文芸研究Ⅱ下原ゼミ No.91

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2007年(平成19年)11月19日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.91
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
2007後期10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10  1/21 1/28 
  
2007年、読書と創作の旅
11・19下原ゼミ
11月 19日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室3
 1.「2007年、読書と創作の旅」)
   ・ゼミ雑誌作成進行状況の報告    
 2.「車中観察」(『灰色の月』)& 「家庭観察」(『にんじん』)
 3.名作紹介・店内観察(『殺し屋』)戦争観察(『生きている兵隊』)
 4.紙芝居稽古
  
 
追い込み、ゼミ誌『CoCo☆den』編集作業!
 ゼミ雑誌編集委員の高橋・山根の両君は他のゼミ員の協力のもと、急ピッチで編集作業をすすめています。その尽力あって、12月刊行の見通しがつきそうです。12日に覗き見しましたが、パソコン技術と編集力を駆使したすばらしい出来でした。楽しみです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜明けの闘い・多勢に無勢
 それは11月も中旬になろうとする、晩秋の早朝であった。六時半に居間に行くと、妙に外が騒々しい。わが家は都市整備公団住宅の最上階8階の端にある。サッシ戸を開けていれば、音と空気の関係で地上の物音はよく聞こえてくる。が、サッシ戸が閉まっていれば、消防車や救急車のサイレンの他は、さすがに聞こえてこない。なのにガアガアうるさい。ベランダにでてみるとすぐ上の屋上でカラスが騒いでいる。数羽近くいる。カラスたちは、ピンと体を一直線にさせ、さながら空中戦のように飛び交っている。水平に飛んでくる鳥、下から急上昇してくる鳥。その飛翔スピードからただならぬものを感じた。普段は、避雷針か、グランドの銀杏の大樹のてっぺんでのんびりカアカア鳴いて、アホくさくみえる。それが、今朝は、殺気立っているのだ。雛の季節でもないし、何事かと、見物した。
 どうやらカラスたちは、屋上にいるなにものかを攻撃しているようだ。特攻機のように突くこんでいくのもいれば、旋回が得意なゼロ戦型もいる。切れのいいカーブのように翼を縮めて飛翔するメッサーシュミット型、堂々と羽をひろげて真上から切り込んでいくグラマン型。カラスたちは、いったい何を攻撃しているのか。が、なかなか見えない。屋上にネコでもいるのか、とも思ったが、様子から、ネコではないようだ。カラスは数を増してきた。と、てんでに攻撃していたカラスたちが、列になって建物の間を、流れるように下降していった。そのカラスの集団の先に、茶色の鳥が見えた。トンビに違いなかった。トンビは、地上すれすれに下降したあと建物を旋回した。カラスの一群もその後を追って見えなくなった。そして、静かになった。トンビは逃げ切れただろうか。一羽で戦っていたのだ。(土壌館)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.91 ―――――――― 2 ――――――――――――――
車窓雑記
日本の政治に思う
 13日、今国会の最大の懸案だった。「新テロ対策特別措置法案」が、衆院本会議で可決。参院に送付される運びとなった。が、参院で主導権を握る野党は阻止する見通しが強い。結局のところ同法案の行方は(否決された場合だが)、ただちに衆院本会議にかけられ、3分2以上の賛成多数で再可決され成立されることになる。が、それも首相の訪米などで12月15日まで会期が延長されるので始動は帰国後ということになる。時、処を選ばず、瞬時に行動し目的を達成する。テロの基本作戦を考えると、なんとも気の長い話である。もっとも法案はこればかりではない。国民年金、防衛省問題等など山積している。が、それらも遅々として進まない。こうした現状がつづくと、決まって憂国の士という人物が現れ出るのは歴史の常である。(例外は、独裁国家である。その芽はすぐに摘み取られる)国難を打破すべき「さるお方」から提案があり、首相と野党代表が大連立構想を秘密裏に組もうとして失敗。大騒動を呼んだのは周知の事実である。先進国の一員である日本だが、政治においては、まだまだ後進国。それを印象づけた出来事だった。首相は「国民のため」といい。野党代表も「それが一番いい政治だと思った」と説明した。私見だが、もし本当にそうなら、なぜ二人だけで話し合ったのか、国会の場で、堂々と提案し、反対する人には、なぜ反対か、他に案があるのか。国民の前で正々堂々述べてもらえばよかったのだ。都知事は自身が文学者だという思いから『ブリキの太鼓』の主人公を引き合いにだしたが、年齢の止まった人を迷惑だとは政治家の言葉ではない。それより子供のような心を持った人間は、少なくなった。近ごろは、どちらを向いても耳年増か、若年寄ばかりだ。だからこそ、真にそこに政治の真理があるならば、自分の考えが正しいと思うなら、密会だの辞任だの撤回だのと迷走しないで堂々と話し合って欲しものだ。まったく関係ないが、連立ならずの釈明テレビをみていたら明治31年に背水の陣を布いて日本美術院を創立させた岡倉天心の歌とされる歌が思い浮かんだ。「奇骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は 死んでもよい」
 それが国民にとっての一番の策と思うなら、妥協も白紙もないはず。その旗の下、はせ参じればいいだけである。だが、誰一人、旗を立てるものも、はせ参じるものもいなかった。国民の代表者たちは、ただ烏合の衆と化し、全員が評論家となった。あるものはマスメディアに連日のように登場し、したり顔で批評していた。国会は小田原評議の場となり、テロには格好の狙い場所になった。それを察したか、ある大臣は、今頃になってバリ島爆破のテロ犯が日本に侵入していたと明かした。なぜ、今頃かといえば、官僚が相手にしてくれなかったとの弁解し、「ほんとうのことを言ってなぜ悪い」と息巻く始末である。
 なぜ日本の政治は、政治家は、かくも稚拙なのか。明治以来、立派な政治家は沢山でた。しかし何故か真の民主主義は成長しなかった。62年前、日本を占領したアメリカの総司令官マッカーサーは日本を「子供だ」と評した。政治に関しては、それはいまでも変わらないようだ。金持ちの子供。それがいまの日本の姿である。子供だから戦争を起こした張本人たちを神として祀ったり、疑獄事件で有罪判決をうけた人間を、有能な政治家と讃え銅像を拝することに何の抵抗も疑問も感じないのだ。
 それにしても、日本の政治の未熟さはどこからきたのか。明治初年、士農工商の身分制度を廃したあと、なんの知識もなく形だけの代議制国家をつくろうとした日本。ろくな教養も人生経験のない子供がパソコンを欲しがって持つのに似ている。19世紀イギリスで『代議制統治論』を書いたJ・S・ミルは、すばらしい統治論も適用不能な
場合、「代議制国家構造に十分な評価と愛着をもっていないときには、かれらはそれを維持する可能性をほとんど持たない」としている。日本は、中央集権国家の貴族政治、武士の絶対君主せいじ、そして明治と形態は変わってきた。が、官僚政治は一環している。
