文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.336

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)4月16日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.336

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/18 6/25 7/2 7/9 7/23 

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(写真評)

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2018年度スタート4月16日(月)

 

人生を旅に例えるなら今日4月16日のゼミは、次の年度をめざしての旅立ちの日。新たなスタートラインに立った記念すべき日です。いよいよ2018年度の旅がはじまります。下原ゼミ号の車窓には、どんな風景が見えるでしょう。

その前に何事においても準備が必要です。本日のゼミは、この旅を実りある旅とするために以下の要領で旅の支度を進めます。

 

  1. 受講生の紹介 希望カード提出者

 

現在のところ希望カード提出者は少ない。が、西村美穂さんが名乗りをあげた。昨年度の「金の卵」受賞者。5人分の少数精鋭でやっていけそうだ。

 

2. ゼミ誌について 編集委員決め ゼミ合宿についてなど

(一).編集係りを決める。ゼミ誌ガイダンス出席者。

(二)本通信で発表した課題、日頃、書いている創作を掲載する。

(三)今年度は締切日が早い。11月末

(四)題字は自由だが、「熊谷元一研究 No.4」を入れる

 

  1. テキスト作者(志賀直哉)の簡単な年譜と紹介(ゼミで取り上げる作品)
  2. 「読むこと」→ 読書の方法(嘉納治五郎「精読・多読)
  3. 「書くこと」→ 課題「私の愛読書」「一日の記録」提出

 

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4月9日(月)報告

4/9文芸棟の桜は散っていた。今年は、とくに早かったようだ。それでも3本のぼたん桜は満開だった。学校全体がいつもより静かだった。それというのもこの時間、吉田ゼミ、大和田ゼミ、下原ゼミの3ゼミ。昨年度より激減。事務も変動があった。助手は外岡さんに。資料室は、高倉さんに代わった。通信を依頼している藤野さんはそのままで安堵。

今年度のゼミ受講生は、何人か。ここ数年来、下原ゼミを希望する学生は激減している。はじめのうち熊谷元一という無名の写真家をとりあげることで、敬遠された。そのように思っていたが、どうもそればかりではないようだ。テキストの志賀直哉が学生たちにとっては、昔の作家になってしまっているようだ。

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ゼミ事始めに 毎年、ゼミはじめに読んでもらいます。

 

読書のススメ

たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉がある。文字通り取って一生懸命に体を鍛えれば・・・・は、漫才のコントだが、読書する身体には、とすれば、立派な標語になる。まさに「よりよい読書には健全な精神が宿る」である。

ところで健全な精神とは何か。端的に云えば教養と正義を持つ心である。正義は、もって生まれたものもあるが、真の教養はそうはいかない。この両方の精神を育ててこそ人は真の意味で全うな人間になれる。全うなーつまり健全な精神を持てない人間は、どんなにブランドもので身を飾ろうと卑しい。ことにあたると浅ましさを露呈する。例え権力者になろうと、大金持になろうと、いかなる名声を得ようと、である。

昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向がある。しかし、本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てるところである。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのである。冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもない。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにある。書くことも研究することも全てその一点にあるのである。

それでは、健全な精神を育てる為には何をなすべきか。ただ、大学に通って、テストでよい点を取って単位だけをとって卒業すればいい。断じてそういったところではない。世に為政者や役人、経営者、教育者たちの腐敗・不正が後を絶たないのは、そうしたことだけに汲々とした学生生活を送った者が、いかに多いかという証拠でもある。罪を犯さなくても、自分一人だけの欲望を叶えたとしても、大学で学んだ意味がない。あくまでも人の役に立ってこそ、人のためになってこそ学んだ意味があるのである。

では、健全な精神を育て持てるには、どうしたらよいか。読書することである。大学生活という空間のなかで、青春という果てなく思える時間のなかで、とにかく読書すること。それより他にない。しかし、それもただ本を読めばいい、というものではない。巷に書物はあふれている。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはならない。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならない。ただやみくもに肥料を与えても植物は育たないのと同じである。読書は簡単だが難しい。

ならば、読書は、どんなふうにしたらよいのか。それについて、今日の近代日本人をつくった明治の偉大な教育者・嘉納治五郎(1860-1938)が説いている。前号で紹介。

