文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.338

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)5月7日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.338

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/18 6/25 7/2 7/9 7/23 

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(写真評)

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4・23報告

 

西村美穂さんにつづき村瀬琴さん参加で華やかに

 

両手に花でパット明るく

 

先々週まで、もしかして一人旅。そんな心細さもあったが、村瀬琴さん参加で、電気のスイッチをひねったようにパッとあかるくなりました。幸先よい旅立ちの日です。

 

村瀬 琴さん  下原講師  村西美穂さん

 

 

 

祈願 2018年、読書と創作の旅が楽しい旅でありますように。

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.338 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

連休の過ごし方 今年から大学生にとって5月の大型連休はなし。

 

授業時間を増やすことで振替休日がなくなった。多くの学生にとっては、残念ではあるが、これで良しと思う人もいるかもしれない。減った連休のおかげでこの時期、蔓延する「五月病」が少しは減るかもしれない。

※「五月病」=5月の大型連休が終わると、長い休日の脱力感から、学校を休む学生が多くなる。そのまま来なくなる学生もいる。1968年に流行った言葉。

 

「ゼミ通信」編集室の連休 4/28 ~ 5/1 までの記録

 

4/28(土)地元では地域活動として自治会の役員。この時期、役員の仕事は、自治会費を納めてもらうのが、一番の大仕事。昔は、自治会費は、当然のことだった。が、新しく団地に入居してくる若い世代の人たちは、違うようだ。「朝、出勤して夜、帰宅する。なぜ自治会費を払わなければならないのか」とくる。月400円の自治会費は、あくまでも任意。災害対策、祭・盆踊り、家賃値下げ運動などに使う。マンションは管理費からとられているが、UR(都市機構)は、自主的。なかなか払ってくれない家がある。そこで、この連休は、自治会費未納者めぐりとなりそうだ。

4/29(日)晴れ、祝日日和、午前中、道場で朝稽古、連休はじめで小5の男の子と父親のみ。体操のあと、掃除、10時、会社員の練習生。形の稽古。両手取りから得物まで。

午後、ダウン児の孫(小3)を公園で遊ばす。集金3戸留守。全日本柔道選手権テレビ観戦。日大出身の原沢選手が優勝。孫泊まる。

4/30(月)晴れ 振り替え休日 『オンボロ』校正の件で、 午後、孫と芝生広場に。帰り孫、イオン広場で踊る。そのまま自宅に送る。集金留守、後から2戸。

5/1(火)晴れ 午前パソコン、午後、ブックオフ、SF本と『にんじん』新刊、「つたや」で昔観た『栄光への脱出』イスラエル建国のときの事件。台湾料理店で夕食。留守宅帰っていた市議見かけたので集金、2年分納入。

 

気になったニュース

 

5月1日(火) この日のニュースは広島で脱走犯23日目で逮捕だが、気になったのは,何とも痛ましいこの事件だった。2歳児殺害容疑 母逮捕」(朝日5/1)

大阪「ベランダから落とした」

長女を自宅マンションから落として殺害したとして、大阪府警は30日、無職容疑者(31)を逮捕した。容疑者は、長女(2)を5階のベランダから落として殺した」と認めた。署によると容疑者は、夫(36)と2歳幼女の3人暮らし。事件当時、3人は室内にいたという。

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なんとも悲惨で酷い事件だが、このニュースで頭に浮かんだ事件がある。今から142年前、ロシアで起きたある事件だ。「6歳幼女殺人未遂事件」である。1876年5月×日ペテルブルグの主婦(20)は夫婦喧嘩のあと、夫の連れ子(6)を4階の窓から投げ落とした。路上まで十数メートル。しかし、奇跡的に継子は助かった。前日、降った雪が窓下に寄せてあったのだ。しかし、確実に殺意をもっての犯行。裁判の判決は重かった。4年間の刑務所収監のあと、シベリアに永久追放。新聞でこの判決を知ったドストエフスキーは、被告救済運動を起こし、再審で無罪にした。救済理由は、主婦が妊娠中であったこと、シベリヤに行ったら必ず身を滅ぼして死ぬ。そして、幼女が死ななかったこと。

