文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.337

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)4月23日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.337

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/18 6/25 7/2 7/9 7/23 

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(写真評)

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4・16報告

 

先週4・16ゼミは、以下の手順でした。

 

□ゼミ連絡カード作成

 

今年度からゼミ名簿を廃止することから連絡網の代替として連絡カードを提出した。

 

□「ゼミⅡ通信336」配布、他、《熊谷元一研究》ゼミ誌配布

 

「ゼミ誌336」の配布と、併せて『熊谷元一研究 創刊号』『熊谷元一研究2号』『3号』

 

□DVD観賞 『60年前の黒板絵』長野朝日放送 『熊谷元一』追悼 NHK

 

・長野朝日放送、2015年5月21日(木)午後6時abnステーションで放映したもの

戦後70年特集で「黒板絵は残った」の特番として15分放映した。

(所沢校舎・教室風景、黒板絵を説明する清水教授、写真家熊谷のことを話す下原講師)

・NHK、2011年(平成23年)1月14日(金)放送、「知るしん。~信州を知るテレビ」熊谷元一追悼番組「熊谷元一さんが遺したもの」

 

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4・23ゼミ

 

1.4・16ゼミ報告 4・23ゼミについて

  1. ゼミ希望カードから ・希望理由 ・自己PR
  2. 書くことについて ・書くことの意義
  3. テキスト読み 『菜の花と小娘』(志賀直哉処女作三部作)
  4. テキスト『菜の花と小娘』について ・作品に秘められた作者の想い 他
  5. 推薦本、ドストエフスキー『貧しき人々』
  6. 書くこと「ハイライト」
  7. 連載「透明な存在」との闘いの記録 (ある父親の手記)

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.336 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

このゼミを希望した理由  この機会に読んでみたい

 

やる気に満ち溢れ所沢の門をくぐってから早一年、気がつけば以前より文章に対する熱量が減ってしまいました。このままではいけないと感じはじめた折、ゼミのシラバスと第一回目のゼミ通信を読み、ぜひ入りたいと思いました。

また志賀直哉については高校生の時に『城の崎にて』を一度読んだ程度であまり深く触れたことがありません。この機会にいつもは手に取らない作品について考えてみるのもとても楽しそうだと思っています。

 

□いまではどうか知りませんが(私はそうとと信じていますが)志賀直哉は小説の神様と言われています。小説の基本は観察と想像とストーリーにあると思います。志賀作品には、それがあります。文学の土壌です。ここに植えた苗を育て豊かな実を得ましょう。

 

自己PR   金の卵文学賞に輝く、絵本づくりも

 

人間より物や動物が主人公の話を書くことが多いです。文芸の同人誌サークルの他に有志で絵本を作ったりしています。今年の3月いっぱいは江古田のカフェに絵本を展示させていただきました。

また、昨年はゼミ誌(山下ゼミⅠ)の原稿を金の卵文学賞を頂いてとっても嬉しかったです。

 

□そうでしたか、おめでとうございます。いろんな作品に挑戦してください。

 

書くことについて

 

書くことの意義

 

なぜ、読書をススメルのか。前々号嘉納治五郎(1860-1938)の青年修養訓「精読と多読」でより理解できたと思います。では、なぜ書くのか、創作するのか。作家になりたい、ジャーナリストになりたい、マスメディアで活躍したい。おそらく世の中の創作する人は、ほとんど、こんな目的だと思います。文芸学科で学ぶ学生も、多くは、同じかも知れません。

しっかりした夢、目標を持つ。それ自体は、すばらしいことです。しかし、それがたんに立身出世のため、自分の欲のためだけ、だというと別です。目的は、常に理念を伴わなくてはいけません。理念がなければ、どんなに立派な職業についても、どんなに社会的成功を得たとしても、ろくな人間にはなりません。昨今、エリート官僚の失態がニュースになっています。彼らは、きっと仕事的には優れていたのでしょう。が、一人の人間としては、どうだったでしょう。どんなに高い目的も、理念がなければ、たとえ達成したとしても、それは抜け殻のようなものです。政治家は政治屋に、経済人はただの予想屋に、官僚はただのロボットに、マスメディア人は、ポン引きになり下がるのです。お金と権力だけの人生です。

