、畳の上に落ちた。二人の子どもが写っていた。

「大丈夫?」

「しげこちゃんとひろふみくんだ。ごめん」

近くにいた若い女先生が拾いあげてくれた。熊谷と同時に一年生の担任となった西組の原房子先生だった。あのときは女子高校でたての新米教師だったが、いまはすっかりベテラン教師らしくなっていた。

「すみません」私は、礼を言って写真を見た。

写真は、さんすうの計算練習する写真だった。

仲良しの女の子と男の子が「さんすう」でおぼえた計算練習をしてあそんでいる。

「これ、わかる」

「どれ」

「三たす、五たす、四は」

「えーと、むずかしいな」

そんな会話が聞こえてきそうなほほえましい光景だった。だが、私は、自分が落とした

せいか、何か気になった。私は一瞬、視線をとめて見入った。

そのとき、突然プールの方から悲鳴のような怒号のような声があがった。何事か!?

みんな窓に行って身を乗り出してプールの方角をみた。こどもたちが走ってくる。泣き顔だ。「どうした、なにかあったんか」だれかが大声できいた。

「たいへんだ!」

「たいへんだ!!」

子供たちは口々にそう叫んだ。それを聞くと裁縫室にいた何人かの先生が、脱兎のごとく飛びだしていった。

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。出来事を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。残っていた人たちも、皆飛び出して行った。何か事件か事故が起きた。私は新米ながら、早くもしみついたブンや魂が躍り、皆に先を越されまいと、もうスピードで会談を駆け下りて行った。

誰もいなくなった裁縫室の畳の上に掛けそこなった3枚の組写真が、無造作に置かれていた。

 

(左の写真は、岩波写真文庫11頁、3枚組写真)

 

 

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。異変を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた私たちは、いっせいに飛び出して行った。一年生の写真だけが、畳の上に悲しげに散らばっていた。

校舎を飛びだしたところで、駆けて来た子どもたちと出くわした。

「どうした、どうした」先生たちは、口ぐちにきいた。

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「プールで、プールで」

子どもたちは、興奮した口調で、ただそう叫ぶだけだった。

私は、その声を潜り抜けブンや根性丸出しでプールに向かって走った。まずは現場だ。

現場でなにがあったかこの目でみる。人の話はそれからだ。私が一番先頭になっていた。

プールの脇に大勢の子どもたちが黒山の人だかりとなってかたまっていた。大半が小学生だったが、中学生もいた。彼らは、走ってきた私たちを一瞬、ちらっと振り返った。真っ黒に日焼けした顔に真剣の目がギラついていた。事件や事故の現場で感じるあの目だった。どの顔も、こわばっていた。私は、こどもたちを押し分けて人だかりの真ん中に入った。熊谷先生も他の先生たちにまじって追いついた。

保健室の有賀先生が一生懸命、人工呼吸をしているのが見えた。下にいるのは小さな体

で、低学年の子どものようだ。

「何年生か」

「なんねんせい」

「何年」

駆けつけた先生たちは口々に叫んで聞いた。自分の学年の子ではないかと必死だった。

「どこの組だ」

溺れた子どもの身元は、なかなか判明しなかった。しばらくして

「三年生らしい、三年生だって!!」

そんなささやき声が聞こえた。そして、突然

「熊谷先生のとこの子だ!」

とのさけび声。

その一声は、雷のように熊谷先生の全身を貫いた。先生は、一瞬地面に串刺しされたように動けなかった。次の瞬間、取り囲んでいる野次馬をかき分けて中に飛びこんでいった。黒の海パンをつけた男の子が仰向けに寝ていた。その上にまたがって保健室の有賀先生が人工呼吸をつづけていた。子どもの顔をみて息をのんだ。さきほど落としたパネルの男の子だった。もしかして誰かがおしえてくれたのかも知れないが。芦沢宏文君とわかった。

