文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.350

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2018年(平成30年)9月24日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.350

 

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/24 10/1 10/8 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 12/17 12/24 1/7 1/21

 

土壌館創作道場 2018年、読書と創作の旅

 

テキスト読み(志賀直哉作品・他) &熊谷元一研究(情報)

 

テキスト=志賀直哉、他(世界文学)、エッセイ・評論の読み。

討論会、テーマを決めて話合う。

社会観察 いま起きているニュース、話題になっていること。

熊谷元一研究(童画・写真観察)写真・童画展情報

9・24ゼミ

 

後期ゼミ前半  後期ゼミ前半はゼミ誌作成を主体に

 

2018年の夏休み、有意義に過ごすことができましたか。日本列島は、記録的猛暑と豪雨被害、強力台風、そして震度7の地震。まさに災害列島でした。この自然災害に加え、人間社会のニュースは連日スポーツ界のパワハラ告発と人災騒ぎ。内憂外患でした。夏の終わりにテニス選手に救われたが、パワハラ問題は、ネズミ叩きのように、まだ続くようです。

 

実りある収穫を期待

 

後期前半、今年の秋は、どんな秋になるでしょう。実りある収穫を期待します…。ゼミ誌刊行に向けて頑張りましょう。

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▽後期・テキスト = 志賀直哉作品『出来事』『正義派』『灰色の月』『にんじん』

▽後期・口演 = 志賀直哉『氾の犯罪』、ルナ―ル『にんじん』

▽歓迎・校外見学 = 第288回ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

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目 次

□2018年「後期ゼミ前半」について―――――――――――――――――――― 1

□2018年ゼミ誌編集報告――――――――――――――――――――――――― 2

□異常気象とSF小説「フェッセンデンの宇宙」―――――――――――――――3

□「真夏の夜の夢」一年生の写真館建設―――――――――――――――――――4

□創作ルポ「もといっさ」―――――――――――――――――――――――――7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.350―――――――― 2 ――――――――――――――

 

ゼミ誌報告 西村編集長奮戦、ゼミ誌作成なる!

 

酷暑と台風、自然災害の多い夏でしたが、西村美穂編集長は、ゼミ誌に専念。早速にゼミ誌編集を成し遂げました。

作成したゼミ誌は、このようです。

 

タイトル  自主創造   いまの日大にぴったりかも

 

ごみ箱のビッグパンが爆発したような表紙絵、面白いです。

 

ゼミ誌には、こんな作品が掲載されます。

 

もくじ

 

[エッセイ]

 

魅惑のお菓子バイキング     西村 美穂

 

小説 創作ルポ 永遠の一年生  下原 敏彦

 

       手        志津木 喜一

 

青        村瀬 琴

 

落語 むりむり         西村 美穂

 

学生対談 日大アメフト問題 新鮮で重要な話題提起

 

[潜入ルポ]

 

熊谷元一写真賞コンクール写真展    西邑 美穂

 

写真のなかでカイコ、養蚕に興味を持つ。

 

悩んで[るつぽん] 

 

文学の世界は五体満足か

 

こびとの生態について

 

どれも楽しく、面白い作品です。

 

 

 

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2018年の夏休み観察

 

―― 異常気象とSF小説 ――

 

2018年の夏は、異常気象の夏だった。酷暑、豪雨、強風、そして、etc…。ニュースからこれら異常気象は、日本ばかりではないようだ。この現象は、世界規模で起きている。つまり地球上のすべておかしくなっている。なぜか。要因は様々だろう。地球の周期的変動によって起こる自然現象、人間の文明化によって起きるオゾン層破壊などの影響。

この異常気象、これは本当に自然現象なのか。眠れぬ熱帯夜、夜空を眺めながら、あれこれ空想していたらエドモンド・ハミルトン(1904-1977)の『フェッセンデンの宇宙』というSF小説を思いだした。アメリカ人、代表作「キャプテン・フューチャー」