※新テロ特措法案は11月1日に失効したテロ特措法に代わるもので、①海自の活動内容を会場阻止活動を行う米英などの艦船への給油・給水活動に限定する。②活動地域はペルシャ湾を含むインド洋とする③活動期限を1年に短縮する。ことなど。(土壌館・編集室)
――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
2007年、読書と創作の旅
11・19ゼミ
1.「2007年、読書と創作の旅」
・ゼミ雑誌について ゼミ誌編集委員から → ゼミ雑誌編集作業進行状況の報告。
            2.車中観察・テキスト
 テキスト車中観察読みは『灰色の月』をとりあげます。この作品は昭和20年11月(1945)作者62歳のとき書いたものです。最初に書いた車中観察作品『網走まで』は、明治41年(1908)25歳のときである。この間、37年の歳月が流れている。この35年の間に日本に何があったのか。どんなことが起きたのか。短篇というには短すぎる二つの車中観察作品だが、優れた写真同様、この観察のなかには、言葉にすれば何万言に匹敵するものがある。
 車中観察は、一見なんでもない作品だが、車中のなかにしっかり時代を捉えている。その先を見つめている。志賀直哉の代表作は長編『暗夜行路』だが、『灰色の月』も超短篇ながら代表作となっている。日本文学においても名作とされている。なぜ、そんな高い評価があるのか。ちなみにこの作品は、一部作家たちから作者批判の対象にされている。
3.名作観察読み(家族・季節・店内・戦争)
家族観察・テキストはジュール・ルナール(1864-1910)の『にんじん』です。
「尿瓶」「うさぎ」「鶴嘴」「猟銃」「もぐら」を読みます。訳は窪田般彌
 
店内観察・ ヘミングウェイの『殺し屋』大久保康雄訳を読みます。
 20世紀短篇小説で、最高峰にある作品といえます。簡潔な文体のなかに、人物観察・状況観察がしっかりできている。ヘミングウェイ作品の原点が詰まっている。
 ヘミングウェイの『日はまた昇る』とプルーストの『失われた時を求めて』が20世紀文学の出発点といわれている。が、現代にみる会話文体の源泉は『殺し屋』にあるとみる。
兵隊観察・ ルポタージュ文学最高峰といえば石川達三の『生きている兵隊』です。
 毎年、日本の政治は靖国参拝問題、教科書検定問題などで混迷する。すべては、62年前1945年に終わった戦争が原因である。この作品は、あの不幸な戦争の発端となった南京攻略戦に密着したもの。ルポタージュの最高峰作品といっても過言ではない。戦争がはじまれば、どんな人間も戦場にいくことになる。いい人間も悪い人間も。戦地で彼らは、どう変貌するのか。昭和13年、はじめて中国に行った昨日まで一般市民だった日本の兵隊たちの姿を冷静に客観的に捉えている。この作品は、発売されたその日に発禁中止となった。
 昭和10年、第一回芥川賞を受賞した新進気鋭の作家石川達三は、昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争のはじまりを観察するため12月25日東京を発った。
4.「少年王者」紙芝居稽古
 時間あれば、この前のつづきから稽古。「少年王者」は、60年前、子供にも大人にも人気のあったベストセラー作品です。紙芝居の形にしましたが、物語の面白さは伝わるのか。
 ゼミ雑誌作成が軌道に乗ったら本格的に稽古します。ちなみに「少年王者」を紙芝居の形にしたものは、日本広しといえど、土壌館作成のこの紙芝居以外にないそうです。ことしはじめNHKBS「私が子供だったころ」の番組で小道具に必要になり、テレビ会社は書店、出版社、原作者の家を訪ね探し回ったそうです。が、どこにないとのことでした。結局、土壌館作成のこの紙芝居が必要になりました。「暗黒大陸といわれたアフリカも」ではじまる最初の場面が一瞬、使われました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91 ―――――――― 4 ――――――――――――――――
季節観察・秋の歌 10月、11月はこの歌を吟唱してみましょう。
秋の歌 ヴェルレーヌ(1844-1896)「土星の子の歌」堀口大学訳
秋風の
ヴィォロンの 節ながきすすり泣き
もの憂きかなしみに わがこころ 傷くる。
時の鐘 
鳴りも出づれば せつなくも胸せまり、
思いぞ出づる 来し方に 涙は湧く。
落ち葉ならぬ 身をばやる われも、
かなたこなた 
吹きまくれ
逆(さか)風よ。
興味の新聞記事紹介・コピー配布
先般、ゼミで見た写真集『50歳になった一年生』、NHKテレビ「教え子たちの歳月」関連記事です。
読書・産経新聞 平成19年(2007年)日曜日 読書 コピー配布は無し
書評家・岡崎武志
『戦後腹ぺこ時代のシャッター音』 赤瀬川源平著
かつて岩波写真文庫というシリーズがあった。昭和25年に岩波書店から創刊、33年までに全286冊がつくられた。『木綿』『南氷洋の捕鯨』『魚の市場』『アメリカ人』『かいこの村』等など。おかげで、戦後の匂いの残る、懐かしい日本の姿を拝むことができる。・・・・
戦後の匂い残る写真を解説
・・・今回、赤瀬川選により10冊の岩波写真文庫が復刊されたが、その中の一冊『一年生』
がいい。長野県の小学教師が、自分の担任する1年生の学校生活を写真に撮った。算数の計算を指折って数える表情。黒板にチョークで描かれた落書き集。そして子供同士のケンカまでもカメラに収まっている。無農薬で作られた野菜みたいに、一人一人の表情が豊かで輝いている。
 それに比べて今は、「家庭にも学校にも机上の論理ばかりが蔓延していて、つまり話がやたらと理屈っぽくなってばかりで、素朴さのでる幕がなく、結果として世の中全体が幼稚になるばかりだ」と著者は言う。ここにつけ加える言葉はない。
※ 「算数の数を指折り数える」子どもは、私です。
「マンガ学」大学席巻中 朝日新聞2007年11月16日社会
 日芸では、既に清水正教授が「マンガ論」を授業で取り上げて久しいが、来春、マンガやアニメを教える大学、大学院が相次いで誕生するという。
学習院・東京芸大も来春開設 
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
2007年、読書と創作の旅・旅記録
11・12ゼミ報告
 11月12日(月)は、以下の出席でした。(敬称略・順不同)
参加者 : 疋田祥子  茂木愛由未  髙橋享平  山根裕作
1.ゼミ誌編集委員(髙橋享平君・山根裕作君)は、15日仮完成を目指してゼミ誌編集作業
 をすすめる。
 『CoCo☆den』(ココデンorここでん)。
2.ゼミ雑誌編集作業がパソコン室で進行中だった為、教室では推薦2作品を黙読した。
 女児誘拐犯の心理を観察した、志賀直哉の『兒を盗む話』と、車中観察を一つのオチのある短篇にしたO・ヘンリーの『心と手』の2編読み。
『兒を盗む話』と『罪と罰』