書くことのススメ

 

書くことのススメ・・・文芸学科の学生に、なにを今更と思うが、これが案外、無視できないところがある。携帯やパソコンという便利な機具の普及で文章を発することは、いまや日常化している。メールは電話がわりになっているしケイタイで書く小説が流行っているとも聞く。ブログや動画で自分を紹介する人もいる。このように21世紀初頭の現在は、伝達文化が華やかなりし時代である。だが、なぜか書くということを苦手にしている人は、まだまだ多い。ゼミでは、書くことの習慣化を身につけます。

まず、書くことの基礎として、ゼミではしっかり観察することからはじめます。観察する対象は、自分自身と自分の毎日の生活、それに毎日利用している電車の車内です。これらをしっかり観察し書いて発表します。創作でも実際のことでもかまいません。もの書く以上、恣意的なものではなく、聞き手が、いかに関心をしめすかが重要です。いくら立派な文章も聞いてもらえなければ、読んでもらえなければ何もなりません。観察のテキストは志賀直哉です。なぜ志賀直哉かは、次の頁で触れています。

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2018年、読書と創作の旅

テキスト車中作品について

下原ゼミでは、テキストに志賀直哉の車中作品をとりあげている。なぜ車中作品か。(毎年、ガイダンスで説明しているが)、志賀直哉の車中作品には、創作の基本があるからである。創作の基本とは、観察力である。事実を的確に精緻する目と、想像する目。この二つの目がしっかりしているから志賀文学は、普遍である。よく志賀直哉の作品は、私事や家庭の葛藤のみで社会を描いていないと言われる。が、下原ゼミでは、そそうは思わない。この作家の視点は、常に「私」から「家族」「社会」、そして「全人類」を見つめている。世界の大文豪ドストエフスキーは、神や人類の問題を描いたが、その視線は常に人間個人の心の中を照射し、突き抜け魂の裏側に届いている。逆もまた真なり。そこに志賀直哉の真髄がある。

志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれている。それは何故か。それを知るには、まず車中作品を読み解くこと。それが糸口と思っている。同時に、志賀文学を理解することだと信じている。

 

テキストにする志賀直哉(1883-1973)の主な作品

 

(下原ゼミ編集室にて現代漢字に変更)

 

□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。

□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。

□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。

○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4

号にて発表。31歳。

○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。

34歳。

□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。

□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。

□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。

 

以上の作品は、車中・車外からの乗客観察である。乗客の様子が鋭く描き出されている。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。

 

処女作三部作『網走まで』『或る朝』『菜の花と小娘』

 

『或る朝』について

 

志賀直哉の処女作三部作の一つ『或る朝』は、明治41年(1908)正月執筆が明示されている。日記をみると(岩波書店『志賀直哉全集』)

1月13日 月

朝起きないからお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事

1月14日 火

朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書い〈非小説 祖母〉と題した。

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この〈非小説 祖母〉が「一日を記憶する」の『或る朝』の原形とみられる。そのへんのところは「創作余談」でこのように語っている。

27歳(26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説を書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年の歳月を経て。

 

※ 一日のなかでどんな些細なことでも書いてみる。書いたときは、ただの日記だが、あとで手の入れ方しだいでは文学作品となる場合もある。『或る朝』は、その見本。

 

明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。

「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳没

 

『網走まで』について

 

○『網走まで』は、草稿末尾に「明治41年8月14日」と執筆月日が書いてある。

 

『網走まで』と夏目漱石の『三四郎』

 

作者、志賀直哉は25歳、小説を書き始めたばかりの、まったく無名の青年。

この作品の主人公は、上野から宇都宮まで行くために乗車したが、同乗の北海道まで行

く母子を観察し同情を寄せている。主人公の私は『三四郎』と同じくらい。秘められた

政府の政策批判。女との接点は、純情ハンカチを直してやる。模索。

○漱石の『三四郎』は、同じ明治41年1908年に書かれ9月1日から朝日新聞に連載。作者の夏目漱石は、このとき41歳。すでに『我輩は猫である』の大ヒットで流行作家に。前年には一切の教職を辞して朝日新聞社に小説を書くために入社。世間を驚かせた。九州から東京に向う希望に燃えた書生。同乗の女。男。こちらは、その子持ちの女に誘われるというき

