文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.87

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)10月15日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.87
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007後期10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10  1/21 1/28 
  
2007年、読書と創作の旅
10・15下原ゼミ
10月 15日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」)
   ・ゼミ雑誌について 原稿集めと今後の予定
      
 2.「車中観察」(『正義派』)
 3.名作紹介・家庭観察作品(『にんじん』他戦争観察もの)
 4.紙芝居稽古
  
 
最近のニュースから
 マスメディアにとって今年は、大相撲と政治は当たり年のようだ。特に大相撲は、ニュースは寝て待て、といわんばかりだ。朝青龍の横綱品格騒ぎがようやく治まってきたと思ったら、こんどは相撲部屋でのしごき殺人疑惑である。これまで報道されたことをまとめると、事件の推移は、凡そこのようである。今年4月に入門した17歳の少年が、6月に3度目の脱走を図り、相撲言葉で言う「かわいがり」の結果、外傷性ショックで亡くなった。「かわいがり」とは、どんなものか。今日までにわかっているのは、親方にビール瓶で額を殴られたあと親方の支持で、兄弟子たちが金属バットでたたいた。そのあと、通常10分のぶつかり稽古を30分つづけた。少年が倒れてから20分程様子をみてから救急車が呼ばれた。が、病院で死亡を確認。医師は急性心不全と診断した。(これまでも、死亡した力士の死亡原因は、この診断名が多いという)。この事件が明るみにでたのは、部屋で火葬にしたいという親方の申し出に疑問を感じた両親が、遺体を故郷の新潟に搬送してもらったことにある。遺体には、体じゅうに傷があった。両親は、異変を感じ死体解剖してもらった。ここでの診断は、体じゅうの傷が原因でのショック死だった。先の朝青龍の品格問題は、(仮病届けして、母国で子供たちと楽しそうにサッカーボールを追う横綱。怒りを顕にした相撲協会や横綱審議委員会の人たちに)苦笑できるが、ショック死となれば深刻な事態である。もっとも、相撲世界にとっては、それほどたいしたことではないようだ。応対の鈍さが証明している。「しごき」は、かつて戦前は日本軍部、戦後は大学運動部の暗部だった。N大ワンダーホーゲル部のシゴキ殺人、T大空手部の退部稽古殺人を思い出す。それにしても、一つの謎がある。こんな時代錯誤の封建的世界において外国人力士の台頭はなぜか?!


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.87 ―――――――― 2 ――――――――――――――
 車窓雑記
10・6テレビ番組に「1968年」を思う
 秋の夜長に合わせたわけではないが、このところ毎週、土曜日は何かあって帰宅が遅くなっていた。が、6日の土曜日の夜は何もなかった。新聞のテレビ番組を見るとちょう20時からBS2で「日めくりタイムトラァベル」という番組があった。3時間の特集番組である。内容は、「昭和43年大解剖 熱い闘い・日大全共闘 つげ義春・ねじ式 帰ってきたヨッパライ サイケブームの裏舞台」とあった。
 昭和43年といえば、いまから40年前になる。10年一昔なら四昔も前である。大昔も大昔、2007年青春を謳歌する学生からみれば明治、大正にあたる近代史といったところかも知れない。が、あの時代に青春を送ったものにとって、(私もその一人であるが)あの年は、忘れられない年であった。そして、それは我が日本大学にとっても忘れ難い歳月であった。地に散って泥まみれになっていた桜花。屈辱的な学生受難の時代ではあった。が、それはまたほろ苦くも懐かしい時代でもあった。目を閉じれば鮮明に蘇える黄金時代だった。
 ちなみに、この時代に流行った言葉は、「失神」「ピーコック革命」「ハレンチ」「ローレル指数」「ブルーライト・ヨコハマ」「ノンポリ学生」「ドル建て旅行小切手」「昭和元禄」「サイケデリック」「五月病」「クラッシックパンツ」(『現代用語の基礎知識』)おそらく、このなかに現代でも、使われている言葉があるかと思います。