 この作品は1914年(大正3年)4月1日発行の『白樺」第5号に発表された。尾道で一人で生活する青年が、無為の生活の孤独さ可愛い女の子に興味を抱き、高じて、指圧師の幼女を自分の部屋に連れてきてしまう。その間の青年の心理が内側から、じっくり観察され描かれている。ドストエフスキーの作品『罪と罰』で主人公ラスコーリニコフは、屋根裏部屋での閉じこもり生活で誇大妄想的考えに取り憑かれ質屋の老婆殺しを空想し、徐々に現実化し、やがては実行する。空想、計画、犯行の心理状況が無理なく描かれている。志賀直哉の、この幼女誘拐の話しも『罪と罰』同様の手法といえる。志賀直哉は、武者小路実篤など他の白樺派の作家たちのようにドストエフスキーについては、あまりというか殆ど語っても論じてもいない。作品も、ドストエフスキーが人類の問題を提起するのとは反対に、常に家庭と自分の問題を扱ってきた。それだけに、両者には、あまり関連性がみられない。そのように思われ、最近まで論じる評者はいなかった。(この問題について清水正教授が、『志賀直哉とドストエフスキー』『志賀直哉』を刊行している)しかし、この作品は、幼女誘拐と、強盗殺人では犯罪的には違いはあるが、犯罪者の心理観察において『罪と罰』のラスコーリニコフの心理を大いに参考にしたのではと想像する。
 作者直哉は「続創作余談」でこのように述べている。
 尾の道生活の経験で、半分は事実、兒を盗むところからは空想、然し此空想を本気でした事は事実。友達もない一人生活では空想という事が日々の生活で相当に幅を利かしていた。それを実行するには未だ遠いにしろ、さういう想像を頼りにする。今ならさういう想像をする事の方を書くかも知れないが、その時代は想像をそのまま事実にして書いてしまった。もっともこれはいづれがいいとか悪いとか云うことを云っているのではない。『兒を盗む話』は今はもう愛着を持っていない。多少愛着を感じていたこの小説中の描写は『暗夜行路』の前編に使ってしまった。
O・ヘンリーの『心と手』は、車中観察、乗客観察をオチのある佳品にしたてた作者ならではの作品である。ある地方都市の駅で、東部行の列車に美人の女性が乗ってきた。同席の二人の男性は、右が若い二枚目の好青年。左が陰気な感じの男。二枚目の好青年は昔、彼女が都会にいたころ知人の一人だった。が、ふたりが手錠で繋がれているのを知ると困惑した。陰気な男が、容疑者で、好青年が保安官だとわかると彼女はほっとする。昔の知り合いが保安官となって活躍していることを喜んで降りて行く。最期の乗客の疑問がオチになっている。
 「最後の一葉」が有名。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91 ―――――――― 6 ――――――――――――――――
ゼミ雑誌進行状況(11・12現在)
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、11月12日現在までの進行状況は下記の通りです。
☆提出書類の手続きで、既に完了しているものは以下の書類です。
【①ゼミ誌発行申請書】提出、【②見積書】提出
☆11月19日現在までに決まっていること。
・タイトル=『ココ☆den』 ・内容=車内観察  ・サイズ=A4版、
・ 印刷会社=コーシン出版
○ ゼミ雑誌編集委員は、
  髙橋享平君、山根裕作君です。が、全員一丸となって当たりましょう。
○ 11月の作業は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら編集作業をすす
  める。
○ 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿予定の有無。19日に判明。
○ 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
○ 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
ゼミ誌提出期限は、12月14日です。
土壌館日誌・「子ども観察」柔道稽古の熱中度
 土壌館に通う子どもは、なぜか毎年12名前後である。今年は1人が中学生になり、3人が少年野球に移籍した。少人数の方が、楽であり、教え甲斐もある。子どもも熱心になる。よい人数になった、と思っていた。が、そうは問屋がおろさないようだ。しっかり3人が補充された。多数でも、一つ学年なら、そう大変でもない。しかし、1年から6年までの子ども10人前後を一括りで教えようとするとなかなか苦労する。体格も違うし、知恵も違う。性格もちがう。1、2年生は、ほとんど遊びにきている。3、4年生は反抗期に入っている。5年生は、生意気盛り、6年生は、この季節もう試合がないのでだらけ気味、それに中学が近くなっているので斜になっている。こんな子どもたちでも観察していると、いろんなことがわかってくる。柔道に関しては、三通りある。一つは、ここにくれば学年の違った友達がいて面白い。二つには、何もしないと塾にやらされてしまうから。三つ目は、単純に柔道が強くなりたいからである。もっとも、三つ目の子はなかなかいない。いても毎年、一人か二人。様々だが、日々、それなりに成長もしている。それが楽しみでもある。
―――――――――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
歴史人物観察 草稿「嘉納治五郎とドストエフスキー」から
嘉納治五郎とドストエフスキー
(推敲・校正しながら書いていくので重複あり)
土壌館編集室
  「嘉納治五郎とドストエフスキー」を論じるにあたり論順を変更することにした。一般的に嘉納治五郎といえば、即、柔道ということで、はじめに嘉納治五郎と柔道の関わりをとりあげてきた。が、柔道に関心の薄い人たちにとって、それは、まったくの蚊帳の外であったようだ。むろん本論は柔道関係者のみ、ドストエフスキー関係者のみを対象としているのではない。世界中のより多くの人たちに嘉納治五郎の真の姿を知ってもらいたい。それが狙いである。そこで、今後は、柔道とは別のところで嘉納治五郎を照射していくことにした。それにより、これまできちんと評価されてこなかった嘉納治五郎が、真に正しく評価されるようになれればと願う。本論によって嘉納師範の本当の目的であった崇高な理念を少しでも伝播できれば幸いである。
序章 背後の山
麓では見えない山脈
 本当に高い山の存在を知るには、距離が必要である。人物もまた同じである。時間と空間を経て、歴史の中に、ようやく見えてくる。嘉納治五郎とドストエフスキーも、まさにそれである。たとえば、アンドレ・ジイドは、その書『ドストエフスキイ』(新潮文庫)の冒頭でドストエフスキーの偉大性についてこのように述べている。
 トルストイの巨大な山塊がいまなお地平を塞いでいる。けれども――山国に行くと、遠ざかるにつれて、一番手前の山の頂のうえに、近くの峯にかくされていたもつと高い峯の姿が再三再四現れるのを思いがけず見ることがあるものだが、それと同じように――恐らく、先駆者的精神の持ち主のうちの何人かはすでに巨人とルストイの背後に、ドストエフスキーがふたたび姿を現し、大きくなって行くことに眼をとめているであろう。まさに彼である、まだ半ばかくれている峯、山脈のからみあう神秘な個所の彼である。
 まさしく、この通りといえる。富士山がよい見本である。本当に立派な高い山は、離れれば離れるほどその峰々は険峻で雄大に見えてくる。評価は人それぞれだが、ジイドにはドストエフスキーが、そのように見えたのだろう。
 嘉納治五郎の場合も同様である。柔道の創始者だけに、いつも柔道という巨大な山があって、それが嘉納自身だと錯覚していた。柔道=嘉納。そうとられても当然といえる歴史がある。1882年(明治15年)嘉納治五郎が考案し、たった一人の弟子とはじめた柔道だが、瞬く間に普及し125年を経た2007年現在、全世界で900万人を超す競技人口を持つスポーツとなった。1964年開催の第18回東京オリンピックの正式競技に採用されてから毎回、その盛大さを増している。この進歩と発展であまりに大きくなった柔道を創始者の嘉納治五郎と同一視しても不思議はない。もっとも、戦前は、嘉納を故意に柔道で一括りしようとする大日本帝国軍部の謀略があったかもしれない。これはあくまで筆者の想像であるが・・・。そんなこんなで、殆どの人たちは、今日まで柔道の山を嘉納治五郎と見ていた。
