文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.339

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)5月14日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.339

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16 

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(情報)

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目 次

 

□目次、ある日の記憶・・・・・1

ゼミ誌ガイダンスのこと 5/15

□5・7報告・・・・・・・・1、2

5・14報告・・・・・・・ ・・2

□テキスト読み・・・・・・・・2

『或る朝』 『網走まで』

□推薦図書・・・・・・・・・・3

□社会観察ギャンブル依存・・・4

□熊谷元一研究・・・・・・5、6

□お知らせ 写真展・・・・7、8

 

 

村瀬 琴さん  下原講師  西村美穂さん

 

 

ある日の記録

 

5月11日 金曜日 晴れ、昨日おとといと3月並みの気温がつづいた。この日も風は幾分、ひんやりするが、やっと五月らしい爽やかな一日。12時石神井公園駅近くにて、待ち合わせの人あり。二人で10時過ぎ出る。12時少し前着く。お年寄りのN・S子さん。書道家で和歌の先生。今年100歳になる。この町に一人で住んでいる。駅前のコーヒー店で話す。頭はしっかりしているが、耳が遠いのか、話し声がだんだん大きくなる。康子筆談を交えて会話する。2時になったので、私だけ、江古田に戻る。やはりゼミ希望者はなし。下原ゼミⅢ、今年は閉幕。なんとなくほっとしたような残念のような気持ち。『オンボロ道場』で多忙にればちょうどいいのか・・・?そうなることを願う。アンナとスースロワのことが書かれた本、池袋ジュンク堂でみたような気がしたので、行って探すがわからず。駅トイレで院生のS君と出会う。ロシアで講演が決まったとのこと。生誕200年祭か。

5時半、金曜会参加のため同心房に行く。日野さん、犬木さんきていた。つづいて清水さん、院生のケイちゃん、友人と会っていた康子、山下さん、浅沼さんくる。9時半過ぎ散会。山下さんから清水正退官祝いに伴う「清水正、ドストエフスキー関連資料展示準備について」の話11月11日に資料室で。ゼミ生にも協力を願うかも。

 

通信編集室

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.339 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

5・7ゼミ 参加=西村美穂さん ※3通信338の誤り 1面写真正しくは→西村に

 

提出課題の考察 西村美穂さんの「ハイライト」の読みと考察

 

《通信336掲載の「ハイライト」について話した》

 

よく聞く言葉だが、使う時の情況によって意味合いが違う。固有名詞の場合もある。日本語の変化によって、こうしたカタカナ言葉は多くなっている。面白い視点。文章も簡潔で読みやすい。これからもつづけていってほしい。

 

《テキスト、菜の花と小娘の感想と編集室の解説》

 

西村さんと村瀬さんの感想の違い。

村瀬さんは → 植物と人間の垣根を超えたもの。友情としての物語

西村さんは → 植物と人間は同じだが、二人の間に愛が生まれる。愛情物語。

編集室の見解 → 作者の心が投影された、母親を偲ぶ話。

 

《次回読みのテキスト「或る朝」「網走まで」について》

 

主に『或る朝』の考察。この作品をしあげたとき「初めて小説が書けたというような気がした」に着目、次回の「読むこと」では、そのあたりを中心に考えたい。

 

5・13ゼミ テキスト読み&感想

 

《社会観察》新手のオレオレサギ

 

先日、久しぶりに出席した自治会の会合で、こんな話を聞いた。

「使われていない電気製品、いらなくなったパソコンなど、無料で引き取ります」住宅街で、よく耳にするアナウンスだ。小型トラックで住宅街の路地を巡回している廃品回収業者である。一人暮らしのお年寄りが、このアナウンスを信じて、声をかけたところ、この業者は、いきなり家の中にずかずか入ってきて、家探しをはじめた。怖いので黙ってみていると、仏壇の引き出しにネックレスを見つけた。業者は取り出して「これは、古くなっていて、価値がさがっている。売るなら今がチャンスだよ」と、まくしたてる。お年寄りは、売る気は毛頭なかったので、なんとか断って帰ってもらった。が、あとで調べると、ネックレスはなくなっていた。玄関に、なぜか1500円おいてあった。盗られたと思い警察に知らせると、