大阪の事件は、奇跡が起きなかった。2歳児は死んでしまった。残念、哀れである。

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4・23ゼミ報告  2018年、読書と創作の旅、賑やかく楽しい予感が

 

《ゼミ雑誌ガイダンス》5月15日(火)12時20分 所沢文芸棟教室1

※  参加者各ゼミ2名 必ず参加してください。

【読むこと】

 

テキスト『嘉納治五郎著作集 教育編』(五月書房)→「第15 精読と多読」

(昔の人は、こうして読む本を選んだ。こうして読んだ。)

「ゼミ通信」編集室→「読書のススメ」「書くことのススメ」「車中作品について」

志賀直哉『小娘と菜の花』(志賀直哉処女作三部作 「或る朝」「網走まで」)

 

【書くこと】『小娘と菜の花』の感想

 

村瀬 琴       2人の関係が友情で結ばれているように思えた

 

小娘と菜の花が、どちらかが優位ではなく、同等に会話をしているのが面白かった。菜の花を連れて行ってやろうとする小娘と、連れて行ってもらう菜の花が、まるで友達同志のように話しているのが新鮮に感じた。

夕日の赤や、菜の花の緑と黄色、透き通った水の流れなどの光景が容易に目に浮かぶ。はじめ素っ気なかった小娘が、最後、弱った菜の花を胸に抱いて笑いあうなど、「2人」の関係がだんだんと密に、友情で結ばれているように思えた。

 

□人間と植物の垣根が取れて2人の友情話。童話から踏み込んだ読み方ですね。

 

西村美穂       相手の相手のためだけの愛を感じた

 

小娘と菜の花、そして両者が話すとなると、小娘(幼い人間=未熟な人間)が、菜の花(小さくもたくましい自然)に何事かを教わるというような展開を予想したので、むしろ小娘の方が菜の花に対して何かを悟(諭)すような行動をとっていることにおどろいた。

愛なのかと思う。

相手の相手のためだけの献身的な愛。水草に根がからまった時は、じきに解けるからと笑っているけれど、イボ蛙という本当の危機にはすぐにかけよる。「今度はあなたが苦しいわ」という菜の花へ不愛想に答えればおびえてしまったので、今度はやさしく答える。

小娘のその後は書かれていないが、きっと幸せだといいな。

 

□二人の友情を愛と感じる。そんな読み方もあるのですね。小娘の、その後が、気になるところ、創作力をかんじます。

『菜の花と小娘』は処女作三部作の一つ

小説の神様といわれる志賀直哉とは何か。それを考えるには、まず処女作三部作を読み解く必要があります。

処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれました。志賀直哉21歳から25歳のときです。このうち旅立ち早々の「読むこと」として最初に書かれた『菜の花と小娘』を読んでもらいました。前号にも書きましたが『ゼミ通信』編集室での感想は、このようです。

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4・23テキスト解説 (前号掲載加筆と訂正)

 

処女作三部作

志賀直哉は、なぜ小説の神様といわれるのか。それを考えるには、はじめに処女作三部作を読み解く必要があります。

処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。この三部作の考察が謎解明の一歩になれば幸いです。

前頁の村瀬さん、西村さんの感想、「菜の花との友情」や「愛」の指摘などに謎解きのヒントがあるのではと思います。

※ちなみに、これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときである。

 

『菜の花と小娘』とは何か

この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれた。明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。完成するまで実に16年間かかっている。

擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えますが、日本文学では、よく知られた秀逸の作品です。

それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。ある意味でこの作品には、若き日の志賀直哉の全てがある、といっても過言ではありません。作者の深い想いがこめられています。

 

