文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.90

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)11月12日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.90
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007後期10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10  1/21 1/28 
  
2007年、読書と創作の旅
11・12下原ゼミ
11月 12日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」)
   ・ゼミ雑誌について 原稿集めと今後の予定   
 2.「車中観察」(『灰色の月』)& 「家庭観察」(『にんじん』)
 3.名作紹介・店内観察(『殺し屋』)戦争観察(『生きている兵隊』)
 4.紙芝居稽古
  
 
ゼミ誌『CoCo☆den』原稿メーリングリストに掲載
仮完成11月15日(木)を目標に頑張りましょう!
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先夜の出来事「中秋の名月」
 先のゼミのあった夜の出来事である。JR錦糸町駅で快速に乗り換えることにした。秋葉で乗った各駅電車を降りて、快速のホームにあがった。数分待ちで8時55分の千葉行があった。帰宅ラッシュは過ぎた時間で、ホームは三々五々の混みであった。酔客あり、グループあり、読書する人あり、ただ呆然と中秋の夜空を眺める人など、いつもの週はじめの夜の風景であった。私は後部車両の列に並んだ。やがて、快速が入ってきた。総武線快速列車は滑るように目の前を過ぎていった。そのとき、向こうから「あっ」という悲鳴のような喚声があがった。人混みを縫って見るとホームに背広姿の男性が倒れていた。次の瞬間、私は凍りついた。なんと、男性の頭がホームと快速列車の間にスッポリはまっているのだ。無常にも快速列車は、走りつづけている。頭部がちぎれ飛ぶ。一瞬、そんな光景が浮かんで戦慄した。誰もがそう思ったのかも知れない。まるで時間が止まったようにその場に佇んで見つめていた。そのとき、一人の男性が矢庭に倒れた男性の足を持って引っ張った。うつ伏せに倒れた男性はなかなか動かない。誰か手を貸せばとおもったが、近くの人は、とっさのことで足がすくんでしまったようだ。まったくのフリーズ状態にあった。長い時間に思えたが、ほんの一瞬だったかも知れない。倒れた男性は、ズルズルとホームに引き戻された。頭はあったが、動かない。そのとき列車は停まり、ドアが開いた。しかし、だれも乗り込まなかった。降りた乗客も倒れた男性に釘付けになっていた。もう、生きてはいまい。そんな絶望感があった。と、ぴくりと足が動いた。次の瞬間、ホームは俄に騒々しくなった。駆け寄って声をかける人、携帯をかける人、駅員を呼びに走る人。仰向けになった男性の顔は血だらけで誰かが渡したハンカチは、みるみる赤く染まった。が、命に別条ないようだった。ようやく駅員が担架を持って走ってきた。二人の若者が運ぶのを手伝った。快速は、約10分遅れで発


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.90 ―――――――― 2 ――――――――――――――
車した。混雑した車内。澱んだ空気のなか皆、黙然と佇んでいる。いつもと同じ車内風景である。が、気のせいか、和んだ雰囲気を感じた。「助かってよかったですね」思わず、話したい気分だった。車窓に中秋の月が、明るく映っていた。 (土壌館)
車窓雑記
世界各国製作の「民主主義とは何か」番組に思う
 まったくの偶然だが、先般「民主主義とは何か」といった番組をつづけてみた。NHK3チャンネルとNHKBS2だった。この番組は、世界規模で提案され、各国で共同製作されたもののなかから10作品ほど選別されたものだという。最初に見たのは、ロシアの民主主義についてだった。この夜、3チャンネルのATV特集で「いま、なぜドストエフスキーが読まれるか」を見たあと、漠然とながめていたら、先ごろ急逝された建築家の黒川さんの番組のあとにBSではじまった。「愛国の村」というのが、タイトルだった。「ロシアには民主主義はいらない」そう豪語する太った実業家が、頼ってくる若者たちを受け入れ、愛国心を植込むというか刷り込む教育をするもの。「考えるな、ただ従え」がこの村の規則だ。引きこもりの大学生を母親が連れてきたり、行き場のない不良少年少女が集まってくるという。採用資格は簡単だ。「入りたいか、入りたくないか」早い話、昔あった(いまもつづいているそうだが)戸塚ヨットスクールとか共同生活を送る思想・宗教団体のようなものを連想した。実業家の信念を支えているのはプーチンになったら偉大なロシアが復活したという現実だ。部屋の中にロシアの現職の政治家やロシア正教の司祭と並んで写っている写真が飾られていた。選挙して話し合いでものごとを決めるなど、ロシア人には無理だ、不可能だ。それが彼の考えで、支持されてもいるらしい。が、何か妙だった。愛国心こそが、自分を救い、国家を守ることになる。ロシアは生まれついてのツアーの国だという。ヨーロッパに対する敵愾心がいまもって強いのには驚いた。世界文学最高峰にある『カラマーゾフの兄弟』のなかに「大審問官」という章がある。自由かパンかどちらを選ぶのか迫る話だ。パンが欲しければ自由はない。自由が欲しければパンはない。見ながらこの作品を思い出した。
 次にみたのは、日本の選挙だった。ある地方都市の補欠市会議員のドキュメンタリーである。ある強力与党の肝いりで落下傘候補として挑戦する若手官僚。早朝、たった一人で旗をたて頭を下げ続ける場面からはじまった。おそらく幼い頃から秀才で、有名小中高大と歩んできたエリートなのだろう。他人の気持を読めと、しばしば選挙のプロたちに怒鳴られていた。それでも公認候補だけに、終盤には大物国会議員が応援に駆けつけていた。予想は、まったくつかなかった。若手候補は、妻と喧嘩しながら、狭いマンションで雑魚寝同然の暮らしをしながら戦った。そして、僅差で当選した。まさに政治家の仕事とは選挙である。それを強く印象付けた作品だった。三つ目は中国の民主主義。小学校5年のクラスで親をまきこんで学級委員を決める過程をドキュメントしたもの。勉強はできるが気の弱い少女。いじめっ子だが指導力がある少年。口達者な裕福な家の子。3人は、芸、討論、演説をやってクラスのみんなから選んでもらう。驚いたのは、同じクラスで3人のことをよく知る同級生だが、評価というものが一定せず、そのときどき口が上手かったり、物量だったりするたびに支持がコロコロ変わるのである。政治家を決める選挙は、本人については、皆目見当もつかない。ビラにある履歴を信ずるより他にない。この三番組を見た限りだが、共通するのは民主主義というものは、総じて口達者で贈与を駆使した者が有利であるようだ。