 番組は、つんくの司会で、この年を1月から順に、その月々に起きた現象や出来事を紹介し検証した。芸能から社会と幅広かったが、主体は日大闘争だった。(テレビにおいて日大が、これほど脚光を浴びたことはない)コメンティターとして、この年に生まれた有名日大出身者(小結舞ノ海、女子アナら3人)が、日大闘争の証言者として、930の会員多数が、質問者として現役日大生が出演していた。日大闘争の検証は、やはり43年生まれだという文芸学科出身の大鶴義丹氏がリポートした。総じてドキュメント風に、日時を追って日大闘争が紹介されていた。詳しくない人、知らない人、日大だけの問題と捉えていた人など、誰にでもわかりやすく感動的に作られていた。リポートは、はじめ、60年安保の全学連と68年の全共闘の違いの説明だった。前者は、あくまでも日米安保をめぐって、後者は、学園自治から世界革命までと幅広い。世界規模ではじまった学生運動の予兆は、この春、既にフランスにあった。そして、静かに日本のキャンパスに飛び火し燃え広がろうとしていた。
 が、日大においては、これらの学生運動と無縁であった。日本の大学生の1割を占める10万日大生だったが、そのほとんどはノンポリ学生といっても過言ではなかった。マンモス化ゆえに世間の目も冷ややかだった。全員が出席すれば、教室にも入れない校舎事情。応援団や体育会系が幅をきかす学園体質。それでも学生たちは、羊の群れのように従順だった。しかし、この年のはじめに発覚した34億円の使途不明金事件は、眠れる学生たちの目を覚ました。「日大闘争が起きるまでは、地方からでてきたばかりで、孤独でした」最初に大鶴氏のインタビューに日大闘争OBは、当時の学生生活をそう答えていた。自分たちの学費が何に使われたのかわからない。だが、まだ日大生は立ち上がらなかった。(学科単位で、この問題が議論されるようにはなっていたが)。一般の日大生に怒りの火をつけたのは、右翼学生の集会破りだった。映像で、一階広場で集会を開く一般学生たちの上に、三階四階の窓から椅子や机を投げ下ろす体育会系の学生の姿が映し出されていた。あんな物を投げ下ろせば、運悪く当たった人は、ケガをする。直接当たれば必ず死ぬ。(後日、皮肉なことに反対になってしまったが)日大生の怒りは怒涛のように学校を襲った。9月30日学校側は、大学改革の確約書をとりかわした。だが、それは翌日には政府の権力によって覆った。闘争に加わったOBたちは、「いま、学生だったら、また闘争しますか」の問いに、「する」と答えた人が多かったが、なかには、学生生活を楽しみたいという人もいた。現役の日大生たちは、「いまは学部が違うと他の大学のような気がする。一つの運動でまとまった、あの頃が羨ましい」と答えていた。いろんな見方がある。1968年には人それぞれの思いがある。筆者の私にとっては1968年は、面白い年だった。     (土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
10・15ゼミ
1.「2007年、読書と創作の旅」
・ゼミ雑誌作成確認 ゼミ誌編集委員から → 締切日など(10月15日)
           2.車中観察・テキスト
テキスト『正義派』:前期の『出来事』は人身事故未遂をめぐって車内の乗客の様子でしたが、この作品は、人身事故を目撃した車外の人たちを観察したもの。『出来事』は、作者の体験。『正義派』は、人から聞いた話を作品にした。
             怪しい乗客             下原敏彦
 二○○七年の夏は、とにかく暑い夏であった。猛暑記録が、何度も更新された。そんなわけで電車に乗っても注意力散漫で、ぼんやり乗り過ごすことが多かった。そんな夏休みではあったが、八月末のある夜、特急の車中でこんな出来事を目撃した。
 それは土曜日の蒸し暑い夜だった。私は、松本発、千葉行の特急「あずさ」に乗車していた。旅から千葉の自宅にかえるところだった。時間は、夜八時を過ぎていた。「あずさ」は、三時間の長旅を終え新宿に到着した。乗客の大半が下車した。ほとんどが信州の旅を楽しんだ旅行客だった。皆、久しぶりの都会の暑さにうんざり顔で、降りていった。空いた車内に、特急券を支払って千葉まで行く乗客が乗ってきた。私の前の座席には、台湾人の旅行者らしき母娘が乗っていたが、錦糸町で彼女らが降りると、その座席に年の頃、四十歳前後の男が座った。ネクタイはしていないが、白いワイシャツに黒っぽい背広姿で、一見、サラリーマン風であった。錦糸町から、特急に乗車することに疑問はなかった。たぶん、急いでいるか、座って帰りたかったのだろう。何事もなかったなら、まったく記憶にも残らない乗客だった。暫くして、白い制服を着た五十前後の車掌が切符をきりにきた。いつも感心するが、どこで見ているのか新しい乗客があると、必ずやって来る。
「おそれいります」
車掌は、前の座席の男に一礼して声をかけた。
 窓際に座っていた男は、はじめて気がついたように振り向いた。
「特急券、拝見します」
「ああそうか、特急券ね」男は、つぶやきながらきいた。「いくら?」
「五百円です」
「あ、そう」
男は、頷いて胸ポケットから財布をだした。なんでもないいつもの改札光景。私は、時計に目をやった。次が降りる駅だったので支度をはじめた。(次号)
3.家族観察・名作読み