普遍性がある作品

この作品のどこに作者の深い思いが秘められているのか。のっけから大きな謎です。はじめに、なぜこの作品が名作なのかをあげれば、一つには、普遍だということです。書かれてから100年も過ぎるのに、古さを感じさせません。

たしか二、三十年前、『一杯のかけそば」という童話作品が、爆発的に人気を呼んだことがありました。作者は、連日のようにテレビ出演していた。しかし、いまは跡形もない。『一杯のかけそば』は、たんに世に受けることを狙って作り上げたサギ的作品だった。(実際詐欺師だった)それに比べ『菜の花と小娘』には、作者自身の思いが深くこめられている。それが伝わってくる。

 

作者の深い思いとは何か

では、作品に込められた作者の深い思いとは何か。当時はどうか知れませんが、現在、菜の花は、千葉県の県花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、きっと同じ風景が見られたのかもしれません。

明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、たびたび鹿野山に遊びに行くようになります。

(鹿野山、現在は牧場や季節の花が有名)

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鹿野山、孤独の影

鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどが人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている様子。たとえ本を読んでいたとしても、そこから伝わってくるものは「なんとなく寂しい」といった感じです。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色である。しかし、なぜか寂しい孤独の影が漂う・・・。

 

菜の花に母の面影を

明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。と

いうことは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月

の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。

菜の花は、温かな家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていた。そうに違いないと思う。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。

 

人間の謎

「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは17、8歳のドストエフスキーです。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのかも知れません。

では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。日ごろ教訓をぶつ父も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。この頃、島崎藤村は『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならなかった。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。

その思いが、その怒りが、人間と植物の垣根をこえた友情と愛の物語を生みだしたのではないだろうか。編集室は、そのように読み説きました。そうすると、この作品は、亡き母に捧げた作品。そのように思われてきます。

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【草稿】

 

草稿と完成は、盆栽でいえば、挟みを入れる前と入れてからの景観ということになる。草稿はのばし放題のばした盆栽。完成は、余分な枝を剪定し見栄えのよくなった盆栽、ということである。

しかし、完成作より、草稿の方が馴染みがある、といった評も多い。読書は、その人の読み方なので、一概に完成作だからよいとも言えないところがある。が、草稿と、完成品の差がはっきりしているのは『菜の花と小娘』である。

『菜の花と小娘』が名作となるまでの過程を、少し紹介する。

 

■明治37年(1904)鹿野山にて書く。題名『花ちゃん』

 

奈何いふ風に吹かれて、こぼれた種の生へて咲いたか、この山奥にたった一本、それはそれは可憐な菜花が、痩せもせず咲いていた。

麓の村から柴を取りにきた、花ちゃんという子は野生への九つ。お祭りとお正月とお盆とに着るものとしていた「三ツ三」の赤糸のはいった二子のいいおべべはもう着られないそだち。今日も白い新しい手拭いをもらって、それを姉さん被りにして嬉々と目の荒い背負い籠

に集めた柴を入れている。

「花ちゃん」

「エ、」と花ちゃんは、しゃがんだ儘振り返ったが誰もいない。

「花ちゃ――ん」と可愛いい声でまた呼ぶものがある。

「だァーれ」と立ち上がってあたりを見た。人影は愚か、鳥も飛ばぬ。

「私呼ぶの誰よ」と云ったが誰も返事をするものがない。花ちゃんはなんだか薄気味悪くなって、

「早く出て来なきゃあ私、もう、帰って仕舞ってよ」とそろそろ籠を背負い掛ける。

「花ちゃん、私よ、ホ、、、、、」

 

最初の出だしである。小娘には「花ちゃん」という名がある。着ている服装なども観察している。菜の花も、どんな花か紹介している。この作品は、2年後、千葉県我孫子で改題、改稿された。そして、大正9年(1920)児童雑誌『金の船』に「菜の花と小娘」として掲載される。400字原稿用紙にして僅か五枚にも満たない作品だが、完成までに16年の歳月を費やしている。完成品は、草稿の伸びた枝、しげった葉をかなり剪定している。