 この三つの番組を見て、自由というものが難しいように、民主主義というものも、アジアやロシアにおいては、かなり難しいと思った。民主主義の代名詞は選挙だが、政治家を決めるのに、はたして選挙は有効な手段か。そんな疑問が浮かぶ。この社会において、責任ある専門職は、医師にしろ警察官にしろ、料理人にしろ皆、国家試験というものがある。政治家だけが、何もいらないのだ。金と地盤があればことが足りる。民主主義の形態について、そろそろ考える時代がきているかも・・・。             (土壌館・編集室)
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2007年、読書と創作の旅
11・12ゼミ
1.「2007年、読書と創作の旅」
・ゼミ雑誌について ゼミ誌編集委員から → 原稿提出など現状報告。
 10月29日(月)のゼミは、諸般の事情でゼミ誌会議&ビデオ鑑賞にしました。よって、本日の授業は29日実施予定を繰り下げて行います。
           2.車中観察・テキスト
 テキスト車中観察読みは『灰色の月』をとりあげます。この作品は昭和20年11月(1945)作者62歳のとき書いたものです。最初に書いた車中観察作品『網走まで』は、明治41年(1908)25歳のときである。この間、37年の歳月が流れている。作者志賀直哉は、押しも押されぬ小説家の大家となった。が、日本社会はいろんなことがありすぎた。日露戦争で勝った勝ったと浮かれて戦争を繰り返しているうちにヒロシマ、ナガサキに行き着き、東京は焼け野原になった。車中観察は、一見なんでもない作品だが、車中のなかにしっかりと時代を捉えている。『網走まで』の初期作品は、37年後の日本をしっかり見つめている。『灰色の月』の彼方には何があるのか。他者とのかかわりを嫌う人間が増えている。
 志賀直哉の代表作は長編『暗夜行路』だが、『灰色の月』も超短篇ながら代表作となっている。日本文学においても名作とされている。なぜ、そんな高い評価があるのか、読みながら考えてみましょう。ちなみにこの作品は、作者批判の対象にされている。
3.名作観察読み(家族・季節・店内・戦争)
家族観察・テキストはジュール・ルナール(1864-1910)の『にんじん』です。
「尿瓶」「うさぎ」「鶴嘴」「猟銃」「もぐら」を読みます。訳は窪田般彌
 毎日、新聞をひろげ社会面を見ると、必ずといってよいほど家庭内で起きた事件記事が掲載されています。18日(朝日)「18歳、祖母?を刺殺」「男性(父親)重傷」、23日(朝日)「母親殺害17歳 再び精神鑑定へ」、「父親の遺体遺棄 容疑の長男逮捕」、「幼児コンクリート詰め」などなどである。こうした事件が起きるたびに、決まって近所や知人は、「まさか、あの家族が」「幸福そうにみえました」「普通の家族です」と証言しています。他者の目から、どんなに幸せに見えても、その家の事情はなかなかわからないものです。
『にんじん』一家も作者「にんじん」から見ると問題が大ありです。果たして、ここに書かれた話は真実のことでしょうか。もし本当だとしたら、どうしてこんな情況になってしまったのか。たんに「にんじん」自身に問題があるのか。もし、問題があるとすれば誰が一番に責任あるのか。考えて見ましょう。
乗客観察・テキストはO・ヘンリー(1862-1910)の「心と手」大久保康雄訳を読みます。
 米国文学というとヘミングウェイやフォークナーを思い浮かべますが、短篇小説の面白さにおいては、やはりO・ヘンリーです。「アメリカのモオパッサン」といわれている。
 この作家は、10年たらずの作家生活のあいだに、およそ280編の短篇作品を残している。
店内観察・ ヘミングウェイの『殺し屋』大久保康雄訳を読みます。
 20世紀短篇小説で、最高峰にある作品といえる。簡潔な文体のなかに、人物観察・状況観察がしっかりできている。ヘミングウェイ作品の原点が詰まっている。
 ヘミングウェイの『日はまた昇る』とプルーストの『失われた時を求めて』が20世紀文学の出発点といわれている。が、現代にみる会話文体の源泉は『殺し屋』にあるとみる。
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戦争観察・ ルポタージュ文学最高峰といえば石川達三の『生きている兵隊』です。
 毎年、日本の政治は靖国参拝問題、教科書検定問題などで混迷する。すべては、62年前1945年に終わった戦争が原因である。この作品は、あの不幸な戦争の発端となった南京攻略戦に密着したもの。ルポタージュの最高峰作品といっても過言ではない。戦争がはじまれば、どんな人間も戦場にいくことになる。いい人間も悪い人間も。戦地で彼らは、どう変貌するのか。昭和13年、はじめて中国に行った昨日まで一般市民だった日本の兵隊たちの姿を冷静に客観的に捉えている。この作品は、発売されたその日に発禁中止となった。
 昭和10年、第一回芥川賞を受賞した新進気鋭の作家石川達三は、昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争のはじまりを観察するため12月25日東京を発った。
興味の新聞記事紹介・コピー配布
□ ゲバラの戦友日系人に光り 10月30日 朝日新聞(夕刊)
 前回、「車窓雑記」にも書きましたが、革命家チェ・ゲバラに関係した記事がありましたので紹介します。頭記事は、次のようでした。コピー配布
 没後40年たつ今も人気が衰えない革命家チェ・ゲバラ。共に戦い、同じ年に25歳で銃殺された日系人がいる。フレディ・マエムラ。故郷のボリビアでは長らく親米政権が続き、「逆賊」と目の敵にされてきた。だが、遺族が伝記を出版するなど名誉回復が始まった。
(ラバス≪ボリビア≫=石田博士)
 『革命のサムライ』2006・9 ボリビアで出版
□ 原爆の「英雄」は平穏を望んだ 11月10日 朝日新聞 国際
  62年前の原爆投下は、関係者がすべていなくなっても人類の歴史の汚点としてある。
 心の底では「英雄」になりきれなかったのだろうか。今月1日に92歳で死去したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ機長は生前、静かな暮らしを望んでいた。
(コロンバス〈米オハイオ州〉=立野純二)
4.「少年王者」紙芝居稽古
 時間あれば、この前のつづきから稽古。「少年王者」は、60年前、子供にも大人にも人気のあったベストセラー作品です。紙芝居の形にしましたが、物語の面白さは・・・・・。
季節観察・秋の歌 10月、11月はこの歌を吟唱してみましょう。