「それは、現物を1500円で売ったことになる」と、取り合ってくれなかった。

別のお年寄りは、口車に乗って売ることにした。業者は、1万円札をだした。おつりがないというと、親切に郵便局に行って下ろしてきてあげるという。通帳と印鑑をわたすと、なぜか40万円おろしてきて、20万円、おつりだと返された。業者は、20万円もって立ち去った。新手の振込詐欺のようだ。世に盗っ人のタネは尽きまじ。

 

《テキスト読み》 → 『或る朝』 『網走まで』

《テキスト感想》 → 『網走まで』提出

 

《テキスト創作》 → 『網走まで』の前後を考える。同席者の女の人の人生。

課題。書けたときに提出。

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世界名作紹介 「精読と多読」アメリカ文学

 

嘉納治五郎の青年訓のなかで読書の秘訣に「精読と多読」があります。いろんな国のいろんな時代の文学を読むことです。

例えばアメリカ文学を代表する青春小説というとサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』をはじめ、『華麗なるギャツビー』などありますが、

 

 

ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年

 

原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房

 

1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。

この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。

 

■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。

作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。

「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など

作品は、次のようなものがある。

【ハヤカワNV文庫】に収録

『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。

 

【新潮文庫】サローヤン短編集

 

『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。

【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』

『美しい白馬の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。

 

★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.339 ―――――――― 4 ―――――――――――――

 

社会観察 5月13日(土)の朝日新聞三面にこんな記事が目についた

 

東京オリンピックを目指して「政府は今国会でカジノ解禁につながる統合型リゾート(IR)実施法案の成立をめざしている。が、依存症への懸念は根強い。」

記事は、ギャンブル依存症 気づけば地獄 カジノの側だけもうかる

 

と題して「いまも依存症を克服できずにいるという大相撲元関脇の貴闘力さん(50)に聞いた」もの。(新聞記事コピー参照)

 

【ギャンブル依存症とは何か】(朝日5/13)

 

推計70万人「疑い」

パチンコや競馬、宝くじなどの賭け事にのめり込み、家庭や仕事に問題が出ているのにやめられない状態。国際的な診断分類で「ギャンブル生涯」とも呼ばれる。患者の受け皿となる専門の医療機関が少ないという現状がある。

厚生労働省は昨年、過去1年間にギャンブル依存症に疑われる人は全国に約70万人、生涯で一度でも依存症になった疑いのある人は訳320万人との推計を発表した。

 

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過去にも特集本が!!

 

ギャンブル依存については、その整合性を過去に何度も問われてきた。いまから12年前、平成18年にも學灯社は、この問題を取り上げ、同年10月20日

 

『破滅と栄光の快楽 ギャンブル』を発行した。書き手は以下の通り

 

【読むギャンブル】

 

・沢木耕太郎「賽の踊り」・阿佐田哲也「ラスヴェガス朝景」・柴田練三郎「わが賭博行」

・青山三郎「上州の賭博」・坂口安吾「今日われ競輪す」・井伏鱒二「競馬」

 

【知のギャンブル】

 

・松田義幸「世界のギャンブル遊びの歴史」・増川宏一「賭博黄金時代―江戸時代末期の賭博」

・松田道弘「イカサマ物語」・下原敏彦「ドストエフスキーとギャンブル」

・吉永良正「パスカル、一生に一度の賭け」・塚田司雄「ハイセイコーが負けた日から…競馬と文学との交差」・寺山修司「賭博カルタ考」・村上幸史「〈ツキ〉の正体を探る」

・廣中直行「ヒトの脳はなぜ賭博を作ったか」

 

○脅迫的ギャンブルとワンデーポートの取り組み ――― 中村努

○2006欧州カジノ紀行 ――― 黒野十一がゆく

 