わどい場面もある。政府批判は、はっきりとでている。読者を意識した作品。

 

土壌館日誌 2018.4.14 土曜日

 

天気、悪化に向かうとの予報。7時半、家を出る。下板橋駅前にある集会所には9時10分着。毎年この時期発刊するドストエーフスキイの会の会誌『広場』の発送作業。このところ例会は欠席気味。せめて発送にはとの思いで参加。全員で6名。昼前に終了。宅急便が遅れて、東京芸術劇場着は1時半。お天気のせいか出足悪かったが最終的には参加21名。いつも通りだった。女性陣9名。発言活発。池袋の街、雨降ったあと。二次会12名。お茶会7名。次回報告者と司会決まりほっとする。自宅着9時半。長い一日が終わった。

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志賀直哉に関係する新しい資料。2016年4月5日の朝日・読売新聞

 

 

 

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熊谷元一研究 なぜ、熊谷元一研究を報告していくのか

 

熊谷元一研究の意義について

 

「下原ゼミ通信」は、ゼミ活動の他に熊谷元一研究を報告していきます。なぜ熊谷元一の作品か。熊谷の撮った写真の大半は貧しい山村の人々の生活です。岩波写真文庫『農村の婦人』もその一つです。しかし、そうした写真のなかにある子どもたちの姿は、活き活きしています。時代の違いから服装も遊びも違うが、なぜか懐かしく心癒されます。

原発問題で、文明の行き詰まりのなかにある現代。熊谷の写真は、生活の原点を教えてくれている。子どもたちには物に頼らない遊びがあった。熊谷の写真と童画を見ながら、そのことを思い起こし、今を生きる糧にしてほしいと願うからです。

 

熊谷元一研究から学ぶもの

 

  1. 写真家・熊谷からは、原発のない時代の暮らしの証言を探る。
  2. 童画家・熊谷からは、子供の遊びを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。写真の子どもたちは、ゲームでは遊んでいない。自分たちが創意工夫した遊びで遊んでいる。ゲームがなくても遊べる。
  3. 教師・熊谷からは、創意工夫の実践教育を学ぶ。ゆとり教育は、多くの格差を生んだ。混迷する日本の学校教育。民主主義草創期の熊谷の教育を検証する。

 

熊谷元一の代表作品『一年生』

 

 

撮影日時 1954年4月1日 撮影場所 長野県下伊那郡会地村(現阿智村)小学校

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熊谷元一と教育 (岩波写真文庫『一年生』to)

 

4月、毎年、新学期がはじまる、この季節になると懐かしく思い出す写真文庫がある。1955年に刊行された『一年生』である。昭和28年、山村の小学校に入学した一年生の一年間が写されている。母親に付き添われて緊張した顔で校庭に入った入学式の日から、通信簿を覗きこんでいる終業式の日まで。学校でのいろんな場面が多岐にわたって集録されている。教室、廊下、通学路、そして家庭での様子など小学一年生の全生活があますところなく撮られている。けんかから遊びまであらゆる光景が活写されている。すべて担任の教師が撮影したものである。いつ見ても感動する記録写真だが、とくに入学式の頃、ひろげると、教育とは何か、を考えさせられる。そんな「-ある小学教師の記録―」である。

『一年生』の写真の子どもたちは、ほとんどカメラを意識していない。この時代、都会、農村を問わず撮影は珍しかったはず。カメラ自体も目にするのは稀だったと想像する。なのに『一年生』の子どもたちは、カメラなど存在しないかのように振る舞っている。どの顔も自然の表情である。なぜ、子どもたちはカメラを気にしていないのか。撮られることに慣れて無感覚になっているのか。それとも演技指導の成果か。山村の小学校に入学したばかりの一年生。それを思うとどちらの疑念も霧消する。写真は、あくまでもありのままの一年生の姿。それは確かなようだ。担任の教師は、なぜ自然に子どもたちを撮ることができたのか。そこに教育とは何かを教えてくれるヒントがある。