秋の歌 ヴェルレーヌ(1844-1896)「土星の子の歌」堀口大学訳
秋風の
ヴィォロンの 節ながきすすり泣き
もの憂きかなしみに わがこころ 傷くる。
時の鐘 
鳴りも出づれば せつなくも胸せまり、
思いぞ出づる 来し方に 涙は湧く。
落ち葉ならぬ 身をばやる われも、
かなたこなた 
吹きまくれ
逆(さか)風よ。
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2007年、読書と創作の旅・旅記録
10・29ゼミ報告
 10月29日(月)、は、芸祭が近づいていたせいか以下の出席でした。(敬称略・順不同)
参加者 : 疋田祥子  髙橋享平  金野幸裕
1.ゼミ誌編集委員(髙橋享平君)からゼミ誌作成の最終段階についての説明と早期原稿提出のお願い。 
 これまでに決定しているのは下記の事項です。
○ タイトル → 『CoCo☆den』(ココデン)。
○ 表紙   →  引田さん候補作品の写真を提出。海と落日。
○ 仮完成  →  11月15日(木)までに、ゼミ雑誌仮完成を目指して努力しましょう。
○ 提出日  →  11月15日に仮完成すれば12月14日(金)に刊行できます。
2.ビデオ鑑賞 芸祭の準備で落ち着かない様子とゼミ誌作成会議に時間を割いたため、以前、見かけのビデオを2本みた。日本テレビ番組「おんぼろ道場再建」、NHKテレビ(アーカイブス)「教え子たちの歳月」
○日本テレビ番組「 おんぼろ道場再建」2002年6月23日、30日、7月7日お昼放映。
 おんぼろ道場を、善意の若者たちが2週間かけて再建する様子。撮影きっかけは、下記の新聞記事からでした。
2002年5月8日 水曜日 朝日新聞「声」欄
 いつのまにか、道場で柔道をけいこする子どもたちが大勢になった。畳はボロボロ、トタン屋根は穴だらけ。雨が降っても風が吹いても心配なオンボロ道場だ。1年半前、道場の借地契約が切れた。「町道場の灯を消さないで」。子どもたちの熱い思いに押されて、地主さんにお願いして道場は残った。息子が小1で入門し、それから十数年、高齢の道場主に代わって指導してきた。何度もやめようと思ったが、父親に反抗していたり、両親が不仲だったりと、家庭のいろんな事情を抱えながら通ってくる子どもたちを見ていると、投げ出すわけにもいかなかった。運動ができる立派な建物は、どこの町にもある。が、いま子どもたちが必要としているのは地域の中の運動の場である。先日も近くの商店街で働く若者が二人入門した。店を閉じた後、仕事着のまま駆けつけ汗を流している。土曜も休みになったことで、これからは子どもたちの入門も多くなるかも知れない。続けられる限り道場を続けてみよう。
撮影(再建工事)期間6月1日~16日
撮影時間 朝8時~夜8時まで 放映時間60分(実質45)
○NHKテレビ「日本点描」番組『教え子たちの歳月』1996年11月24日放映
1996年9月16日 月曜日 朝日新聞「声」欄
 私が小学校に入学したとき、担任の教師は一年間、子供たちを写真に撮った。教室、校庭、通学路。そして家庭での様子までも。昭和28年、山村の子供たちのあらゆる風景だった。その写真は認められ、当時「一年生」という写真集になった。あれから44年目、ことし米寿を迎えた先生は、今度は「50歳になった一年生」を撮るために活動を開始した。だが、長い歳月のあいだに全国各地に散らばっていた。それだけにご高齢のことを考えると一人ひとりの撮影は無理のように思われた。しかし、先般、私のところに訪ねてきた先生は意気軒昂だった。昔の担任のままだった。写真に撮った子供たちのことを実によく覚えていた。現在のこともよく知っていた。そして、活発でなかった子、写真集にあまり登場しなかった子のことをたいそう気にしておられた。教え子たちの人生についても詳しく調
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査していた。そのことが、初老に向かう私たちの励みになり、力になった。真の教育とは、学校を離れてみて、年齢を繰ってみて初めてわかった気がする。
 この22日、先生の米寿を祝って郷里の小学校教室で同級会を開くことにした。
番組は、この同級会を中心に制作されました。(株)フリー映像
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ゼミ雑誌進行状況(11・12現在)
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、11月12日現在までの進行状況は下記の通りです。
☆手続きで、既に完了したものは以下の書類です。
【①ゼミ誌発行申請書】提出、【②見積書】提出
1. ゼミ雑誌編集委員は、
  髙橋享平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
2. 11月12日(月)までの進行状況。まだ提出されていない人からの原稿待ち。
  
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。11月12日現在、大筋内定。
  題名=内定「ココ☆den」、内容=車内観察、サイズ=A4版、
  印刷会社=コーシン出版
4. 原稿内容 → 一人二作(車内1とフリー1、写真可)予算的には大丈夫との事。
5. 11月12日までの現状。提出の原稿がメーリングに掲載。 
ゼミ誌作成終了11月15日(木)を目指す
6. ゼミ誌編集委員から印刷会社に【②見積書】提出完了。
7. 11月の作業は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら編集作業をすす
  める。
8. 出版編集室に見積書を提出は完了。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿予定の有無。12日に判明。
10. 12月14日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ誌提出期限は、12月14日です。
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歴史人物観察 草稿その2「嘉納治五郎とドストエフスキー」から
嘉納治五郎②(推敲しながら書いていくので重複あり)
土壌館編集室
麓からは見えない2山脈