ジュール・ルナール(1864-1910)『にんじん』を読む。今年も、家族事件が続発しました。事件が起きるたびに、決まって近所や知人は、「まさか、あの家族が」「幸福そうにみえました」「普通の家族です」などと証言している。他者の目から、どんなに幸せに見えても真実はなかなかわからないものです。かつて、日本一幸せの家族と報じられていた大相撲の若貴家族がその見本のようなものです。『にんじん』の家族も傍目には幸せな普通の家族です。一人告発する『にんじん』ですが・・・・・はたして、この家庭は普通なのか、異常なのか。
  4.「少年王者」紙芝居稽古
 時間あれば、この前のつづきから稽古。「少年王者」は、60年前、子供にも大人にも人気のあったベストセラー作品です。紙芝居の形にしましたが、物語の面白さは・・・・・。
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2007年、読書と創作の旅・旅記録
10・1ゼミ報告
 10月1日(月)、は4名の出席でした。(敬称略・順不同)
参加者 : 疋田祥子 髙橋享平 茂木愛由未 山根裕作
 長くて、暑かった夏休み明けの最初の授業。無事な顔を見るのは、はたして何人と心配でしたが、金野君がなかなか来ず。このあいだのように災難にあったのでは・・・・と、少し待ってみましたが、もしかしてまだ北海道に帰省中かも、そんな想像から、後期の旅に出立することにしました。韋駄天の彼のこと、すぐに追いつくでしょう。
(初日なので司会進行役はたてませんでした。10・15から指名)
1.ゼミ合宿テキストについて → 手紙文学について話し合う。
  ・携帯小説とは似て非なるもの。  ・メールで書くと簡略化されてしまう。
  ・手紙は、あまり書かない。
  ・よく知られている手紙小説をあげると
   ゲーテの『若きウェルテルの悩み』 ウェブスターの『あしながおじさん』など
   推薦したい書簡小説 → バルザック(1799-1850)の『谷間の百合』
 この長い書簡小説は、1835年頃書かれた。作者の自伝的作品といわれている。物語はパリ社交界の貴公子フェリックス伯爵が同じく社交界の華ナタリィ伯爵夫人に書いた手紙。
 この長い手紙には、自分が青春時代を送ったトゥレーヌの谷間で恋した女性のことが書きつづられている。谷間に咲く一輪の百合。気難しい病気の夫に献身的に使えながら二人の子供を育てるモルソォフ夫人ことアンリェット。彼女が、女性として人間として、いかにすばらしい人物であったか。フェリックスは、いま恋する女に切々と書き綴る。
 読書の秋です。ぜひ挑戦してみてください。世に恋愛小説数あれど、この果たせぬ愛の真実に世界中が泣いた。プラトニックラブ最高峰、不朽の名作です。
 出だしが、あまりにも名文なので紹介します。(河内 清訳『谷間の百合』角川書店から)
ナタリィ・ド・マネルヴィ伯爵夫人に
 たってのお望みとあればやむをえません。愛するよりもずっと多く愛されている女性の特権は何事につけても良識の掟を忘れさせてしまうことです。わたしたち男性は、あなたがたが額に皺をお寄せになったり、ほんのわずかな拒絶にあっても気持をそこねて、お唇をふくらしたりなさるのを防ぐために、不思議なほど幾山河でも越えますし、血もささげれば、未来も捨ててかえりみません。今日あなたはわたしの過去を知りたいとおっしゃいました。ここにそれを送ります。・・・・・・ではまた今晩。        フェリックス
2.それぞれの夏休み 猛暑の夏をどのように・・・・
・疋田祥子 オーストラリア・シドニーを自転車で3000キロ走った。道路にたくさんの
 カンガルーが車との衝突事故で死んでいたのには驚いた。ヘビやその他の動物の遺骸も多
 数見た。それらは片付けられることもなく放擲されるままになっていた。今年の夏も、冒
 険旅行でした。
 授業終了後、オーストラリアのお土産を皆で食べる。大きなチョコレート、カンガルーの
 干し肉など。ご馳走様でした。
・茂木愛由未 千葉の館山など三つの合宿に行った。後半は、軽井沢のジブリでバイト。
・髙橋享平 合宿参加、旅行、稲刈りでした。(昔、農家で田があった)
・山根裕作  鳥取の合宿で普通自動車の運転免許を修得。宿泊施設の金網にヤモリがい
 た。食事は不味かった。が、免許証はもらえた。
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2007年、読書と創作の旅・後期
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  髙橋享平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 10月1日(月)までの進行状況は 
  済み【①ゼミ誌発行申請書】を提出した。提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。