志賀直哉の『暗夜行路』の主人公・時任謙作は、小説を書くために尾道に行く。しかし、書けない。夜な夜な彼は苦しみのなかで反芻する。「自分は、何のために書くのか」瀬戸内海の波の音も聞こえぬ深夜、彼は、ハタと気づく。自分が創作するのは、名声を得るためでも金をもらうためでもない。自分が、小説を書くのは、

人類全体の幸福に繋がりのある仕事

だからである。そのために自分は、書くのだと。志賀直哉が、小説の神様と呼ばれるのは、想像と真実の狭間を物語とした創作手法にもあるが、根底には、この崇高な理念があるから、

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と信じている。ロシアの文豪・ドストエフスキーが、なぜ多くの読者から注目されるのか。アインシュタイン、ニーチェはじめ人類の賢者が愛読書とするのか。

それは、ドストエフスキーが明確な理念を持って創作を目指しているからである。文豪の作家への道は、17歳のときの、この理念からはじまった。

 

兄ミハイルへ 1839年8月16日 手紙

・・・・人間とは、謎です。謎は、解き明かせねばなりません。たとえ、それを解き明かすのに生涯かかったとしても、時間を浪費したとは言えません。

ドストエフスキーは、ロシアで、はじめての職業作家ではあるが、既に高校生のときから、自分はなんのために作家を目指すのか、しっかりと考えていたのである。

何のために書くのか。その思いは、たとえお笑いコントであっても必要です。根底に常に、「人々を幸せにするため、人間を知るため」に書く。人類が成し得たすべての学問、発明、研究、芸術は、その理念の上に花開いているのです。

この考えは、これから旅立つ「2018年、読書と創作の旅」で実施する車内観察でも同じです。偶然、乗り合わせた車内の人たちを観察する。そのちっぽけな、とるに足らぬ行為も、自分を、社会を、この世界を、そしてこの宇宙全体を知るため。そんな壮大なロマンの手はじめといえます。毎日、利用する電車の中には、無限の物語がある。観察を深めれば、きっと見えてくるでしょう。10人がいれば10話が、20人いれば20話がある。

というわけで、乗客の一人、自分の「一日」も書いてください。それが世界を救うのです。

 

テキスト読み

 

たった数枚の物語のなかに風景と心情と創作を織り交ぜた生き物観察作品です音読が終わったら、書くことの習慣として簡単な感想も書いてみましょう。(10分程度)

 

菜の花と小娘

 

志賀直哉

 

或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。

やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。

ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。

「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。

「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。

小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。

小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、

「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。

「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。

「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、

「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.337 ―――――――― 4 ―――――――――――――

 

小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。

路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、

「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。

しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。

「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、

「このまま流れて行くのよ」と言いました。

菜の花は不安そうに首を振りました。そして、

「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。

「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、

「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。

菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。

どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、

移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。

菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。

「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、

「心配しなくてもいいのよ」と答えました。

菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。

間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。

「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。

「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。

「それで、いいのよ」小娘は言いました。

「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、

「いいのよ」と笑って取り合いません。

が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。

少しきたところで、

「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。

「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざ

と菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。

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麓の村が見えてきました。小娘は、

「もうすぐよ」と声をかけました。

「そう」と、後ろで菜の花が答えました。

しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。

チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、

「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。

「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。

「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。

「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。

小娘は大きな声をして笑いました。

「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。

小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。

そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。

おわり

 

課題2 感想 当日提出 Or メール可

 

テキストについて

 

一、志賀直哉とは何か(『菜の花と小娘』を読んで)

 

処女作三部作

小説の神様といわれる志賀直哉とは何か。それを考えるには、まず処女作三部作を読み解く必要があります。

処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。下原ゼミは、このなかで主に車中作品の『網走まで』を取り上げ以後書かれた車中関連作品を読んでいきます。併せて自分の車内観察を書いて、小説の神様の謎に迫ってゆきたいと思います。

ちなみに、これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときである。

 

『菜の花と小娘』について

この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えま

 