 2007年、今年はドストエフスキーブームで新訳『カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫訳の宣伝やら『21世紀、ドストエフスキーがやってくる』(集英社)などの新刊出版や雑誌の特集(『ユリイカ』11月号、『江古田文学』秋号)が相次いでいる。テレビでも特集番組として放映された。それ故にロシア文学やドストエフスキーを知らない人でも、読む読まないにかかわらずその名をどこかで目にしているに違いない。数年前までは、ドストエフスキーの名を知る人は少なかった。ある有名大学の研究室で、大学院生が教授に「ドストエフスキーってだれですか」と質問して、教授を愕然とさせたという話が文芸雑誌に載ったほどである。なにしろ、その研究室の研究対象が『ドストエフスキイ論』のバフチンであったというから、教授の驚きもなお更だったようだ。トルストイやシェクスピアは、世界の万人が知るところであるが、なぜかドストエフスキーに限って先ごろまでは、そんな状態であった。
 同様の現象は、日本において嘉納治五郎にもいえる。嘉納治五郎といえば、柔道の創始者としてよく知られている。たぶんその姿を写真で見たり、その名を耳にした人も多いに違いない。だがしかし、何をした人か、と尋ねれば、柔道のほかは全く知らない。そんな人も多いのではないだろうか。「柔道の創始者」これ以外、嘉納治五郎について思い浮かばない。今日それが一般日本人の常識となっている。
 たとえば、アンドレ・ジイドの『ドストエフスキイ』(新潮文庫)の冒頭にドストエフスキーについてこんな表現をしている。
 トルストイの巨大な山塊がいまなお地平を塞いでいる。けれども――山国に行くと、遠ざかるにつれて、一番手前の山の頂のうえに、近くの峯にかくされていたもつと高い峯の姿が再三再四現れるのを思いがけず見ることがあるものだが、それと同じように――恐らく、先駆者的精神の持ち主のうちの何人かはすでに巨人とルストイの背後に、ドストエフスキーがふたたび姿を現し、大きくなって行くことに眼をとめているであろう。まさに彼である、まだ半ばかくれている峯、山脈のからみあう神秘な個所の彼である。
 嘉納治五郎の場合も同様である。柔道の創始者だけに、いつも柔道という巨大な山の陰に隠れてしまっている。1882年(明治15年)嘉納治五郎がたった一人の弟子とはじめた柔道は、瞬く間に普及し125年を経た2007年現在、全世界で900万人を超す競技人口を持つスポーツとなっている。1964年開催の第18回東京オリンピックの正式競技に採用されてから毎回、その盛大さを増している。この急激な進歩と発展に柔道は、嘉納の手から離れ、嘉納治五郎を覆い隠すほどの大きさに成長してしまった。それだけに、真の姿を見ることができなくなっている。見上げても、あるのは柔道という巨大な山塊のみである。
 だがしかし、少し離れて振り返ればジイドの言うドストエフスキーのように「もっと高い峯の姿が」いくつもの頂をもつ山脈が現れ出るのを見る。そして、目前の柔道の山塊は、たんに背後の山脈を引き立たせんがためにあることを知るのである。この山脈こそ、嘉納治五郎その人なのだ!日本の偉人伝のなかでも、ひときわ高く連なる山脈。そこには、偉大な教育者の峯、真の国際人の峯、そうしてほんとうのコスモポリタンの峰が天に向かって聳えている。だが、いまだ日本人は、それら峰々を仰ぎ見ることができないでいる。あまりに近くにいるため、その視線は柔道という巨大な山塊に遮られたままである。そして、これは想像だが戦前は、軍部が意図的に遮っていた疑いもある。そんな理由から嘉納治五郎は、今日まできちんと評価されてこなかった。ひと括りに柔道の創始者とだけされてきた。嘉納の理念を無視し封じた日本は、ひたすら戦争への道をひた走り、やがてヒロシマ、ナガサキで世界初の被爆国となった。その理念は戦後も顧みられることはなかった。2007年9月開催の国際柔道連盟の理事選挙で、日本大敗の結果に繋がった要因もそこにある。
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 嘉納の理念に対する国家の反応は、奇しくもドストエフスキーの場合とよく似ている。19世紀末、ドストエフスキーは産業革命に警鐘を鳴らした。共産国家建設を急ぐロシア国民に、2×2が4の危険性を説いた。だが、誰も聞く耳をかさなかった。1922年の革命最中、ペレヴェルゼフは人生を賭けて「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」と呼びかけた。が、その声は時代の濁流のなかにかき消えた。その結果、ロシア国民は収容所群島70年という過酷な時代を味わうことになった。人類は、近年、環境異変による自然災害に曝され、いま地球温暖化の危機を迎えている。人類は、もはや引き返すことができない時代にいる。すべてはあのときだった。だが、まだ一縷の希望はある。二人の理念を真摯に受け止めることだ。作家と柔道家、道は違えど両者の理念のなかに人類の平和と幸福に通じるものがある。森羅万象を調和へと導くものがある。それを理解し、実践すること。それが、この惑星の生きとし生けるもの救済に繋がるのだ。まだ遅くはない。
 本論は、二人の理念一致を検証して世に広く知らしめるものである。が、ドストエフスキーに関しては、既に多数の書物が刊行されているところから、ここでは嘉納治五郎を主に紹介を進めていく。日本で始めてのコスモポリタンであった嘉納だが、その功績に反して書かれた書物はあまりに少ない。故にはじめに嘉納の生涯からみていくことにする。
第一章 嘉納治五郎の生涯
嘉納治五郎とは何か
薄れゆく巨星の輝き 2008年は嘉納治五郎没後70年である。しかし、今日、嘉納治五郎を知る人は少なくなった。柔道の創始者と答えられる人は、まだよい。その名をはじめて聞く人もいる。名は知っていても何を成したか皆目見当つかない人も多い。これは若い人に限ったことではない。柔道経験者や、現にいま柔道をやっている人たちでさえ、嘉納治五郎について、どれほど知っているか。私は、40年近く柔道をやっている。いろんな大会に参加したり、様々な柔道関連の集まりにも出席した。しかし、そうした場で嘉納治五郎の名を耳にしたことは、記憶にない。まして、その理念を聞いたことはただの一度もない。柔道の場でこうなのだから、後は推して知るべしである。2007年国際柔道連盟の理事選で日本は大敗した。そこで聞かれたのは伝統を死守できなかった悔やみである。誰一人として、完全に日本人の手から離れて世界に飛び立った柔道を賞賛するものはなかった。嘉納治五郎は、今後、日本においてますます忘れ去られていくであろう。明治の空に燦然と輝いた星は、その光明だけを残して静かに消えいく運命にある。もっとも、他者が栄えれば自分は二の次と考える嘉納にとって、これもまた一つの理想達成のあらわれであったのかも知れないが・・・。