  題名=仮題「世界の車窓から」、内容=車内観察、サイズ=A4版、
  印刷会社=コーシン出版に内定
4. 7月中旬、夏休み前、原稿内容を決める。一人二作(車内1とフリー1、写真可)
5. 10月15日 編集委員、ゼミ員から原稿を集める。20~30枚 締切厳守。
ゼミ誌原稿締切り10月15日(月)まで
6. 10月中旬 ゼミ誌編集委員は印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出しても
  らう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌発行期限は、12月14日です。
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土壌館情報・ 土壌館の試合結果紹介
速報!第6回千葉県少年柔道大会結果 
 9月9日(日)千葉市武道館で開催された第6回千葉県少年柔道大会に出場した土壌館下原道場の団体、個人戦の試合結果は、以下の通りです。応援の保護者の皆様には酷暑のなかご苦労様でした。選手は、試合において、日頃の練習の大切さがわかったと思います。次の試合を目標にいっそうの稽古に励んでください。監督・下原良太 審判・辻村英紀
団体戦
    土壌館下原道場   VS   成東少年柔道クラブ
先鋒 : 中澤紀和選手(1)  ―    ○今井龍弥選手(1)
次鋒 : 坂本遼季選手(2)  ―    ○関口大雄選手(3)
中堅 : 辻元翔太選手(3)  ―    ○植竹泰斗選手(4)
副将 : 小柏駿太選手(5)  ―    ○唐笠裕来選手(5)
大将 : 山口雅之選手(6)  ―    ○小池佑樹選手(6)
※体格差、学年差のなかよく戦いました。山口選手は、ねばりで大将の意地をみせました。
個人戦
1学年 : 中澤紀和選手 1回戦 微妙な判定でした。よく頑張りました。
2学年 : 坂本遼季選手 1回戦 大外のほかにも技があったら…。
3学年 : 辻元翔太選手 1回戦 頑張りました。積極的な技が。
5学年 : 柳下 誠選手 1回戦 頑張りました。一つの技を磨きましょう。
5学年 : 小柏駿太選手 3回戦 3回戦惜敗。足技のほかに技があれば。    
6学年 : 中澤大和選手 1回戦 思い切った技が必要。優勢でしたが惜敗。
6学年 : 山口雅之選手 2回戦 よく頑張りました。
講評 試合前後の礼は、だいたいできていたと思います。試合は足技ばかりでした。打ち込みで腰を使った大技をしっかり練習しましょう。 (土壌館・下原)
速報・第36回千葉県道場大会結果
 
 9月30日(日)船橋市武道センターで行われた第36回千葉県道場大会の結果です。選
手は、各クラス2名の出場です。土壌館からは、6名の選手が出場しました。
監督・下原良太 審判・辻村英紀
小学生の部
【1~2年の部】  中澤紀和選手 1回戦 押え込み 頑張りました   
         坂本遼季選手 1回戦 合わせ  頑張りました
【3年生の部】  辻元翔太選手 2回戦 押え込み 健闘しました 
【5年生の部】  小柏駿太選手 1回戦 合わせ  頑張りました    
         柳下 誠選手 1回戦 押え込み 頑張りました            
【6年生の部】  中澤大和選手 1回戦 押え込み 頑張りました
講 評
  全体的に、皆、攻めの柔道ができたと思います。判定にもちこめたら、勝てた試合がいくつかありました。押え込みで負けた試合が多くありました。次の大会は近いです。練習では、押え込まれる前に、どうしたら逃げることができるか。工夫しながら稽古してください。立ち技は「まず崩し、技は正確 より速く」を実践する。   (土壌館・下原)
                               
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復刻版
岩波書店は、この9月27日、1955年に刊行した写真集を復刊しました。
1953年、長野県下伊那郡会地村小学校の1年生を一年間撮り続けた写真集です。
岩波写真文庫 定価700+税
『一年生』-ある小学教師の記録ー
戦後が始まった時代の空気  赤瀬川原平(作家・美術家)
熊谷元一と教え子たちの物語 白山真理(写真師史研究)
 教育国として知られる信州。一年生になった子供たちはやさしい先生に迎えられ、次第に学校に、社会生活になれてゆく。その先生は子供たちを丹念にカメラに収めていた。子供たちは少しもカメラにこだわっていない。先生は自然の姿を見事にとらえたのだ。これは世界にも類例のない美しい材料を、愛情と記述で生かした記録である。
(「図書」1955年3月号より)ちなみに、被写体の一年生は私のクラスでした。
写真集『一年生』モデル長編小説
第8回椋鳩十記念 特別賞受賞作品 2001・11
『山脈はるかに』作・しもはらとしひこ
審査委員長評