物語のあらすじは、こんなである。フェッセンデンという天才科学者のある実験の話だ。私は、大学の同僚フェッセンデン教授が、大学に出てこないのを心配して彼の家を訪ねた。彼は、家に閉じこもって何かの研究に没頭していた。どんな研究か。彼が言うには、「宇宙をつくることに成功した」という。創造の塊、極小ビックバンを爆発させ、研究室のなかに極小の小宇宙をつくったというのである。にわかには信じ難かったが、彼の実験室に行ってみて驚いた。そこには科学や物理学の実験器具。彼がつくったという小宇宙は、こんなだった。

 

二枚の円盤にはさまれて、空中にぽっかり浮かんでいるものがあった。微細な閃光の雲である。見かけはちっぽけな金色のミツバチが無数に集まった群れに似ており、その群れはレンズの形をしていた。この異様なしろものの近くに望遠鏡(のような器具があり)どうやらひかり輝く閃光が密集した例の小さな雲に焦点をあわせているようだ。/

 それらの閃光は微細な太陽なのだ!疑問の余地なくそれがわかった。/自分がミニチュアの宇宙を目にしているのだとわかった。われわれ自身の宇宙にくらべれば数十億分の一のスケールだが、それでも広がりという点では、われわれ自身の宇宙に負けない大きさの宇宙だと。ちいさな極小宇宙が、このフェッセンデンの実験室にうかんでいるのである。

 

 私は、レンズのようなものをのぞきこんだ。彼は叫ぶように言った。

 

「目をはなすなよ。何十億年もの変化をわれわれの時間では数分のうちに見ることになる。もちろん、この極小宇宙の時間が、われわれの住む広大な宇宙の時間にくらべて無限に早く流れているからだ」

/ふたつの惑星が見分けられた。その星の一年は、われわれの一瞬とかわらないのだ!

 

その惑星に展開するのは、そこに棲む生き物の進化だった。そこには人間に似た生き物もいた。それらはちょうど上野の科学博物館の壁に流れる人間進化の映像のように進歩をとげていた。彼らは平和で幸福なくらしをしていた。

フェッセンデンは、この小宇宙にある星ぼしを自在に操り面白がっていた。彼が一番に面白がったのは、文明の進んだ星を接近させ、宇宙戦争を起こすことだった。

このSF小説を思いだしたとき、こんな空想が浮かんだ。この宇宙は、もしかして、誰かがつくったもので、この異常気象は、フェッセンデンのような創造主が自分の陰気な楽しみのために、引き起こしているのでは。気温を1土あげたり、豪雨を何ミリも引き上げたり、台風を何ヘストパスカル度を増やしたりして、人間や生き物の困窮と悲劇を面白がっている。

夜空を見上げていると、空想は尽きない。

 

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熊谷元一研究 & 真夏の夜の夢

 

夢でみた「一年生」写真記念館計画(案)

 

2018年の夏は、連日記録的な酷暑がつづいた。寝苦しい夜だったが、希望ある夢もみた。残り少なくなった人生だが、いい夢だった。せっかくなので文面に記してみた。

 

30年報告

写真家・童画家の熊谷元一(1909-2010)の写真童画作品は、現在、熊谷の故郷、長野県伊那谷昼神温泉郷にある「熊谷元一写真童画記念館」に展示されている。熊谷が手掛けた写真作品は、およそ5万枚あり、それらは熊谷元一写真保存会が管理している。

この記念館は当初(1988年)「ふるさと童画写真記念館」として開館した。が、2001年「熊谷元一写真童画館」として本格的に再出発した。最初に開館してから30年になる。この間、村は大きく発展した。昼神温泉郷は、山湯と花ももの里として栄え、近年は、日本一星空が美しく見える村として知名度を高め、夏場は大勢の観光客で賑わっている。加えて、5年前開館した「満蒙開拓平和祈念館」は、一昨年天皇皇后両陛下が訪問したこともあって、人気沸騰で見学者があとを絶たない繁盛ぶりである。

こうしたこともあって阿智村は、温泉地として、観光地として、隠された昭和の負の歴史を教えてくれる場所としてますます高まっている。

しかし、この繁栄期にあって「熊谷元一写真童画記念館」はどうかというと、残念ながらあまり芳しからぬ道を、一人歩いてきた。開館30年、この間、浮き沈みはあったが、総じてみれば、ほとんど進展はなく、先細りするばかりだという。その証拠に、熊谷元一記念の肝いりで創設された熊谷元一写真コンクールも年々縮小されている。