 だがしかし、この21世紀の新世紀のなかで振り返ればジイドの言うドストエフスキーのように「もっと高い峯の姿が」柔道の山塊の背後から現れ出るのを見るのである。そして、はじめて知ることになる。目前の柔道の山塊は、嘉納治五郎自身ではなかった。たんに柔道、そのものに過ぎなかったのだと。柔道の山の背後には、偉大な教育者の峯、最初の国際人の峯、そうしてほんとうのコスモポリタンの峰が天に向かって聳えている。だが、日本人は、いまだそれら峰々を仰ぎ見ることができないでいる。本論の検証によって、見える位置まで、読者を移動させることができればと願う。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91―――――――8 ―――――――――――――――――
 
第一章 嘉納治五郎の生涯
嘉納治五郎とは何か
理想は永遠に 1938年(昭和13年)5月4日午前6時33分。太平洋上、アメリカ経由で一路日本を目指すバンクーバー発の客船氷川丸の船内で一人の老人が息を引き取った。彼の死は、平和を願う世界の人たちを絶望の淵に落とした。あの日、老人が亡くなったことで、平和への最後のチャンスが消えた。日本は中国大陸に戦線を拡大し、太平洋戦争に突入した。かくて、第12回東京オリンピックは夢と消えた。
 戦争は、いまもなくならない。新世紀になってもこの星には利己主義が蔓延っている。しかし、たとえ世界がどんなに荒んでも私たち一人ひとりが、氷川丸の船室で急逝した老人の気高い精神を思い出すなら、まだ人類に希望はある。「自他共栄」「精力善用」の精神よ、永遠なれ。
薄れゆく巨星の輝き 2008年は嘉納治五郎没後70年である。しかし、今日、嘉納治五郎を知る人は少なくなった。(前回掲載)
嘉納治五郎の功績 嘉納治五郎は、何を成した人か。大きく分けると三つの功績をあげることができる。一つは教育者として、二つには体育家として、そして三つ目は柔道家として、それらの進歩・発展に大いに力を注ぎ、近代日本人育成に尽くした。(前回掲載)
嘉納治五郎が生きた時代 治五郎が生きた79年間1860年~1939年は、歴史の端境期だった。日本は封建社会から近代社会に、西欧は、植民地競争から世界の覇権争いの時代に入った。まさに波瀾に満ちた時代だった。治五郎が生まれた頃は、黒船の来航で封建制度が揺らぎはじめた時勢。幼年期は、幕末から明治維新へ。そして、少年から青年期にかけては文明開化から富国強兵と大陸進出。中高年期、日本は、日露戦争で勝利したことから、歯止めを無くし暴走列車のように戦争へ戦争へと突き進んでいった。士農工商という身分制度から解放された国民は、徴兵制度という法に縛られ、国家に操られるまま戦争へと駆り出されていった。(追記)
 治五郎が生きた怒涛の年表。主な歴史的出来事。戦争に継ぐ戦争が目立つ。
1860年(万延元年)1月咸臨丸アメリカへ出航、3月桜田門外の変。10月治五郎誕生。
1867年(慶応3年)7歳。坂本竜馬暗殺、大政奉還・王政復古。
1877年(明治10年)17歳。西南の役・西郷隆盛死す。
1884年(明治16年)24歳。鹿鳴館時代はじまる。
1889年(明治22年)30歳。大日本帝国憲法発布。
1891年(明治23年)32歳。大津事件、ロシア皇太子襲わる。
1894年(明治27年)35歳。日清戦争はじまる。
1904年(明治37年)46歳。日露戦争はじまる。
1909年(明治42年)50歳。伊藤博文ハルピン駅頭で暗殺される。国際オリンピック委員。
1912年(明治45年・大正元年)53歳。明治天皇崩御。第五回オリンピック大会へ。日本初。
1914年(大正3年)55歳。第一次世界大戦勃発、ドイツに宣戦布告。
1917年(大正6年)58歳。ロシア革命。
1921年(大正9年)61歳。第七回国際オリンピック大会に出発。
1923年(大正12年)64歳。関東大震災、死者91802人、行方不明者42257人
1927年(昭和2年)68歳。芥川龍之介自殺。
1928年(昭和3年)69歳。第九回国際オリンピック・アムステルダム大会出席。
1930年(昭和5年)71歳。浜口首相狙撃される。
1931年(昭和6年)72歳。満州事変起こる。
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
1932年(昭和7年)73歳。1月上海事変起こる。5月犬養毅首相射殺される。第10回出席。
1933年(昭和8年)74歳。日本国際連盟脱退。第12回オリンピック日本誘致活動開始。
1934年(昭和9年)75歳。満州国帝政実施。
1936年(昭和11年)77歳。1月ロンドン軍縮会議脱退。2・26事件。
1937年(昭和12年)78歳。7月盧溝橋事件。日独伊三国防共協定調印、日本軍南京占領。
1938年(昭和13年)79歳。第12回東京決定。5月4日治五郎逝去。国家総動員法成立。
 まさに波瀾の時代である。とくに晩年は風雲急を告げる時代である。満州国帝政実施、国際連盟脱退、ロンドン軍縮会議脱退、盧溝橋事件、日独伊三国防共協定調印、日本軍南京占領。日本は奈落の底に向かって、まっさかさまに落ちていく暗い時代でもある。この暗澹たる歴史の流れの中にあって嘉納治五郎の活躍は目覚しい。老体に鞭打って世界を東奔西走している。暴走する日本を止められるのは、もはや嘉納しかいない。世界の良心は、嘉納治五郎に賭けた。第12回東京オリンピック決定。だが、国家総動員法成立の最中、嘉納治五郎は、氷川丸で帰国途中太平洋上で急逝した。星は落ちた。日本は暗黒の中、進軍ラッパ高らかに侵略戦争に、ヒロシマ、ナガサキへと突入していった。嘉納治五郎が生きた時代は、日本が近代国家に生まれ変わった時代である。嘉納は、教育において、体育において、柔道の考案と普及において甚大な力を発揮した。嘉納は、近代日本人をつくった。嘉納の79年は、近代人となった日本人に、人類の理念を教えようとした時代であった。しかし、世界を知った日本人は、嘉納の理念を受け容れることなく世界の悪に染まっていった。
誕生とその時代(前号掲載)
灘の銘酒「菊正宗」と嘉納家 治五郎(幼名伸之助)は、1860年(万延元年)10月28日に摂津国御影村(現神戸市東灘区)の造り酒屋に生まれた。
万延元年(1860)の出来事 治五郎が生まれた1860年は、日本も世界も、動乱のはじまりを予感する年だった。新年早々、幕府は勝海舟指揮のもと軍艦咸臨丸を出航させた。
神戸海軍操練所 治五郎が生まれた年は、1860年10月28日であるが、この年のはじめ1月19日、勝海舟は、380トンの木造蒸気船「咸臨丸」を指揮して、浦賀港からアメリカに向けて出航した。
                  幼年時代
 三つ子の魂、百までもという言葉があるが、治五郎10歳までの幼年期、彼を取り巻く環境が、将来の人間嘉納治五郎を形成するのに大いに影響したとみる。まず母の愛。次に神戸にできた幕府の海軍所。海軍所に来る人たちの話から治五郎は、世界を知った。
 1863年(文久3)幕府は神戸村に海軍所と造艦所を建設することを決定した。神戸には海舟の考えに共鳴し弟子となった若者がぞくぞく集まってきた。そのなかには、土佐藩を脱藩した坂本竜馬の姿もあった。29歳の竜馬が姉の乙女にあてたこんな手紙が残っている。