 長編「山脈はるかに」は最初から注目された作品。早春の伊那谷を旅しての帰路、新宿行き高速バスの中で、元小学校教師だったという初老の婦人から聞いた話という設定。新米教師の悪戦苦闘ぶりを、日本歌謡などをまじえて情緒的に描いた力作だが、モデルが身近すぎて作品の中に素直に溶けこめないという評もあって、特別賞とした
あらすじ
 昭和28年3月はじめ昼近く。信州伊那谷飯田城下にある名門風越女学校は、卒業式が終わったばかりだった。まだ春は名のみ。寒風が吹く校庭で3人の仲良しコンビが別れを惜しんでいた。学校では才媛三羽烏といわれた3人だったが、卒業後はままならなかった。主人公の谷蕗子は、東京の音楽大学を失敗。女優になりたかった西沢妙子は、呉服屋の自宅で花嫁修業、文学少女の下坂美佐子は、家で養蚕の手伝い。三人三様ぱっとしない前途であった。銀嶺の赤石山脈に向かって3人は、泣きながら「早春賦」を歌う。
 4月はじめ、桜が咲き始めた頃、家で浪人生活を送る蕗子に吉報。飯田の奥の山村の小学校で代用教員を探している。蕗子、音楽家への道をあきらめ戦死した父と同じ道を選ぶ。赴任した桑谷村小学校で蕗子は、いきなり西組30人の子供を受け持つことに。が、18歳の蕗子には荷が重かった。東組はベテランの男先生だった。カメラが好きでいつも手にしていた。悪ガキたちに手を焼くと東組に助けを求めた。男先生は、すぐに来てくれたが、決して叱らなかった。ニコニコしてカメラを向けるばかりだ。ときには腹のたつこともあったが、子供たちに慕われる男先生から、教育を学ぼうとした。だが、悪がきたちとの闘いに疲れ果て、二年後、蕗子は学校を去った。教師失格の屈辱感を抱いて。消し去りたい忘れたい二年間だった。7年の歳月が過ぎた。飯田市内の小学校に勤める蕗子は、早番で早朝登校した。校門の横で待っていたのは・・・。飯田駅に駆けつけると、東京に集団就職するかつての悪ガキたちの姿が。ホームに「早春賦」が静かに流れていた。向こう空に赤石の銀嶺が輝いていた。
写真集『五十歳になった一年生』熊谷元一&下原敏彦・28会編纂
 この写真集には、一年生の写真と、彼らが五十歳になったときの写真と近況が掲載されている。21世紀に伝えたい学校教育がここにある!!
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2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇創作・習作
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室
■主な登場人物
 西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督   中島教一郎・・・・大和大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員     柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師 沢田 浩・・・・・ヒロシ。カメラマン
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
第一章〈赤い悪魔〉 一「はじまり」、二「ヤマ族の選択」、三「一枚の写真」、
第二章〈過去からの訪問者〉一「商社マン」、二「隊員たち」、三「再び密林へ」 
第三章〈クメール共和国〉一「滅びの都」、二「日本橋に死す」、三「帰らざる河」
あらすじ(第一~三章の二まで)
 1970年3月インドシナのカンボジアで政変が起きた。同時にゲリラ活動が活発化しはじめた。赤い悪魔と呼ばれるゲリラ、クメール・ルージュは少数民族の若者をゲリラに徴集しはじめた。拒否すれば部族皆殺しだった。ヤマ族は、徴集にきた悪魔の兵士を殺害し、雨季の鉄砲水を利用して悪魔の兵たちを山から追い払った。が、雨季が明ければ悪魔たちは復讐に燃えて襲ってくる。ヤマ族の生き延びる道は、隣国タイの国境越えしかなかった。だが、国境までの80余㌔は、インドシナ最大の密林カルダモンが大海のように広がっていた。これまで多くの遺跡盗掘者をのみ込み、ゲリラさえ恐れる魔の密林。10年前、この密林の大海を渡ってきたのは5名の日本人学生探検隊だった。彼らは帰るとき約束した。「困ったことがあったら、知らせてください。必ず助けにきます」そう誓ってサムライの約束キンチョウを打ち鳴らした。いまが約束を果たしてもらうとき。彼らに密林ガイドを頼むしかない。プノンペン大学の学生ソクヘンは、一族の命運を担って東京に飛んだ。そして、かっての探検隊5名とフリーカメラマンの若者1人をともなって新生クメール共和国に入った。新生クメール共和国は、3ヶ月前クーデーターが起き、表面上は独裁社会主義国から民主国家になったばかりの国だった。鎖国を強いていた独裁元首シフヌーク殿下は、追放され軍部が掌握していた。が、ゲリラ活動は激しさを増していた。新政権樹立と同時に、米軍の爆撃もはじまった。そのことを、日本の青年たちは知る由もなかった。