 

写真童画館を成功させる法

なぜ、熊谷元一写真童画館は、発展しないのか。全国の写真ファンを呼び寄せることができないのか。日本の17人の写真家にも選ばれた熊谷元一。代表作「一年生」は、写真界の金字塔と誰もが認めるところなのに。

「一年生」は『近くて懐かしい昭和の写真展』で、戦後の昭和を代表するスターたち、力道山や美空ひばりと並んで展示されていた。「一年生」は、それほど有名な、貴重な作品。だが伊那谷の山奥にある温泉郷に展示された途端、その輝きは消えた。

なぜ、熊谷元一写真童画館は、故郷において人気ないのか。検証と考察を行えば、このような分析結果が得られる。

一つには、村人と熊谷元一の距離にある。熊谷元一は、村では写真家というより「もといっさ」と呼ばれて村人から親しまれてきた。それ故、村人は、わざわざ「もといっさ」の写真を観に行くことはしない。実例として2015年秋、黒板絵写真展が開かれた。初日、せっかくなので地元テレビに連絡来てもらった。が、来館者は誰も来なかった。隣の宿の従業員さん一人にきてもらった。なんともお寒い限りである。

二つには、写真と童画と一緒にしたことにある。

熊谷元一写真童画館から「一年生」独立を

起死回生策の提案は、「一年生」を分離独立させることにある。多くの人は、熊谷元一は知らなくても『一年生』は知っている。写真集『一年生』の愛読者は全国に大勢いる。

そんなわけで一年生の写真だけを常時展示の建物があればと思う。

以上の考察と検証から「一年生」だけの建物(校舎のような)づくりを夢にみた。これが、熊谷元一の作品をひろく世に問えることができる最善の道。夢計画をたてた。

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夢計画

『一年生』写真記念館建設計画(案)

 

 土壌館やまなみ道場建設計画(案)

建設の目的と意義

 

  1.  岩波写真文庫『一年生』は、愛読者が多い。普遍的価値がある。「一年生」の写真展示のみの写真館を創ることで、全国から多くの写真ファンの来館が見込まれる。写真の村宣言した村発展に貢献できる。
  2.  過去・現在・未来において教育現場での撮影は不可能。その意味で「一年生」の写真は、奇跡的、かつ貴重な写真。
  3.  「一年生」にみる教師・熊谷元一の教育実践を広く世に知らせ、これからの教育に役立たせる。

 

建物の名称

 

写真館  (仮)『一年生』写真記念館(4教室分の建物)

 

展示場所(3教室)

 

展示品(教室1)→ 「一年生」の写真 学校内の様子

 

展示品(教室2)→ 「一年生」学校外、遊び、手伝い

 

展示品(教室3.) → 熊谷元一・一年生関連DVD、

 

図書(ドストエフスキー文献も)

 

付随施設(教室4).古校舎がなければプレハブ建てで

 

柔道場 →  (仮)土壌館やまなみ道場(30~50畳)

 

 

実施手順

 

  1.  場所となる敷地の確保 候補→ 三本木平 大塚橋付近
  2.  校舎 廃校をさがす。3~4教室分
  3.  展示品の収集 → 一年生の写真 、絵、黒板絵、文集など

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以下は、その計画案である。

昭和28年長野県会地村会地小学校一年東組・西組再現教室

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廊下                          土壌館道場 →

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|          |          |          |

|   教室1    |   教室2    |  教室3     |

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展示品内訳

 

第一教室 = 岩波写真文庫「一年生」の写真 写真保存会

 

【写真作品】 表紙 入学式 記念撮影 通学路 教室 廊下

 

第二教室 = 図画 黒板絵 文集 自宅遊び 教室内動線

 

図画66枚(東・西全員) 黒板絵30枚(東) 文集33名(東)

教室内動線(東) 自宅周辺での遊びと手伝いの写真

 

第三教室 = 「一年生」関連図書・関連映像

 