私は、幸運にも被写体の一人だった。それで、よく「学校で先生は、いつもカメラを手にしていたのですか」と聞かれたりする。そんなとき私は、たいてい「覚えていない」と答える。実際、担任の先生が写真を撮っていた姿を思い出せないのだ。同級生も同じようだ。私たちは、カメラがなぜ目に入らなかったのか。記憶に残らなかったのか。

恩師は、百歳になってから、写真を撮ったときのことを不意に話されるようになった。まるでガキ大将が昔のイタズラをばらすように「あれはなあ、こうやって撮った」と明かされた。恩師は、一枚の写真を撮るにも計画しチャンスを待った。教室では、近くにカメラを置いていて、これはと思ったとき、さっと手にしてシャッターを切ったという。撮影方法はわかったが、撮影されたことが、なぜ記憶にないのか。その謎は解けなかった。

一昨年の晩秋、恩師は101歳で亡くなった。遺品のなかに、一年生の文集があった。私自身は、まったく失念していたが、恩師がガリ版で作ったものだ。『こどもかけろよ ひのてるほうへ』と題された文集の最初の頁に恩師のこんな言葉があった。

「みんながはじめてがっこうへ来たときは、まだ、じはあまりかけなかった。それが一がっき二がっきとたつうちにじもかけるようになり、ぶんもつくれるようになった。ここにあつめたのは、みんなが一ねんのときにかいた、さくぶんです。しずかに、おうちの人と、いっしょによんでみてください。昭和29年3月」

私は、一瞬にして長年の謎が解けた。恩師の教育が、カメラへの興味より上回っていたのだ。当時、民主主義教育は草創期にあった。教師たちは、道なき道を手探りで進むしかなかった。恩師は、創意工夫で自分が面白いと思ったことを、恐れずに子どもたちにやらせた。教室で教えるより目で見、手で触らせる実践教育だった。黒板に落書きすれば、すぐに黒板を開放した。紙が貴重だった時代、私たちは、頭に浮かんだものを思い切り黒板に描くことができた。子どもの視線は、常に未来にある。面白い教育があれば、子どもたちは文明最先端のカメラでさえ見向きもしない。恩師の教育は、まさにそれだった。写真文庫『一年生』がそれを証明している。教育問題が山積する今日だが、教育の原点ともいえる『一年生』をすすめたい。撮影した担任は、写真家。童画家として知られる熊谷元一先生である。

 

 

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写真家・童画家・教師として

 

熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

 

【将来の夢は絵描き】

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

 

【童画家を目指す】

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

【カメラに目覚める】

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村人の生活を撮る。

【写真家としての出発】

・1938年(昭和13)29歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

・1939年(昭和14)30歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

 

【教師として、アマチュアカメラマンとして、童画家として】

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係の根が消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

・1953年(昭和28)44歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

・1955年(昭和30)46歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

・1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。100万部ロングセラー

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会快調に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

・1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

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近くて懐かしい昭和展

 

日本一有名な「一年生」熊谷元一再評価も近い

 

力道山 美空ひばりら、昭和の大スターと並んで

 

2000年7月29日(土)~9月17日(日)

江戸東京博物館で開催

 

2000年(平成12年)夏、東京の江戸東京博物館で催された「近くて懐かしい昭和展」は、昭和をなつかしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長島茂雄など戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあってひときわ入場者の関心をひいた写真展があった。昭和28年(1953年)に熊谷元一先生が教え子の一年生を撮った写真だった。

(『五十歳になった一年生』2001・3から)

 

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左記のポスターは、いまでも雑誌などで時折、目にしたりもする。平成12年、去りゆく昭和を懐かしんで開催された戦後昭和のポスターである。この時代を代表する風物詩といえば、プロレスの力道山、歌手の美空ひばり、野球選手の長嶋茂雄とつづく。そんななかで一際、目を引くのが、左記ポスターの中央を占めるパンをかじる子供の写真である。熊谷元一の写真集『一年生』の一コマである。戦後まもない山村の小学一年生の学校での一年間。貴重な記録である。この展示会は「近くて懐かしい昭和展」として江戸東京博物館を皮切りに各地で開催された。来年4月には平成から新しい年号に代わる。昭和は、ますます遠のいて懐かしい時代になってゆく。そんななかで『一年生』は、ますますいぶし銀の光を放っていくに違いない。熊谷元一の作品が再評価される日も近い。