 激しい雨の中、探検隊の一行は原生林の中にあるポーチェントム飛行場に降り立った。彼らがそこで目にしたのは兵士と溢れんばかりの避難民だった。彼らは、迎えにきた広東人リー・センの車二台に分乗して首都プノンペンに向かった。真っ黒な雲が空一面を覆い、時折地を索うな巨大な稲妻が走る。探検隊は不吉な予感。やがてはるか向こうに蜃気楼のように都がみえてきた。西欧を思わせる街並み。フランスが長く支配したプノンペンだった。戒厳令下の都で、彼らは、ようやく厳しい現状を知る。そして、日本橋の上でにわかにはじまった政府軍とゲリラの銃撃戦。爆破され崩れる日本橋。メコンの濁流にのみ込まれていく橋桁
や欄干。その中に、隊員の一人、母校大和大学助教授の中島教一郎の姿も。哀しみの中で、一瞬迷った。約束はどうする。が、迫りくる政府軍と一斉射撃。彼らは、リー・センが用意してくれていた小船に飛び乗った。銃弾が雨霰と降り注ぐなか脱出する。
三 帰らざる河
六人は、もはや引き返せない旅にでた。漆黒の闇のなかを舟は、進んで行った。聞こえるのは激しく打ちつけるトンレサップ湖の濁流と、スズキのエンジン音だけである。六人の胸中には様々なおもいがあった。隊長の西崎泰造には、まだ迷いがあった。中島助教授のことを日本大使館に届けてきた方がよかったのでは。いや、脱出は正解だった。政府軍の一斉射
撃のなか、引き返すのは危険すぎた。彼らは、日本橋を爆破したゲリラの一味と思って攻
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撃してきたのだ。あの場合、逃げるより他なかったのだ。西崎は、何度も自問自答したが答えは得られなかった。いまも、これからどうするか迷っていた。なにかとてつもない不安をひしひしと感じて、落ち着かなかった。高木は、昨夜、橋の上で、倒れた兵士が投げ出した拳銃を、手にとっていた。M26新式だった。多分、アメリカ軍からのものだろう。ピストルは米国にいたとき、ときどき試射していたので、慣れていた。緊迫状況が性にあっているのか、ジャンボ機購入をめぐりテキサス社と国会議員、大物右翼の仲介に奔走していたことが、三日前なのに、遠い昔のことのように思えた。副長の中島教一郎の死も、まだ銃撃戦の興奮が冷めやらず実感できなかった。実感は、手の中にあるM26だけ。高木は、玩具を手にした子供のように何度も闇に向けて構えた。
「ぶっそうなもの拾ってきたな。気をつけてくれ」
柳沢医師は、神経質そうに言った。自分の意志に反して成り行きで、きてしまったことに、いらついていた。彼とすれば、ヤマ族にいるという我が子にはあまり会いたくない、が本音だった。もし、一緒に日本についていきたいと言い出したら、と、その心配ばかりがさきに立った。爆破にまきこまれた中島副長には、同情するが、あの瞬間、これで中止になる。と、内心、喜んだのも事実だ。医師になったばかりで、大学病院の緊急はきつかったが、それ以上のものをこの職業から謳歌していた。気にいった女性が、ほとんどものになる。そのことが面白くて仕方なかった。病院一の肉体美を自慢する美奈子にもそろそろあきてきたところだ。そんなところに大学時代の仲間からの誘い。ハワイかラスベガスならともかく、またあの密林へ、冗談じゃない。まったくその気はなかったが、十日間、日本から行方を隠すのも悪くない、と思った。乱れた女性関係を冷ますいい機会と思った。彼としては、目先を変えるチャンス、渡りに舟でもあったのだ。帰りは、堅物のこの連中と別れて、バンコックや日本人男性の天国というチェンマイで遊んでいくつもりだった。はるばるプノンペンに来たのに腰のくびれたカンボジアの女性を抱きたかった。それが爆破と銃撃騒ぎのどさくさで舟に乗ることになってしまった。政府軍も、すぐ日本人だと気がついてくれたかも。そう思うと悔いが残った。
 一ノ瀬幸基は、仰向けになって、真っ暗な夜空を仰いでいた。この国にきてから、というより日本を飛び立ってから、かれの表情はなぜか晴れ晴れしていた。それがなにからきているのか、彼は黙して語らずであった。理工系の人間は、自分の感情を現さない。彼は、まさにそんな理工人間の見本のような人物だった。話はいつも理論的で、およそ会話というものができなかった。常に冷静で酒を飲んでも崩れず赤くもならなかった。
「よく、おまえ結婚したよな。ちゃんとあっちの方はやってるんだろ。おれ、やっと安心したよ。おまえも人間とわかって」
と、柳沢にからかわれたときも一ノ瀬は平然と
「生物の生理学にのっとったまでだ」と、言ったものだ。「それよりだれかれの見境がないおまえの方が不思議だ、動物は本来、お前のような行動はせん」