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すが、日本文学では、よく知られた秀逸の作品です。それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。この作品には、若き日の志賀直哉の全てがある、といっても過言ではありません。

作品に秘められた作者の思い

なぜ、この作品が名作なのか。どこに作者の思いが秘められているのか。のっけから多くの謎です。はじめに、なぜこの作品が名作なのか。一つには、不変だということです。書いてから100年も過ぎるのに、こうしてテキストとしてあげているのが証拠です。もう二十年か三十年、もっと前だったか忘れてしまったが、『一杯のかけそば」という童話作品が、爆発的話題を呼んだことがある。マスコミは連日、この作品をとりあげていた。作者も連日のようにテレビ出演していた。しかし、いまは跡形もない。この二つの作品の違いは何か。それは、作品と作者の関係性にある。『一杯のかけそば』は、たんに世に受けることを狙って作り上げたサギ紛い(実際詐欺師だった)の作品だった。それに比べ『菜の花と小娘』には、作者自身の思いが深くこめられている。それが伝わってくる。

 

作者の深い思いとは何か

では、作品に込められた作者の深い思いとは何か。これまでのゼミでは、この作品は、女の子が実際に、菜の花を川に流して遊んでいるのを見て思いついたのでは、といった感想もありました。確かに、作者は、菜の花を見て、この話を思いついたかも知れません。

しかし、それは子供たちが遊んでいる光景からではないと想像する。現在、千葉県が県の花にしているのは菜の花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、たびたび鹿野山に遊びに行くようになる。

 

鹿野山

鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、ときには何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない気がします。多くの感想は、「寂しい感じがする」といったものでした。もし、背後からそのときの志賀直哉を見れば、そんな印象を抱いたかもしれません。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色である。なぜ寂しい孤独の影が・・・。

 

菜の花に母の面影を

明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。と

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いうことは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月

の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。

人間の謎

「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは18歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのかも知れません。

では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。日ごろ教訓をぶつ父も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。この頃、島崎藤村は『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。

『菜の花と小娘』を読んでみると、たいていの人は自分でもすぐに書けるような、気になるようです。しかし、実際にはなかなかなのが童話ものです。

人間とは何か。この存在宇宙とは何か。志賀直哉の作品は、すべてこの疑問を持って、対象物を観察しています。観察して、想像して書く。それがこの作家の小説を書くうえでの根幹です。つぎの『網走まで』は、それがよく表われた作品といえます。

 

【草稿】

 

草稿と完成は、盆栽でいえば、挟みを入れる前と入れてからの景観ということになる。草稿はのばし放題のばした盆栽。完成は、余分な枝を剪定し見栄えのよくなった盆栽、ということである。

しかし、完成作より、草稿の方が馴染みがある、といった評も多い。読書は、その人の読み方なので、一概に完成作だからよいとも言えないところがある。が、草稿と、完成品の差がはっきりしているのは『菜の花と小娘』である。

『菜の花と小娘』が名作となるまでの過程を、少し紹介する。

 

■明治37年(1904)鹿野山にて書く。題名『花ちゃん』

 

奈何いふ風に吹かれて、こぼれた種の生へて咲いたか、この山奥にたった一本、それはそれは可憐な菜花が、痩せもせず咲いていた。

麓の村から柴を取りにきた、花ちゃんという子は野生への九つ。お祭りとお正月とお盆とに着るものとしていた「三ツ三」の赤糸のはいった二子のいいおべべはもう着られないそだち。今日も白い新しい手拭いをもらって、それを姉さん被りにして嬉々と目の荒い背負い籠

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に集めた柴を入れている。

「花ちゃん」

「エ、」と花ちゃんは、しゃがんだ儘振り返ったが誰もいない。

「花ちゃ――ん」と可愛いい声でまた呼ぶものがある。

「だァーれ」と立ち上がってあたりを見た。人影は愚か、鳥も飛ばぬ。

「私呼ぶの誰よ」と云ったが誰も返事をするものがない。花ちゃんはなんだか薄気味悪くなって、

「早く出て来なきゃあ私、もう、帰って仕舞ってよ」とそろそろ籠を背負い掛ける。

「花ちゃん、私よ、ホ、、、、、」

 