【関連図書】記念文集『五十歳になった一年生』、写真集『五十歳になった一年生』

記念文集『還暦になった一年生』、写真集『黒板絵は残った』

記念冊子「古希になった一年生」、文集「こどもかけろよひのてるほうへ」

他、「一年生」関連写真集・童画本・新聞記事

※『山脈はるかに』、『伊那谷少年記』他。

【関連映像】NHK「教え子たちの歳月」、NHK長野「知るしん 熊谷元一追悼番組」

NHK「阿智村――ある山村昭和史」、長野朝日放送「黒板絵は残った」、

 

付随施設1. 土壌館やまなみ道場の建設(畳30~50畳)

 

少年柔道教室  自彊術体操  高齢者受け身の練習指導「転ばぬ先の受け身」会発足

 

付随施設2. 日本ドストエーフスキイ資料館

 

主な作業

 

ドストエフスキー文献の収集  全作品を読む会の開催  読書会通信の発刊

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創作ルポ

もといっさ

 

下原敏彦

第一章 夢、果てなく

 

二○一○年(平成二十二年)十月末

晩秋の青空が窓いっぱいにひろがっていた。熊谷元一は、一人部屋のベットを少し持ち上げて、ぼんやり窓外をながめていた。どこが悪いというのではないが一週間前、なんとなく体の不調を感じたことから、清瀬の自宅から、そう遠くないこの老人介護施設に思いきって入居した。妻の貞子は数年前、亡くなった。性分が独立独歩の性格なので、もしかのときは、と、申し込んでおいたのだ。先ほど、今年五歳になる曾孫が長男夫婦と見舞いにきた。すっかりわんぱく坊主になった曾孫は、入ってくるなり元気に駆けよってきた。

「じいちゃん、きたよ」

曾孫は、いった。

「ほう、きたか」

熊谷は、おどけ顔をして叫ぶとからかうようにきいた。

「わしは、いくつだ ? 」

「ひゃく一さいだよ」

曾孫は、そんなことぐらいはしっているぞ、といわんばかりに胸をはって答えた。

「ほう、百一歳か」熊谷は、おどけたように言った。「そんねん生きたのか」

「いやですよ。おじいちゃん、そんな言い方しては」

後から入ってきた長男の嫁のいく枝は、叱るように言ってほほ笑んだ。

彼女は、熊谷が教師を定年退職し、東京の清瀬に家を建て妻の貞子と故郷長野県から越してきて以来からずっと同居してきた。出版社に勤める夫は多忙でほとんど家にいなかった。彼女は、二人の子どもを育てながら、熊谷元一という写真家・童画家の窓口になって働いてきた。出版社の打ち合わせや来客の予約や接待。彼女が一人で切り盛りしてきた。姑の貞子が病気入院してからは、秘書として、嫁として、姑の役として、三足のわらじで熊谷を支えてきた。それだけに、つい強い口調にもなる。が、熊谷は、意に介さない。

「えれえ、いきたもんだなあ」

と、他人事のように感心している。

「まだまだ、大丈夫ですよ」

遅れて入ってきた長男と孫夫婦は、口々にそう言って笑った。

本当に、そうみえた。それもそのはず、熊谷は、生涯を通じ病気らしい病気をしたことがない。入院したのは七十三歳のとき脱腸手術のため市内の病院に一度入院したきりだった。体は、子どものときからすこぶる丈夫だった。体で悪いところといえば右目が乱視で、徴兵検査のときに乙種だったことぐらいだ。白寿をむかえても歯も丈夫なら、耳も聞こえた。左目は眼鏡なしで新聞が読めた。一〇一歳になっても変わることはなかった。

そんなわけで、このたび入院となっても息子夫婦は、たぶん一過性のことだと思った。すぐに退院してカメラを手に清瀬の街に出ていく。足が動かなければ新しいことを考える。そんなふうに思っていた。なによりも熊谷自身もそう思っていた。これまでとはちがう写真集をつくりたい。それが夢だった。

賑やかだった見舞客が帰って部屋は、急にひっそりした。熊谷は、じっとしていることが嫌いだった。家族のものが言っていたように、足さえ動けば、自分は、まだまだ大丈夫だ。足が弱っていくぶん歩行困難になったが気持ちは青春時代のあの頃と変わらない。

