文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.344

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)6月18日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.344

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(情報)

 

テキスト=志賀直哉、他(世界文学)、エッセイ・評論の読み。

討論会、テーマを決めて話合う。

社会観察 いま起きているニュース、話題になっていること。

熊谷元一研究(童画・写真観察)写真・童画展情報

 

6・11ゼミ報告 ・ゼミ合宿・社会観察「虐待」「発達障害」・裁判

 

参加、西村美穂さん、村瀬 琴さん。

 

■ゼミ合宿 実施の場合 時期=8月上旬、

北信州軽井沢、宿泊大学施設「マラソン朗読会」

南信州、宿泊ホテルOr公共施設「写真童画展」「満蒙開拓平和記念館」見学

■社会観察「虐待について」5歳幼女の虐待殺人事件。実母と継父による執拗な虐待。

二度も児童施設に保護されるが…衛ことができなかった。なぜか ?

■「社会観察 新幹線のぞみ車内「殺すのはだれでもよかった」5歳で両親育児放棄、祖母

に預ける。22歳、自殺願望の果ての殺人。家族に問題が…。

■討論・テーマ《悩み》「日芸にきたら悩みが消えた。」「自分一人でなんでもやってしまう」

■6歳継子殺人事件の裁判「自分が裁判員だったら、どんな判決を」提出課題。

 

 

目 次

□6・11ゼミ報告(ゼミ合宿について・社会観察・課題)―――――――――― 1

□6・11ゼミ報告(課題発表)1876年ロシアの裁判――――――――――― 2~4

□6・18ゼミ予定(テーマ「蚕のこと」)――――――――――――――――― 5

□6・18ゼミ予定テキスト解説 「網走まで」―――――――――――――― 6~7

□社会観察「米朝会談について」――――――――――――――――――――― 7

□熊谷元一研究・法政大学国際文化部からのお知らせ―――――――――――― 10

□依存観察「透明な存在との闘い」―――――――――――――――――――11~12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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6・11ゼミ報告 課題  普遍の犯罪 継母、継父による虐待

 

6歳継子殺人未遂事件の裁判

 

18765月×日ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた

(実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測があります)

 

日本には、現在1億3千万近い人間がいる。そのうち未成年者は2300万人というから選挙権の有権者は、1億人前後いることになる。自分が選ばれる確率は宝くじより低い、などと思ってはいけない。人間一生のうち67人に1人が裁判員となる割合だという。

ゼミの皆さんも例外ではない。というわけで、この事件を裁判員になったつもりで、評決してみましょう。(この事件は、1876年ロシアの裁判で陪審員制度で裁かれました。ある意味で裁判員の見本となる裁判です。)

 

「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)

 

事件発端と推移

 

1876年5月×日、午前7時頃(推定)ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から十数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、いくらかの雪がはき積もっていた。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、その雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。はたして、この女の罪状は・・・・。現在、日本のあちこちで起こっている幼児虐待事件を思い出します。最近も母子5人を殺したニュースがあった。

 

犯人の身元

 

犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。1年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。妊娠中。

 

殺意の動機

 

自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた(米川訳)」など言葉の暴力を受けつづけた。

このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行した。

 

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陳述・容疑者の義母はこのように犯行を話した

夫婦喧嘩では、夫にいつも怒鳴られていました。亡くなった前妻の方がよかったと責めるのです。罵られるたびに、連れ子の6歳の継娘まで憎くなってきました。それで、いつか、面当てに夫が一番の打撃になること、継娘を亡きものにしようと思っていました。このところ、ひどい喧嘩がつづいたので、ついに限界に達し、昨日、それを実行する決心をしました。しかし、昨晩は、夫が家にいたのでできませんでした。

今朝、夫が仕事に出かけたので、計画を実行することにしました。私は、4階の窓を開け、草花の鉢植を窓じきの一方に寄せました。それから、起きたての継娘の名を呼びました。