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観察編・依存 創作 連載1  依存からの脱出の記録 前号の校正2回目

 

あるシンポジュウム会場に置き忘れていたノートに書かれていた記録

 

創作「透明な存在」との闘い

ゼミ通信・編集室

 

この記録は、「下原ゼミ通信」編集室に寄せられたノートに書かれていたものである。誤字、脱字の他、判読不明の文においては、編集室の想像で訂正、解読した。

 

ある元民生委員児童委員の話

 

 私は、2、3年前まで、私が住んでいる市の地区で民生委員児童委員をしていた。主な仕事は75歳以上の後期高齢者の見守りだったが、他に様々な事情で苦しみ悩む人たちの相談にものった。10年間だったが、いろいろな人間模様を目にした。孤独死、認知症介護。生活保護家庭の事情など。どれも解決困難な問題だった。

そのなかで特に悲惨で気の毒に思ったのは、依存症に苦しむ人たちの話だった。依存症といえば、アルコール、ギャンブル、ドラッグといろいろあるが、とくに可哀そうに思えたのは、青春真っ盛りの少女たちが、食べ物の海で溺れもがく様だった。アルコール、ギャンブル、ドラッグは環境によって救う手立てはある。だが、肉体を排し魂だけになりたいと願う彼女たちの執念。これを打ち消すのは、容易ではない。不可能に近いと思った。

神の手でしか救いようがない人たち。凡人の私には、どうしてやることもできなかった。そんなわけでボランティアとはいえ民生委員の職務を定年でやめることができたときは、ほっとしたものだ。でも、ときどき依存症の人たちのニュースをみたりすると心が痛んだ。そうして、どうしたら依存というらあの魔物から脱出できるのか。せんないことだが大いに気になった。魔物にみいられたら身の破滅しかないのか。

ところが先日、我が子を依存症から救い出した父親の体験談を読むことができた。真実かどうかは知らないが、私は、内容から本当のことだと信じたい。

その体験談というのは、忘れ物の大学ノートに書かれていた話で、私が読むことになった経緯は、凡そこのようである。私の後釜になった人が、ある依存の講演会に行ったとき、隣りの席に大判封筒の忘れ物があった。中に大学ノートが入っていた。ぱらぱら見ると、月日が書いてあり、字がびっしり書いてあったという。主催者に渡すと、多忙なので代わりに保管して置いてほしいと頼まれた。持ち主がわかったら、知らせるので送ってほしいということだった。が、それから半年、なんの音沙汰もなかった。その人は他人のものをいつまでも持っているのは、気になるので主催者に連絡したところ、持ち主が現れないので、勝手に処分してくれとのこと。しかし、責任感の強いその人は、処分することができず、私のところに持ってきて

「日記のようなものだが」と、言って置いていった。

私は、趣味で小説を書くこともある。そんなことを話したことがあるので、参考になるだろうと理由をつけての、体のいい処分だった。他人のものを読むのは、覗き見するようで嫌だったが、先日、ふと、何が書いてあるのか、そんな好奇心がわいて読んでしまった。ノートには、幸福で平凡な家庭が、依存という魔物にとり憑かれ悲惨な様子になっていく様子と、その魔物と闘い勝利した話が描かれていた。その闘いを記録したのは、ノートの持ち主である父親のようだった。

 

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忘れ物のノートにあったある父親の記録

 

わが家の事情

 

わが家は、3Kの団地に住む、平凡な一家だ。四十代の夫婦、高校生の息子と娘。四人家族。日本のどこにでも見かける平均的家族構成。ただ、普通の家族と一つだけ違うとすれば、さかさま夫婦ということだ。妻はある医大病院の検査技師で、夫のわたしは勤めていた出版社倒産のあと十数年、ずっと専業主夫をつづけてきた。妻が二人の子どもをつづけて出産したので、わたしは、仕事探しより子育てと家事に追われることになった。男勝りで料理が苦手な妻は、偶然のさかさま夫婦が気にいって、家計が窮したら、そのとき共稼ぎになればいい、それまでこれでいこうと言いだし押し切られた。そんなわけでわたしは、主夫業がすっかり板についてしまっていた。だが、まだまだ男は外、女は家庭の時代。こそこそしながらの主夫業だったが、十年前施行()された男女雇用均等法が、ジワジワと浸透してきていて、わたしも恥ずかしながら専業主夫と名乗れるようになっていた。