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一〇一歳か・・・さきほどの曾孫との会話をおもいだした。とても自分のこととはおもえなかった。自分には、まだまだやることがある。これで、終わりになってもらっては困る。そんなふうに思った。

しかし、いまここに横たわっていることは現実だ。熊谷は、少し焦った気持ちになった。が、すぐにその気持ちを振り払うように小春日和の日差しがふりそそぐ窓に目をやった。晩秋の黄昏前の空は、あくまでも高く青く澄み渡っていた。

不意に熊谷の脳裏に赤石山脈の上にひろがる信州、伊那谷の青空が甦った。その瞬間、新しいアイディアがひらめいた。

よし、退院したら、阿智村に帰ろう。これまで白黒の写真集しかだしてなかったが、こんどは、カラーを混ぜて山や川を撮る。これまでは村人の生活しか撮らなかった。故郷の自然にカメラを向けたことはなかった。よし、これからは故郷の山や川や空が相手だ――新しい力がふつふつと沸いてきた。101歳、もといっさ 夢は、果てなくひろがっていく。

 

第二章 生涯一教師の謎

 

 

二〇一〇年十一月六日、東京都清瀬市の老人介護施設で一人の写真家が亡くなった。一〇一歳だが、現役だった。最期までカメラの話をしていたという。陽気で元気だった。「そうか、そんなに長く生きたのか」と、皆を笑わせ永遠の眠りに着いた。

伝え聞くところによると教え子の一人に自分の葬儀のとき、バンザイをやってくれと頼んでおいたという。実行されたかどうかは不明である。が、要するにそうしたお茶目で独創的な人物だった。

翌日、新聞各紙は、一斉にその死を報じた。「写真家熊谷元一さん死去」(読売)「満蒙開拓民の写真 熊谷元一さん」(朝日)「写真・童画家 熊谷元一さん死去」(信毎)などなど。いずれも写真家・童画家と記されていた。後日、NHKテレビの特集番組でも「写真家熊谷元一」として紹介されていた。追悼番組のなかでもアニメ映画の巨匠宮崎駿監督が「いつみてもすごい写真」と感銘していた。つまるところ写真家・童画家として功なり名を遂げた一生だった。

だが、熊谷には、写真家、童画家の他に、もう一つの顔があった。二〇一一年五月二十八日、信州のある山村、熊谷の故郷の公民館で、熊谷元一の偲ぶ会が開かれた。参加者の多くは、教師時代の教え子だった。追悼セレモニーでは、彼らは思い出を語った。

そう熊谷は小学校教師でもあったのだ。生涯一教員として定年まで勤め上げた。それ故、写真は、あくまでもアマチュアカメラマンであり、童画も、完全なる童画家ではなかった。

しかし、熊谷が世に知られたのは、余暇の写真と童画だった。とくに名を馳せた写真においては、あくまでもアマチュアカメラマンを冠と徹して譲らなかった。そのことで、熊谷は、自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」と、たとえていた。三足のうち、写真と童画の二足は、完璧に履ききったといえる。メディアで写真家、童画家としての紹介が証明している。この二つのわらじに比べ、本職の教師はどうだったのだろう。残念ながらこちらの評価は、村においてあまり芳しいとはいえない。

偲ぶ会で、教え子たちは、教師としての熊谷を、このように評した。「教室で勉強を教わった記憶がない」「天気がよければ、すぐ郊外学習だった」。教え子たちの記憶にあるのは、教室でものを教えるより子供たちを外に連れ出し自由にさせ、そのスキに好きな写真を撮っていた先生。教師時代、熊谷はそんな印象だった。

そのことを裏打ちするようにご長男が最後の挨拶でこんな打ち明け話をされた。

「家にいるときは暗室ばかりいるので、学校で何を教えているのか、子供ながらに不思議に

 

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思っていた。それで、あるとき親父の鞄をこっそりのぞいてみた。そしたら中には、カメラと弁当しか入っていなかった。いま、みなさんの思い出を聞いて合点がいきました。やっぱりそうだったかと。とたん、しんみりした会場に笑いが起った。

