文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.347

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)7月9日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.347

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/9 4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/9 7/16

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(情報)

 

テキスト=志賀直哉、他(世界文学)、エッセイ・評論の読み。

討論会、テーマを決めて話合う。

社会観察 いま起きているニュース、話題になっていること。

熊谷元一研究(童画・写真観察)写真・童画展情報

 

社会観察・オウム幹部7人死刑執行 サリン事件20年、判決から12年

 

九州、西日本に数十年に一度の大雨。「大雨特別警報」が発せられた7月6日金曜日の朝、日本列島に激震が走った。地下鉄サリン・松本サリン事件など計13事件で殺人罪に問われ、死刑が確定していた、カルト集団・オウム真理教の幹部7人(教祖松本智津夫他6名)の死刑が、ついに執行された。大雨警報のなか各メディアは、このビックニュースを大々的に報じた。7月7日、朝日・読売各紙の見出しは以下のようでした。

《朝日新聞》2018.7.7

1面=オウム7人死刑執行 松本死刑囚ら 一連の事件から四半世紀

3面=教祖語らぬまま「区切り」残る憤り 若者集めた「カルト」凶行の末

《読売新聞》2018.7.7

1面=松本死刑囚ら7人 刑執行 地下鉄サリンなど関与

3面=「平成終わる前に」 遺族 無念消えず 「犠牲者戻ってこない」

※オウム事件とは何かは2頁に

 

目 次

□社会観察「オウム幹部7人死刑執行」新聞各紙(朝日・読売))見出し―――― 1

□「オウム真理教事件」とは何か ――――――――――――――――――――  2

□7・2ゼミ課題報告、7・9ゼミについて―――――――――――――――――― 3

□テキスト『網走まで』―――――――――――――――――――――――― 3~5

□依存症ドキュメント 記録「透明な存在」との闘い――――――――――――6~7

□熊谷元一研究 創作ルポ「永遠の一年生」――――――――――――――― 8~15

□ゼミⅡの記録 掲示板 お知らせ ――――――――――――――――――――16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.347 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

社会観察 オウム事件とは何か 資料として朝日・読売新聞

 

死刑判決13人中7人執行 後の6人はいつか・・・・・

 

《死刑執行について世間の見方》

同じ事件の死刑囚を、同じ日に死刑執行する。このことで社会に衝撃が走った。事件の「真

相を知りたかった」「全容が解明されなかった」などの批判もでている。しかし、多くの声は「長かった」「真相を語ることを延命の手段に利用していた」「やっと、この日がきた」と、納得している。同じ紙面の「千葉女児殺害 無期懲役」はなんとも辛い判決だ。子どもを欲望で殺した事件「死刑相当と認めず」などあるだろうか。

 

《どんな事件を起こしたのか、主な凶悪事件》

カルト集団オウム真理教は、1984年2月発足~1995年5月麻原逮捕までの10年間のあいだに大小13件の凶悪事件を起こした。これによって29人(読売)か27人(朝日)が殺害され6500人以上が負傷した。下記は主な凶悪事件。

▼元信徒田口さん殺害事件1989年2月(脱会したから)

▼坂本一家3人殺害、(信者の親から相談をうけていたのでが動機)1989年11月

▼元信徒落田さん殺害事件1994年1月(脱会したから)

▼滝本弁護士サリン襲撃事件1994年5月

▼松本サリン事件7人殺害・600人重軽傷者(裁判官殺害が動機)1994年6月

▼元信徒冨田さん殺害事件1994年7月

▼水野さんVXガス襲撃事件1994年12月

▼浜口さんVXガス襲撃事件1994年12月

▼永岡さんVXガス襲撃事件1995年1月

▼信徒兄仮谷さん監禁致死事件1995年2月

▼地下鉄サリン事件13人死亡、6000人以上重軽傷1995年3月20日

▽警視庁国松長官狙撃事件、疑われている。

 

《どんな教団か》

ヨガ教室から発生。1994年「オウム神仙の会」発足。1987年に「オウム真理教」と改称。若者を取り込んだ。主に理工系学生が入会。ピーク時1995年頃には1万人を超えた。教祖の特技は、空中浮揚、壁抜け、瞬間移動というマンガ・ドラえもんの世界。が、なぜかエリート理科系若者に人気。医師はじめ医療関係者も。1998年頃からテレビに出るようになり、朝のモーニングショーから深夜の「朝まで生テレビ」まで、連日でていた。幹部で広報役の一人は「ああいえば―――」で人気者となった。とその意味でマスメディアの責任も重い。

 

《報道で知る麻原こと松本死刑囚》

1955年熊本で生まれた松本智津夫は、視力が悪く、盲学校に入る。同級生の証言「目は見えたのではないか」屋上に連れていかれ突き落とすと脅された。ボス的存在に。上京して鍼灸師となる。電車の車内で見染め結婚。千葉県船橋市で鍼灸院をひらき、「麻原彰晃」を名乗ってヨガ教室をはじめる。主婦たちに人気あった。が、インチキ商法。薬事法違反の罪で罰金。渋谷で「オウム神仙の会」発足。後「オウム真理教」に改称。

はじめて松本死刑囚をテレビで見たのは朝のワイドショーか。よくしゃべる若い男と一緒だった。ジャーナリストの田原総一郎さんは、この若者と親しくなった。(そう見えた)

 

 

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7・2ゼミ報告  ゼミ雑誌作成に向けての編集会議

 

△ゼミ雑誌作成について 西村編集長 志津木編集委員

 