「あしざわくん! ひろふみくん!」

熊谷は、膝ついて耳元で名前を呼び続けた。だが、子どもは人形のように寝たままで、ピクリともしなかった。周囲の喧騒をよそに眠っているようにも見えた。

知らせをうけて。村に唯一人の外科医者、橋本医院の橋本医院長が、バイクの後ろに乗って到着した。村に来るまではダム工事現場の医者をやっていたという人で、治療は荒っぽいが腕はいいとの評判だ。重苦しいなかにも、淡い安ど感が流れた。つづいて警察署長がジープで到着した。少し遅れて春日地区の消防団員たちが非常事態を聞きつけかけつけてきた。

しかし、芦沢君は、いっこうに息を吹き返さなかった。芦沢宏文君は、ジープに載せられ宿場町にある橋本病院に向かった。皆、祈るような気持ちで見送った。これで助かるのでは、そんな一縷の望みを抱いていた。プールの周りにいた大勢のヤジ馬は、気が抜けたよう

に散会した。夕方前の日差しは焼けるように強かったが、すすきの穂を揺らす風は、もう秋風だった。

プールに一緒にきていたのは、同じ三年生で、西組の女先生の組の子どもS・K君と一学級上の同じ部落の子ども3人だった。プールでは四年生の子は、同級生と泳いでいて、まったく気がつかなかったと答えた。ずっと一緒に遊んでいたS・K君は、職員室に呼ばれ、

何度も、熊谷から情況を聞かれた。だが、S・K君は、よく覚えていなかった。確かに、きたときからずっと一緒にあそんでいた。しかし、ときどきは見失って、どこにいるかわからないときもあった。なにしろ最後のプールということで、大勢の子どもたちが、プールに入っていたのだ。はじめのうち、追いかけっこをしていたが、そのうち他の子もはい

って遊んでいるうちに芦沢君はいなくなった。ほかのグループにいったのかと思った。思い

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出せることは、これだけだった。しかし、熊谷は、聞きだすことが時間を巻き戻せると信じてでもいるかのように、繰り返したずねた。

S・Kくんは、緊張と疲れでしまいには泣きだしてしまった。

 

※62年後のS・K君の証言、「あの日はお盆を過ぎた暑い日だった。僕は、ともだち3人で、完成したばかりのプールに泳ぎに行った」(『百年』誌と年、日にちにずれがあった)

 

風がやんで蒸し暑い空気がよどんだ職員室は重苦しい空気につつまれた。沈黙のなかS・K君の鼻水をすすりあげる音だけが微かに聞こえていた。皆は、祈る気持ちで職員室に一台しかない電話機を見つめていた。長い長い時間だった。熊谷はS・Kくんを帰すと、自転車で宿場町にある橋本病院に向かった。実った稲穂で黄色一色の海のなかを夢中でペタルを踏んだ。拭ってもぬぐっても汗が滝のように流れた。これが夢であってくれればいい。着いたら元気になっていた。そんなことを何度も何度も祈った。

だが、病院の玄関先に咲き乱れる夾竹桃の花や駆けつけた家族や親せき、消防団、そんな人出のごった返しが、悲劇が現実なことを教えていた。

それにしても村で、こんな事故が起こるなど、村人は考えたこともなかった。これまで阿知川で、溺れた人の話はきかないが自然の川だけに心配はあった。が、二年前に新しくできたプールができたことで、そんな心配も雲散した。近代的なプールで溺れる事故が起きるはずがない。村人は堅く信じていた。だが、起きてしまったのだ。

病院周辺は、多勢の人がいるにも関わらず異様な静まりをみせていた。だれもが芦沢くんの意識の回復をじっと待っていた。待つほかなかった。いつしか残暑はやんで、何百という赤とんぼの群れといっしょに涼しげな風がふきはじめていた。