 

《最後の場面》

「本当にアブなかったのね」

「エエモウ随分驚いたわ」花ちゃんは先に蛙なんか平気よといった菜の花の言葉をトガメル事もせず、今度は手に持たず己の頭にカザシて仲よく話しながら山を下って行った。

 

《完成品》

或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。

やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。

ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。

「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も

見えませんでした。

「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。

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小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。

小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、

「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。

「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。

 

「花ちゃん」という子は、小娘に代わり、文章も、説明調のごたごたから、すっきりした。菜の花との出会いも自然になっている。

 

※鹿野山で思い出すのはトラ騒動だ。お寺の住職が十二支を集めるという名目でトラを何頭も飼っていた。そのトラが二頭、暁の大脱走をはかったのだ。地元は大騒動。何日かの大捜査で二頭とも射殺された。

 

5・7テキスト読み 『或る朝』『網走まで』作品コピーして配布

【『或る朝』について】

 

この作品は、文字通りふつうの「或る朝」の出来事を書いたものである。が、例によって作者本人の、そのままというより軽い創作というオブラートがかかっている。

元種は、日々の日記(自分観察)を土台にしたものである。次の日記は、その原形ではないかとみられている。

□ 明治41年1月13日 月曜日

朝、起きない内からお婆さんとひと喧嘩して午前墓参法事。

 

この日記を種にして作品を書く。翌14日(火)の日記に

「朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて、(非小説、祖母)と題した。とある。

ちなみに作者志賀直哉は、この作品について「創作余談」で、このように述べている。

 

27歳(数え年26歳の記憶ちがい)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋はできていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。ところが、「或る朝」は内容も簡単なものであるが、案外楽に出来上がり、初めて小説が書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領がわかってきた。

 

この作品は、大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載された。書いてから10年が経っていた。祖母が、うるさく起こすので素直に起きる気をなくした孫の話。意地っ張りから祖母に悪態をついたことを反省するまで。家庭の日常で生ずるたわいもない喧嘩。これを捉えて、一つの作品にする。簡単なようだが、難しいものがある。それだけに「はじめて小説を書けたというような気がした」「書く要領がわかってきた」という作者の述懐は、作者の文学開眼の言葉ともいえる。つまり、この作品は、志賀直哉の内なる文学の芽。小説の神様へと通じる階段の第一段だともいえる。その意味では、『或る朝』は、志賀文学の重要な基盤、出発点となる作品である。この作品は、その後、父親との確執を描いた中編名作『和解』に繫がっている。そして、唯一の名作長編『暗夜行路』にと至る。

核家族になった今日、いわゆる「オバアちゃんこ」はできにくい。起きる、起きないをめぐって祖母と信太郎二人の気持の機微が、描かれている。だれもが子供の頃、祖母や母親とで経験したことがある懐かしい家族の思い出である。

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名作紹介

 

☆『殺し屋』A・ヘミングウェイ()大久保康雄訳 新潮文庫

簡潔にスリリングに描かれた食堂の店内観察。短編小説の名作。次号で紹介

☆「谷間に眠るもの」「感覚」『ランボオ詩集』A・ランボオ 金子光晴訳 角川文庫

詩編2作紹介

アルチュール・ランボオは1854年10月20日北フランス生まれ、1891年11月9日マルセイユ病院にて死去37歳。大作「酔っぱらいの舟」17歳のとき。

 

金子光晴訳『ランボオ詩集』1870-1872から

Sensation(サンサシオン)

夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、

ちくちくと麦穂の先で手をつつかれ、小路をゆこう。

夢みがちに踏む足の 一足ごとの新鮮さ。

帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

 

話もしない。ものも考えない。だが、

僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。

さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミヤンのように。

自然とつれ立って、――恋人づれのように胸をはずませ・・・

 