熊谷の人生は、生涯一教師だった。だが、マスメディアにおいては写真家・童画家だった。しかし、生まれ故郷の村人たちには、写真家でも、童画家でもなかった。教師でもなかった。「もといっさ」それが村での熊谷のすべてでであった。村人にとって「もといっさ」は、たんに写真を撮る「もといっさ」、童画を描く「もといっさ」、教師をしている「もといっさ」であって、写真家、童画家、小学校教師ではなかった。写真家熊谷と聞いても訝しむばかりだ。

しかし、村人の思いをよそに写真家、童画家として功績は眼を見張るものがあった。とくに写真家としての熊谷は、早くにその実力は認められていた。昭和十三年に朝日新聞社から出版した写真集『会地村・一農村の写真記録』をはじめ今日まで出版された写真集の数は知れない。それらは、いまや日本の貴重な財産となっている。なかでも昭和三十年に岩波写真文庫から出版された『一年生』は、写真集の金字塔といっても過言ではない。

童画においても、昭和四三年に福音館から出版された絵本『二ほんのかきのき』は、今日のいま現在まで百万部発刊のロングセラーをつづけている。

偲ぶ会のパンフレッドに列記された熊谷の写真家・童画家としての功績。私は「熊谷元一氏略歴」を見ながら、ふと、ある疑問が湧きあがってくるのを禁じえなかった。それは、なぜ熊谷は、教育現場に戻ってきたのか、である。戦前においてもこれほど輝かしい実績があるのに、道はひらけていたのに。熊谷は何故、教師に舞い戻ったのか。戦後、定年まで教師をつづけたのか。なぜ、プロの写真家に、童画家になろうとは思わなかったのか。そもそも、その道が、最初の目標ではなかったか。

熊谷は、なぜ小学校教師をつづけたのか。

そんな素朴な疑問だった。この謎を解くため、熊谷の自伝ともいえる著書『三足のわらじ』の足跡を追ってみた。

私は一昨年から大学ゼミで熊谷元一研究をはじめた。2015年のゼミ合宿は、写真家熊谷元一の故郷阿智村で行った。現地では「熊谷元一写真童画館」と「満蒙開拓平和記念館」を見学した。阿智村は、私の故郷でもある。昼神温泉郷にある写真童画館には、帰省のたびに足を運んだ。が、一昨年、開設された満蒙開拓平和記念館は、はじめての入館だった。

熊谷元一と満州。両者は、一見、何の関連もなさそうだ。現に、熊谷元一写真童画館には、満州を感じさせる展示は殆どない。満蒙開拓平和記念館では、熊谷元一の名を探すのが難しい。同時代だが、両者は、まったく別の世界にいた。恐らく学生たちは、そのように思っていたようだ。その証拠にどちらの会場でも両館見学の理由を聞く声はなかった。

だが、熊谷元一と満州には、切っても切れない縁があった。そうして、そのことは、熊谷の人生に大きく関係していた。だが、熊谷元一は、生涯そのことを口にすることはなかった。

熊谷元一は、私の小学一年のときの担任である。大人になってから恩師を囲んで定期的に同級会を開いた。その度に宴席で、恩師に満州のことをたずねた。しかし、恩師は、いつも黙って微笑むばかりだった。それ故、に平和記念開館見学の最中、私の脳裏には、そのことが何度も浮かんだ。

満州のことは、子供のころ青少年義勇軍だった叔父や部落の大人から話を聞いていた。が、記念館でボランティアのガイドの説明や展示から改めて戦争の悲惨さと国策の恐ろしさを知った。が、話を聞きながら私が考えていたことは、「熊谷元一は、なぜプロ写真家にならなかったのか」と、いった疑問だった。

二〇一〇年一一月六日、熊谷元一は亡くなった。一〇一歳の大往生だった。新聞各紙は、ただ一紙、朝日新聞(長野中南信版)が「満蒙開拓民の記録写真」と見出しをつけただけで、あとは写真家熊谷元一と報じた。が、そのどれもがあくまでもアマチュアカメラマンを冠と