△発注の印刷会社 (株)エックスデザイン → 決定

 

△ゼミ誌タイトル 『自主創造』→ 案 決定 日大問題考察

 

△内容 テーマ討論 各自創作かエッセイ 熊谷元一の写真『一年生』?点

 

※原稿の協力、下原の創作ルポ「永遠の一年生」 但し、要請あれば 20枚可

 

テキスト読み7・9ゼミ  志賀直哉『范の犯罪』

 

1913年(大正2年)10月1日発行の『白樺 第四巻十号にて発表』志賀直哉30歳

演芸場で起きたナイフ投げ曲芸師美人妻の死。その死は計画殺人か事故死か

 

前テキスト再考 志賀直哉の処女作『網走まで』の謎、再考察

 

志賀直哉の処女作品『網走まで』には、大きな謎が二つある。その一つは、題名にこだわった。即ち、なぜ「網走」かである。当時、東北以北は、未開の地であったはずである。それを、まだ鉄道も敷かれていない、「なだれのある」熊と無宿人の土地。そんな未開のなかの未開の土地を題名にする必要があったのか。それとも網走に強い思い入れがあったのか。当時の現状から推測してみたが、これといって思い当たるものはなかった。

では、やはり作者が、サイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げだが、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。長編『暗夜行路』を除けば『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。

この網走だけが、なんの関連も思い浮かばないのである。なぜか。そこで、まったくの想像だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関連するのではないだろうかと考えた。謎には謎をもって、というわけである。

それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、この作品『網走まで』が、応募先の編集部で没にされたという事実である。前回でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それより、まともな編集者であったなら、たとえ一行でも輝ける文をみつければ、たとえミミズがのたくっていようがなんとかして解読を試みようとするはず。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかった。見る目をもつ者がいなかった。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、と思いたい。なんでもないエッセイのような車中作品。

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だが、この作品は、なんとなく文学的なものを感じる。想像・創造を引きだすエネルギーを秘めている。おそらくプロの読みてなら、気づくはずである。そうしたことを鑑みて私としては、決して『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったわけではない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。

では、なぜ、彼らは『小説網走まで』を、没にしたのか。させたのか。顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。彼らが絶賛し、また現代においても、こうして授業のテキストとして使っている。充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。

では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。

 

  1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
  2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
  3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
  4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)

 

没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。

『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに小説『網

走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。

それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの

があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。

余談だが、先般、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を稀に見る名作と踏んだ。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。

では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。

「どちら迄おいでですか」と訊いた。

「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」

「何の国になってますかしら?」

「北見だとか申しました」

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「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」

「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」

ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治二三年前身の「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人がおくられてから、既に十八年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。

網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母親の母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。

恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。

だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題

名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の

神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。

 

課題

 

創作に挑戦 → 同席の母子は、なぜ網走をめざすのか。都会での生活はどんなものか。

(凋落した士族のでは書かれている。)

→ 網走での生活は、どんなものか。

→ 20年後の母子はどうなっているか。

 

訴えるものはあるか。この作品に感じる時代 世の中はどうか。

→ よい方向に向かっている。どんなところで

→ 悪い世の中に向かっている。どんなところで

『網走まで』は1910年頃の東北に向かう列車の車内観察。母子の不安

『灰色の月』は1945年、東京山の手線。敗戦直後の車内観察。飢餓で死にそうな若者

 

☆二つの作品の車内観察を考えてみましょう。

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観察編・校正しながら日記を文章化する  依存からの脱出の記録

 

はじめに

このノートは、忘れ物として届けられた。ある依存症患者を観察した記録風日記である。

20年前の忘れ物で、焼却の対象になっていた。が、読んでみると焼却するのは、もったい

ない、歳月も経っていることもあり、創作ルポとして公表することにした。誤字脱字の他、

判読不明の箇所においては、編集室の想像で訂正、解読した。

ちなみに、読んで想像したところ、ノートの持ち主の家庭は、団地住まいで母親は私学

の職員。父親は、自営業(あるいは無職)のようだ。二つ年上の兄がいる。四人家族。

 

創作ルポ「透明な存在」との闘い

 

―あるシンポジュウム会場の忘れ物箱にあったノートに書かれていた記録―

 

「ゼミ通信」編集室

 

娘は、野原を元気に飛び回る子にと、ノノ子と命名した。その名の通り、ノノ子

は、明るく元気に育った。健康優良児そのものだった。高校2年の夏までは、…。

 

依存が発症したと思われる日から悪魔の正体がわかるまでの不安の日々。

 

■1997年1月27日~3月29日

 

高校の剣道部に入部したノノ子は、たいして肥満でもないのに高校二年の秋からダイエットに挑戦。食事に気をつけるようになった。カロリー計算が素早くなったいつも明朗快活だったが、口数が減って疲労を訴えるように。学校に行くのが辛くなる。わからず不安。

 

3月30日(日)デパート書店で偶然『思春期やせ症の世界』アーサー・H・クリスプ 高木隆郎、石坂好樹訳を見つける。症状がそっくりで驚く。

 

■1997年3月30日~5月12日体重の減少、悪魔と妥協しながら

 

あちこちの病院に行く。体重42・2㌔

 

【不登校はじまる】存在を見せはじめた悪魔

 

■1997年5月13日から学校欠席

 

5月13日(火)7時半登校時間になって体の不調を訴える。だるい、体が重い。はじめて学校を休みたいという。学校に電話、その旨を伝える。ノノ、そのまま眠る。1時に起こし昼を食べさす。そのあと何かしている。九州で地震。夕食は、家族四人で。ノノの体重42㌔。