谷間に眠るもの

 

立ちはだかる山の肩から陽がさし込めば、

ここ、青葉のしげりにしげる窪地の、一すじの唄う小流れは、

狂おしく、銀のかげろうを、あたりの草にからませて、

狭い谷間は、光で沸き立ちかえる。

 

年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにもかぶらず、

青々と、涼しそうな水菜のなかに、ぼんのくぼをひたして眠っている。

ゆく雲のした、草のうえ。

光ふりそそぐ緑の褥(しとね)に蒼ざめ、横たわり、

 

二つの足は水仙菖蒲のなかにつっこみ、

病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしているんだよ。

やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。

 

いろんないい匂いが風にはこばれてきても鼻の穴はそよぎもしない。

静止した胸のうえに手をのせて、安らかに眠っている彼の右横腹に、

真っ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

 

 

○ランボー興味あったら他の詩編や『地獄の季節』に挑戦してみてください。

○ヘミングウェイの『殺し屋』は、後日、読みます。

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書くこと 創作 連載1  依存からの脱出の記録 前号の訂正1回目

 

あるシンポジュウム会場に置き忘れていたノートに書かれていた記録

 

創作「透明な存在」との闘い

ゼミ通信・編集室

 

この記録は、「下原ゼミ通信」編集室に寄せられたノートに書かれていたものである。誤字、脱字の他、判読不明の文においては、編集室の想像で訂正、解読した。

 

ある元民生委員児童委員の話

 

 私は、2、3年前まで、私が住んでいる市の地区で民生委員児童委員をしていた。主な仕事は75歳以上の後期高齢者の見守りだったが、他に様々な事情で苦しみ悩む人たちの相談にものった。10年間だったが、いろいろな人間模様を目にした。孤独死、認知症介護。生活保護家庭の事情など。どれも解決困難な問題だった。

そのなかで特に悲惨で気の毒に思ったのは、依存症に苦しむ人たちの話だった。依存症といえば、アルコール、ギャンブル、ドラッグといろいろあるが、とくに可哀そうに思えたのは、青春真っ盛りの少女たちが、食べ物の海で溺れもがく様だった。アルコール、ギャンブル、ドラッグは環境によって救う手立てはある。だが、肉体を排し魂だけになりたいと願う彼女たちの執念。これを打ち消すのは、容易ではない。不可能に近いと思った。

神の手でしか救いようがない人たち。凡人の私には、どうしてやることもできなかった。そんなわけでボランティアとはいえ民生委員の職務を定年でやめることができたときは、ほっとしたものだ。でも、ときどき依存症の人たちのニュースをみたりすると心が痛んだ。そうして、どうしたら依存というらあの魔物から脱出できるのか。せんないことだが大いに気になった。魔物にみいられたら身の破滅しかないのか。

ところが先日、我が子を依存症から救い出した父親の体験談を読むことができた。真実かどうかは知らないが、私は、内容から本当のことだと信じたい。

その体験談というのは、忘れ物の大学ノートに書かれていた話で、私が読むことになった経緯は、凡そこのようである。私の後釜になった人が、ある依存の講演会に行ったとき、隣りの席に大判封筒の忘れ物があった。中に大学ノートが入っていた。ぱらぱら見ると、月日が書いてあり、字がびっしり書いてあったという。主催者に渡すと、多忙なので代わりに保管して置いてほしいと頼まれた。持ち主がわかったら、知らせるので送ってほしいということだった。が、それから半年、なんの音沙汰もなかった。その人は他人のものをいつまでも持っているのは、気になるので主催者に連絡したところ、持ち主が現れないので、勝手に処分してくれとのこと。しかし、責任感の強いその人は、処分することができず、私のところに持ってきて