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した記事内容だった。熊谷元一は、生涯一小学校教師として、その人生を閉じたのだ。膨大な作品群と数々の功績を残して。なぜ熊谷は、プロの写真家にならなかったのか。生前、なんどか宴席でたずねたことがある。しかし、恩師は、いつも黙って微笑を返すばかりだった。もうそんなことは、どうでもいい。教師だったから、おまえさんは、教え子なのだ。そんなふうに言っているようにも思えて、それ以上は聞けなかった。

熊谷元一は、なぜプロカメラマンにならなかったのか。それはとりもなおさず、なぜ生涯一小学校教師で終えたのか。と満州は、切っても切れない縁がある。熊谷、その人生の根幹は、満州と満蒙開拓団で成り立っている、と言っても過言ではないだろう。熊谷が101歳で亡くなったとき、訃報を報じた新聞各紙の見出しは、たいてい写真家、童画家だった。「満蒙開拓民の記録写真を撮った」とあげていたのは僅かであった。

と満蒙開拓団と熊谷元一は、一見、なんの関連もなさそうに思えるが、その実、両者は、切っても切れない関係にある。熊谷元一の生涯を振り返ったとき、満州と満蒙開拓民は、熊谷と深く関わっている。そう言っても過言ではないと思う。

だが、熊谷元一と満州をなぜ見学の目標にしたのか、戦後70年後に知る真実ということで、貴重な体験ではあったが、熊谷との関連を考えた時、訝しげに思ったようだ。なぜなら、満蒙開拓平和記念館の方には、熊谷元一の名前はむろん、それに繋がるようなものは何もなかった。なにもないのである。確かに、満蒙開拓の悲劇は知る必要はあるが、を見学した。私は、阿智村出身なので満蒙開拓団のことは、知っていた。シベリア抑留だった叔父さんも満蒙開青少年拓義勇軍だったし、隣りのおじさんもそうだった。、。館内を回りながら思ったことは、阿智村出身で、五年前、東京の清瀬で亡くなった写真家の熊谷元一のことである。

むのたけじは、責任をとって新聞社を辞めた。

熊谷もまた国策に加担したみそぎとしてすぐにでもなれたプロ写真家の道を絶って、生涯一小学校教師の道を選んだ。いまは、そう思っている。

 

第三章 またふたたび

 

昭和四十一年六月十六日早朝、熊谷元一は妻貞子と知人の車で伊那谷を縦断する三州街道(153号線)を一路、東京に向かっていた。後に続く二台のトラックには、家財道具一式が積み込まれていた。夜明け前の梅雨空は、どんよりとしていたが、東の向こう空は、まるで朝日が昇る前のように白々として明るかった。左手に延々とつづく赤石山脈が妙にくっきりと見えた。見慣れた風景だが、日常では見納めになる。そう思うと胸にこみあげてくるものがあった。元一は、感無量な思いで、黙然と眺めながら胸の中で別れを告げた。

「さらば故郷、さらば赤石の山々」

前年、二十年勤めた小学校教師を定年退職することになったとき、熊谷は、躊躇なく宣言した。

「村を出て、東京に行く」

だが、はじめそれを聞いても誰も本気にしなかった。――というより皆は、何のことかわからなかった。東京に遊びに行きたいといっている。そのように解釈しようとした。

妻の貞子でさえ、長年の教員勤めの洗濯に東京見物をしたくなったのかと思った。熊谷は、戦前、戦中、東京で役所勤めをした。結婚し、新婚生活をスタートせたのも東京だった。それ故、東京は熊谷にとって第二の故郷といえる。しかし、夫が定年後の人生を東京で過ごしたい。そう思うほど東京を懐かしがっていたとは、おもえなかった。

熊谷は、教師時代、既に写真家・童画家として成功していた。熊谷の写真と童画のモチーフは、あくまでも故郷の村の生活、文化、風習を扱ったものだ。そんなことから、熊谷が村を離れるなどということは、誰も想像だできなかった。

 

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熊谷の東京行きの言葉は、退職後のご苦労様旅行で二人の息子たちがいる東京に遊びに行く。そんなふうに軽く受け止められた。