最初の出だしである。小娘には「花ちゃん」という名がある。着ている服装なども観察している。菜の花も、どんな花か紹介している。この作品は、2年後、千葉県我孫子で改題、改稿された。そして、大正9年(1920)児童雑誌『金の船』に「菜の花と小娘」として掲載される。400字原稿用紙にして僅か五枚にも満たない作品だが、完成までに16年の歳月を費やしている。完成品は、草稿の伸びた枝、しげった葉をかなり剪定している。

 

《最後の場面》

「本当にアブなかったのね」

「エエモウ随分驚いたわ」花ちゃんは先に蛙なんか平気よといった菜の花の言葉をトガメル事もせず、今度は手に持たず己の頭にカザシて仲よく話しながら山を下って行った。

 

《完成品》

或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。

やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。

ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。

「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。

「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。

小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。

小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、

「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。

「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。

 

「花ちゃん」という子は、小娘に代わり、文章も、説明調のごたごたから、すっきりした。菜の花との出会いも自然になっている。

 

※鹿野山で思い出すのはトラ騒動だ。お寺の住職が十二支ということでトラを何頭も飼っていた。そのトラが二頭暁の大脱走をはかったのだ。何日かの大捜査で二頭とも射殺された。

 

 

 

 

 

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推薦図書 『貧しき人々』を紹介します。

 

その若者は学校を卒業すると、1年半ほど勤めた。が、結局、彼のいうところの「もう

これ以上勤務することが出来なかった」と、辞表を出した。理由は、「一身上の都合」だった。が、本当は、小説を書く為、それを職業にしたい、であった。◆この時代、この国では、文学だけで生活する職業作家は、まだいなかった。学生時代、バルザックやシェクスピアーに夢中だった若者は、夢の実現に向かって歩き出した。◆若者は、ペテルブルグのヴラヂーミルスキー大通り11番にある下宿屋に同じ志しを抱く友人と一緒に住んだ。◆作家志望の若者、彼が「寝起きし、仕事をし、居間にもしていた狭い部屋には、机と、寝台代わりの長椅子と数脚の椅子があった。机の上にも椅子の上にも、床にも、本と、文字をいっぱいに書き込んだ紙があった」工兵団製図局をやめたとき「ぼくはこれから猛烈に働きます」と若者は宣言した。そして、その言を実践した。◆若者は、一日中、夜も昼も机に向かって、せっせと小説を書いていた。が、友人に、作品のことは、何も話さなかった。小説は遅々としてすすまなかった。彼は、兄に手紙を書いた。「こいつが今度ぼくに大変な労働を課してきたのです。いっそのこと、こんなものを書き始めなかったのに」と。◆それは五月のある爽やかな朝だった。若者は、友人を自分の部屋に呼んだ。そして、言った。「昨日清書を終えたばかりなんだ。読むから聞いてもらいたいんだ」と。友人は、はじめ眠そうな顔をしていた。が、すぐに真剣な表情で聞き始めた。友人は、その作品に感動した。◆「雑誌『現代人』を出版している詩人を紹介するよ」友人は、言った。1845年5月のある午後、若者は、原稿を持って行き、詩人であり出版人でもあるN・A・ネクラーソフに会った。相手はロシアの民主主義的傾向を代表する詩人。若者は、きまり悪そうに渡した。握手しただけで、ほとんどひとことも口をきかずに別れた。はたして読んでくれるだろうか・・・・若者は心配しながら帰った。◆白夜の街を若者が帰ってきた。彼は部屋に入ると、ベツトに入るとすぐに寝た。と、突然にベルが鳴った。若者はびっくりして飛び起きた。午前四時。こんな時間に誰だろう。部屋に入ってきたのは二人の人間だった。友人と詩人のネクラーソフ。ネクラーソフがなぜ?若者が考えるまもなく二人は叫んだ。「寝てる場合じゃない!!」◆彼らは、前の晩、若者の原稿を試しに読みあった。手紙小説――どうせ、退屈な話だろう。詩人は思った・・・10頁読んだ・・・なんだろうこれは・・・あと10頁・・・あと・・・もはややめられなかった。彼らは朝まで一晩中声をだして読みあった。そうして読み終わると言った。「これから直ぐにドストエフスキイのところへ行こう!!」