「日記のようなものだが」と、言って置いていった。

私は、趣味で小説を書くこともある。そんなことを話したことがあるので、参考になるだろうと理由をつけての、体のいい処分だった。他人のものを読むのは、覗き見するようで嫌だったが、先日、ふと、何が書いてあるのか、そんな好奇心がわいて読んでしまった。ノートには、幸福で平凡な家庭が、依存という魔物にとり憑かれ悲惨な様子になっていく様子と、その魔物と闘い勝利した話が描かれていた。その闘いを記録したのは、父親のようだった。

 

 

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忘れ物のノートにあったある父親の記録

 

わが家の事情

 

わが家は、3Kの団地に住む、平凡な一家だ。四十代の夫婦、高校生の息子と娘。四人家族。日本のどこにでも見かける平均的家族構成。ただ、普通の家族と一つだけ違うとすれば、さかさま夫婦ということだ。妻はある医大病院の検査技師で、夫のわたしは勤めていた出版社倒産のあと十数年、ずっと専業主夫をつづけてきた。妻が二人の子どもをつづけて出産したので、わたしは、仕事探しより子育てと家事に追われることになった。男勝りで料理が苦手な妻は、偶然のさかさま夫婦が気にいって、家計が窮したら、そのとき共稼ぎになればいい、それまでこれでいこうと言いだし押し切られた。そんなわけでわたしは、主夫業がすっかり板についてしまっていた。だが、まだまだ男は外、女は家庭の時代。こそこそしながらの主夫業だったが、十年前施行()された男女雇用均等法が、ジワジワと浸透してきていて、わたしも恥ずかしながら専業主夫と名乗れるようになっていた。

子供が幼いころ、わが家には、どうしても妻の正子には仕事をつづけてほしい理由があった。息子の将太は、生まれてすぐ、白血球減少症という病名がつけられた。

担当の女医がいったものだ。

「たとえ風邪でも病気にかかると、死にますよ」

その診断に驚いたわたしは、ちょっとでも微熱があればタクシーで正子がいる大学病院にかけつけた。将太の病名のことを考えると、正子には、どうしても病院で働いていてほしかった。だが、わたしたちの心配をよそに、将太はたいした病気もせずに成長した。少なかった白血球もいつのまにか平均数値になっていた。いま思えば、わたしと正子は、将太の病気の心配で、ノノのことはあまり見てこなかった。

二つ年下の妹ノノは、心配した将太に較べると健康そのものだった。元気に野原を駆けまわる子に。そんな思いでつけた名前だったが、まさにその通りだった。小学生の頃は、暗くなるまで外で遊んで、心配させた。中学校に入ると剣道部に入部した。女子一人だったが臆することはなかった。学校から帰っても、暇さえあれば近くの公園で竹刀を振っていた。

ノノは二年遅れて将太と同じ高校に入学し、剣道部に入った。県立高校で生徒数1200名の普通高校だった。進学校ではあったが、中程度の大学希望者が多かった。

時代の流れで周囲も専業主夫を特別視しなくなった。正子は、さらなる医療資格も収得して仕事に生きがいを感じはじめていた。わたしも掃除、洗濯、買い物、料理に家族の世話に何の抵抗もなかった。ただ一つ主夫業で嫌なことがあった。PTAである。中学までは、子供会からの延長で、ひたすら黙っていれば役員に推される心配はなった。頼まれたとしても然1回のパトロールかバザーの手伝いだった。が、子供が二人とも同じ高校に在籍し、わたしが専業主夫とわかると事情がちがってきた。PTA役員は逃れられなかった。美化委員著を皮切りに副会長、ノノが入学したときは、なんとPTA会長と三年先の創立二十周年記念式典の実行委員長に祭り上げられてしまった。振り返ると怒涛の日々であった。魔物と生死をかけて闘った日々でもあった。あの闘いにわたしは勝った。その証拠にノノもわたしも今現在、こうして元気に生き伸びている。

 

前兆 忍びよる悪魔

 