嘉納治五郎の功績 嘉納治五郎は、何を成した人か。大きく分けると三つの功績をあげることができる。一つは教育者として、二つには体育家として、そして三つ目は柔道家として、それらの進歩・発展に大いに力を注ぎ、近代日本人育成に尽くした。後年は、国際人として人類の平和のために世界を東奔西走した。明治維新での混乱のなかだれもが無料で勉学できる義務教育制度を整備確立させたのは、嘉納である。野球、ボート、機械体操など西欧スポーツをいち早く取り入れ振興させたのも彼なら、空手や合気道など古来の武道を擁護し普及させたのも彼である。なかでも柔術を創意工夫で柔道とし、世界に広げた功績の大きさは計り知れない。黒帯や段位は、嘉納の考案である。また教育の場で、常に国民体育の奨励と書物の多読をすすめ、個人の自由、女性の解放、社会の調和を訴え続けたのも嘉納である。封建社会から脱却させ近代日本人を作ったのは嘉納といっても過言ではない。
嘉納治五郎が生きた時代 治五郎が生きた79年間。万延、明治、大正、昭和の四時代は、波瀾に満ちていた。黒船の来航で鎖国を守ってきた封建制度が揺らぎはじめていた幕末の動乱から明治維新へ。そして富国強兵と大陸進出。日本は、日露戦争の勝利錯覚から歯止め
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を無くし暴走列車のように破滅へと走りだした。士農工商という身分制度から解放された国民は、徴兵制度という法に縛られ、国家に操られるまま戦争へと駆り出されていった。満州国帝政実施、国際連盟脱退、ロンドン軍縮会議脱退、盧溝橋事件、日独伊三国防共協定調印、日本軍南京占領。この暴挙を止められるのは、日本において、もはや嘉納しかいない。世界の良心は、嘉納治五郎に賭けた。第12回東京オリンピック決定。だが、国家総動員法成立の最中、嘉納治五郎は、氷川丸で帰国途中太平洋上で急逝した。星は落ちた。日本は暗黒の中、進軍ラッパ高らかに侵略戦争に、ヒロシマ、ナガサキへと突入していった。
生いたちとその時代
灘の銘酒「菊正宗」と嘉納家 治五郎は、1860年(万延元年)10月28日に摂津国御影村(現神戸市東灘区)の造り酒屋に生まれた。兄二人、姉二人いたから五番目の子である。この家は灘の銘酒「菊正宗」の一族。酒造では、全国に名の知れた名家である。母定子は嘉納家の長女で、父次郎作は婿入りした。が、次郎作は、酒造業は継がず、幕府の廻船方御用達を勤めた。祖父次作は、海に臨む広大な敷地に「千帆閣」と呼ばれた豪邸を築いた。廻船方という役職柄、「千帆閣」には、この時代の名士貴賓が多く訪れた。治五郎6歳のとき、幕府の閣僚小笠原壱岐守長行が沿岸防備視察に来て立ち寄った。そのとき、治五郎は僅か6歳ながら「両手を膝の上にそろえて乗せ、壱岐様のお尋ねにはきはきとお答えしていた」という姉の話が残っている。海軍奉行だった勝海舟は、父次郎作と親しく、しばしば訪れていた。安政三年(1856)、勝がはじめて訪れたとき、次姉が生まれた。記念して勝子と名付けた。治五郎は、10歳までこの家で育った。
万延元年(1860)の出来事 治五郎が生まれた年は、日本も世界も、動乱のはじまりを予感する年だった。新年早々、幕府は勝海舟指揮のもと軍艦咸臨丸を出航させた。アメリカとの条約批准交換のため約100名からなる使節団をアメリカ合衆国に派遣したのである。日本船による最初の太平洋横断の快挙となった。が、その一ヶ月余りの後の三月三日、雪の桜田門外で安政の大獄を断行した大老井伊直弼が18人の浪士に襲われ、暗殺された。世紀の政略結婚とされる朝廷、皇女和宮の降嫁が決定したのもこの年の夏である。また、中国では、北京に英仏連合軍が侵攻、離宮、円明園を炎上させた。円明園には、四庫全書など貴重な文化遺産があったとされるが、すべて灰になった。遠くアメリカでは第16代米大統領選でリンカーンが圧勝した。奴隷制度問題の火薬庫に火がつけられた。翌年、ついに南北戦争が勃発した。ロシアでは翌年の1861年、クリミア戦争で敗北したアレクサンドル二世が農奴解放を宣言した。日本では攘夷主義者による外国人を狙ったテロが横行。
神戸海軍操練所 1860年1月19日、勝海舟は、380トンの木造蒸気船「咸臨丸」を指揮して、浦賀港からアメリカに向けて出航した。遣米使節の一行は、ホワイトハウスでブキャナン米大統領に親書を手交するのが目的だった。使命を果たした勝は、ニューヨークを見学し喜望峰、インド洋経由で帰港した。勝が世界を見てわかったのは、海軍の重要性だった。勝は国防対策として「海国の兵備必ず海軍にあるべし」と主張し、受け容れられた。
 1863年(文久3)幕府は神戸村に海軍所と造艦所を建設することを決定した。神戸には海舟の考えに共鳴し弟子となった若者がぞくぞく集まってきた。そのなかには、土佐藩を脱藩した坂本竜馬の姿もあった。29歳の竜馬が姉の乙女にあてたこんな手紙が残っている。
「・・・近き内には、大阪より十里あまりの地にて兵庫という処にて、おおきに海軍を教え候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子共にも四五百人も諸方からあつまり候事」(1863・5・17付)
 竜馬は、海軍所の寄宿舎で塾頭にあげられたというから、海舟の信頼もあつかったのだろう。竜馬が、勝と一緒に嘉納家を訪問したことは想像にかたくない。3歳の治五郎は、二人のあいだを遊びまわっていたかも。治五郎国際人の一歩はここにあった。  次号へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90――――――――10 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇草稿・習作
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室・志茂
■主な登場人物
 西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督   中島教一郎・・・・大和大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員     柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師 沢田 浩・・・・・ヒロシ。カメラマン
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
第一章〈赤い悪魔〉 一「はじまり」、二「ヤマ族の選択」、三「一枚の写真」、
第二章〈過去からの訪問者〉一「商社マン」、二「隊員たち」、三「再び密林へ」 
第三章〈クメール共和国〉一「滅びの都」、二「日本橋に死す」、三「帰らざる河」
第四章〈再びの密林〉一「戦慄の旅」二「ヤマ族集落」三「再びの宣戦布告」
第五章〈密林逃避行〉一「タイ国境を目指して」二「決戦カオ・プレオ」三「虹の彼方」
あらすじ