6歳の継娘は、眠気眼をこすってやってきました。私は、

「○○ちゃん、窓の下を見てごらん」と、言いつけました。

継娘は、朝っぱらなんだろうという顔をしました。が、窓の下にどんな面白いものが見えるのかと、思ったのでしょう。すぐに窓じきにはいあがりました。そして、両手を窓に突っ張って、下をのぞきました。ちっちゃな両足が、私の目の前にありました。その可愛らしいちっちゃな両足を私は、つかんで持ち上げ、窓外に放り投げました。娘は、宙にもんどり打って落ちて行きました。私は、すぐに窓を閉めて、着換えをすませ、部屋の戸締りをして警察に出向しました。娘は、てっきり死んだものと思いました。これが犯行のすべてです。嘘偽りはありません。

 

西村美穂 陪審委員

 

【検察側の起訴と求刑】

 

(被告)女性は、日ごろの夫婦関係のこじれにより、明確な殺意を持って継娘を4

 

階から落とした。よって(本件を)継娘殺人未遂事件とする。

 

【弁護側だったら、どう弁護】

 

被告)彼女が日ごろから夫に追い詰められていたことを考慮すると、犯行時

 

には冷静な判断ができない精神状態だったのではないか。自首をしており、な

 

おかつ結果的に継娘が無事にいたことから津人未遂とまではいかない。

 

【裁判員だったら】

 

(被告)彼女の生活の背景には、同情するものがあるが、継娘を殺そうと思い、

 

それを実行に移したということは、やはり殺人を行ったと思う。そして、その

 

結果、娘が死ななかったので、殺人未遂なのではないだろうか。

 

判決は → 無記

 

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村瀬 琴 陪審委員

 

【検察側の起訴と求刑】

 

(被告は)夫と日頃もめていてDVなどを受けていたとしても、被害にあった

 

娘は関係がない。憎い夫とその前妻との娘であるかもしれないが、それが娘を

 

殺しても良い理由にはならない。夫ではなく、弱者の娘だけを狙った犯行は、

 

とてもゆるされる事ではない。

 

【弁護側だったら、どう弁護】

 

(被告)加害女性は日頃から夫に精神的・肉体的に暴力を受けていた。

 

女性が血つながっておらず、夫とその前妻との子である娘を憎く思ってしまう

 

のは仕方ない。娘が亡くなっていたら、また状況は変わるが、ケガの一つもな

 

く助かっているので(被告)加害女性の罪は重くない。

 

【裁判員だったら】

 

憎い夫の娘で、その娘まで憎くなってしまう気持ちは理解できるが、娘は何

 

も悪くない。殺害して良い理由にはならない。

 

【判決は】

 

検察側

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実際の判決  1876年10月15日 ロシア、ペテルブルグの裁判所

 

一審 → 2年8カ月の懲役。満期後は、終身シベリヤ流刑

 

控訴 → ドストエフスキー「重すぎる」被告妊娠4カ月アフェクト(激情)を重視。

 

再審 → 無罪 (逆転 世界初)

 

※『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記』上 「単純な、しかし厄介な事件」

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6・18ゼミ

 

テキスト『網走まで』について

 

『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。

インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。

例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)

また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。

  • 1872年(明治5年)3月北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
  • 1875年(明治8年)漢字をあてて、網走村となる。
  • 1890年(明治23年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
  • 1891年(明治24年)集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
  • 1902年(明治35年)網走郡網走村北見町勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。

明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。

「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」

なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。

そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。

とにかく、この作品は、どうみても網走駅までの印象が強い。しかし、この時代、また「網走駅」は存在しない。レールも敷かれていない。とすると、なぜ「網走」としたのか。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿

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末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。

しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。

しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。

同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的

作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」

の唄が流れる。

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とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せばなんとも異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。そんなことから当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。

で、当然といえば当然だが、一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。

『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。

子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところとだった。

余談だが、1965年、昭和40年、今から52年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)

信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。

7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大、ほかいろんな他大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。

皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。

□ちなみに、このときの経験を、2016年のゼミ誌に創作『計根別まで』と題して掲載した。いつだったか江古田校舎に登校したとき、不意に名前を呼ばれた。振り返ると中年の事務方の職員が追いかけてきた。知らない人だったが、手にゼミⅡのゼミ誌を持っていた。

「読みました。私も同じでした」

いきなり彼は言ってゼミ誌をみせた。

そのとき私は、なぜか、てっきり熊谷元一研究のことかと思ってしまった。それで

「ゼミⅢでも、だしています」と、トンチンカンなことを言ってしまった。

後で思うに、その人は、私の作品について話したかったかもしれない。職員通路を通るたびに思うのだが、同じワイシャツ姿の職員ばかりなので、どの人かわからなくないでいる。

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6・18ゼミ「社会観察」 トランプ・正恩 米朝共同声明

 

6月12日、米大統領トランプ氏と北朝鮮指導者金正恩氏は、シンガポールで史上初の首脳会談を行い、共同声明を発表した。

トランプ氏は → 北朝鮮の体制保証  正恩氏は → 完全な非核化の実現の約束

この約束、額面通りなら正恩の交渉勝ちともいえる。が、裏の裏があるとすれば若き独裁者は、トランプの狡猾な罠に嵌ったことになる。

北朝鮮は、非核化しない。それがわかったとき、トランプは、誰に遠慮することなく堂々と爆撃命令をだせるからだ。果たして二人の読みは、どうなるのか。

 

50年前の声明文 日大観察

 

50年前、日大生への差別、蔑視、横領、偏見、暴力など理不尽な行為に対する問題に、ついに日大生が、怒りの声をあげた。孤軍奮闘だったが、気骨ある日大出身の著名人たちが、勇気をもって声明文を発表した。

 

燃える怒りの火を消すな

 

・池田みち子 ・伊藤逸平  ・宇野重吉  ・佐古純一郎  沙羅双樹  ・当間嗣光

・中桐雅夫  ・埴谷雄高  ・後藤和子

 

34億円の使途不明金問題をかわきりに学園の民主化をめざして闘っている学生諸君、君らは今、日本大学の新しい歴史をきり刻んでいる。日本大学の民主化闘争は日本の最右翼の大学における反逆である。だからこそ、砲丸から日本刀まで持出した体育会系右翼の暴力と、機動隊の介入は決して偶然のものではありえない。しかし、10万人の日大生は、かいならされていなかった。その証明を、君らは闘いの中で展開している。日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。それは自由を暴圧する全てを包み、反逆のいかりをさらにもえあがらせる力となるだろう。私たち日本大学を巣立った有志は、君たちの闘いを支持し次の事柄を声明する。

 

私たち日本大学を巣立った有志は、君たちの闘いを支持し次の事柄を声明する。

一、34億円の使途不明金問題を出し、さらに右翼暴力団、体育会系学生を動員しての暴力事件に対して、理事会は責任の所在を明らかにし、大学を真の教育の場とする方針を具体化せよ。

一、大学は学問追究の場として、学生の、表現・出版・衆会の自由を認めよ。

一、これまでに起こった暴力事件の責任を無学生に転嫁した退学・停学等の処分を撤回し、今後このような学生に対する不当処分をくりかえすな。

一、学園民主化のため、暴力と弾圧に屈せず闘っている学生諸君の勇気ある行動をたたえこれを支持する。

         (『朝日ジャーナル』1968年6月30日号より転載)

 

※日大出身の著名人は多い。が、なぜか沈黙を保っている。先日、ある番組で日芸出身の毒蝮三太夫さんが、堂々と意見を述べていてよかった。気骨ある人、もっとでてきてほしい!