「・・・近き内には、大阪より十里あまりの地にて兵庫という処にて、おおきに海軍を教え候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子共にも四五百人も諸方からあつまり候事」(1863・5・17付)
 竜馬は、海軍所の寄宿舎で塾頭にあげられたというから、海舟の信頼もあつかったのだろう。竜馬が、勝に連れられ嘉納家を頻繁に訪問したことは想像にかたくない。3歳の治五郎は勝と竜馬のあいだを駆けまわったり、勝がアメリカで見てきた話を皆にするのを聞いている光景が思い浮かぶ。後年、治五郎が世界人、国際人たる所以はここにあったといえる。
偉大な母親 治五郎の母定子は、明治二年(1869)治五郎が十歳のときに病死する。僅か十歳で母親を亡くすのは、悲しく辛い出来事だ。が、この十年間の母の教育が、嘉納治五郎の人生理念「自他共栄」精神を生み出す源となったといえる。父親は幕府の廻船方の仕事ということでめったに家に帰らなかった家にあって、母は嘉納という名家を守り、酒造業を盛りたて、子供たちの教育に尽くした。まさに、立派な母、偉大な日本婦人であった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91――――――――10 ―――――――――――――――――
「父親は多くその時の江戸におって・・・終始多忙の身であったから、家の事は殆ど顧みる
暇がなく母や使用人に委ねてあったわけである。」として「それゆえ自分の幼少の教育は殆ど全く母の手一つによったのである。」と述懐している。
母の教育 治五郎の家は広大なお屋敷であった。近所の子供が大勢遊びにきていたという。貧乏の家の子も裕福な家の子もいた。が、定子は、貧富、身分、年齢で区別することがなかった。皆、平等に遊ばせた。しかし、お菓子を配るときは、治五郎がいつも一番後だった。このことに不満をもって治五郎は、あるとき母にこう尋ねた。
「よその家では、自分よりその家の子供の方がよく取り扱われるのに、わが家ではそうではない。なぜか」定子は、それには答えず、ただ「他所の子供はよくすべきものだ」と言っただけだった。晩年、治五郎は、そのときのことを思い出して、自分の子供たちにこう話した。
「これは人の上に立つものは人より先に苦しみ、人より後れて楽しみを受けるべきで、人間として生まれてきた以上は他の為に尽くすということを忘れてはならないという母の訓えだった。こういった無言の訓えは子供心にも強く深く染み込んだ」また、母の思い出として、その人となりをこのように書いている。
「私は十歳の時に母と死別したが、母はまことに慕わしい人であったが、また怖い人でもあった。普通はとても可愛がってくれたが、私が何か間違ったことをした時は何処までもとがめ、心から悪かったと反省し、詫びるまでは絶対に許してくれなかった。母は常にみんなの為にと言って、他人のことに自分を忘れて尽くしていた。誰にこうしてやろうとか、あの人が気の毒だからしてあげようなどとよく言っていたのを覚えている。私が人の為に尽くそうという精神になったのはこの母の感化だ」
 母定子は、幼いわが子の心に二つの種を蒔いて逝った。治五郎は、その種を芽吹かせ、育て、大樹にした。嘉納治五郎が唱えた世界人類の共存共栄への理念「勢力善用」「自他共栄」精神は、まさに母定子の教育がもとになった。そう想像にかたくない。嘉納治五郎にとって母が亡くなる前の幼年期は、本当によき思い出となる黄金時代だった。
ドストエフスキーの母 ちなみにドストエフスキーの母マリヤは、ドストエフスキーが十六歳のときに亡くなった。商家の出で、にぎやかなことが好きな陽気な性質だった。ドストエフスキー作品が訴える人類救済の為の精神の一つ「善き思い出は人間を救う」は、母と過ごした少年時代の記憶である。
少年から青年時代
上京した時代 1867年に大政奉還があり、翌年、明治維新が始動はじめると、治五郎の父次郎作は明治政府に起用され、東京で官職につくことになった。次郎作は、母に死なれた息子二人を引き取って一緒に暮らすことにした。かくて治五郎は、文明開化がはじまろうとする東京にやってきた。ときに1870年(明治3年)治五郎11歳であった。この時代は、日本も世界も大きく変わろうとしていた。「スエズ運河開通」「アメリカ大陸横断鉄道開通」、「東京――横浜間に電信線架設」は新しい世界のはじまりを、ナポレオン三世プロイセンに降伏や日本の「戊辰戦争終結」は古い社会の終焉を思わせた。そうして、まさにこの時代、とおくイギリスで一人の哲学者で経済学者が出した本『女性の解放』(1869)が話題を集めていた。ジョン・スティアート・ミル。後に治五郎の理念を形付け、精神の支えとなった人間である。が、むろん、11歳の治五郎は知る由もない。
勉学時代 総じて治五郎は勉強好きな子供であった。生来の負けず嫌いな性格が努力家にもした。神戸にいたときは七歳のとき近所の個人教授に通い習字、経書の素読などをした。漢字の初歩を修めた。上京してからは、学問の連続であった。「東京では最初漢字と習字を学び課程教師を頼んで英語を学びはじめた」と書いている。治五郎は、語学、特に英語が得意のようであった。(家族の話によるとその日記は晩年に至るまで総て英文で記されていた
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
という)。少年時代は、進んで英語塾に通っていた。明治七年、15歳のとき官立の外国語学校が創立された。治五郎は、入学すると本格的な勉強を開始した。翌年、卒業すると、開成
学校(明治10年に東京大学となる)に入学した。大学では文学部の中の政治理財科に入籍し、14年に卒業すると文学部哲学科の道義学と審美学の選科に入学する。治五郎22歳のときである。治五郎は、この勉学時代を、どのように振り返っているか。このように話している。
 「…文部省の学校へ入ってから大学を卒業するまでの間、初めの間は随分勉強もしたし、学課においても優秀の成績を得ておったが、大学を卒業する間際になっては、運動に主として力を用い、学科は第二に考えて、それ程力を用いなかった。その中途の時代は丁度運動と勉強が相半しておったくらいであった。」
 昔も今も文武両道は、学生の理想である。が、実践するとなると難しい。とくに治五郎の時代では、皆無だったに違いない。では治五郎は、なぜ文武両道を実行したのか。
負け嫌いの性格 治五郎には、文武両道を実行しなければならない理由があった。よい意味で治五郎は完璧主義者だった。それだけに立派な人間は、智、徳、体の三拍子が必要と考え、自分もその三つを備えなければという思いが強かった。智は、努力すればなんとかなるという自信があった。徳は、人のために尽くせという母の教えが骨身に沁みている。が、体については、いささかというより大いに不安を抱いていた。病気ではなかったが体は小柄で虚弱だった。大学に入っても体重は13貫そこそこ。体力は生まれついてのもの、どうにもならない。「勉強すれば学課等においても、あまり人に劣らぬ自信はあったけれども、身体の虚弱は著しく他の人に劣っていた」。しかし、それでも人には絶対に負けたくない気持があった。このことは、「幸いにして自分の負け嫌いが良い事に利用されたのだと思う」として、西欧から入ってきたスポーツを積極的に体験することになった。野球、ボート、山歩きなどである。後に、治五郎は運動をはじめた動機をこう述べている。