 1970年3月、王政の独裁社会主義国カンボジアに政変が起きた。ロンノル将軍は無血クーデターに成功した。しかし、それは血塗られた内戦へのはじまりだった。戒厳令下のプノンペンに入った大和大学探検隊の元隊員たちを待っていたのは、市内での銃撃戦だった。ゲリラと政府郡の戦闘にまきこまれて副長の中島教一郎は死んだ。彼らは引き受けた密林ガイドを躊躇した。が、サムライの約束、キンチョウを果たすことに決め10年前に行った山岳民族ヤマ族の集落に向かった。だがメコンには死体が浮かび、通りすがりの少数民族は全員虐殺されていた。昭和元禄という平和と繁栄の国からきた日本の青年たちは、恐怖にうちのめされた。自分たちが危険な仕事を引き受けてしまったことをはじめて知る。だが、もはや進むしかなかった。ヤマ族の集落に着くが、ヤマ族は、三つに分裂していた。赤い悪魔に詫びて、彼らの傘下に入ることを希望する派。新政府のロンノルの軍隊に助けを求める派。最初決めたように、日本人探検隊に密林ガイドを依頼して、いますぐこの地を離れタイ国境を越え、安全な山を探す派。困惑する元探検隊。フリーカメラマン志望のヒロシは、チャンスと喜ぶ。カンボジアの、しかもこんな密林奥地に足を踏み入れた日本人カメラマンはいないのだ。ヤマ族の選択は、とりあえず赤い悪魔と話し合うこと。三人がヤマを下りる。
第四章
三、再びの宣戦布告
クメール・ルージュのなかの過激派「赤い悪魔」と呼ばれるゲリラたちと話し合いに行ったヤマ族の若者三人は、翌日になっても帰ってこなかった。
「何か、あったのでは」夜明けとともに起きだしてきた村人たちは、口にこそ出さないが、顔はそんな不安に満ちていた。話し合いがうまくゆけば、途中で仮眠しても、早朝、暗いうちに戻って来られるはず。もしかして、そのまま兵士として連れて行かれたのでは・・・不吉な予感がわく。時間がたつに連れ村人たちの心配は、ますます強くなった。真っ暗な空から、ときおり雨が激しく降った。昼近くなって、見張りの若者が集落に駆け込んできた。
「帰ってきました。一人戻ってきました」
息をきらして大声で叫んだ。
 村人たちの何人かは、確かめるつもりで入り口に向かった。シナタが、岩場を血相をかえて駆け上ってきた。後ろには、誰もいない。戻ったのはシナタ一人だった。シナタは、部族
の長たちが待つ集会所の前に着くと立ち止まって、苦しそうに息をきらした。
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90
「チャオとスオンは、どうした」族長のボトンが聞いた。
シナタは首を振った。
「二人は、どうしたんだ。戻ったのはおまえだけか」
「おれは途中で待っていた。チャオとスオンが休憩小屋に手紙を持って行ったんだ」シナタはやっとのことで肩でゼイゼイと息をきりながら言った。「朝まで待っても来ないんで」
「それで、おまえは確かめもせず帰ってきたのか」
タオは大声で怒鳴り飛ばした。
「二人はどうなった」
「わからん、隠れて待っていたら奴らがきた、二人の荷物を持っていた。それで逃げてきた」
シナタは、両膝をついて泣き出した。雨が激しくなった。皆、黙ったままながめていた。
 集会所から、西崎たちがおりてきた。ボトンが、彼らに説明した。西崎は首を振ってソクヘンをみた。十年の歳月は、クマイ語も彼らの言葉もきれいさっぱり忘れさせていた。
「二人は、捕まったようです。どうしたらいいのか、と聞いています」
「どうしたらいいって・・・・おれたちに聞いているのか」
西崎隊長は、困惑顔で皆をみた。
「よし、おれが確かめてくる。どうなったか」高木は、言ってソクヘンに声をかける。「案内してくれ」
「無茶すんなよ。危険だ」西崎隊長は、首を振って反対した。「ミイラとりになるぞ」
「なに、ちょつとみてくるだけです。もし捕まってたら、ゲリラと話してみるよ。日本人なら、やつらも変なマネしないだろ」
「うーん」西崎隊長は、頭をひねった。どうするのか迷った。
「日本人といえば、やつらもへんなマネはしないだろ」
「そうだな、まずは情勢確認が必要だな」西崎は、シナタを見ながら嘲笑気味に言った。「ここの連中じゃ、どうもあてになりそうにないからな」
「しかし、やつらベトコンとは、違うみたいじゃないか」柳沢は眉をひそめる。
「うん、あの殺しがやつらならな。しかし、もしそうだとしても、やつらだってバカじゃない外国人は殺らんさ」言って高木は、ニヤリと笑みを浮かべて聞いた。「それよりニホンとは話したのか。話とけよ」
「まあ、いいよそのことは」柳沢はうるさそうに手を振って打ち切った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ。ソクヘン行こうぜ」
高木は、皆に軽く会釈して雨の中を集落の入り口に向かって歩き出した。そのとき、唐突に一ノ瀬が後を追った。
「なんだ」
「おれも行く」
一ノ瀬は、振り返って言うと、軒下に立っていた、狩人らしいヤマ族の男から、半弓と矢を受け取った。
「おい、なんのつもりだ」
「お守りだ」
一ノ瀬は、真顔で言った。
「ぼくも、一緒に行きます」
ヒロシは、西崎の顔をみた。
「やめとけ、怖いかもしれんぞ」柳沢が言った。
「そんな、大丈夫です。おれ足も速いから」ヒロシは西崎隊長に頼む。「ね、いいでしょ」
 西崎は苦笑する。いまさら反対もないが、だからといって予測もつかない危険地帯に行くのを許すわけにもいかない。
「ぼうや、ついてこいよ。もしかのときの伝令だ」高木が笑って手招きした。
その声に、隊長はふんぎりがついたようだ。ヒロシの背中をポンとたたいて怒鳴った。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90――――――――12 ―――――――――――――――――
 「シャッターチャンス見逃すな。カンボジアのゲリラ撮るのは、世界でおまえがはじめてになるかもしれんぞ。しっかりやってこい、ぼうや!」
「ありがとうございます。でも、ぼうやは、やめてください」
ヒロシは、うれしそうに言って脱兎の如く駆け出した。昨日、ヤマ族の集落に着くまでは大いに張り切っていたのだが、彼らにゲリラと和解してもいいという考えがあるのを知って、落胆した。そうなれば、密林ガイドの必要はなくなる。せっかくきたのにとんぼがえりになる。せめて、赤い悪魔と呼ばれるゲリラを撮って帰りたかった。
 若いヒロシの気持ちがわかるだけに西崎隊長は、承知するしかなかった。ヤマ族の若者二人が戻れば、山を下りプノンペンに引き上げることにしていた。
ソクヘンは、来たときと違う密林の道なき道を3人を案内しながら下っていった。
「ソクヘン、どうして普通の道を行かないのか」
「やつらと出会うかも知れないからです。ここはヤマ族だけの通り道ですから、安心して歩けます」ソクヘンは、白い歯を見せて答えたから、申し訳なさそうに詫びた。「すみません、こんなことになって」
「きみのせいじゃない。それに、まだわからんだろ。二人がどうなったのか。協力してもゲリラが許してくれるかどうか」高木は言った。
「もし二人が兵隊にとられていて。二人もそれでいいと言ったら、どうしたらいいと思います。そうなればヤマ族全部がゲリラ側につくということになります」
「おまえは、どうしたいのだ」