5月14日(水)ノノ、学校へ行く支度をするが、出がけになって体がだるいとぐずる。泣き出す。そのまま寝かす。微熱あり。37度。2時に起こして昼食を食べさす。担任の岡田先生から電話。様子。夕食、ノノ食べず。この頃から食べ物のことを話すと拒絶反応をみせるようになる。

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5月15日(木)ノノこ食べられず。ジュースも残す。フラフラ状態で学校に行く。夜8時ノノ調子悪く半泣き状態。夕食「食べたくない」の一点張り。ノノと母親3人で「デニーズ」に行く。ハンバーグ注文、食べると元気でる。

5月16日(金) 7時半、ノノ、なんとか登校。4時半帰宅。弁当、少し残す。

5月17日(土) 晴れ、蒸し暑い、夕方、烈しい雨、雹も。7時半ノノ登校、両親、保健室で保健の先生と話す。

5月18日(日)晴れ、蒸し暑い、柔道大会、夕方「デニーズ」でノノ、母親3人で夕食。

5月19日(月)雨、やや肌寒し、ノノ、体調悪いと訴える。体がだるいといいながら登校。4時雨のなか帰ってきて、すぐ寝る。

5月20日(火)くもりのち雨 ノノ体だるいと訴え、布団も引かず寝転んでそのまま眠る。母親、勤め先から電話。「摂食障害の会」の電話わかった。12時、ノノと駅前の「ジョナサン」へ。ノノの昼食、生ハム、生野菜、スープ、パン一

5月21日(水) くもり、ノノ中間テスト。やっとのことで登校。1時、駅から電話。定期券を買いたいがお金をもっていない。電車で駅に行く。お昼、ヨーカ堂の7階の大食堂に行くが、気に入らず、「デニーズ」に行く。ノノ、ステーキのみを注文するが、食べられず、豆腐サラダを食べる。愚痴話を始める。母親のため息についてはなしていたが途中から話をわかってくれないと泣き出す。4時店をでる。バス停で中学時代の男友達と会い、少し元気に。バスの中ぐったり。セレンジン2錠のんで眠る。

5月22日(木)晴れ、風、やや涼しい。ノノ子、ぐったり状態で登校。12時、ノノ、帰宅せず。行動に椅子を運んでいたとのこと。疲れて、食べるのもうごくのもイヤと言った感じ。セレンジン1錠のんで眠る。3時バスで「ジョナサン」へ。ノノ子、生肉野菜、アスパラ。ノノ愚痴る。死にたいともらす。中学時代の友人たちに助けてもらうよう話す。父、つかれからうたたね。

5月24日 日 ノノ子中学の友人に会いに。

5月25日日 曇り晴れ ノノ子昨日の中学友人の会は楽しかったと。食事は一切とらなかった。昼、ノノ子一人で考えたいと「デニーズ」に。3字母親と迎えに、3人でカラオケ、帰りノノこってりラーメン食べる。

5月26日 月 晴れ 担当医カウンセリングを紹介、1回1万2千円とのこと原宿。

5月27日 火 晴れ夕方雷雨、ノノ母親うつ状態心配。NABAへ。上北沢駅近くのマンション2階、「いい加減に生きよう新聞」を発行していた。約11人いた。長くかかるときく。暗澹たる気持ちに。深夜 ノノ外に、一緒に「デニーズ」に3時ころまでいる。自分の苦しみを話す。

5月28日 水 晴れ ノノ子休む。10時図書館に一緒に行く。7時母親も長男も帰宅、ひどく疲れて家族全員眠る。ニュース速報、27日朝、神戸市の中学校前に行方不明になっていた小6児童の首が。くちのなかに「止められるなら、止めてみろ」の文 酒鬼薔薇聖斗の名前

5月29日 木 晴れ ノノ子休む 午後から母親とNABAへ。原宿では、話を聞いてもらっただけで1万2千円とられた。帝京大市原の精神科医を紹介されたとのこと。

5月31日土 雨のち曇り晴れ、休む。 母親とノノ子 嵐山町にある婦人会館へ。NABA合宿。希望を託す。

 

 

次回へ

 

下原ゼミ通信Ⅱo.347 ――――――――― 8 ―――――――――――――――――

 

創作ルポ 永遠の一年生

下原敏彦

 

平成22年11月6日、写真家・童画家の熊谷元一は、都下武蔵野にある老人施設で101歳の生涯を閉じた。亡くなる前日まで元気にカメラの話をされていたという。

熊谷は、故郷の長野県伊那谷で小学校の教師生活を終えたあと上京、清瀬市に住み始め

た。還暦からの出発だったが、清瀬では写真家・童画家として活躍する一方、「清瀬の自然を守る会」の会長に推され地域のために尽力した。訃報を知って大勢の清瀬市民が焼香に列を成した。名誉村民となっている故郷、桑谷村からも村長はじめ関係者多数が駆けつけた。大勢のマスメディア関係者も訃報を報じるために集まってきた。

アマチュアカメラマンの熊谷が、これほどまでに名を高めたのは、写真集『一年生』にある。小学一年生の学校生活を一年間、記録としてカメラに収める。危険な場所、美しい風景それらはチャンスと熱意があれば撮れる。だが、一年生の一年間は、二度と撮ることはできない。一枚一枚の写真は、撮影者の根気と努力、教育者の視点と愛情の結実。私は、たちまちファンとなった。各地で開催された「一年生」写真展の常連になった。