 「自分の学生時代は今日いう所の体育という意味よりも、弱ければ他人に馬鹿にされるというその考えから自分の体力を鍛えようという決心をしたのである」
治五郎少年の切実な問題 だが、学生時代、体力をつける運動だけでは解決しない問題が起きた。いくら勉学ができても強くなくては意味がない。そんな不条理が生じた。治五郎は、学校でいじめの対象にされてしまったのだ。ただ体を鍛えてもいじめは防げない。
いじめ対策 現在、いじめは日本のみならず世界中で大きな問題となっている。日本では、いじめによる自殺のニュースが後をたたない。世界でも起きている。このあいだも、遠く北欧の国で、いじめによる発砲事件があった。いじめを受け、女友達にもふられたという少年が学校で銃を乱射して、多数の人を殺傷した。日本のいじめは、いまでこそ中学、小学校だが戦後は大学の運動部、戦前は軍隊と根が深い。江戸時代、江戸城内の松の廊下で赤穂藩城主浅野内匠長矩が刃傷沙汰をおこしたのも、いじめが原因のようだ。当然、明治はじめの学校も例外ではない。いくら徳があっても、勉学に優れていても、腕力の前にはどうすることもできない現実があった。開成学校・東京帝国大学での出来事でこんな証言がある。
「学生の中には旧藩そのまま腕力をほこるものがある。殊に高知県から出た千頭清臣、福岡孝季、仙石貢が主導者の形をなして、事があれば人を殴った。千頭は校内一の元気者で、ある日、嘉納治五郎が気に食わぬと、ひどく殴りつけたが、嘉納は手向かいできなかった。」(加藤仁平著『嘉納治五郎』)人一倍正義感と負けん気の強い治五郎だけに無念さはいかばかりだったろう。弱ければ馬鹿にされても何もできない。「当時はなかなか乱暴な世の中で喧嘩も多く弱い者は随分辱められる場合もあった」弱いもの、正しいものを救うこともできない。治五郎が、いじめ対策で思いついたのは、武術だった。「日本には柔術というものがある。その柔術を習っておけば自分らの如き弱い者でも他人に負けないだろう」こんな悲壮の思いから熱心に柔術の師を探した。     次号へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91――――――――12 ―――――――――――――――――
2007年、読書と創作の旅・「下原ゼミ通信」80号記念・実験的冒険活劇草稿・習作
KINCHOU
    キンチョウ ―サムライの約束―
土壌館編集室・志茂
■主な登場人物
 西崎泰造・・・・・ダム建設現場監督   中島教一郎・・・・大和大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員     柳沢晴之・・・・・大和大学付属病院医師
 一ノ瀬幸基・・・・高校教師 沢田 浩・・・・・ヒロシ。カメラマン
 ソクヘン・・・・・ヤマ族の若者 プノンペン大学の学生
第一章〈赤い悪魔〉 一「はじまり」、二「ヤマ族の選択」、三「一枚の写真」、
第二章〈過去からの訪問者〉一「商社マン」、二「隊員たち」、三「再び密林へ」 
第三章〈クメール共和国〉一「滅びの都」、二「日本橋に死す」、三「帰らざる河」
第四章〈再びの密林〉一「戦慄の旅」二「ヤマ族集落」三「再びの宣戦布告」
第五章〈密林逃避行〉一「タイ国境を目指して」二「決戦カオ・プレオ」三「虹の彼方」
あらすじ
 大和大学探検部の元隊員たち5人は、10年前探検に行ったインドシナの山岳民族ヤマ族にタイ国境までの密林ガイドを頼まれ、引き受けた。再びやってきたインドシナ最大の密林カルダモン。そこには猛獣のほかに赤い悪魔と呼ばれる残虐なゲリラが棲みついていた。ゲリラはロンノル将軍率いる新政府と戦うために、少数民族の若者狩りをしていた。拒めば部族全員が殺された。が、マヤ族は拒否した。それ故ゲリラから逃れるためにタイ国境までの道を知っている元隊員たちに密林ガイドを依頼したのだ。だが、危険を冒してヤマ族の集落に着てみると、部族の考えが分かれていた。ゲリラに謝罪して今のままこの地に棲むことを希望する組が、三人の若者を交渉に送った。しかし、翌日になって戻ってきたのは一人だけだった。二人はどうしたのか。高木はソクヘンの案内で交渉場所に行ってみることにした。一ノ瀬とヒロシも加わった。交渉場所となった休憩小屋の前に、生首が二つ。ソクヘンは持ち帰るために駆け寄った。高木は、止めようとつづいた。が、罠だった。二人の赤い悪魔が潜んでいたのだ。一ノ瀬が放った矢が一人を倒し、空手二段の高木の前蹴りがもう一人のゲリラのあごをとらえた。ヤマ族は再宣戦布告した。もはや、この地を離れ、タイ国境を目指すしかなかった。大混乱のなかヤマ族の移動がはじまった。
第五章 密林逃避行
一、タイ国境を目指して
総勢百八名の一行が集落を脱出してから三時間が過ぎていた。途中までは、ヤマ族の領域。山繭を採って歩いた山々で道もつづいていた。が、道が険しくなるにしたがって見慣れた風景は消え、いつのまにか人跡未踏の密林のなかに入っていた。なだらかな傾斜を登りはじめると視界がひらけてきた。ヤマ族たちにとって、まったく見知らぬ土地だった。振り返ると、眼下には緑の絨毯が、重く垂れ下がった灰色の雲のはるか彼方まで広がるばかりで、もはやどのあたりに集落があったのかもわからなかった。
二人の若者の生首を見せられた恐怖と、いますぐに赤い悪魔のゲリラたちが襲ってくる。そんな切羽詰った危機感から、大人も子どもも夢中で、ものも言わずに歩いてきた。が、ここにきてようやく故郷を捨ててきたという思いがこみあげてきた。あるものは涙ぐみ、あるものはおしゃべりをはじめた。子どもたちは、時間が過ぎたことで、緊張も薄らいできた。少しずつはしゃぎはじめていた。
西崎と高木は、先頭に立って十年前往復した密林を記憶と磁石を頼りに進んだ。起伏の多
―――――――――――――――――――― 13 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
い山岳地帯だったので、岩や沢に、なんとなく見覚えがあった。が、見通しの悪い低地に入ると、まったく方向がわからなくなった。右も左もうっそうと繁る密林があるばかりである。
「こんなことなら、あのとき、しっかりした道標をつけておくんだった」
「また、くるとわかっていればな」隊長の泰造は、残念そうに舌打ちしてから「しかし、あのときはカンボジアには不法入国だったからなあ。証拠は残せんしな」と苦笑いする。
「大きな岩と、遺跡が目印になりますよ」高木は、言った。
 足元で子どもがクックと笑った。五六歳のヤマ族の男の子だ。途中から二人にくっついてきていた。泰造が話しかけても、言葉がわからぬせいもあるが、クックと笑うばかりだ。泰造は、自分の子供を思い出してか二人をドングリと呼んでいた。
「お、なんだ、またドングリが笑ってるぞ」西崎隊長は、ヒゲ面をほころばせた。
「隊長をドジョウと間違えてるんでしょう」高木は、からかうように言ったあと、ふと思い出してか、北西方向を見て言った。「そうだ !ドングリといえばお山だが・・・たしか、その先にピラミットみたいなバカでかい岩があったような気がする」
 高木の記憶どおり茂みを抜けると右手の森の向こうに白っぽい突き出た三角がみえた。
「おー」泰造は歓声をあげて、いきなり二人の子どもを抱き上げて見せる。「ほら、あの岩、みえるだろ。この道で間違いなしだ。記憶抜群、記憶のケンだな」
「ケン」
子どもはうれしそうに声をあげた。
「おっ、ドングリがケンと言った。覚えがはやい」泰造は、笑って二人をおろした。