 

―――――――――――――――― 11 ――――――文芸研究Ⅲ下原ゼミNo.336

 

教育者としての熊谷元一

                               

3・11から一年半が経とうとしている。日にちにすれば350日余りだが、時間の速い現代においては、たちまちの日々である。がしかし、この僅かな歳月の間に日本は、すっかり変わってしまった。原発事故や津波被害で実際に故郷を追われた人たちがいる。が、多くの日本人もまた故郷を無くした喪失感にさいなまれ心の原風景を探して彷徨っている。

熊谷元一の写真や童画には、心を癒す懐かしさがある。場所は、山村だが、記録された村人の生活や子どもたちの遊びは、時と所を超えて見るものを感動させてくれる。貧しかった時代の証言は、文明に行き詰まって混迷する今日の人々を慰め勇気づけるものがある。加えて、教師としての熊谷からは、民主主義教育未踏の時代にあって、なにものにも束縛されない創意工夫の教育を知ることができる。熊谷の、その実戦教育は、迷える現代の教育にあって必ずや新しい学校教育の指針になり得ると信じてやまない。

故に現在の日本において熊谷元一研究は、是非に必要である。熊谷の作品にみる観察と記録は、これからの日本に大いに役立つと思うところである。熊谷元一研究の意義は大きい。

 

熊谷元一とは何か

 

熊谷は、アマチュアカメラマンだったが、日本の写真家40名中「17 熊谷元一」(1997)として評価されている。また童画家としても多くの童画を描いた。だが、その人生は「生涯一教師」だった。故に熊谷は、自分の人生を「三足のわらじ」をはいた人生と語っていた。真の熊谷元一とは何か。その仕事から探ってみた。

2010年11月6日、熊谷が101歳で亡くなった翌日、新聞各紙はその死を報じた。「写真家熊谷元一さん死去」(読売)「満蒙開拓民の写真 熊谷元一さん」(朝日)「写真・童画家 熊谷元一さん死去」(信毎)などなどあった。いずれも写真家・童画家と記されていた。後日、NHKテレビの特集番組でも「写真家熊谷元一」として紹介されていた。番組のなかでもアニメ映画の巨匠宮崎駿監督に「すごい写真家」と印象づけていた。

写真家・童画家として名高い熊谷だが、教師としての熊谷は、どうだったのだろう。

1955年昭和30年に岩波写真文庫から出版された『一年生』は、写真界の金字塔といっても過言ではないが、ここには教師としての熊谷の才能も十分にみられる。

『一年生』を観察すれば、戦後まもない、民主主義教育創生期にあって、熊谷の創意工夫の教育は、常に生きた教育であったことが、未来を見据えたものだったことがわかる。

 

 

下原と熊谷元一

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.336 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

熊谷元一関連のお知らせ

 

東京銀座・長野アンテナショップ・熊谷の故郷阿智村主催で

 

2018年4月24日(火)午後1時30分 ~

 

満蒙開拓平和記念館五周年記念イベント

 

ゲスト 澤地久枝さん(作家)

 

2017年 熊谷元一写真賞コンクール20回記念写真展のお知らせ

 

写真家・熊谷元一写真賞コンクールは昨年で早くも20回を数えます。この節目を記念して、今年5月、これまでの入選作品の写真展を開催します。

 

※  選考委員は、新聞社写真部、郷土写真家、プロカメラマン、写真評論家で日芸の飯沢耕太郎先生も、その一人です。

 

月 日 2018年5月29日(火)~6月3日(日)

 

会 場 JCIIフォトサロンクラブ25(東京・半蔵門)

 

応募要項 2018年 第21回熊谷元一写真賞コンクール

 

写真の好きな人、南信州の星降る村「阿智村」を撮りたい人は挑戦してみてください。

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」第一回「働く」の初心に帰ってのお題です。

 

締切 2018年9月末日

最終審査 10月12日(金)

 

下原ゼミⅡの記録

 

□  4月 9日 ガイダンス 参加2名 説明

□  4月16日

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