しかし、実際は家屋、田畑すべてを片づけて先祖伝来の墓だけを寺に託して、東京に移り住むのだ。その決意を知って、村人は、むろん熊谷を知るだれもがビックリ仰天した。村人の多くは耳を疑った。カメラを持って写真を撮りまわっている熊谷は、村人たちの目には変わりものの先生でしかなかったが、写真家としての評価は知る人ぞ知る、全国区であったのだ。早い話、村の宝、(名誉村民)

東京にいる二人の息子たちも、例外ではなかった。突然に、電話で知らされ驚いた。退職金で東京郊外に家を建て一緒に住みたい、との申し出だった。結婚したばかりの長男は、半信半疑で承知した。が、心のどこかでは、まだ信じかねていた。

誰もが思うように、てっきり退職後は、生まれ故郷で、老後を好きな写真を撮り、童画を描きながらのんびり過ごす。俳句を趣味とする妻貞子と悠々自適な生活を送る。そのように思っていたのだ。それに中央高速道建設計画も、決まっている。後、十年も待てば、東京はぐっと近くなる。四時間余りで行けるようになるのだ。老齢になってから、なにもわざわざ、都会に住むことはないのに。

「どうして・・・」「なぜ・・・」

皆は、首を傾げた。あまりに突飛過ぎた話にただ驚くばかりで疑問を呈することさえ忘れていた。

おかげで話はとんとん拍子に進んだ。計画通り退職金で東京に土地を買い、家を建てて長男夫婦と暮らすことができるまでになった。三月に退職してから引越しの今日まで、あわただしい日だったが、それも、もう終わり。明日からは、東京での自分の新しい人生がはじまる。それを思うと身が引き締まった。貞子は、引越し作業でくたびれ果てたのか、眠っている。いや、眠ったふりをしているかも知れない。東京行きをつげても、何も聞かなかった。若いときなら、うれしいかもしれないが、還暦間近になっての東京住まいなどうれしいはずがない。生まれ故郷を捨てて、親、兄弟、親籍とも離れ、趣味の俳句仲間とも別れてゆくのだ。しかし、彼女は、何もたずねなかった。

熊谷は、戦争末期になって、故郷の村に帰ってきた。そのとき、貞子が詠んだ句を突然、思いだした。

 

ふるさとはまだねむたげに春の雪

 

徘句のことはわからないが、ひどくなつかしい気がした。

いつしか空は晴れて夕映えが赤石の峰々に映えていた。まるで、朝日がのぼってくるようだった。いま自分は、ひのてるほうへ、向かっている。子供のころからの夢を果たすために。そう思うと胸が高ぶった。まるで「こどもかけろよ ひのてるほうへ」だな、熊谷は、昭和二十八年に被写体とした「一年生」の文集の題名を思いだしほくそ笑んだ。そして、くちのなかで「望郷」の詩を詠んだ

 

故郷いかに清くとも

語る人こそ望ましき

淋しき時ぞ都辺に

故郷の友の名を呼ばん

 

そうして最後に歌うように小さく口ずさんだ。

 

さらばふるさと  ふるさと さらば             つづく

下原ゼミ通信Ⅱo.350 ―――――――― 12 ――――――――――――――――――

 

 

ゼミⅡの記録

 

 

□9日24日(月)予定 夏休み報告 ゼミ誌原稿校正

 

 

 

 

 

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掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日 10月20日(土)

時 間 午後6:00 ~ 8:45 懇親会9:00~

会 場 池袋・東京芸術劇場第7会議室

作 品 『未成年』3回目

報告者 : フリートーク 司会進行 :小山 創さん

 

※参加 興味ある方はどなたでも、決まりはありません。自由です。

 

10月読書会は20日土曜日 時間は、都合で夕方6時00分~21時

 

月 日 12月15日(土)

時 間 午後1:30 ~ 4:45 懇親会5:00~

会 場 池袋・東京芸術劇場第5会議室

作 品 『カラマーゾフの兄弟』1回目

報告者 : 未定

 

 

「下原ゼミ通信」・「読書会通信」編集室

課題・投稿などの送り先メール toshihiko@shimohara.net

連絡 090-2764-6052

 

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