◆10頁、読んだらやめられない、その足で作者のところに駆けつけたくなる小説、そんな小説がこの世にあるのだろうか。そんな疑問から6月のある日、『貧しき人々』を読んだ。

本当にやめられなかった。これまで読んだどの冒険小説より面白かった。この日からドストエフスキーへの旅がはじまった。35年前のことである。

ということで、今ゼミ推薦図書の第一号は、ロシアの文豪ドストエフスキーの処女作

 

併せて、このドストエフスキーを愛読していた北條民雄の作品

 

『いのちの初夜』を紹介します。

 

ある意味では、全日本文学のなかで、この作品に勝る作品はない!!

「こんな小説を書かれたのでは、私たちはどうしたらいいのかわからない」遠藤周作

「一読して決して忘れる事ができず/技術の巧拙など問うところではない」福永武彦

(北條民雄 昭和12年12月5日逝去24歳)

 
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書くこと     ハイライト             西村美穂
漢字でもカタカナでも、なんとなく見たことはあるけれど意味を知らない語がある。
知り合いがしきりに髪の毛をいじってそわそわしているので、当てずっぽうに「髪染めたの?」と聞くと、「ハイライトにしてもらったんです」と言われた。どう染めたのか全くわからなかったが、曖昧に笑っておいた。ハイライト?
コンビニのお会計の列に並んでいると、前のおじさんがタバコを買っていた。「ハイライト一つ、そう、そこの一番右のやつね」。チラッと見えたパッケージにはよくありがちな筆記体でhi-liteと書かれていた。ハイライト?
テレビを見ていると、スポーツのコーナーになりアナウンサーが「続いて、プロ野球今日のハイライトです」と言った。変なヘルメットをかぶった人が空高く球を打った。野球のルールはよく知らないけれど、多分ホームランだ。ハイライト?。
携帯で写真を撮ると、そのまま自分で編集ができる。モノクロフィルタをかけると白黒写真のようになって面白いし、コントラストを強くすると影がはっきりついてかっこいい。その中にハイライトという項目がある。まだうまく使えたことはない。ハイライト?。
お化粧の話である。鼻筋や頬骨の辺りに白い粉をつけると顔の凹凸がはっきりするというので、そこにつける粉、あるいはその行為をハイライトと言うことがある。これが私の知っている唯一のハイライト知識である。ハイライト?

OK, Google
ハイライト とは

ハイライト
1絵などで、もっとも明るい部分。
2映画・テレビ・写真などの画面で、もっとも強く光線を反射している部分。
3放送・演劇・スポーツなどで、もっともきわだった興味ある場面。

 

土壌館日誌 ある日の記録

 

その日、やったこと、あった出来事、すべてを書く。

 

2018.4.22 日曜日、晴れ、夏日になる。各地で開催のマラソン大会、熱中症続出のニュース。今日、圭佑君結婚式。8時半に道場開ける。掃き掃除と玄関前の草取り。気温のせいか路面の少しの隙間から根性雑草がのびてくる。5年生の千里君、遅れて6年生の誠君、父親も一緒にくる。少し見学させてほしいとのこと。千里パパは徒歩でくる。最後に6年生の一心君。昨日は家族で釣り堀に行って来たと話す。鯛を何匹も釣った話。大学生の青柳君は休み。田島さんはケガ。千里パパ指導。玄関、トイレ、拭き掃除。11時半、市川組合で地代振込17400円、5,6月分。午後、康平とボール蹴り、リプレで買い物。

28会の戸塚さんからライン。24日、地下鉄銀座4、5の出口、有楽町駅前ビル9階「大志満(おおしま)」11時半待ち合わせ、とのこと。横尾さんからメール。26日の確認。3時50分江古田駅改札、4時文芸谷村先生。『オンボロ道場』校正。