それ故、訃報を知って、矢も盾もたまらずお通夜に駆けつけた。大勢の参拝者のなかには、写真展で顔見知りになった人もいた。その一人に地元紙の元記者がいた。80に近いお歳だが、嘱託記者兼写真班として、農作業のあいま、村中を回って話題や出来事を取材していた。記事が載れば、送ってくれる昵懇の間柄だった。私は、挨拶し話しかけた。

「順風満帆な人生だったですね」

私は、熊谷の戦後の履歴を振り返って言った。

熊谷の戦前、戦中は波乱の人生だった。美術学校への失敗、童画への道に希望が、赤化事件で教師の職を失い、無職に、だがカメラとの出会いが、人生に出世の階段。28歳のとき朝日新聞社から写真集が出され、戦前戦中は、大東亜省の役人として満州撮影班として活躍、するも、満州国の現実を知り、終戦2か月を前に、退職し、郷里にかえる。召集されるも沖縄黙然で終戦。戦後はそのまま郷里の小学校の教師となる。趣味の写真で村人を撮りながら、担任となった一年生を一年間撮った。これが高い評価を受けた。『一年生』は、写真界の金字塔といっても過言ではない。華々しい写真家としての足跡。これを順風満帆と言わずして何とするか。しかし

「そうですなあ・・・」彼は、つぶやくように言って言葉を切った。

何か否定的に思えた。私は、不思議に思ってたずねた。

「ちがうのですか」

「そうですねえ、いろんな苦労はありまたよ。とくに一年生では」

「一年生で、ですか!?」私は、眉をひそめて尋ねた。「どんな苦労ですか」

尋ねながら、あのことかな、とも思った。掃除の時間。雑巾がけする女の子に馬乗りになっている写真がある。この子の祖母が、怒鳴りこんできた。

「うちの孫は、ふだんはこんなことはせん」との抗議。

「やめてくれといわれても、本はできているし、あやまるしかなかったです」

熊谷は、苦笑しながら説明された。

「写真をやめようとしたことがあったんです」

「写真をやめる?!」私は、驚いてたずねた。「一年生で、ですか」

これまで熊谷の写真や童画、それに書いたものを見たり読んだりしてきた。熊谷とも直接話をした。それ故に、熊谷の人生のほとんどは知り得ている。そんな自負もあった。それなのに、写真をやめるほどの出来事があったとは知らなかった。

「ご存知ないのは、当然です」老記者は、ちらと弔問客をみて言った。「先生は、あれ以来

 

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封印してきましたから。大東亜省を辞職して村に帰ってきたときと同じです。あのときもな

にもおっしゃらなかったようですが」

「空襲で食糧がなくなったからではないのですか」

私は、熊谷の自伝『三足のわらじ』に書いてあった理由を思い出して言った。

「まさか、村をあげてお祝いされて東京にいったのです。本当の理由は違うでしょう」

「本当の理由?」

「この話は、ご存知ですか。朝日新聞の記者が、終戦の日に辞職したという」

「ええ、知ってます。立派な人ですよね。戦争を煽る記事を書いた責任をとられたんでしょ」

「熊谷先生の辞職も、そうだったんじゃないかと思うんです。行け満蒙の地。そんなプロパガンダ写真を撮ることに抗議した。国家の仕事ということで、赤紙からも逃れたかもしれなかった。それなのに、先生は負の道を選んで、故郷に帰り召集された。九州で終戦を迎えたそうですが、あと一カ月つづいたら沖縄で玉砕の運命でした。だが、そのことを先生は、直接語ったことではありませんい。先生は、その人生を黙して語らずで通しました。ゆえに、そうしたことはいまも謎のままです。話したことは、全て私の想像です」

「じゃあ、『一年生』で起きた、写真をやめたかも知れない大きな出来事は何ですか?」

私は、話を聞きたくてもう一度老記者に話しかけた。しかし、彼は、深夜バスで郷里に帰るため時間がないからと断った。あまり話したくなさそうにも思えた。

私は、その話は、それっきり忘れてしまった。ところが何カ月かして、突然、私のところに老記者から手紙が届いた。

【老記者からの手紙】

 

前略、先般は失礼した。貴君は、『一年生』に起きた出来事を知りたいと言った。その話は、熊谷先生が、あまり触れられたくない出来事だった。そんなことで、あのときは黙っていた。しかし、あの日から、いろいろ考えた。あの出来事を知っているのは、私のほか、そうなん人もいない。あの出来事は永遠に忘れ去られてしまってもよい。が、『一年生』の真の愛読者には、先生が『一年生』を撮り続けた意義を知らせたい。そして写真に関係する出来事も全て、伝えておいた方がいいのでは、そう判断したことから、筆をとったしだいです。なお、手紙の内容は当時、私が目撃したすべてです。

 

草々

 

昭和30年9月4日、日曜日、あの日は、朝から残暑が厳しかった。私は、地方新聞の豆記者になったばかりだったが、大きな祝い事に連日、酔っていた。大きな祝い事というのは、私が尊敬する小学校教師の熊谷元一先生が、どでかいことをやってくれたからだ。人口3千人足らずの信州の山村にとっても、それはもう開闢以来の名誉ある大事件だった。

先生は、教師をしながら写真を撮っていた。戦前、私がまだ子供だったとき、先生が撮った村の写真を、朝日新聞社が出版し、高い評価を得た。先生、若干28歳のときである。それが縁で、大東亜省に写真班として勤務し、満州国の開拓村を撮り歩いたとも聞いた。戦後は、私なら東京で、大出を振って写真家としての道を歩いたが、先生はなぜか、その道を行かず、また元の木あみ、生まれ故郷に還られて小学校教師の職につかれた。将来は、東京でメディアの世界で活躍しようと思っていた私にとっては、不思議な限りだった。後で知ったが、先生は戦争の片棒を担いでしまった。その悔いがあったようだ。