子供が幼いころ、わが家には、どうしても妻の正子には仕事をつづけてほしい理由があった。息子の将太は、生まれてすぐ、白血球減少症という病名がつけられた。

担当の女医がいったものだ。

「たとえ風邪でも病気にかかると、死にますよ」

その診断に驚いたわたしは、ちょっとでも微熱があればタクシーで正子がいる大学病院にかけつけた。将太の病名のことを考えると、正子には、どうしても病院で働いていてほしかった。だが、わたしたちの心配をよそに、将太はたいした病気もせずに成長した。少なかった白血球もいつのまにか平均数値になっていた。いま思えば、わたしと正子は、将太の病気の心配で、ノノのことはあまり見てこなかった。

二つ年下の妹ノノは、心配した将太に較べると健康そのものだった。元気に野原を駆けまわる子に。そんな思いでつけた名前だったが、まさにその通りだった。小学生の頃は、暗くなるまで外で遊んで、心配させた。中学校に入ると剣道部に入部した。女子一人だったが臆することはなかった。学校から帰っても、暇さえあれば近くの公園で竹刀を振っていた。

ノノは二年遅れて将太と同じ高校に入学し、剣道部に入った。県立高校で生徒数1200名の普通高校だった。進学校ではあったが、中程度の大学希望者が多かった。

時代の流れで周囲も専業主夫を特別視しなくなった。正子は、さらなる医療資格も収得して仕事に生きがいを感じはじめていた。わたしも掃除、洗濯、買い物、料理に家族の世話に何の抵抗もなかった。ただ一つ主夫業で嫌なことがあった。PTAである。中学までは、子供会からの延長で、ひたすら黙っていれば役員に推される心配はなった。頼まれたとしても然1回のパトロールかバザーの手伝いだった。が、子供が二人とも同じ高校に在籍し、わたしが専業主夫とわかると事情がちがってきた。PTA役員は逃れられなかった。美化委員著を皮切りに副会長、ノノが入学したときは、なんとPTA会長と三年先の創立二十周年記念式典の実行委員長に祭り上げられてしまった。振り返ると怒涛の日々であった。魔物と生死をかけて闘った日々でもあった。あの闘いにわたしは勝った。その証拠にノノもわたしも今現在、こうして元気に生き伸びている。

 

前兆 忍びよる悪魔

 

1995年4月7日(金)ノノ、県立干潟高校に入学式。雨 368名の生徒が入学。わたしはPTA会長として壇上にあがり祝辞を述べた。思えば二年前の将太の入学式の日、わたしは、はじめてPTA役員になった。美化委員長、副会長と、エスカレーター式に昇ってきて、気がつけばPTA会長となっていた。まさか、そんな、驚いても、悔やんでも、後の祭り。

この日、早速に職責を果たさなければならなかった。なんとか乗り切った。

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熊谷元一研究関連

 

熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42)熊谷元一、長野県伊那谷会地村に生まれる。

【絵がすきな子供】

・1923年(大正12)14歳、長野県立飯田中学校に入学。

・1930年(昭和5)21歳、智里東小学校に代用教員として勤務。

【童画家を目指した時代】

・1931年(昭和6)22歳、童画家武井武雄に師事。

・1932年(昭和7)23歳、市田小学校吉田部校へ転勤。投稿童画「ねぎぼうず」が入選。『コドモノクニ』5月号に掲載。

・1933年(昭和8)24歳、『コドモノクニ』で「すもう」発表。2・14赤化事件に連座し、2月20日市田小学校退職。

【カメラに目覚める】

・1934年(昭和9)25歳、童画家武井武雄の依頼により、カメラを借りはじめて「かかし」を撮る。

・1936年(昭和11)27歳、パーレットの単玉を17円で求め毎日村をまわり村人の生活を撮る。

・1938年(昭和13)29歳、朝日新聞社刊『會地村』刊行。

・1939年(昭和14)30歳、拓務省嘱託、満蒙開拓青少年義勇軍撮影。

・1945年(昭和20)36歳、4月東京で空襲にあい満州関係の根が消失。6月拓務省退職、7月応召、熊本で終戦。10月智里東国民学校勤務。5年担任。

【教師・童画家・アマチュアカメラマン 三足のわらじ】

・1949年(昭和24)40歳、会地小学校へ転勤。

・1953年(昭和28)4月1日「一年生」入学 65名 東組担任。

・1953年(昭和28)44歳、岩波写真文庫『一年生』を撮る。

・1955年(昭和30)46歳、『一年生』刊行。第一回毎日写真賞受賞。

・1956年 (昭和31) 47歳 『一年生』4年まで受け持つ。

【写真家・童画家として】

・1966年 (昭和41) 57歳 教員を退職 一家で上京。清瀬に転居。

・1968年 (昭和43) 59歳 絵本『二ほんのかきのき』を出版。

・1971年 (昭和46) 62歳 清瀬市の自然の写真を記録しはじめる。

・1976年 (昭和51) 67歳 清瀬市自然を守る会会長に就任。

・1981年 (昭和56) 72歳 「伊那谷を写して50年展」。

・1986年 (昭和61) 77歳 「教え子たちの歳月」「清瀬の365日」展。

・1988年 (昭和63) 79歳 昼神温泉に「ふるさと童画写真館」開館。

・1990年 (平成2)  81歳 日本写真協会功労賞受賞。

・1994年 (平成6)  84歳 地域文化功労者文部大臣賞受賞。

・1995年 (平成7)  86歳 第二回信毎賞受賞。

・1996年(平成8)  88歳、50歳になった一年生撮影で全国行脚。

・2001年(平成13) 92歳、写真集『五十歳になった一年生』。

・2010年(平成22) 100歳、記念文集『還暦になった一年生』。

・2010年(平成22) 101歳 11月6日、逝去。

 

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2017年 熊谷元一写真賞コンクール20回記念写真展のお知らせ

 

写真家・熊谷元一写真賞コンクールは昨年で早くも20回を数えます。この節目を記念して、今年5月、これまでの入選作品の写真展を開催します。

 

※  選考委員は、新聞社写真部、郷土写真家、プロカメラマン、写真評論家で日芸の飯沢耕太郎先生も、その一人です。

 

月 日 2018年5月29日(火)~6月3日(日)

 

会 場 JCIIフォトサロンクラブ25(東京・半蔵門)

 

○下原が在館中、予定 (5/31、6/1 10時00分~6時)

5/29日(火) 13:00 ~ 18:00

5/30日(水) 10:00 ~ 18:00

○5/31日(木) 10:00 ~ 18:00

○6/ 1日(金)  10:00 ~ 18:00

6/2日(土) 10:00 ~ 17:00

 

応募要項 2018年 第21回熊谷元一写真賞コンクール

 

写真の好きな人、南信州の星降る村「阿智村」を撮りたい人は挑戦してみてください。

 

【第21回写真賞コンクールについて】

 

テーマ 「はたらく」第一回「働く」の初心に帰ってのお題です。

 

締切 2018年9月末日

最終審査 10月12日(金)

 

ドストエフスキー情報

 

ドストエフスキー全作品を読む読書会

 

6月9日(土)PM2:00~4:45

池袋・東京芸術劇場小会議室7

作品『未成年』 報告者:國枝幹生さん

 

懇親会PM5:00~ 「だんまや水産」

連絡090-2764-6052 下原

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