 これには、皆も爆笑した。が、一ノ瀬はいたって真剣だった。弓道愛好会で知り合った美人の小学校教諭からほれられて結婚したという話だった。その冷静沈着の彼が唯一、熱く入れ込んでいるものが中島敦の「名人伝」という短編の小説だ。中国の紀昌という男が弓の極意を知ろうと修行し、その境地に到達したとき、弓という名も、その使い道もすっかり忘れ去っていた。という物語だ。高校の数学教師になったのも、弓に打ち込めるという理由から
だった。その弓道熱が結婚の縁をもち、また皮肉にもその弓道熱が夫婦の絆を絶とうとして
いる。弓にしか興味をもてない彼。はじめのうちは、それが新鮮に見えた。男らしく感じられた。が、一緒に生活するにつれ、それは偏屈、変人に変っていった。弓は趣味だと思っていたらすべてだったのだ。妻は不倫するようになった。
 一ノ瀬は、記昌が機織台の下ではじめて弓の修行をしたときのように、寝転んだまま、かっと目を見開いて漆黒の夜空を眺め続けていた。一瞬の星の瞬きを見逃さないというかのように。彼の心には、もう妻への怒りはなかった。ここにいることの喜びがふつふつと湧きあ
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がってくるのを感じていた。
 ヒロシは、手探りでフイルムを計算していた。ヒロシにすれば、すべてが予想外、それも自分にとつて幸運な予想外であった。もしかしたら自分は、これで名をあげることができるかも。そんな予感さえ抱いていた。プノンペンの日本橋での銃撃戦、橋の爆破と崩落、あまりにも非現実的な出来事。だが、夢ではない。全てが事実なのだ。中島教一郎が死んだのも、映画の一シーンのように蘇る。が、あれらはすべて真実。自分は、いままぎれもなく戦場にいるのだ。その喜びが、悲しみも恐怖も、遠くに押しやっていた。政治家の飛行機疑惑を張り込んでいたときにはなかった興奮があった。思いがけないチャンスだった。が、あの混乱のなかで実際にシャッターを押せたのは二十枚に過ぎなかった。これから先、またあんなチャンスがあるかも知れない。それを思うと大いに胸が高まった。仰ぎ見ると、雲が切れたのか、はるかとおくに星がぼんやりとまたたいている。ピューリッア賞の星だ。夢じゃないぞ。ヒロシは、うきうきした気持ちになって口笛を吹きたくなった。
「声だしても、かまわない。口笛ふいても」ソクヘンに聞いた。
「いいですか、口笛吹いて」
ソクヘンは、舵棒を握っている青年に聞いた。
「バン」青年は闇の中で答えて広東語で言った。「岸、遠い大丈夫」
「OK、OK」ソクヘンは頷いて言った。「だいじょうぶ」
ヒロシは、口笛をふきはじめた。日本のグループバンドの流行歌だった。
いつでも会うたびに 
 いきなりソクヘンがたどたどしい日本語で口ずさみはじめた。
きみのひとみを
「あれ、よく知ってね。この歌」
ヒロシは口笛をやめて聞いた。
「知ってますよ。『バラの恋人』はプノンペンで流行ってます。スキヤキソングと星影のワルツ、それとこの歌、大人気です」
言って、ソクヘンは、こんどはクマイ語で歌いはじめた。
ヒロシは、舟板を軽くたたきながらグループバンドになりきって歌声をあわせた。ク
マイ語と日本語の歌声、奇妙な組み合わせだったが、トンレサップ湖とメコンの小波が、リズムよく舟の横腹を打った。西崎隊長も、一ノ瀬も、高木も、柳沢医師も、黙って二人の若者の歌声に耳を傾けていた。思えば、彼らにとって、このときが、この旅でもっとも楽しかったひと時だったかも知れない。深夜過ぎて雨はふたたび激しく降り出した。とたんに流れが激しくなった。降る時間は短くても、その量は半端じゃない、トンレサップの水量は、一気に一メートル二メートルもあがった。湖は、まるで荒れ海のようだった。小舟は、高波の間を木の葉のように揺れながらも、エンジンを全開にして進んでいった。雨脚が弱くなると、もやがでてきた。船頭の青年は、エンジン音を静かにして、しきりと左方向を気にしていた。が、小さな声でほっとしたように
「天が助けてくれます」と、言った。「岸が近いんです」
岸が近いと河岸から政府軍やクメール・ルージュに狙い撃ちされることがあるというのだ。この霧の幕が助けてくれている。大河の中ほどにきたせいか流れが、ゆるやかに
なった。雨は、すっかりやんでまた深い靄が包んだ。あたりは物音一つしなかつた。皆、緊張した面持ちで乗っていた。突然、ものすごい悪臭が鼻をついた。舟腹に何かが連続してゴツン、ゴツンとあたった。
「なんだ、なんだ」
「これは!生ものが腐ったにおいだ」柳沢医師が騒ぎだした。「大きいぞ」
船頭は、船先を左舷にまわして流れてくるものを避けた。
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「なんのにおいだ」皆は、首をだして河面を見た。人間の死体だった。いく体もいく体も流れてくる。後ろ手に縛られている遺体が多かった。皆、声をなくして見つめるばかりだった。ヒロシは、シャッターを押しつづけた。日本にいたら、仰天して写真を撮るどころではなかったに違いない。が、昨晩、日本橋の撃ちあいで弾の下をくぐりぬけてから、すっかり戦場カメラマンになったような気がしていた。恐怖や驚きより野心が勝っていた。これで、もしかしたら自分は、有名になれるかも知れない。シャッターを押すたびにそんな思いがこみあげ胸が高ぶった。流れてくる死体は、ひきをきらなかった。女も子供も老人も。数珠繋ぎになった死体もあった。