1995年4月7日(金)ノノ、県立干潟高校に入学式。雨 368名の生徒が入学。わたしはPTA会長として壇上にあがり祝辞を述べた。思えば二年前の将太の入学式の日、わたしは、はじめてPTA役員になった。美化委員長、副会長と、エスカレーター式に昇ってきて、気がつけばPTA会長となっていた。まさか、そんな、驚いても、悔やんでも、後の祭り。

この日、早速に職責を果たさなければならなかった。なんとか乗り切った。

―――――――――――――――― 11 ――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.338

 

熊谷元一研究   満蒙開拓平和記念館5周年イベント

 

東京サテライト in 銀座NAGANO 作家・澤地久枝さんを招いて

 

満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)は、4月24日(火)創立5周年イベントを東京・銀座にある東京サテライト(銀座NAGANO)で催した。13:00~16:00

イベント内容は、以下の通りでした。

 

  1. 挨拶&記念館紹介

2.DVD「満蒙開拓の真実」上映

  1. トークイベント 作家・澤地久枝 対談 館長・寺沢秀文
  2. 参加者交流会

 

※なぜ長野県阿智村に設立されたのか。満蒙開拓団(義勇隊含む)47都道府県合計約321882人のなかで長野県が37859人とダントツで、そのなかでも特に阿智村は多かった。

□会地村(現阿智村)を中心とした飯田下伊那地区からの開拓移民者・・・8389人このうち無事に帰国できた人・・・4205人、帰れなかった人・・・4184人

※先日、NHKBSドラマ「どこにもない国」が放映された。終戦と満州国消滅で現地に取り残された150万の日本人同胞の帰還事業に奔走した男たちの物語。イベント会場に作者の丸山氏も出席されていた。父親の話を書いた。

※ゲスト・澤地久枝さんと満蒙開拓団について。澤地さんは、幼少期に家族と満州・吉林へ渡り高等女学校3年生(14歳)で終戦を迎える。が、その直前まで、飯田下伊那地区から送出された水曲柳開拓団に勤労奉仕として派遣され1カ月間泊まりこんで農作業をした体験を持つ。著書に『14歳(フォーティーン)満州開拓村からの帰還』(集英社新書2015)がある。水曲柳開拓団は館長寺沢の両親がいた開拓団で、その縁で澤地さんと寺沢館長の対談の運びとなった。

※熊谷元一はと満州の関わりは。熊谷は当時の大東亜省(拓務省)の撮影班として渡満した。現地でプロパガンダの写真を撮った。推測、満州国の欺瞞に気づいた熊谷は、終戦前に大東亜省を退職、村に戻った。

 

長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館

※映画「望郷の鐘」で話題になった満蒙開拓。2016年秋、天皇皇后両陛下が訪問された。

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.338 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

熊谷元一関連情報

 

2017年 熊谷元一写真賞コンクール20回記念写真展のお知らせ

 

写真家・熊谷元一写真賞コンクールは昨年で早くも20回を数えます。この節目を記念して、今年5月、これまでの入選作品の写真展を開催します。

 

※  選考委員は、新聞社写真部、郷土写真家、プロカメラマン、写真評論家で日芸の飯沢耕太郎先生も、その一人です。

 

月 日 2018年5月29日(火)~6月3日(日)

 

会 場 JCIIフォトサロンクラブ25(東京・半蔵門)

 

○下原がいる予定 (この日時のどれか、後日判明)

5/29日(火) 13:00 ~ 18:00

5/30日(水) 10:00 ~ 15:00

5/31日(木) 10:00 ~ 18:00

6/1日(金) 10:00 ~ 18:00

6/2日(土) 10:00 ~ 17:00

 

応募要項 2018年 第21回熊谷元一写真賞コンクール

 

写真の好きな人、南信州の星降る村「阿智村」を撮りたい人は挑戦してみてください。

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」第一回「働く」の初心に帰ってのお題です。

 

締切 2018年9月末日

最終審査 10月12日(金)

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