ゼミⅢ、開店休業状態

―――――――――――――――― 11 ――――――文芸研究Ⅲ下原ゼミNo.337

 

書くこと 創作 連載1    依存からの脱出の記録

 

あるシンポジュウム会場に置き忘れていたノートに書かれていた手記

 

「透明な存在」との闘い

下原敏彦

 

はじめに

 

 私は、2、3年前まで、住んでいる市の地区で民生委員児童委員をしていた。60歳から70歳までの10年間だったが、様々な社会問題を目にした。孤独死、痴呆。生活保護家庭の認定など。どれも解決困難な問題だった。そのなかで特に悲惨で気の毒に思ったのは、いろいろな依存症に苦しむ人たちだった。青春真っ盛りの少女が、食べ物の海に溺れるさま、幸福な家庭がありながらアルコールやギャンブル、薬物の谷間に落ちて行く人たち。その人たちのだれもが、助けを求めている。だが、どうすることもできない。彼らは、もがきながらも底なし沼にはまりこんだかのようにズブズブと沈んで人生を終えていく。

神の手でしか救いようがない人たち。凡人の私には、どうしてやることもできなかった。そんなわけでボランティアとはいえ民生委員の職務を定年でやめることができたときは、ほっとしたものだ。でも、ときどき依存症の人たちのニュースをみたりすると心が痛んだ。そうして、どうしたら依存というらあの魔物から脱出できるのか。せんないことだが大いに気になった。魔物にみいられたら身の破滅しかないのか。

ところが先日、我が子を依存症から救い出した父親の体験談を読むことができた。真実かどうかは知らないが、私は、内容から本当のことだと信じたい。

その体験談というのは、忘れ物の大学ノートに書かれていた話で、私が読むことになった経緯は、凡そこのようである。私の後釜になった人が、ある依存の講演会に行ったとき、隣りの席に大判封筒の忘れ物があった。中に大学ノートが入っていた。ぱらぱら見ると、月日が書いてあり、字がびっしり書いてあったという。主催者に渡すと、多忙なので代わりに保管して置いてほしいと頼まれた。持ち主がわかったら、知らせるので送ってほしいということだった。が、それから半年、なんの音沙汰もなかった。その人は他人のものをいつまでも持っているのは、気になるので主催者に連絡したところ、持ち主が現れないので、勝手に処分してくれとのこと。しかし、責任感の強いその人は、処分することができず、私のところに持ってきて

「日記のようなものだが」と、言って置いていった。

私は、趣味で小説を書くこともある。そんなことを話したことがあるので、参考になるだろうと理由をつけての、体のいい処分だった。他人のものを読むのは、覗き見するようで嫌だったが、先日、ふと、何が書いてあるのか、そんな好奇心がわいて読んでしまった。ノートには、幸福で平凡な家庭が、依存という魔物にとり憑かれ悲惨な様子になっていく様子と、その魔物と闘い勝利した話が描かれていた。書いたのは、父親のようだった。

 

依存という魔物と戦ったある父親の手記。

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.337 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

熊谷元一関連のお知らせ

 

東京銀座・長野アンテナショップ・熊谷の故郷阿智村主催で

 

2018年4月24日(火)午後1時30分 ~

 

満蒙開拓平和記念館五周年記念イベント

 

ゲスト 澤地久枝さん(作家)

 

2017年 熊谷元一写真賞コンクール20回記念写真展のお知らせ

 

写真家・熊谷元一写真賞コンクールは昨年で早くも20回を数えます。この節目を記念して、今年5月、これまでの入選作品の写真展を開催します。

 

※  選考委員は、新聞社写真部、郷土写真家、プロカメラマン、写真評論家で日芸の飯沢耕太郎先生も、その一人です。

 

月 日 2018年5月29日(火)~6月3日(日)

 

会 場 JCIIフォトサロンクラブ25(東京・半蔵門)

 

応募要項 2018年 第21回熊谷元一写真賞コンクール

 

写真の好きな人、南信州の星降る村「阿智村」を撮りたい人は挑戦してみてください。

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」第一回「働く」の初心に帰ってのお題です。

 

締切 2018年9月末日

最終審査 10月12日(金)

 

 

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