「だれが、こんなひどいことを・・・」
「死体はだれ・・・」
「みんなベトナム人さ。クメールクロムの兵隊の仕業だ」
船頭は、さして驚いたふうもなく言った。カンボジア語だから、むろん六人にはわからない。が、その表情に怒りも哀しみもなかった。
「死体はベトナム人で殺したのは、クメールクロムの兵隊だと言ってます」ソクヘンが言った。「クメール・クロムはベトナム人を憎んでいるんです」
「クメール・クロム?」西崎は、聞いた。
「南ベトナムからきたクメール人の兵隊のことをそう呼ぶのです」
「南ベトナムからきた?」
「はい」ソクヘンは、船頭に聞いてから説明した。「メコンデルタに住むカンボジア人で南ベトナムの兵隊だと言ってます。アメリカ軍が訓練して連れてきたって」
「アメリカ軍が!なぜ・・・」
「たぶん新政府の軍人だけじゃあ頼りにならんからでしょう」
高木は、頷いた。
「そうかあ、でもなぜ、彼らが」
「差別されてたからその仕返しでしよう」ソクヘンは、言い捨てた。
「差別されてた!?」
「クメールクロムはベトナムでは差別されてたから。ベトナム人が憎いんです」
「へえ、そんなもんか」
「しかし、それだけでこんなに殺すのか、女や子供まで。赤ん坊までだぜ、狂ってるよ」
「クメールクロムたちだけの仕業じゃないですよ。これは」
「えつ、ほかにもこんな残酷なことをする連中がいるのか?!」
「それは・・・」ソクヘンは、思わず口をすべらせてしまったことに返事につまった。
「こんなことをする連中が、他にもいるということ」
「この国は、ひとつじゃないんです」
ソクヘンは、そう言って押し黙った。猛烈な死臭を放って流れていく死体の集団は、皆の気持ちを重くさせた。雨が再び激しくなった。大粒の雨粒が小石のように頭や背中を打ちつけた。それがいっそう不吉な予感を大きくさせた。
 なんなんだ、この国は・・・疑問はあったが、誰も口に出すのが恐ろしかった。闇と靄の中を舟は雨に打たれながらゆっくりのぼりつづけた。
「この人たちは、知ってるのか、赤い悪魔のことを」船頭がソクヘンにささやいた。
「いえ、話してません」
「話してない!?」彼は驚いてから声をひそめて言った。「そうだな、知らんほうがいいかも」「そうですね」ソクヘンは頷いた。
 辺りが白々と明けてきた。舟は支流に入っていた。川幅がどんどん狭くなって、いまや両側の密林の木々が川の上で互いにからみあいアーケイドを作っていた。舟は、もうこれ以上進めなくなった。「ここからは、陸で行ってもらいます」船頭は言った。
次回は、第四章 一、赤い悪魔の恐怖  二、密林ガイド 三、追う者と追われる者 
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掲示板
課題原稿提出に関して
 後期も、引き続き下記の提出原稿があります。
□ 車中観察(車外も可) □ 一日を記憶する
□ 読書感想、社会コラム、ルポ
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年12月15日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 北岡 淳氏 報告「ドストエフスキーと私」
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年11月24日土曜日
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 渡邊好明氏
題 目 :  未定          関心ある人は下原まで
新刊紹介
三修社 賢治文学
山下聖美著『「呪い」の構造』2007.8
 宮沢賢治生誕111年。今、伝説のベールが剥がされる!
D文学研究会
猫 蔵著『日野日出志体験』2007.9
猫蔵が渾身の力をこめて書き下ろした日野日出志体験
好評発売中
        D文学研究会刊行
山下聖美著『100年の坊ちゃん』2007.4
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』2006.12
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えてゲンダイ文学であり続ける。 
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006.3
下原敏彦著『伊那谷少年記』2004.6
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
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