「赤い悪魔たちは、許すとは思えないんです。だから、早く確かめて、協力したい者だけ残し皆を連れて逃げるしかない。そう思っています」
利口な若者だ。高木は、改めて思った。こんな山岳の少数民族に生まれなかったら、もっと明るい人生を歩けるだろうに。
「将来は、なにになりたい」
もう何度も聞いた問いだが、思わずまたでた。
「医者です。いえ、本当は金持ちかな。日本に行って働きたいです」
ソクヘンは、苦笑した。
密林を出ると岩場になった。四人は、ソクヘンを先頭に低い潅木の下を這うようにして進んで行った。通いなれた道らしく、足が速い。高木と一ノ瀬は、腰の痛みを我慢して後を追った。二人とも自分が獣になった気分だった。ヒロシは、航空機疑惑を追っていた先日のことを思い出した。政治家と商社マンの密会を盗撮しようと、路地の闇に何時間も潜んでいたことが遠い昔に感じた。ヒルがいくつも肌の出手いる袖口にくつついた。山を下りると、雑草が生い茂った平地にでた。
「ここからやつらの縄張りです」ソクヘンは、振り返って小声で言った。
 ゲリラの支配地域に入った。虐殺の村を見ているだけに三人に緊張が走った。恐怖を感じた。全身ずぶ濡れの体が、寒くもないのに震えた。潅木の間に山道が見えた。ソクヘンは、なにも言わずに頷くと、腹ばいになって雑草をかきわけて進んだ。朽ちた大木の下で止まると、大きな草の葉を頭にのせてゆっくり大木から顔を出し山道の方をみた。それから三人に顎で合図した。三人は、ゆっくり顔をあげ朽木の裂け目からソクヘンが顎で指差す方向を見た。五十メートルばかり離れた草むらのなかに竹で作った掘っ立て小屋があった。山をおりたときの休憩所か。後で教えてもらったが、乾季の時期、山岳民族たちがここで物々交換するらしい。シナタがいうには、戻らぬ二人は、この小屋でゲリラと話し合いをもったようだ。開け放たれた小屋には、誰もいそうになかった。が、四人は用心して雑草のなかを匍匐前進をつづけた。三十メートルぐらい近づいたとき、前をゆくソクヘンがゆっくり頭を上げ様子をみようとした。
「あっ!」
不意にソクヘンがうめき声をあげて、忍び泣きしはじめた。
―――――――――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90
「なんだ」高木と一ノ瀬は目をこらした。
小屋の前に猫の額ほどの広場ともいえぬ草むらがあった。そこに大木が横倒しになっていて、その上に丸いものが二つ並べられていた。人間の首だった。
「二人か?」
高木は、衝撃を押し殺して聞いた。
ソクヘンは泣きじゃくりながら大きく頷いた。
「ひでえことしゃあがる」高木はつぶやくように言った。「これで決まりだ。引き上げるか」
「まってください」ソクヘンは、拝むように両手を合わせて言った。
「なんだ」
「このままにしてはいけません」
「首のことか」
「はい」
「どうするんだ」
「持って帰りたいんです」
「何をバカな」高木は思わず小声で叫んだ。
「いま、誰もいません。だから」
「罠かも知れんぞ」
高木は、訝しげに言った。
三人は用心深く、小屋周辺をながめた。雨はやんで、あたりは不気味なほど静まり返っていた。葉や繁みに落ちる雨だれの音が、時折、静けさを破った。
「交代か食事にいったんです。きっと」
ソクヘンはしびれをきらせて言った。
「うん、そうかも」高木は、不安そうに頷くと一ノ瀬に聞いた。「どうする」
「わからんときは、やめておいた方がいい」
一ノ瀬はつぶやいて、小さく首を振った。
「ぼく、すぐ戻ってきます」
二人が反対とみたソクヘンは、いきなり飛び出して行った。
「あ、待て」高木は、呼び止めた後、一瞬 躊躇したが、自も飛び出して後を追った。
 ヒロシは、自分もと立ち上がろうとした。が、いきなり大地に押え込まれた。「まだだ」耳もとで一ノ瀬が冷静な声でささやいた。「様子をみるのだ」。二人は見守った。
 ソクヘンは、首の前にいくと泣きながら手を合わせた。
「ひどい、な」
追いついた高木も、手を合わせた。
 そのとき不意に背後の繁みが揺れた。低い潅木の繁みから銃を構えた二人の黒服の男が音もなくでてきた。浅黒い顔に眼が異様に鋭かった。体は痩せてはいるが、精悍そうだった。「しまった!」高木は全身から血の気が失せた。やはり、罠だった。獲物がやってくるまで、何時間も辛抱強く待っていたのだ。二人の黒服を着たゲリラは、大声で何事か怒鳴りつけながら、ソクヘンと高木を二つの首が並ぶ朽木の前に立たせた。射殺するつもりか。高木の全身に鳥肌が立った。が、二人のゲリラは、高木を怪訝そうにながめた。一メートル七十八の身長は、あきらかにヤマ族とは違った。
「こいつは、だれだ?」
一人が銃の先でソクヘンを小突いた。
「この人は関係ありません」
「何者だ!?」叫んで男は、いきなりソクヘンをなぐりつけた。
「答えろ!」
 言葉はわからなくても、何をやりとりしているかは理解できた。
「おれは、日本人だ!」高木は、怒鳴った。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90――――――――14 ―――――――――――――――――
「なんだ?」二人は高木を見た。
「ジャパニーズ、ジャポン、ジャパンわかるか。日本人だ」
「ジャポン?!」
二人は、怪訝そうにつぶやいて顔を見合わせた。
 絶望感にうちのめされた高木の目に、二人の背後で一ノ瀬がゆっくりと立ちあがるのが見えた。手に持った半弓を引き絞っている。小学校からはじめた空手をNYでも夜はジムに通って鍛えていた。が、有段者という誇りは消えていた。足が震えた。三年前ニューヨークの裏通りで路上強盗に襲われたときのことが頭に浮かんだ。あの時は、とっさに膝と正拳骨が出て金的と顔面をとらえ、倒れた暴漢は、頭を消化栓に打ちつけた。次の瞬間、その場から脱兎のごとく離れた。後で聞くと、助かったのはただ運がよかっただけ。空手の技などなんの役にもたたないとのことだ。思い出しながら「落ち着け、落ち着け」と自分の胸にいいきかせた。高木は、ゲリラの気を逸らすために大声で言った。
「そうだ、おれは日本人だ!」
「ジャポン、日本人が、なんで――」言いかけて、男は不意に言葉につまった。そしてそのまま崩れるように倒れこんだ。背中に矢が突き刺さっていた。
 刹那、高木は渾身の力をこめて蹴りあげた。前蹴りは、男のあごをとらえた。骨が砕ける鈍い音がして男は前のめりに倒れた。ソクヘンが驚きの顔でみている。
「早くしろ」高木は怒鳴った。
 ソクヘンは、二つの生首を抱えて走り出した。が、血と雨ですべって持ちにくそうだった。高木は、倒れているゲリラの黒服を引き剥がしてソクヘンにわたして怒鳴った。
「これで包め」
「銃だ、銃を拾ってこい」一ノ瀬が向こうで怒鳴った。
 高木は二人のゲリラの銃を拾いあげると駆け出した。繁みに飛び込んだ四人は、樹海の中を息を切らして山を目指した。
「すみません、すみません」ソクヘンは、道々わびた。