 二人は笑いながら転がるように、後方にいる親たちのところに走っていった。
「子供は、どこの子供も同じだ」西崎隊長は、つぶやくように言った。
 高木は見送りながら、その横顔に寂しさを感じた。彼にも、同じ年頃の子どもがいたことを思いだした。奥さんには、何と言ってきたのだろう。まさか、こんな危険な旅をはじめているとは、夢にもおもっていないだろう。自分だって、恋人の玲子には、「いい機会だ。学生時代の気分に浸ってくるよ」と言ってきた。大学を出てから、高度経済成長の波にのって仕事、仕事の毎日だった。キンチョウの話は、「命の洗濯」という天からの贈り物。そのように捉えた。それはここにきたほかの隊員にもいえることだ。しかし、中島教一郎の思わぬ死からはじまった、予期せぬ事態の数々。ここは死体も殺人も日常時の世界だった。学生時代に戻ってジャングルでのんびり命の洗濯。そんな思いは吹っ飛んだ。だというのに、高木は、なぜか、日本にいれば非日常であるこの場になんの違和感もなかった。人間はこんなにも早く環境や状況になれてしまうものか。あのゲリラはどうなったのだろう。ニューヨークのときは感じなかったが、人間を力任せに蹴り上げた感触がまだ快く残っていた。
「たしか、あれを越せば、尾根にでる」
「そうだった尾根なら、楽になる」
二人は、互いの記憶を呼び起こしながら進んだ。いつのまにドングリが戻っていた。
 道なき道を歩くだけでも大変だが、養蚕生活者のヤマ族は、密林を歩くのに慣れていない。その上、子供や老人を引き連れた大移動である。足場の悪い岩場やつる草が生い茂った場所は、前進するのに困難を極めた。が、とにもかくにも一歩でも前に進むしかなかった。夕方も近づいていた。
「あのゲリラたち、どうするかな」
「どうするって?」
「やつら雨季が終わるのを待つしかないってことさ」
「わからん」
「乾季まで、待つんだったら、あんなにあわてんでもよかった」
「どうなんだ、わからんなあ」西崎は、首を傾げる。
「第一、あんな連中がいるなんて聞いたことがなかった」
「そうだな、ベトコンは知ってるが、クメールルージュなんて・・・。日本でも報道された
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91――――――――14 ―――――――――――――――――
ことがない」高木は、言ってから苦虫をつぶす。「報道されてたって、おれは、知らなかったね。インドシナのことなんか、すっかり忘れていたからな」
「おれだって同じさ」つぶやいて西崎は、会話をもとにもどした。「これで二度、奴らを殺したことになる。あの二人が死んだとすれば、ソクヘンの話だと、徴兵にきたとき三人殺したといっていたから合計で五人殺したことになる」
「五人もよか」
「だからよ、ゲリラ連中、とても雨季が終わるのを待てないだろ」
「追ってくるのか」
「うん、それが最悪のパーターンだ」西崎は、深刻な顔で言った。それから、不安を振り払うように「そうならないのを祈るよ」と無理に笑顔をつくった。 
 先頭の西崎と族長のボトンは、草木を傷めないように進んで行った。一行が通った跡を残さぬようにするために。が、百人近い人間の通過。むずかしかったが、雨が、洗い流してくれるのを祈るしかなかった。が高木が受け持った。十年前に往復した密林。道なき道だった。なかほどを柳沢医師がニホンが、手をつないで歩いていく。その後ろをユンが黙ってついてゆく。三人の後姿をみれば、若い親子にみえた。はじめのうちは、恥ずかしそうにしていたニホンも、自分にも父親がいたということが自信になったのか、しっかり柳沢の手をにぎっている。いつのまにか。しんがりを一ノ瀬が務めた。ヒロシは、少し興奮気味だった。それもそのはず、このフイルムを日本に持ち帰ったら、採用しない雑誌はない。まだ駆け出しとはいえ、その確信はあった。
「いいよ、いいよ、気にしないで」ヒロシは、もうピューリッア賞でもとった気分で、列を前後して写真を撮っていた。子供たちが面白がって後を追いかけまわしていた。出発したときの緊張感はなかった。一族の大移動は、お祭り気分のようだった。
 峠を登りきると眼下に密林が波打つようにひろがって見えた。はるか東の地平は、夕方が近いこともあって、ほとんど暗黒色だった。
「まるで海だな、嵐の前の」西崎は言った。「北アルプスとはスケールが違うよ」
「しかしこんなだつたらやつらも、わからんだろう」柳沢は、ニホンを抱き上げてみせる。
「そうだなあきらめるかも。このジャングルでおれたちを見つけるのは砂漠に落とした十円玉を探すようなものだぜ」高木は、薄笑いを浮かべて頷いた。
「バカいえ、もともと密林をねじろにするゲリラだ」一ノ瀬は、慎重だ。
「そうだな」高木は、真顔になると不安そうにつぶやいた。「やつら、村にきたかなあ」
「交代がいつきたかだな」と、一ノ瀬
「すぐなら、もう村は襲われているころだ」高木は、腕時計を見ながら言った。
 突然、悲鳴のような叫びがあがった。皆、一斉に声の方を見た。ホアンが大きな岩の上に立って南東の方角を指差していた。
緑の荒波の彼方から糸のような白い煙が、いく筋も上がっていた。以外と近い場所だった。集落が燃えている。だれにもすぐにわかった。とたん泣き叫ぶ村人たち。なかには、すぐに戻るつもりの村人もいたようだ。が、これで、帰るのは不可能となったのだ。
「泣いてる場合か。はやくしろ、追っ手がくるぞ」
西崎は大声で怒鳴った。
「これで皆もあきらめがついたろ」タオは、族長のボトンに言った。
「はい、気にすることなく進むことができます」言ってボトンは大声で叫んだ。「出発するぞ!暗くなるまで歩きつづけるんだ!」
 一行の顔から笑顔は消えた。皆、真剣な顔で足を速めた。密林は、まるで荒海のように草木が生い茂っていた。所々には、岸壁のような巨石が緑の波濤を防ぐように聳えていた。何世紀も前、こんな密林の高知に寺院があったのだ。その巨石が薄闇のなかでも、確かな道標となった。しかし、十年の歳月は、よりいっそう行き手を閉ざしていた。つる草が縦横無尽に走り、巨石をも空中高くもちあげていた。一行は、草や蔓を伐ることなく道なき道を進ん
―――――――――――――――――――― 15 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91
で行った。赤い悪魔が追ってくると思うと、だれもが必死だった。やがて、夜のとばりが完全におりて、密林は墨を塗ったような暗がりになった。皆は、その場に座り込んで眠った。
二 待ち伏せ
 翌朝、小雨が降るなか、薄明かりの茂みを一行は出発した。寝ているあいだにゲリラは追ってきただろうか。それが心配だった。皆、話もせず、配給のバナナをたべながら歩きつづけた。昼近くに目指した遺跡に到達した。十年前、迷って密林のなかを彷徨った末、最後に休憩した場所だった。
「ここで小休止する」西崎はソクヘンに言った。
 ソクヘンは、ボトンに告げ、皆は、どっと座り込んだ。疲労困憊の様子だった。だれも口をきくものはいなかった。雨もやんで静寂だけが密林を押し包んでいた。
「静かだな」西崎は、つぶやいた。
「うん」高木は、薄晴れになった空を見上げた。
 ふたりとも妙に胸騒ぎがした。とおくで、なにか動物の鳴き声らしい叫びがした。
「あれは」
 ソクヘンはタオに聞きにいって戻ってくると緊張した顔で言った。
「ブタザルが騒いでいるそうです」
「それで」
「ブタザルは侵入者がいると騒ぐそうです」
「赤い悪魔か」
「早いな。もう追いついたのか」
 タオは族長と、若者頭のチャットに伝えた。二人は、平然を装って軽く頷いた。