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熊谷元一研究

 

6・18ゼミ 養蚕観察  「かいこ」について

 

さきの熊谷元一写真賞コンクール20回記念展で、見学に来られた村西美穂さんが、展示の「かいこ」に興味をもたれたので、簡単に紹介します。

 

鎖国が終わり明治になると、品質のよい日本の生糸は有力な輸出品となった。生糸が近代日本をつくった。富国強兵の大黒柱となった。

阿智村の場合 1887年(明治20)以降、盛んになった。岩波写真文庫「かいこの村」熊谷元一撮影に詳しい。

 

春ご様 → 5月~6月に飼う

 

夏ご様 → 8月はじめ

 

秋ご様 → 9月

 

晩秋ご様 → 11月はじめ

 

紹介 → ひび(蚕のさなぎ)本多勝一(朝日記者の思い出)マンガ

 

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熊谷元一研究  熊谷元一の故郷周辺に関する出版文化のシンポジウム

 

法政大学国際文化学部・高柳俊男教授からのお誘い

 

  • 日時:2018年7月7日(土)14:30~17:30(予定)

 

  • 会場:法政大学市ヶ谷キャンパス

(各線の市ケ谷駅もしくは飯田橋駅から徒歩約10分)ボアソナードタワー3階BT0300

 

「三遠南信―愛知・静岡・長野の越県連携を支える出版文化」

 

三遠南信という概念がある。三河(愛知県東部)・遠江(静岡県西部)と南信(長野県南部)が、県境を越えて、政治的・経済的・文化的に連携交流するもので、日本の越境連携のモデルケースとして注目を集めている。この一帯はもともと天竜川や豊川の水系であり、それが共通の風土や文化をもたらしてきた。

三遠南信の連携を束ねる組織として、浜松市役所内にSENA(三遠南信地域連携ビジョン推進会議)が設置され、10年前から活動を継続している。このSENAには現時点で、東三河の5市2町1村、遠州の8市1町、南信州(下伊那+上伊那)の3市6町13村、計39の自治体と、付随する商工会・商工会議所などが加盟して、共通する課題の解決に向けて協力している。

県境を超えた連携が実を結ぶには、行政や財界の働きに負う部分もあるが、視野を広げ、県境を越えた発想をすることがいかに豊かな実りをもたらすかが、この3地域の住民はもちろん、広く実感できることがまず必要であろう。そこで今回、三遠南信を幅広く展望し、その魅力を人々に伝える出版言論活動を担ってきた、民間における活動に注目してみた。

沢田猛さん(本学出身)は、「毎日新聞」静岡支局時代、遠州と信州との接点に位置する青崩峠、塩の道、飯田線建設の功労者アイヌの川村カネト、久根鉱山のじん肺問題などを中心に、この三遠南信のテーマを先駆的に取り上げてきた。

三河では、「東三河&西遠・西三河・南信応援誌」と銘打たれた季刊雑誌『そう(叢)』がすでに59号を数え、三遠南信を扱った「はるなつあきふゆ叢書」が28冊と若干の自費出版も含め計約60冊が出版されている。

遠州では、あいにく現在は休刊だが、三遠南信に特化した雑誌『Ami(アミ)』が17号まで出版され、貴重な経験を積んでいる。

南信州では編集プロダクション「みらい企画律」が、三遠南信を大事なテーマの一つとして、出版活動や食文化のイベントなどを展開している。

当日は、こうした活動に携わってきた当事者の方々をお招きし、シンポジウムを開くことで、出版言論分野における三遠南信という地域連携の可能性や課題等を、具体的に考察する場としたい。

なお、法政大学国際文化学部は2012年度以降、南信州で学生研修を実施しており、上記した雑誌『そう(叢)』と『Ami(アミ)』は、学部資料室の「飯田・下伊那文庫」に全冊揃っている。昨年夏、研修担当者の髙栁俊男が、SENAの新10年ビジョン策定委員に「南信州学識者代表」として任命された。今回のイベントは、そのことを契機に企画・実施するものである。

 

 

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第21回熊谷元一写真賞コンクール応募要項

 