私は高校をでると地元の新聞社に入社することができた。先生をお手本にしながら記者の仕事に励んでいた。が、信州の山奥の村である。たいした事件も出来事もなかった。十年一日のごとく過ぎる毎日だった。そんなとき、村にどでかい花火があがった。先生が撮った『一年生』の写真集が、並みいる有名写真家を差し押さえて日本一に選ばれたのだ。大新聞

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の一面ド真ん中に、熊谷元一先生の名前が載った。3面には顔写真や詳しい選考経過も掲載された。1955年(昭和30年)8月30日(火曜日)毎日新聞一面中記事

山奥の蚕の村は、上や下へと大騒ぎになった。どのようにして、この慶事を祝ったらよいのか、村長はじめ教育長、小中校長からPTA、郵便局長らが会議を開いた。その結果、授賞式のある9月19日前に中学校の裁縫室で「一年生」の展覧会を行うことにした。

 

熊谷元一先生、第一回毎日文化賞受賞を祝って

祝・岩波写真文庫『一年生』写真展開催

 

▽1955年9月5日(月)~ 17日(土)

9月10日(土)、17日(土)は 午後

11日(日)朝 ~ 夕まで一般公開

▽会場 会地中学校2階、裁縫室

 

中学校の裁縫室は、二階の端にあって、畳2百畳の大広間だった。月曜の長礼の校長先生の話は、この裁縫室で正座して聴いた。私は、ずっと熊谷番として、先生の一挙手一投足を記事にしていた。そのことから、この展覧会も取材しながらの手伝いとなった。明日から子供たちに見せるということで、4日、日曜日、教職員、村の関係者などボランティアで展示作業をおこなうことになった。

残暑のなか、展示作業は順調にすすんでいた。開け放たれた窓から、熱風とプールで遊ぶ子供たちの歓声がとびこんできた。

「今日が最後のプールですから、大勢きてるだに」

「それに、今日は日曜だら。春日の方の子はみんなきてるだ」

二年前、昭和28年、「一年生」が入学した年の7月に会地小学校にル25m×15mのプールが完成した。中学と共用だったので、5分の1ほど水深が2mのところがあった。この時代、プールがある学校は、まだ珍しかった。

数人の手伝いの先生たちは、談笑しながら、給食の味噌汁を作っている用務員のおばさんが運んできた麦茶を美味しそうに飲んだ。会地村は、春日村と宿場町駒場村の合併で成っていた。春日は、広い稲田がある地域で、水路はあるが泳げるほどの川はなかった。山間にある宿場町駒場の下方には天竜川の支流阿知川が流れていた。曲がり角に淵があって、

面の子どもたちは、阿知川で泳ぐのがふつうだった。

「そろそろモーターが鳴りゃあせんかな」(昼を知らせるサイレン)

誰かが、言ったときだった。

プールの騒音が、ぴたりとやんだ。どのくらいの静寂がつづいたろうか。その静まりに何か胸騒ぎがした。

「なにかあったのかな」

若い先生が窓から身を乗り出してプール方向を見た。

「休憩時間でしょう」

「うちは休憩なしですね」

「そういえば」

「すみません」熊谷先生は、律義に頭をさげた。本当に申し訳なさそうだった。

実をいえば、熊谷先生は、プールで遊ぶこどもたちを写真に撮りたかった。プールは二年前、の1953年「一年生」を撮りはじめた年の7月に完成し、子どもたちは大喜びした。

しかし、なぜか、意識したわけでもないのに、熊谷はプールで遊ぶ子どもたちの写真は撮

 

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ってなかった。『一年生』には一枚も収録されていない。川で遊ぶ子どもたちの写真は何枚もあるのに、不思議といえば不思議だった。展示作業が終わったら行くつもりだった。が、本当はいますぐ、子供たちが昼で帰ってしまわないうち行って撮りたかった。

しかし、自分のために残暑のなか、展示作業してくれている皆さんのことを思うと、自分だけ写真を撮るために、この場を空けるということは、言いだしずらかったし、できなかった。思えば、このときの迷いと遠慮が終生の禍根となった。だが、そのときは、その後に起きた悲劇を誰が想像できただろうか。歴史に「もし」はない。熊谷は、知る由もなかった。あのとき自分が行っていれば――悔やんでも悔やみきれない現実だけがあった。

「昼までに終わらせまい」そう言って吉田先生が組写真を脚立の私によこした。

私は、一枚目のパネルを受け取ろうとしてつかみそこねた。

「あっ」

写真は、畳の上に落ちた。二人の子どもが写っていた。

「大丈夫?」

「しげこちゃんとひろふみくんだ。ごめん」

近くにいた若い女先生が拾いあげてくれた。熊谷と同時に一年生の担任となった西組の原先

生だった。あのときは高校でたての新米教師だったが、いまはすっかりベテラン教師らしくなっている。

「すみません」私は、礼を言って写真を見た。

写真は、計算練習の遊びをする写真だった。

仲良しの女の子と男の子が「さんすう」でおぼえた計算練習をしてあそんでいる。

「これ、わかる」

「どれ」

「三たす、五たす、四は」

「えーと、むずかしいな」

そんな会話が聞こえてきそうなほほえましい光景だつた。だが、私は、自分が落とした

せいか、何か気になった。私は一瞬、視線をとめて見入った。

そのとき、突然プールの方から悲鳴のような怒号のような声があがった。何事か!?