「どうする」
「シナタを置いてきた」
長老の甥のシナタは、交渉にいったとき二人を残してきたので罰として、一行からおくれたところで見張り役を言いつかっていた。本人は、不満だったが、首を切られた二人の若者の家族と、顔を見合わせるのも嫌で渋々引き受けたのだ。
 しばらくして見張りに残してきたシナタが、息をきらして知らせにきた。
「きました」
「何人だ」
「五人です」
「五人か」
「斥候だろう」
「やるか」
「そうだな。いい場所がある」
高木は言った。自然にそんな言葉がでる自分に驚いた。待ち伏せて人間を殺す。そのことに妙に興奮した。ふもとで蹴り倒したときの感触が忘れられなかった。
「よし、こんどもおれが行く」一ノ瀬は静かに言った。「はじめてより、いいだろう」
「そうだな」西崎は、不安げ頷いてボトンをみた「若い衆も何人か行った方がいい」
 待ち伏せは少ない人数の方が気取られないということで、結局、ソクヘンと二人の若者、計五人で向かうことにした。
「これで殺れ。確実だから」西崎は、ヤマ俗の山刀を高木に渡した。昨日は、運がよかったのだ。そうなんども話した。「刀で、息の根を止めるのが一番安全だ」
 ヒロシも同行を希望したが、一行と出発する方に回され口をとがらせた。
「こどもがいるとやりづらいよ」高木は、緊張をほぐすようにからかった。
 五人は、もと来た道を戻っていった。一行は、歩き始めた。ふたたび暗雲がたれこめ雨まじりの風が吹きだした。        次号へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.91――――――――16 ―――――――――――――――――
       
掲示板
課題原稿提出に関して
 後期も、引き続き書くことの習慣化を目指して提出原稿を受け付けます。
□ 車中観察(車外も可) □ 一日を記憶する □ 読書感想、社会コラム、ルポ
ドストエフスキー関連
■ドストエーフスキイ全作品を読む会第223回「読書会」
月 日 : 2007年12月15日土曜日 午後2時00分~4時45分
会 場 : 池袋西口・東京芸術劇場小会議室7
報告者 : 北岡 淳氏 報告「ドストエーフスキイ その咬交円錐的世界』」
      二次会は近くの居酒屋。
■ドストエーフスキイの会第180回例会
月 日 : 2007年11月24日土曜日
曜日 午後6時00分~9時00分
会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 JR原宿
報告者 : 渡邊好明氏
題 目 : 「ドイツキリスト教神秘主義思想における」
           関心ある人は「通信編集室」まで
演劇公演 文京シビックホール小ホール 地下鉄「後楽園駅」「春日駅」
劇団昴企画公演 宮沢賢治作品
『宛名のない手紙』
11月23日(金)14:00
   24日(土)14:00/19:00
   25日(日)14:00       ◎料金3500円
好評発売中
山下聖美著『「呪い」の構造』2007.8 三修社 賢治文学
 宮沢賢治生誕111年。今、伝説のベールが剥がされる!
猫 蔵著『日野日出志体験』2007.9 D文学研究会
  猫蔵が渾身の力をこめて書き下ろした日野日出志体験
山下聖美著『100年の坊ちゃん』2007.4 D文学研究会刊行
  夏目漱石『坊ちゃん』100年を記念して
清水 正著『萩原朔太郎とドストエフスキー』2006.12
ドストエフスキー文学は20世紀の100年をまたぎ超えてゲンダイ文学であり続ける。 
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006.3
下原敏彦著『伊那谷少年記』2004.6 昭和30年代の原風景、『五十歳になった一年生』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
☆課題原稿、社会評、創作など歓迎します。下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆本通信はHP「土壌館」に掲載されています。
通るとすれば、ここしかない見通しのよい繁みにくると一ノ瀬は
「挟み撃ちにする。おれが最初に射る」、
と、言って高木とソクヘンたち三人の若者を残して、一人で前に進んで行った。二十メートルほど行ったところで手を振って岩陰に隠れた。高木とソクヘンも大木の陰に身をひそめる。
 ものすごい雷とともに激しく雨が降り出した。雨に打たれた繁みが大きく揺れた。不意に赤い悪魔の兵隊たちが現れた。兵隊といっても軍服ではない。彼らの軍服はベトコンと同じように黒いシャツと黒いズボン。首に縞のスカーフを巻いている。履物はサンダルだった。そこは岩場で一列になって進むしかない獣道だった。彼らは、一ノ瀬が潜んでいる岩場を過ぎると、一列になって進んできた。途中、ヤマ族の一行が通った痕跡を岩肌に見つけたのか。苔が、はがれていた。一ノ瀬、弓を引き絞り、距離を測る。黒服に縞模様のまいた赤い悪魔が繁みに見え隠れした。五人いる。しだいに近づいてくる五人。息を呑む高木、一ノ瀬、まだ射らない。目の前まできた赤い悪魔の兵士たち。六メートル、四メートルと近くなる。どうした、なぜいらない。張り詰めたなかで高木は、苛立った。何してる。瞬間、矢は放たれた。矢は吸い込まれるように最後尾のゲリラ兵の背中に刺さった。一瞬、兵士は立ち止まった。それから振り返えろうとしたまま、前のめりに倒れた。激しい雨。前を行く四人は気がつかない。二の矢が、二人目の背中に、つづいて三の矢が三人目のゲリラ兵の背中に。倒れたゲリラ兵の銃が木に当たり跳ね返った。その音に、前のゲリラ兵が気づき振り返った。が、次の瞬間、第四の矢が首に突き刺さる。ゲリラ兵は、苦痛で浅黒い顔を歪め引き金を引きながら倒れた。突然の銃声に先頭のゲリラは、驚いて反射的に繁みに飛び込んだ。よく訓練されたゲリラだった。次の瞬間には、立ち上がってこちらに銃口を向けていた。背後にヤマ族の若者、襲いかかる。一人、銃尻で、顔面を殴られ、倒れる。高木、体当たりして倒すと、膝を首筋に叩きつける。頚骨の折れる鈍い音。即死だった。はじめて空手技で人を殺した高木、興奮気味。若者たちゲリラから銃を奪う。殴られた若者、右腕に裂傷。出血。高木、ゲリラ死体からベルトをとり、腕の付け根を締める。
―――――――――――――――――――― 17 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――18 ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――――― 19 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――20 ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――――― 21 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――22 ―――――――――――――――――
―――――――――――――――――――― 23 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.85――――――――24 ―――――――――――――――――

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