「チャオとスオンは」途中、迎えにきた若者がきいた。
ソクヘンは答えるかわりに首につるしたシャツの包みを示すと、二人は仰天して座り込んだ。 四人が集落に着くと、村人たちはぞくぞく集まってきた。集会場の前で長老たちが待っていた。ソクヘンはタオやボトンたち族長のまえに行くと、何もいわず、首にぶら下げてきたものを置いて、包んだ黒シャツをひろげた。なかから生首がごろんと転がりでた。それを目にした村人たちの絶叫と混乱、両親兄弟の悲嘆。一瞬にしてヤマ族の集落は、恐怖のどん底に突き落とされた。もはや、彼らに選択の余地はなかつた。
「結局は密林ガイドを引き受けることになるな」西崎隊長は、苦笑してつぶやいた。
「早く、出発した方がいいでしょう」高木は言った。「二度も宣戦布告しちゃったわけですからね。やつらも雨季明けまでのんびり待つちゃくれんでしょう」
「まったく、せっかく帰れるとおもつていたのに」柳沢医師は、残念そうに言った。十年前種まいたニホンが、あまりに可愛い少女になっていたので、すっかり動揺している様子だった。「まあ、いいか、ここからプノンペンに戻るのとタイ国境に行くのとじや、変わんないか。それまで一緒だぞ」言って彼は、ニホンの頭をなぜた。
「全員にこの地を離れることを伝えろ」タオは、族長たちに告げた。「いますぐだ」
村人たちは、荷物をとりに自分の家に走った。集落は、蜂の巣をつついたようなさわぎだった。何人かの老人が頑強に
「密林で死ぬんなら、ここで死にたい」と訴えた。が結局は
「同じ死ぬなら一族のものに見守られて死のうじゃないか」のタオの言葉に渋々従った。
 西崎と高木、ボトンのあとに一族はつづいた。赤い悪魔たちがいなくなって、ふたたびこの地に帰って来られることを信じて。出でカオ・プレアの行進は、こうしてはじまった。目の前に砂漠ならぬ、緑の海が果てなく広がっていた。   次回につづく
―――――――――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90
土壌館情報
速報・平成19年度秋季市民柔道大会
健闘!!金1、敢闘賞5
 11月3日(土)船橋市武道センターで船橋市秋季市民柔道大会が行われ373名の選手が参加しました。土壌館下原道場からは小学生10選手が出場しました。また、土壌館下原道場出身者では二宮中学から4選手が、高校からは2選手が出場しました。全選手健闘しました。結果は、小学生が敢闘賞3.、中学生が敢闘賞1、高校生が金1、敢闘賞1でした。選手の皆さん、応援の家族の皆さん、ご苦労様でした。試合結果は下記の通りです。
  
小学生の部 10名 監督・下原良太
1年生   中澤紀和選手  1回戦   惜しい試合でした
      後藤達巳選手  1回戦   初出、頑張りました
2年生   坂本遼季選手  1回戦   頑張りました
3年生   辻元翔太選手  ベスト8  敢闘賞
5年生   小柏駿太選手  ベスト8  敢闘賞
      柳下 誠選手  1回戦   頑張りました
      野沢竜也選手  ベスト8  敢闘賞
      青栁尚慈選手  1回戦   初出、頑張りました
6年生   山口雅之選手  1回戦   善戦しました
      中澤大和選手  1回戦   僅差でした。惜敗。   
土壌館下原道場出身選手-------------------
   
中学生の部(市立二宮中学から)
2年生  野沢竜輝選手  2回戦  善戦しました
     平間琢人選手  2回戦  頑張りました
     塙 裕輝選手  1回戦  頑張りました
3年生  榎本 匠選手  ベスト8  敢闘賞
一般の部 (県立船橋東高校から)
無段の部  越智 宏選手(船橋東) 優勝 金メダル おめでとう!
初段の部  塙 淳輝選手(船橋東) ベスト8  敢闘賞
講評:今回の全試合は判定が多かった。各選手の実力が同じになってきた結果とみます。抜け出すのは稽古しかありません。打ち込みをしっかりやって技を磨いてください。禁止の膝つき背負いと頭突きはありませんでした。
                    土壌館・下原敏彦
審判・辻村英紀  
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.90――――――――16 ―――――――――――――――――
       
掲示板
課題原稿提出に関して
 後期も、引き続き書くことの習慣化を目指して提出原稿を受け付けます。
□ 車中観察(車外も可) □ 一日を記憶する □ 読書感想、社会コラム、ルポ
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年12月15日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 北岡 淳氏 報告「ドストエーフスキイ その咬交円錐的世界』」
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年11月24日土曜日
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 渡邊好明氏
題 目 : 「ドイツキリスト教神秘主義思想における」
           関心ある人は「通信編集室」まで
演劇公演 文京シビックホール小ホール 地下鉄「後楽園駅」「春日駅」
劇団昴企画公演 宮沢賢治作品
『宛名のない手紙』
11月23日(金)14:00
   24日(土)14:00/19:00
   25日(日)14:00       ◎料金3500円
好評発売中
山下聖美著『「呪い」の構造』2007.8 三修社 賢治文学
 宮沢賢治生誕111年。今、伝説のベールが剥がされる!
猫 蔵著『日野日出志体験』2007.9 D文学研究会
  猫蔵が渾身の力をこめて書き下ろした日野日出志体験
山下聖美著『100年の坊ちゃん』2007.4 D文学研究会刊行
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』2006.12
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えてゲンダイ文学であり続ける。 
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006.3
下原敏彦著『伊那谷少年記』2004.6 昭和30年代の原風景、『五十歳になった一年生』
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編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
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