みんな窓に行って身を乗り出してプールの方角をみた。

こどもたちが走ってくる。泣き顔だ。

「どうした、なにかあったんか」

「たいへんだ!」

「たいへんだ!!」

子供たちは口々にそう叫んだ。それを聞くと裁縫室にいた先生たちは、脱兎のごとく飛びだしていった。

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。出来事を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた人たちは、いっせいに飛び出して行った。何か事件か事故が起きた。私は新米ながら、早くもしみついたブンや魂が躍った。皆に先を越されまいと、もうスピードで階段を駆け下りて行った。

誰もいなくなった裁縫室の畳の上に拾ってもらった3枚の組写

突如、プールの方角から起きた喧騒と静寂。異変を知らせようと駆けてくる子どもたち。プールで、いったいなにが起きたのか。展示会場にいた十数人の人たちは、いっせいに飛び出して行った。一年生の写真だけが、畳の上に悲しげに散らばっていた。

校舎を飛びだしたところで、駆けて来た子どもたちと出くわした。

「どうした、どうした」

先生たちは、口ぐちにきいた。

「プールで、プールで」

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子どもたちは、興奮した口調で、ただそう叫ぶだけだった。

私は、その声を潜り抜けブンや根性丸出しでプールに向かって走った。まずは現場だ。

現場でなにがあったかこの目でみる。人の話はそれからだ。私が一番先頭になっていた。

プールの脇に大勢の子どもたちが黒山の人だかりとなってかたまっていた。大半が小学生だったが、中学生もいた。彼らは、走ってきた私たちを一瞬、ちらっと振り返った。真っ黒に日焼けした顔に真剣の目がギラついていた。事件や事故の現場で感じるあの目だった。どの顔も、こわばっていた。私は、こどもたちを押し分けて人だかりの真ん中に入った。熊谷先生も他の先生たちにまじって追いついた。

保健室の有賀先生が一生懸命、人工呼吸をしているのが見えた。下にいるのは小さな体

で、低学年の子どものようだ。

「何年生か」

「なんねんせい」

「何年」

駆けつけた先生たちは口々に叫んで聞いた。自分の学年の子ではないかと必死だった。

「どこの組だ」

溺れた子どもの身元は、なかなか判明しなかった。しばらくして

「三年生らしい、三年生だって!!」

そんなささやき声が聞こえた。そして、突然

「熊谷先生のとこの子だ!」

とのさけび声。

その一声は、雷のように熊谷先生の全身を貫いた。先生は、一瞬地面に串刺しされたように動けなかった。次の瞬間、取り囲んでいる野次馬をかき分けて中に飛びこんでいった。黒の海パンをつけた男の子が仰向けに寝ていた。その上にまたがって有賀先生が人工呼吸をつづけていた。子どもの顔をみた。まぎれもなくさきほど落としたパネルの芦沢宏文君だった。

「あしざわくん! ひろふみくん!」

先生は、膝ついて耳元で名前を呼び続けた。だが、子どもは人形のように寝たままで、ピクリともしなかった。周囲の喧騒をよそに眠っているようにも見えた。

知らせをうけて。村に唯一人の外科医者、橋下医院の橋下医院長が、バイクの後ろに乗って到着した。村に来るまではダム工事現場の医者をやっていたというひとで、治療は荒っぽいが腕はいいとの評判だ。重苦しいなかにも、淡い安ど感が流れた。つづいて警察署長がジープで到着した。少し遅れて春日地区の消防団員たちが非常事態を聞きつけかけつけてきた。

しかし、芦沢君は、いっこうに息を吹き返さなかった。芦沢宏文君は、ジープに載せられ宿場町にある病院に向かった。皆、祈るような気持ちで見送った。これで助かるのでは、そんな一縷の望みを抱いていた。プールの周りにいた大勢のひとたちは、気が抜けたよう

に散会した。夕方前の日差しは焼けるように強かったが、すすきの穂を揺らす風は、もう秋風だった。

プールに一緒にきていたのは、同じ三年生で、西組の女先生の組の子どもS・K君と一学級上の同じ部落の子ども3人だった。プールでは四年生の子は、同級生と泳いでいて、まったく気がつかなかったと答えた。ずっと一緒に遊んでいたS・K君は、職員室に呼ばれ、何度も、熊谷から情況を聞かれた。だが、S・K君は、よく覚えていなかった。確かに、きたときからずっと一緒にあそんでいた。しかし、ときどきは見失って、どこにいる

かわからないときもあった。なにしろ最後のプールということで、大勢の子どもたちが、プールに入っていたのだ。はじめのうち、追いかけっこをしていたが、そのうち他の子もはいって遊んでいるうちに芦沢君はいなくなった。ほかのグループにいったのかと思った。思い出せることは、これだけだった。しかし、熊谷先生は、聞きだすことが時間を巻き戻せると信じてでもいるかのように、繰り返したずねた。

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S・Kくんは、極度の緊張と疲れでしまいには泣きだしてしまった。

 

※62年後のS・K君の証言、「あの日はお盆を過ぎた暑い日だった。僕たちは、3人でこの年、完成したばかりのプールに泳ぎに行った」(ショックの大きさからか『百年』誌と日にちにずれがあった。S君は、いまもあの日の事がトラウマになっている。)

 