◎テーマ部門 → 「はたらく」

◎阿智村内撮影部門 阿智村 → 自然、祭り、温泉、史跡、旧跡・・・

 

※詳細は、熊谷元一写真童画館ホームページをご笑覧ください。

 

こんな賞があります。締切2018年9月末日

 

□元一写真大賞(1点)賞金7万円・トロフィー・副賞(昼神温泉宿泊券3万円)

□阿智村賞(1点)賞金3万円・トロフィー・副賞(昼神温泉宿泊券2万円)

□信濃毎日新聞社賞(1点)トロフィー・副賞(昼神温泉宿泊券2万円)

□JAみなみ信州賞(1点)賞金1万円・トロフィー・副賞(地元農産物1・5千円)

□優良賞(2点)賞金1万円・トロフィー・副賞(昼神温泉宿泊券1万円)

□飯田信用金庫省(5点)副賞

□佳作(10点)トロフィー・副賞(昼神温泉宿泊券1万円相当)

□阿智村輝き賞(10点)トロフィー・副賞(1万円相当地元商品券)

 

 

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依存観察から創作へ  ある依存からの脱出の記録を創作する

 

この記録は、「下原ゼミ通信」編集室に寄せられたノートに書かれていたものである。誤字

脱字の他、判読不明の文においては、編集室の想像と加筆で訂正、編集した。

ちなみに、書かれた日常生活を推理・想像したところ、ノートの持ち主の家庭は、団地住

まいで母親は、勤め人、父親は、リストラ人間(無職)のようだが、それを除けば高校生の兄妹がいる四人家族のごく普通の平凡な一家である。

 

草稿「透明な存在」との闘い

 

―あるシンポジュウム会場に置き忘れていたノートに書かれていた記録―

 

※「透明な存在」1997年に起きた神戸の小学生男女連続殺傷事件に犯人が使った言葉

 

編集・「ゼミ通信」編集室

私は悩み 絶望し、そして、死を知った。だが私は、いま生きていることを喜んでいる。

 

タゴール

一 娘の心に棲みついた透明な悪魔

 

長男の将太は、生まれたとき体が弱かった。赤ん坊のときは、担当医から「病気になれば、いつ亡くなっても不思議はない」とまで言われた。そんなわけで将太は、常に不安と心配があって両親は気を使って育てた。が、その後は何事もなく元気に育った。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.344 ―――――――― 12 ―――――――――――――

 

そうしたこともあって、娘が生まれたときは、野原を元気に飛び回る子に育つようにと、ノノと命名した。その名の通り、ノノは、元気に明るく育った。高校2年生までは、何の問題もない健康優良児そのものだった。しかし、いつのころからか、何かが彼女の心に棲みついた。そんな気がするのだ。ノノが、日増しにノノでなくなっていく。純白なハンカチについた一点の汚れが、知らずにひろがって、彼女の生活を操っていく。ノノの心に棲みついたものは何ものか。透明の悪魔か。この記録は、その悪魔との闘いの記録である。

 

前回までは、ノノは兄将太と同じ高校に入学。一年生と三年生、二人子供が通うので、父親は高校のPTA会長を任せられ、学校には、頻繁に行くようになる。ノノは中学からの続きで剣道部に入り、楽しい高校生時代を送った。が、二年の夏休み明けから、ケーキ作りや料理を作り始める。もともと、そうしたことは、あまり好きでないと思われていなかったので、

 

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ゼミⅡの記録

 

□6月4日(月) 西村、村瀬、志津木 写真 テーマ「日大問題」

□6月11日(月) 西村、村瀬、テーマ「悩み」「ゼミ合宿」

 

 

掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む・読書会

 

月 日 8月25日(土)

 

時 間 午後1:30 ~ 4:45

 

会 場 池袋・東京芸術劇場第5会議室

 

作 品 『未成年』2回目

 

報告者 : 富樫紀隆さん

 

 

6・18課題 「なぜ、虐待はなくならないか」か「私のある一日」

 

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