病院の待ち合い室で両親は、槌で打ち込まれたように無言で座りこんでいた。口をひらくにも開けないほど疲れたといった様子だった。

熊谷は、皆の無言の視線がいたたまれなかった。両親に、声もかけることもできず、病院をあとにした。遠くの色づき始めた山々、黄色の海の上に広がる空の青。自然だけが何事もなかったように美しいコントラストをみせていた。稲穂の実るあぜ道を学校に向かいながら、熊谷は、悔いても悔いても悔い切れない気持ちに苦しんでいた。

あのときプールに写真を撮りに行っていれば、展示作業してくれている先生方に遠慮してあとに伸ばさなかったなら・・・後悔は、あとからあとから湧きあがってくる。

学校に着くと、展示作業は、終わっていた。熊谷は、ただただ皆に頭を下げた。が、展

示会も授賞式も、もはや喜ぶべきことでも祝うことでもなくなっていた。熊谷は、過度の疲れからもうどうでもよい気持ちになっていた。展示された芦沢くんの写真の前で祈るしかなかった。皆も、声をかける言葉もなく黙ってたたずむばかりだった。

どれほどの時が流れただろうか。廊下を走る足音が響いてきた。皆、入り口に視線を注いだ。教頭先生が、息を切らせてかけこんできた。

堅い表情だった。皆、一瞬にして事態を理解した。教頭先生は、畳を踏みしめて歩いてくると、いちど咳払いして言った。

「いま、橋本医院の方から連絡が入りました。あしざわひろふみくん午後三時一〇分、死亡が確認されました」

とたん女先生は、泣き崩れた。皆、立ちすくんだまま言葉もなかった。私は、新聞記者の習性で、早く社にもどって事故の記事をかかなければと急いた気持ちになった。それで、黙って頭をさげて退室した。私は、隣り町にある社に戻り、事故の記事を書くと、再び桑谷村に戻った。お通夜の取材と、展示会の動向を書くためであった。

残暑の名残が消えて秋風がススキの穂を揺らしはじめた夕刻、芦沢宏文君の家で通夜がはじまった。悲しい葬式だった。弔問客のなか、校長、教頭先生と並んで読経を聴く熊谷は、

―――――――――――――――― 11 ――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.334

 

身の置き場がないほど、堅く縮こまらせていた。

「お焼香をおねがいします」

承久寺のお和尚の力強い声がして、焼香がはじまった。

熊谷先生の番がきた。先生が遺族に深々と一礼した、そのとき

「クマガイさんよ」突然、遺族の席から、鋭い声があがった。「ヒロフミが死んだ原因、先生にもあるんじゃないか。あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」声の主は、痩せて日焼けした色の黒い中年男性だった。

熊谷は、ひたすら頭をさげた。

「カメラなんか、持って、金持ち面して」

親戚の中年男は、甲高い声で責め立てた。その声に通夜の席は凍りついた。しんと静まりかえった。読経もぱたとやんでしまった。

芦沢くんの家は、満州帰りの貧しい農家だった。「行けば1町歩の大地主」そんな国策のうたい文句に踊らされ、僅かな農地を手放して満州に渡ったのだ。それが3カ月も経たないうちに、無一文となり命からがら帰えってきた。それだけに国の仕事とはいえ満州の写

真を撮った先生のことは、日ごろからよく思っていなかったようだ。

「写真展もやめちまえ、こんなときに、なにが展示会だ」

「もうしわけございません。やりませんので」

熊谷は、展示会を中止を決めてきた。せっかく皆に準備してもらったのに申し訳なかったが、さすがこんなときはできないと思った。

「もう写真は、とらんでくれ、ひろふみがかわいそうとおもうなら、もう写つせんはずだ」

「すみません。もうとりません」

「本当か、それはほんとうだか。ほんまのことずらか」

親戚の中年男は、約束をとりつけるかのように、詰め寄った。

熊谷は、あたまを低くして、何度も謝った。その光景は見ていて辛かった。

私は、不安になった。もしかして、先生は、写真を撮らないことを約束してしまうのではないか、展示会も中止して、受賞も辞退してしまうのではないか。

そのときだった。

「やめてくんろ!!」

突然、宏文くんの母親が叫んだ。葬儀会場は、一瞬、時が止まったように静まり返った。母はつづけた

「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、きをつけろといっといたのに、深い方に行って、じぶんがバカだったんな」