風がやんで蒸し暑い空気がよどんだ職員室は重苦しい空気につつまれた。沈黙のなかS・Kくんの鼻水をすすりあげる音だけが微かに聞こえていた。皆は、祈る気持ちで職員室に一台しかない電話機を見つめていた。長い長い時間だった。熊谷先生はS・Kくんを帰すと、自転車で宿場町にある病院に向かった。実った稲穂で黄色一色の海のなかを夢中でペタルを踏んだ。拭ってもぬぐっても汗が滝のように流れた。これが夢であってくれればいい。着いたら元気になっていた。何度も何度も祈った。

だが、病院の玄関先に咲き乱れる夾竹桃の花や駆けつけた家族や親せき、消防団の人出のごった返しが、悲劇の現実を教えていた。

なにしろ村で、こんな事故が起こるなど、村人は考えたこともなかった。これまで阿知川で、溺れた人の話はきかないが自然の川だけに心配はあった。だが、二年前に新しくできたプールができたことで、そんな心配も雲散した。近代的なプールで溺れる事故が起きるはずがない。村人は堅く信じていた。だが、事故は起きてしまったのだ。

病院周辺は、多勢のひとがいるにも関わらず異様な静まりをみせていた。皆は芦沢くんの意識の回復をじっと待っていた。生還を祈っていた。いつしか残暑はやんで、赤とんぼといっしょに涼しげな風がふきはじめていた。

病院の待ち合い室で両親は、槌で打ち込まれたように無言で座りこんでいた。口をひらくにも開けないほど疲れたといった様子だった。

熊谷先生は、皆の無言の視線がいたたまれなかった。両親に、声もかけることもできず、病院をあとにした。近くの色づき始めた山々、黄金色の稲田の海の上に広がる空の青。自然だけが何事もなかったように美しいコントラストをみせていた。稲穂の実るあぜ道を学校に向かいながら、熊谷は、悔いても悔いても悔い切れない気持ちに苦しんでいた。

あのときプールに写真を撮りに行っていれば、展示作業してくれている先生方に遠慮してあとに伸ばさなかったなら・・・後悔は、あとからあとから湧きあがってくる。

学校に着くと、展示作業は、終わっていた。熊谷先生は、ただただ皆に頭を下げるほかなかった。が、展示会も授賞式も、もはや喜ぶべきことでも祝うことでもなくなっていた。熊谷先生は、過度の疲れからもうどうでもよい気持ちになっていた。いまはただ展示された芦沢くんの写真の前で祈るしかなかった。皆も、声をかける言葉もなく黙ってたたずむばかりだった。

どれほどの時が流れただろうか。廊下を走る足音が響いてきた。皆、入り口に視線を注いだ。教頭先生が、息を切らせてかけこんできた。

堅い表情だった。皆、一瞬にして事態を理解した。教頭先生は、畳を踏みしめて歩いてくると、いちど咳払いして言った。

「いま、橋下医院の方から連絡が入りました。あしざわひろふみくん午後三時一〇分、死亡が確認されました」

女先生が泣き崩れました。皆、うなだれたまま言葉もありませんでした。私は、新聞記者の習性で、早く社にもどって事故の記事をかかなければと急いた気持ちになりました。それで、黙って頭をさげて退室しました。

 

 

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そのとき私の頭の中はひどく冷静でした。ブン屋の常で冷酷でした。水死記事のことと展示会は、どうなるのだろう。そんなことだけを考えていました。最終の輪転機には、まだ余裕がある…そんな時間計算もしていたのです。

私は、隣り町にある社に戻り、事故の記事を書くと、再び桑谷村に戻った。お通夜の取材

と、展示会の動向を書くためであった。

 

残暑の名残が消えて秋風がススキの穂を揺らしはじめた夕刻、芦沢宏文君の家で通夜がはじまった。悲しい葬式だった。弔問客のなか、校長、教頭先生と並んで読経を聴く熊谷先生は、まるで被告人のようでした。身の置き場がないほど、いたたまれない様子でした。

「お焼香をおねがいします」

承久寺のお和尚の力強い声がして、焼香がはじまった。

熊谷先生の番がきた。先生が遺族に深々と一礼した、そのとき

「クマガイさんよ」突然、遺族の席から、鋭い声があがった。「ヒロフミが死んだ原因、先生にもあるんじゃないか。あんたが、写真ばっかし撮ってるんで、そいで宏文は死んだんじゃあないのか」声の主は、痩せて日焼けした色の黒い中年男性だった。

先生は、ひたすら頭をさげた。

「カメラなんか、持って、金持ち面して」

親戚の中年男は、甲高い声で責め立てた。その声に通夜の席はしんと静まりかえった。読経もぴたとやんでしまった。

芦沢くんの家は、満州帰りの貧しい農家だった。「行けば1町歩の大地主」そんな国策のうたい文句に踊らされ、僅かな農地を手放して満州に渡ったのだ。それが3カ月も経たないうちに、無一文となり命からがら帰えってきた。それだけに国の仕事とはいえ満州行きをすすめる満蒙開拓の写真を撮った先生のことは、日ごろからよくおもっていなかったようだ。

「写真展なんかやめちまえ、こんなときに、なにが展示会だ」

「もうしわけございません。やりませんので」

先生は、展示会を中止を決めてきた。せっかく皆に準備してもらったのに申し訳なかったが、さすがこんなときはできないと思った。

「もう写真は、とらんでくれ、ひろふみがかわいそうとおもうなら、もうカメラなんか持てんはずだ」

「すみません。もうとりませんで、カメラはやめますで」

「本当か、それはほんとうだか。ほんまのことずらか」

親戚の中年男は、約束をとりつけるかのようにたたみかけて、詰め寄った。

先生は、あたまを低くして、何度も謝った。その光景は見ていて辛かった。

私は、不安になった。もしかして、先生は、展示会を中止してしまうのではないか、受賞も辞退してしまうのではないか。そうして写真を撮ることもやめてしまう。そのことを、この場で約束してしまうのではないか―――。

そのときだった。

「やめてくんろ!!」

突然、宏文くんの母親が叫んだ。葬儀会場は、一瞬、静まり返った。

「宏文が死んだのは、カメラのせいでも先生のせいでもないだに。宏文に注意がなかったずらに、三年生にもなって、今日も気をつけろといっといたのに、それを、深い方に行って、じぶんがバカだったんな」

「いや、わしがわるかったんな。わしがいってとみとりゃあよかったんな。もっと早く、みにいきゃあよかっただに」そう言って熊谷は、深々と坊主頭を下げると言った。「おわびしきれんが、写真やめますで」

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「先生、そんいうのはやめとくれ、明日からの展示会、必ず開いてくんな。宏文は永遠の一年生です。他の子は、みんな大きくなっていくずらが、宏文は一年生のままです。

ずっとずっとこのさきも一年生のまんまです。そのことをみんなに見せてやってくんなまし。先生、で約束してくんな。先生が写真やめたら、宏文は、忘れられてしまうだ。先生、一年生の写真、これからずっと撮りつづけてくんな。それをひろふみの供養としてくんなまし。約束してほしいだに」

「お母さん、わかりました。約束します。一年生、撮りつづけます。約束します」

熊谷先生は、震え声だが力強く言って、なんども頭をさげた。

参列者もほっとしたのか、会場に安堵のざわめきを感じた。

緊迫していた空気がいくぶん緩んだような気がした。ふたたび読経がはじまった。先生は、焼香を終えると一人とぼとぼと歩いていった。夜の帳が下りていた。私は、走ってあとを追いかけたが、立ち止まった。先生の孤独と悲しみが寄せ付けなかった。

先生は写真をやめてしまうのだろうか。いや、そんなことはない。母親と「永遠の一年

生」の約束をしたのだ。母親の願いを反古にするはずがない。しかし、先生の責任感を思うと、カメラをおいてしまうかも。いや、そんなことはない。

私は、そんな堂々巡りをしながら最終バスに揺られ社に戻った。深夜の締切時間がせまっていたが、葬儀の様子は、どうしても書くことができなかった。

 

これがあの日、起こった出来事のすべてです。先生は、それ以降、あの日のことは封印し

ました。母親との約束を守って、その後の一年生を撮りつづけました。彼らが還暦を迎えるまで、実にたくさんの写真を撮りました。写真や童画、多くの作品が認められ、たくさんの賞を受けました。しかし先生は、いつも寂しそうでした。心から喜んでいないのが私にはわかりました。退職されたあと、村を出られたのは、あの出来事が、ずっとあったせいかもしれません。先生が一年生の成長を撮りつづけたのは、水死した彼への供養だった。私には、そのように思えるのです。私の人生も残り少なくなりましたが、また、写真展でお会いできるのを楽しみにしています。では、その日までお元気で。

 

▼第1回毎日写真賞を受賞した『一年生』―ある小学教師の記録―

 

 

 

下原ゼミ通信Ⅱo.347 ――――――――― 16 ―――――――――――――――――

 

ゼミⅡの記録

 

□4日9日(月)西村他 ゼミ内容 熊谷元一研究について

□4月16日(月)西村、村瀬 なぜ志賀直哉かについて ドストエフスキーの「読書会」

□4月23日(月)西村、村瀬 テキストよみ開始『或る朝』と感想

□5月7日(月)西村、村瀬 テキスト『菜の花と小娘』と感想

□5月14日(月)西村、村瀬 テキスト「ドストエフスキーとギャンブル」下原エッセイ

□5月21日(月)西村、志津木 テキスト読み『子を盗む話』

□5月28日(月)西村 ゼミ合宿についてなど

□5月31日(木)ゼミ番外 熊谷元一写真賞20周年記念展見学 西村美穂

□6月1日(金)ゼミ番外 熊谷元一写真賞20周年記念展見学 浦上透子(4年)

□6月4日(月)西村、村瀬、志津木 写真 テーマ「日大問題」について

□6月11日(月)西村、村瀬、テーマ「悩み」「ゼミ合宿」「継子殺人未遂事件」裁判行方

□6月18日(月)西村、志津木、テキスト『網走まで』読み 感想書き

□6月24日(月)西村、村瀬 テキスト『剃刀』、脚本裁判判決を考える。

□7月2日(月)西村・志津木 ゼミ誌編集会議 タイトルなど決まる。

□7月9日(月)

□7月16日(月)前期最終日

 

掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日 8月25日(土)

時 間 午後1:30 ~ 4:45 懇親会5:00~ お茶会8:00~

会 場 池袋・東京芸術劇場第5会議室

作 品 『未成年』2回目

報告者 : 富樫紀隆さん

 

※参加 興味ある方はどなたでも、決まりはありません。自由です。

 

10月読書会は20日土曜日 時間は、都合で夕方6時00分~21時

 

会場・時間 池袋・東京芸術劇場第7会議室 作品『未成年』懇親会21:00~

 

「下原ゼミ通信」・「読書会通信」編集室

課題・投稿などの送り先メール toshihiko@shimohara.net

連絡 090-2764-6052

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