「いや、わしがわるかったんな。わしがいってとみとりゃあよかったんな。もっと早く、みにいきゃあよかっただに」そう言って熊谷は、深々と坊主頭を下げると。おわびしきれんが、やめますで」

「先生、そんなこというのはやめとくんろ、明日から展示会、必ず開いてくんな。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくだに。でも、宏文は一年生のままです。ずっとずっとこのさきも。展示会で、そのことをみんなに教えてやってくんな。先生、ここで約束してくんな。写真展、やめたら、宏文は、永遠にわすれられちまうだに。お願いしま

すだ。それから、先生、一年生の写真、これからずっと撮りつづけてくんな。それをひろふみの供養としてくんな。約束してくんろ」

「お母さん、わかりました。約束します。一年生、撮りつづけます。約束します」

熊谷は、感激に内震えて、なんども頭をさげた。

参列者もほっとしたのか、会場に安堵のざわめきを感じた。

緊迫していた空気がいくぶん緩んだような気がした。ふたたび読経がはじまった。熊谷は、

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.334 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

焼香を終えると虫の音がうるさい初秋の夜路を一人とぼとぼと歩いて帰っていった。私は、走ってあとを追いかけたが、立ち止まった。熊谷の孤独と悲しみが寄せ付けなかった。

熊谷は写真をやめてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。母親と「永遠の一年

生」の約束をしたのだ。母親の願いを反古にするはずがない。しかし、熊谷の責任感を思うと、カメラをおいてしまうかも。いや、そんなことはない。

そんなことを思いめぐらせた。そのとき私の頭の中はひどく冷静だった。ブン屋の常で冷酷でした。母親は、ああは言ったが、展示会は、実際、どうなるのだろう。そんな現実的なことを考えていました。しかし、さすがに聞けませんでした。でも展示会を開くにしろ、中止にしろ、記事は、最終の輪転機には、まだ余裕がある。そんな時間計算をしていたのです。

私は、二つの記事を考えながら最終バスに揺られ社に戻った。深夜の締切時間が迫っていた。開催と辞退、二つの記事は書けたが、葬儀での出来事は、どうしても書くことができなかった。

 

「これがあの日、起こった出来事のすべてです。先生は、それ以降、あの日のことは封印しました。が、その後の一年生の関わりがすべてです。彼らが還暦を迎えるまで、節々にたくさんの写真を撮りました。それらは、永遠の一年生にささげるため、亡くなった永遠の一年生の母親との約束を守るためだったのではないか。そんなふうに思うのです。先生にとって撮影は、一生をかけての供養だったのです。私には、そのように思えました」

老記者は、話終わると、足早に晩秋の夜の街に消えていった。

私は、一人、落ち葉舞う路を私鉄の駅に向かった。写真集『一年生』でみた、熊谷や、子どもたち、そして、永遠の一年生のことを思い出しながら。

『会地小学校の百年』誌にある「会地小学校沿革史」の項「当校のあゆみ」

()は、「一年生」撮影から受賞までの経緯

 

(昭和28年4月1日  熊谷元一先生「一年生」撮影開始)

 

・昭和28年7月プール竣工(プール開き)

 

(昭和29年3月 熊谷元一先生「一年生撮影完了)

 

(昭和30年3月 岩波写真文庫『一年生』刊行)

 

(昭和30年8月、岩波写真文庫『一年生』第一回毎日文化賞決定)

 

・昭和30年9月 4日 3年生芦沢宏文君プールにて死亡

9月19日 熊谷元一先生、毎日文化賞受賞

 

掲示板 【ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」】

 

2018年2月10日(土)東京芸術劇場小会議室7 午後2時 ~ 4時45分

作品 『おかしな人間の夢』

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